夏の終わりに
夏休みももうすぐ終わろうとしていたある夕方のことだった。家のすぐ前にある団地は、お祭りの準備でざわめいていて、いくつも吊り下げられている提灯には、華やかな色とりどりの明かりがともっていた。いつもは閑散としている団地の広場は、屋台の準備に走り回る人でにぎやかだ。
子どもたちがお祭りに行きたいというのを、少しうちで待っててね、と言い聞かせて、私が黒い喪服を着てひとり出かけた斎場では、すでに読経が始まっていた。集まっているのはほとんどが、幼稚園か小学校の子どもをもつ若い母親ばかりだった。
遺影に飾られている人は、まだ二十代とも見える痛々しい若さで美しく微笑んでいた。がん治療で失った髪を隠すために、いつも帽子を深々とかぶっていたが、写真の中の彼女は、ふっさりとした黒い髪をやわらかにウェーブさせていた。
幼稚園のお迎えで会う彼女はいつも、さっぱりとした明るい笑顔で皆に接していた。七月の七夕祭り、懇談会にも元気そうに顔を見せていた。そのままおだやかな日々が続くかのように思われたのに、八月には病はもう取り返しのつかない段階にまで入っていたのだ。
遺族席でうつむいているご主人、ご両親、そしてなによりも涙を誘われるのは、残された幼い子どもたちの姿だった。二歳になったばかりのおさなごは、数珠をおもちゃ代わりにして、わけもわからずぐずったりしている。私の息子と同じ幼稚園の男の子は、おとなしく椅子に座り、黒ずくめの服装の人々を、母親によく似たきらきらした瞳でもの珍しそうに見まわしている。小学生の上の女の子は、もうはっきりと母親の死を感じ取っているのだろう。伏し目がちに弱々しく肩をすぼめていた。
外はもう日も暮れたころだろう。薄暗くなってもきっとまだ蒸し暑く、もうじき命を終える蝉の声が、ここを先途と、あたりに充満しているに違いない
。この斎場の中は冷房でひんやりとしている。空気の色も青みがかっている。
僧侶は長々と続けていた読経を終えて、ゆっくりと振り向いた。
「諸行無常とは申しますが、あまりにもお若くて・・・」
波のようにこみあげてくる涙をこらえながら、団地のお祭りは始まっているだろうかと考えることで、ともすれば吸いつけられそうになる遺影の微笑から逃れていた。
身近にこんなに若くて亡くなった人などいなかったから、その死をどう受け止めていいのか分からなかった。有り得べきことでありながら、あるはずがないと思いこもうとしていた。誰もが今日を支点とした過去と未来に圧倒されて言葉を失っていた。夏の終わりにこんな落とし穴が用意されていようとは。
到底納得できるものではない。ただ受け入れるしかないのだろう。もしこれが自分の身に起きたことだったら・・・。斎場を出てからも、しばらくはその考えが頭から消えなかった。
私は夜の色の姿をして、自転車をこぎ家に向かった。来た時と全く趣を異にする真っ暗な道を、迷いそうな頼りない方向感覚で。遠くから祭りのざわめきが聞こえてくる。対極の出来事が同時に進行していたこの夜。そして私は、明るさの方に帰ろうとしながら、背中から追い縋ろうとする何ものかから逃れようと、っただひたすら自転車をこぎ続けていた。