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第21章 大学3年 3学期・千葉旅行

  • kaburagi2
  • 2023年1月19日
  • 読了時間: 37分

更新日:3月24日


 

 アンリ・マティスは自らの芸術を『気持ちの良い肘掛け椅子のようでありたい』と語ったという。『私は、安定した、純粋な、不安がらせも困惑させもしない美術を求める。労苦に疲れ果てた人が、私の絵の前で、平安と休息を味わいことを願う』と。

 人をいたずらに不穏な気持ちにさせず、やわらかな感動を与える言葉。結局は、悪魔のような痛みに震えあがらせる意図をもった作品より、暖かな春の陽射しのように人の心に沁み込む作品が生き残るのだろう。

 私の詩は停止したまま、夢の中で言葉を探し続けていた。もっと深い眠りの底から、熟した言葉を選びあげることができるようになるまで待たなくてはいけない。

 もしその時が来たなら、私は暖かな愛の詩をたった一つだけ、思いのすべてを込めて、書くことができるだろう。

 

 この冬、兄がとうとう結婚することになった。いろいろとお見合いをした人たちの中の誰かではなく、最初に付き合っていた人と結婚できることになった。あまりにお見合い話がまとまらなかったので、母が折れたのだ。

 結婚に先立って、私にまず紹介したいということで兄がデパートのレストランを予約してくれて、兄嫁となる人と初めて顔合わせをした。その人は小学校の先生をしていて丸顔でチャーミングな笑顔をしていた。先生だけあって声は大きかった。宇都宮よりだいぶ北の方にある烏山というところに住んでいるそうだ。

 打ち解けて話が弾んだかというと、実はそうでもなかった。その人は必要なことは答えてくれたが私のことはほとんど何も訊いてはくれず黙りがちだった。別に義理の妹と親しくなる必要はないのだから、この会食自体、その人はあまり意味あるものとは思っていなかったようだった。

 私は兄の為に愛想よく振る舞おうとして笑顔でいろいろ話しかけ場を楽しくしようと努力していたが、あまりにも返事が返ってこないので少ししょげていた。兄と二人きりでお食事をしたかったのだろうなと思った。

 その人の父親は、今、胃がんを患っていて余命宣告を受けていた。だから父親が生きているうちに結婚をしてしまいたいと、結婚の日取りは慌ただしく決められていった。兄はもしかしたらもうちょっとじっくりお付き合いをしてから結婚を考えたかったかもしれない。出会ってから半年ちょっとぐらいでの結婚だった。

 その人との交際の様子については兄から時々聞いていた。竹下景子似のかわいい人だとか、よく一緒にドライブに行くのだとか、日光の方まで行っておいしいチーズケーキを食べたとか。はきはきした物怖じをしない感じの人であるだけに、兄には気が強いと感じる時もあったようで、時々私にこぼしてこの先の交際をどうしようかと悩んでいた時もあった。

 気が強いのは母でこりごりなはず。しかし一度できてしまった流れを止めることもできず、お見合いでもはかばかしい成果をあげられなかったために、とにかくその時点で一番好きだったその人と結婚することになった。 

 二十七歳の秀夫先生が全然結婚を焦っていないことを思えば、どうしてこんなに結婚したがるのか私にはよく分からなかった。きっとそこにも母の強制が働いていたのかもしれない。


 結婚式の前々日の夜、兄が新居にまだ照明が取り付けられていないのを急に思い出し慌て始めたので、私は兄と共に懐中電灯を持って新居に行き、暗闇の中を照らしながらなんとか二つ取り付けた。暗い中で見たのでよくは分からないが、二階建てのなかなか素敵な家だった。

 結婚式の前日は、兄の頼みで近畿ツーリストで新婚旅行先のホテルの予約をした。デパートの仕立て屋さんであつらえた兄のスーツを受け取りにも行った。新居に新しいタンスが運び込まれるというので、父と一緒に設置の具合を見に行った。

 式の前日だというのに、いろいろな支度にバタバタしていて、しかも本人は仕事を休めないので、家族に頼むしかなかったのだ。兄嫁となる婚約者の人は烏山という少し遠いところに住んでいたので、些事を手伝ってもらうのにわざわざ呼び出すことに兄はまだ遠慮があったのだろう。

 兄は午後になって仕事から帰ってきて、ひどい頭痛で寝込んでしまった。明日が結婚式だというのにかなり具合悪そうだったので、両親は随分心配していた。

 式の当日、兄は笑顔で家を出ていき会場では羽織袴姿で真面目な顔をして三々九度の盃を交わしていた。なぜかすべて非現実的に思えて、誰か別の人の儀式を見ているようだった。和装の兄嫁は美しかったが表情が固く緊張しているようだった。私は、兄の大学時代の友人の人と一緒に写真をできるだけ沢山撮ってあげた。

 式が終わって家に帰り、夜、両親とテレビを見ていたら急に寂しさが襲ってきた。家族が一人いなくなるってこんな感じか、と思った。私の結婚の時も両親はもっと寂しさを味わうのだろうか。父などは泣くかもしれない。今、親の気持ちなど全く考えないで、桂木との愛に夢中になっている自分がちょっとだけ後ろめたく思えた。

 兄とは六つ離れていて小中学校で一緒だったことはなく、いつもずっと先を歩いている人のように思っていた。成績の良かった兄をライバル視していたこともあったが、もっと兄妹として歩み寄りたいとも思っていた。

 桂木は、私の手紙によく兄のことが出て来るので、

「君はお兄さんの方ばかり向いていて、僕のことをちっとも振り向いてくれていないような気がする」

などと、出会った初めの頃、拗ねたように言っていたことが思い出される。

 とにかく兄は好きな人と新しい生活に漕ぎ出していった。次は私だ。いつになるのか見当もつかないけれど。


 数年後、兄夫婦に子どもが生まれ、それをきっかけに実家の家を二世帯住宅に改築し、兄夫婦は同居することになった。

 割とはっきりものを言うタイプの母と兄嫁。嫁姑問題が起こるのにそうは時間はかからなかった。その後の経緯については私は東京暮らしになっていたので詳しくは知らない。

 母が九十五歳で亡くなるまでそのこじれた関係が続いていた事について、私も今も残念に思う。母に電話をするたびに嫁にこんなことを言われたとか、完全に無視されているとか言って泣くので、私は母の味方になって兄嫁の悪口を言わなくてはならなかった。

 母は年を取ってかつてより気性も落ち着き、普通になごやかに笑顔で会話することもできるようになった。私との関係は良好になった。言いたいことを言い合って、互いを理解しあうこともできた。

 しかし、兄嫁は母と最期まで和解が出来ず、徹底的に母を無視し続けたという。母が少し家のことを手伝ってくれると助かると兄嫁に言うと、私に手伝う筋合いは無いときつく返されたという。そんなことを私に随分電話でこぼして泣いていた。母が生きているうちに兄嫁から一言でも挨拶の言葉ぐらいかけてあげてほしかった。そこからこじれたものがほぐれてくることもあったろう。

 兄だけは最初から最後まで献身的に母に尽くしていた。母の言動に傷つくこともあったに違いないが、兄は母を見捨てたりはしなかった。私が早々と母と距離を置く生き方を選んだ事を思えば、兄の心映えは全く尊敬に値する。

 あるいはそれはもしかしたら共依存とも言える関係だったかもしれない。母が亡くなった今、兄も母の呪縛から解き放たれなくてはならない。良きにつけ悪しきにつけ母に関する強い思い出が兄を苦しめ続けないように。


 大学三年の三学期、いよいよ陶芸活動に向けて私は動き始めていた。アトリエ飛行船での作陶は、手びねりの壺づくりにまで進んでいて、結構会心な作品ができて嬉しかったりした。

 菊練りも上手になった。成形したものが生乾きになった後、へらでこすったり削ったりする時の少しざらついた土の感触も好きだった。

 素焼きされたものに釉薬をかける手順も教わった。湯飲みなどは、バケツになみなみと入っている釉薬に下向きに浸しこんだあと、すぐに引きあげて中の空気を抜くように釉薬に二度浸けすると、カポンという音と共に釉薬が湯飲みの内側にまではねあがって回り込む。まだ上手にはできず失敗も多かったが、何かが少しずつできるようになっていく喜びがそこにはあった。


 陶芸関係の本なども少しずつ買い溜めていった。「現代の陶芸」とか「現代陶芸作家事典」などの分厚い本を八重洲ブックセンターで買った。「作家事典」の方は、全国の陶芸家の住所なども全部載っていた。このリストに従って通えそうな住所の陶芸家に弟子入り希望の手紙を書いてみようと思っていた。

 その他にふと手に入った資料で、益子の「陶芸家養成所」という所が生徒を募集しているのを知った。益子は宇都宮からバスで一時間半ぐらいのところにあって、しばしば家族で陶器を買いに行ったこともある。

 少し分厚くてざっくりした感じのする益子焼を私は好きだった。こういう養成所に申込んでみるのも有りだとは思ったが、私が益子に住むとなるとそれは桂木との別れを意味する。 私は陶芸と桂木の両方を取りたかった。せめて東京に住み続ける必要がある。やはり東京の陶芸家を当たるしかないだろう。

 「全国陶芸家事典」で住所を調べて、まず井高即山氏に弟子入りしたい旨を綴った手紙を出した。かなり高名な人らしいことはおぼろげながら感じていたが、どんな作品を作っている人かは、実は全然知らなかった。手紙を出してしまうまでひどく逡巡したが、もう当たって砕けろ、である。とにかく行動せよと自分を鼓舞した。

 そして、割とすぐに丁寧なお断りのお返事が返ってきた。まず学業を全うしてから、ゆっくり考えて進路を決めていってください、というようなことが長文で書かれていて、この手紙をいただけたことだけでも深く感動した。無視されても当然の明らかに無謀な申し出だったから。

 その後も、東京の陶芸家の人に次々と手紙を出していった、長期戦になるのはむろん覚悟の上だ。


 一月は、授業はほとんどなく後期試験の勉強で忙しい。一日誰とも話さない日も多くなり、声もうまく出せなくなっているような気になってしまう。

 図書館や学生読書室などで語学の勉強や、レポート書きなどをしてからアルバイトに向かう日常。あまりに孤独だと長池の存在さえ救いになってしまう。

 去年、ひどい泣き顔を見せてしまって以来、長池は私の思いがけない弱さに気付き少し気にかけてくれているようだった。図書館にいつもいる長池に挨拶をした後、誘われて学食で何度か一緒にランチを食べながら話したりもした。

 私がまだ法律の勉強をする気持ちがあるのならと民放の本を二冊くれたり、一緒にマラソンでもしませんかと誘われたり。

 長池とは、上石神井の町や駅などでもよく出くわしてしまう。それは長池が私を常に探そうとしているせいかもしれない。私は桂木に会えない寂しさから、立ち話程度なら、一緒に下宿に帰る間お話する程度なら、と自分を甘やかしていた。これは桂木に対しての不実なのだろうかと迷いながら。

 ちょっと会話をするだけ、あくまで友人として。長池がその先を求める気配があったなら、私はきっぱりと彼と関りを絶つ。私はそう決めて長池の徒然なる語りの聞き役になっていた。

 私が桂木との付き合いの悩みをぽつりと漏らすこともあった。長池は男として桂木の立場を思いやり「それは彼氏も相当つらいですね」などと自分の見解を述べてくれたりした。

 長池自身、まだ心を残す元彼女との関係に苦しんでいて、この前その彼女に、

「あなたの顔なんかもう二度と見たくない」

と言われて決定的に別れてしまったそうだ。それでもその彼女が精神的に不安定になっているのを気づかって時々連絡はしているのだという。

 その一方では大阪に住んでいるカメラマンの彼女も同時進行で存在していて、遠距離なのでそうそう会うわけもいかず、ずっと長電話しているということだった。電話代が五万円もかかってしまったこともあると言っていた。

「僕はいつでも恋をしていたいんです。たとえ結婚していても、奥さんとは別に他の誰かと恋をしていたい」

 私はびっくりするとともに、そんな考えの人もいるんだ、と思った。長池の結婚観は私の考えとは相容れなかった。恋愛において自由過ぎると思った。

「そうなんですか。奥さん、なんか可哀想。それにたとえ心だけの浮気だったとしても、奥さんを傷つけるものだと思いますよ」

「そうかなあ。でも好きな人がいっぱいいた方が人生楽しいと思いませんか? 僕は今まで沢山の女性を好きになりましたよ。まあ別れるとかなったらそれはそれですごくつらいんですけどね」

「まあ、独身のうちはそれでいいですけどね」

 私はちょっと肩をすくめて笑う。人の生き方に講釈はつけまい。私ももしかしたら、長池の中では恋人の一人になってしまっているのかもしれないが。

「そういえば、この前、僕と小島さんが図書館前で立ち話していたのを僕の友人が見ていて、その友人があなたのことを、すごくきれいで、すごく色っぽいって言ってましたよ。僕もなんだか自慢したくなった。付き合ってもいないのにね」

長池はそう言って少し照れるように笑った。

「ええー? そうですか? 私って色っぽいですか? 初めて言われた」

「色っぽいですよ。僕も最近なんだかそんな気がしてた」

 桂木との付き合いが、私の何かを変えたのだろうか。服装のせいだろうか。私は背が高いので可愛らしいひらひらした女の子の服が似合わず、つい黒や茶色のニットの服ばかり着ていた。それもデパートなどで買った高級なものではなく、西友ストアーの衣料コーナーで買った安価なものばかりだった。

 今は冬だし別に挑発的に肌を露出しているわけでもなく、いたって普通の服装であったのだが。それに陶芸のアトリエに通うようになっていたので、汚れてもいいようにジーンズやラフなトレーナー姿でいることも多くなっていた。

 兄の結婚式の時に紺色の地味目のワンピースを買ったのだが、思い切って大学に着ていった時は、桂木が「すごく似合う」と言って喜んでくれた。おしゃれな服はそれぐらいなものだ。

 それとも「色っぽい」のは服装ではなく私の何らかの表情によるものだったのか。色っぽいなんて、生来の私とは真逆の姿なのに。

「いやー、ははは。可笑しい」

 私は笑ってごまかす。学生なのに色気を振りまくなんてあるまじきこと。気をつけなくては。


 一月の後期試験の期間中、英文の大井教授の授業の「リチャードⅢ世」などのレポートをまとめ、池袋の劇場で見た「ロミオとジュリエット」、仲代達也の「ソルネス」の演劇鑑賞レポートを仕上げた。テレビでBBC制作の「ロミオとジュリエット」(英語字幕版)を見て感想を書くこともレポートでの宿題だった。三時間近くという結構な長さだったので、ずっと英語のセリフを追いながら見続けるのに疲れた。

 レンドン教授の英詩に関する試験を一つ受けた。自然地理学の試験では、須山勝彦にもらったノートのコピーが役に立った。彼はちゃんと試験に出るところのページを書き出しておいてくれていた。

 休講が多かった日本考古学、東洋考古学の補講も受けなくてはならなかった。

 ドイツ語の勉強は相変わらず苦しい。宮迫典子と訳が抜けているところを互いに補った。ドイツ語の試験は応用問題が出てしまい、そこの部分はまるで駄目だったが、訳すところでなんとか点数が取れていればまあいいだろう。自然地理学の試験も、たぶんまあまあの出来。日本演劇史はレポートと試験。狂言についてなどの出題。


 桂木とはなかなか会える日も少なくなってしまったが、土曜とか日曜日、時間を作って

砧公園や小金井公園などの大きい公園に行った。日当たりのよい芝生に寝そべってゆっくりおしゃべりしたり、笑い合ったり。

 

 桂木とは二年生の頃から映画にもよく行っていたが、この頃も時間が合えば時々映画館にも足を向けた。その頃はまだ、早稲田松竹をはじめ、探せば小さな映画館があちこちにあった。

 桂木はどちらかというとATG作品の邦画が好きで、一人でも見に行っていたようだ。ATGは芸術的で実験的な作品が多く、エロティックな描写も大胆に取り入れている。江藤潤主演の「純」という映画についても何度か口にしていた。ちゃんとした恋人がいるのに思うように体の関係になれないでいる青年が電車で痴漢行為にふけってしまう、というような内容だったらしい。

 桂木はこれらの映画に多少なりとも影響されて、私との思うにまかせないセックスに悶々としていた節もある。それは若い男性なら正常な反応であって、私がもっとおおらかに性を楽しむ女だったなら、桂木はそうは悩まずに済んだのだろう。

 

 桂木と公園や映画に出かけたあとは上石神井まで車で送ってもらい、駅から近いところにある「赤れんが」という和食のお店で食事をするのがこのところの習慣になっていた。お魚を使った和食がとてもおいしい。ご主人が達磨大師のようなギョロ目だったので、店を出た後しばしば桂木は親しみを込めて「赤れんがの達磨おやじ」と呼び習わして笑った。「赤れんが」は、何度でも行きたいお店だった。

 桂木と会える土日も過ぎて、寂しくてたまらなくなった夜は、桂木が置いていってくれた深緑色のチェックのシャツを抱き締めて眠った。桂木をいつもそばに感じていたかった。

 桂木は私がいつもつけているレモンの香りの香水をハンカチに振りかけて、それを折に触れて嗅いで私を思い浮かべるのだと言っていた。

 お互いを、変態っぽい、などと言って笑い合った。

 桂木にマフラーを編んであげようと、慣れない編み物などもはじめていた。もともと女の子っぽい手芸には全く興味はなくて、編み物は小学校の時にかぎ針編みを母に教わって少しやったぐらいの経験しかない。下宿で少しずつ編み続け、加減もわからず長すぎる、だれたマフラーになってしまった。

 それでも桂木は喜んで受け取ってくれた。お裁縫のプロの桂木の母が見たら、「あらまあ」と半笑いになってしまう代物だったかもしれない。しかしそれは私の唯一の精一杯の手作りのプレゼントだったのだ。いまだ男性に伍してきっちりと生きていきたいという虚勢は残っていたが、桂木の前では否応なく女性的になってしまう私だった。


 兄の結婚式の前に、私は新宿のヨドバシカメラで一眼レフのニコンFEを買った。写真雑誌などで吟味して一人で決めて買ったのだ。このカメラで下宿まわりや、近所の犬や、行った先々の公園の写真を撮った。

 普通のコンパクトカメラには無い重厚さ、シャッターを切る時の重い手ごたえ。絞りやシャッタースピードを変えたりして撮った写真は不思議な味を出した。

 写真は私の新たな趣味になった。芸術的な写真を撮りたいという意欲も湧いてきた。孤独に沈みがちだったこの頃、カメラを持って町のあちこちを撮り歩くことで、やっと息がつけるような気がしていた。

 一人で川越まで行き、喜多院の五百羅漢をモノクロのフィルムで一体一体撮ったりもした。桂木はその写真を見て、いたく感動し褒めてくれた。そして彼もすぐ後に同じ機種のカメラを買い、私との東京巡りや旅行などでたくさんの写真を撮るようになった。

 そのうち彼の興味は徐々に石仏写真に移っていき、就職の勉強が終わったあとは、彼は関東周辺の石仏めぐりにはまることになるのである。


 一月の後期試験も終わりが見えて来たある日、下宿の隣の部屋の商学部の人に頼みこまれて、杉田二郎のコンサートのチケットの割引券を二枚買った。サークルの関係で売りさばかなくてはいけないということだった。

 桂木を誘って、もし行けそうだったなら一緒に行ってもらおうと思った。でも彼は杉田二郎に興味ないかもしれない。会場で杉田二郎のファンの人たちが応援しながら騒いでいたりしたら居心地が悪いかも。桂木はそういう人が大勢いてざわついているところを好まないから。桂木とは静かな公園とか美術館とか映画館にはよく行ったが、皆が派手に騒ぐコンサートやスポーツ観戦や遊興施設などには行ったことがなかった。

 それにその日に彼が何か予定が入っているかどうかも確認しなくては。もし桂木が駄目だったら私一人で行こうと思っていた。

 学校で会った時に彼に聞いてみた。

「杉田二郎のコンサートチケット二枚買わされちゃったんだけど、隆司、その日空いてる? よかったら一緒に行ってくれないかな? もし駄目だったら私一人ででも行くけど」

「杉田二郎か。「戦争を知らない子供たち」の歌は知ってるけど、あんまり他の曲は知らないな。だけどチケット無駄にしちゃうのはもったいないから、行こうか。俺はその日午前中試験あるけど、午後は空いてる」

「わっ、よかった。じゃ、一緒に行こう!」

 そうしてその日、高田馬場で待ち合わせて渋谷のコンサート会場に向かった。席は指定席で、まわりの席は早稲田の知った顔で埋められていた。皆チケットを買わされた口か。

 杉田二郎のコンサートは、思いのほか素晴らしかった。独特の声の深みや張りも魅力的だったし、ギター一本で弾き語りのように歌う曲もどれも心地よいものだった。特に、恋を実らせ結婚をした若い夫婦が幼い子どもを連れて広大な山裾で憩う「八ヶ岳」という曲に深く感動した。涙が出そうだった。私も桂木といつかこんな風になれるだろうか。そんなことを考えて胸が一杯になった。

 桂木もじっと真剣に聞いてくれていた。その日は夕方遅くなってしまったので駅ですぐに別れたが、あとで学校で会った時に、彼は、

「杉田二郎のコンサートは実に素晴らしかった、特に『八ヶ岳』の歌がすごくよかった」

と言ってくれた。私と同じ気持ちでいてくれたんだと思い、ひどくうれしかった。

 その後、このコンサートの模様の録音音源がラジオのNHKFMの特集で放送されたこともあり、私はカセットテープに録音して何回も聞いた。いい曲がいくつもあったが、やはり私の中では「八ヶ岳」が一番だ。

 桂木の子を産み、初々しい家族を成している自分の姿を夢のように思い描いて、切ない気持ちになった。ああ、本当にそうなれたらいいのに。


 やがて後期試験もすべて終わり、春休みに入った。桂木はもう本格的に就職試験のための勉強に入っていたので、私は彼の邪魔をしないように早めに帰省した。

 父の知り合いの人が、私に県庁の「県史編纂室」に是非アルバイトに来て欲しいと言ってくれたので、一か月アルバイトに行くことにした。

 「県史編纂室」は県庁の七階にあり教育委員会の男性職員が六、七人事務仕事をしていて、共立女子大、大妻女子大などの女の子のアルバイトは四人ほど、あと事務職員の女性が二人いた。仕事は、栃木県の歴史に関する古文書の清書である。

 「何某村の何某が、誰々を打擲した」的な、主に村の争いごとを記録した江戸時代の古文書を新しい紙に手書きで書き写すのだ。難しい漢字、読めない字などもあって結構やっかいだった。一日中黙って文字の書き写しをしていた。郷土資料館のアルバイトの時のように和気あいあいとした雰囲気はなく、ただひたすら下を向いてお堅い先生方に混じって文字を書いていた。

 十時とか三時にお茶の時間があるのだが、その時間になると女子全員、六名が決まって席を立って給湯室に行くのはおかしな因習だと思った。お茶を淹れるのに六人も必要か? 一人で、せめて二人ぐらいでやればいいじゃないか、順番性にしないの? などと私がいつも憮然とした顔をしていたので、男性職員からの請けはあまりよくなかった。

 男性職員が、嫁にもらうとしたら大妻女子大のおとなしそうでしとやかな子かな、と陰で言っているのも聞いてしまった。早稲田の女性はこんな地味な書き写しの仕事なんて、物足りなくてつまらないんでしょ? みたいな目でみられ、また実際、早稲田の女の子は新聞記者とか本の編集とかバリバリやりたいんだろうね、などと言われた。偏見だ、と思ったが、私はそのまま、なんだかお高い早稲田の女子を演じていた。皆がそう思いたいのならわざわざ愛想よくする必要もない。

 男性職員の女子大生を値踏みする視線にちょっと嫌気がさしてきて、私はこのアルバイトはさほど楽しめなかった。仕事が、というより人間関係がちょっと面倒で。

 振り返ってみて思う。

 父は私が卒業後、宇都宮に戻ってきやすいように県庁にコネを作ってくれようとしていたのではないか。郷土資料室のアルバイトも県史編纂室のアルバイトも、父が戦友時代から親しくしていた県庁の偉い人に頼んでくれたので入れたのだ。

 私が四年生のうちに自分でちゃんと仕事をみつけることが出来なかったら、宇都宮に戻ってアルバイトでもいいから県庁関係のコネで何か仕事をすればよいと考えてくれていたのかもしれない。

 しかし、もうその時の私には卒業後に宇都宮に帰るという選択肢は無かった。何がなんでも東京に残らなければならなかった。ぼんやりと宇都宮に戻ってなあなあで暮らしていければ楽だったろうが、桂木との愛を知ってしまった今、実家の庇護の元、戦いの無い安楽に身を浸すことは自身の人生に対する敗北を意味していた。

 それに実家は私を安らがせてくれる場所ではないことに急速に気づいてしまっていた。帰ったからといって穏やかな心で暮らせるわけではない。それならば桂木と共に生きたい。

 結局私は卒業後とうとう父のもとには帰らなかった。父の願いを裏切ってまで私は桂木との未来を選んだのだ。


 三月の終わり頃上京した。新学期が始まる前の残りの春休みを少しでも桂木と一緒に過ごしたかったのだ。勉強に疲れていた桂木は私を喜びと共に迎え、抱き締めた。ちょうど春のお彼岸の時期になっていたので、桂木は桂木家の菩提寺がある池袋の法明寺へ私を連れていってくれた。

 池袋の駅から花束を抱えて住宅街を少し歩いた。駅周りの喧騒が嘘のように閑静な街並みだった。地図を見ると近くに鬼子母神があり、都電に乗れば早稲田も目と鼻の先のところにあった。桂木の祖父は池袋で時計店を営んでいたという。それも戦争ですべて焼けてしまったそうだ。

 法明寺は割と大きめの立派な寺だった。墓地の一番北側に木家の墓があった。やや古びていて、震災か何かで一度倒れたらしく墓石の左側が少し破損していた。

 私と桂木はお墓の水を換えて花を生けた。お線香を供えて二人しゃがんで手を合わせた。ここに桂木のご先祖様が眠っていらっしゃると思うと、自然と祈る気持ちも深まる。

(どうか私が桂木の名になることをお許しください)

 そんなことを心の中で思っていた。

 人を愛するとは、その人だけではなくその人に繋がる連綿たる人間の歴史をも愛することなのだ。お墓を前にして、私は桂木との死に至るまでの愛を心に誓っていた。もし運命が許せば、のことだけれど。

桂木は、

「桂木家のお墓の場所、覚えておいて」

と私に言った。

 彼も私を桂木家に迎え入れたいと思ってくれているのだろうかと思って、心が満ち溢れ少し涙が滲みそうだった。


 そして少したって桂木は、三月の終わりから四月の頭にかけての三泊四日の千葉旅行に私を誘った。春に向かい花なども美しく咲いているであろう房総。

 一度目の伊豆旅行はひどく怖かった。たぶん他の女性が感じる以上に怖がっていた。行ってしまったら自分をどう保てばいいのか見失いそうで、本当に決死の覚悟で旅行に赴いた。

 二回目の山梨の旅行は、少し慣れたとはいえ、まだまだ怖い気持ちは残っていた。もはや決定づけられた愛が、この先どこに向かうのか把握しきれなくなっていて。

 そして三度目。桂木との旅行はもう怖くはなかったが、何度一緒の夜を過ごしたとしてもやはり慣れるということはない。桂木が少しずつ体に触れてくるのを、また新たな恥じらいと共に受け止めることになるだろう。どうしよう、という思いがなし崩しになるまで。


 私の周りを見回しても、私のように激しい愛を経験しているような女子はどこにもいそうになくて、皆、真面目に平穏に学生生活を過ごしているようである。男性と何回もお泊りの旅行をしている人はどれくらいいるのか。そもそも学生時代に相思相愛の運命の恋に出会えている人なんているのだろうか。坂口美子のように本気な恋をして既に同棲のような状態になっている者はむしろ稀だったろう。

 私は桂木の愛に圧倒されてただ流されているだけなのではないかと思う時もある。体の求め方の男女間の差もあるだろう。桂木に求められている嬉しさはあったが、求めに応じきれていない自分も感じていた。

 もっと体と心のすべてで俺を愛せ、俺がそうしているように。倫理も道徳も超えてこのかけがえのない愛に集中しろ桂木はそう私に望んでいたはずだ。それほどまでに桂木の愛は大きかった。


 三月三十日、夜中の十二時頃、車で迎えに来た桂木と千葉へと向かった。昼間から私は落ち着かなくて、気を紛らわせるためにアトリエ飛行船で少しだけ作陶をしてから、午後二時ごろ下宿に戻った。仮眠を取ろうとしたが一睡もできなかった。

 夜中に高速道路をとばすのは不思議な感じだ。町のネオンが遠くに美しくきらめいていた。

「おまえがおふくろと話しているのをそばで聞いてても、安心して任せられる感じだ」

などと桂木が言ってくれるので、私は嬉しかった。母親との相性を気にしてくれるということの根底には、結婚という思いが隠されているのではないかと思って。

 道路がスムーズで早めに着きそうになってしまい、少し時間調整をしようかと二十四時間営業のファミレスなどを探したが全然無くて、夜中三時には木更津の證誠寺に着いてしまった。

 車から下りて暗い中を本堂の方まで歩いていった。親鸞聖人の像が傍らに立っているのが見えた。たぬき囃子のお話の発祥の地なので狸塚と書かれた碑がある。狸も飼っているそうで、網が張られている檻のようなところ覗いてみたが、狸はどこかで寝ているらしく姿は見えなかった。

 あたりはまだ真っ暗だったので、五時ごろまで車の中で仮眠した。まだ春の少し手前、明け方は結構寒かった。

 五時半には富津岬に着き、そこにあった大きめの展望台に上り、朝日の写真を撮った。少し赤みがかった朝日が昇っていき光を強めていく様を二人で眺めていた。寝不足で少しだるかったけれど、この旅をよいものにしようという思いが湧いて来た。展望台の螺旋階段のシルエットがうまく捉えられるようにカメラを構えながら、記憶の中にこの太陽の美しさを刻みつけていた。

 マザー牧場に寄ったが早すぎて開園前だったので、菜の花が美しく一面に咲いている丘で写真だけ撮った。その後、鋸山日本寺に行った。少し急ぎ足で山を登り、山頂の展望台から海を見下ろした。恐ろしいまでの絶壁である。その後、白浜、野島崎を経て、その日は「庄栄荘」に泊まった。

 二日目はウサギが放し飼いになっているポピー農園で花を摘んだりしたあと、灯台を回り、清澄寺、養老の滝などを見た。私のカメラがフィルムが巻き取れなくなってしまい壊れてしまった。あとは桂木のカメラで撮ってもらうしかない。せっかく買った一眼レフのニコンFE、写真の腕を奮いたかったのに残念だ。

 その日は、民宿「風見鶏」に泊まった。宿のおかみさんは、今日は、夕方に人工衛星が地平線近くを飛んでいるのが見えるはず、と言っていたが天気が悪くて見えなかった。

 昼間摘んだポピーは一晩のうちにみるみる開いていってしまって、すでに花びらを散らし始めている。私たちはポピーを持ち帰るのを諦めて、民宿に飾ってもらい、そのままおいて翌日宿を出た。

 三日目は、月の砂漠の碑を見てから犬吠埼の外川まで。急に土砂降りの雨が降ってきて、桂木は前方に目をこらしながら必死で運転していた。犬吠埼の浜辺には、迷い犬のような真っ黒な犬が一匹さまよい歩いていて、私が浜辺を歩いていると親し気に近づいてきた。雨の中、濡れそぼった黒い犬。ひどく寂寥感を感じた。

 民宿の「文治」に着いた時はもう五時半を過ぎていて、危うく泊まれないところだったが、なんとかOKをもらえた。

 ガイドブックを持たずに、大きな一枚の地図をたよりに、行き当たりばったりに旅を続けていたので、どんな道順をたどったのか、どこを訪ね歩いたのか、実は記憶もかなりおぼろげだ。それだけ旅に慣れてしまったということだろうか。特に緊張することもなく不安に思うことも無く、私たちは旅を終え、四月三日には、私は下宿に送り届けられた。

 

 何度かの旅で『慣れ』が生じ気持ちの新鮮さが失われ、桂木が私に興味を失っていくのではという心配は杞憂だった。桂木はやはりやさしく、情熱的だった。

 桂木の肌に触れていると心底うれしい。もうそこに迷いや怖れはなかった。私が、心と体を桂木に安心して委ねられるようになっていったということだろうか。


 私たちは時々、互いの日記を見せ合った。会えない時間に、相手が何を思い、何を感じ、何を悩んでいるのかを知ろうとして。

 私は相変わらず幼稚に、寂しい、孤独だ、体調良くない、将来が見えなくてつらい、など愚痴ばかり日記に書いていた。私の諸々の記述から、長池が私の下宿のすぐ近くに住んでいることを知った桂木は少し心配そうな顔をしたが、私に長池には絶対に会うな、などと命令することはなかった。あくまでも私の意思を尊重してくれて、桂木が私の行動を規制し束縛したことは一度もない。

 桂木の文章はいつも私を圧倒する。これだけの思いを私に投げかけてくれる人など、他に誰がいよう。桂木が私のことだけを思って綴った膨大な文章は、どんな文学作品よりも私を感動させ、私を泣かせる。それは、私ただ一人だけの為に書かれたものであるから。

 二年前までは、卒業後は実家に帰って少し何か仕事をした後、お見合いでもしてなんとなく結婚でもしてしまうのだろうと思っていた。東京に住み続けるなんて絶対ありえないと思っていた。でも、あまりにも桂木を愛してしまった今、とても桂木と別れて実家に帰ることなどできそうにない。桂木以上に私を思ってくれる人など、世界中どこを探してもいないと断言できる。



大学四年


 大学四年の新学期を前にして、学校で宮迫典子と会った。彼女は卒業後は秋田に帰って高校の先生になる心づもりで教職課程の案内を事務所でもらっていた。白いブラウスを着た彼女が、いかにも純潔な風情なのがまぶしかった。

 文学部のラウンジで彼女と、春休み何してた? などとあたりさわりの無い事を話した。県庁でアルバイトをしたとか、陶芸に興味をもってるんだとか、卒業後は大学院なども視野に入れて、いくつの大学から資料を取り寄せていることなどを話した。

 私が陶芸の道を考えていて、陶芸家の先生に手紙を出し始めていることをそれとなく言ってみたら、宮迫典子は、「すごーい。そうか芸術家を目指す道もありだよね。かっこいい」と好意的に受け取ってくれた。少し前に須山勝彦に「なにも早稲田まで来てそんなことをしなくても」と言われていて、それが大方の反応だろうと思っていたので、宮迫に素直に笑顔で聞いてもらえたことがうれしかった。

 大学院への道も少しは本気だった。

 早稲田の大学院は無理でも、ランクを落とした大学なら入ることは可能だという感触は得ていた。しかし、これは陶芸の道が駄目だった時のことだ。経済的な負担をこれ以上実家に負わせるわけにもいかないなとも考えていた。

 少し前に一人の陶芸家の先生から「会いましょう」とのご返事をいただいていたので、今はそれに賭けてみるしかないと思っていた。一週間後の日曜にお会いする約束をしていた。

 正に清水の舞台から飛び降りる心境。この先生からのお声掛けを逃したら、もうチャンスは無いかもしれない。そうなったら陶芸はあきらめて大学院を目指すか何か東京での仕事を探すことになるのだろうと思った。早くも気持ちが挫けそうだった。でも宇都宮に帰らず東京に住み続けるためには、この不安を乗り越えていかないといけないのだ。 


 宮迫典子とは結構打ち解けて話せている方だったが、私がもう三回も恋人と旅行に行ってしまっていることは、彼女にはどうしても話せなかった。

 思えば坂口美子が私に同棲のことを打ち明けてくれた時、どんな勇気を奮ったのだろう。私がどんな反応をするか、どんな顔をするか、怖くはなかっただろうか。私はしっかりと坂口美子の話を受け止めてあげれていただろうか。

 まだボーイフレンドもいないらしい宮迫典子に、私と桂木との生々しい恋愛事情など打ち明けられるはずもなかった。大学ではセックスの話なんて誰ともできなかった。遊びではなく、ここまで魂に踏み入った恋愛をしている者なんて大学の中を探してもどこにもいなさそうで。

 それとも学生たちのうち少なからぬ者たちはセックスを普通の日常生活の一部として軽く楽しんでいたのだろうか。軽く楽しむ、私はまだそこまでにはなれなかった。冷静になると、私たちはまだ学生なのにこんなことしてていいのかな、と思ってしまう。喜びの中にもうっすらと葛藤があった。

 税理士や公認会計士の資格を取ろうと一日中勉強している下宿の隣の部屋の商学部の人などを思うと、桂木のことで頭を一杯にしている自分がなんだか空っぽな人間のようにも思えてくるのだった。

 でも振り返って思う。学業に邁進できなかったとはいえこの恋を逃さなかったのは、私の人生における正解だったのだ。桂木と共に歩む人生は、もうこの時から始まっていた。


 桂木の公務員試験は七月。合格すれば面接は九月。それまでの間、私は桂木の邪魔をしてはならなかった。桂木は毎日真面目に勉強に取り組んでいた。いまや交換日記のようになった一冊の日記帳に思いの丈を書き綴り、それに茶化したコメントや、ふざけたイラストを描き加えたり、シールをべたべた張ったりして、互いにノートの中で遊んだ。時には真面目に悩みあい、ノートに涙の痕を残した。

 三年の成績表を貰う日、桂木と学校で待ち合わせて久し振りに会った。記念会堂のベンチに座って、互いの成績表を見比べた。

「優の数、私、30個。隆司は?」

「俺、24だった」

「わーい、勝った!」

「くそー、恵子に負けたー。悔しい」

「私って見かけによらず、頭いいんだぞ?」

「たいして勉強してるように見えないんだけどな」

「してないようで、してるんだよ。一人暮らしだとやることないと勉強するしかないしさ」

そんなことを言って笑い合った。

 その後一緒に金城庵でお昼を食べ、新江戸川公園に行った。よく晴れていて暑いくらいだった。ベンチで千葉旅行の写真を見せてもらった。どれも良く撮れている。一面の菜の花畑の中の二人、橙色のポピーの花束を持って微笑んでいる私。犬吠埼のやせた黒い犬と一緒にしゃがんでいる私。懐かしく旅を思い出し、雨が多かったけど楽しかったねと言い合った。

 おしゃべりをしながら公園の石段を下りている時、彼は急に立ち止まり私を抱き締めた。私も黙って彼の体に腕を絡ませ、そしてキスをした。


 大学四年の一学期がはじまる。それぞれに自分の進むべき道を探し出さなくてはならない。今までの進級とは違う身の引き締まるような気持ちで新学期の手続きをした。

 大学三年までで、ほぼ主要な単位は取れていたので、登録しなくてはならない科目は割と少なめで済んだ。いくつかの必修科目をこなせばいい。空白の時間も多くなる。歯科医院のアルバイトも週四日行けるようになった。

 四年生の大きなイベントは就職活動と卒業論文だ。卒論は夏以降頑張ればなんとかなるだろう。同級生たちと学校で顔を合わせることも少なくなっていった。英文科の授業でぐらいしか知っている顔に会えない。リクルートスーツ姿で授業に出席する者もいた。皆就職活動を始めているのだろうなと思うと、心に焦りが湧いてきた。


 ある日の午後、大学からの帰り、アルバイトに向かおうと西武線に乗り込んだ。電車の中はまあまあゆるく混んでいて座ることはできなかった。2~3駅ほど進んだところでO組の同級生だった中島智弘が乗り込んでくるのに気づいた。中島も私に気付くと軽く会釈をして遠慮がちに私の隣に立った。小柄で髪の毛がアインシュタインのようにふくらんだおとなしそうな人だ。

「こんにちは。久し振りですね。中島君て、西武線使ってたっけ?」

「あ、いや、今日はたまたま東伏見に用事があって」

「そうかあ。初めて西武線で会ったですね」

「そうですね」

中島はちょっと照れくさそうに微笑んだ。

「確か哲学専攻でしたよね。すごいなあ。私、一般教養で哲学取ってて、さっぱり理解できなかったの。アキレスと亀のパラドックスとか。なんで?なんで?って思ってた。やっぱり専門課程になると講義もぐっと難しくなるんでしょうね」

「うん。難しいけど、そういうこと考えるの、昔から好きだから」

「そうなんだ。やっぱりすごい」

 私は、中島に気さくに話しかけ続けた。前の席の人が席を立ったので、私はその席に座らせてもらい、正面に立つ中島を見上げる形になった。

「就職とか考えると気が重いですね。私なんかまだ何にも決められずにいるの」

「僕も」

 中島は短くそう言って黙り込んだ。哲学を専攻しているとなると、やはり教職を目指す形になるのだろうか。中島はとてもおとなしい感じなので、生徒の前で声を張り上げている姿が想像しにくい。

 電車は数駅進んだ。

「小島さんて、以前に比べて随分印象変わりましたよね。‥‥女の人はすごく変わるから」

 中島は急にひとりごとのようにそう言った。

「あっ、そう? どう変わったかな」

「なんか、ぱっと華やかになったっていうか、なんか、遠くからでも目立つ」

「あっ、ははっ。私、身長高くて、でかいからね」

「あっ、そういうわけではなく」

 中島は慌てて打ち消した。

「遠くにいても、小島さんがいると分かる」

「そう? 別に派手な服装してるわけじゃないのに?」

「うん」

「そうかあ。‥‥人からどう見られているかとか、よくは分からないんだけど、自分で変わったと思うことは昔より人付き合いに慣れたことかな。昔だったら自分から話しかけるなんてできなかった」

「‥‥僕は、O組の女の人とあんまり話せなかったな。小島さんともっと友だちになれたならよかった」

「そうか‥‥。あんまり話さなかったね。でも教室で会えば挨拶とかしてたじゃない。友だちだと思ってたよ」

「うん」

 中島は少し微笑んでもうそれ以上、そのことには触れなかった。

 去年、篠田にも言われた。前と随分変わったと。それは彼らにとってよい変わり方? 残念な変わり方? 私が無理して社交的な振りをしていたことについてはもうお見通し?

 ほとんど友人もいなさそうで、いつも一人でいる中島。ショルダーバッグを肩から斜め掛けにして構内を早歩きで歩いている姿を時折目にしていた。とても真面目そうな人。あまり遊んでいるようにも見えず、三年間ずっと思索的な雰囲気を貫いていた

 そういえば去年早慶戦に行くと坂口美子と話していたのを後ろの席で聞いていたのか、授業終わりに、

「早慶戦行くんですか?」

と聞いてきたことがあった。

私は笑顔で、

「行く予定なの! はじめて! 坂口さんその日用事あって行けないんだけど、私一人でも行ってみる!」

と返した。中島は人懐こそうな目で、にこっとしてくれた。中島と会話らしい会話をしたのはその時ぐらいだ。

そのうち私が先に降りる駅に着いた。

私は中島に、

「じゃあね。またね。お互いに就職活動頑張りましょうね」

と言って席を立った。

中島はちょっと微笑み、

「頑張りましょう。じゃ、さよなら」

と言った。

 中島とは、このままこの先も、卒業したらもう会うことはなくなるのだろう。

 中島に限らず、4年生になったらもうO組の人たちと顔を合わせることもほとんどなくなる。クラスメンバー60名。全員と仲良くなるなんてできなかったが、なかなか目が合わない数名を除けば私は誰とでもにこやかに挨拶をしてちょっとした会話にも楽しく応じられるようになっていた。畑中の忠告に従って、幾分八方美人気味ではあったのだが。

 おととしのあの日、151教室で声をかけてきたのが仮に中島だったとしたら、私は中島と付き合っていただろうか。中島は思索的で私の知らない面白い話題を提供してくれて、楽しく会話できていたかもしれない。しかし友だち以上になれていたかどうか。

 151教室に他の人を置き換えてみる。畑中や片山や佐伯や須山やいろいろな人‥‥。どの人とも表向き楽しく会話できただろう。でもある時点で物足りなく思い何か違うと感じ始めるだろう。

 私は最初の日から桂木の真っ直ぐな眼差しに心引かれていたのだ。桂木を探し求めていたのは私の方だった。ひと時も離れられない気持ちになっていき私が思いを決した時、桂木は見事に私の全てをさらったのだ。

 アインシュタインのような髪型だった中島君。やはり西武線の電車で会ったのが最後だった。私がずっと後々までこの時の中島を覚えているように、中島もこの日の私を覚えていてくれているといい。


 新学期が始まって少したったころ、ある英文科の同級の男子と通学路で会った。

「僕はこの前、東映のニューフェイスに応募して一次オーディションに通ったんだ」

と言った。

「わあ、すごいですね。俳優さん志望ですか?」

「できたら東映に入れたらいいなあ」

 背の高い、それなりにかっこいい人だった。どちらかというと一癖ある悪役が似合うかもしれない。叶うかどうかは分からないけれど、そんな特殊な進路を考えている人もいる。

 教師や官僚、マスコミ、出版社。いろいろな道はある。早稲田出身という事を生かせても生かせなくても、自分の望む方向に一歩を踏み出さなくてはならない。

 私もまた、陶芸への道を真剣に探り始めていた。

 

 私は陶芸の先生と会う手筈を整え、密かに緊張しながらその日を待った。石井先生からの毛筆の手紙があまりに達筆すぎて判読が難しかったので、たまたま廊下で会った佐伯伸也に見てもらった。

「うん、確かに、会いましょう、って書いてあるよ。すごいな。陶芸の道に飛び込むの?」

佐伯は驚いたように目を見張った。

「会うだけ会ってみるよ。どうなるかわかんないけど」

私はちょっと肩をすくめて答えた。

 へんなやつ、と思われてもいい。私はなんとしても前に進まなくてはいけない。逃げ帰る道は自分から絶った。高円寺の石井先生のところで受け入れてもらえなかったら、あと四~五人の陶芸家に手紙を出す予定だった。それも駄目だったら? 何かの会社に勤めることも考えなくてはならないだろう。

 桂木との愛を守るために東京に残る。それはもう桂木のためではなく自分のためだった。もし桂木と別れ宇都宮に帰ったとして、今後会うどの男性もすべてにおいて桂木を超えることはないだろう。私は死ぬまで桂木と別れたことを後悔する。それははっきりとした確信だった。










 




 
 
 

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