第39詩集 かわいらしい足(1)
かわいらしい足
冬になって
傾いた陽射しが
部屋の中にまで
入ってくるようになった
朝 おむつを替えながら
「足だけでも
日光浴するといいですね」と
つぶやくともなしに
つぶやいたら
昼 ベッドの布団の端から
陽射しに向けて
小さなはだしの両足が
ちょこんと出ていた
歩かなくなって
赤ちゃんのように
やわらかくなってしまった足
せつなくも
かわいらしい足
言われたままに
おとなしく日に当たっている
小春日和の光が
白い足うらをあたためる
土の匂いを忘れ
もうどこへも
急がなくてもいい足
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2019年7月26日
7月26日 その日は
薄曇りで蒸し暑かった
姑はずっと食欲がなく
2週間でもう2キロ体重が減っていた
なんでこうも心配かけるかなと思いながら
私は午後には古本屋に行き
エラリー・クイーンを何冊か買い込んだ
台風が近づいていて
夜には大雨になった
姑の心配以外は
特に大きな出来事もなく
いつも通りに過ぎた夏の一日だった
11月になって
去年山口県に引っ越した友人から
年賀欠礼のはがきが届いた
まず最初に
「7月26日」の文字が目にはいった
親御さんでも亡くなられたかと思ったが
27歳の息子さんだった
ああ これは どうしよう
もう3ケ月以上たっている
はがきをみつめて考え込む
息子さんなのか 27歳の
確か生まれつき心臓が悪いのだと友人は言っていた
数年前に調理師の資格をとったとも聞いていた
そうか 息子さんなのか
ふるえる水面のような
繊細な心を持った彼女
エッセイを書くことで
日々を愛おしく紡いでいた彼女
7月26日の彼女
今 彼女はどうしているだろう
息子さんの死から3か月
今更ながら
私はどうしたらいい?
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台所を漁る姑
姑が術後の回復期だった頃
働きかけても起き上がる兆しがないのが気になって
このままでいいのかと私が夫に問うと
夫は
黙って寝ていてくれた方が
介護する方は
楽でいいじゃないかという考えを示し
へたに立ち歩いて
台所で火でも使って
火事でも出されたらどうするんだと言った
私は
そうか 寝たままでいいんだなと念を押し
それ以来姑に対して働きかけることをやめ
力を抜いてしまった
そして3年間本当にほとんど寝たきりになった
実母だったなら
私は泣きながら
寝たきりじゃだめだ
歩かないとだめだと
しつこく騒ぎたてていただろう
姑はここ1週間おなかがすいて眠れないと
しきりに訴えてきたので
おにぎり1つとコップ1杯の牛乳を
夜9時に枕元に置いてあげているというのに
夜中起きだしてシルバーカーで廊下を歩き
台所を漁っている様子
台所にみかんをみつけて
こっそり食べたらしい食べかすを
朝 ベッドサイドのテーブルに発見した
夜中に食べましたねと注意したら
翌朝 また夜中に食べたらしいみかんの皮を
巧妙にゴミ箱の底に隠していた
次の日は
料理酒やみりんやオリーブオイルが
戸棚から台に出し放しになっている
そんなことが1週間続いた
普段普通に動いている人ならば
別に問題はないのだが
普段全然動こうとしない人が
夜中だけ動き回るという状況が
どうにも尋常ではなく不穏だ
コンロを使って煮炊きなどしはじめたらどうしよう
こうなると
夫が言っていたように
寝たきりでいてくれた方が
安心だということにもなる
そういうわけで
冷蔵庫を急遽ガムテープで目張りし
食べ物を片付け
ガスの元栓を閉めるようにした
夜中つまずいて転ばないように
床にものを置かないようにした
これで玄関も開かないようにしようものなら
まるで認知症対策じゃないか
あなたは認知症じゃないでしょう?と
心のなかでツッコミを入れつつ
表向きには知らん振りして姑を問い詰めない
必要に迫られれば
ちゃんと立って歩いて動けるし
トイレだって頑張れば
毎回一人で行けるのだろう
術後 退院直前に
ソーシャルワーカーから
自宅に戻って家族で介護するか
施設で介護してもらうかの相談がなされた時
当然のごとく嫁が介護するのが当たり前の空気になっていたが
私がきっぱりと
「私は介護しません 施設でお願いします」と言っていたら
姑はどうするつもりだったのだろう
夫はどうするつもりだったのだろう
夜中の活動などなかったかのように
日中ひたすら寝たきりで過ごす姑
夜中の食欲のせいでじわじわ太っていく姑
嫁がなんでもやってくれると思って
寝たきりになってしまっているのなら
私のせいでもあるのかと
憮然として姑をながめつつも
もう見捨てることもできないのである
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姑の病に付き合う
姑は六十代から不眠症で、睡眠導入剤を長い間二錠常用していた。常日頃から「二錠では全然眠れない、三錠に増やしてほしい」とずっと言い募っていたのだが、認知症リスクや転倒リスクを挙げ、二錠でさえ高齢者には多すぎるのだと、心療内科の医師と私とでいつも説得していた。
姑は薬に頼り過ぎるきらいがあった。不適切で過剰な薬の使用が、後にさまざまな身体と心の不調を引き起こす原因になったのだと振り返って思う。
七十代からはひどい腰痛に悩み、痛くてかなわない様子で、毎夕痛い痛いとうめくようになった。レントゲンでは全くそんなに痛むような所見でないと、医師に首を捻られるのである。しかしとにかく耐え難い激痛があるようで、そのうちどんな鎮痛剤も効かないと言い出し、週2回の神経ブロック注射を繰り返すようになった。
夜間救急病院にも何度もかけこんで、麻薬的な鎮痛剤を使用し始めたのをきっかけに、どんどん鎮痛剤の量が増えていった。
たぶんその薬と睡眠薬などが相乗して、認知症の症状に似た譫妄を発症したのだろう。脳梗塞を疑うような症状でもあったので、総合病院で脳のMRIを撮ったのだが、その時の神経内科の医師は、画像を見ながら、
「複合型の認知症。リンゴだったら半分腐っている状態」
と平然と言ってのけた。そして姑と私の前でへらへら笑った。
心配と疲れからぼんやり聞いていた私は、意味が分かると同時に、
「お前の脳はもっと腐っているよな」と心の中で医師をののしり、姑はこれをどう聞いたのか心配せずにはいられなかった。
同じころ目が見えないと言い出し、足元が全然見えない、道路の向こうにいる人の顔が分からないと、しきりに言うようになった。仕事で夕方外出している私の所にまで電話をしてきて、
「目が見えない。どうしよう。」と、泣き声で言う。
しかし眼科に行って視力を計ると、1.0は見えているのである。
医師から「目の状態はとてもよいのだが… 何故見えないのか原因が分からないから、大病院で診てもらって。」と言われた。
いろいろな検査をして白内障の手術後の濁りなども、レーザーできれいにしてもらった後も、見えないと言い続ける。
腰といい目といい医師には全く問題ないように見えても、姑は苦痛を訴え続ける。私はその気持ちにずっと寄り添って、気のせいだとか気にしすぎだとかは一切口にしなかったが、これは腰や目の部位の直接的な疾患ではなく、脳の神経の誤作動的なものなのかもしれないと、ずっと思っていた。
夜、睡眠薬や認知症の薬を飲んで、緊張を取り脳の機能を一時的に整えると、腰痛も、目が見えない症状も、一切なくなってしまうのである。
薬を飲んだあと、目がはっきり見えると言い出して活動的になり、夜中1時2時にシルバーカーを押して、大きな幹線道路を渡り、コンビニまで平気で行ってしまうことも頻発した。これは本当に認知症かなどと心配させられたが、まずは相当の量になった何種類もの強い鎮痛剤が、脳に何らかの悪影響を及ぼしているのかもしれないと考え、医師に掛け合い、問い詰めた。
そうしたら医師ははじめてはっと気づいたようで、薬の量が多過ぎたようだと謝ってきた。薬を減らしてもらわなかったら、本当に認知症になってしまうところだった。
しかし半年近くは譫妄の状態ではた目にもおかしかった。同じ言葉を独り言のようにつぶやき続ける、バランスがとれずうまく歩けない、自分が今どこにいるのか失念してしまうことがある、椅子に座れず一日中意味なく立っている、たまに椅子に座ったかと思うと、うとうとして失禁、ベッドでも何回も失禁、テレビも全然見ようとしない、いつもぼんやりして目の焦点が合っていない、夜、ベッド上で尿瓶でとった尿を、朝、勢いよく庭にぶちまけるなど。明らかな人間としての変容があった。
たまに様子を見に来る姑の友人たちも、姑を完全に認知症だと思っていただろう。もうちゃんとした会話さえ、そのときの姑はできなくなっていた。そうなったのは嫁がほったらかしにしていたせいだと言わんばかりの人もいて、たびたび様子を見にきては、私に非難めいたことを言って帰った。その人も自分の夫を介護する段になって介護がいかに大変かを訴え、私が介護の先輩だと言わんばかりに頼ってきて、たびたび悲鳴のような愚痴を私に言いにきたりもしたのだった。
姑は最も譫妄の症状がひどい時から2年経ち、80代の半ばになった頃には、認知症のような状態からほぼ脱却して、会話も成り立つようになり、デイサービスに行く意欲も出てきた。腰痛を訴えることも少なくなり、これからはゆっくりのんびり過ごせるだろうと思っていた矢先、夏の終わりごろから吐き気や食欲不振の症状が出始め、そのうち息切れや血圧の低下や血中酸素濃度の低下なども起き、健康に不穏な影が差し始めた。
病院に行ってみましょうよとたびたび言ってみたが、姑は大丈夫大丈夫と言うばかり。私は私で母の大きな手術なども入ってしまったので、夫に半分怒りながら「今すぐに病院に連れて行かなくていいの? 行かないのだったら、私は実家の方に気持ちを向けるよ」と言った。
夫はそれでいいと言い、私は姑が気がかりながらも、さかんに泣きついてくる母の術前術後を電話や帰省で見守りつつ、母のことを最優先にした。母のその後の経過も安定しひとまず安心という状況になるまで、姑のことは夫に任せたつもりだった。その時にはもう11月。
姑の食欲不振は相変わらず治ってはおらず、甘いものばかりやっとの思いで食べている様子。やっぱり明らかにおかしいのだが姑は病院に行きたがらない。
そして予約診察の日にもう逃げられず病院に行ったところ、貧血の項目がかなりの異常値になっていた。
医師は幾分慌てふためき、
「これは内臓のどこかに大出血が起きている。血液サラサラの薬のせいかもしれない」と言い、即入院となった。
姑は入院という出来事に大きく気落ちしたのか、そのときからほとんどしゃべらなくなり、ベッドに横たわったまま、排泄はすべておむつにするようになってしまった。
各種検査が施されたが、貧血の原因が分からない。出血の出どころがわからない。担当医師は「大腸の形がちょっとおかしいけれど、たいして問題はないでしょう」と言い、「もう少し様子を見てから退院の時期を決めましょう」と言った。
鉄剤を飲みながら他には何の治療もなく、ただベッドに横になっているだけの入院が一か月近くも続いた。薬で貧血は改善されたものの、その間ずっと食欲不振があり、立つ気力も全く無くなっていき、話しかけてもうなづきもせず、表情はずっと浮かないまま。医師からの説明もその後全然無く、「先生にお話を聞きたい」と私は看護師に何度も言ったのだが、「先生はお忙しくてなかなかつかまらないので」とその都度言い訳され、その後も無しのつぶて。あまりに埒が明かないので、失礼を承知でつっこんだ質問状まで作って提出してしまった。それも医師に直接渡すことができなかったので、ソーシャルワ-カーを介してである。
それでさえ医師本人は全く会ってくれようとはせず、ソーシャルワーカーが代弁で返事してくる始末。そしてとうとうある夜大量の下血が起きて、腸の緊急検査をした結果、結構ステージの進んだ大腸がんであることがわかった。
本人は日頃下血しているなど一言も言っていなかったし、入院中は看護師がおむつにしている便をすべて見ていたはずだ。入院一か月の間一度も下血症状はなかったのか。少なくとも相当腸が閉塞していたのだから、便秘が続いていたことは確かなはずで、毎日の看護師の見守り観察はどうなっていたのか。そこに何の考察も予測も入り込む余地はなかったのか。循環器内科に入院していたから消化器外科の疾患は関係ないとばかりにスルーしてしまっていたのか。姑は何故自分の症状をちゃんと私にも看護師にも訴えなかったのか。今でも私は姑や医師や看護師にこの混迷を呈していた時期のちゃんとした説明を求めて詰め寄りたい。
入院中は出された食事をろくに食べられなかったので、極度に痩せ細ってしまい、アルブミン値が低すぎてこのまま手術したら、傷口がくっつかないからだめだと言われた。そこで一時退院して家で栄養失調を回復する3週間を持たねばならなかった。手術できるかできないかの大きな責任を私は負わされることになったわけだ。家でもあまり食べてくれなかったら、姑はいつまでたっても手術を受けられず癌も進行してしまうかもしれない。
試行錯誤のあれやこれやの食材。タンパク質が入ったゼリーや飲料を通販で買ったりした。何を出してもはかばかしく食べてくれなくて、
「食べなかったら手術受けられなくて死んじゃうかもしれないですよ」と、最後は脅しながら必死に食べさせた。お刺身は食べてくれたので、お刺身ばかり出した。二週間後の検査ではまだアルブミン値は思うようには上がってはおらず、その10日後なんとかぎりぎり血液検査をクリアして、姑はやっと手術を受けることができたのだった。
それが年末年始を挟んだ冬の頃のこと。
そして1月半ば。やっと退院して自宅療養に戻ることができた。しかしもうどこも悪くない状態になったのに、姑はなぜか心の力が尽き果て、何もしゃべれない症状が全く治らないまま、何の意欲も示さずほとんど寝たきりになってしまった。入院前の姑とはまるで別人のようだった。たった3ヶ月のうちに。
そして私のディープな介護が始まった。
平気で元気に楽しくしっかり介護できていたわけでは決してない。しゃべれない姑のためにピンポンのブザーをつけてあげたら、1日に20回近くもピンポンのボタンを押してくる。おむつを替えて、などの意味のあるピンポンならまだしも、何の用でピンポンを押したのか本人もわからないようなピンポンもあり、私は苛立ちやストレスで、たぶん自律神経をやられてしまったのだろう。この時期、半年近く、様々な不可思議な症状に見舞われ、内科、皮膚科、耳鼻咽喉科、脳神経外科、歯科、眼科など、何度も行く羽目になった。心や体の安定を求めて、座禅や太極拳や自彊術やヨガに異様に打ち込み始めたのもこの頃だ。
姑が体の痛みと共に、心や脳の不調に悩み続けたここ十年。寝たきりになって過ごしたこの三年。私の方では、父の死や、母の二度のがん手術があった。
姑がまあまあ元気だった頃は、かかっていた六つの病院の付添いや医師への説明や問い合わせ、姑の親戚の入院見舞いや冠婚葬祭などを私と夫が代理でこなしてきた。姑は身体が動くうちでさえ、実の兄弟の見舞いや葬式に行こうとはしなかった。
寝たきりになってからは、食事作り、排泄の介助、始末。大量のおむつの頻繁な買い出し。毎日のように来る介護スタッフへの対応。日々の健康観察など、姑と姑の周辺に関わる生命維持に関わる出来事すべてを、私は我ながら献身的にとは言えないまでも、自らが腐り壊れない範囲内で親身によくこなしてきたわけで。
本格的な介護も4年目に入った。すべて姑に対する私の行いは、人間としての未熟な間違いや苛立ちはあるものの、34年前、満面の笑顔で鏑木家に私を迎え入れてくれた若き日の姑の温かい心使いと、それに続いた穏やかな日々への、精一杯の私の恩返しなのである。
これからもし 恩返し以上の奉仕が発生したとしても、敢然と受けて立ってやる心づもりはある。私が気負いなくそうしてあげたいと思えるほど、元気なころの姑は確かに人を傷つけることの一切無いやさしい姑だったのだ。
それでも物理的にも精神的にも、もう対応できないと感じる時がきたら、申し訳ないがそこで放棄するかもしれない。そうせざるを得なくなったなら、きっぱりと、そうせざるを得なくなったということなのだ。
以上がここ10年あまりの、姑に関する、ひいては私に関する、命と生活の概括的な記録である。
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大腸カメラ検査とそれ以後のある1週間の顛末記
姑が術後3年目の大腸カメラ検査を受けたのが2020年1月6日。やるかどうか迷ったが本人が拒否しなかったので検査に挑んだ。しかし案の定、下剤をコップ1杯も飲めず、便の排出不十分な状態で病院に行かざるを得なかった。医師は検査できるか協議していたが、もう下剤を飲めそうにないことを見て取って、これでやっちゃいましょうと検査を決行した。検査自体は、鎮静剤を使っていたからそうは苦痛はなかったはずだ。
検査後 医師の説明によると、3つぐらいはポリープを切除したが、腸が綺麗ではなかったのでまだ他にもポリープは残っているという。あとはCTなどで大きくなっていくかどうか要観察ということだった。
ひとまず大腸カメラのミッションは終了してほっとしていたところ、3,4日後から少しずつ食欲不振が始まり、動きが鈍くなって立ち上がることもつらそうになってきた。熱もせきもない、ただけだるそう。どこか体調に変化とかありますか? 痛いところありますか? 呼吸が苦しいとかは? とたびたび聞くのだが首を横に振るだけなので様子がわからない。
土日になって様子をみていても食欲不振は治らず、月曜日の看護師訪問でも「食欲不振、心配ですね」で終わってしまい、火曜日の入浴サービスも入浴をやめて健康チェックだけしてもらったが、特に何も指摘されることもなかった。
しかし夕方の食事時にますます起き上がれなくなっていたので、ちょうど仕事から帰ってきていた夫に、これはどうよ、とその姿を見せた。
夫ははっぱをかけてなんとか食卓に移動させようと説得している。その時私は姑の様子をやっと客観的に見ることができ、これはおかしい そうだ24時間看護師呼べるシステムを発動しようと思い、看護師に緊急コールをした。
すぐに駆け付けてくれた看護師は血圧 脈拍 血中酸素濃度を測り、緊急性はないけれど明日念の為医療機関を受診してください、と言ったので、じゃあひとまず今日はベッドで静かに寝かせましょうと、食卓に移動してしまった姑を車椅子に乗せようとしていたところ、姑に急激な脱力が起きた。
看護師は動転した様子で これは脳梗塞の疑いがあると叫び、救急車呼びましょうということになった。
救急病院に夫と共に行ったのが夜7時半ぐらいのこと。さまざまな検査をした結果、中程度の肺炎を起こしているということがわかった。脳梗塞だったらこのままもう退院できなかったかもしれないので、肺炎という診断はまだ希望を持つことができてラッキーなことだった。熱もせきもないし本人の訴えもないので、これははた目では診断は難しかったですね、と医師に言われた。
2週間ぐらいの入院と言われたが「高齢者なので内臓に菌が回ったらそのまま死亡することもあるので、ご覚悟を。延命治療はどうなさいますか」と医師が聞いてきた。夫は義弟と電話で相談し延命治療は無しと早速意思決定をした。
大腸カメラの下剤を飲んだことで、誤飲性肺炎になってしまったのかもしれない。普段の食事で誤嚥があったのかもしれない。または病院で肺炎のウィルスを得てしまったのかもしれない。それは今となっては定かではない。
抗生物質の投与が功を奏したのだろう、その後 姑は幸い1週間ほどで検査値もよくなり、すぐに退院することができた。というより病院の食事を、好みに合わないから(本人が看護師に言ったらしい。なんたるわがまま!)フルーツ以外何も手をつけなかったので、家に帰って好きなものを食べた方が元気が出るだろうと、早めに退院となったのだった。
姑が入院中、私の方はといえば、おむつ替えの手間は無くなりいくらか自由にはなった。しかし病院の食事が全然とれてないと看護師に聞かされ、やっぱりかよと腹立たしく思いつつ、前回の入院での失敗を教訓におにぎりやおかずを持って病院に日参していたのだから、完璧な自由を満喫できたというわけでもなかった。
退院したのが1月22日。このすぐあとぐらいから、日本での新型コロナウィルス感染症が話題になりはじめた。もし姑が1月22日以降に肺炎になったのなら、コロナの心配もしなくてはならなかったろうねと、夫と笑って話したりもする。
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漢字遣い
どうしても
難しい漢字を使っちゃう
そんなことを
詩を書く友人と話していたら
いいのよあなた
その漢字を知っているということなんだから
どんどん使いなさいよ
知っているということは
使ってもいいということなんだから
知っているっていうことは
とてもすごいことじゃないの
そんなことを言われて
ああそうか知っているんだから
使ったっていいですね あはは
笑いながらそんな話をしたが
漢字だらけで読んでもちんぷんかんぷん
というような他人の詩を読んで
漢字って字面黒々してるよねえ
闇闇しいよねえ
沢山伝えようとして
かえって頭に入ってこないよねえ
と思うこともあるが
その人がその言葉を使おうとして
きっぱりと使ったのなら
それがその詩の必然なのだとも思う
漢字であれひらがなであれ
すべての言葉にはその言葉でしか伝え得ない意味がある
日常を描くのか
超日常を描くのかによっても
使う言語は変ってくるだろう
どの言葉にも命を与えたい
誰にも忘れ去られている言葉を
掘り起こしたい
どんどん深く潜っていって
そうして探し当てた言葉が
やはり漢字だったり難しい言い回しだったりすることもよくあることだ
煮詰めすぎてしまった言葉を
やわらかく言い直しているつもりなのだが
若いお母さん向けの通信の連載では
高尚過ぎて と言われたこともあり
全部ひらがなならいいのかな?
飲みやすいさらさらスープでいいのかな?
真水のままでいいのかな?
そうか それも一考の余地はある
水の気配で感情を伝える
それはある意味
とても難しい
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突撃
こと姑の医療に関しては
タカ派の私は
たびたび医師に突撃をかけてしまう
そして医師が一瞬たじろぎうろたえるのを
内心ほくそえんで見るのが好きだ
穏健派の夫は
よしなに と私の過剰攻撃をたしなめ
決して医師に詰め寄らない
だから突撃は私の役目
医師のカルテの片隅に
「患者の長男の嫁 要注意」と
書かれているかもしれない
姑のために
姑または夫が
医師に突っ込むべき質問を
私がする
患者の 謂わば血族ではないから
少し冷めた距離感で
医師の一言一句を裏の裏まで吟味する
お世話になっているのは重々承知しているし
深く深く感謝もしているが
命の問題を前にしては
平伏してばかりもいられない
これがもし自分のこととなったら
唯々諾々と呆然と
医師の言葉に従うばかりに
なってしまうのかもしれない
そんな時
だれか私に代わって
はっきりとした意識で
医師に突撃をかけてはくれないだろうか
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母と姑の違い
母は90歳を超えているが
信じられないくらい元気だ
声も大きいし よくしゃべる
どこへでもスタスタ歩いて行ける
階段も難なくのぼれる
家事もすべて一人でこなす
庭仕事も大好きだ
去年は宇都宮から新幹線に乗ってきて
日帰りで東京を楽しんでいった
母と姑の違いは何だろう
負けん気の強さ
生への強い執着心
まわりを巻き込むアクの強さ
適度に薄い共感性
小さな事も大きく騒ぐ心の振れ幅
姑にこのうちのどれかがあったなら
きっと寝たきりなんかになっていない
まわりからうざがられながらも
今もしっかりと楽しく
自立した生活をしていたに違いない
深いやさしさは
生きる強さにはならない
煙たがられるくらい強く
生の根が張っている方が
しっかりと立っていられる
母と姑を比べてみて
なんとなくそう思う
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