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父のこと

2015年7月12日(日) 午前10時5分 父亡くなる。91歳(お腹の中にいた1年を入れて行年92歳)。

 2015年3月に肺炎で大病院に緊急入院し、回復がみられたので2週間ぐらいで療養型病院に転院した。認知症もあり嚥下機能落ち、栄養摂取が大きな課題となる。

 肺炎を繰り返しその都度回復してきたが、経口栄養摂取ができず、衰弱していった。経鼻チューブでの栄養摂取も、食道からの逆流があって肺炎をおこしやすくなると言われて、中断。せめてユーグレナ(サプリメント 動物性と植物性の栄養を併せ持つ)を試してみたい家族の意向も、そんなものは全く役に立たないとの担当医の意見で、少し試みただけで却下される。それから後は、ほとんど水分だけの点滴。

 3月入院時は、しゃべり続け、足も手も盛んに動かし、ベッドから落ちると危険だからと拘束具をつけられるほど。4月、5月、6月も、誤嚥性肺炎の熱を繰り返しながらも、何度も回復し、すぐに手や足をバタバタとうごかしはじめる。ぐったり寝ているということがなく、いつも動いていた。何を言っているのかはわからないが、人の顔を見るとしゃべり続けていた。驚くべき活動性だった。看護師らもその生命力に感嘆していた。

 亡くなる1週間前ぐらいまでは、手や足を動かしていた。しかし、筋肉も脂肪も使い果たして、ぎりぎりまでやせていた。呼吸だけを頑張って続けているという状態だった。

 苦痛を訴えることもなく、怒りも不安も表さず、ただ現状を淡々と受け入れ、淡々と時を過ごしていた。体を動かし続けることで、強い生存の意思を示し続けていた。

同居していた兄が毎日面会に行き、毎日メールで私に様子を知らせてくれた。

2015年6月のこと

父が入院して3か月目の女医とのやりとりが、あまりにインパクトがあったのでその時書き留めた言質がこうだ

「そんなにおっしゃるのなら、今すぐ転院してください。すぐに手続きしますから。この病院ではあなた方のお望みの治療はできませんから。経管栄養も2回トライして2回とも逆流してしまってだめだったから、もうやめます。もう何度も何度もご説明しているはずですが、栄養を入れても無駄ですから。ご納得いただけないなら、やっぱり転院していただいた方がいいと思いますので早速手続きしますから。はっきり言って余命1か月ですから。転院してください。今すぐ転院してください。すぐに手続きしますから。」

 これが余命1か月の患者の家族に言う言葉かと呆れて憤激しながら私はその日川崎に帰ったのだった。

 この女医とは2回顔を合わせただけだったが、1回目はその3か月前、先生から何か話があるそうだから一緒に聞く?との兄からの連絡で、急いで帰省した日の午前11時のこと、

「この病院ではつっこんだ治療はできませんから、転院するなら今日、今すぐ決めてください。土曜日だからお昼までに、あと1時間で決めてください」

1時間で決めろと言ったって、すでに一度大病院から転院してここにきたのである。それに私はもう40年来東京と川崎に住んでいて、最近の宇都宮の病院事情も全く知らないし。私に病院のことを聞かれても全く意見のしようがないのだ。

 それでも兄と私は、この病院でできる治療の限界を聞いて悩みつつも、家からも近いし見舞う家族の負担も考えて、忸怩たる思いでこのままこの病院にお願いすることにしたのだった。

 義姉は「あなたたちの父親なのだから二人で決めて…」というスタンスだった(父とずっと同居している義姉にも、兄と共に親身に病院のことを考えて欲しかった)が、新たな病院でまた一から検査漬けになるかもしれない父の負担を慮って、転院しない方がいいという意見に賛成してくれた。

 兄は、父を快復させる手段を自分なりに調べ、たびたび女医に相談していたそうだ。それが女医をイラッとさせたのかもしれない。

 ちなみに兄は決してクレーマーなどではなく、語り口穏やかな英語の高校教師であり、女医は三十代にも見える若く美しい凛とした女性だった。父の意識が清明であったなら、きっとうれしかったであろう感じの。

 天寿を全うしたと思われる死も、家族の後悔や葛藤を経なくては納得には至れない。考える時間は十分にあった。学ぶ時間も十分にあった。反省する時間も十分あった。それだけの時間を与えてくれた父の生命力を有り難く思う。願わくば父が、周りのゴタゴタに何も気づかず、夢うつつに最期の時を過ごしてくれていたならいい。

7月14日〈水)告別式 納骨

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