第47集 やる気のない田んぼ(2)
- kaburagi2
- 2024年12月1日
- 読了時間: 15分
更新日:1月18日
色を探す
ここ数日で
急に紅葉がはじまった
街路樹のプラタナスは
支度が間に合わなかったのか
紅葉というよりは半分枯れている
銀杏も薄い緑を残しながらも
だいぶ黄色く色づいて
風にはらはらと散っている
冬も間近
というかもう12月だから冬だけれど
散歩しながら色を探す
咲いているのはピンクや白の山茶花や
プランターのコスモスなど
他人の家の
鈴なりでほったらかしの
柿の実や蜜柑の実が気になる
うちに預けてくれたなら
無人販売で売ってあげるのに
柚子の黄色がこぼれている
寒さの手前で
実りの色が空に明るい
--------------------------------------
12月午後3時
午後3時を過ぎてからの日の傾きは
やはり12月のそれで
いつもの道を自転車で行くと
真正面から日差しを浴びる形になり
眩しさに前がよく見えなくなる
危険を感じて
つい自転車の走りもゆっくりになる
日陰に入ると
はや夕暮れが兆している
父も母も夏に亡くなったから
お葬式や法事も
明るくなってから出かけ
明るいうちに家に帰ることができた
ここから実家まで4時間以上かかるのだが
年の暮れの法事だったなら
行きも帰りも真っ暗だったろう
それはちょっと嫌だったなと思う
かつて高校の通学路だった商店街は
12月になるとどの店も
競うようにクリスマスツリーを飾っていた
雪を模した白い綿なども乗っていて
キラキラしたオーナメントが飾り付けられていた
それをいくつも見ながら帰宅するのが好きだった
12月の午後3時過ぎの時間軸
縦に切り取ると
私の12月が見えてくる
笑ってばかりでもなく
沈んでいるばかりでもなかった
乗り越える気分を保とうとしながら
いつも夕日を見ていた
父も母も亡くなって
故郷はもうだいぶ遠ざかった
故郷に帰る理由も今はほとんど無い
儀式に呼ばれる時以外は
忘れてもいい場所になった
そう言い切った後の
胸が痛むような感傷も
徐々に消えていくことだろう
--------------------------------------------
足ピンの柴犬
やる気のない田んぼの
道を1本隔てたところに
柴犬を飼っているお宅がある
犬は大概家の中にいるのだが
晴れている日など外に出される
家の北側の細い隙間の奥に
小さな犬小屋もある
すぐそばの柵の向こうは
住宅の建築が始まったばかりで
まだ基礎を打っている状態の平地である
柴犬は時々
その柵の隙間に前足を伸ばし
後ろ足で立って開けた風景を見ている
その前足が
びっくりするほど前にピンと伸びている
あまりにピンとしているので
思わず2度見してしまう
前に思いっきり伸ばしていて
とても姿勢がいい
その姿を見る度に
微笑みながら
立ち止まってしまう
こんなに前足を伸ばす犬は
初めて見た
私が無礼にじろじろ見ていても
柴犬は平気で足ピンの姿をつづけてくれる
その無関心さも気に入った
この柴犬の姿をたまに見に行く
晴れている日なら
たまに見れる
そこは私の幸せスポットの一つなのである
------------------------------------------------
禍福は糾える縄のごとし
禍福は糾(あざな)える縄のごとし
という諺が好きだ
その言葉の響きも意味も
「糾える」などという言葉は
この諺でしか知らない
私の縄を振り返ってみる
10代か20代にかけて
痛みを伴うしつこく長引く病気をした
しかし治ったのだからそれは大きな不幸ではない
実家に対して妙な確執を感じて勝手に疎んじた
それもお互いに愛を表現するのが
とてもヘタクソだったというだけだ
これも大きな瑕疵ではない
子どもたちも学校生活でいろいろあった
どうしようもなく道からはずれていって
思い描いていたような当たり前の道を進んではくれなかった
それでも今はなんとなく安定して生活してくれている
これも私にとっての不幸ではない
姑の介護などでつらいことはあったが
出来る限りのことはしてあげられたと思うし
姑は今は私の手を離れて
施設で丁寧にみてもらっている
これも不幸な出来事ではない
尋常ではない苦しみも
過ぎてしまえば
記憶の精度も鈍くなり
それも後の人生に役に立つことだったと思い返せる
禍を力づくで福に置き換えてきた
この今にたどり着けているのなら
すべてが福への成り行きで
夫と共に暮らせていることだけでも
これ以上はない福だ
だから私が糾う縄は福が過剰だ
そう思いながら生きている
---------------------------------------
すする
夫と入った喫茶店で
オムライスなどを食べたのだが
隣の席に座っていた若者が
ナポリタンを「ずずずっ」と
勢いよくすすって食べているのを
「うわ、ナポリタンもすするのか」と
興味深く拝見した
私は麺類を全然すすれないのである
気管に入って咳き込みそうで
どうもすするという行為を起こせない
そばもうどんもお箸でたぐって
もぐもぐと地味に食べるのだ
若者が「ずずずっ」とすすっている音をききながら
ケチャップが跳ね散らかって
その白い服汚れないかなあと
ちょっとだけ心配になる
しかし豪快な「ずずずっ」は
健康な食欲を感じさせてくれて好ましい
そこには力強い生命のエネルギーがある
若く前向きなパワーがある
「うん、いいよいいよ」とうなづきながら
隣の席でかしこまってその音を聞いている
夫もナポリタンを食べたそうにしている
私も今度すする練習をしてみようか
まずはそばから
上手にすすれる気はしないのだが
それにしてもナポリタンをすするのは
かなりの吸引力を要する
若者の唇とほっぺは
キスをする時も
なかなかの効力を発揮しそうだ
-------------------------------------------
防災無線
朝7時過ぎ頃に
外で太極拳の練習をしていたら
防災無線の放送が聞こえてきた
エコーがかかってしまって
全然聞き取れない
北朝鮮がまたミサイルでも撃ったのかとか
乾燥しているから火災に注意してとか
だと思って無視して練習を続けた
数分後
また放送が流れた
さっきは男性の声だったが
今度は女性の声である
今度は
「身の安全を確保して」とか
「見つけたら通報してください」などと言っている
何かが出没しているらしい
私がとっさに思ったのは
凶悪強盗が発生して
犯人が多摩区内を逃げまわっているのではないか
ということだった
これはちょっと家の中に入った方がよさそうだ
ということで
家でパソコンで調べてみたら
多摩区内でイノシシの目撃情報があったということだった
イノシシか
これは初めて聞いた
タヌキとかアライグマとかハクビシンは
よく聞くのだが
太ったタヌキと見間違えたんじゃないの?
とも思ったが
本当にイノシシがいて
出くわして目が合ってしまったら
結構恐ろしいだろう
やつの突進力は相当なものだ
よく知らないけれど
そのうち
多摩区内でクマの目撃情報も
あるかもしれない
猿とか鹿とかも当たり前に来るかもしれない
環境の変化とか気候変動とか
生態系が今までのままであるはずがない
人間だって生活を変えないといけない
日々何が現れ何が起きるかわからない
油断ならない世の中だ
といっても先んじて
何の手立てができるわけでもないのだが
ただ防災無線の聞き取りにくいのは
即刻何とかできないものか
聖徳太子の耳でも聞き取れそうにない
重大なことがあったとしても
何も分からないと
諦め気分になってしまうのだ
----------------------------------------
焦げくさい
玄関のドアを開けて外に出たら
少し焦げ臭いにおいがした
朝食を作っていて誰か鍋でも焦がしたか
さつまいもをオーブンで焼き過ぎたか
ご近所の誰かが
大慌てで換気扇を回している姿が目に浮かぶ
以前姑はとろ火で何か煮物をしていて
そのままテレビを見ていてすっかり煮物を忘れ
何度か鍋を焦がしたことがあった
二階の私のいる部屋にまで
その臭いはすぐに上がってきたので
私は急いで下を見に行ったものだ
あの時の我が家の換気扇も
ご近所に焦げ臭いにおいを撒き散らしていただろう
火事だろうかとか
不穏な気持ちも湧きあがらせただろう
もうずっと焚き火や焼却炉の匂いをかがない
昔は落ち葉などは絶好の焚き火の具だった
胸の中を軽く焦がすような
秋の午後はそんな匂いに満ちていた
台所でやらかしたお焦げは
懐かしくも遠いそんな匂いの記憶と重なる
早朝 洗濯物を干している間じゅう
その匂いはずっとあたりを漂っていた
誰かが真っ黒なお鍋を前にして
きっとため息をついている
これを「異臭」という一言で済ましてしまうには
もったいないものがある
古びた若い頃の写真の中に
もやのように閉じ込めておきたい
苦みを伴った
郷愁の断片として
----------------------------------------
一年とか一日とか
区切るとしたら
もう「年」ではなく「日」になったのだと感じる
12月から1月の移行を
昔は大きな溝を飛び越える感覚で受けとめていたが
今は普通の月跨ぎのようでしかない
お正月に義弟夫婦が来るので
お寿司を用意したり
買ったおせちを並べたりもするが
1日2日過ぎれば
あとは普通に寒い平凡な月である
今年から今年こそという意気込みも別にない
願うとしたら
昨日と変わらない平穏な今日であれ
ということぐらい
お正月から弩級の災害が来ることもあるということは
お正月が特に神や仏に許された
特別な安息日や福日ではないということだ
どの一日も大切に心して生きる
言うなれば
朝 元旦のように始まって
夜 大みそかのように終わる
一日で四季を生きる
そんな気持ちで今日という日の中に自分を投じる
時折交じる不穏な雑音も
できれば淡々とかわして
ずるく生きられるといい
-----------------------------------------------
日記帳を買う
来年は日記帳を買わず
分厚めのノートにしようと思っていたのだが
年末に近くなってやはり思い直し
いつもの日記帳を買った
高橋書店の臙脂色の革っぽい表紙で
1ページに2日分書けるやつだ
2010年ぐらいから
同じ種類の日記帳を買っていて
もう引き出しに随分たまっている
2011年の大地震のときの記述も残っている
大きな事件でも無ければ
スペースはそれほど埋まらない
普通のノートに自由書きしようかと思っていたが
スペースが自由に取れるからといって
多くは書かないような気もする
それより
いつも通りの日記帳を買わないことに
急に気持ちが落ち着かないものを感じてしまったのだ
占いとか預言とか全く信じていないと言いながら
いつもの日記帳を買わなかったことが
日記が不要になる事態を暗示することになるのではないかと
変に不穏な感情が起きてしまったのだ
ということは
私は毎年高橋書店の日記帳を買わざるを得ないのか
日記帳で一年の安泰を買えるわけでもなく
日記帳が不要になる事態は
いつでもどこでも起こりうるものだ
それなら
高橋書店の日記帳などにこだわらず
普通のノートでもいいわけなのだが
しかし年末近くになって
兆したわずかな感情によって
我慢できずまた買ってしまった
2025年12月31日までしっかり書き込む予定の
これまでと同じ日々を約束してくれそうな
落ち着いた臙脂色の表紙の
古い馴染みの友人のような日記帳を
--------------------------------------------------
お風呂にて
夫がお風呂からなかなか出てこない
ふと不安になって見に行った
夫は浴槽の中で
首を前に垂れていた
「寝てるの?」と声をかけたが反応がない
もう一度そばに寄って「寝ちゃった?」と声をかけたが
やはり動かない
私は「むむっ、これは」と少し焦って
強めに肩をゆすりながら
「寝てる?」と言ったら
夫はやっとゆっくりと顔を上げて
「寝ちった」と言ってぼんやり笑った
「お風呂で寝るとおぼれ死ぬよ」と言って
私はそのままお風呂場から出たが
夫がちゃんとお風呂から出てくるのを確認するまで
ずっと不安だった
こんな形で夫に死なれるということも
あり得ることだ
今回は回避できた運命
思えば私にも我が子にも
悪い運命に見込まれたなら
死んでいたかもしれないという瞬間は何度もあった
案外、生死の立ち位置は
一本のラインの向こうとこっちというだけの
単純な移動なのかもしれない
お風呂を出てから夫は
「死体は畑に埋めてくれよ」とか
「直葬にして誰も呼ばなくていいから」とか
「坊さんもいらないよ」とか
「死体が入っていたお風呂に入るの嫌だよね」とか
「土左衛門」などと
軽口をたたいて笑った
お笑いで済んでよかったが
さっきは本当にひやっとしたんだから
でも生きていてくれるなら
もう何でもいい
--------------------------------------------
姑の面会(2024年12 月16日)
姑の面会に行ってきた
前回の面会では
姑はほとんど意識もないような反応の無さだったし
2週間前の義弟の面会によると
ベッドから起きられもせず
やはり意思疎通もできない状態だったそうで
これはもうかなり弱ってしまっているのではないかと
夫とともにお葬式の書類などを確認していたところだった
ところが今日の面会では
姑はきれいな顔をして髪も整えられ
話しかければちゃんとうなづいてくれて
全くしっかりしていた
「誰だかわかる?」という夫の問いかけに
振り絞るような大きめの声で
夫の名前も言うことができた
首が前にガクッと落ち気味なのを
頑張って何度も顔を上げてくれて
繰り返し繰り返し夫や私の顔を見ようとしてくれた
麻痺があるので手や足に拘縮があって
不自然に折り曲がっていて
もしかしたら身体的苦痛も結構あるのかもしれない
けれど姑はほとんど苦痛を訴えない
寝たきりになって自宅介護をしていた時も
不思議に痛みを訴えることがほとんど無かった
つらいこともあったのだろうが
声が出しにくいこともあって
つらいとか苦しいとか言葉で泣き言を言ったことはないのだ
えらい人だったんだと改めて思い返す
泣き騒いだり嘆いて絶望したりが一切ない人だった
それだけで私をどれだけ楽にしてくれていたか
介護の渦中ではいろいろな心遣いを見失っていたし
何の感情も表してくれないことに不満も感じていたが
まさしくその精神の平明さが私を救ってくれていたのだ
今にしてそのことに思い当たり心から有難く思うのだ
姑の姿をまだまだ見ていたい
まだ頑張ってと思ってしまう私を許してほしい
------------------------------
コロちゃん
やる気のない田んぼのところの
足ピンの犬の
犬小屋のそばの柵に
お名前のプレートがついた
「コロちゃん」という名前だそうだ
「ほえていてもおこっているわけではありません」
という説明書きもある
今日のコロちゃんは
ピンク色の服を着て
細長い敷地でねそべっていた
もう午後の日陰で
けっこう寒い
思えば家の外につながれている犬は
あまりみかけなくなった
お散歩のとき以外は
たいていはどの犬も
家の中でぬくぬくしている
コロちゃんは冬でも時々外につながれている
成犬のちょっと手前の小柄な柴犬
実に普通の犬である
名前も昔からあるような普通の名前
無理に可愛くしたようなあざとさがなく
実にすっきりとした犬らしい犬である
コロちゃんは私にはほえてくることはない
通りすがりに前を通ってたまたま会えれば
つい立ち止まって見てしまう
コロちゃんも私を気にしてちらちら見てくる
胸に抱いて撫でてあげたくなる
犬には犬の寂しさ
私にも
コロちゃんに会いに来たくなる理由がある
外にいない時は
お散歩か家の中に入れてもらえているかなのだろう
それはそれでほっとする
--------------------------------
習慣の変化
年末も近づくと
朝はどんどん暗くなる
それでも5時半には目が覚めてしまうから
まずエアコンの暖房をつけて
それからテレビのニュースを見ながら
少しずつ少しずつ身支度をして
6時15分には布団から出る
6時半くらいから太極拳をひととおり通したい
まだ少し薄暗い気もするけれど
朝らしい空にはなっている
元旦の頃には
7時を過ぎてやっと夜明けだ
朝が遅くなると
私の太極拳がはしょられてしまう
いつでも隙間時間にやればいいものを
決まったルーティンについしばられる
そうだ いつやったっていいのに
なぜか習慣というものは正義の顔をして
変化を嫌う
いつやったっていいのに
習慣を変えるのは
結構大きなエネルギーが必要だ
破滅した世界では
元の生活に固執しすぎて
新しい変化についていけない者から順に死んでいくという
いつどこでなにを
習慣を破壊していくパワーを持つことが大事だ
たかが朝の太極拳の習慣
いつどこでなにを
もっと自由でいいではないか
一日の中を柔軟に泳いでいきたい
-----------------------------------------
12月29日
お店がいつからいつまでお休みするのかを
散歩しながらあちこち見てきた
近くのスーパーがしっかり3日間お休みなので
買いだめも必要かもしれない
そう言っていつも無駄に買い過ぎる習い
人も車もだんだん減ってきて
やっぱりいつもと違う感じ
参加している教室もお休みなので
無駄に遠くに散歩に出かけてしまう
両親が生きていた頃から
お正月は車が渋滞するからと
実家への帰省をはずしてきた
賑やかに人が集う感じのお正月は過ごしてこなかった
義理の弟夫婦が来てくれるぐらい
基本 何も面白くもない静かな正月だ
出前のお寿司は食べるが
高級寿司でもないので安っぽい気持ちになる
初詣には歩いて行ける神社仏閣に
まとめていくつもお参りする
お正月と言えば長い散歩なのだ
おととし白い花だけの花束を買った花屋で
今日はお正月用の
黄色や白や赤い花の入った花束を買った
花屋のおじさんは
愛想よく手際よく花をつつんでくれた
二人笑顔でお辞儀をして
「ありがとうございました」を言い合った
今年は何回「ありがとう」を言えただろう
来年は何回「ありがとう」を言えるだろう
もっともっと「ありがとう」を言いたい
----------------------------------------
12月31日の月の形
ここ数日 細い細い三日月だったが
今日 とうとう新月に至った
それは日記帳の日付の備考欄に
●のマークがついていることで知った
去年の大晦日は半月より少し太っていた
それも日記帳のマークで知った
時々気が向くと
月の満ち欠けカレンダーを買う
月が出ている夜は
カレンダーの月と
実際の月とを見比べる
月がどんな形であろうと
私の生活に何の影響もないけれど
満月の時は少し長く月に見入る
「満月」「満月」と言って
夫に教える
夜中 トイレの窓を不思議に明るくしているのも
満月の強い光
夜なのに太陽を感じさせてくれる光
今日は真っ暗で真っ黒な新月
それはおみくじの大凶にも似ていて
これからよくなっていく兆しなのだ

Comments