

お別れの電話
「もうお会いすることもないでしょうが」と、涙声でかかってきたあなたからの電話。 美しい写真を撮るあなたの展覧会に、私は3度行き、あなたはその都度丁寧に写真の説明をしてくれた。広場での太極拳の練習でも、やさしい笑顔とユーモアで、周りを明るく湧き立たせていた。シニアのファッションショーのイベントにも出て、楽し気にその様子を語っていたあなた。 きっと出会ったときにはもう、ひそかな病があなたの体の奥に発症していた。 あなたが腰痛で太極拳の練習を休み、しばらく会えなかった前の年、私は姑と実母の大病の対応で疲れ果て、あなたのことをすっかり忘れていた。 あなたはその間、重大な病が発見され死の恐怖にずっとおびえ続けていたのだろう。並行した時間の中で、互いの現状を知ることのできない悲しさ。 彼女は最後に決死の思いでお別れの電話をしてくれたのだ。私ばかりではなく、一人ひとり、友人たちに最後の電話をかけていたのだろう。6年前の夏の午後のこと。 ふくよかで若々しかったあなたの姿ばかりが思い出される。あの時、もう私からは電話を するのもはばかられて、どうしたら
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3月11日 12年後
3月11日 東日本大震災から十二年がたった。私はこの震災のことについては、日記に少し書くぐらいで、詩やエッセイという形では何も残してはいない。全然書く気がおきなかったのだ 私はあの日、海苔店でパートの仕事をしていた。テーブルにパートさん六人ほど座って 「伸ばし」という仕事をしていた。二つ折りになっている十枚一束の海苔を開き、百枚一束にして重ね直して紙紐で結わえる仕事だ。私はその時ちょうど、海苔の束を詰め込んだ箱を倉庫のエレベーターの方に運ぼうとしていた。 最初にガタガタと来た時、海苔を焼いていた大きな機械が異常を検知して、ブーというブザーの音と共に急に停止した。海苔の箱がぶつかっても止まってしまうので、私は自分が運んでいた箱がどこかぶつかったのかといぶかしく思ってあたりを見回した。 そうしたら猛烈な揺れがきた。いつもより大きい。震度四ぐらい?と思っていたが、どんどん揺れは大きくなり、しかもいつまでもやまない。 社員の猪子さんが、四個も積んである海苔の箱が倒れないように押さえに走った。青白く点灯している殺菌灯が壊れる勢いで揺れていた。..
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エキストラのアルバイト
大学生の時に、エキストラのアルバイトを一度だけやったことがある。四十年ぐらい前のことだ。高円寺にある「日秀プロダクション」というところに、証明写真を持っていき登録をした。撮影の拘束時間も一~二時間ということなので、大学の空いた時間に都合が合えばできるかもしれないと思った。 ほどなくして「日秀プロダクション」から電話があった。大泉学園の東映撮影所で「特捜最前線」を撮るからエキストラとして出演して欲しいという依頼だった。午後からの出演依頼だったので、大学の一限の授業を一つだけ受けた。二限はパスせざるを得なかった、後期試験も近く出題について発表もあるかもしれない微妙な時期だったが仕方がない。友人に代返を頼み、あとでノートのコピーが欲しい旨を頼んで急いで出かけた。 校門を出るあたりで、別の友人に出会った。彼女は私を見て一言、 「きれい‥‥」 と言い絶句した。私はものすごく気合いを入れたメイクをしていたのだ。 私は、 「へへっ。メイクしすぎだね。別人みたいでしょ?」 と笑って言いながら、ハイヒールにベージュのコートをひらめかせ、大泉学園へ急いだ。...
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コロナにかかりました
家族が体調を崩し熱を出した。ということはこのご時世、理由は大概コロナなので、私も覚悟していたら案の定私も熱が出た。葛根湯でも飲んでいれば治る程度の軽い風邪症状だったが、発熱に進んでしまうところがコロナの怖さだ。 熱は二日半で収まった。ほとんど37度台で決して高熱でもなく、つらくもなかった。喉の痛みは二日目、三日目にはあったがそれもすぐに治っていった。 食事は備蓄品で間に合ったが、やはり野菜とタンパク質が圧倒的に不足気味。1週間以内のおこもりなら栄養の偏りもなんとか我慢できるが、これが長期にわたる被災地での食事だったなら大問題。ずっとパンとかおにぎりしか支給されないのなら不満爆発だ。行政に毎日でも大量の豚汁を焚き出せと要求してしまうかもしれない。 体調はさほど悪化していないのに部屋から出られないのはつらい。トイレ以外は部屋から出ないようにし、テレビを見たりタブレットを見たり、本を読んだりのゴロゴロ生活。散歩、買い物、ジムにも行けないし、生活のペースがガタガタだ。私の折角の筋肉はどこに行ってしまうのか。 そのうち暇をもてあますようになり、さて
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校正の仕事
ここ20年ばかり、年に3~4か月、情報誌の校正の仕事をしている。既に出来上がっている本の毎年の改訂版作成のため、情報に変化が無いか確認する仕事だ。そんなに難しいことはしていないのだが、取材先を100件以上受け持っているので、電話したりFAXしたり、メールしたりで一時大変忙しくなる。 私が送ったFAXの返信が大量に事務所に押し寄せたりすると、事務所のスタッフさんが仕事に差し支えると言ってちょっと嫌な顔をするので、私も肩身が狭い。 校正の指示をレイアウト担当の人に送る時も、ワードのテキストでいちいち文章に起こして、何ページの上から何行目の、何という数字を何と訂正、とか書かなくてはならないので、面倒臭い。 アナログなやり方ではもう駄目かなと思い始めていた。最新技術を持つ若い人に、もうこの仕事を譲るべき時が来たのかもしれない、老害はもう引退だあ、と思っていたが、レイアウト担当の人が、共有ファイルでの校正を新しく提案してくれた。 パソコンに取り込んだ冊子のPDF画面を見て、それぞれ自分の都合のいい時に校正のチェックを入れられる仕組みだ。皆がそれぞれ
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骨とトレーニング
やけにウォーキングやダンスエクササイズに凝ってい時があった。やりすぎもあったかもしれない、お試しで行ったカーヴスで、案外筋肉が無いという判定を受けた。あんなに運動しているのにそんなはずはない、と思ったが、散歩などの有酸素運動はいくら続けても筋力アップにはつながらないし、むしろ筋肉やせを起こすのだ、というビデオまで見せられて、そうだったのかと納得したうえで、甚だ意気消沈した。 追い打ちをかけるように、整形外科でおこなった骨密度検査で、もう骨粗しょう症レベルの骨密度だと言われた。医師が「これでは骨折してしまう」と言って目を剥いたので、深刻さをひしひしと感じた。健康のためにと思ってやっていたあれこれ、自負や自信が見事に打ち砕かれた瞬間だった。 もともと大食いのほうではなく、やせ型である。それでも食べ物には十分気を使っていた。ごま、きなこ、カルシウムサプリなども摂っていた。何の症状も無かったが、血液検査によると破骨細胞の活動が強すぎて骨の形成が追い付かず壊れていく一方になっているのだという。 しばらくは落ち込んでいた。60代前半でこんな調子では、も
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ダミさんが死んでしまった
飼い猫が死んで1週間がたった。17歳を過ぎていたから、ほとんど寿命と言ってもいいだろう。 2月の終わりごろからあまり餌を食べなくなり、3月に動物病院に診察に連れていって検査をしたが、内臓には問題はなく、口の中に炎症があるようなので、そのせいで食べられないのでしょうということだった。食欲が出る薬とか抗生物質、消炎剤などを少しもらってきて飲ませつつ様子を見ていた。強い薬は腎臓を傷めるので、少量を3日分ぐらいしか薬は使えなかった。 そして少し持ち直し4月はまあまあ食べられる状態になった。甲状腺ケアの治療食をずっと食べさせていたのだが、味か固さに問題があったのか治療食を嫌うようになり、 市販のレトルトフードや、美味しそうな味付けのエサしか食べなくなった。いつ治療食に戻そうかと思っていたら、また急に全然食べられなくなった。それが5月の連休の終わりごろである。 餌を食べなくなっても、水はなんとか飲んでいた。それが4日ぐらい続いた。3月からもうだいぶ痩せ始めていたのだが、ここにきて、本当に痩せ衰えて、歩くのもよろめくようになった。階段の上り下りもできなく
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もっと聞こえていた②
彼女は 「ジャン・クリストフのような人間はこわい」 と言った 私もそうかもしれないと思った けれど 交響曲のように 彼の生き方は どの場面でも高潔ではなかったか --------------------------------------------- オルゴール 少し年上だったその少女の家の窓際には 美しいオルゴールが置かれてあった はめこまれたガラス玉は 確かに高価な宝石のように見えた 金色の本体に描かれた 薔薇の花のモチーフ 通りすがりに見て いつも羨んでいた 私は私で 御所車の絵のついた緑色のオルゴールを 買い与えられてはいたけれど 少女の家からは よく争いの声が聞こえていた 少女はもらわれっ子だった それが原因というわけでもなかっただろうが なにかがうまくいっていないらしかった 思春期でもあったし 少女には男の友達がいて 毎朝 通りの反対側の 雑貨屋の前で待ち合わせをしては 一緒に学校に通っていた そんなことだけでも 街では密かな噂の種となった 少女のオルゴールは 時折「エリーゼのために」を奏でていた 彼女の両親がプレゼントにと
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もっと聞こえていた①
聞こえていた もっと聞こえていた 目覚めた虫の 小さなあくびまでも ------------------------------------ フルート 少年はフルートで ビートルズのナンバーを吹いていた (その曲はフルートの音によく似合った)...
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太極拳講師になった
太極拳講師になった。今まで来てくれていた先生は、お父上の通うデイサービスの日程や時間を教室に合わせるのが難しくなってきたことや、東京にお住まいということでコロナの影響も考えて、突然もう先生をやめたいと言って来たのだ。今後は私に継いで欲しいとの連絡がきたのが2021年4月のはじめごろ。 先生も目のご不自由なお父様の介護で随分悩まれている風だったから、先生の申し出を断ることなどできなかった。しかし私も姑の介護を抱えている身。どうしようかと内心は不安だった。 とりあえず、最初のうちは教室をまともに開くことはできそうにないコロナ情勢だったので、時折公園で軽く1時間ぐらい太極拳と気功法を通す程度で、「先生」と言われるほどの活動ではなかった。1時間なんてすぐにたってしまう。緊張とか不安など感じる間もなく公園での太極拳はやりすごすことができた。 その後4月半ばに姑は脳梗塞を発症し、入院を経て7月には施設に入ることになり、私の介護生活も終了した。これで太極拳の講師をやることに何の支障もなくなったということだ。 10月、コロナの陽性者が激減し、11月からは
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