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第1章 入学                         

更新日:2023年3月28日



 大学時代、私はこの青春の絶頂期をどのように過ごしたのか、ただそれを書き記したいばかりに、生まれてから大学に合格するまでの事を、数年がかりで書いてきたのだが、いざその先を書こうとするとき、私の心に重苦しい気後れが生じたのは、どういうわけだったのだろう。


 大学生活を描いた小説は数多くあるだろうし、私はそういったものを今までに何十冊も読んできたはずだ。「風の歌を聴け」「二十歳の原点」「青春の墓標」「されど我らが日々」「青春の門」「僕って何」‥‥そのどれもがある意味では普遍的な青春の群像を描いていて、共感できる部分も多いにしても、尚、私の過ごしてきた日々をそれらによって代弁させるわけにはいかないと感じざるを得なかった。

 あの光輝に満ち、しかも残酷だった日々。どんなに拙くても自分の言葉で書いておきたいと思ってきた。標本として、どのように分析されてもよい。記憶が血を吹いてもよい。どうしても書かなければならないと思ってきた。しかし、その思いを温めれば温めるほど、私は臆病になっていく。

 治療的だと思われた行為が、むしろ症状を憎悪させる事があるように、青春を詳らかにすることによって、思いがけない致命的な瑕疵が、あらためて私の人生を脅かしそうで、むしろ何も手をつけずこのまま忘れ去ることをさえ、心のどこかで望んでいるのである。

 しかしまた一方で、何も書かないまま、書き記すべき事柄を記憶から失くしてしまった時、必ず後悔するであろうことも確かな事だ。だから今、私は思い切ってペンを執ろう。私自身の青春に対しての、それは義務なのだと自らに言い聞かせながら。


 大学に合格したのは、私が十九歳になってすぐの事だった。兄は国際基督教大学の修士課程を終え、私が東京に出てくるのと入れ違いのように宇都宮へ帰り、佐野で高校教師をすることに決まっていた。東京にはもう誰も頼りにすべき人がいなかった。いざという時、頼れる人、相談できる人、訪ねていける人がいなかったという事が、恐らくは私の一人暮らし全体を貫いた強い緊張と孤独感の理由だったろう。

 東京に向かう電車の中で、風景が瑞々しい緑から無機質な灰色に変わっていくのを、心の隅で震えるように感じていた。大宮、浦和、赤羽・・・。駅のホームは見知らぬ人でごったがえしている。見知らぬ人々! 私は私を知らない人々の中に敢えて飛び込み、自分を変えてみたかったのではなかったのか。ここにいる人々は、確かに私のことを何も知らない。彼らにとって私の存在はゼロだ。新宿駅に降り立ち、四角張ったビル群が空間を塞いでいるこの大都市を眺めやると、ここには何もかもあると同時に、大切なものは何もないという気にさせられるのだった。圧倒的な豊かさの中で、私は初めてゼロの感覚を味わっていた。


下宿探し


 早稲田大学合格、その晴れがましさの裏で、早くも実生活ははじまろうとしていた。入学手続き、入学式を終え、学部ごとのオリエンテーションが行われるまでの数日間のうちに、まず下宿先を探さなくてはならない。私一人ではどうしたらいいか全く分からなかったので、やむなく父に助けを請うた。一人暮らしを自ら望み、家族を振り切るように東京に出て来たのに、この体たらく。まったく情けないことだった。

 大学の下宿斡旋の掲示板の前は、地方出身者らしい者たちでひしめいていて、落ち着いて下宿を探す雰囲気ではなかった。父はその日一日しか休みを取っていなかったので、是が非でもその日のうちに下宿を決定しなければならなかった。私と父はさんざん迷った挙句、「原宿駅より徒歩5分、下宿代1か月3万円、女子学生のみ」という触れ込みの下宿を訪ねてみることにした。

 原宿は駅はこじんまりとしていて、むしろローカルなイメージだったが、一歩改札を出ると待ち合わせの若者たちでごったがえしていて、間を縫うように通り過ぎなければならなかった。しかも服装や髪の毛に奇抜な装いを凝らした者たちがいやに多く、東京にまだ慣れていない目には不穏に映った。

 駅から左手の方に歩いていくと、道沿いにファッションデザインスクールがあり、その前には駅で見た人種より更にあり得ない格好の若者たちがたむろしていた。黒ブーツに黒マント、パンク、アバンギャルド、レゲエ、ロックンローラーもどき、丸メガネ、派手なバンダナ。私は彼らの前を目を伏せて足早に通り過ぎた。こわい、と感じた。私は父に、

「ここはなんだか雰囲気がいやな感じがする。」と言ったのだが、なんとしてでも今日中に下宿を決めなければならないと必死だった父は、

「これぐらい我慢して。まず下宿を見てみよう。」と先を急いだ。

 駅からは確かに近かった。原宿表参道とは逆の方向に裏道を少し行くと、思いがけず古びた住宅地がある。その一角に目指す下宿はあった。女主人は60~70年配で、髪を豊かに結い上げきちんと着物を着こなした、いかにも東京人らしいちゃきちゃきした人のようだった。

「私はこのあたりの町内会長をしているんですよ。この下宿も主人が亡くなってから部屋がもったいないもので、十年前ぐらいからやっているんです。昨日も上智大の新入生の女の子が入りましてね。そうですねえ、早稲田でしたら高田馬場だからここも近いし便利ですよ。原宿駅から左にほんのちょっと入ったところに、もう一つ小さい駅があったでしょう? あれは皇室駅で、時々天皇陛下がご利用になられるんですよ。私なんかも天皇陛下がいらっしゃるときは見にいくんですよ。原宿は表通りに行けばにぎやかだし、若い人には面白いんじゃないですか。これも何かの縁だし、よろしくお願いしますね。」

 私に有無を言わせずに、話はどんどん決まっていった。父はこの女主人のことが気に入ったようだった。しかし私は、この町と、この女主人にどうしても馴染めないものを感じていた。玄関先で見た男物の靴のことも気持ちのどこかに引っかかっていた。下宿代3万円も、その当時としてはかなり高いものだった。

 女主人に案内された部屋は二階の六畳間で、裸電球に近い侘しい電球がぽつんとぶら下がっていた。片隅に小さな流し台とコンロがあり、パッキンの状態が悪いらしい水道の蛇口からは絶えず一定の間隔で水滴が滴っていた。窓は南と東についていて部屋は明るい方だったが、窓から見える景色はくすんだ矩形の建物ばかりで、原宿の派手さなど微塵も感じられない沈滞した空気が立ち込めていた。

 この部屋の階にはもう一つ部屋があり、そこには受験生の母子が入っているのだという。受験生は男子学生だということだったが、もうすぐ下宿を出るはずだと、女主人は説明した。

 ひとまずこの下宿を辞して近所を散策してみると、路地の至るところに「痴漢に注意」の立て看板があるのに不安感をかきたてられた。先ほど見た怪しい風体の若者たちが頭に浮かんできた。ファッションだけで人を判断することは間違っているけれど、情報があまりに少ない時は、見た目の印象に頼らざるを得ない。ここは危険な町だと思った。こんな所に住んで大丈夫だろうか。上智大の女の子がすでにもうあの下宿に住んでいるということだから、後で相談してみようかと思った。

 春は新しく決定しなければならないことがあまりに多すぎる。私は少し疲れてしまっていた。いろいろなことを気にし始めるときりがない。とりあえずこの辺で妥協して少し様子を見た方がいいのかもしれない。父も疲れているようだし。私も無理を言って東京に来たのだから、これ以上わがままを言える分際ではなかった。思い描いていた下宿のイメージとはどこか違っていたけれど、別のところを探しに行く気力は私にも父にももう残っていなかった。


 荷物をまとめて東京へ引っ越したのは、それから1週間後ぐらいのことだった。本棚、こたつ、大学の生協で買った一人用の冷蔵庫、ふとん。大きな荷物はそれぐらいのものだった。父と兄が荷物運びを手伝ってくれた。

 大体片付いて二人が帰ってしまうと、いよいよ一人の下宿生活の始まりだった。まだすべてがよそよそしかった。何をしたらいいかわからないまま、ポットに描かれていたオレンジ色のけしの花の絵をノートに描き写したりしていた。部屋の中は寒々しく、私はまるで水槽の底深くにひっそりと身を潜める小さな魚のようだった。詩を書くことも、本を読むことも既に、頭痛を伴った遠い目的になってしまい、まず、何を食べ、何を着、どう時間を潰すかが最も重要な日々の課題となったことを知った。

 こたつにもぐりこんでじっとしていると、山手線の電車の音がいやに近く大きく聞こえた。しかも電車の往来はかなり頻繁であり、通り過ぎるごとに地響きのような振動が部屋を震わせ、ぶらさがっている電灯が大きく揺れた。下見に来た時にはこの騒音はちっとも気がつかなかったが、今、ひっきりなしに音に苛まれていると、この先耐えていけそうもないような気分になってくるのだった。


 しかも夕方になって更に新たな騒音が加算されることになった。それはダブルベースのようなひどく低音の楽器の音だった。すぐ下の部屋で演奏されているらしく、メロディーを伴わないボン、ボンという単調な、しかしボリュームのある響きは、窓ガラスをビシビシと震わせ、空気を重苦しく圧迫してくるのだった。

 一体誰が演奏しているのだろう。私の脳裏には、玄関先にいつも脱ぎ捨ててある男物の黒い革靴が浮かび上がってきた。女子学生だけのはずではなかったのか。同じ二階にも男子の受験生がいるといっていたが、受験が終われば出るはずだった。その人とは別に1階にも男性がいるのかもしれない。心が騒ぎ不安な気持ちが沸き上がってきた。

 私は宇都宮の自宅に早速電話を入れ、この下宿には男の人がいるらしいこと、楽器の練習を夕方2時間近くもやっていて、その音があまりにも大きくて堪らないことなどを訴えた。両親は下宿の女主人に問い合わせてみるからもう少し我慢するようにと言った。

 男性が住んでいるのかという問いに対する女主人の答えはこうだった。

「あの人はうちの親戚の人で、音楽大学の生徒さんなんです。良い人ですから何も心配することはありませんよ。昼間はほとんど部屋にいないしね。大丈夫です。」

そういう人がいるなら、下宿を訪ねた当日に私たちに言うべきではなかったのか。アパートなどの個室単位なら隣人の情報はいらないかもしれない。しかし、個人の下宿屋なら下宿人たちと顔を合わることも頻発するだろう。他にどのような下宿人がいるのか、すべて知らせるのが大家としての義務だったのではないか。自分に都合の悪いことは隠していようという女主人の態度に信用できないものを感じた私たち家族は、女主人に内緒で別の下宿を探し始めた。

 すぐに次の下宿が探せるわけもなく、いやな気分の日が何日か続いた。山手線のひっきりなしの電車音、音大生の長時間の楽器練習。外に出ればヤンキーのような人たちがうろついているし、あちこちに痴漢注意の立て看板。家の中にいても、外に出ても心落ち着く場所が無かった。


大学のガイダンス


 そんなある日、第一文学部の組ごとのガイダンスが行われた。私はドイツ語を第二外国語として選択していたのでO組になった。ドイツ語を選んだ事にはっきりした理由はない。強いて言えば兄もドイツ語を選択していたので、辞書や問題集を譲り受けられるというメリットがあるぐらいだろう。O組になったことは、きっと何かの運命だったのだろうとは後で考えることで、その時はただ訳もわからず、大学では悔いの無いよう自分の存在をアピールしてみようと、少し気負って教室に入っていったのだった。

 雨の降る少し暗い日だった。横長の机の上には大学の生協の人が配ってくれた「ピ-プル」という銘柄の、横に平べったく四角い形をした黄色いパッケージのジュースが置かれていた。私は一番うしろの席に座って、そのやけにすっぱいレモンジュースをすすっていた。

「ここ、いいですか」

そう言って私の隣に一人の小柄な女子学生が軽く首をかしげながら佇んだ。

「あっ、どうぞ」

 その人は静かに腰をかけた。眼鏡をかけ、髪の毛は幾分天然パーマ気味で、服装も紺のジャケットに地味な暗色のズボンといった、いかにも地方出の感じのする人だった。眼鏡の奥の目は二重瞼で、美しく落ち着いて澄んでいたのが印象的だった。

 彼女はちょっと微笑みながら、私にこう話しかけた。

「同じ組ですね。どうぞよろしく。名前は菊池洋子です」

「こちらこそ、どうぞよろしく。小島恵子といいます。どこの出身ですか?」

「岩手県の遠野なの。どこ出身ですか?」

「栃木県の宇都宮なんです」

「ああ、宇都宮。近くていいわあ。岩手だと東京まで遠くって。電車に乗っていていい加減疲れちゃう」

「岩手県なんですか。確かに遠いですね。東京まで何時間?」

そんなことをお互いぽつりぽつり話して、皆が集まるのを待っていた。


 新入生ガイダンスは、生協スタッフでもある大学の先輩による生協の案内や、学生生活についての先輩としてのアドバイスなどの内容で、たいして重要なものではなかった。

少し緊張して参加したわりにあっけなく済んで、菊池洋子ともそこで、じゃあ、また授業が始まったら、と言って別れた。

 私は菊池洋子との出会いをもっと大切にすればよかった。友だちになれそうな人だったのに、数日後授業が始まった時、別の人と席が隣り合わせになったばかりに、彼女とはあまり話をしなくなってしまった。彼女が4年後、銀座線で鉄道自殺するとは、O組の皆も、私も、もちろん彼女自身も、その時は想像だにすることはできなかった。


 O組は男子と女子が半々ぐらいの割合だった。担任の女性教授が必修科目や選択科目の種類や登録の仕方などの説明をしてくれたのだが、どうも声が小さくてよく聞き取れなかった。四十代ぐらいで、髪を後ろに束ねたいかにも切れ者そうな美しい人で、教養科目の英語を受け持つということだった。水色のスーツがよく似合っていた。講義が始まるようになると、その美貌は男子学生の密かな話題の種となったが、授業は機械的で魅力に乏しく、教養科目を一応のノルマに沿ってそこそこに教えているようにしか見えなかったので、人気が爆上がりになるということもなかった。

「現役で入った人はどれくらいいますか?」

と、教授がいきなり尋ねた。挙手をした者はクラスの半数ぐらいだった。「おおっ」というどよめきが流れた。

「じゃあ、一浪の人」

残りのほとんどが手を挙げた。「うーん」納得の声が上がる。

「それでは二浪以上の人」

二,三名がちょっと恥ずかしそうに手を挙げた。

「二浪以上の人って案外少ないのねえ」

女性教授は面白そうに笑った。

 私も一浪だが、女子でも結構浪人している人がいた。私なんかまぐれで入ったようなもので、きっと皆はすごく頭がいいんだろうな、東大を受けたような人もいるんだろうな。果たして授業についていけるだろうか。そんなことを考えて、なんだかちょっと先行き不安になった。


 帰りは高田馬場駅までバスに乗った。一年生のうちは駅から大学までの2キロ半ぐらいの距離を、不甲斐ないことに歩き通すことが出来ず、よくバスを利用した。1年間の異常な浪人生活で、驚くほど筋力が落ちてしまっていたのだ。

 バスは時間によって空いていたり混んでいたりした。混んでいる時は痴漢などもそれ相応にいていやな思いもした。早稲田生だって男であれば、自分の意に反して痴漢のような状態になってしまうのだろう。バス料金はその頃九十円ぐらいだったろうか。二年後に百三十円に値上がりすることになった時、学生たちは派手なストライキをして百十円に食い止めたのだった。

 バスに乗るよりは歩いている学生の方が圧倒的に多く、それぞれにラフな格好をした学生たちが、黙々と足早に大学に向って歩いていた。文学部は女子が多かったが、すべての学部を総括すれば、早稲田はやはりほとんどが男子と言ってもいいかもしれない。長い足でサッサッと歩いて行く男子学生に混じって、あの商店街の狭い歩道を、肩もぶつからんばかりにして通学する勇気は、新入生の私にはまだ無かった。地下鉄の東西線を利用すれば一駅ほぼ二分で大学のすぐ近くまで行けたが、バスよりも痴漢が多いらしいので、これはよほど天気が悪いのでもない限り乗らなかった。


 高田馬場駅前にはBIG・BOXというショッピングビルがあった。BIG・BOXのビルは十数階あり、表のオレンジ色っぽい壁面には走っている男性の絵が白抜きで描かれていた。絵替わりで、ダ・ヴィンチの人体図になるときもあった。

 一階にはブティック、イタリアンレストラン、サラダの専門店、喫茶店などがあった。過当競争が激しいらしく私が東京に住んでいる間に頻繁に店が変っていた。二階には三省堂、衣料品、レコード店、風月堂などがあった。五階にはスポーツジムとレーザークレイといったレジャー施設があり、私はよくここに見学に来たものだった。特にレーザークレイは、壁面に光の円盤が飛んでいくのを、レーザー銃で撃つのだが、人がやっているのを見ていると実に気持ち良さそうで、内心自分でもパァンと円盤を撃ってみたかった。しかし一人でやる勇気が出なくて、最初の一、二年はギャラリーで見ているだけだった。

 BIG・BOXと通りを一つ隔てた向かいのビルの六階には、芳林堂という規模の大きな書店があった。六階のフロア全部を使って図書館のようにあらゆる分野の本が揃えてあって、専門書なども豊富だった。いつも学生や勤め人でごった返していて、本より人間の数の方が多いと感じられる時もあった。暇な時はこの芳林堂か、BIG・BOXの三省堂、大学近くに数多くひしめいている古本屋など、いつもどこかの書店をのぞきに行くのが、東京での私の習いとなった。

 圧倒されるような書物の数、目的をもって本を探しに行くのでなければ、絶対に書物の海で溺れることになる。レモンを置いてきこそしなかったが、私は随分苦しい思いで書店の中をうろついていた。本なんかもう好きではなかったし、一体何が自分に必要な本なのか考えるのもいやだった。しかし女子学生が一人で入って行ける場所などほとんど限られている。他の人がどんな所に遊びに行ったりしているのか、全く知らないまま私はお定まりのコースを毎日たどるしかなかった。

 文化的豊かさでは東京にすぐる都市はそうはないだろう。しかし「文化」だけでは人は生きていけない。私は物と人との間を泳いでいるうちに、途方もない孤独を感じるようになっていった。それは川や森や田んぼや野原といった自然物の恩恵なくしてはどうしても埋められないもののように思われた。創造の力も少しずつ失い、都会のハイジのように生気を失いつつあることに私は気づかないふりをして、詩や小説を書く意思を奮い立たせることで、東京に来た、そして早稲田に入った意義を見出そうとしていた。


 西武新宿線沿いに下宿を探そうということになって、兄が東京に出てきてくれることになった。私はあらかじめ原宿の下宿の女主人に兄が訪ねてくることを連絡しておいたのだが、女主人の方はとんと忘れてしまったらしく、兄が呼び鈴を押し玄関の戸をあけるやいなや、

「あなた、どなたですか? うちは女子学生ばかりですので、男性が訪ねてくるようですと他の方が心配しますでしょう? 男性はうちにあげないことになっているんですよ。なんの御用なんですか? 大事なご用でしたらお取次ぎしますけど」

などとたいそうな剣幕でまくし立てて兄を追い返そうとしていた。私が様子を聞きつけて二階から降りてゆき、兄であることを説明すると、掌を返すように愛想がよくなり、

「あっ、お兄様でしたか。これは失礼いたしました。何分女性ばかりなものですからつい慎重になりまして」

などと弁解していた。女性ばかりではないだろうにと私は心の中で思っていた。

兄は二階の部屋に来てから、

「すっごい感じ悪いね」

と声を潜めて言っていた。

 もう下宿探しの時期のピークは過ぎていて、良い下宿は残っていそうになかったけれど、早稲田の下宿斡旋をもう一度吟味してみて、上石神井にある下宿屋を訪ねてみることにした。

 その下宿屋は上石神井の駅から歩いて十二、三分の距離の閑静な住宅地にあった。小さな庭のある二階建てで、家族は小学校校長の真面目そうなご主人、専業主婦の奥さん、それに大学を卒業して考古学の調査員をやっている長男、保母さんをやっている長女、高校生の次女の三人のお子さんがいるということだった。下宿としては三つの部屋があり、二つの部屋は早稲田の女子学生で埋まっていた。

 奥さんは四十代後半ぐらいで、目がくりくりしてチャーミングな人だった。

「北側の部屋しか空いてなくて申し訳ないんですが……、日当たりはちょっと悪いですけど、ここは静かですし、駅のところにスーパーもあって学校からの帰りに買い物もできますし、わりと便利ですよ。帰りが遅くなったとしても、痴漢が出たなんて話は一遍も聞いたことがないですから夜も心配ないと思うんですよ。お隣の部屋の方は、早稲田の教育学部の四年生でしっかりした真面目な方ですし、南側の部屋の方もやっぱり早稲田の商学部の二年生で去年入られた方ですから、お話も合うのではないですか? 下宿代は、そうですねえ、日当たりが悪いですから、一万一千円で結構です」

 おばさんの感じも良かったし、風紀の面でも原宿よりずっと安心だったので、この下宿に決めることにした。原宿の下宿に比べると、六畳間から四畳半になり、個人の台所から共同の台所になり、日当たりもゼロになってしまったが、それよりも通学が安全な事と下宿代が安いことがなによりの好条件と私には映った。

 原宿の下宿の女主人に下宿を変わる旨を言う時にはやはり勇気がいった。父に宇都宮から上京してきてもらって、親戚の家に下宿させてもらえることになったということにして、ただひたすら頭を下げていた。

「そうですか。せっかくご縁があったと思っていましたのに、残念ですねえ。一週間しか入られていませんでしたから、敷金のほうはそのままお返しいたします。どうかお元気でお勉強なさってくださいね」

 女主人はそう優し気に言ってはくれたが、いつもつけている黒々とした鬘もその日に限って身につけず、ばさばさの白髪としみだらけの素顔を平気で晒しているということで、もうあなたたちとは今日限り他人ですからという思いを言外に示していた。私と父は鼻白みながらそそくさと、原宿の下宿を後にした。


上石神井


上石神井は西武新宿線で十数個目の駅だった。乗り換えなしで高田馬場に出られるから、早稲田に通うには便利だった。上石神井の駅に隣接して衣料品と食料品を扱う西友ストアーがあり、たいがいの買い物はここで間に合った。電車を降りて階段を上り架橋を渡るとすぐに西友ストアーの二階の入り口が開いているので、用もないのに何となく店の中へと吸い込まれ、洋服売り場などをぶらついていることもよくあった。

 一階の食料品売り場も結構広く、いつも活気があり賑わっていた。混んでいる割にはレジを打つ店員さんと、品物を入れる店員さんがうまく分業していて、お客の流れはとてもスムーズだった。研ナオコに似た店員さんの品物さばきとレジ打ちは特に見事で、そのスピードにみとれてしまうこともあった。

 駅から下宿まで早足で十分近くだったろうか。まずは駅から都民銀行を目指し道をジグザグに行く。銀行のある道を北に真っ直ぐに行き、小さな書店と薬屋のある角を曲がると、昔ながらの駄菓子屋やおもちゃを売っている店がある。その先の上石神井中学校前の信号を渡って、更に三、四分、武蔵関方面に向かったところの右手路地に下宿はあった。

 町を歩いている人々は、普通の主婦や学生が多く、原宿のような怪しい脅威を感じることはなかった。行き交う車もさほど多くはなかった。ぼんやり歩いていても危険はないということだ。

 ちょっと気になる点があるとすると、それは下宿のすぐ手前にある「童夢」という名前のオートバイ改造を専門とする小さな作業場だった。ここはいつもシンナーの臭いが漂っていた。派手なTシャツに、髭を無造作にはやした若者や、髪を染めたヤンキーっぽい人たちが出入りしていたので、この作業場の前を通る時だけ少し緊張した。しかし目と鼻の先が下宿だったし、ただのバイク好きの若者が集まってバイクをいじっているだけだとおいおい分かって来たので、そう心配することもなかった。

 慣れないうちは路地を行き過ぎてしまったり、手前で別の道を曲がってしまったりして、なかなか下宿に辿り着けなかった。迷いながらわざといろいろな道に入ってみて、関町の電話局を通り越して、上石神井団地の方まで歩いてみることもあった。

 途中に上智大学神学部があったので、道で尼僧と出会うこともよくあった。私はそれまで文学しか眼中に無かったけれど、神学という学問があることを初めて知り、何故か興味を誘われるものを感じた。いつもきっちり門が閉まっていて一般の人は入れない大学構内。外人の神父や尼僧が時折ゆっくり歩いている。灰色の僧服を着たその人たちは、それぞれさほど若くはないように見え、神学部であるにも関わらず、学生らしい人影が全く見受けられないのが不思議だった。


 上石神井の町は暮らしやすかったと思う。商店街も、住宅地を圧迫しない程度ににぎやかだった。学生も多いせいか、定食屋や喫茶店もたくさんあった。

 駅前にあった船室を模した作りの「CABIN」という喫茶店が私のお気に入りだった。店員さん4~5名は皆若い男性で、グレーの短い上着に、ややだぼだぼなズボンをはいていた。窓の無い店内のあちらこちらに本物の錨や舵がディスプレイされ、海の底深くに閉じ込められた乗客のような気分にさせられた。ここで食べたスパゲッティはやけに油っぽかった。何度もユーミンの曲がかかったことを覚えている。新入生だった頃は、ひとりぼっちの下宿に帰りたくなくて、夕方から夜にかけてたびたびこの喫茶店で時間を潰していた。駅前という事で待ち合わせに使う人も多く、一人で店に来たとしても、たいがい二人で出て行く場合がほとんどだから、本を読んでいるふりをして長時間居座っている私は、店側からしたらかなり不可思議な存在だったろう。

 駅と下宿の半ばあたりに、お蕎麦屋さんとお好み焼屋さんが並んで店を構えていた。どちらも三十代ぐらいの若い夫婦がやっていて、夕方まだ早い時間に行くとお客もほとんどいなくて静かだった。ここも私の行きつけの店だった。

 お蕎麦の「三好や」はカウンター席のほかにテーブルが三つあり、全体の感じが古びていてちょっと薄暗かった。椅子の腰掛ける部分が荒縄を張り巡らせたような作りになっていた。木製のテーブルは黒っぽく、表面が傷だらけで長年使い込まれている感があった。奥の壁の上の方には、小さなテレビが据え付けられていて相撲とか野球がいつもかかっていた。お客がいない時はご主人も調理場から出てきて、椅子に座ってテレビを見ていた。

 化粧気のないおかみさんは汚れたエプロンをして、なんとなくいつもせかせかしていた。特に会話を交わすこともなかったけれど、もし親しくなれたのなら、きっと気さくな笑顔を見せてくれたに違いない。小さなゴキブリも一度ならず目撃したが、その侘しさ故に、かえって来てあげなければいけないような気分にさせられた。いわゆる繁盛している店ではなかったけれど、お客が少ない分、私のような女子学生でもふらっと入りやすかった。

 私が大学四年生になった春、このお蕎麦屋さんはやっと改装をし、いろりを囲む風のシックなお店に生まれ変わった。新装開店そうそうに一度入ってみたら、サラリーマン風の男性で混雑していた。若い女の子の店員さんも雇って、店のご夫婦共々忙しく立ち働き随分活気づいていた。おかみさんは髪型に気をつけるようになったし、店の雰囲気も清潔になった。客数はぐっと増えたに違いないが、前よりよそよそしい感じがして、私はその日以降行かなくなってしまった。

 お好み焼き屋の「くらしき」のご夫婦はなかなかの美男美女で仲も良く、見ていてほほえましかった。学校から帰った小学生のお子さんが、ときどき客席に座ってお好み焼を夕食として食べていた。「くらしき」は上石神井の飲食店の中では一番多く通った店だ。胃腸の弱かった私にとって、お好み焼きは量もそう多くはなかったし、比較的食べやすかったのだ。

 その他に「リビエラ」という名のケーキ屋さんにも時々入った。ここの店員の若いおにいさんの愛想の良さは天下一品だった。何か落ち込むことがあると、いつもここでショートケーキを一つ買った。たった一つの注文にも、おにいさんは満面の笑顔で応対してくれるのだった。

 プラモデル屋さんをのぞくのも好きだった。たまたま買った民家シリーズがなかなか面白く、しばし箱庭の虜となった。

 線路を渡ってすぐのところにあった中華料理屋には、そのころもてはやされていたアイドル歌手によく似たかっこいい青年がバイトをしていた。その人がチャーハンを持ってきてくれると、急に胸が一杯になって、不自然に居住まいを正したり上品ぶったりが忙しい。うれしい反面、落ち着いて食事するには不向きだと思った。ここは学生の客が多かった。

 何か小さな諍いごとがあったのだろう、だんなさんが奥さんをカウンターの向こうで何度も足蹴にしているのを横目でうかがいながらカツカレーを食べた洋食屋の「タンタン」はなかなか危うい夫婦の機微を見せてくれたし、ものすごく辛い本格カレーを出してくれた「カルダモン」は、黒ずくめの服装で妖しい魅力を醸し出していた若い息子さんと、髭の生えた体格の良いお父さんとが、よい味を出していた。具が鶏肉だけで、サラサラしたスープのようなカレーも初体験だった。カルダモンが香辛料の名前だと、ここで初めて知った。

 上石神井のお店には一通り全部入っただろうか。定食屋が多かったので、結構いろいろと品定めをしながらあちこち気の向くままに店を選んでいた。卒業するまでに全部のお店に一度は入ってやろうと思っていた。お酒など飲まないのに、お風呂屋の帰り道にある赤ちょうちんに入って、メニューにあった天ぷら定食を頼んだことがある。太ったおやじさんは一瞬うろたえたような、とまどったような表情をしながら、古そうな油で天ぷらを作ってくれた。味噌汁もこてこてに煮込まれたしょっぱいものだった。やっぱり飲み屋さんは定食関係は得意ではないのだろうか。それならメニューに書いておかないでよ、と思った。

 夕方、大学の学食で早稲田ランチやスペシャルランチを食べてから帰ることもあったし、西友ストアーでちょっとしたおかずを買って下宿で自炊することもあった。新入当初はそれなりに一生懸命にご飯を炊いたり、調理したり、サンドイッチを作っていたりもしていたのだが、アルバイトを始めて帰りが七時を過ぎるようになると、もう何も作る気がしなくなってしまい、気軽に近くのお店に入って夕食を済ませるようになっていった。同じ下宿人仲間の女子学生二人も、下宿の炊事場で調理している姿を目にしたことはない。

 私が上石神井の町の、特にお店に関して、これが思い出しうる限りのすべてだ。もし初めからそこに住み、これからもずっと住み続けていくのだったら、この町は全くありきたりの普通の町として、私の中で生活の一部となってゆくのだったろう。

 しかし、この町はあくまでも通りすがりの町でしかなかった。大学生活の四年間を過ごすためだけの。それゆえの不安定さがいつもつきまとっていた。あるいは、生きていく逞しさを身につけるまでは、どこに住んでも自分の居場所を見つけられずに落ち着かずにいるということなのだろうか。




 




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