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原色

 すべての人に好かれるという事は絶対に不可能であって、どんなに高潔な人でも何人かの人には煙たがられているだろう。人付き合いが少なく温厚だと自負している私ですら、なんとなく避けられているのでないかと気になったことも何度かあった。

 芸能人とか政治家とか芸術家など、いろいろな意味での表現者、発信者たちは、目立つがゆえに絶えず世の好悪感情に面付き合わせていかなくてはいけないに違いない。賞賛されているうちはいいが、そうではない場合、平静を保つことだけでも相当消耗するだろう。

 学校の先生なども毎年いろいろな生徒に出会うから、慕われたり恨まれたり、きっと忙しいことだろう。私には到底こなせない職業だ。慕われる気がしない。

 学生時代、真面目そうでいて反抗心の強かった私は、ある種の教師には扱いづらい生徒だったらしく、授業中目が合うたびに激しくにらみ合っていた。お互いにきらいなことを隠しもしなかった。

 特に、ある家庭科教師。道徳をふりかざす嫌味な女教師。「そんなに家庭科が嫌いなんだったら、総理大臣にでもなって家政婦を雇えばいいわ」と吐き捨てられるように言われた時の悔しさは今でも心に残っている。私は心の中で「総理大臣になって家政婦を雇ってやるさ」と言い返していたのだった。

 今になって思えば、私も先生もなんて幼稚だったのか。しかし同時になんて正直だったのかとも思う。表情を取り繕うこともしなかった。しかも私は家庭科の実技はお粗末だったが、筆記試験ではトップをとってしまうので、先生も私に悪い点をつけることができないのだった。

 私のような生徒を扱わないといけないとしたら、教師という仕事はやはり私には無理だ。学校自体御免こうむりたいと思っているのである。生徒たちに憎まれたらいつまで戦えるか。一癖ある生徒の扱いに疲れ果ててしまうだろうな。そんなことばかり心配してしまう。

 時折、岡本太郎美術館を訪れる。毎回そのパワーにあてられる。けなされてもものともしない感じ。こきおろされても意に介さない感じ。褒めたたえられても我関せずな感じ。激しい色使いの合間に見え隠れするそんなクールな処世感にやられっぱなしなのである。

 強い精神力で真っ直ぐに突っ走れたらどんなにいいだろう。周囲から見たらかなり問題が多くても、一直線な生きざまは他者の否定を寄せ付けない。

 繊細さや優しさは、傷つきやすい分だけ、時にはかえって罪である。「優しさは生きる強さにはならない。もっといじわるにおなりなさい」と、年上の知人に言われたことがある。私は頑固一徹な面がある一方、人との争いを好まず感情を飲み込んでしまうところがあった。飲み込んだものは体の中で自分を傷つけ続けるのである。

 人との付き合いでもやもやと悪い感情が渦巻きそうになったら、心の中に巨大な画布を広げ、原色の絵の具を一心に叩きつけてみるのもいいかもしれない。猛る竜のように。

 すべての色を飲み込む激しい原色のような生き方、たぶんそれは私には出来ないがゆえに、憧れる。






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