HP鏑木詩集(3)に収蔵
1, 服従 (青い波流よ)
2, 十六歳 (みぞれ混じりの雪が)
3, ミミズのように (泥をすすりながら)
4, 夜半のカノン (ガラス色の雨が降り)
5, 十二月の別れ (触れ合うとビー玉のはじける音がする)
6, 無言 (錠剤は捨てるがいい)
7, 廃屋の御堂 (木隠れの畦道のかたわらに)
8, 遠雷 (大地に掌をおしあてて)
9, Nに (血がおまえの中で流れをやめた)
10, 都会 (私は部屋の中で)
11, 多摩湖にて (無辺際に霧は降り)
12, 寝床の中 (壁越しに)
13, 彼岸花 (彼岸花が 顔をそろえて)
14, 花蜘蛛 (花蜘蛛は 葉裏から)
15, さぼてんの花(多肉の隙間を突き破り)
16, 誕生 (松風が 指の間を過ぎ)
17, 走る夏(疲れ切った体を草むらに投げ出し)
18, 夜明け(誘惑の匂いを秘めた夜明けが)
19, 春の訪れ(春の匂いを含んだ季節に)
20, 秋に気づいて(花瓶の中で 枯れた花は)
21, こころ(夏草の明るさに)
22, 二十歳の頃(霧が晴れた。私は時を鳥瞰する。)
23, キャンパス風景(夥しい邂逅は)
24, 高層の孤独(一日の最終講義からは)
25, 梨 (あなたのくれた三つの黄色い梨が)
26, 病室にて(悲しみが消えない)
27, 白昼(机の端に胸をあずけて)
28, 夕暮れ(文字を追い過ぎて)
29, 無限逍遥(おそるべき停滞が)
30, もつれた雨(霧しぶく雨は)
31, 野焼きの煙(野焼きの煙が)
32, 日和(田んぼの真ん中に)
33, 赤い色(あなたの家の近くには)
34, オカリナを吹きながら(ペンと一冊のノートだけを持って)
35, 浄土(白砂に伏して)
36, 鎮魂(ひぐらしが鳴いていた)
37, 白い陽(縁側から垂らした裸足の影が)
38, 地球儀(西日の中で)
39, 土曜日(善福寺公園の土曜日)
40, 赤いスカートの女の子(窓ガラスにあてた指の隙間を)
主に高校時代~大学一年の作品
服従
青い波流よ
渺々たる普天の下で
放たれた浮標(ブイ)の
胸せりあげる嘔吐にささやく
終わりなき波音よ
空白な静穏の心情を揺り動かす
愛のない子守唄にめまいして
私は冷たい岩に寄りかかる
白い飛沫は空に迷い
乱調の流紋は死の文字を描く
はるかな弧弓に向かう船は
海の中に埋もれようとする
太陽が孤独な回復をする午後
波はガラス玉をころがし
虚しい遊戯を繰り返す
世界を私から禁ぜよ
握りしめた紫水晶のかけらを
この海に投げ込んで
すべての夕映えを海深く招く時
海王よ 頭上を仰げ
無極の海が寄る辺なくうねり
たわみながら苦悶するのを
いつまで通けさせるのか
波頭が消えやすい泡を生み
すがるように寄せ来る波は
引き戻され 傷心の流れをする
私はそれらの敗残を受け継ぐために
たたずんでいた この浜辺に
怯懦な思いに身を凍らせて
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十六歳
みぞれ混じりの雪が
かすかに夜を震わせていた
私は別れる物も無く別れを告げ
固く結晶した大気に
自らの凍えきった十六歳を刻んだ
終わりゆく学期に
別れを予感する二月
友がくれた手作りの美しい紙の花は
箱の中に閉じ込められたまま
枯れもせず
あの別れの時からずっと
誕生日はいつも寂しい
祝う言葉をかけられたことも無く
誕生日のケーキも用意されたことがなかった
私の存在に
いつ 誰が
気付いてくれるというのだろう
いつもここから逃げ出したかった
けれどどこへ?
この机の前でただ物を思うことしかできず
私は追い詰められた犬のように
力無く
十六歳の中に閉じ込められている
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ミミズのように
泥をすすりながら
雨中を這いまわり
生きていく
自分よ
浅ましくも
そうせずにはいられない私の本能を
あなたは笑うのか
冷たい雨の町並みは
人々のからっぽの眼差しに溶け
そのままだらだらと流れて
腐食土と醜く交わるであろう
もぐりこんで深く
ぬかるみの中で
みつけた哀れな獲物の
肉をあばき 骨をむさぼり
それらで胃袋を汚しながら
私は生きていくのだろう
考える脳さえなければ
生きることが楽になる
頭も尻尾も失くしてしまおう
感情を表す感覚器も
ただうごめく
湿った皮膚組織として
ああ だが
あなたの高いハイヒールの
ずっと上から
あなたの目が
私をぺしゃんこに踏みにじっている
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夜半のカノン
ガラス色の雨が降り
密やかな雨音が夜をたたく
宝石をつなぐ糸が切れて
私の手にこぼれるであろう
砕かれた氷雨のように
夜に降る雨は
あまりに重く
私の内に沈んでくる
熱情も無く弾くピアノは冷たくて
音をたてながら
昨日の記憶が壊れていくのを
誰が知るのであろう
閉じられた瞳に私は見る
言葉の迷宮を
さまよい続ける姿
遂に何も生み出せず
うつむく姿
それを徒労とは
最後まで呼びたくはない
絶え間ない夜半のカノン
私もまた
涙を奏で続けるしかないピアノだから
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十二月の別れ
触れ合うとビー玉のはじける音がする
小さな木の実の飾り物を
あなたは指でもてあそびながら
沈んだ目をして
暮れかかる十二月の空を見る
あなたの唇のもたらす
短いシラブルは
飛び去る日暮れ鳥のように
虚しい羽風で私の胸中を脅かし
ぼやけた不安に息を止められた私は
思わず
あなたから目をそらす
あなたを
私の世界に引きずりこんで
あなたの抜け出た寒い景色を
燃やしてしまうことができるのなら
ふと取り落とした飾り物を
あなたは拾いもせずに
暗い紫色の濁った夕焼けを
風のようにみつめている
優しいクリーム色のワンピース
背中まである長い髪
あなたは不思議なほど茶色い瞳を持っていた
遠い国に留学していくあなたとは
もう二度と会えないだろう
友だちになりたいと思っていたのは
私の方だけだったから
せめて別れの日には
すれ違いの小さな微笑みをください
振り返った私に
木の実色の記憶が
いつまでも刻まれるように
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無言
錠剤は捨てるがいい
これら濃緑色の粒は
無益な鎮静剤だ
常夜燈のように燃え続ける
青白い苛立ちを抑えるための
フライパンと摺りあう金属の
ぞっとするあの音
折り散らした千代紙は
もう火影に投じてしまえ
どんな華やぎも
目の前で
爆ぜてしまった
色彩は顧慮のどよめきと共に
はらはらと崩れゆき
どろどろに煮込まれていく
この夜
時々の偏在が際立たせる
孤独な魂の一片を
寒々とした台所で
何に変わらせようとするのだ
言葉は鍋の中に落ちたか
致命的な無言である
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廃屋の御堂
木隠れの畦道のかたわらに
見出したのは藁葺きの御堂
傾いた盲格子の引き戸に
蔦蔓の繊手がしなだれかかる
捨て子のように笑う石の野仏が
下草に埋もれて御堂を守る
信仰はいつでも斧をふるい
打ち壊れた形骸を
後生大事に安置する
人の心は磊落な鳥の声にも
なお晴れやらず
御堂の苔むした礎に
小石を三つ重ねている
夢幻の歴史の中で
万人の石を受け取り
御堂はここで
いつしか廃屋になった
風に怯える水面の月
睡蓮の咲く池を
深い草藪の中に探しに来る者も
今は誰一人としてなく
私だけなのかもしれない
詩になりそこねた半端な思いを
ここに何度も棄てに来るのは
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遠雷
大地に掌をおしあてて
束の間の石膏の冷たさを学ぶ
遠雷のする真夏
今 私の内で
新しい意志が燃え始めた
炎々と咲くひまわり
常に明確な希望を持て
昏睡の中で夢をさぐるより
白日のさなかに
目を見開くことを望む
何一つ報われず
過ぎていく灰色の時もあった
自然の循環に抗い
力を失っていくかのように思われた
だが人間よ おまえは
想像される以上に強靭な生命だ
遠雷のする真夏
深い地響きをたてて
大地の底から屹立するもの
怖がっていたとして
もう決して俯かない
稲妻のように
今 私の砦は築かれる
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Nに
血がおまえの中で流れをやめた
そのままの姿で おまえは
青ざめた肌をして眠っていた
私はもうそのドアをあけようとはしない
おまえの眠りをいかなる光も
さまたげてはいけないのだ
あたたかなほほずりと
子どものようなたわむれを
私は晴れた日の中に
思い浮かべることができる
あれらの日々が 私の
そして おまえの
最後の幸福な日々だった
おまえはもう暁を見るために起き上がり
さらさらとカーテンを引くことをしない
おまえはあたたかさを失った寝床に
だまって横たわっているばかりだ
そして私は酷く悟っていた
この部屋を永遠に閉ざし
おまえをここに取り残す
そのすべての始まりと終わりを
私が見届けなくてはならないことを
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都会
私は部屋の中で
風を計ろうとする
だが窓の外に
揺れ動くものは何もない
林立する巨大なビルの群れは
人の世の石塔のようである
私の掌は
既に土を忘れ去り
私の膝は
もう擦り傷の痕すらない
粗野な笑い声も久しく立てていない
表向き正しく整った清浄が
常に都会の習わしであることを
心に銘記せよ
故郷の風の中では
身も心も少年のようだった
深い森に分け入って
瑞々しい緑に染められていた
自由と希望が
私を思い切り汚していた
しかし今 私は
ビルしか見えない窓の内側に
自らを閉じ込め
うつろな鏡に向かって
ただ果てしなく
ほほえみを練習している
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多摩湖にて
無辺際に霧は降り
湖の孤愁を音もなく包んでいた
水系は濁りを帯び
青緑の花々が一面に呻いている
転生の墓地に眠る胎児のように
待ち続ける絶望がそこにはある
時の代謝は緩慢な衰えを見せ
弱々しく半鐘を叩いている
私は湖を見捨てなければならない
いさよう波の道標(しるべ)を追うにも
願いさえ失ってしまったのだから
抱えてきた白い野花を
ここに全部捨てようか
幻のように影を潤ませて
こんなにも足元が揺らぐ
湖を渉る長い長い橋の果てが
霧に霞んで見通せないから
つい引き返したくなる
もう引き返せる場所など無いのに
たった一人で
湖を見に来た
孤独が私を害している
そんなことを厳しく思い知るために
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寝床の中
壁越しに
声が錯綜している
音は籠りがちに
その意思を伝えない
夜おそく
誰が釘打つのか
そればかりがはっきりと
聞こえている
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彼岸花
彼岸花が
顔をそろえて
血を吐く
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花蜘蛛
花蜘蛛は
葉裏から
ひっそりと
こぼれ落ちる
あでやかな
若葉色の罠
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さぼてんの花
多肉の隙間を突き破り
顔を出した花は
湧きたつ陽炎の中で
緋色に示威してみる
誰に見られることもなく
そこに在り続け
ひとり媚び疲れた花びらは
けだるく熱風に吹かれ
いつのまにか孤独な眠りに落ちる
眠りつつ朝を失い
目覚めた時は
すでに酷薄な日射に焼かれ
再びは顔を上げられない身に変貌している
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誕生
松風が
指の間を過ぎ
うつむいたほほに
甘やかな夢が
花影をつくる
明るい浜曲(はまわ)の方に
今日も子どもたちが
砂文字を書いては
波に飛び退っている
無駄なことだとは
もう誰も言わない
ただ茫漠と優しく
流れ木は
なめらかに
身を横たえる
晴れた海の近く
次に来る波に
遠くさらわれることを
ひとり
待ちわびながら
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走る夏
疲れ切った体を草むらに投げ出し
見上げた太陽の痛むようなまぶしさ
激しく呼吸する胸の中を
熱い汗が流れていった
細かな光斑が頭の中を跳ねまわり
ただ真っ直ぐに青い夏の空
ぐらぐらと地は揺らめいて
無意識の時は流れる
風の音が聞きたいのに
鼓動がざわめく
肌がチクチクと焼けている
友よ 呼吸が落ち着くまで
エスケープの森で
ひとときを一緒に過ごし
書きかけの物語のことを話そう
先を争う者たちがとうに走り去り
ゴールのテープも誰かが切って
予定調和のほとぼりがすっかり冷め切るまで
文字で満たされた汚れたノート以上に
価値あるものなどどこにもなかった
森の奥に潜む深い沼のことを思う
必要だったのは
健やかな体ではなく
さまよう心の落ち着き場所
やがてゆっくりと立ち上がり
めまいするなか手探りで方向を定める
共犯者たちは
いたずらな目配せを交わし合う
さあ もうそろそろ行こうか
太陽の向こうで
雲が溶け始めている
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夜明け
誘惑の匂いを秘めた夜明けが
そっと額に落ちる時
去りがたい眠りの影が私を引き止める
もの憂い思考の奥には
何千もの雀の笑い声が
昨日のことのように
ぼやけて聞こえている
いつまでも覚えられない記号と数字
明け方になっても
処理できていないノルマ
重い疲労が脳髄の中に沈み
泥水のように揺れて
私に軽い吐き気を感じさせる
この朝―――
真っ青なインクのにおいが
空に拡がり
私を押しつぶすようだ
凍えるような夜明けが
私の肩を冷やし
胸の中に焦りを流れ込んでゆく
まどろみの浅い揺らめきに身を浸して
朝に移りゆく時間を
わずかでもつかみ取ろうとして
ただ黙ってもがいている
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春の訪れ
春の匂いを含んだ季節に
私は子どものようにあやされて
大声で歌い出したい気分だ
何気なく手に取った野辺のスミレは
冷ややかに湿ったその肢体を
私の指にやさしく絡ませた
やっと冬の幽囚から抜け出して
全てがほほえみをたたえ
心無きものも
心を得たように
光を返してくる
走っていく子どもたちは
サラサラとした髪を風に吹き乱し
はしゃぎながら草むらに飛び込んで
やわらかな若草そのものになっている
私も走っていこう
今は文字に溺れることをやめにして
四つ葉のクローバーを探しながら
野良の子猫を探しながら
春のスペクトルの交わるところまで
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秋に気づいて
花瓶の中で
枯れた花は
年老いた人のように
うつむいて
腰を垂れ
厭わし気に花びらを振り落とす
日の光もかたむいて
秋の様相
絹雲の白い筋が
青い花瓶の上に
おおいかぶさっている
みつめられている
透明な時間
枯れ花を捨てるにも
おそらくは
小さな決断が必要なのだ
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こころ
夏草の明るさに
いつ影を落としたのだ
黒い鳥が空を翔けていくように
不意に曇った大地に
私はひとり佇んでいる
死んだ乙女を抱くように
手に捧げ持つ枯れた草花
別れを告げることもなく
こころはもう帰らない
あの青春と言われた日々のもとへ
それは
日盛りの昼や
目にしみる川の流れ
夏草の夢に身を沈めて
目覚めることもないと
私に思い込ませた事々
光は消えてしまった
この手の中に朽ちた思いを残して
窓際であたためたこころ
私のほうから手放して
遠ざけてしまったこころ
最後に選ぶことができたのは
ひとつの詩
葬送に近い韻を持った
封じてしまったものには
暖かい名前がつけられていた
私はほほえみさえすればよかったのに
私は
この先
いつ
誰を
愛そう
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二十歳の頃
霧が晴れた。私は時を鳥瞰する。眼下の小群落は山峡にあって、それ自体絵画のように静止した美的な狭さで、私の観念に迫っている。それは途轍もなく確固とした生活の規矩である。周囲を取り巻く霧の散光のまにまに、凡庸なる幸福を垣間見て、泉のように悲しみが湧きあがるのを感じている。
自己喪失のあと、私は急速に夢から覚醒した。内生の充溢のままに、その頃は早熟とさえ思われた光暉を、余すところなく発揮することができた時代はもう終わったのだ。
思えば驕慢な自負であった。しかし心楽しい興奮のひと時でもあった。懐かしい符牒のように私に暗示する詩句は、甘美な言葉の檻に私を閉じ込め、もはやその他の世界を瞥見することを許さなかった。高い位置から、尊大な呪詛を唱えてさえいれば、下界の者たちが私を讃嘆するかのような愚かな錯覚をとどめてくれるものが何も無かった。
それが若さだと人は言う。だが私はそうした人々の優しい容認のもとで、残酷に自己を喪失していった。私はエピゴーネンになるのを恐れるあまり、なんと遥かな荒野を彷徨していたことだろう。それによって、芸術という豊穣の大地からますます遠ざかっていることに少しも気づかずに。
私は今この大自然の前に小児のように弱々しく震えている。剥奪された夢は縹渺と地獄にまでくだり、奢りを諫める鞭の呵責のもとで無残に血を流している。
私はその苦痛を紛らわせるためにこの山に一人登った。ここの風は冷たい。寂寞とした情調は私の心のなかに沈潜していった。紅葉の時期にはまだ早く、薄霧は木々の緑葉を見え隠れさせていた。新生を願いつつ、その脱出口を見つけられない者にとって、無私の自然は、一つの奇跡のように広大で果てが無かった。
私は自然と相擁し包含されることを切望し、その中に命を預けたいと思う。この山峡に立ち尽くす者は、残灰のような人生を冷徹にみつめ直さずにはいられない。
今あるべき生を救うためには、過去の俘囚であることをやめなければいけない。一つの人生をこの契点を境に断ち切ること。人格の偏りを認め、幅広く人との関りを求めていくということ。
私はここに来るまでの間、十代の頃に取り付かれていた幼い厭世観を繰り返し反芻して、、頬を赤らめ恥ずかしく思い、同時にけなげで愛おしいと思った。芸術至上主義を豪語してはばからなかったあの頃、冷たく透明な外貌を成し、その内に炎を宿した十代の心は、芸術という魔力のもとに一切の生活の実利を侮蔑し、遊惰な他者の生き方に憎しみさえおぼえていた。
それはあまりに子どもじみた傲慢だった。鉄道の廃線のように赤錆をつけることを人生への反逆と思い込み、あらゆる世界から除外されることが芸術者の資格と信じて、ついにここまで来てしまった
私と関わろうとする暖かな気配が絶無だったとは言わない。だが私はそれを許容する優しさを既に失ってしまっていた。それを今更嘆こうとは思ってはいない。どんな自己愛も十代の頃の芸術への確執には程遠い。詩は神であり、一つの完璧な様式であり、あらゆる秩序を統合すべきものだった。その本質にたとえほんの一瞬でも触れ得たのは(そう錯覚しただけだったにしても)私の幸福だった。そのために自滅してもかまわない。愚かにもそう思ってさえいたのだ。
山は静かだ。辺りには誰もいない。孤独を忍受する運命は常に私のものであった。滑りやすい黒土の山道を下り始める。私はこれからいたずらに思考を歪ませず、正しく真っ直ぐに生きていこう。人を愛することをもっと学ぼう。そしてこの心が生み出す言葉がたとえ未熟で間違っていたとしても、諦めることなく胸にすべて抱き締めて、時を経て熟す時を待とう。
登る時よりも降りる時の方が気安い。行く行程よりも帰る行程の方が時が短く感じるように。そうであるなら帰ることの安楽にしがみついたりはすまい。私はまだ先に行き続ける旅の途上にいるのだ。折り返し地点などなど初めから考えない。生きている限り書き続ける、その自信はある。
主に大学時代の作品
キャンパス風景
夥しい邂逅は
煩雑な日常を私の内に蘇らせた
先走る言葉の群れは
私の唇を封じ
私は穏やかなほほえみの影に
寡黙な苛立ちを隠しきれずにいた
早生の植物のように
光を採り急いで
衰えやすい茎を伸ばす
そんな風ではなかったか
学生たちの夢と野心は
重畳する思想は
自己を見失おうとする
一つの努力にすぎない
しかしすべての懐疑に施錠して
物思わぬ生を営むことは
ある時期 不可能なことなのだ
キャンパスのスロープには
暖かな日光ばかりが
当たっていたわけではない
自由に冒され 方向を失った者たちが
見よ そこここに去来する
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高層の孤独
一日の最終講義からは
夕闇の暗さを教わった
こんな夕暮れ 大隈講堂は
円時計の中に月を潜ませる
哲学や宗教は
遂に私を救わなかった
どんなに責められても
私は私でしかなかった
高層建築の谷間にはぐれて
私は途方もなくひとりぼっちだった
ああ 何よりも今は
恋人と多摩川の流れを眺めたい
疲れた心を安らえて
恋人の呼吸に耳を傾けたい
寄り添って
くだらない話で笑い合いたい
くすぐりあいたい
手を握りたい
数多の蔵書の中に描かれた夢は
即時に棄ててもよい
神に救われなくてもいい
煩雑な駅前の早稲田通り
冷たいネオンにぬれながら
ひとりぼっちで
恋を抱き締めていた
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梨
あなたのくれた三つの黄色い梨が
私の鞄の中で
甘いにおいを立てています
あなたの故郷のにおい
独語の教本も
分厚い刑法も
そのにおいに染まったら
それだけで
机にもたれた寂しいdesireは
満ち足りていくのです
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病室にて
悲しみが消えない
あの夕立空の暗さ
病室の電灯の総和を以てしても
かつての無垢な光を
贖うことはできない
ここには私に耳を傾ける聴衆はいない
私は天井をみつめながら
水に沈んでいく油滴を連想していた
日々打たれる注射は
どの痛みを抑えるというのだろう
視界の隅で
誰かが体温計を振っている
寝返りをうつベッドのきしみ
儀礼的なあたりさわりのないおしゃべり
何かのお芝居のシーンのような
私はもう久しく
健やかな空腹を知らない
集中を欠いた脳は
一ページも本を読めなくなった
今の私には渇望すら罪だ
生きることと待つこと
そればかりを考えている
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白昼
机の端に胸をあずけて
はすかいに首を傾けると
花瓶の中の擬宝珠が
湯女の幻影のように手招きする
病み上がりの心臓が
大きな動機を刻んで
触れるすべてに
震動を感染させている
向かいのバランダに干された
純白のシーツの照り返しのために
この部屋はフラッシュを焚いたように
まぶしく閃光をとどめている
心が撞着している
昨日 どぶ川の吹き溜まりの中に
夥しい毛髪のかたまりが
背徳の気配をさせてうずくまっているのを
立ち止まって見下ろしてしまったときから
悪寒が宿ってしまった
この研磨された白昼の光
やはりまだこの晴れやかな明るさに
耐え得ないのだ
目を閉じて
心の中の黒の霊媒を寝返りさせる
私はいまだ
自己愛の病床から抜け出せない
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夕暮れ
文字を追い過ぎて
目が疲れてしまった
目は 閉じればいい
だが疲れた魂は‥‥ この命は‥‥
もうずいぶんと損なわれてしまったようだ
回復のあてもなく 酷く
こうしている合間にも
絶え間なく人の声がする
それは
母親が子どもを叱る声であったり
立ち話の笑い声であったり
ラジオから流れる早口の声であったり
沈黙は許されはしない
あの眩し気な世界から
おせっかいな手が伸びてきて
私の肩をゆすぶり続ける
気づかわしげな瞳の
ただ一度の問いかけにすら
言葉を返せないというのに
装って広げられた本に
目を落としながら
あの夕暮れの方に
急速に私の存在が吸収されていくのを
心の奥で感じていた
また今日もよく眠れずに
電車に乗る夢を見るだろうか
私は溜め息をついて首を横に振る
故郷への電車は
もう私を慰めるものではない
帰るには疲れすぎてしまった
その遠い距離が
ただ悲しいばかりだ
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無限逍遥
おそるべき停滞が
私の日常を包んでいた
硬直した心理が
私の体から言葉を引き抜いていった
そのような自覚は
日の暮れに比例して
黒色に膨満していく
悪い自責が頭を焦がす時
いたたまれず部屋を飛び出して
サンダル履きで煩雑な町中を
無理にさまようのが
私の常だった
街灯や店頭の明かりは
確かに幾分かの慰めにはなった
臙脂色の暖簾をかけた露天のお好み焼き屋は
いそがしげに鉄板に油を引いている
薄白く立ちのぼる煙
裸電球一つの下で
きゅうきゅうと悲鳴をあげているのは
私の心だ
明日が見えなくなったのは
いつからだろう
さほど遠くにも来ていないのに
私は早くも歩みの方向を失い
犬のようにそわそわと
帰る道を探している
帰りたいのに
帰れないのだ
真っ暗な部屋に戻るのが怖いのだ
さんざんに迷子になってしまうまで
体を傷めつけないことには
夜を越すことができなくて
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もつれた雨
霧しぶく雨は
アーク灯の青白い反射の中で
絹糸のようなもつれをほどいていく
ガードレールの白色塗装から
相並んで生まれた雫は
切子ガラスのようにさざめきながら
横にすべっていく
果ての無い流れ作業のように
遮断機の前になら
一人たたずむ理由がある
警報機が鳴り続けている間
傘を打つ雨の響きを
てのひらに小さく感じている
逆回転の映像をたどりながら
この夜にまでたどりつき
足元から立ち位置を自覚すると
また不意に
闇の中にひとり放りだされていることに
思い至ってしまう
警報機がやむと同時に
物語は先に進まなくてはならない
遮断機が上がったら
必ず歩み出す
隣を歩いてくれる者が
たとえ誰もいなくても
その先がずっと暗く冷たい雨でも
もう立ち止まっている理由など
どこにもないのだ
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野焼きの煙
野焼きの煙が
真っ白にあふれている
空へ 空へ
こんなにきれいに晴れているから
何か悲しいことを思い出しそうだ
電車の遠い音が聞こえていた
川辺の土手は
いつもながらの暖かさ
まだ幼い頃
ここが唯一の逃げ場だった
そして今でも
ここが唯一の避難所
暖かな日曜日には
遠い友のことを想いながら
つぶやくように歌を歌う
野焼きのけむりが
うすらいで消えて行く
光へ 光へ
こんなにきれいに晴れているから
幼い日の笑い声を
もう一度思い出せそうだ
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日和
田んぼの真ん中に
ふっさりと積まれた藁には
よく陽が当たっている
雀たちが何十羽も群れて
地面をついばんでいる
見上げれば
空は大きな呼吸をしている
いつまで続く小康か
問う必要などどこにもなかった
まだ傷が残っていようとも
もう縮こまって
うつむいてばかりいない
なんでもなかったふりをする
苦しかった呼吸も
徐々に開かれて
目の前の風の動きが見えてくる
犬の子の白い腹
綿入れの半纏
冬の朝もや
思うだけでくすぐったい
幼児のように
唇をお気に入りの布でふさいで
脳の奥から安らいでゆく
今日は気持ちの良い日
ほんのりあたたかい小春日和
久し振りに自転車で
商店街の方まで行ってみようか
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赤い色
あなたの家の近くには
遠浅の海があるという
「でも泳いだことはないのです」と
あなたは笑いながら言う
あなたはやせて背が高く
白く透き通った肌をしていた
だから真っ白なワイシャツに
真っ赤なチョッキがよく似合った
男の人なのに真っ赤なチョッキだなんて
あなたの説く宗教は
私には苦しかった
ひとつとしてうなづけるところがなく
私はいつも必死に反駁していた
私が欲しいものは
はっきりと決まっていた
ちゃんと元気に生きていくための健康
とにかく体のどこにも痛みが無いこと
その最低条件が満たせれば
それで簡単に幸福が得られる私は
あなたと最初から出発点が違っていた
何度も言い合いをして
おだやかだったあなたの目が
焦ってとがってゆくのを見て
理性的な口調が
理不尽な強制に代わっていくのを感じて
私からお別れを告げた
まるで遠浅の海のように
私たちはまだ
人生の深みには至っていなかったのだ
幼稚な議論をしすぎて
恋にもならなかった
けれどあなたのことは
遠い印象の中にいつまでも消えなくて
ちょっとは救われていたのかもしれない
あの頃
町なかを歩く人たちの中に
つい赤い色を探してしまっていた
ということは
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オカリナを吹きながら
ペンと一冊のノートだけを持って
霧深い湖のほとりに
立ち尽くす人生でありたい
いつまでも枯死しない美意識を
心深く植え付けて
誰も来ない田舎道を
オカリナを吹きながら
散歩する人生でありたい
空高く浮かぶ雲の
流れゆく足取りで
そしてこの心を
夢で一杯にしたら
いつか帰っていこう
私の言葉が花咲く場所
あなたの胸の中へと
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浄土
白砂に伏して
私は埴輪のように眠る
黄昏は雲を黄金色に染め
海は向こう側へ歩いていく
へばりついて小さく
私は身動きもせず眠る
古びた安息を抱いて
見出だされない化石のように
暮れ残った空に
浄土のような雲がたなびく
誰かの命が消えて行く瞬間に
似つかわしい荘厳さで
私は生き延びてここにいる
白く粉々になりそうな生の形を
かろうじて保ちながら
安らいで
眠っている
ほとんど砂の中に
埋もれた姿で
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鎮魂
ひぐらしが鳴いていた
気付いてしまったなら
それが夏の終わり
さまよいは夏草の匂いに満ち
灼けた白い山道に終始し
道はうねりながら山頂まで続いていた
通り過ぎた山間の村では
年老いた人たちが
垣根近くに寄り合って
ご近所語りをしているのが聞かれた
小川で遊ぶ子どもたち
それを見守る母親たち
おだやかな風景の中
黙って歩いて行く私の心の中で
一匹の野良犬が吠える
同い年の友人が
相次いで二人亡くなったこと
その経緯に
避けがたく在った孤独について
私が
体よく逃れることができた運命について
山頂の木々に身を潜めて
新しい風にうたれ続けた
生きようとする意志が
生まれ出るまで
心を鎮めれば
こんなにもひぐらしが鳴いていた
気付いてしまったなら
それが夏の終わり
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白い陽
縁側から垂らした裸足の影が
テラスに映っている
子犬が庭の土に鼻を突っ込み
さかんに穴を掘りたがっている
霜に焼けた白木蓮が
枯れたように咲きはじめた
ひばりが空に筋をひいていく
部屋の奥の机にも
今日は白い日差しが差し込んでいる
春の暖かさが
心地良く私に降る
私はひと冬のうちに
かなりやせたのかもしれない
友人たちに口々にそう言われた
よくは無いが
悪くも無い
あるいはむしろ好ましい
そんな風に言っておこうか
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地球儀
西日の中で
アジア大陸が燃えている
世界中の運命はころがり
人は死んだり
生き延びたり
私が今
ここにいることに
神が関与しているのかどうか
私を救う人との出会いに
神の差配があったのかどうか
地球儀に
神の心をかぶせて
ぐるぐると回してみる
気紛れなルーレット
はまりこんだ運命の数字は
私に生きろと命じている
傾いた心に沁みる
夕刻の鐘
暮れてゆく地球儀に
私もまた
ゆっくりと運ばれて
これはもう何回転めの
夕方なのだろう
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土曜日
善福寺公園の土曜日
霜柱のゆるんだ道を
足早に歩いていた
池の端には
白い鳥たちの方に
パンくずを投げ与える老人がいたし
枯れた葦を写生する若い画学生がいた
子どもを遊ばせる母親や
マラソンをする青年たちがいた
もっと多くの人に会ったような気がする
多くのさざめきを聞いたような気もする
それらの顔の一つ一つが
あるいは微笑んでいたとしても
それは私に向けられたものではないから
私は微笑み返すことができない
誰にも会えない土曜日は
どうしていいかわからない
故郷への電車に乗るのも億劫だ
電話をしても友人がつかまらない
下宿で本を読むのもたいがいに飽きた
だからひとりでずっと歩いている
地図を片手に
知らない道をずっと歩いている
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赤いスカートの女の子
窓ガラスにあてた指の隙間を
赤いスカートの女の子が
スキップしていく
指形を縁取る白い蒸気が
寂しい風景を花のように淡くする
私はたぶん誰よりも
言葉を求めている
私だけが生み出せる特異な音韻
書き留めるまで
何度も頭の中で繰り返される
指の間の女の子は
軽やかなダンスを踊りたい
けれど
一つ覚えのステップは
ぎくしゃくとぎこちなく
踏み出す足を
いつも間違えてしまう
一旦全部忘れよう
これしかないと思った言葉も
未練なく消し去って
かたくなった言葉を
やわらかく解いていけば
まっさらな白い舞台に
赤いスカートの女の子が
ためらいなく
躍り出ることができるのだ
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