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夫と歩く


 大学の同級生である夫とは、授業の合間や休日には、あちこち随分遊び歩いたものである。遊ぶと言っても、都内の公園や名所を目指してただひたすら歩き続けるという体力任せのサバイバル散歩。おかげで東京には随分詳しくなった。

 多摩湖付近の観光地に行くだけのつもりが、あまりにつまらなかったのでつい狭山湖をめぐる山道に何気に踏み入ってしまい、あやうく2月の酷寒の山の中で野宿寸前になったことは今でも夫との語り草だ。日がすっかり落ちて運行も終わってしまった“おとぎ電車”の真っ暗な線路上をよろよろ疲れた足で歩いたことも映画の1シーンのようだった。

 極限状態になると人間の本性が分かる。あの時若き夫が特に慌てもせず、時には冗談を言いながら歩き続けてくれたことで、無事帰途に就くことができたのだった。

 私は「こんな山道で二人きりで野宿なんて絶対イヤだからね」と口をとがらせて言いながらも、心の中では「彼との野宿ならそんなにイヤじゃないかも」と思っていた。

 夫も後になって、「狭山湖を一緒に歩いたことで、俺はこの女と一生やっていくと決めたんだ」と言ってくれた。無謀すぎた冒険を二人でお茶らけながらなんとか切り抜けたことで、急に絆が深まったのだ。

 夫はその後、山登りにはまっていき、私も何度か一緒にハードな山などにもついていった。山登りはあまり好きではなかったが、夫が行くところには絶対についていきたかったのだ。そうでないと一緒にいられる時間が少なくなってしまう。

 そうしているうちに疲れてしまい、ついていくのをやめようかなと思った時期もある。私が不満をもらして夫にも考えてもらい、歩き方、体力の違いなどをすり合わせて、その後もなんとか一緒の山歩きを続けたのだった。

 就職、結婚、子育てと、駆け足で大人になっていき自由はどんどんなくなっていくかのように思われた。けれど、子どもがいたからこそ行けた場所、楽しめた事柄も確かに数多くあったのだ。

 動物園、遊園地、博物館、海水浴だけに限らず、親として担任の先生に呼び出されて気まずく何度も足を踏み入れた職員室、校長室ですら、サスペンスに満ちたヴィヴィッドな散歩地だった。

 子育てが一段落した頃、また夫と東京に出かけるようになった。少しはリッチなレストランにも入るようになった。昔は対等な立場でいたくていつも割り勘だったけれど、今では当然のごとく夫の財布からの一括会計である。

 その後、姑の介護の数年間があり出かけるどころではなくなった。そのうちコロナも蔓延し近場の買い物さえ神経を使わなくてはならなくなった。

 夫は来年仕事の再雇用期間を終えて完全に退職する。コロナも幸いおさまってきたようだ。また二人での東京巡りができるだろうか。夫は密かに計画を立てているようである。私は広げ過ぎた趣味の教室を少し控え、夫のために時間を作らなくてはならないだろうと思っている。

 まだ足も腰も大丈夫だ、ちゃんと歩ける。さすがにもう狭山湖のような冒険はできないし、山登りも足手まといになりそうなので遠慮したい。しかし平地を歩くならまだまだどこまででも歩けそうだ。今はこの健康をできるだけ維持することが夫との生活を守るための最低必要条件なのだと念じて、日々の運動に励んでいる。

 途中おざなりになってしまったおでかけの記録も、これからは詳細に記録していこうと思う。いつか歩けなくなる日が訪れても、共有した豊かな記憶は私たちの行き先をあたたかく照らしていてくれるだろう。





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