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私のニコンFE


 自分だけのカメラを持ちたいと思ったのは、大学二年の冬のことだった。先のことが全く見えなくなっていたあの頃、屈託した心を何か別のものに逸らさずにはいられなかったのだ。新宿のカメラ店に何度も出向き、さまざまな機種を仔細に吟味した。専門書で調べもした。大きさ、重さ、形、性能。値段もある程度張ったもの。けれど学生がまかなえる予算内で。そして絶対に一眼レフ。かなり時間をかけて迷いつつも決めたのは、シルバーボディーのニコンFEだった。

 いそいそと下宿に持ち帰り、丁寧に箱から取り出し、何度もカラのシャッターを切ってみた。その重厚な手応え。ファインダーの中で一瞬閉じる世界。手ブレを防ぐためにカメラをガッチリ構えていると、気持ちまでどっしりと落ち着いてくるようだった。

 カメラを買ったからには、何かを撮らずにはいられない。まず自分の部屋の中を撮った。こたつと冷蔵庫と本棚だけの殺風景な部屋を。窓を開けて下宿の庭を撮った。大きな柿の木ばかりが目立っていた。雪の日は雪を撮った。雪の一粒一粒が止まって見えるように。近所の犬たちも撮った。道端に止めてあったおでんの屋台も撮った。公園に行き、祭りに行き、空を撮り、道を撮った。

 どんな風に撮るかよりは、何を撮るかが重要だった。「何を」さえはっきりしていれば、「どんな風に」はあとからついてくるように思われた。しかし、「何を」はたやすくは見つからない。それは生きることにおいても同様だった。

 川越の喜多院の五百羅漢を撮りに行ったことがある。ここにはいろいろな顔があった。笑っている顔、嘆いている顔、真面目な顔、お調子者の顔。まだ人間を正面から写しこむ勇気が無かった私には、無償で素直な表情をさらしてくれる石の像たちは、被写体としてまさにうってつけだった。一体一体を慎重に写真に収めながら、いつか五百羅漢の写真集を作りたいと思った。その思いはその頃の私に希望のような抜け道を感じさせてくれた。

 私のニコンを聞きつけて「いいなあ」と言っていた友人が、ほどなくして同じ機種のブラックニコンを買った。それからは二人で石仏写真を撮り歩くことも多くなった。最初のうちは実力は互角だと思っていたが、悔しいことに次第に撮る枚数、質で追い越されてしまうようになった。互いのアルバムには同じものを映した写真が多数あり、それらを比べてみても、絞りやシャッタースピードの違いによって、微妙に印象が違うことが分かる。私は絞りを開いて背景をぼかすのが好きだったが、友人は絞りを思いきり絞って、遠くまできちっと焦点があっている撮り方を好んでいた。

 その友人とのちに結婚することになった。彼は今は山岳写真に凝っていて、ひと月に数度山に入ってはフィルムを何本となく消費してくる。

 そして私のニコンFEは、数年分の写真を撮ったあと、ついにシャッターが切れなくなった。左手によくなじんでいたボディー。AUTOを解除しての芸術写真にも挑みつつあったのだが。いいカメラだったと思う。若かったあの頃の私の、もう一つの目だった。

 今はまだ子どもも小さく、彼らの日々変わる表情をいつでも撮りたくて、持ち歩きに手軽なコンパクトカメラを愛用しているのだが、またそのうちごつい一眼レフを手に入れて何かすごいものを撮影しに行きたいと思っているのである。密かに息巻いている。

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