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第24詩集 火星に向かって

雪の日に生まれて

オーバーやコートなどを

「重衣料」と呼称する

いかにも雪国の人らしいあなたの

かたわらには生まれたての赤ちゃんが

舞い飛ぶ雪が描く

果てしない白さ

激しくきっぱりとした空気の中に

あなたはその命を送り出したのだ

すべての母親が持つ聖なる勇気によって

あなたのもとに生まれた赤ちゃんは

羽のように瞳をくすぐる白い光に

いつか初めての笑い声を上げるだろう

私は遠い雪の中に聞く

あなたが

赤ちゃんよりも先に赤ちゃん言葉を話し出すのを

生業としての言葉ではなく

感情としての言葉でもなく

ただ銀色に輝く結晶のような言葉として

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桜のために

「こんな出腹のままじゃあ

桜に対して申し訳ない」

そう言いながら

夫は毎朝ジョギングに出かけていく

「桜の花は 精進して 身を清めて

撮らなくては」

あれから一か月

腹はひっこんだ様子はないが

桜はみるみる咲き始めた

夫は暗いうちからカメラを担いで

出かけていく

よじれた心でいた時も

花はまっすぐに咲いていた

この世の関数がどんなに変化しても

定数項として必ず現れる

きっぱりと立つために

この瞳が見てきた春のうち

どの年の桜が一番美しかったろう

思い浮かべるシーンの中で

きょろきょろしながら体育館の始業式にいる

酔っ払いの間を縫うように歩いている

ぎりぎり花見に間に合った赤ちゃんを抱いている

夜 散っていく音を聞いている

均等に巡る喜びと悲しみに備えて

だから 桜の頃だけでも

魂の輪郭に触れられるほど

青ざめ削ぎ落とされた人間でいよう

夫の言うように

どこかでついてしまったぜい肉を心から恥じながら

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何も気づかない


夜中

この家のどこかに

くぐもった音で

五十回鳴って止まる目覚まし時計がある

起きて探すほどでもないと思っているうちに

やんでしまう

たぶん

毎日鳴っているに違いない

気づかないだけだ

私のそばで

誰かが傷ついていく

込み合ったジャングルの真ん中に

置き去りにされた目覚まし時計のように

遠くどこかで鳴っている

湿った下草に埋もれて

諦めるまでの五十回

ただ気づかないだけだ

何も気づかないふりをしているだけだ

夜中 ふとした瞬間にはっと目覚めて耳をすます

気づけないベルを夢うつつに鳴らしているのは

決して私だけではないのだろうが

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ミモザの花を

「ありがとう」と言ってくれたなら

わたしはその言葉だけで

百日は生きられる

百日 わたしを殺す言葉もある

雨の日の帰り道

「満開のミモザの花を

あなたに見せてあげたかった」と

言ってくれた人のこと思い出している

その言葉を

千日 わたしは覚えているだろう

わたしの言葉も

だれかを生かすことがあるだろうか

たった一日でも二日でも

芽吹きのように言葉が生まれ出して

わたしはまたこの春を大切に思う

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時差がある

経度が十五度違うごとに

一時間の時差があるのだという

ならばここから東に三十キロメートルのところにいるあなたとも

小さな時差が生じている

一致することなどないのだ

この心臓の拍動が

誰とも一致したことなどなかったように

何気ない声の感じとその言葉

投げかけられたまなざしとその視線の動きと

置いた手の感じとそのかすかな骨の硬さと

心の感触とその音色と

知ろうとした瞬間にも

風のような時差は生じている

あなたとは数字で言えば何分、何秒の差?

別れることばかりが多かった駅で

涙はどうやったら押さえこむことができるのかばかり考えていた

どうやったらすぐに眠ってしまうことができるのかと

みんな普通の顔をしているのに

激しくぐらついたコマの感覚を

長い間誰にも言えずにいた

本当に分かってくれる人などいるのかと

あなたは最近何の本を読んだ?

同じ本を読み

同じところで泣くことができたなら

その時だけ時差は薄れているような気がする

指で指し示すだけで

同じ言葉が浮かぶようになれるのなら

時差は

会いにいくための余白

近づくために必要な時間を

広げた地図の上になぞる

見えない経度の細い線上に

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チョコを食べる

かたわらで

赤い小箱をボリッと開け

銀紙をチャリッと裂き

茶色いカケラをコキッと割り

口の中にポンッと放り込む

そしてモグモグしながらどこかに行ってしまう

なんと複雑な動き

いくつもの意思伝達回路が動き

自立した筋肉が微妙に伸び縮みする

舌はどうなっているのだ

蠕動運動はどうして起こるのだ

驚異的な出来事が

当たり前のように自然に流れていく

随分楽になったということだ

一匙一匙運んであげなくても

口をぬぐってあげなくても

放っておいても

何でも一人で食べられる

そうなると

体に悪いものも

いけないものも

毒っぽいものも

手当たり次第食べてしまったりするのだろうな

そしてそんなものほどおいしいものだ

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実は

染色体について説明している最中

黒板に字を書く手をふと止めて

振り返った生物の先生は

ぼうっとした視線でこう言った

「うちは何かに呪われているんじゃないかと思う」

「両親は早くに病気で死んでしまった

兄は去年交通事故で死んでしまった

妹は腎臓が悪くて週三回も透析をしている

妻は甲状腺の病気で相貌が変わってしまうし

私はずっと喘息で苦しんでいる

最近生まれた子どもは発育が遅れていて

顔つきからしてダウン症児らしい」

そんな

そんなこと急に言われたって

どうしてあげようにもないじゃありませんか

十六歳の生徒たちは先生の顔をまともに見られず

一斉にうつむいてしまった

あれから二十七年

私はやっとわかった

誰もが「実は」と切り出しそうになっている秘密を

胸に貼り付けている

触ったらピリピリする

握りつぶしてもはみ出てくる

頭蓋の内側からコツコツと叩いてくる

私もどうやらそんな思いを

この昨今 抱え込んでしまったようだ

実は… 実は… 実は…

先生

あの時の血だらけの「実は」は

もう痛くなくなりましたか

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波のように

私の走らせる自転車の前を

見知らぬ少年たちが

「汗が 汗が 波のように出る」と

叫びながら

ひょろひょろと走っていく

梅雨の晴れ間

黒いアスファルトから

もやがぼやぼやと立ち上がる

タイヤの空気もほどよく抜けて

鈍いバウンドに脳も揺れる

こんな日は

「汗が怒涛のように出る」でも

「鉄砲水のように出る」でも

「ハリケーンのように出る」でも

いいよな ありだよな

そういえば

ダム放水のような涙も最近流していない

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嘆かないで

誰かのことを嘆いて泣くのは

決して愛ではなく

その人を冷たく非難することにも近いから

決してそんな泣き方はするまいと思ってきたけれど

アスファルトの坂道をぽつぽつと登りながら

しきりに泣けてくることもあった

まだ地上にいる

まだ揺れ動く大地の上にいる

泥を吐きそうになっている

坂道の途中でむやみに空を振り仰ぐ

私のことを嘆いてほしくはなかったから

いい子として いい人として

ここまで努めてきたけれど

もういいや 誰かを泣かせても

私のこの涙も間違っているのだから

だから諸君

誰の涙にも責任を負わなくていい

誰かのことを思って耐えかねた涙はそのままに

私のことを思って流された涙もそのままに

木の葉が緑であろうと黄色あろうと

晴れている今日のように

人は気持ちよく自分自身であるべきなのだから

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破滅型

非常にまじめな詩を書いていた時分

一目置く先輩詩人に

「もっと破滅型になれ」と言われたことがあった

破滅型ってかっこいい

自堕落ってあこがれる

すごくあの世に近い言葉が生まれてきそう

だけど小市民のわたしには

壊れた生活はどこか生きにくく

こんな平凡に落ち着いてしまっている

夜 娘と散歩に出た時 娘は言う

「よそのうちって静かだよね

うちみたいに年中大爆笑してないし

年中大激怒してないよね

うちってなんかおかしいよ」

案外 うちって破滅型?

努力して正しき道をはずれ

堂々と破滅道を行く

ああ なんだかすごい世界に行けそうだ

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子どもを置いて

子どもを置いて

夫と二人で出かけるようになった

花の寺をいくつもまわり

二人だけの写真を撮る

二十年以上前も

二人きりでここに来たはずだよね

何も覚えていないけれど

一緒に見たはずの薄青い紫陽花の花々

あの頃 わたしはまだスカートをはいていた

ストッキングを脱いで

裸足で歩き回った海辺は

砂がなめらかに湿っていた

あなたは小さな貝殻を掘り出して

わたしの手のひらに乗せてくれた

あの貝殻は

わたしのために探してくれたもの

だけど今日は

子どもたちのために

桜貝を探す

小さなおみやげにするために

二人でずっと下を向いて

あと一つ あと一つと言いながら

桜貝を探している

これから二人でどこに行っても

二人きりということはないのだろう

いつも桜貝なんかを探して

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火星に向かって

三十年ぶりの同窓会に

欠席してしまったわたしに

友人からの便り

…八人 亡くなっていました…

いじめっ子だったあの子も

そういえばはかなげな風情だったあの子も

記憶の中で彼は

声変わりもしていない声で

「だからさあ」と言いながら

くるりと振り向いて笑いかける

だんだん遠のいていく火星を

わたしは今日も見ている

大声で呼びかけることよりも

むしろ黙り込んでいることの方が

はるかに届くような気もしてきて

まっすぐに立ち

肋骨に沿って指を這わせる

これがわたしの骨

わたしを支えるすべてだと思いながら

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君の指が今まさに

ティッシュをつまんで

鼻水なんかを

ズルズルかんだりしている

白いティッシュに映える白い指

ウルトラマン人形を

ぎっちり握っていたあのむっちりした指が

いつのまにかこんなにほっそりと長く

繊細な骨筋をみせるようになった

鉛筆よりは

はさみやら筆やら彫刻刀を

握りたがる指

産毛が濃くなって

小さなタコもでき始め

鼻水がついちゃった

でも洗わないで平気な

今 君の十四歳の指

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元旦に

森の端を輝かす東の太陽と

薄赤く沈みゆく西の月と

そのそばに浮かぶ白い富士山と

悲しくてたまらない日々は

どこか遠くで

ずっとまだ続いているけれど

湿った落ち葉の上を小走りに

小高い稲荷神社の赤い鳥居を

祈りながらくぐっていけば

新しい光は背中の方から

ゆっくりとゆっくりと

あたたかく撫であがっていく

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川のそばで

川面がまぶしかったから

岸辺の木の枝にとまり小さく息をしていた

低めの枝はゆるやかに揺れて

足先が巻き付くのにほどよい太さだった

なぜ

このような姿で生まれたのか

その理由はわからない

力強く軽々と飛べるのなら

汚れたバルサ材でもよかった

数えきれないほどの悔いは

ついばんでも殺しきれない

ならば

水面さえ乱さずに

深く潜むものの方へ身を傾けて

推力はただ前へと

抱えきれないほどの愚かな希望さえ

広げた尾羽を重くしない

この世界での位置に静かに落ち着きながら

日向の枝に揺られている

この小さな姿で

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一本ぐらい

書くのはいいけれど

家族ネタはよしてくれよなと

ぶちぶち言われるようにもなって

それもそうだよな

書かれる側はたまらないよなと

納得しながらも

十本のアンテナのうち一本ぐらいは

君の方に向かって

微妙に折れ曲がっているかもしれない

詳細が無事送信されました!

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