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瓢箪池

 私は、遠い記憶を呼び覚ます。それは瓢箪池と名付けられた龍の涙のような池のことだ。

 中学1年の夏休み、例年7月31日は、全校登校日で、生徒会主催の半日ハイクが行われることになっていた。朝から肌を焦がす陽射しが照り付け、校庭に整列しているだけでも体中の汗がしぼり取られてしまうような暑さだ。

 生意気盛りの中学生が、こんなおしきせのハイキングを喜ぶはずもなく、

「全く愚にもつかない風習だぜ」

「一体こんな真夏に、だれがハイキングなんてしたいと思うの?」

そう口々に毒づきながら、早くも水筒の水をがぶ飲みしているのだった。

 実行委員長らの一通りの挨拶が済むと、乱れた列のままにぞろぞろと校門を出て歩きはじめた。目的地は北の森の方にある瓢箪池だった。

 中学校裏の街道を横断すると、両側を田んぼにはさまれた細い砂利道が森に向かって一直線に続いている。途中、数本の巨大な銀杏の木に取り囲まれた小さな神社を右手に見ながら、中学生たちの列は教師たちに見張られていない気安さで、こづき合いながら、ふざけ合いながら、緩慢なペースで歩いていった。

 その道は私の通学路でもあった。いつも自転車で通り過ぎざまに目の端を流れていく森の印象は、濃く重なりあった木々、踏み込んでいけそうにもない雑多な下草、罠のように張り巡らされた蔓。時折、山鳩らしい足音が小さくカサカソと聞こえることもあり、何か小動物がいそうな気配に、立ち止まって耳を澄ますこともあった。

 森の奥に瓢箪池と呼ばれる池があることは、友人から伝え聞いて知っていた。底なし沼だとか、魔物が住む池だとか、願いをかなえてくれる池だとか、まことしやかないくつかの噂を持つ池。へえーと聞き流しながらも、通学時、森の奥を透かし見るたびに、恐れと同時に神秘を感じていた。息苦しいばかりに、すべてが秘密のように美しく、妖しい悪徳にも似て、森はそのまま思春期の私の心の迷宮だった。

 ハイキングの列は、焼けた道をだらだらと進み、小川に沿った道を小一時間も歩いた頃、ようやく森の入り口にたどりついた。森の中には道らしきものはなく、思い思いに歩きやすい足場を選んで歩いていく。込み入った枝に服をひっかけないように身をよじり、くぐり抜け、幾分じめじめした腐葉土の上をスニーカーを汚しながら歩いた。ひんやりした森の影。炎天下の砂利道から逃れて、そこから先の空気は確かに濃密な青に染められていた。

 蝉が痺れるように鳴いている。蜘蛛の巣がいきなり顔に張り付いてくる。清廉な感じのする木々の体臭。女生徒たちは、わけのわからない小虫を見つけるたびに、大袈裟な声をあげている。見上げれば、色濃い葉群れの間から、ちらちらと眩しい夏空がのぞいている。

 隣を並んで歩いていた友達が不意に、

「もう少しで瓢箪池があるよ」

と、私にささやいた。

 ああ、やっと。私にとってずっと謎だった瓢箪池をもうすぐ見ることができる。

 奥に入れば入るほど、足元はいよいよぬかるんで、スニーカーがぎりぎりまで沈む。前の者が歩いた後には、水っぽい泥が泡立っていた。爪先立ちで慎重に歩いても、泥に足を取られそうになる。湧き水がいたるところに小さな水たまりを作っていて、早くも沼地の気配を感じさせていた。

 そのうち、先頭を歩いていた者たちがざわめきはじめた。

「瓢箪池に出たよ」

「やっと着いたよ」

 列は乱れ、みな我先にと前へ出た。

 そして、私は、不意に見た。小暗い森の中にいきなり出現した瓢箪池。鈍く光る水面。底を見通せない濁りは、池というより沼の様相を呈していた。形は想像していたような瓢箪形ではなく、ひしゃげた眼鏡のようだった。思ったほどには大きくはなく、かといって池と言うほどには小さくもなく、教室二つ分ぐらいの大きさだったかもしれない。

 緑色のみずみずしい苔が池の周りにはびこり、足を踏み入れると、そのまま何者かに引きずり込まれそうだ。澱んだ暗い泥水。筋になって差し込む木漏れ日。これが瓢箪池!

 息の詰まるような不思議な衝撃に打たれて、私はただ黙ってその瓢箪池を見据えていた。古くからの意思のように、その池もまた、私に何かを伝えたがっているように思えた。 

 木々の影を映した池の面。底深く覗きこめそうでありながら、何も見通せない、身をよじった二つの池。この池をなんと表現したらいいのだろう。言葉を探して気持ちは苛立った。けれど池はすべての形而下的なはからいを拒否して、ひんやりと、ただそこにあった。

 生徒会長はここで宝探しをするのだといって、声を張り上げいろいろ指図している。企画した者たちは事前にここに来て、何かお宝となるものを仕込んでいたのだ。漫然と歩かされている者たちに比べて、やっかいなミッションを企画し、遂行し、回収するまで見届ける必要がある者たちこそ、この半日ハイクを真に楽しむ者たちである。

 「宝」と聞いて、私の周りにいた者たちは急に散って、石の下や、木の枝の隙間を覗きこみはじめた。さっきまで不平を言っていたことも忘れて、夢中で枯れ枝を踏みしだいて走り回っている。

 瓢箪池はその時、私だけのものだった。あたりを見回しても、皆宝探しに必死で、私のような思いを抱えている者など、一人もいないらしかった。この池の姿、この風景、この空間を、どう表現しよう。私はその時、だれとも違っていた。違っていることは誇らしく、同時にひどく心淋しいものだった。木肌に手のひらを支えながら、池から目を離せずに、私は慄然と立ちすくんでいた。

「きみは なにを みつけたの?」

振り向くと、いつも皆から虐げられている小柄な少年が、はにかんだ笑みを浮かべながら立っていた。

「いいの、わたしは。・・・なにか いいもの あった?」

「ぼくも なにも いらないんだ」

ふと見返せば、少年の瞳は、磨き抜かれた青い石のように澄んで。

 私はあれから再びはこの池を訪れなかった。瓢箪池の周りをめぐったのはその時一度だけだった。それにもかかわらず、真っ暗な夜に、流れゆく雲の合間から、突然ぼんやりとした月が顔を出すように、季節の折々、記憶の鍵のような形で瓢箪池は何度も夢の中にあらわれてきた。何かを象徴する形。なくしかけては見い出したあの青い龍の瞳。その意味するところをつきつめて考えようとすれば、いつも森の気配が私の記憶をぼやけさせてしまう。

 何気ない一瞥が人生を変えていくことがあるように、あの瓢箪池はあの瞬間、私の何かを決定づけてしまった。そう思えてならない。


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