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雨の日の古本屋


 今日は朝から雨が降っている。雨のしずくをたたえた紅梅の蕾は、濃く薄く微妙に混ざり合った春の色をにじませている。私の前を歩いている主婦が、子どもが履くみたいな黄色い長靴を履いているというのも、なんとはなしに微笑みを誘われる。農家で飼われている鶏が、どういうわけか真昼間からけたたましくときの声をあげている。こうもどんよりしていると、鶏も景気をつけなければやりきれないとみえる。

 このところ買い物に行く途中、つい古本屋に立ち寄ってしまうのが習慣になってしまった。今、きっと私は生き方に関わる何かを探しているのだろうと思う。それは書棚を巡るとき、人生論のコーナーに立ち止まることが多いということで察しがつくだろう。 

 今日は今東光の「極道辻説法」を探しにきたのだ。この本はもう絶版になっているということだから、普通の書店では買えないし、おそらく古本屋に出ることも十中八、九無いに違いない。以前一度読んだことがあるのだが、その型破りの論調に不良などという生易しいものを越えた迫力を感じて痛快だった。

 「極道辻説法」は案の定無かったので、その代わりに遠藤周作の短いエッセイをちょっと立ち読みしてきた。遠藤周作が大病をして入院していた時のこと、隣の病室に激痛に苦しむ人が一日中呻いていて、その人はモルヒネをどんなに使っても痛みから逃れられずにいたが、看護婦さんがそばに来て手を握ってくれただけで、次第に落ち着きを取り戻していったという話だ。苦しみの共有は人の苦痛を軽減する。そばで見守ってくれる人がいるだけで、苦しみに苛立つ心は和らいでいくものだと遠藤周作は書いている。

 それを読んで、そうだろうなと素直に納得した。苦しみは単に、肉体のある個所の疾患にとどまらず、心までを巻き込んでいくものである。心の作用によって痛みは膨らみもし、薄らぎもしよう。[苦しい」というのは物理的な苦しさばかりではないはずである。そういった心理面について、現代医学はまだまだ手立てを知らなさすぎると思う。

 あたたかな病院づくりを提唱していた遠藤周作氏もつい先ごろ亡くなってしまった。深い宗教観に根差した作品も、ユーモアに富んだ馬鹿話も、私は好きだった。いかに生きるかを正と負の両局面で語ってくれた人だった。

 死とか命とかに考えを沈ませるには、今日はあまりにも寒々と暗いから、コミック本を一、二冊買って帰ろう。レジ近くの健康本には、「自信喪失している時にこそ、自信たっぷりに振る舞え」などと書いてあった。私は果たして自信を喪失しているのかといぶかりながら、急に背筋をしゃんと伸ばして、レジの若いお兄さんにお笑い本を差し出した。こんな本の助けを借りなくてはならないとは、やはりトーンダウンしているらしい。今日は一日中雨もやみそうにない。帰り道、今度は黄色い傘をさした人にでも会えれば愉快なのだが。

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