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もっと聞こえていた②



彼女は


「ジャン・クリストフのような人間はこわい」


と言った


私もそうかもしれないと思った



けれど


交響曲のように


彼の生き方は


どの場面でも高潔ではなかったか



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オルゴール



少し年上だったその少女の家の窓際には

美しいオルゴールが置かれてあった

はめこまれたガラス玉は

確かに高価な宝石のように見えた

金色の本体に描かれた

薔薇の花のモチーフ

通りすがりに見て

いつも羨んでいた

私は私で

御所車の絵のついた緑色のオルゴールを

買い与えられてはいたけれど


少女の家からは

よく争いの声が聞こえていた

少女はもらわれっ子だった

それが原因というわけでもなかっただろうが

なにかがうまくいっていないらしかった

思春期でもあったし


少女には男の友達がいて

毎朝 通りの反対側の

雑貨屋の前で待ち合わせをしては

一緒に学校に通っていた

そんなことだけでも

街では密かな噂の種となった


少女のオルゴールは

時折「エリーゼのために」を奏でていた

彼女の両親がプレゼントにと

店先でオルゴールを手にとった時

それが愛情の象徴となることを

確かに願っていただろうに


離れることでしか

決着がつけられない感情がある

少女は「あすなろ物語」に出てくる娘のようだった

死に近い危うさを秘めて


別れ行く時 あのオルゴールは

そっけなく打ち捨てられたのだろうか

それとも幸福の形見に?


すべての少女が

引き出しの奥に置き去りにしてくる

あんなにも大切だった金色のオルゴール



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カーテンが


強い風でバサバサ鳴っていた


先生は授業を中断して


しばらくそれをながめてからこう言った


「君たちの中から将来


もし風を研究する者が出たなら


今度は私に教えてほしい


この風の不思議について」


その時


誰もが風の研究者になりたかった




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トランペット



私は隣の組のその少年のことが好きだった

背が高くて手足も長くて

さっぱりした明快な顔つきに

短い髪がよく似合っていた

少年はサッカーが得意だった

休み時間は

いつも仲間たちとサッカーをしていた


少年についてその他に知っていることといえば

ブラスバンド部でトランペットを吹いているということぐらいだった

読書クラブの教室にまで

「軽騎兵序曲」の突き抜けたトランペットが聞こえてきた

音を細かく刻む吹き方を

何度か先生に直されていた

何度も聞いているうちに

私はその曲をすっかり覚えてしまった


廊下ですれ違っても

少年は私のことなどろくすっぽ見なかった

だから私は少年のことをよく見ることができた

見れば見るほど好ましいと思った

姿形を見ただけでいい気分になる

そんな気持ちがあることを初めて知った


ところが私はある日

顔にとんでもなくひどいおできを二つも同時にこしらえて

痛みと熱とで一週間も学校を休み

やっと学校に行けるようになっても

治りきらない傷跡を隠すために

当分の間 眼帯とマスクをしていなければならなくなった


「お 月光仮面が来た」

言われると思った

会う人ごとに同情と笑いの入り混じった顔

そんなことはまるで平気だったけれど


廊下で出会った時

少年はトランペットのケースを抱えていた

かたわらで彼の友人が

私を見て笑いをこらえかねていた

(笑われても当然)

(きっと笑われる)

けれど少年は表情も変えず

いつものように澱みなく通り過ぎていった

(軽騎兵のように)


よかった それでよかった

危ない罠のような一瞬にも

きちんとした顔をしていてくれた

思わず足早に逃げ出した

白いマスクの下で頬を赤らめながら

(やっぱり好きだ)



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兄は


「剣の舞」の物語を


でたらめに作った


身振り手振りで


魔物を倒そうとしている王子の物語だと


私はそれをずっと本当だと


信じていた



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トロンボーン



兄は学校のブラスバンド部で

トロンボーンを吹いていた

運動会などで校庭を行進するとき

トロンボーンの人はいつも先頭だった

(そうでないと人の頭をトロンボーンでこずいてしまう)

トロンボーンは

大きくて立派で重そうな楽器だった


家では練習することができなかったから

代わりにクラシックのレコードをよく聞いていた

ベートーベンやハチャトゥリアンやチャイコフスキーなどを

狭い六畳間に置かれた竹の長椅子に座って

私たちはよく指揮の真似事をして遊んだ

のりうつったように

タクトを振る真似を


トロンボーンは

なかなか主役にはなれない楽器だ

けれど派手で見栄えのするフォームで

オーケストラに迫力を与えてくれる楽器でもある

背の高い兄には

トロンボーンがよく似合っていた

誰よりも似合っていたと思う


家に音楽を持ち込んでくるのはいつも兄で

言い張ってステレオを買ったのも兄だった

クラシックも悪くないと思うようになったのも兄のおかげだし

時々急に何か楽器を弾きたくなるのも兄のせいかもしれない


「新世界」は

トロンボーンのためにあるような曲だった

学校を卒業して

もう兄はトロンボーンを手にしなくなった

家の中で吹き鳴らせるような楽器ではない

あの「新世界」は

よく響く音楽室の中にしか築けない世界


お互いにもう随分と音を失ってしまった

もしここでもう一度

「新世界」を吹いてくれたなら

それはきっと壮快な感じだろう

私は大真面目に大袈裟に指揮をしよう

それはきっととても愉快だろう


音楽の効用

確かに生に関係ある何か



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恋人は


フォークギターを弾いていた


あたたかい部屋の中


私は少しずつ


歌い出す


はじめは小さな声で



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バイオリン



彼女はバイオリンを弾く人だった

学食で一人煙草を吸っているのを見た

童顔の彼女に煙草は似合わなかった


彼女が出るオーケストラのコンサートのチケットを

彼女から何回かもらった

友達と聞きに行くこともあったが

大体は一人で行った

一度だけ花束をプレゼントした

黄色いスイートピーとかすみ草いっぱいの花束を


クラシックのコンサートは

はじまりだけいつもその音の迫力に圧倒された

半ばを過ぎると必ず眠くなった

どの区切りで拍手をしたらいいのかも分からず

一番感動しているのは舞台で弾いている本人だろう

そのことだけは確かだった


白いブラウスに黒いスカートの彼女

ジーンズ姿の彼女

どちらの姿であっても

彼女にバイオリンは欠かせなかった


彼女の結婚のパーティーで

友人たちは音楽を祝辞とした

夫となる人もクラリネットを吹く人だった

スポーツの仲間がいることよりも

同郷の仲間がいることよりも

同じ音楽を奏でることのできる仲間がいることの方が

羨ましかった


もう彼女には二人の赤ちゃんがいる

いつか子どもにもバイオリンを教えるだろうか

教えるよりは

楽しげに聞かせているような気がする

おもちゃのようにして



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地下鉄の轟音に


さらわれそうな時がある


彼女はそのまま


いってしまった



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クラシックギター



高田馬場の楽器店で

一番安そうなクラシックギターを買って

ぎゅうぎゅう詰めの西武線に乗って帰った

人ひとり分の大きさのギターを

抱きかかえるようにして守りながら

線路の行く手には

いつも夜があった


下宿の廊下側にくっついて

手が届くほどの近さに

隣のアパートがあった

台所で簡単な一人分の料理を作っていると

急にアパートの窓に明かりがついて

青年が窓を無造作に開けたりした

私はみつからないように

とっさに身を隠した


青年は夜いつも傾斜した製図台に屈んで

図面を引いていた

奇妙な形の大きな定規を使って

時折気が向くと

クラシックギターを弾いた

それは聞き惚れるほど上手だった

いつまでも降りやまない

涼しい雨音のように


「何かのため」でしか

いつの間にか動けなくなっていた

利益をもたらすもの

名誉を与えてくれるもの

或いは将来につながる確かなもの

最もかなえがたい希望を夢とするなら

その夢の遠さに

負け惜しみの言い訳を

探さずにはいられなかった


青年はそのアパートに長くはいなかった

製図台とギターと一緒に

知らぬ間に越していってしまった

その次に入った人は

窓さえ開けなかった


すぐに夏が始まり

その夏が終わりきらないうちに

私はギターを買って練習をはじめた

カルカッシ教則本を

一ページ目から忠実にたどって


「それが何になる?」

役になんて立たない

将来のためにもならない

直観的な快さを選び取る恋と同じように

(見返りがなくたって快は感じられるだろう?)


林檎の肌のようにつややかな

和音の内側に入り込んで

眠るように深く味わった

指先の痛みさえ心地よく

下宿のひんやりした廊下にひとり座り込んで

青年が弾いていたあの曲にまで

ただたどり着きたくて



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サッカーのゴール前


彼はペナルティーキックの攻撃にさらされていた


声援は一瞬静まりかえった


土ぼこりを巻き上げて


鋭くかすめてくるボールに向かって


彼は


砕かれたガラスのように


突き刺さっていった




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コントラバス



最初に決めた下宿は

原宿の駅の近くだった

何もわからず

駅に近ければいいと


すぐに後悔した

夕方になって隣の部屋から

コントラバスを練習する音が聞こえてきた

その日だけかと思ったら

毎日毎日


低く重苦しい弦の響き

窓ガラスがビンビン震えた

耳をふさいでも意識の隅っこを

ぎゅうぎゅう圧迫してきた

悪魔の唸りのように


隣の部屋には男の音大生がいるのだった

そんな話は契約時には一言も知らされなかったから

「実は…」と女主人が言い出した時には相当頭にきた

おまけにすぐ近くを

山手線の電車がひっきりなしに行き交い

(駅に近いのだから当たり前だが)

そのたびに轟音がして電灯がぐらぐら揺れた

外へ逃げ出せば

奇抜なファッションのデザインスクールの生徒たちが

たむろし騒いでいた


憧れて来たわけでもなかったが

これが東京

コントラバスの低音は

十分に威嚇の効果があった


耐えられないと思ったから

早々にそこを退散した

敷金だけはなんとか返してもらった

東京は人間の住むところではない

(sour grapes)


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その横断歩道は


青になるたびに


「とおりゃんせ」のメロディーを流した


目を閉じて


点字ブロックの上を歩こうとする私に


彼は笑いながら


つかまりやすいように


肘を突き出した



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情操教育



(胎教にはモーツァルト)

けれど

モーツァルトは

病院の待合室を思い出させた


(赤ちゃんには子守歌)

眠くなるのは母親ばかり

揺らしながら

揺れながら


(幼児にはたのしい童謡)

「こどもの歌」の全集を

片っ端から歌ってみる

記憶の点検をするように


与えられた音楽によって

子どもは何を学んだか

たぶん 残念ながら

大人が思うほどたいしたものじゃない

(感性も知性ものびやかに豊かに)


漏れてくるヘッドホンのリズム

本当はどんな歌が好き?

もっと気分よく個人的に

壊れた音にも意味があるなら


教育的効果なんて




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陶芸の先生は


地面を深く掘って


大壺を埋め


水琴窟を作った


柄杓で水を垂らし


その小さな響きを


来る人ごとに自慢していたが


壺の中に暗くたまっていく水


音を濁らせてしまう前に


人々が飽きてしまえばいいと


私は思った



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コンサート



下宿の隣部屋の友人が

用事で行けなくなったからと言って

コンサートのチケットを譲ってくれた

杉田二郎のコンサートだった

「戦争を知らない子供たち」しか

知らないなあと思いながらも

行ってみることにした

授業を一つさぼらなければならなかったが


ペア券だったので

同級生の友人を誘ってみた

友人というよりは親友

親友だよなと言いあっていたが

異性だった


杉田二郎は

豊かな声量と

落ち着いた深みのある声質で

思いがけなく私たちを魅了した

とりわけ「八ヶ岳」という歌が

心に沁みた

彼もコンサートが終わってから

いいコンサートだったよな

特に「八ヶ岳」はとてもいい歌だと言ってくれた


少し考え込んだ

私に母親になる未来が果たしてあるのか

八ヶ岳のすそ野で笑い合う

家族としての姿を望む気持ちはあるのか


私は大学を卒業したら

東京を離れ故郷に帰ると

きっぱりと決めていたし

常々言っていた

どうしても帰らなければいけないのかと

彼はその度に聞いて来た


卒業の日までの親友

そうお互いに平気な風を装って

言い合ってきたが

もうそろそろ親友ごっこも限界

「八ヶ岳」の歌は

私たちにそれを気付かせてしまった



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外から帰ってくるたびに


大声をあげて


「あー、あー」と


呼んでくる猫だった


堂々とした低いダミ声


腹の底から響いてくる声


他のどんな猫も


あんな声を出せはしない








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