晩秋の雑木林
よく晴れた晩秋、落ち葉を蹴散らしながら歩くのが好きだった。鳥の声しかしない明るい林の中。子どもの頃、日曜日ごとに父と散策した近所の雑木林をしばしば思い出す。
父はいつもポケットに二つ蜜柑を入れていた。鳥もちを木に仕掛けることもあった。奇妙な形をしたきのこや、蛇の抜け殻をみつけられれば大収穫。倒木の上に乗りぴょんぴょん跳んで、シーソーのような感覚を味わった。赤い色をした枝は漆かもしれないから触るなと、父に何度か注意された。
葉っぱをほとんど落とした林は遠くまで明るく見渡せた。子どもの頃は、果てのない広大な林に思えたけれど、たぶん住宅地の中のほんの小さな一画だったかもしれない。私は学校でうまくいっているとは言えず、父も家にいてなんとなく鬱屈したものを抱えていたのだろう。母は家族との散歩を好まず憂鬱そうに家に閉じこもりがちだった。父は私と二人きりの静かな散策でほっと息をついているように思えた。
日曜日になるのを待ちわびるようにして二人ででかけた。楽しくおしゃべりするでもなく、黙々と、でも穏やかに林の中を歩き回った。ふかふかの落ち葉の感触が心地好かった。あの晴れた雑木林は、今でも記憶の中でぽかぽかと暖かい。
そんな記憶を、我が子にも残してやれただろうか。近隣にはいくつか緑地が残っていて、昆虫を探しに何度か子どもと一緒に通ったことがある。カブトムシを捕るのに大いに燃えていたのは夫のほうだった。落ち葉の時期にも何度か連れ出してあげたのだが‥‥。
我が子も学校ではうまくやれないタイプだった。やっとたどり着いた日曜日に、もっと一緒に歩いて心を安らがせてあげたかった。しかし今の時代の流れに沿うように、次第にはやりのゲームに夢中になっていったのだ。
一人で分け入って行くには少し怖い森や林。その楽しさや謎や危険。それを教える場所も機会も、努力して探さないと容易にみつからなくなってしまった。
蜜柑を二つだけ持って目的もなく林の中を歩く日曜日の散策。普段全く忘れていても、ふとした瞬間に思い出す。私の脳のどこかに確実に残っている。たびたび立ち止まり振り返り見守る父の目に、普段あまり笑わない私への最大限の気遣いがあっただろうことも。
父がいなくなった今、その記憶を忘れずに大切に守っていけるのはもう私しかいない。
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