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第32詩集 バリトンの声


バリトンの声を持つ人を

背中の耳で聞いていた

よく響く弦楽器のような

学びあう学生たち

カフェテリアの午後に

組み立てたものを

ゆるやかに崩しながら

淡い冬の雲が行く

離船の時…

「さようなら」を言うならば

ドイツ語で

あの張りのある低い声で


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初雪


降る雪を見て

なぜこんなに白いものが

あとからあとから降ってくるのか

不思議でたまらないと

今年はじめて気づいたかのように

言う君は

息を切らし ほほを赤くしながら

みつめすぎてはいけない

雪粒のひとつひとつの行方までも

宇宙の奥がどうなっているのか

それと同じ果てのない問い

雪だるまが

あちこちに立ちはじめ

町は少しだけにぎやかになる

冷たく凍えても

すぐあたたまる子どもの手

雪玉の握り方も

小鳥をいだくかのように

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電線

写真を撮る人は

空に電線が何本も張り巡らされていると いくらその遠くに美しい山がそびえていようとも

写真を撮るのをやめてしまうものだが

空に描かれた筋の

その太さとか細さとか

たわみ具合とか

幾何図形のような線のありようだけを見ながら歩いていると

それも美しいと思えてくる

灰色のポリバケツみたいなものが

電柱の上のほうに張り付いている

夕陽を浴びた郷愁のようなもの

こんなに網羅された線でつながれているのに

何もつながっていないかのような家々

誰もが他人だけれど

瞳を合わせればきっと通じるものもあるだろう

今わたしはカラスの目で

電線を綱渡りしている

羽根を広げて大きく揺すれば

すぐにこの高さにも慣れそう


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試験

子どもたちは

学年末試験を控え

それぞれ

覚えたての言葉を口にしている

「全か無か」

「樹状突起 シナプス」

これ、なんか、かっこよくね?

とか言いながら

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三歳の時のように

色のついたことばを順に並べて

ひとつひとつ裸足で踏みつぶしていった

きれいに組み立てられた方程式を

強い水鉄砲ではじき飛ばしていった

生まれた時から逆らっていた

おへそを出して そっくり返って

銀色の飛行機が

白い尻尾を曳いていく

南の空のかなたまで

回り込んで

息せき切って

最後まできっちり見届けてやる

世界はなおも

初めての玩具

振ればシャラシャラ音がしそうな

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後悔している

君が私の夢の中で

「後悔している」と

いやにはっきりと言った

目覚めてからも

その言葉が気になって仕方がない

幾百通りの If only

私にしても

あそこでうなづいていればとか

あそこできっぱり断っておけばとか

あそこで連絡先を聞いておけばとか

行かないでと言っておけばとか

後悔なんていくらでもあったわけだし

君の個人的な後悔など

私には関係の無いことなので

わざわざ私の夢の中にまで出て来て言わないでほしい

そう思おうとしたのだが

もしかしたら

その後悔に私が深く関与している

そういうこともあるのかもしれない

絶対無いとも言い切れない

私は一体君に何をして(言って)しまい

それに従った君が

どんな後悔をしたのか


心当たりを探して

目覚めてからも

ざわざわが後を引いている

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二人

一月のある日

夫が穴八幡神社の一陽来復の縁日に

行かないかと突然誘ってきた

去年の秋も早稲田界隈を二人で歩いてみたのだが

高田牧舎とプランタンはまだあって

おそばやさんの三朝庵もまだあって

だけど

カリー屋もドムドムバーガーも

ビアンカもキッチンおとぼけも

亜羅人もLuckも

まんぷく食堂もなくなっていた

軒並みあった古本屋も

すっかりなくなって

どこもおしゃれな店ばかり

文学部の校舎も建て替えられて

古臭い昭和の名残も消え去っていた


あの透明な孤独を胸に満たして歩いた街

薄汚れたゴミだらけの街

二人で足早に歩いた街はもう

私の古い日記帳の中にしか残っていない

菩提樹の木々に囲まれた穴八幡神社は

いつも二人の待ち合わせ場所だった

お正月の縁日には

また六瓢の根付や唐辛子を売る縁日がたつのだろうか


あれから二十五年たって

信じられないことに

今でもまだ二人一緒にいるし

今年もまた

二人一緒に穴八幡に行こうとしている


夕暮れの穴八幡の薄暗い石段を

胸騒がせながら登ったことを今でも覚えている

二人とも全く若かった

恥ずかしいほど恋もしていた

穴八幡と聞いただけで

今でもきっと胸が熱くなるのだ



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縁起がいい

お正月

小さな川の中に

白鷺が二羽遊んでいるのをみつけて

立ち止まり

覗きこみ

見上げ

振り返り

電線の向こうに

二羽連れだって

軽やかに

飛び去ってしまうまでを

ずっと見ていた

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悪因悪果

息子が猫に追いかけられ

走って逃げる途中

大コケして

ひじをすりむき

足を捻挫

一張羅のジャージに穴が開き

390円のトレーナーが土まみれ

よろよろと帰ってきた息子に

姉である娘は大ウケ

そういえば最近全然転んでないな

転ぶほど走ってないからなと

にやにやしながら一人合点している

昔 私も道で大転倒し

そばを歩いていた宗教かぶれの友人に

転ぶというのは「悪果」

悪果が出たのはこの道を歩くという「縁」を

君が選んでしまったから

「悪果」には必ず「悪因」がある

などと講釈をつけられ

大憤慨したものだが

あっ スカート白くなっちゃってるよ

気を付けてね(にこっ)に

更に激怒したものだが

転ぶということのなつかしさ

いきなり天空が目に入ってくる感じ

地面にがっちり体を受け止められている感じ

ひりひりした痛みさえも

まんざら悪くはない

全然悪果なんかじゃないよと

私は今も思うのである

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みかんの手


お見舞いのみかんをひとつ

目の前でおいしそうに食べてくれた

甘い汁に濡れたその手を

ティッシュでぬぐってあげた

それが

義理の伯父に触れた最初で最後だった

遺影はかわいらしかった

梨畑で作業していた姿が

しきりに思い出された

冬場はいつもひまそうに毎日うちに来て

妹である私の姑と一緒に

黙ってテレビを見ていた

とても静かな人だった


お通夜は冬の寒い日だった

近所だったので

夫と夫の弟とで

ゆっくりと歩いてお線香をあげに行った

そしてまたゆっくりと歩いて帰った

三人とも真っ黒な姿なのが

夜に溶け込みすぎて

黒いな黒いなととしきりに思っていた


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あの時だったかもしれない

妊娠・出産の本を

うろ覚えの知識と十数冊の資料本から

なんとかまとめあげようと四苦八苦している今

妊婦の図柄や写真を嫌というほど見せつけられて

そのリアルさに辟易しながらも

ひとつ しきりに思い出される風景がある

二十数年前の雨模様の秋

若き今の夫と雨宿りのつもりで入り込んだ古い郷土資料館

受付にいた小柄な女性が

カビくさく薄汚れた農具や古着について

ひとつひとつ丁寧に説明してくれたのだが

その女性のおなかが

あきらかに大きかった

館の中を一緒に回るそばで

浅い息をしていた

苦し気ながらも晴れやかな風情で

館を出て二人して顔を見合わせ

「おなか 大きかったね」

「もうすぐ生まれそうだったね」

そう言葉を交わしたとき

あの時だったかもしれない

「子どもをもつ」という未来を

二人して初めて意識したのは

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モンシロチョウ

霜にあたった白い野菜の葉陰に

一匹のモンシロチョウが死んでいた

春に生きる者のような体をして

真冬まで生き延びてしまい

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夜の公園

夜の公園に

銀杏の葉が降り積もり

おびただしく降り積もり

月明かりの下

黄金色に光る地面となって

散歩する犬とその飼い主だけが

天の庭の真昼にいるかのように

明るく遊んでいる

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カマキリ

卵を産み付けに来て

しかし産はすみやかには進まなかった

カマキリは

ベランダの桟にしがみついたまま

身動きができない

わずかな泡のかたまりは

カマキリと桟とを結びつけたまま

黒く固まってしまった

そのままの姿で命は絶え

そのままの姿で年の暮れになるまで

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惑星の年越し

明るい鉄さび色の惑星の路上に

電柱の影は長く細く倒れ

露天の八百屋の店先で

山積みのみかんは

ひんやりとしていた

空だけを見れば

夏のような青と白

時は

鈴のついた首輪をはずして

落葉しきった風通しのよい午後を

すばやく歩いていく

誰のもとにも夕暮れは訪れ

誰のもとにも夜は訪れ

しかし

惑星の自転がもたらす朝の周期は

心臓ごとに

違ってはいなかっただろうか

かすかに照り返しはじめる月の随行を

古い電話ボックスの中からながめている

黒い子犬だ

そんな時 足元にいてほしいのは

ひとときも待つことができず

遠くへ行こうとばかりして

じきに

赤い満月も随行してくる

大きな川の上にかかる

鉄橋のあたりに

やわらかなビロードの旗が

振り下ろされる頃には

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将棋の王

息子が小さかった頃

将棋にはまっていた時があった

相手をしてやろうにも

どうにも疎い世界だったので

一からマニュアル本を見ながら

これは斜めに

これは一直線に

これは前後左右斜め前という風に

実力伯仲のどっこいどっこいでありながらも

たまには私が王手を繰り出すこともあり

そんな時 息子は

ちょっと困った顔をした末に

「王は魔界へ帰りました」と

盤上から王をすべらせ

王とともに部屋中を駆け回るのだった

あの時の王は

四角い盤から降りることができて

ちょっとはうれしかっただろうか

追いつめられても

参りましたと言わなくていい

ぽんと抛り投げられた先にも

新しい国を組み立てることはできるだろう

再び息子と将棋を指すことがあるのなら

私も王を遠く逃げさせようと思う

階段の向こう 窓の外へ

異次元の穴の前で王は振り向き

優雅に会釈をするだろう

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寄生

胃にピロリ菌がずっと

きっと何十年も住み着いていて

胃酸の嵐の中でも

巧妙に生き抜いて

宿主が気づかないのをいいことに

大繁殖していたのだろうが

とうとうさっぱりと

お別れする日が来て

わたしの胃は 今

ハタキをかけても

もう 塵ひとつ立たず

しーんと

静まりかえっているのである

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曇りのち晴れ

向こうから

晴れの天気がやってくる

傷ついた猫を自転車の後ろに乗せて

西に向かって歩いていた

おびえながら鳴いていた

目を伏せていたなら気づかない

青空がゆっくりとやってくる

もうすぐ

白い花びらが空中を舞いはじめる

私は誰かを救えているのか

弱く小さな生き物だけでなく

大丈夫だよと声をかけ

繰り返し声をかけ

自転車を押しながら

揺れないように

響かないようにゆっくりと

私は晴れの天気に向かって歩く

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おまつり

何度もおまつりに行ったね

赤いかき氷を食べて舌を真っ赤にしたね

輪投げをして小さなぬいぐるみをとったね

金魚すくいもしたね

はだか電球の明かりが横一列に並んでいた

お面の穴からのぞいた金色の夜道

べっこう飴を透かして見た町に

月食の光が注いでいた

何度もおまつりに行ったね

何度も手をつないだね

行けなかったおまつりにも

小さな君を貼り付けて

プラスチックのピストルを響かせてあげる

紙の太鼓をたたいてあげる

サンダルをパタパタ走らせて

小さなガラス細工のウサギを選んだ

君の笑顔は

確かにそこにあったよね

まだそこにあるよね

思い出すことができるよね

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セミのように

昨日と今日と明日と

いつまで

花と花と花の重なり

息をこらした幾百もの鈴の音

川の面にこぼれていく白い雫

季節を間違えたセミのように

生まれたての緑色の目をして

何度も何度も振り返る

しがみつくことも

鳴くことも忘れて

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はなみずき

一日 雨が降り 風が吹き

ぬれた夜道に

大柄な白い花びらが

あちらこちらに散っている

二十年前ついた嘘と

それによって

悲しませてしまったかもしれない人の顔

脈絡もなく 今

急に浮かび上がるのはなぜか

一通の春の便りの返事を

道向こうのポストに投函しに行こうとして

サンダルばきで

白い花びらをよけつつ

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雨が続いて

魂は梅雨空の下を漂うと

少し水ぶくれになってしまう

瞳が緑色に染まって

今が一番ものが見えやすい

あなたの傷口はどこ?

別に答えなくていい

わたしの傷口はここ

別に気に留めなくていい

風景は

少しせっけんの匂いがする

大きな泡を空中に広げて

山向こうに飛んでいく翼竜を見た

いつもよりのんびりとゆっくりと

薄いガーゼに包まれている感じ

おとといも昨日も今日も雨

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銀河の隅っこで

遠い二つの銀河が

白い渦を巻きながら

億光年をかけて

溶け合おうとしている時

じゃがいもの葉の上で

黒いテントウムシの

赤い二星がキラリと光る

さやえんどうの

緑色が冴えていく

すべての結実と枯死は

かつて青かった星の物語として

どこかで小さくリポートされるだろう

億光年先からの探査によって

レタスの上から

昨日の雨粒が転がり落ちる

束の間 差し込む光

雲の高さより高く

はるか見下ろす風景

一ミリを

百年かけて進む星の時間

もろもろのことはほとんどゼロ

どこか桁外れの場所から見れば

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娘の名前には「志」の文字が入っている

夫が何冊もの姓名判断の本を

調べ尽くして決めた名前だ

はじめての子どもだったから

まっすぐに志に向かって進んでいるというよりは

迷い 悩み 立ち止まることの多い娘だ

男っぽい感じのするこの名前では

重すぎたのかもしれないとも少し思っていた

今日 現代国語のレポートで

好きな言葉をひとつ書きなさいとう問いに

突き当たった娘は

「志、という言葉でもいいのかな」

と聞いてきた

自分の名前が好き

そう素直に言えるのなら

君は十分その名前にふさわしい

まだ探し当てられないけれど

生涯を貫く「志」は

きっとすぐ近くに控えているんだよ

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雀を見る

新しい制服のように

きれいに折り目のついた羽を

一枚ずつ整えている

輝く器用なクチバシで

クリクリと丸い

小さな茶色い頭

春の陽射しの中

ほのかな熱源となって

雀など

何度も見ていたはずだった

まじまじと

手のひらの上に乗せさえして

猫にかみくだかれた姿

唾液にぬれてくたくたにへたった姿をも

飛んでいる

啼いている

毛づくろいしている

眠っている

交尾している

死んでいる

雀を見る

どこにでもいる

いつでも声が聞こえている

そんな雀を見ている

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地球儀

ゆるんだ浅い海を

ゾウは鼻をのばしてのんびりと歩き

氷結した水面の隙間から

ペンギンは勢いよく飛び出し

陽射しは斜めにすべり

半面はいつも夜のままで

私は宇宙ともいえる位置から

少し乱暴に手を下す

詳細な文字と数字と線

大陸の上にひしめく人間の手触り

きっと誰もが知らずに疲れている

この傾きに慣れるために

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白いご飯

炊き込みご飯を失敗した

ご飯がぼろぼろ

芯が残っている

たけのこと鶏肉とショウガを入れて

お米ごとフライパンで炒めて

お釜に戻したら もう

さっぱりと水加減がわからなくなっていた

レンジでチンして

お鍋でもう一度煮て

なんとか食べ物にしてみようと試みたが

なんだかまだ硬かったり

べちょべちょとろけていたり

翌日

普通の白いご飯を炊いた

何の細工もなくいつも通りに

そして実感する

きちんと炊けているだけで

こんなにほっくりおいしい

白いご飯

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食べる

人が何かを食べている姿は

じろじろ見たら失礼だと思うから

そうは見ないが

生き物が一心不乱に何か食べている姿は

そばでじいっと見てしまう

頬杖をつきながら にこにこしながら

うちに来て約一年のダミさんは

寝ている時以外はいつも食べ物をねだっているという風に

食にかけてはかなり貪欲な猫なのだが

このごろはむちむちに太って

後姿の尻がやけに丸い

いろいろな生き物を何匹も飼って

何匹も死なれて思ったことだが

ものを食べているうちは

まだまだ生きられるということだ

がつがつ食べていてほしい

意地汚くていい

散歩から帰ったらごはん

昼寝から目覚めたらごはん

目が合ってしまったらごはん

遠い昔の給食時間

「炭水化物は 熱やエネルギーのもととなります」

「タンパク質は 血や肉や筋肉のもととなります」

「カルシウムは 骨や歯を強くします」

「ビタミンは からだの調子をよくします」

あれらの言葉が

やっと今 腑に落ちた

生きようとして懸命に食べる

はふはふ言いながら食べる

食べる行為そのものがすなわち生きる姿勢

しかしもはや生きるためだけとは言い難いダミさんの食欲

食べてくれるのをうれしがりながらも

カロリー調整の駆け引きは

裏でこっそり続くのである

詳細が無事送信されました!

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