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第26詩集 虫の触覚


本当のところ

神は

人が背負いきれない荷は負わせないというけれど

時々 そうではないだろうと思う

テレビニュースや新聞記事を見ていて

ひとりの人間が負う罪としては

また耐えなくてはいけない運命としては

あまりに苛酷すぎるのではないかと思うことがある

仏教を熱心に説く人に

それこそが

因果応報だと説明されることもあった

過去世に悪い因があれば

現世に必ずその報いが来るのだと

知ったこっちゃないね過去世なんて

ただわかっていることは

ものすごい理不尽と不条理と不平等は

確実にこの世に存在しているということだけだ

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別人


性格テストによると

過剰順応気味なので

いろいろ安請け合いしたい気持ちを

いつもグッとこらえている

特に必要とされていない集まりには

少し遅刻するようにしている

良妻賢母型と診断されたこともあったが

そりゃないな ほらこのとおり

私はどんな人間になりたかったのだろう

学年が変わるたび

学校が変わるたび

住居が変わるたび

少しずつ人格改造を試みながらも

人前での発表はやっぱり苦手

地道な裏方作業がやっぱり得意

理想の別人にはなれないと観念したので

今も変わりなく

これからも変わりなく

この性格を生きていくのである

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飼う


昔 犬を飼っていた

最初の犬は白い雑種で

雪遊びの写真の中に

かしこまって座っている姿しか

記憶に残っていない

ま私は幼すぎて

白いチャボも飼ったことがある

もらわれてきた時は

やせて首が長くて

羽毛もはえそろっていないようなヒヨっ子だったが

それが夏になっていきなり

私の目の前で卵を産んだ

小さくて濡れていてあたたかな卵だった

いろいろな生き物を飼った

ハ虫類以外は大体飼った

飼った数だけ死なせてしまった

悲しみの大きさは

飼ったものの大きさに

ほとんど比例していた

猫がいなくなった

死んでいるとも言い切れず

悲しんでいいものか分からず

鈴の音が元気に駆けこんで来はしないかと

いつも外に向かって耳を澄ましている

悲観か楽観か この気持ちをどうしよう

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だからどうすればいい

どんなに愛を尽くし

心を尽くし

身を清くしていても

悲しい事や

不具合は

容赦なく起こるのだし

頑張ったから

頑張ったなりの成果

といった正当なあり方から

全くかけ離れた世界にあるのでしょう

運命っていうやつは

以前 お姑さんがお坊さんに

「いいことをいっぱいすれば

いい死に方ができますか」と

訊いていたが

「そんなことはありません」と

あっさり斬り返されてしまっていたし

ほどほど穏当に生きているはずと思っていても

油断ならないな

この世っていうやつは

愛猫も前触れなくいなくなってしまったし

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今日のババシャツ


誰も気づかないだろうが

実は私は今

ババシャツを後ろ前に着ている

首のところに違和感がある

暑くてトレーナーを脱いだら

中に着ていたTシャツが

見事に裏返し後ろ前だったことがある

これは人に指摘されるまで気づかなかった

別にどうでもいいのである

後ろ前でも裏返しでも上下さかさまでも

私はそんな人間なのである

「からだは衣服にまさる」

という言葉もあるではないか

「命は食物にまさる」

とも

究極の事態に耐えられる中身であるか

目下の興味はそればかりである


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春は


庭にある小さな池に

今年も大きなガマが来て

顔に似合わぬかわいい声で

夕暮れ時に鳴いている

買ったり整えたり

揃えたり数えたり忘れようとしたり

春はいろいろなものの更新の時期だから

いつも少し疲れてしまう

咲く花の健やかな勢いにも

ついていけない気がする

ガマは卵を産み終わったあと

空虚な感じに苛まされないだろうか

生まれてくるのを見届けることなく

いつのまにかどこかへ行ってしまうけれど

春はいろいろなものの更新の時期だから

意識が衣を脱ごうとしてしまうから

細胞が勝手に動き出してしまうから

強いて

たくさん眠らなくてはいけない

ぼんやりしていなくてはいけない

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見る


鉄橋のすぐ下の河原に

小さな子どもを交えた家族が

弁当の包みを中心に据えて座っている

広々と向こうまで誰もいないのに

わざわざうるさい鉄橋のそばを選んで

子どもが電車を見たいとせがんだのだろうか

見るというなら

見られることにも耐えなくてはならない

電車の中から見下ろした視線は

見上げる家族らの視線とぶつかりあい

一瞬のうちに挨拶を交わす間もなく

大きく離れていく

見たと感じ

見られたと感じる

そのバランスは必ずしも同等ではなく

たやすく中心をはずしてしまう

あの子が見ていた電車

私が見ていた家族

電車が抜けて行く風景

見られていたものは何だったのだろうか

私の一瞬の意識は

諸々の視線を跳ね返せるほど強くはない

肩口でかわそうとして

白く煙る桜の堤を眺めやる

深度の計れない春の淡さに

すべてを逃がそうとして

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春の天気

今日は朝から風が強くて

お隣のご主人の白い股引きが

物干しざおからはみ出して

大きくはためいている

出かけなくちゃいけないのになあ

自転車進むかなあ

あまりに股引きがはためくので

お隣の奥さんも気づいて

股引きを取り込みはじめた

おっと風に混じって

小雨も降ってきたようだ

出かけなくちゃいけないのになあ

でもこういう雨ってすぐ止むからなあ

空もまだらに明るくなっている

雀も柿の木で鳴いている

だから

うちは洗濯物取り込まないよ

あとちょっとしたら

出かけるよ

なんて言いながら自転車で出かけたが

しょぼしょぼと雨はやまず

やっぱり途中で雨カッパを着るはめになった

洗濯物はしっかり取り込んでいった

ナイス判断 私!

と思いながら帰ってくるころには晴れてきて

お隣の家ではまた白い股引きが

ヒラヒラと干し出されている

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忘れるということ

十数年前の日記を読み返してみたら

どうやら私は相当な剣幕で

君をなじったりどなりつけたりしていたらしい

君がわあわあ泣いて謝っているのに

日記の中で私は

母親としていかがなものかといつも悩んでいた

しかし今ではそんなことはすっかり忘れてしまっている

君も全く覚えていないという

それは

すべてがこなされて穏便に解決していったということではない

更に多くの出来事が重なって

昔のことはどうでもよくなっていったということだ

時がたつとはそういうことだ

今のあれやこれやは十数年後にはどうでもよくなる

どうせ忘れていくのだから

悩むだけ損だ

しかしそれを本当に理解するのはやはり

十数年後に日記を読み返した時だけなのだ

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いなくなった猫

あんなに愛した猫が

いなくなってもうすぐ1か月

思い出すというには

まだあまりにも生々しい冷えたままの寝床とか

茶色い毛が細かく張り付いたままの椅子とか

出し放しのエサ入れとか

地球上で生まれ

地球上で死ぬ

ただそれだけのことなのに

積み重ねてしまった絆のために

何億光年も遠ざけられてしまったかのようだ

娘が一番あの猫を愛していた

いなくなったらどんなに嘆くかと

ずっと以前から気にかけていたが

さんざん探し回った後は

思いのほか淡々と過ごしている

かなしみの量は

目に見えない

笑っていても

それはよろこびの量を表しているわけではない

隠されているものを思いやり

今日も家族は淡々と過ごす

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忘れるということⅡ

十年前の日記に

「これこれの本を読んだ

なかなか感動した」

などと書いてあるが

私にはその作家の名前も本の内容も装丁も

まるで記憶にないのである

夫が

「あの場所に一緒に行ったことあるよな」と

テレビの旅番組を指さすことがあるが

「あれ? 行ったっけ?」と

その地名にも風景にもまるで覚えがないのである

子どもがいる

この子に関しても

かなりの部分を忘れているに違いない

私がいる

それ以上に自分の何たるかの大部分を

忘れているに違いない

覚えすぎていることよりも

それはよいことなのだ

付随して失ってしまったものの大切さに比べてみても

それはよいことなのだ

覚え続けていたら耐えられない

そんな記憶もあったに違いない

「何かあったっけ?」と

今はぽっかりと何も覚えていない

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通りすがり


通りすがりの人が

うちの庭の色とりどりのパンジーを見て

「まあ なんてすてき

だんなさんのご趣味で?

幸せな奥さんですこと」と

声をかけてくる

それに対して私は

「はあ 私も楽しませてもらっています」と

にこやかに挨拶を返すのだが

さては

夏 ものすごく水道代がかかることを知らないな?

花ガラその他の植物ゴミが月曜日に何袋も出ることを知らないな?

うっかりすると毛虫がおぞましくはびこることを知らないな?

でもまあ無粋なことを思うのはやめにして

花壇担当の夫と娘の功徳ポイントが

ぐっと上がっていることに期待しよう

私は草むしりと

木枝や蔓の剪定担当

地味すぎて

誰も褒めてはくれないが

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事件だらけ


毎日いろいろな事件が起こる

個人レベルだったり

国家レベルだったり

あるいは密かなマニアのみが知る

宇宙レベルの大事件だったりして

私は家族と

「これはこうすればよかったんだよ」とか

「こういうことがよくなかったんだな」とか

いっぱしのコメンテーターとなって

何かと論評を下したりしているが

こんなにいいお天気なのに

いいお天気だと感じる事もできない人もいっぱいいて

いることは知っているし

自分だってそんな時期もあったし

だからと言って

そんな人たちをどう救ったらいいのか

個人レベルだったら何かできそう

国家レベルだったら

国際関係論その他を慎重に学んでからでしか

ものが言えない気がする

宇宙レベルだったらこれはもうお手上げ

救い合って

腹を割って

利害愛憎をとにかく一度凍らせて

悪意欲望もとにかく一旦眠らせて

ただただやさしく生きよう

全世界 全宇宙の人々が

一斉にそう思ってくれはしないものか

みんな 思って! 思って!と

ひとりでここで強く念じている

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小市民

自分が有名人でなくて

つくづくよかったと思う

有名人だったなら

誰とつきあっているとか

破局しただの

結婚前に妊娠しちゃっただの

予定より早く出産しただの

その赤ちゃんの顔はどうの

どこの学校に行ったとか

借金したとか

離婚したとか

病気で倒れたとか

死んじゃったとか

いちいち報道されてしまう

人間 めでたいことばかりではないのである

賞を取ったとか

合格したとか

絶賛を浴びたとかいうことばかりではないのである

自慢している口が

次の瞬間にもねじ曲がるのである

有名人 大変だなあ

小市民 バンザイ!

今日も気軽にずっこけていられる


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多摩森林科学園にて

たぶん今年はこれで最後の桜を見に行く

木々にくくりつけられた

説明書きを読んでみれば

桜にもいろいろあって

匂いのある桜

上を向いて咲く桜

二度咲く桜

純白や紅色や緑や黄色に咲く桜

知らなかった

そんなに種類があるなんて

ここにあるのは

各地の著名な桜のクローン

自然そのもののあたたかい森のようでいて

大事な部分が

冷たいメスでいじられている

今日も夫のカメラの

重いレンズ持ちをさせられた

崖の近くでレンズ換えをしては駄目

十五万円もしたんだよね

しまった 銀レフ忘れちゃった

などと騒ぎながら

桜の風はほのか

人のにぎわう彼岸桜の並木道

今年の花見はこれで最後

最後ばかりはしめやかに

花を見上げてまたいつか


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夢を見た


夢の中で財布を探り当て

パンを買うことができた

パンは丸っこく

あんこが入っていて

私は心底うれしいと思いながら

食べたのだった

そのすぐ後で

別の夢を見た

大切な人のお見舞いに行き

病室を出て

暗くて湿っぽい廊下の先の

狭いエレベーターにひとり乗り込んで

私はポロポロ泣いていた

明け方の夢はリアルで

いつも少し痛ましい

私は

おいしいあんパンを食べた幸福と

泣かずにいられない気分とに

心かき乱されながら

その朝 目を覚ましたのだった

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気分回復

せっけんを使った手で

本のページをめくると

めくるたびにいい匂いがする

うれしくなって手でひらひらと更に風を作る

念入りに歯磨きをする

どの歯もつるつるに

舌の奥までさらさらに

これなら誰とキスしても平気という程にまで

良い気分の素は

顔を洗ったり

歯を磨いたり

掃除したり

着替えたり

散歩したり

ということの中にあるんじゃないかな

単純なる生活行為の中に

洗濯機の中を覗きこむ

二層式の壊れかかったやつだ

ぐるぐる回っているのを

時々見に行きながら鼻歌を歌う

毎日の洗濯ができるのはいいことだ

毎日の掃除ができるのはいいことだ

毎日の料理ができるのはいいことだ

面倒くさくても

とてもいいことなのだ

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