詩を書くということ
好きな詩人は、谷川俊太郎とか長田弘、萩原朔太郎など。加えて中学の時の同級生だった少年のことも、気になる詩人として挙げておきたい。
彼は、休み時間や放課後といえば仲間とサッカーばかりしているような元気印。その裏では、古風な詩を書く隠れ文学少年でもあった。その秘密を知っているのは、私を含めて2,3人しかいなかっただろう。かく言う私も、まだだれも登校していない朝一番の教室の黒板いっぱいに、大きく中原中也の詩を書き殴って悦に入っているような鼻持ちならない文学少女だったのではあるが。
実は恋の噂も二人の間にはあった。彼が一方的に詩のようなものを手渡してくるのを、私が困惑して受け取る、という他愛のないもの。彼の友人たちがこそこそと私の動向を全部彼に知らせているらしく、私が体育で先生に大っぴらに叱られたことなども、彼への私データとして全部伝わってしまう。ああ面倒くさいと思いながらも、人に好きになってもらうということを初めて実感して、それはそれで悪い気はしなかった。
彼から、30年ぶりの同窓会をきっかけに手紙をもらった。彼はまだ詩を書き続けていた。添えられていた詩は、甘さを排した、血肉を切り刻むような峻烈な作風。苦しいほどにまっすぐに現代詩の王道を歩いてきた姿勢がうかがい知れた。ぜんそくで苦しんでいるとも書かれていた。あんなに元気に走り回っていたサッカー少年だったのに、今は静かに机に向かう落ち着いた男性になったのだろうか。
中年を過ぎてもまだ書いている。それは感嘆すべきことなのか、失笑に値することなのか。少なくとも私と彼は大まじめに、ずっと書き続けていくことを約束しあったのである。
萩原朔太郎は名門医師の長男として生まれ、医師の跡を継がせようと期待する父親は、勢い余ってまだ幼児の朔太郎に死体解剖を見せてしまったそうだ。それはたぶん朔太郎にとって生涯のトラウマになったと思われる。
また三好達治は、幼いころ祖母に育てられていたのだが、信仰厚すぎる祖母が、毎晩のように恐ろしい地獄の話を聞かせるものだから、これまた心に深い痛手を受けてしまったらしい。
幾分神経症的な傾向があったほうが、詩人としての感受性にとってはよかったのかもしれないが、詩など書けずとも、もっと健康的に生きたかったに違いない。近親の言動が子どもに与える影響は計り知れない。特に親が子どもに良かれと思ってなす行為は、たやすく非難できない部分があるだけに問題は複雑だ。
さて、自らを省みて、萩原朔太郎の父親や、三好達治の祖母のようなことをやってしまってはいないか。時折震撼として我が子の方を盗み見るのである。そして私の親たちも、そんな思いで私を見ていたということもなきにしもあらず、「許し許され」の境地は、年月を経て知らず知らずに達成されているものだと、ここでは控えめにやや自信無げに言っておこう。
私は自分のことをずっと文系の人間だと思ってきたし、実際小さい頃から、小説家になるとか詩人になるとか言い続けて、周囲の顰蹙を買ったり、変な奴だなと笑われたりもしてきた。
しかし、高校の時1年間だけ、なぜか理系の人間になったことがある。化学部に所属し、薬品実験ばかりしていたのだ。ビーカーに何かの溶液を入れ、バーナーでぐつぐつ煮て、試薬を垂らし、何かの結晶を分離したり、何かの成分を検出したり。「何か」としか言えないところに、私の理系の不適性ぶりが如実に表れている。結局、あと少しで何かが分かるという瀬戸際で、ビーカーの中身をこぼしてしまい、すべておじゃんというオチまでついている。そこで私の理系熱も急激に冷めてしまった。
文系、理系、どちらがより社会のために役立つか、議論は分かれるところだが、私は文系でしか有り得なかった自分の人生を、納得し確信しながら、今生きている。