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第49集 美しい未知へ(姑に関する覚書)

  • kaburagi2
  • 1月18日
  • 読了時間: 18分

更新日:3月22日



12月21日(土)



12月の面会の日から1週間もたたない頃

姑の入っている施設で

インフルエンザが発生した

姑もうつってしまったらしく

38度の熱が出て食事ができなくなってしまったそうだ

3日間ほとんど食事ができなくて

とうとう脱水予防の水分の点滴がはじまった


土日にかかってしまったので施設長の医師が不在で

今は看護師さんたちが点滴で様子をみているとのこと

詳しい対応は月曜日に医師と相談してから

という連絡が入った


姑は93歳になる

施設では今まで何回かコロナも蔓延し

姑はコロナにかかってしまったり

遠い施設に隔離移送されたり

厳しい状況の時もあったが

その都度なんとか無事に乗り切ってきた

今度もまた回復してくれるだろうか

回復する力は残っているだろうか

あるいは今の生活を引き延ばすこと自体

もう姑の幸福とはなっていないということはないか


夫は「これも運命だから」と言う

「あまりに感情移入してしまうと

自分がつぶれてしまうから

冷たいくらいでいいんだ」と言う


親を亡くすことは

子どもにとっての大きな試練だ

だが子どもが先に死んでしまうことよりいい

実家の母が亡くなったとき

母が先でよかった そう思った


姑が弱り切らないうちに熱が下がって

またものが食べられるようになることを祈ろう

気軽に会いに行けない今

ただ施設からの連絡を待つ



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12月27日(土)



医師の言葉によると

この施設では水分の点滴以上の治療ができないとのことだった

ものが食べられないと

即 衰弱して死んでしまうということだ


夫と共に看取りの書類を前に説明を受け

いつ何が起きても分からない状態と言われた

もうすぐ年末年始

この長めの休日に何か起こるかもしれない


とにかく何か好きな食べ物

日持ちがして生ものではなく

飲み込みやすいものを持ち込んでもよいということなので

梅干しやヤクルトなどを

夫はすぐに施設に持っていった

義弟もヨーグルトなどを持ってかけつけた


パジャマの替えが多めにあるといいということだったので

私もその日の午後に着替えのパジャマなどを買って持っていった

栄養士さんの話によると

姑は夫が持ち込んだヤクルトを50ccほど飲んだそうだ

あ、これは いい兆しと私は思った


翌日 義弟夫婦も面会に行き

その時は点滴もはずされ

食事も少しながら口から食べれていたそうだ

あ、これは、まだ大丈夫なのではないか?と私は思った


姑はなんという底力がある人なのだろう

このまま衰弱しても仕方ないところを

またわずかながら復活している

3年前も最終段階の看取りだときっぱりと病院から宣言されていたのに

看取りの施設に入った途端に立派に復活した

看取り詐欺のようなものだ

そんな詐欺ならどんどんしてほしい

何度でも騙してほしい

まずはこの年末を頑張って越していってほしい



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12月27日(月)


栄養士さんから電話があった

姑は割と食欲が回復してきたそうだ

ヤクルトもけっこう飲んでくれているようだ

姑の生命力がこんなに強いとは思わなかった


姑は無駄に気に病んだり先走って絶望したりしない

ある意味諦念


「なるようにしかならない

心配してもしょうがない

案ずるより生むが易し

なんとかなるでしょ」と

姑は元気なころからいつも言っていた

姑から学ぶことはまだまだ多い


姑が回復しつつあることを聞いて

夫も少し元気になった

 

 

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12月29日(日)



看護師さんから連絡があり

酸素が取り込みにくくなっているので

酸素を供給する処置をしたそうだ


年末年始は医師が施設にいないので

看護師さんが判断し処置するらしい

医師がいても

特別な処置はできないのだろうけれど


ヤクルトやヨーグルトは口にすることができているそうだ

夫は姑の好きだった梅干しやあんこを

また差し入れに行った

義弟とも心配そうに連絡を取り合っていた


酸素補給というと

鼻のところに酸素を出すチューブがつけられているイメージだったのだが

後で聞いたら酸素マスクだったらしい

もう肺も弱って酸素を取り込めない状況になっていたのだろう

もしかしてもう危篤に近い状況になっていて

姑は随分苦しかったかもしれない

酸素マスクがうざかったらしく

何度か手で取り払おうとしてしまったそうだが

やはり苦しそうになったのですぐにまた酸素マスクをつけましたと

看護師さんは言っていた

姑の苦しみもさりながら

弱っていく姑の呼吸を間近に見続けながら

年末と年始を過ごした看護師さんの気持ちを思うと

それもまた胸がいたむ


その後の連絡がなかったので

こちらから電話して状態を聞きたいとも思ったが

安定しているから連絡がないのだと思おうとして

電話はしなかった

私たち家族は

いつも通りにお正月の準備を進めていた



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1月6日(月)



姑の入所している施設から電話があった

医師が午前11時にベッドを見舞ったら

既に呼吸が止まっていたそうだ

朝見た時は生きていたと言っていた

病院ではないから

モニターで監視しているわけにもいかなくて

気づいたら死んでいたということはよくあることらしい


亡くなったとの電話を受けた時

あ、こんなに早くにかと、虚を衝かれた感じだった

夫と急いで施設に向かった

車で10分か15分で行けるところにある施設である

すぐ駆けつけられるところに姑がいてくれたことは

大変助かることだった


既に姑は別室に移され

小さな祭壇の前に横たわっていた

飾られているお花が使い回しの造花だったのは

いたしかたない


姑は全身に白い毛布がかけられていた

拘縮した手足のまま固まってしまっていて

毛布が不自然に盛り上がっていた

どうなっているのかと思い

膝の形を毛布の上からしばらくなでさすった

横座りのような格好だった


生きているうちにもっとさわってあげたかったが

コロナの渦中の入所だったし

触るどころか会うこともできない1~2年があり

面会できるようになっても

ビニールの垂れ幕越しで

いつも会話が通じているのかどうかもわからなかった

先月の面会でやっと垂れ幕がとれて

手や肩に触れることができるようになったばかりだった


夫がためらうようにしてから

顔の部分の布をめくった

苦しそうな顔ではなかったが

さすがに顔色は悪かったので

少しお化粧などしてあげたかったと思った


医師からの簡単な説明とお悔やみの言葉があった

年末の熱はインフルエンザによる熱ではなかったとも言われたが

何にせよその熱が

姑から食欲を奪い衰弱に向かわせたことは

疑うべくもない

特に病気ということも無く

老衰ということだった

93歳だった


搬送の車はほどなくして来た

近くの葬祭場は安置する場所がいっぱいで入れないというので

少し遠い葬祭場に運ばれていった

夫と私と職員さんたち5~6名が玄関口に並び

お辞儀をして見送った

皆 しばらく頭を上げなかった

その後 夫と私も最後のお礼を言いながら施設を辞す時

また一斉にみんな神妙にお辞儀をしてくれた

この雰囲気が一番つらい

急に涙が出てきた


もうお昼時になっていた

外は曇っていて少し雨が降っていた

このところずっと晴の日が続いていたのに

その日に限って寒々しい雨が降っていた

施設の玄関横の夏みかんの木が

100個ぐらい鈴なりに実をつけているのが

ずっと気になっていたが

もうこの木を見ることもないだろう



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​未知へ向かう

 

 

病気が見つかってからの姑は

何度も何度も

苦痛を伴う検査を受けなければならなかった

姑は

何も言わず 逆らわず

黙ってすべて受け入れていた

 

手術室の扉の前に連れていかれた時も

静かに車椅子に座っていた

その肩に手を置きながら

私の方が泣いてしまいそうだった

 

人間の最たる未知は

死だ

姑はそれをどう受け入れていったろう

拘縮して曲がったまま固まってしまった膝を

毛布の上から撫でながら

その先の未知を見渡す

恐れていた未知はいつか過去になり

その先の新たな未知へ足を踏み入れる

 

いつも思う

体は単なる器

着古した衣

だれもが必ずそこから抜け出し

羽のように自由になっていく

 

あなたがずっと会いたかった人は

もう近くまで来てくれているだろうか

その時あなたはきっと

はずみながら走り寄れる若い足を

確かに取り戻している

そこにあるのは

喜びとしての未知

​そう思っている

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1月7日(火)



義弟夫婦と待ち合わせをして

葬祭場で各種打ち合わせをした


2021年の夏にリハビリ病院で

すぐに看取りになると言われていたので

その時あらかじめ葬儀の見積もりはしてあった

今回はそれをもとにした変更点などの確認作業である


結局本当の看取りは2025年の1月になった

姑は3年半頑張ってくれたのだ


葬祭場と火葬場とお坊さんとの都合をすり合わせて

告別式は10日後になった

姑の妹さんたちだけを呼ぶ小さなお葬式にすることにした

つまり私たちの家族4人と弟夫婦2人

親戚4人で全部で10人


区役所に勤める義弟に手続きの方法を聞きながら

保険証、介護保険、年金などの解除の目途をつけた

夫はどんどん書類を作っていき

結構すぐに手続きは済みそうだ

私が手助けする場面はあまりない

 

とりあえず葬儀のための服装の準備などをして

式の流れなどを把握した

できるだけ夫の役にたちたいと思うが

夫がしっかり決めていってくれるので

私は静かに控えているだけである



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1月8日(水)



お葬式とそのあとの手続きについて

知りたがる私に

夫はなんとなくはぐらかし

詳しくは教えてくれない


自分で調べるしかないかと思って

しばらく放っておいたら

何気ないあるとき

「親と配偶者では手続きが違うから

あとでまとめておく」

と夫は言い

更に私の耳元に口を近づけて

ささやいた

「一緒に死のうよ」


そうはいかないでしょと

私は茶化して笑うが

そうあればいいと思う気持ちも

ないわけでもない

なんとなく

魂に触れられた感じがして

その言葉がいつまでも

耳の奥に消えなかった



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1月15日(水)


午後3時 葬祭場の畳の部屋で

湯灌と納棺の儀式に行ってきた

夫と義弟夫婦が参加した

畳の上に訪問入浴で使ったような浴槽が置いてあり

姑が少し浮いた形で寝かされていた

バスタオルで隠してある体を

スタッフさんがシャワーで洗っていく

髪も2回シャンプーした

ご遺族さまも洗ってあげてくださいというので

皆で手で撫でて洗ってあげた

姑の頭はやはりひんやりとつめたかった


そのあと顔をクリームのついたタオルでパタパタとするのも

私たち一人ずつやった

顔の紙パックなどもお愛想でしたあと

お化粧をスタッフさんが丁寧にやってくれた

顔に赤いしみのような部分があったので

それが隠れてきれいになっていったのでよかった


その後少し別室で待っている間に

花の刺繡の入った白い経帷子に着替えさせられていて

また皆で姑を取り囲み

脚絆、手甲の紐を皆で結び、足の下に草鞋を置き、胸に紙の六文銭などを置いた


形が整ったところで

皆で敷物ごと姑を持ち上げ

棺の中に入れてあげた

小柄な姑がちょうどよいくらいの大きさの棺である

これに大柄な夫や私が入ったら足が窮屈だよななどと思った


棺の中に持ってきたお手紙類やピンクのスカーフなどや

最後に着ていたパジャマなどを入れてあげた

スタッフさんが小さな折り鶴を8個ぐらい折ってくれていて

それを顔のまわりに散らした

そんな感じで1時間ぐらいかけて儀式は終わった


少しぽっちゃりした若い女性のスタッフさんが

終始はあはあと息が上がっているので

緊張もするだろうし大変そうだなと思った

「お顔が乾燥したら」を

「お顔が完成したら」と言い間違えたのが

唯一の可愛い言い間違いだった



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1月16日



告別式の日

昨日は春のように暖かかったのに

今日は曇っていて寒かった

お坊さんがなんと3人もいらっしゃった

長身の若いお坊さん2人は

シンバルのような鳴り物を鳴らしたり

木魚をたたいたり

年配のお坊さんの読経に唱和したり復唱したりして

それなりに活躍していた

見習いのお坊さんなのかもしれない

初七日の法要も合わせて行ったので

40分ぐらいかかった

実家の父母の葬儀に比べて長いと感じた


棺の中に花を入れてあげたあと火葬場に移動し

食事をしながらしばし待機


姑の骨は多くはなく

お箸でつまむと壊れそうな感じだった

骨壺半分ぐらいだった

母親の体がなくなってしまった実感を

夫や義弟は特に身に染みて思っているだろう

四十年前 若くて何もわからない嫁だった私を

満面の笑みで迎えてくれた姑のやさしさには

感謝してもし尽くせない

嫁姑の確執など何もない幸せな同居生活だった


夫は2~3日前から風邪で具合悪そうにしていたが

なんとか告別式を無事に終えられてよかった


とても寒かったし思ったより長時間だった

義理とか決まりとか抜きにして

葬儀は身内とごく親しい親族だけで済ませた方がいい

コロナの時期のお葬式から簡易になっていったのはよい傾向だ


ご近所の方や遠い親戚の方にはまだ知らせていない

もう少したってから

告別式は近親者で済ませたことや

弔問、香典、供物などの厚意を辞退する旨のハガキを作って

送付したり訪問できるとことは直接夫と共に挨拶にいくつもりだ



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姑の家族



姑にはたぶん9人ぐらい兄弟姉妹がいて

上の4人と下の5人とでは母親が違う


姑の上に姉と兄がいて

下の妹が生まれてすぐに母親が亡くなり

赤ちゃんだった妹は養女に出された


そのあと父親が

亡くなった妻の妹を後妻さんとして迎え

その後妻さんが5人ぐらい子どもを生んだそうだ


後妻さんはひどく目が悪くて

家事もよくできない人だったそうで

小学生ぐらいだった姑は

さんざん家の手伝いや子守をさせられたそうだ

ずっと背中に赤ちゃんをくくりつけられていたと

時々私に昔語りをしてくれたことがある


継母は実の子は可愛がったが

血のつながりのない上の子どもたちは

あからさまに差別をしていたそうだ


今思えば私が知る姑は

上の兄や姉に対する態度と

下の兄弟姉妹に対する態度とでは

微妙に温度差があったように思う

交流も下の兄弟姉妹たちとは割と薄かった

年賀状のやりとりもなく

家を訪問しあうこともなく

ただ冠婚葬祭の時だけに会う感じ


だから今回の姑の葬儀も

下の妹さん3人が来てくれたが

決まりとして来てくれた感じで

姉が亡くなったという実感も悲しみも

あまり無かったかもしれない


「実の母親が長生きしてくれていたら

もっと違う人生になっていた」

姑はよくそう言っていた


子どもの頃から苦労した人生だった

だからあんなにもやさしい人になった



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お葬式から1週間たって

 

 

姑は昨年の12月下旬の熱をきっかけに

ものを食べられなくなり

水分補給の点滴をつけられた

このまま看取りかと思われたが

その後少しは食べられるようになって

点滴が外されたとの連絡も受け

年末のひととき持ち直すことができた

お正月の数日は何事も無く

いや私が少し風邪を引いて

一日だけ部屋に閉じこもったが

その他は別に何もなく

このまま姑も元のように戻って

またしばらく平穏に過ごせそうだと思っていた

 

しかし姑はその間も呼吸機能が弱っていき

1月6日に息を引き取った

 

私は

自分の親の死ですら

なぜか大泣きすることはなく

割と平坦な心でいられた

同居していた兄はひどく憔悴して何もできないでいるし

兄嫁はもう長い間私の母とは一切口をきかない仲だったので

母の死に際しても何かしてくれるとは思えず

妹の私がしっかりしなくてはと

母の死の翌日には

台所まわりや冷蔵庫の大整理や掃除で

動き回っていた

兄に負担が及ばないよう

片付けまくった

夏だったし賞味期限切れの食材の廃棄なども

すみやかに行わなければならなかった

誰かのために何かをしてあげている感が

私を支えていたのかもしれない

 

今回 姑が亡くなってすぐに

夫は気丈にすぐにいろいろな手続きに着手し

落ち込んでぼうっとしている姿を

私に見せなかった

お葬式までの1週間

私の風邪がうつったのか

幾分風邪気味のようになって

毎日行っていたスポーツジムもお休みしていたが

やるべき各種連絡も頑張ってこなしていた

 

お葬式も終わった今

姑のもう着なくなった衣服や引き出しの小間物などを

片付けていくことが私の役目かもしれない

しかしまだ手をつけることができない

姑の額入りのやさしい顔の写真を見ては

私がやってあげたことは正しかったのか

ありがたいと思ってくれていたのか

それとも腹をたてることもあったのか

問いかけたくなってしまうのである



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姑の日記帳

 

 

姑の服を整理しはじめた

押し入れの収納に入っていた下着やパジャマ類、普段着など

いつもこれをよく着ていたなとか

これは私が買ってあげたものだとか

いろいろ思い出してしまうので

あまり見ないで大きなビニール袋に入れていった

 

服を取り除くと

下の方にノートが何冊かあった

「2015年 日記」と表紙に書いてある

姑が82~83歳ごろの日記だ

黒のマジックで大きめの字で

1日1ページぐらいの分量で文字を埋めている

 

この頃姑は脊柱管狭窄症の強い痛みがあったし

急に耳が聞こえにくくなったり

目が見えにくくなったりと

いろいろな体の不調が出始めていた

病院に行くにも夫や私がつきそうようになっていた

 

日記には

だんだん体の自由が利かなくなって

一人で病院に行けなくなっていくことの悲しさや

もっとしっかりしなくてはと自分を鼓舞するような記述や

散歩に出かけてもなかなか知り合いに会えない寂しさが綴られている

 

私に関しては

ママに迷惑をかけていて申し訳ないとか

オロナインを買ってきてくれたとか

ママは太極拳に行ったなどの記述が

ちらほらある

悪口めいた言葉は全然無くて

何か思うところがあったなら

本音を書いてくれてもよかったのにとも思う

 

思えば病院の付き添いや買い物へのお付き合いは

週に1~2日ぐらいはしていたが

姑は用事が終わるとすぐにベッドに入ってしまうので

そのままそうっとしておくことが多かった

 

家の中で顔を合わせれば挨拶もするし

世間話も少しはした

​体調はどうですかと毎朝声をかけた

それでも姑にとっては寂しかったかもしれない

私がもっとガチャガチャしたおしゃべりで

見たこと聞いたことをわーわーしゃべりまくるような人間だったなら

姑はもっと楽しかっただろう

夫もあいにく寡黙な方で必要なことしか話しかけない

 

そんなことを思いながら姑の日記を読み

あの頃もっと話を聞いてあげる時間を持てばよかったと反省している

このあと姑が大病をして寝付いてから

私は頻繁に姑のそばにお世話にいって話しかけたのに

姑はほとんど言葉を発することができなくなってしまった

 

だんなさんを亡くして30数年

家族が同居していたから物理的には一人ではなかったが

心の奥の孤独は消せなかっただろう

 

いくつもの悔いが浮かび上がる

姑の文字から声が聞こえてきそうなこの日記帳は

まだ捨てられそうもない


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喪服の出番

 

 

筋トレなどをしていると

体のサイズが微妙に膨張する

きつくなった普段着を買い替えるのは

別にどうでもいいのだが

喪服が入らなくなることは避けたい

買うと高いから

 

やはりおしりのあたりが鬼門である

ちょっともじもじしないと入らない

これ以上 体のサイズが膨らんだら

やばいかも

私のおしりの膨張は

筋肉なのか脂肪なのか

脂肪だけ減らすことはできないのか

 

そう思いながら

法事の前には喪服を試す

 

ちょっともじもじしてしまうが

なんとか入る

よし まだいけそうだ

この一張羅の喪服

出番はあと何回か

 

もう少しで

姑の四十九日の法要なのである

後飾り祭壇を片付けたら

また少し寂しくなる

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四十九日

 

 

姑の四十九日が無事済んだ

 

お経は30分もかからずに終わり

納骨も7~8分ぐらいだった

姑はこれで正式に仏になり

仏壇には黒い位牌が置かれることになる

 

旦那さんの写真の額の隣に

姑の写真を飾る

やっと夫婦で並ぶことができた

祖母の写真は悪いけれど

左の方にどいてもらう

 

いろいろと大変な人生だったことは聞いている

私が嫁として家に入り

2人の孫を生んであげれたことは

うれしいできごとだっただろうか

あの数年間は皆大声で笑っていた

 

60歳でだんなさんを亡くしたあたりから

姑の人生は陰りを帯び始めたかもしれない

でも立ち直ってからは

毎日友人とのゲートボールを楽しんでいたし

老人会の旅行も何度も参加していた

 

70代の終わりごろから腰がひどく悪くなり

80代の終わりには寝たきりになってしまった

望んだ幸福な晩年ではなかったと思う

 

姑は

運命に抗うことなくすべてを受け入れ

流れに沿うように淡々と生きているように見えた

いろいろな病院に入院したり

施設に入ることになったときも

車の中で

「どこへ行くの?」

と小さく問いかけるだけだった

 

姑の心の痛みを

どれだけ分かってあげれていただろうか

あまりにも静かすぎて

心の内が分からないことで

夫も私もみせかけの安心を

もらっていただけなのではなかったか

 

今はもう 

写真の中の微笑みに

声をかけることしかできない

沢山助けてもらった

沢山優しくしてもらった

​一緒に暮らせて幸せだった

あなたが姑で本当によかった

心からそう思っている

 

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姑の仕事

 

 

姑は服の仕立の仕事を自宅でしていた

いつもミシン踏んでいるか

針仕事をしていた

お客さんから高級な布地を預かって

体にぴったりあつらえた服を作っていた

決して失敗してはいけない仕事

随分緊張しながら布を裁ち

縫い合わせていっただろう

 

私にもいくつかスーツを作ってくれた

義弟の結婚式に着ていく服や

入学式や卒業式に着ていく服とか

おかげで私は店でスーツ類を買ったことがない

 

姑が作ってくれたものは

着られなくなってもなかなか捨てられず

クローゼットにしまいこんでいた

しまいこんだまま

すっかり忘れていた

姑が亡くなって

やっとそれらを処分しようと思った

 

若い頃の仕立てだから

もう流行おくれだったり

私の体に合わなくなっていたり

捨てるのも仕方が無い

高級なお店で買ったような

しっかりしたきれいな布地の服

私の為に選んでくれて

丁寧に縫ってくれた姑の思いに

今更ながら頭が下がる

 

姑は幼い娘のためにも

いくつか洋服を作ってくれた

白いフリルのついたピンク色のワンピースは

あまりに可愛らしくて

これはまだまだ捨てられそうにない

 

姑は

立派な仕事を果たしていた

そのことは決して忘れずにいたい






 
 
 

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