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第21詩集 笑顔の意味


朝 サンダルが冷たかった

金木犀が甘く誘っているのに

黄色い蝶が空高く逃げて行こうとしているのが

不思議だった

赤い首輪をした黒い猫が

湿った道路の上に座っている

その体は絹布のように冷たい

その虹彩は鋭く収縮している

知らぬ間に見失ったものの名前を

その瞬間から永久に思い出すことがないのなら

もっと子どものように日々は新しく

喜ばしい歌だけで満たされているのだろうに

今朝 私はしきりに振り返る

風景のどこかが深く欠けているようで

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砂漠の真ん中で


砂漠の真ん中で

子どもは

いきなり砂遊びを始める

いつ終わるとも言えない時の流れを

最後まで黙って待つことができるのは

一体誰だろう

子どもは

砂を掘り 砂を固め続ける

結局何も作りあげることができなくても

意味を求めることなく

最後まで黙ってそばにいてあげられるのは

一体誰だろう


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炊飯器


明け方 タイマーを仕掛けた炊飯器が

ひとりでにご飯を炊きはじめる

ゴボゴボいっている

カチカチ鳴っている

ひとりで一生懸命ご飯を炊いている

十年間ずっと炊き続けている

炊けた後小さくピピピといい

保温になって静かに待っている

朝になってそれを食べる家族は

どんな風に変わってきたか

小さな茶碗は一回り大きくなり

スプーンでさえこぼしていた指は

長い箸を器用にあやつる

大げさでもなかったはずの夢は

湯気のように立ち上り

かき消され乱され拡散し

真っ白に どこへ行くのかわからない

朝 そしてまた次の朝

炊飯器の中では

白くて甘いご飯がいつも炊けている

人はそれぞれに食べる

黙々と食べる

からっぽの弾倉に

白い散弾を詰め込むかのように


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寂しくて


いつもはいじめてばかりの猫を

少年は今日

静かに胸に抱きしめる

猫よ

もう少し

少年に抱かれ続けていなさい

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サル山

サル山のてっぺんで思っていた

鼻の穴がくすぐったいな

風が吹いて首筋の毛皮がざわざわしている

だれか背中のノミを取ってくれないか

岩肌にバナナのにおいの光が射しこむ

大切なものが壊れてしまったときには

冷や汗が乾くまで

黙って岩の上に座っているのがいいさ

きみは地面の下の方で

まだ何か探し物をしている

ぱんぱんに膨らんだ鞄なんか放り出して

いっそきみも

サルになってしまえばいいのに


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笑顔の意味


うれしくてたまらない犬の尻尾のように

抱き上げられて喉を鳴らす猫のように

それがわたしにとっての

きみの笑顔の意味なのだから

きみは幼い頃

どんなに声たてて笑ったことか

くすぐっては笑い

同じ言葉を繰り返しては笑い

いなくなった顔をまたのぞかせては笑っていた

「あの頃は何も考えてなかったから」ときみは言う

泣きべそよりも笑い顔の方が心に残る

少しでもきみが笑っていてくれると安心する

新しく何かを考えはじめて

風景はどう違ったのだろう

何も考えなくていいとはもう言えない

何も知らなくていいとも言えはしない

両の鼻の穴にストローを突っ込んで笑っている写真

それがどんなにはかなく消えやすい春の幻であったかを

それぞれが今にしてかみしめている

丘の上のコスモスが

小さな風にそっと揺れるように

まずわたしが手本を見せてあげよう

どんな思いを心に抱えていても

笑うことはできるのだと

わたしの尻尾はパサパサ揺れているだろう?

わたしの喉はゴロゴロ鳴っているだろう?

きみを安心させてあげるために


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アリの行列


足音だけしかしなかった

ばたばたと

だれも何もしゃべらなかった

前を行く者の後を追いかけ

後を追いかけ

最後にはどこにたどり着くのだろう

この列をはずれたら

だれかが探しに来てくれるだろうか

途中で踏みつぶされたなら

誰かが泣きながら弔ってくれるだろうか

長い長い道だ 車も電車もない

おまえが悪いとはだれも言わない

おまえは偉いともだれも言わない

たぶん列をはずれてトンズラしても

だれも文句は言わない

こんなに自由なのに

列を離れることができないのは

どうしたことか

前を行く者の後を追いかけ

後を追いかけ

いつのまにか最後にはたどり着いている


小さくて深い穴の中へ



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給食

給食が全部食べられなくて

休み時間も片づけさせてもらえなかったと

家に帰ってきて沈んだ顔で言うから

連絡帳で先生に

「居残りはさせないで

強制はしないで」と

何度も頼んだ低学年の頃

それが今では

「給食すごくうめえんだ

うちのより三百倍うめえんだ

あんたどっかで修業してきなさい」

「ちくしょう」と思いながらも

「よかった」とも思う

給食が食べられるのも

あと七十日あまり

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流星の夜


夜更けて

ストーブの音で起き出した子どもたちは

メガネの音をさせながら

窓の方へ這っていく

布団をひきずりながら

「今 夢で流れ星を見た

いくつもいくつも降っていて

そういえばいなくなってしまった黒い猫も

その夢の中にいた」と

ひとりの子どもは言う

もうひとりの子どもは

鼻をすすりながら

宿題で何度も観測させられたオリオンを

さかさまから見上げている

金星は硫酸の雲に取り囲まれた灼熱の星

そのほんの外側にある地球は

奇跡のような偶然がいくつも重なって

こんなに不思議な生命たちを産んだのだったね

いま星が放っただろう光がここにたどり着くまでには

もう私たちの存在ははるか昔に消え去ってしまっている

全くお話にならないほど終わってしまっていることを

流れ星は伝えにきた

こんなところにまで

地球の 北半球の 日本の真ん中辺の

この小さな一軒家の

東の窓の中にまで

でもまだここにいるよ

まだバリバリ元気に生きてるんだからねと

こちらからも呼びかけている

砕け散る夜空

水のように流れていく幾筋もの光に向かって

イモムシみたいにおたおたうごめきながら


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本音を言ってしまったら

本音を言ってしまったら

全部だめにしてしまいそうだ

ひどいことを際限なく言ってしまいそうだ

心のままを言ったら

そのまま誰かを殺してしまう

そんな言葉が時々私の心の中にうまれ

それを耐えて言わずにいることで

かろうじて私は

赤い血を保っている


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祈り


あの時は

ペルセウス流星群だった

わたしは

ひとり真夜中の庭に

しばらく立ち尽くしていた

ただ自分の願いだけを抱えて

そしてこの今の流星群の下にいて

わたしは

もうひとりではない

忙しく祈っている

見えない流星までも数に入れて

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手紙


日の当たる枯れ草の土手に

見知らぬ青年はすわり 背を丸め

一通の手紙を読んでいる

そのそばで

光に向かってすっくと立つ青い目の犬

悲しみは必ず終わり

あるいは馴れあっていけるようになるから

わたしは

瞳揺るがせず

鼻歌でも歌い出しそうなふりをして歩いていく

きちんとした散歩の作法で

夕暮れに近づいた川辺で

けれど

彼が受け取った手紙には

何かとてもよいことが書いてあって

本当に晴れやかな顔で

彼がわたしを後ろから追い越していってくれることを

遠ざかりなから願っている

彼の後を走る青い目の犬は

わたしを振り返りざま

その時 ニヤリと笑うだろう


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元旦

太陽と月は

一日中まるかった

大急ぎで走っていった韋駄天神社の石段は

去年もこんなに急だったか

あわてて投げた銀色のコインは

威勢よく跳ね飛んで

石畳の上を転がっていく

鐘を打ち鳴らして祈る言葉は毎年同じ

落ち込む罠は

そこかしこで手ぐすねを引く

ここはひとつ裏をかいていこうじゃないか

ほら 韋駄天の神よ

靴ひもが解けかかっているよ

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たまごボーロ


たまごボーロをひとつつまんだ

ただそれだけでほほえみがこぼれた

赤いクレヨンで意味ありげな線を引いた

ただそれだけで希望はふくらんだ

覚えたての言葉で私を呼んだ

あの時確かに

きみの母親になれたことが心からうれしかった

きみはでべそだった

きみは太り過ぎだった

きみは最高にかわいかった

心配事もあったけれど

ひとつひとつ乗り越えながら

ここまで大きくなったんだね

きみはきっと大丈夫

これからも越えていける

だってあんなに続いた熱も

全部やっつけてこれたんだから

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冬の大三角


冬の大三角は

シリウスと

プロキオンと

ベテルギュース

星座盤に引かれた線は

夜空の上ではすべて隠されている

今 小型機が

白い明かりをチカチカさせながら

ゆっくりと三角形の間を飛んでいく

たとえばあのパイロットの

知識 感覚 感情

帰るべき地上

揺れ動く計器

コクピットの中の彼は(または彼女は)

どんな息遣いをしているのか

計り知れない位置エネルギーに包まれて

私たちは

どことも言えないある一点で

光となり

影となり

飛行機は善と悪の狭間を飛ぶコウモリのように

黒い姿を広げている

地上は風もなく

家々の明かりと車の明かりが

あたりを快活に照らしている

私はコンビニの近くから

取り残された冬の大三角を見上げている

今すぐ傷を負いそうな温かな首筋を

むしろ牙に歯向かって差し延ばしながら

私は正しくない 誰も正しくはないと

小さくつぶやいている

裁きのコウモリが遠く飛び去ってしまうまで

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深夜 藤の木を伝い

二階のベランダから帰ってくるきみが

全身にまとっている夜露は

霊的な防護のように冷たい

too~to …や、so~that…の構文とは永遠に無縁な

完全な主語としてだけのきみは

目的格の存在をはじめから知らないかのようだ

きみの目は

ちぎれない花を見分けることができる

きみの口は

愚かなうわさに対する味覚を持たない

無造作な寝床の中で

きみはいつも

『Ⅰ』そのものである


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氷を見に行く

朝になって

氷を見に行く

きのう仕掛けておいた

空き缶の中の

小さな四角い氷の板を

濡れながら欠け砕けて

はかなく浮かび

うっすらと形を無くしていく

あえて耐えようとする手のひらの上で

冬はいつでも

こんな風に始まった

郵便受けがカタンと鳴った

霜を乗せたスコップはささやく

思い出して

霜柱を踏んでまわった

赤い長靴のころのことを


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てのひらで


赤ちゃんが

ほほを触るから

お化粧もしない

眠ろうとする

小さなてのひらで

わたしのほほは

まあるく包まれる

追いかけてくるふたつのてのひらで

わたしの両のほほは

弱くはさまれる

赤ちゃんが眠ってしまうまで

わたしは

甘く囚われている

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帰り支度

渡された箒の柄に

かすかなぬくもりが

落ち葉サラサラと

まだ明るい夕暮れに

にっこりお辞儀をしてから

帰り支度

明日また

軽く降り積もっている落ち葉

箒の柄は

今日より冷たくなっている

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花びらのかたち


笑おうと思ったなら

今すぐ無理にでも笑える

泣こうと思ったなら

何分か待ってもらえるなら

泣けるかもしれない

今の本当の感情は何だろう

頼りなく湧き出て

移ろう淡い気配

この薄緑色のけむりは

切り立つ断崖のかたちにもなる

深い谷底のかたちにもなる

それならば

ゆるやかな平原に

流れ散る桜の花びらのかたちになれ

最初からそのかたちであったかのように

揺らぐ感情を

花の色で塗りつぶすまでに



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いつから熱を出さなくなったろう

使わなくなった体温計が

引き出しの奥へ奥へと隠れていく

子どもの熱は

いつも どれも

悪い大きな病気の前触れのように思えた

小さい頃は

数字が示す意味は命の意味に近かった

今 命はどこに行ったろう

計るすべはもう体温計ではない

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森の奥で

野生の藤が一房

森の奥で

空の高くを涼しく見つめながら

ほっそりと身ぎれいに咲いている

誰にみつけてもらわなくても

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葡萄畑の方へ

地平線の向こうでは

農夫が馬を引きながら

ゆっくりと家路につこうとしているのに

今 目の前のあなたは

なんと忙しく なんと多くを

まくしたてていることか

私はペンをくるくると回す

水平線の向こうでは

若い娘が水を汲みに

川の方へ歩いていこうとしているのに

あなたのスケジュールは一杯だ

私はペンを机にコンコンと打ち鳴らす

もうまっぴらだ

あなたの一瞬の隙をついて

私はもう

甘い匂いの葡萄畑に向かって走りだしている

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尿結石の猫

尿結石の猫は

今日からくさい治療食に変更だ

匂いをかぎかぎ

しぶい顔で

明らかに気が進まない様子で

仕方なく食べている

だっておまえ また注射器で

尿を抜かれたいかい?

診察台の上で

恐怖にぶるぶる震えたいのかい?

何ゆえにこんな仕打ちを? と思っているだろうが

これも愛だ

愛とは

今 笑っていられればいいというものではなく

遠い未来にきっと甘くなる 今はひどく苦い薬

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さよなら 向ヶ丘遊園地

桃色の飛行船が空の高くを回る

大丈夫 忘れないよ

霧雨が降っていた観覧車

遠く壊れそうな白い色の中で

私の鼓動はまだ

おもちゃのピアノのように

浅く弾んでいた

天使が葡萄の房をつまむ

白い女神が裾をひるがえす

少女の髪から春の風が生まれている

あの日私は笑っていた

賑わいの中に紛れて

みんなと同じように笑っていた

回る回る水底の大きな貝

泡を吐き出して真珠を転がす

終わらないと思っていたものは

いつか終わり

変わらないと思っていたものも

いつか変わった

なにかが 誰かが

今日 さようならとつぶやく

しぼみかかった風船を握って

さようならとつぶやく

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猫の運命


チビは何度も病気をし

何度もケガをする猫だった

去年の一月 更に難しい病名をつけられて

今年いっぱいは生きられないのかもしれないと

密かに胸を痛めていた

それに比べてチャッピーは

病気もケガも全然しないから

きっと長生きするね

手のかからないいい子だねと思っていた

あれから一年が過ぎてまた一月

チビはまだ元気に生きている

けれどチャッピーは秋にいなくなって

死んでしまったのかさえも分からない

どこで運命は入れ替わったのだろう

チャッピーはその朝

もう二度と帰れなくなるなんて

きっと思いもしなかったに違いない

何かを自慢したり

何かを嘆いたり

そんなものにいつまでも囚われている愚かさ

良くも悪くも

明日にはガラリと変わってしまうかもしれない猫の運命と

たいして変わらないのに

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