第20詩集 月の観測
月の観測
南西の空に
四十二度の高度で 夕方六時
三日月が現れている
おとといは新月のはずだった
それが一月一日の月だと
二〇〇一年になって初めての月だと
世界のどこかで 誰かが同じように
記録しているだろうか
三日月はいつも
家の真向かいにある団地の上に現れる
満月はいつも
東の窓の向こうのマンションの上に現れる
砂漠の月でも 海の月でもなかったこの運命についても
書き記す余白はあるのか
西の方へ急速に傾いていく
別の夜に入っていく
向こう側から投げかけられた光を受けて
三日月は当たり前のように現れる
賛美する者はいなくても
灰色のプラスチックのおもちゃほどの観測器で
一時間ごとに定点観測されている
思っている
真夜中の月を見上げることが
ほとんど神経症的な恐怖であった頃ほど
すべての記憶が青く際立っていた時はなかったと
刃物の上で踊り続ける日々から
いつ下りることができるのかも分からずにいて
十時を過ぎると 三日月は
西南西のマンションの向こうに隠れてしまう
沈みゆく月を
最後まで見届けることができるのは
地平にいる黒い犬だけだ
遠吠えが野太い記録の手となって
新年の月は位置を定める
くっきりと 鋭く漲りながら
射抜くかたちで
今夜 ただひとり新年の月であろうとする
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書き初め
四文字か五文字
自由な言葉でいい
モットーや座右の銘
将来の夢など その他なんでもいいと言われて
かえって君は迷う
自分らしい言葉とは
新聞紙で作った練習用紙に
まずはいきなり
「大便小便」と書いてしまうのはお約束として
次は本気で考えなくては
国語の教科書を見て
ことわざ辞典を見て
ことばの語源辞典も見て
さあ 何にしよう
難しい字じゃなくて
しかも自分を表す言葉
最終的に君が選んだ言葉は
「青天白日」
まだ十一歳
確かに君は紛れもなく
うらやましいくらい青天白日
君は書く
大きくにじんだ「青」の字を
君は書く
払いが寸づまった「天」の字を
君は書く
肩の丸まった「白」の字を
君は書く
なんとなく小さすぎる「日」の字を
ぎこちなく左手に筆を持って
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光降る夜
日が暮れてから降り始めた雪は
街灯の光の中で
一瞬きゅっと鋭くなったかと思うと
斜めに刺すように落ちていった
雪はあとからあとから吸い込まれていく
ほら穴のような地表の闇へと
真夜中を過ぎて急速に白の領域が増え
見えるすべてが不思議にくっきりと明るい
柿の木の一枝一枝も
駐車場の車の丸い輪郭も
瓦のぎざぎざ模様も
なめらかな畑の起伏も
いつもなら見分けられるはずもない
影の裏側も
光とも言えない明るいものによって
くまなく照らし出されている
坂道の多いあなたの街に降り積もる雪は
規則正しい住宅の並びを
更に似通ったものにするだろう
鉄塔の骨組みは埋められ
巨大な樹木のようになる
もしこの皮膚に冷点を持たなかったなら
雪はいつでもやさしくあたたかいものと
感じていられたのだろう
湧き上がる泡とは逆の作用で
雪は闇の中を駆け下る
雪の重さを知らなかったなら
羽のように埋められたいと願ったかもしれない
失ってしまったもの
ただそれだけを浮かび上がらせて
あなたは今夜眠らない
ともされたただ一本の蝋燭の光を守り
音のない光が地の底から射してきて
世界は反転した真昼になる
何もできない
何もしてあげられなくて
大丈夫 大丈夫だからと
かすかに呼び交わす声が
繰り返し繰り返し雪に鎮められていく
だれも知らない陰の真昼に
むしろ華やかな白い夜に
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脚本
つりがね草は
花ごとに鐘を鳴らし
かやつり草は
折り目正しい蚊帳をつる
夏の土手に舞い飛ぶ白い羽虫
隠したノートの中の
書きかけの脚本
わたしらしき少女と
あなたらしき少年
そうありたかった
温かに思いを伝え合う言葉
薄紫のほたるぶくろは
怯えた心臓のように
水引草の細い茎は
おののく血管のように
永遠について教えてくれそうな
夏の緑
伝えたかったことは
すべてこの脚本の中に
いつか小さな声の調べで
記憶を美しく書き換えていくために
私はつづっていく
偽物の物語を
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支点
きみはわたしに
何を学ばせるために
ここにいるのか
その姿で
その心で
静かで大きな前触れが
薄青い雨の中をやってくる
はずんだ笑い声
沈んだ瞳
交互に振れる振り子の間で
ガラスの支点が
見えないひびに耐えながら
震えを隠して立っている
春雨のやわらかさの中に
混じっている微細な雪粒
わたしはきみに
何を学ばせるために
ここにいるのか
この姿で
この心で
不完全な様でいる他なく
満ち欠けて
きみはわたしを
わたしはきみを
危うげに補い合う
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百年後
雪は降り積もるだろう
百年後
すべてが終わった後にも
花はまた咲き乱れるだろう
百五十年後
すべてが忘れ去られた後にも
新しい子どもたちがまた駆けだしていく
二百年後
もうわたしのこころは
いたずらに波立ったりはしないだろう
静かにほほえんでいるだろう
生まれ生き存在し続ける ただそれだけでも
すばらしく勇敢なことだったと
うなづきうなづき歩いているだろう
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春の午後
あなたは
胸が痛んだことはないか
春の日
道端に横たわり
毛づくろいする野良猫
おさな児に笑いかけ
話しかけながら散歩する若い母親
制服を着た少年少女たち
部活のラケットを肩からかけて
ほの明るい花の散り際
あちらこちらに
新しい芽吹きを見ながら
あなたは
涙ぐんだことはないか
小川に遊ぶ子どもたち
投げ出されたバケツ
呼び交わす声
わずかなため息
人肌の日差しの午後に
出会うすべてが
あまりに
あたたかく
しあわせそうで
だからこそ
汚れた藻草のように
はかなく揺れながら
歪んだ空に降る花びらを見る
あなたには
そんな春の日はなかったか
見えるすべてが
この世のすべてであるかのように思える
そんな日が
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夜の光
夜 丘の上に立ち
遠く町の明かりを見下ろす
地上にまたたく星々は
わずかな高低差と
わずかな明暗差だけの光の点となって
地平から空につながっている
どの光の中にいる人が笑っていて
どの光の中にいる人が泣いているのか
花々が一斉に揺れるように
感情のざわめきが風に乗って流れ来る
あの日
身を震わせて泣いた
あの日
満足気に微笑んだ
あの日
落ち着かなく歩き続けた
見下ろせば
ただ等し並みにきれいな光の点
あの人が
あなたが
わたしが
何を抱き 笑い 悲しもうと
神の目にはたぶん
無数の ありきたりな
夜の光のひとつ
どの祈りを
選び取ることができようか
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四月の雨
窓を少しだけ開けて
昨日見た五分咲きの桜を思う
こんな日を花冷えというのか
朝から降りつのる雨
とりとめもなくめくる雑誌に
少しだけ旅情をかきたてられて
京都にいる人に手紙を書こうかと思う
今日は一日どこも雨
入学式の新入生は
ぬれた制服を気にしながら
講堂の中に並んでいるだろう
鳩が住み着いていた木造の
古びた講堂の四方から返ってくる響き
夢はどこまで駆けていくだろう
夢はどこで行き悩むだろう
桜はまるで心を試すように
ある年の桜はただもう素晴らしく見事に
ある年の桜はただもう胸が痛くなるばかりに
四月の雨は静かに降る
ひとときの思いの深まりを牽制するかのように
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まだ罪ではない
おさない指はつまむ
一匹の黒いアリを
アリはもうおなかがつぶされてしまっている
おさない指は引きちぎる
アリの頭と胴体を
胴体から白い臓物が
ちょっとだけ垂れ下がっている
おさない顔は声をたてて笑う
何の悪意も邪気もなく
みつけた小さな生き物の体をこわす
それは
積み木を崩すのと同じこと
紙をひきちぎるのと同じこと
きみはいつ
痛み知る人になるのだろう
幾百もの生き物を殺し
数千もの死骸を埋めて
なおも笑い声をたて
神の手でいられるのはいつまで
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海を見ていた
運動会は
青い海のにおいがした
少年たちは
光の縞をまとった
白い魚のようだ
風の向こうで
割れている二つの太陽
金と銀の
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忘れ物
忘れ物をしたことに
途中で気づいたときは
もう焦ってもしょうがないし
戻る時間もないし
そのままゆっくり歩いてるんだけどさあ
こころの中は
けっこうゼーゼーしちゃってさあ
冷や汗ダラダラ出ちゃってさあ
だからまた前みたいに
届けに来てよ 自転車をビュービューとばして
これ 忘れ物だなって気づいたらさあ
浄水場の上り道にまで行っちゃってたとしても
がんばって追いかけてきてよ
ときどき振り返りながらゆっくり歩いてるからさあ
でもさ 無いなら無いで
けっこうなんとかなっちゃうんだけどさ
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波の名前
あなたが言った
または言うべきでなかった事柄も含めて
私は言葉の周辺で
いつも審判を下している
サンダル履きで
ねじれた石の階段を下りていく
夏の海の植物が素足に絡みつき
ほつれながらヘビのように退いていく
誰もが自分のことを語りたがっている
地表の上わずか数メートルの間で
起こり得る日常
誰の幸福 誰の不幸 その差異を語ることは
波のひとつひとつに
名前を与えることに似ている
遠くまで平らに均された真夏の海
明日のことも
一年後のことも
思い患うことのない姿
釣り人はリールを巻き上げる
水面から天空へとつながる言葉が聞きたくて
光を肩に乗せながら
抜き手はひらめく
声嗄らすことのない発声をもって
語られるべき正しい言葉は
まぶしさの向こう
白いマストの上に小さくぶら下げられている
海鳥の羽が風に舞いひとひらの白
その行方ほどの明日
次々と生まれ消えていく波に
もうあえて永遠の名を負わせない
あなたが言った
または言うべきではなかった事柄も含めて
私もまた波の名前を胸の中に揺らし
息継ぎと息継ぎの狭間をゆっくりと漂っている
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動く
何かに向かって動き
首をめぐらせ
いつも探っていた
時折ぼんやりして
マンガばかりを読んでいた
「人は人 僕は僕 でも仲良く」と
どこかの校訓に掲げてあった
動く 動かない
強制も命令も懇願も
無益だと思うことがある
他人の意思では動けないし動かない
虫も魚も鳥も そして人間も
道なんてどこにも無い
動きたい自分だけがいる
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描く
もう既に描き尽くされた色を使い
描き尽くされた方法で
描き尽くされた形を
なおも繰り返し
描き尽くそうとする試み
似ていることはあっても
全く同じということはない
誰とも違っていたい気持ち
みんなと同じでいたい気持ち
できればよく思われたい気持ち
ボタニカルな細部を
見ようとすればするほど
花の名前から遠ざかる
二十四色のクレヨンを抱えて歩こう
昔わたしは太陽を
真っ白に塗りたかった
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カエルを踏んだ
カエルを踏んづけてしまった
急に雨が降ってきたので
洗濯物を取り込もうと
急いでサンダルばきで玄関を飛び出したら
…!そこにいた
踏んだ瞬間 ヤバイ!と思った
振り返ると
カエルはパンクしてよじれていた
赤い血も出ていた
うわああーと叫びながら
カエルの残骸を近くの水たまりの中に
蹴って転がし入れてから
逃げ帰って またわあわあ騒いだ
子どもたちが部屋から出てきて
なに? カエルを踏んだって?と
どやどや見に行った
「ひでー 内臓飛び出てやんの
やっちまったよ まだピクピクしてるよ」
そんなこと言われたって
そんなこと言われたって
うわあ また思い出させないでよと
家の中をどたばた駆け回る
布団にばったり倒れこむ
久しぶりの雨
嬉しくなって穴から出てきて
空を見上げていたのだろうに
ごめんよ
ごめんよ
それしか言えないよ
まだ気色悪くって
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雀を食べるチビ
夜中 台所の隅っこの方で
ペチョペチョ バキバキ 妙な音がする
懐中電灯をつけて見に行ったら
飼いネコのチビが
雀を食っていた
しかももうすでに半分以上食い終わっていた
「何ですかい? こいつはおいらの獲物なんだから
御主人にはあげませんぞ」
と口元を赤くしながらとがめるような顔で
ギロッとこっちを振り向くチビ
ギョッとしながらビビッてしゃがみこむわたし
「雀の生肉って、うまいんですか?」
「ちょっとこう 羽が喉にひっかかるんだけどさあ
肉の方は結構イケますぜ」
そうかい そうかい
そこまで食ってしまったのなら
もうやめろとも言えないなと思いながら
もう一度寝に帰った
まだ音がする
チビにとっては
ご満悦な一夜
獲られた雀にとっては
大変な悲劇の一夜