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夏の蝶

  • 鏑木恵子
  • 2015年5月23日
  • 読了時間: 3分

更新日:2022年7月16日

 大学の夏休み、アルバイトから帰るとすぐに飼い犬のロンを散歩に連れ出すのが私の日課だった。

 ある日の夕方、いつもの散歩の途中、藁葺きの御堂へ続く田んぼ沿いの道を歩いていると、突然夕立が襲ってきた。子どもの手のひらくらいの大きな染み跡が足元に次々と落ちかかり、みるみるうちに道路を黒く染めていく。一瞬にして空間は雨に埋め尽くされ、轟きわたる雨音がすべての音を消し去っていった。さっきまでの薄い曇り空が嘘のように、真っ黒な雲が厚ぼったく重なり広がっていく。

 どこかに雨宿りできるところを探さなくては。私はロンの引き綱を引っ張りながら、人家のほとんどない田んぼの道を抜け、野球場横に新しく建ったばかりの小さなレストランの軒先に駆け込んだ。

 すでに私もロンも全身ずぶ濡れになっていた。ロンは乾いたコンクリートに腰を落ち着けると、何度か胴震いをして雨のしずくを振り飛ばし、念入りに体中を嘗め始めた。

 雨は尖ったつららのような形で地面に突き刺さってくる。ロンは身づくろいの間にも怯えたように空の匂いを嗅ぎ、首をかしげていた。私は心細くロンを抱き寄せながら、シュロの木の近くに身を寄せてしゃがみこんでいた。

 雨はやみそうにない。何十分、いや何時間か。待つことには慣れている。いつまでだって待ってやる。ただ家族に心配されるのだけは避けたかった。数か月前に体をこわしてからというもの、家族は私の扱いに微妙になっていた。

レストランから少し離れた駐車場の隅っこでは、同じように雨に降りこめられた少年が二人、自転車にまたがったまま低い声でおしゃべりをしている。雷も鳴りだして、あたりは夕闇を通り越して夜の雰囲気にすらなってきた。

少しでも小止みになったら思い切ってここを出ようと、様子をうかがっていた時のことだった。十メートルくらい離れた向かいの家の玄関の引き戸が急にガラリと開いて、高校生くらいの少女が首だけ出した。雨の激しさを測るつもりだったのだろうか。少女は、ふと私とロンに目を留めると、「あっ」という風に口を開け、そのまま傘もささずに、だれかの名前を叫びながら雨の中をこっちに向かって駈け出してきた。

胸が痛くなるほど優しい画像で、少女は私の目の中に飛び込んできた。少女はからも衣服からも雫を垂らしていた。そして改めて私とロンを間近に見て、急に困ったような微笑を浮かべ、恥ずかしそうに肩をすくめた。

「〇〇さんかと思って・・・ごめんなさい、友達に似てたもので・・・このワンちゃんも・・・すみません」

私は少女につられてやはり頬が赤くなるような思いで微笑んだ。

「…雨、すごいですね」

「まだやみそうにないですね」

びしょ濡れを通り越した鮮やかな間合い。その見事さに私は少女の友人に成り代わって心地よい清々しさを感じていた。

少女はしゃがみこんで、ぬれねずみのロンの頭を丁寧に撫でると、もう一度、

「すみません」

と言ってぴょこんと頭を下げ、身をひるがえして再び雨の中に飛び出していった。ロンはキョトンとした目で少女を見送っている。

少女は、真っ白い蝶のようだった。羽が壊れるのも厭わず、雨の中にうっか飛び出した・・・

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