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オッペルかオツベルか

2024年9月13日
読了時間: 3分

更新日:2 日前



 NHKの教養番組を見ていて、あれっと思ったことがある。中学1年の時の国語の教科書に「オッペルと象」という題名で載っていた作品が、番組では「オツベルと象」という題名で紹介されていたのだ。「オッペル」がいつ「オツベル」に正されたのか。50年近く全く気づかなかった。違和感がはなはだしい。 

原稿の原本も残ってはいないそうだ。宮沢賢治はどう発音してもらいたくて書いたのか、本人に聞いてみたいところだが、今更もうそれもかなわない。

 同じように「カロチン」と呼んでいたものがいつのまにか「カロテン」と言われるようになっていて、そうか、変わったのだなと思いながらも慣れ親しんできた「カロチン」という言葉の響きは私の中ではこれからも消せそうもない。 

「国鉄」は「JR」に、「看護婦」は「看護師」に、最近では「Twitter」が「X」に。

 時代と共に言い方や使われ方が変わってきた言葉は調べると数限りない。これが歴史の教科書で頻繁に行われたら受験生は混乱するだろう。言い方ばかりか年号や出土品まであやしくなって、果たして何を信じていいのやら。金印「漢委奴国王」は資料集にぴかぴかの写真まで載っていたのに、偽物かもしれないって?

 そして「フランシスコ・ザビエル」も「フランシスコ・シャヴィエル」に変更されるかもしれないという。なにそれ、なんかおしゃれ。

 もう受験とは関係のない私は「ザビエル」でも「シャヴィエル」でもどちらでもいいのだが、しかし「ザビエル」と言っただけで思い浮かぶ数学の先生の顔もあり、それはもうひとつのイメージになってしまっているのである。

 新しいものに順応していかなくてはと思いはするが、身の内に沁みついたものをすっかり消し去りたくはない。私にとって「オッペルと象」はやはり「オッペルと象」なのだ。昭和脳と呼ばれようが、記憶と分け難く結びついた言葉のイメージは手放さずにいたいと思う。

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 更に「オツベルと象」の内容について言及すると、「オツベルと象」は、リズミカルな文体で書かれた短編で、ひらがなも多く、読みやすいといえば読みやすいのだが、どうも内容が不穏なのだ。

 使用人を何人も使って脱穀の仕事をしている農場主のオツベルは、ある日、ふらっと小屋に入り込んできた白象を、うまいことおだてて使役してしまう。白象は最初のうち仕事にやりがいを感じて楽しく力仕事をしているが、調子に乗ったオツベルは白象が逃げ出さないように重い時計や分銅を首や足にくくりつけ、更なる重労働に駆り立てる。

 白象は次第に疲弊し死のうかとまで思い詰める。そこへ仲間の象たちの助けが入り、オツベルは「くしゃくしゃに潰され」て圧死。『「ああ、ありがとう。ほんとにぼくは助かったよ。」白象はさびしくわらってそう云った。』国語の教科書ではそこで終わっていた。

 しかし青空文庫に載っているものを見ると、この後に『おや〔一字不明〕、川へはいっちゃいけないったら。』という謎のような1文があるのである。誰が川に入ろうと(死のうと?、あるいは水を飲もうと?)したのか分からない。白象が助け出された後にも寂しそうだったことが気になる。

 今まで白いということで仲間外れにされていたのではなかったのか、やっと仕事を得て自分の居場所を見つけたのに、その場所も失って絶望したのではなかったのか。しかし、中学校の国語の教科書だ。そこまでの深読みまではさせずに、穏便なまとめ方で終わらせてしまっていた。

 皆が助けに来てくれて、白象が喜び一杯笑顔満面で「ありがとう!」と言ったのではなく、寂しく笑って「ありがとう」言ったということ。そしてその後の、なにかしらの死の暗示。私が中学校の教師だったら、白象の心の奥深くについて、いろいろな考察を生徒に求めたいところだ。

 

 

 







 
 
 

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