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第17詩集 人知れず



今私は

どこにいて

どこに行こうとしているのか

プラタナス並木に日は当たり

ひらひらと葉は揺れる

つまりそれは

秋の陽射しではあるけれど

季節の定義さえ疑わしくなるような

瞬間の覚醒の中で

私は突然はるか上空に浮かび上がり

信号の手前で立ち止まっている自分の姿を見下す

あそこにいるのは

ただの点にしかすぎない と

点であるなら

余計な感情は慎もう

今までむやみに謝りすぎてしまったほどだ

乳母車の奥で無防備に眠る幼児の

ポッカリあけた口の中にも

理由や言い訳はぎっしり詰まっている

点にしかすぎない

ただの点だ

もうこれ以上壊されようのない点

よく晴れて

すみずみまではっきりと見えている

点の無神経さで

直線移動も 回転運動も

上下浮遊も

つまりお好みのままというわけで

秋空の呼吸

質量ゼロの心地

フッと飛ばされそうな軽い散歩

あの言葉もこの文字も

命に関わる一歩手前で

どこか知らない他人の責任

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マンモスの匂い


匂いがしていた

洋品店の店先から

合成繊維の

きなくさい粒子結合の匂いが

文房具屋からは

溶かされた樹木に混ぜられた

ひんやりした糊と染料の匂いが

美容院からは

消毒液が吹き付けられた

動物の毛皮の匂いが

風は

だるく

すべての匂いを抱き込んでいた

ここが大昔

何もない草原だったとき

どこまでも見渡せる平原だったとき

そのときのように

息を吸ってみる

石斧を握りしめ

今私が飢え切った原人だったなら

岩山の向こうにまで

鋭い嗅覚を届かせていただろう

草原の蒸気と

太陽の照り返し

そこに当然あっていいものの

当然な匂い

この鼻だけが知っている

狩りの狙いは

ただ単純にうまそうな

ただ豪快に手強そうな

世界一でかいマンモスの匂い

コンクリートを分厚くはがして

ほとんど裸で

深々と呼吸している

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人知れず

あなたが人知れず泣くとき

私は人知れず猫をかわいがっているだろう

あなたが人知れず町を歩くとき

私は人知れず洗濯をしているだろう

あなたが人知れず空を見上げるとき

私は人知れず歯磨きをしているだろう

あなたも 私も

人知れず生きている部分がある

ドスッと踏みつけられた蟻は

人知れず「ぎゃ!」とか言っていたりして

さらっと散った花びらは

人知れず「グッバイ」とか言っていたりして

私が疲れて黙り込むとき

あなたは愉快そうに笑っているだろう

本当に笑っていればいいなあ

人知れず今 そう思う

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クロ

クロはどこへ行ってしまったのだろう

やけに毛が抜けるやつだった

尻尾の付け根にケガをして

あとがハゲてしまっていた

むくむくとでかいやつだった

すぐに人の足元で

ごろんと寝転がるやつだった

ひとりぼっちで

真っ黒な顔をして

任侠で義理人情な目つきをしていた

やっと春になって

寝場所の心配もいらなくなったというのに

きっと嫁さんでも探しに行ったんだよ

どこまでだって行きそうなやつだったから

遠くまで行ったんだな

そう思うことにしよう

そう思うことにしたんだよ

「死に目に会う」ということを考える

死んだことさえ知らないままに

すべてがきれいに乾いてから

「あ そういえばあの人どうした?」という感じで

知らされた方が

ずっと痛みも少ないのでないか

少なくともその場では

猫のいなくなり方は

じつにいい

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クロではなく  飼い猫のそばで

逆光で

ワープロの上にねそべっている黒い猫を

視界の隅に入れながら

一冊の詩集を読んでいる

黒猫は目を閉じると顔がなくなる

縁取る斜線のうぶ毛を

触れることもなく時折ながめやる

今日はワープロは開かずに

黒猫の寝床にしてあげよう

理論や理想は

白日のもとで語ればいい

ただこの感情は

つかみどころなく迷い

黒猫のふところにもぐり込みたがっている

冷静な支配権を右手に

偉大なる沈黙を左手に

意志の弱まりを胸に

詩よりも猫

そんな日が昨日から今日へと続いている

わずかの曇りをぬくもりに

猫のいねむりのそばで私は

きわめて硬派な詩を読んでいる

それはもうほとんど眠ろうとする努力

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滑稽

私は私の程度を生きるしかない

そう思うことの悲しみと滑稽

しかも今「稽」という字が思い浮かばず

わざわざ辞書を引く始末

こっけいはコケコッコーに似ている

そういえば私が以前飼っていたニワトリは

決してコケコッコーとは鳴かなかった

子どもが決してえーんえーんとは泣かないのと同じように

そのニワトリは近所の農家からもらった小さなチャボだった

ニワトリは馬鹿だ馬鹿だとよく言われるけれど

私のチャボは私のことをよく分かってくれた

いつも真剣な目で慕い寄ってくれた

頬ずりするとニワトリの匂いがした

彼女が突然死んだのは浅い春のことだった

私はその時本気で泣いたのだ

声も立てずに胸の奥から泣いたのだ

友だちを永久に失くしてしまったのと同じくらいに

そんなことも

まさしく滑稽なことだったに違いない

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電話

電話をかけてきてくれた友人が

いきなり

「なんだっけ 用件忘れちゃった」と言って笑ったとき

私はすっかりうれしくなる

無防備でいてほしい

安心していてほしい

何の用意もしないで

ボケボケで意味不明なままで

ごまかし笑いをしながら

他愛ない馬鹿話ができたらいいですね

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無常

無常という言葉を習ったのは

高校の古典の時間だった

解答用紙に「無常感」と書きながら

本当の意味は何も分かっていなかった

雨にぬれたかわら屋根が

熱帯性低気圧の不安定な風で乾いていく

再びは同じ時間はめぐらない

それは安堵に近く

恐怖にも近い

否も応もなく

梅雨は終わり夏が来る

何度繰り返しただろう

終ってしまったこと

始まってしまったこと

終りつつあること

まだ続いていること

終わらせたくなかったこと

始まらせたくなかったこと

忘れていくことの幸福と不幸

思い返すことの喜びと悲しみ

それは救いに近く

懲罰にも近い

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夏のテーブル

夏のテーブルに

アブラゼミの死骸ひとつ

ヒグラシの死骸ひとつ

麦茶を飲んだコップふたつ

窓からは入道雲が見えていて

乾いた白い洗濯物が揺れている

宿題は

何かひとつ自慢できること

私の机の上には

おみやげのクッキーひと箱

撮り終えたフィルム一本

夕暮れにならなければ

暑くて思うように動くことができない

昨日 ツバメの子は巣立ち

巣から離れたあとも

まだ電線の上に四羽並んで

エサをねだる声をあげている

君たちにとって

そこまで生き延びられたことが自慢?

普遍的なことや概括的なこと

猫の気持ちや犬の気持ち

何をどう表すかなんて

冷たい一杯の飲み水ほどの価値もない

何よりもさっぱりと気持ちよくなければ

意味がない

言葉が言葉以上にならないのなら

そこから始まらなくてはならない私の宿題は

面倒くさいとか かったるいとか

そんな次元で目をそらしていられるものではなく

一生ついて離れない

そんな宿命めいた宿題のような気がする

さて 夏が終わったときに

今年の宿題として

君たちは(私は)何の自慢を提出するのだろう

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人見知り

君は笑わなかったね

話しかけても

少し不愉快そうだった

どうして気になるのだろう

君が何を考えているのか知りたい

たぶん

笑っていたとしても

笑い顔の通りの気持ちではなく

泣いていたとしても

泣き顔の通りの気持ちではない

複雑な兵器をながめるように

遠巻きに手も出せない

君は私を怖がらせる

微笑んだり挨拶したり

お礼を言ったり謝ったり

お天気の話とか体の具合の話とか

お世辞を言ったりへりくだったり

そんな上っ面なお体裁を

ちっともしてはくれないから

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梅雨のせい

髪の毛がくるくるに乱れる

電球のほこりがしっとり落ち着く

赤茶けた木箱の中に

樟脳の匂いと共に

やるせない黄昏をしまいこんだ

物語は

気がかりを残した場所に

すぐに戻ってしまう

それは

梅雨のせい

紫陽花の大きな花束が

あちこちに寂し気な罠を張る

髪の毛が どうしても髪の毛が

歪んで跳ね上がってしまう

それだけで

気分はもつれていく

会う人ごとに

無意味な言い訳を添えて

自嘲の苦笑いをしてしまう

溜め息の次の言葉はいつも

(   )の中に入りたがっている

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海音のない海

また同じ海に来た

風はなく

トンボが空を群れ飛んでいた

砂浜をアリが歩く

海草が浜辺に

ベットリと打ち寄せられている

カモメが何羽も

浅瀬を歩いている

大きな魚が

重そうに飛び跳ねる


遠くで漁船のエンジン音がするだけで

そういえばセミの声もよく聞こえて

ここは海音のない海

何かが腐っている

ハトがエサを探して

熱い砂浜をうろつき

海に足を踏み入れれば

小魚が逃げ回る

なまぬるい匂い

白いクラゲが横になって泳ぐ

監視所のアナウンスが流れる

「八時四十分が最大干潮・・・」

足首まで透き通っている

カヌーを練習する若者の掛け声

海鳥の白い羽毛が

あちこち漂う

浅くぬるく波もない

揺らめく海草の端ぎれ

光が波の模様を

一面に描き

足跡も道もなく

ここは海音のない海

アサリの貝殻を踏みながら

歩いていく

少しも深くならない海の向こう

黒いタイヤの浮き輪の上に

小さく焼きついた太陽

どこまでも無音の海 

風さえもなく

濡れたまま

いつまでも乾いていかない

夢の中で溺れていくように

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足ひれピエロ

「わたしの結婚の日に

あなたの詩をひとつください」

注文する側は

あくまで清々しい笑顔で

けれど注文された側は内心冷や汗たらり

頭の中をにわかに

黄色い足ひれをつけたピエロが

ドタドタと音立てて走りまわりはじめた

きらめく言葉

幸福な言葉

静粛な言葉

一番難しいシチュエーションに

大いなる感動を呼ぶには

不真面目な遊び心はタブーでしょうか?

私の頭の中

ただ今 花が飛び出す水鉄砲を仕込み中

当日 もしかして大はずし

詩なんて聞かされても半笑い

そんな人も多いだろう

場の空気がすっかり冷めてしまったなら

足ひれピエロの愛嬌でご容赦を


そのうち胃も痛み出して

晴れの日に贈る詩は

美しい韻を踏みながらも

私の命からにじみ出た血で

ほんのりピンク色になっている

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どう答えれば

「本気で死にたいと思ったことある?」

君に訊かれて

正直に答えることができなかった

どう答えればよかったのだろうか

どんな答えを

君は望んでいたのだろうか

「死よりも暗い絶望」 そんな言葉が

大学の大教室の机の一つに刻まれていたことを思い出す

その人は その絶望をどう癒したのだろう

「本気で死にたいと思ったことある?」

子どもにそう訊かれたら

ふふんと笑って

ごまかすしかないだろう 誰だって

笑えているのだから

それがもう答え


大教室の机の書き込みに胸が衝かれ

しばらくその文字から目が離せなくなっていた

あまりにも死に近づきすぎていた

そんな若い時期もあったけれど



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痛み

右の上腕部の外側の筋肉が

今 少し痛むのは

そう 昨日何通もの郵便物に

スタンプを押したせいだ

痛まなければその部分を感知しない 

痛まなければ体を思わない

痛まなければ心のありかも分からない

痛みあるところを探る

回復しようと

何かの化学変化が

しきりと起こっている

そこが今最も生きている部位だ

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