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3月11日 12年後

3月11日


 東日本大震災から十二年がたった。私はこの震災のことについては、日記に少し書くぐらいで、詩やエッセイという形では何も残してはいない。全然書く気がおきなかったのだ

 私はあの日、海苔店でパートの仕事をしていた。テーブルにパートさん六人ほど座って

「伸ばし」という仕事をしていた。二つ折りになっている十枚一束の海苔を開き、百枚一束にして重ね直して紙紐で結わえる仕事だ。私はその時ちょうど、海苔の束を詰め込んだ箱を倉庫のエレベーターの方に運ぼうとしていた。

 最初にガタガタと来た時、海苔を焼いていた大きな機械が異常を検知して、ブーというブザーの音と共に急に停止した。海苔の箱がぶつかっても止まってしまうので、私は自分が運んでいた箱がどこかぶつかったのかといぶかしく思ってあたりを見回した。

 そうしたら猛烈な揺れがきた。いつもより大きい。震度四ぐらい?と思っていたが、どんどん揺れは大きくなり、しかもいつまでもやまない。

 社員の猪子さんが、四個も積んである海苔の箱が倒れないように押さえに走った。青白く点灯している殺菌灯が壊れる勢いで揺れていた。

 私は外に出た方がいいのでは、と思って玄関口の方をチラチラ見ていた。そうしたら三階にいた社長が玄関口に来て、

「屋内にいた方が安全だから出ない方がいい。この建物は鉄筋コンクリートで頑丈だから。外に出るといろいろ落ちて来るからかえって危ない」と言って立ちふさがった。

 パートさんたちも、「わー」「こわいこわい」とか「いつまで揺れるのー?」などと悲鳴のような声を上げて、テーブルにしがみ付いている。

 これは異常な揺れだと思った。今までにない揺れだ。しかも長い。五分近く揺れている。

 しかし、揺れは徐々に収まっていったので、パートさんたちも、もう大丈夫かな?と、落ち着いていった。

 パートさんの中には、家の様子が心配になって娘さんに携帯で電話をかけていている人もいた。私も心配ではあった。テレビとかいろいろ倒れているのではないか。それに、冷蔵庫の上にミニポットに植えたトマトの苗が二ケースぐらい乗っている。これが落ちたら一面床が土まみれだ、などと思って気もそぞろになった。今日は早く仕事を終わりにしてくれないかなと思ったのだが、結局通常の時間まで仕事をした。

 途中若社長が、状況を確認するために三階の自宅にテレビを見にいった。しばらくしてもどってきた若社長の顔色が変わっていた。地震じゃなくて、猛烈な津波が東北の町をいましも襲っているのだという。町が全部のみ込まれていっているという。

「ものすごい津波だよ。あれじゃあ誰も逃げられない。こんなの初めて見た。おそろしい。」

 若社長の口ぶりから大変なことが起こっていることは窺われたが、自分の目で見なければそれがどんな風なのか見当もつかなかった。

 やっと仕事が終わり、パートの皆と心配しながら家に帰った。幸いテレビは無事だった。冷蔵庫の上の苗は、家にいた息子が押さえていてくれたので落ちずに助かった。

 そして、テレビをつけてみた。どのチャンネルもものすごい津波を映し出していた。すべてを飲み込み押し流す黒い流れ。家々なども容易く壊れ流されていく。人は? 人々は逃げられたのだろうか? しばらく声もなく見ていたが、やがて見ていられなくなった。大勢の人が飲み込まれたであろうことが想像できた。

 夜も時々テレビをつけてみたが、やはり津波の映像ばかりだった。全部のチャンネルがそうかと思いきや、一局だけアニメ「テガミバチ」を流していて、私はこんな時でもアニメをやってると思ってそれを見ていた。非常に美しい作画の映像で、藍色の空に描かれた夥しい星々の映像が胸に沁みた。

 夫はその日、職場の学校からなかなか帰れなかった。学校が避難場所になっていたので、動員されたのだ。夜遅くになって疲れた顔で帰ってきた。

 その後、テレビのCMはACだらけになり、ガソリンの給油所に延々と車の列ができ、スーパーからパンやラーメンが消え、公共施設、電車、お店の照明が薄暗くなり----。

 地震の翌日、翌々日には、原発施設が爆発して、この地域にも放射能が降ってきた。

 それ以降、福島近辺で取れた食べ物は、どうしても買うことができなかった。夫が栃木付近の腐葉土を農協から買おうとしていたので、やめてもらった。私は少しでも除染しなくちゃと、庭にたまっていた落ち葉などを片付けたりしていた。

 当時の大震災の影響をざっと書いてもこんなところだ。もっと多くの不安や、恐れで、あの時期の行動は萎縮していた。心も少しおかしかった。いろいろな形の死が一挙に押し寄せて来る感じで、心に全然受け留め切れなかった。想定外、と言うしかないどうしようもない死。

 スピッツのマサムネさんが震災ストレスで歌えなくなったと聞いた。私だってこんな時、歌えないよと思った。あんな風景見ちゃったら歌えるはずないよ。とんでもなく大勢死んでいるのに。

 それなのに私と夫は大地震の翌日の土曜日に、府中に遊びに行ったのだ。お昼に入った寿司屋のテレビで原発の爆発映像を見て、これは対岸の火事ではないことにやっと気づいたのだった。

 あれから十二年過ぎて思い出せるのはざっとこんなところだ。

 いつかちゃんとこの震災のことを書こうと思って、大地震とそれに繋がる津波、原発の破壊状況などについて書かれた新聞を何か月分か取っておいたのだが、三年前コロナの騒ぎが始まって、もう震災のことはどうでもよくなって新聞を全部捨ててしまった。

 取っておいても読まなかったと思う。そして、詩としても書けなかったと思う。あの大震災は、何も書けなくなってしまうほど大きな出来事だったのだ。

 もう二度とこんなことは無いことを祈る。天災については、人はただ祈ることしかできない。しかし、南海トラフ、首都直下型地震など----。やはり祈ることしかできそうもない。


















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