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第21章 大学3年 3学期・千葉旅行

更新日:2023年11月6日


 経験を持つことで、私の詩は深くなっただろうか。いや、そうとも言えない。桂木との愛を詩として書こうとしても、あからさまな表現を使うこともできず、やはり抽象に逃げるしかない。あまりにも直截的であってはいけない。そこが小説と詩の違いだ。

 アンリ・マティスは自らの芸術を『気持ちの良い肘掛け椅子のようでありたい』と語ったという。『私は、安定した、純粋な、不安がらせも困惑させもしない美術を求める。労苦に疲れ果てた人が、私の絵の前で、平安と休息を味わいことを願う』と。

 人をいたずらに不穏な気持ちにさせず、やわらかな感動を与える言葉。結局は、悪魔のような痛みに震えあがらせる意図をもった作品より、暖かな春の陽射しのように人の心に沁み込む作品が生き残るのだろう。

 私の詩は停止したまま、夢の中で言葉を探し続けていた。もっと深い眠りの底から、熟した言葉を選びあげることができるようになるまで待たなくてはいけない。

 もしその時が来たなら、私は暖かな愛の詩をたった一つだけ、思いのすべてを込めて、書くことができるだろう。

 今は書けない。対峙し合う若い肉体と愛の奔流、それはいかなる言葉によっても紙面に落としこむことのできない『生命のエネルギー』そのものなのだ。


 この冬、兄がとうとう結婚することになった。いろいろとお見合いをした人たちの中の誰かではなく、最初に付き合っていた人と結婚できることになった。あまりにお見合い話がまとまらなかったので、母が折れたのだ。

 結婚に先立って、私にまず紹介したいということで兄がデパートのレストランを予約してくれて、兄嫁となる人と初めて顔合わせをした。その人は小学校の先生をしていて丸顔でチャーミングな笑顔をしていた。先生だけあって声は大きかった。宇都宮よりだいぶ北の方にある烏山というところに住んでいるそうだ。

 打ち解けて話が弾んだかというと、実はそうでもなかった。その人は必要なことは答えてくれたが私のことはほとんど何も訊いてはくれず黙りがちだった。別に義理の妹と親しくなる必要はないのだから、この会食自体、その人はあまり意味あるものとは思っていなかったようだった。

 私は兄の為に愛想よく振る舞おうとして笑顔でいろいろ話しかけ場を楽しくしようと努力していたが、あまりにも返事が返ってこないので少ししょげていた。兄と二人きりでお食事をしたかったのだろうなと思った。

 その人の父親は、今、胃がんを患っていて余命宣告を受けていた。だから父親が生きているうちに結婚をしてしまいたいと、結婚の日取りは慌ただしく決められていった。兄はもしかしたらもうちょっとじっくりお付き合いをしてから結婚を考えたかったかもしれない。出会ってから半年ちょっとぐらいでの結婚だった。

 その人との交際の様子については兄から時々聞いていた。竹下景子似のかわいい人だとか、よく一緒にドライブに行くのだとか、日光の方まで行っておいしいチーズケーキを食べたとか。はきはきした物怖じをしない感じの人であるだけに、兄には気が強いと感じる時もあったようで、時々私にこぼしてこの先の交際をどうしようかと悩んでいた時もあった。

 気が強いのは母でこりごりなはず。しかし一度できてしまった流れを止めることもできず、お見合いでもはかばかしい成果をあげられなかったために、とにかくその時点で一番好きだったその人と結婚することになった。 

 二十七歳の秀夫先生が全然結婚を焦っていないことを思えば、どうしてこんなに結婚したがるのか私にはよく分からなかった。きっとそこにも母の強制が働いていたのかもしれない。

 結婚式の前々日の夜、兄が新居にまだ照明が取り付けられていないのを急に思い出し慌て始めたので、私は兄と共に懐中電灯を持って新居に行き、暗闇の中を照らしながらなんとか二つ取り付けた。暗い中で見たのでよくは分からないが、二階建てのなかなか素敵な家だった。

 結婚式の前日は、兄の頼みで近畿ツーリストで新婚旅行先のホテルの予約をした。デパートの仕立て屋さんであつらえた兄のスーツを受け取りにも行った。新居に新しいタンスが運び込まれるというので、父と一緒に設置の具合を見に行った。

 式の前日だというのに、いろいろな支度にバタバタしていて、しかも本人は仕事を休めないので、家族に頼むしかなかったのだ。兄嫁となる婚約者の人は烏山という少し遠いところに住んでいたので、些事を手伝ってもらうのにわざわざ呼び出すことに兄はまだ遠慮があったのだろう。

 兄は午後になって仕事から帰ってきて、ひどい頭痛で寝込んでしまった。明日が結婚式だというのにかなり具合悪そうだったので、両親は随分心配していた。

 式の当日、兄は笑顔で家を出ていき会場では羽織袴姿で真面目な顔をして三々九度の盃を交わしていた。なぜかすべて非現実的に思えて、誰か別の人の儀式を見ているようだった。和装の兄嫁は美しかったが表情が固く緊張しているようだった。私は、兄の大学時代の友人の人と一緒に写真をできるだけ沢山撮ってあげた。

 式が終わって家に帰り、夜、両親とテレビを見ていたら急に寂しさが襲ってきた。家族が一人いなくなるってこんな感じか、と思った。私の結婚の時も両親はもっと寂しさを味わうのだろうか。父などは泣くかもしれない。今、親の気持ちなど全く考えないで、桂木との愛に夢中になっている自分がちょっとだけ後ろめたく思えた。

 兄とは六つ離れていて小中学校で一緒だったことはなく、いつもずっと先を歩いている人のように思っていた。成績の良かった兄をライバル視していたこともあったが、もっと兄妹として歩み寄りたいとも思っていた。

 桂木は、私の手紙によく兄のことが出て来るので、

「君はお兄さんの方ばかり向いていて、僕のことをちっとも振り向いてくれていないような気がする」

などと、出会った初めの頃、拗ねたように言っていたことが思い出される。

 とにかく兄は好きな人と新しい生活に漕ぎ出していった。次は私だ。いつになるのか見当もつかないけれど。

 数年後、兄夫婦に子どもが生まれ、それをきっかけに実家の家を二世帯住宅に改築し、兄夫婦は同居することになった。

 割とはっきりものを言うタイプの母と兄嫁。嫁姑問題が起こるのにそうは時間はかからなかった。その後の経緯については私は東京暮らしになっていたので詳しくは知らない。

 母が九十五歳で亡くなるまでそのこじれた関係が続いていた事について、私も今も残念に思う。母に電話をするたびに嫁にこんなことを言われたとか、完全に無視されているとか言って泣くので、私は母の味方になって兄嫁の悪口を言わなくてはならなかった。

 母は年を取ってかつてより気性も落ち着き、普通になごやかに笑顔で会話することもできるようになった。私との関係は良好になった。言いたいことを言い合って、互いを理解しあうこともできた。

 しかし、兄嫁は母と最期まで和解が出来ず、徹底的に母を無視し続けたという。母が少し家のことを手伝ってくれると助かると兄嫁に言うと、私に手伝う筋合いは無いときつく返されたという。そんなことを私に随分電話でこぼして泣いていた。母が生きているうちに兄嫁から一言でも挨拶の言葉ぐらいかけてあげてほしかった。そこからこじれたものがほぐれてくることもあったろう。

 兄だけは最初から最後まで献身的に母に尽くしていた。母の言動に傷つくこともあったに違いないが、兄は母を見捨てたりはしなかった。私が早々と母と距離を置く生き方を選んだ事を思えば、兄の心映えは全く尊敬に値する。

 あるいはそれはもしかしたら共依存とも言える関係だったかもしれない。母が亡くなった今、兄も母の呪縛から解き放たれなくてはならない。良きにつけ悪しきにつけ母に関する強い思い出が兄を苦しめ続けないように。


 大学三年の三学期、いよいよ陶芸活動に向けて私は動き始めていた。アトリエ飛行船での作陶は、手びねりの壺づくりにまで進んでいて、結構会心な作品ができて嬉しかったりした。

 菊練りも上手になった。成形したものが生乾きになった後、へらでこすったり削ったりする時の少しざらついた土の感触も好きだった。

 素焼きされたものに釉薬をかける手順も教わった。湯飲みなどは、バケツになみなみと入っている釉薬に下向きに浸しこんだあと、すぐに引きあげて中の空気を抜くように釉薬に二度浸けすると、カポンという音と共に釉薬が湯飲みの内側にまではねあがって回り込む。まだ上手にはできず失敗も多かったが、何かが少しずつできるようになっていく喜びがそこにはあった。

 井の頭のアトリエに通うにあたって嫌なことが一つあったとすれば、それは吉祥寺の駅前のバス停でバスを待っている間、中年の男性のつきまといがあったことだ。立っている位置を何度か変えてもいつのまにか後ろに回り込んで立っている。気味が悪くなって一時駅の方に避難していた。男性が居なくなった頃を見計らってやっとバスに乗った。上石神井までついてこられたらと思うと怖くて仕方が無かった。アトリエから帰るときのバス停では、その人がいないかいつもまわりを窺うようになってしまった。

 陶芸関係の本なども少しずつ買い溜めていった。「現代の陶芸」とか「現代陶芸作家事典」などの分厚い本を八重洲ブックセンターで買った。「作家事典」の方は、全国の陶芸家の住所なども全部載っていた。このリストに従って通えそうな住所の陶芸家に弟子入り希望の手紙を書いてみようと思っていた。

 その他にふと手に入った資料で、益子の「陶芸家養成所」という所が生徒を募集しているのを知った。益子は宇都宮からバスで一時間半ぐらいのところにあって、しばしば家族で陶器を買いに行ったこともある。

 少し分厚くてざっくりした感じのする益子焼を私は好きだった。こういう養成所に申込んでみるのも有りだとは思ったが、私が益子に住むとなるとそれは桂木との別れを意味する。 私は陶芸と桂木の両方を取りたかった。せめて東京に住み続ける必要がある。やはり東京の陶芸家を当たるしかないだろう。

 「全国陶芸家事典」で住所を調べて、まず井高即山氏に弟子入りしたい旨を綴った手紙を出した。かなり高名な人らしいことはおぼろげながら感じていたが、どんな作品を作っている人かは、実は全然知らなかった。手紙を出してしまうまでひどく逡巡したが、もう当たって砕けろ、である。とにかく行動せよと自分を鼓舞した。

 そして、割とすぐに丁寧なお断りのお返事が返ってきた。まず学業を全うしてから、ゆっくり考えて進路を決めていってください、というようなことが長文で書かれていて、この手紙をいただけたことだけでも深く感動した。無視されても当然の明らかに無謀な申し出だったから。

 その後も、東京の陶芸家の人に次々と手紙を出していった、長期戦になるのはむろん覚悟の上だ。


 一月は、授業はほとんどなく後期試験の勉強で忙しい。一日誰とも話さない日も多くなり、声もうまく出せなくなっているような気になってしまう。

 図書館や学生読書室などで語学の勉強や、レポート書きなどをしてからアルバイトに向かう日常。あまりに孤独だと長池の存在さえ救いになってしまう。

 去年、ひどい泣き顔を見せてしまって以来、長池は私の思いがけない弱さに気付き少し気にかけてくれているようだった。図書館にいつもいる長池に挨拶をした後、誘われて学食で何度か一緒にランチを食べながら話したりもした。

 私がまだ法律の勉強をする気持ちがあるのならと民放の本を二冊くれたり、一緒にマラソンでもしませんかと誘われたり。

 長池とは、上石神井の町や駅などでもよく出くわしてしまう。それは長池が私を常に探そうとしているせいかもしれない。私は桂木に会えない寂しさから、立ち話程度なら、一緒に下宿に帰る間お話する程度なら、と自分を甘やかしていた。これは桂木に対しての不実なのだろうかと迷いながら。

 ちょっと会話をするだけ、あくまで友人として。長池がその先を求める気配があったなら、私はきっぱりと彼と関りを絶つ。私はそう決めて長池の徒然なる語りの聞き役になっていた。

 私が桂木との付き合いの悩みをぽつりと漏らすこともあった。長池は男として桂木の立場を思いやり「それは彼氏も相当つらいですね」などと自分の見解を述べてくれたりした。

 長池自身、まだ心を残す元彼女との関係に苦しんでいて、この前その彼女に、

「あなたの顔なんかもう二度と見たくない」

と言われて決定的に別れてしまったそうだ。それでもその彼女が精神的に不安定になっているのを気づかって時々連絡はしているのだという。

 その一方では大阪に住んでいるカメラマンの彼女も同時進行で存在していて、遠距離なのでそうそう会うわけもいかず、ずっと長電話しているということだった。電話代が五万円もかかってしまったこともあると言っていた。

「僕はいつでも恋をしていたいんです。たとえ結婚していても、奥さんとは別に他の誰かと恋をしていたい」

 私はびっくりするとともに、そんな考えの人もいるんだ、と思った。長池の結婚観は私の考えとは相容れなかった。恋愛において自由過ぎると思った。

「そうなんですか。奥さん、なんか可哀想。それにたとえ心だけの浮気だったとしても、奥さんを傷つけるものだと思いますよ」

「そうかなあ。でも好きな人がいっぱいいた方が人生楽しいと思いませんか? 僕は今まで沢山の女性を好きになりましたよ。まあ別れるとかなったらそれはそれですごくつらいんですけどね」

「まあ、独身のうちはそれでいいですけどね」

 私はちょっと肩をすくめて笑う。人の生き方に講釈はつけまい。私ももしかしたら、長池の中では恋人の一人になってしまっているのかもしれないが。

「そういえば、この前、僕と小島さんが図書館前で立ち話していたのを僕の友人が見ていて、その友人があなたのことを、すごくきれいで、すごく色っぽいって言ってましたよ。僕もなんだか自慢したくなった。付き合ってもいないのにね」

長池はそう言って少し照れるように笑った。

「ええー? そうですか? 私って色っぽいですか? 初めて言われた」

「色っぽいですよ。僕も最近なんだかそんな気がしてた」

 桂木との付き合いが、私の何かを変えたのだろうか。服装のせいだろうか。私は背が高いので可愛らしいひらひらした女の子の服が似合わず、つい黒や茶色のニットの服ばかり着ていた。それもデパートなどで買った高級なものではなく、西友ストアーの衣料コーナーで買った安価なものばかりだった。

 今は冬だし別に挑発的に肌を露出しているわけでもなく、いたって普通の服装であったのだが。それに陶芸のアトリエに通うようになっていたので、汚れてもいいようにジーンズやラフなトレーナー姿でいることも多くなっていた。

 兄の結婚式の時に紺色の地味目のワンピースを買ったのだが、思い切って大学に着ていった時は、桂木が「すごく似合う」と言って喜んでくれた。おしゃれな服はそれぐらいなものだ。

 それとも「色っぽい」のは服装ではなく私の何らかの表情によるものだったのか。色っぽいなんて、生来の私とは真逆の姿なのに。

「いやー、ははは。可笑しい」

 私は笑ってごまかす。学生なのに色気を振りまくなんてあるまじきこと。気をつけなくては。


 一月の後期試験の期間中、英文の大井教授の授業の「リチャードⅢ世」などのレポートをまとめ、池袋の劇場で見た「ロミオとジュリエット」、仲代達也の「ソルネス」の演劇鑑賞レポートを仕上げた。テレビでBBC制作の「ロミオとジュリエット」(英語字幕版)を見て感想を書くこともレポートでの宿題だった。三時間近くという結構な長さだったので、ずっと英語のセリフを追いながら見続けるのに疲れた。

 レンドン教授の英詩に関する試験を一つ受けた。自然地理学の試験では、須山勝彦にもらったノートのコピーが役に立った。彼はちゃんと試験に出るところのページを書き出しておいてくれていた。

 休講が多かった日本考古学、東洋考古学の補講も受けなくてはならなかった。

 ドイツ語の勉強は相変わらず苦しい。宮迫典子と訳が抜けているところを互いに補った。ドイツ語の試験は応用問題が出てしまい、そこの部分はまるで駄目だったが、訳すところでなんとか点数が取れていればまあいいだろう。自然地理学の試験も、たぶんまあまあの出来。日本演劇史はレポートと試験。狂言についてなどの出題。


 桂木とはなかなか会える日も少なくなってしまったが、土曜とか日曜日、時間を作って

砧公園や小金井公園などの大きい公園に行った。日当たりのよい芝生に寝そべってゆっくりおしゃべりしたり、笑い合ったり。

 あたりに人がいなくなると、桂木は私の服の下に手を差し入れて私の素肌の胸にそっと触れてきた。私は黙って彼に触れさせるがままにしていた。

 私が肩で小さく呼吸を揺らすと、桂木は熱っぽい目で私をみつめた。日常の中に互いを感じる手段を失くして、私たちの心はまた互いの性の周りをさまよっていた。

「こんなことさせていいのか?」

桂木は時折私を気づかうように尋ねる。

「うん。大丈夫」

 私は小さく答える。桂木がそうしたいのなら拒みたくはなかった。私も恥ずかしかったが彼に触れてほしかったし。それも恋する気持ちの一つだ。

 桂木とは二年生の頃から映画にもよく行っていたが、この頃も時間が合えば時々映画館にも足を向けた。その頃はまだ、早稲田松竹をはじめ、探せば小さな映画館があちこちにあった。

 桂木はどちらかというとATG作品の邦画が好きで、一人でも見に行っていたようだ。ATGは芸術的で実験的な作品が多く、エロティックな描写も大胆に取り入れている。江藤潤主演の「純」という映画についても何度か口にしていた。ちゃんとした恋人がいるのに思うように体の関係になれないでいる青年が電車で痴漢行為にふけってしまう、というような内容だったらしい。

 桂木はこれらの映画に多少なりとも影響されて、私との思うにまかせないセックスに悶々としていた節もある。それは若い男性なら正常な反応であって、私がもっとおおらかに性を楽しむ女だったなら、桂木はそうは悩まずに済んだのだろう。

 そうはいってもそのような映画は所詮男性目線で作られた映画であって、私は本当の意味では共感しなかった。いかなる理由があろうと、つきあっている男性が欲求不満で痴漢行為などをしていたら、ドン引きして愛想を尽かしてしまうだろう。私のせいだ、などとは決して思わない。

 そして、もし私が刹那主義の奔放な女だったならどうだったのだろう。桂木の要求をすぐに満たしてあげられる代わりに、私に気がある男性ともたやすく関係を持ってしまうということもあったかもしれない。

 それはそれで桂木にとっては悩ましい問題となっただろう。そもそもそういう私とは付き合おうとは思わなかったに違いない。臆病でおくてで道徳にしばられていていつも悩んでいる、そういう私だったから桂木は私の心を開こうと必死に努力してくれたのだ。

 一緒に見た映画の中では、松坂慶子、大竹しのぶ主演の「事件」、草刈正雄主演の「復活の日」などが特に印象深かった。前者は女優陣の体当たりの演技に息を飲む思いだったし、後者は世界人類が破滅した後、生き残った人々が愛や恋を超えた究極の人類愛で子孫を作っていく状況に深く感銘を受けた。

 桂木と会えない日々に私が一人で見る映画は、主に洋画だった。「エデンの東」「理由なき反抗「ブラザーサン シスタームーン」などが印象深い。B級のコメディ映画なども好きだった。しかし隣に見知らぬ男性が座ってくると、ときたま太ももをこそこそ触ってくる痴漢らしき輩もいて、なかなか女性は一人では映画を楽しめない。そんなことが少しでもあると、私はしばらくは映画館から足が遠のいてしまうのだった。

 桂木と公園や映画に出かけたあとは上石神井まで車で送ってもらい、駅から近いところにある「赤れんが」という和食のお店で食事をするのがこのところの習慣になっていた。お魚を使った和食がとてもおいしい。ご主人が達磨大師のようなギョロ目だったので、店を出た後しばしば桂木は親しみを込めて「赤れんがの達磨おやじ」と呼び習わして笑った。「赤れんが」は、何度でも行きたいお店だった。

 桂木と会える土日も過ぎて、寂しくてたまらなくなった夜は、桂木が置いていってくれた深緑色のチェックのシャツを抱き締めて眠った。桂木をいつもそばに感じていたかった。

 桂木は私がいつもつけているレモンの香りの香水をハンカチに振りかけて、それを折に触れて嗅いで私を思い浮かべるのだと言っていた。

 お互いを、変態っぽい、などと言って笑い合った。

 桂木にマフラーを編んであげようと、慣れない編み物などもはじめていた。もともと女の子っぽい手芸には全く興味はなくて、編み物は小学校の時にかぎ針編みを母に教わって少しやったぐらいの経験しかない。下宿で少しずつ編み続け、加減もわからず長すぎる、だれたマフラーになってしまった。

 それでも桂木は喜んで受け取ってくれた。お裁縫のプロの桂木の母が見たら、「あらまあ」と半笑いになってしまう代物だったかもしれない。しかしそれは私の唯一の精一杯の手作りのプレゼントだったのだ。いまだ男性に伍してきっちりと生きていきたいという虚勢は残っていたが、桂木の前では否応なく女性的になってしまう私だった。


 ここ数ヶ月、時折頭痛や下腹部の痛みがあるのが気になっていた。桂木と伊豆や山梨に旅行に行ってから心と体の在り方に大きな変化があったし、精神的にも少し不安定な日が続いていた。女性としての体に何か変化が起きている様な気がしていた。

 こんな時、なんでも相談できる姉がいたならどんなにいいのにと思う。姉になら、桂木とのことも気軽に相談できたかもしれない。女としての悩みも。

 あまり年の離れていない義姉と親しくなれればきっと姉のように、と期待していたが、義姉は私のことをそれほどまでの家族とは思ってはいないようだった。

 体の具合が悪いとどうしても声も沈みがちになって、桂木にも気付かれてしまう。

電話などで、

「なんだか元気ないぞ」

と言われると、

私は慌てて、

「大丈夫だってば」

と無理に声を張って打ち消す。

 病的に傾きそうになる孤独と共に、自分の弱さが本当に嫌になる。桂木の公務員試験まであと半年あまり。私は桂木の勉強を邪魔しないように、装ってでも元気でいなくてはならないのに。


 兄の結婚式の前に、私は新宿のヨドバシカメラで一眼レフのニコンFEを買った。写真雑誌などで吟味して一人で決めて買ったのだ。このカメラで下宿まわりや、近所の犬や、行った先々の公園の写真を撮った。

 普通のコンパクトカメラには無い重厚さ、シャッターを切る時の重い手ごたえ。絞りやシャッタースピードを変えたりして撮った写真は不思議な味を出した。

 写真は私の新たな趣味になった。芸術的な写真を撮りたいという意欲も湧いてきた。孤独に沈みがちだったこの頃、カメラを持って町のあちこちを撮り歩くことで、やっと息がつけるような気がしていた。

 一人で川越まで行き、喜多院の五百羅漢をモノクロのフィルムで一体一体撮ったりもした。桂木はその写真を見て、いたく感動し褒めてくれた。そして彼もすぐ後に同じ機種のカメラを買い、私との東京巡りや旅行などでたくさんの写真を撮るようになった。

 そのうち彼の興味は徐々に石仏写真に移っていき、就職の勉強が終わったあとは、彼は関東周辺の石仏めぐりにはまることになるのである。


 一月の後期試験も終わりが見えて来たある日、下宿の隣の部屋の商学部の人に頼みこまれて、杉田二郎のコンサートのチケットの割引券を二枚買った。サークルの関係で売りさばかなくてはいけないということだった。

 桂木を誘って、もし行けそうだったなら一緒に行ってもらおうと思った。でも彼は杉田二郎に興味ないかもしれない。会場で杉田二郎のファンの人たちが応援しながら騒いでいたりしたら居心地が悪いかも。桂木はそういう人が大勢いてざわついているところを好まないから。桂木とは静かな公園とか美術館とか映画館にはよく行ったが、皆が派手に騒ぐコンサートやスポーツ観戦や遊興施設などには行ったことがなかった。

 それにその日に彼が何か予定が入っているかどうかも確認しなくては。もし桂木が駄目だったら私一人で行こうと思っていた。

 学校で会った時に彼に聞いてみた。

「杉田二郎のコンサートチケット二枚買わされちゃったんだけど、隆司、その日空いてる? よかったら一緒に行ってくれないかな? もし駄目だったら私一人ででも行くけど」

「杉田二郎か。「戦争を知らない子供たち」の歌は知ってるけど、あんまり他の曲は知らないな。だけどチケット無駄にしちゃうのはもったいないから、行こうか。俺はその日午前中試験あるけど、午後は空いてる」

「わっ、よかった。じゃ、一緒に行こう!」

 そうしてその日、高田馬場で待ち合わせて渋谷のコンサート会場に向かった。席は指定席で、まわりの席は早稲田の知った顔で埋められていた。皆チケットを買わされた口か。

 杉田二郎のコンサートは、思いのほか素晴らしかった。独特の声の深みや張りも魅力的だったし、ギター一本で弾き語りのように歌う曲もどれも心地よいものだった。特に、恋を実らせ結婚をした若い夫婦が幼い子どもを連れて広大な山裾で憩う「八ヶ岳」という曲に深く感動した。涙が出そうだった。私も桂木といつかこんな風になれるだろうか。そんなことを考えて胸が一杯になった。

 桂木もじっと真剣に聞いてくれていた。その日は夕方遅くなってしまったので駅ですぐに別れたが、あとで学校で会った時に、彼は、

「杉田二郎のコンサートは実に素晴らしかった、特に『八ヶ岳』の歌がすごくよかった」

と言ってくれた。私と同じ気持ちでいてくれたんだと思い、ひどくうれしかった。

 その後、このコンサートの模様の録音音源がラジオのNHKFMの特集で放送されたこともあり、私はカセットテープに録音して何回も聞いた。いい曲がいくつもあったが、やはり私の中では「八ヶ岳」が一番だ。

 桂木の子を産み、初々しい家族を成している自分の姿を夢のように思い描いて、切ない気持ちになった。ああ、本当にそうなれたらいいのに。


 やがて後期試験もすべて終わり、春休みに入った。桂木はもう本格的に就職試験のための勉強に入っていたので、私は彼の邪魔をしないように早めに帰省した。

 父の知り合いの人が、私に県庁の「県史編纂室」に是非アルバイトに来て欲しいと言ってくれたので、一か月アルバイトに行くことにした。

 「県史編纂室」は県庁の七階にあり教育委員会の男性職員が六、七人事務仕事をしていて、共立女子大、大妻女子大などの女の子のアルバイトは四人ほど、あと事務職員の女性が二人いた。仕事は、栃木県の歴史に関する古文書の清書である。

 「何某村の何某が、誰々を打擲した」的な、主に村の争いごとを記録した江戸時代の古文書を新しい紙に手書きで書き写すのだ。難しい漢字、読めない字などもあって結構やっかいだった。一日中黙って文字の書き写しをしていた。郷土資料館のアルバイトの時のように和気あいあいとした雰囲気はなく、ただひたすら下を向いてお堅い先生方に混じって文字を書いていた。

 十時とか三時にお茶の時間があるのだが、その時間になると女子全員、六名が決まって席を立って給湯室に行くのはおかしな因習だと思った。お茶を淹れるのに六人も必要か? 一人で、せめて二人ぐらいでやればいいじゃないか、順番性にしないの? などと私がいつも憮然とした顔をしていたので、男性職員からの請けはあまりよくなかった。

 男性職員が、嫁にもらうとしたら大妻女子大のおとなしそうでしとやかな子かな、と陰で言っているのも聞いてしまった。早稲田の女性はこんな地味な書き写しの仕事なんて、物足りなくてつまらないんでしょ? みたいな目でみられ、また実際、早稲田の女の子は新聞記者とか本の編集とかバリバリやりたいんだろうね、などと言われた。偏見だ、と思ったが、私はそのまま、なんだかお高い早稲田の女子を演じていた。皆がそう思いたいのならわざわざ愛想よくする必要もない。

 男性職員の女子大生を値踏みする視線にちょっと嫌気がさしてきて、私はこのアルバイトはさほど楽しめなかった。仕事が、というより人間関係がちょっと面倒で。

 振り返ってみて思う。

 父は私が卒業後、宇都宮に戻ってきやすいように県庁にコネを作ってくれようとしていたのではないか。郷土資料室のアルバイトも県史編纂室のアルバイトも、父が戦友時代から親しくしていた県庁の偉い人に頼んでくれたので入れたのだ。

 私が四年生のうちに自分でちゃんと仕事をみつけることが出来なかったら、宇都宮に戻ってアルバイトでもいいから県庁関係のコネで何か仕事をすればよいと考えてくれていたのかもしれない。

 しかし、もうその時の私には卒業後に宇都宮に帰るという選択肢は無かった。何がなんでも東京に残らなければならなかった。ぼんやりと宇都宮に戻ってなあなあで暮らしていければ楽だったろうが、桂木との愛を知ってしまった今、実家の庇護の元、戦いの無い安楽に身を浸すことは自身の人生に対する敗北を意味していた。

 それに実家は私を安らがせてくれる場所ではないことに急速に気づいてしまっていた。帰ったからといって穏やかな心で暮らせるわけではない。それならば桂木と共に生きたい。

 結局私は卒業後とうとう父のもとには帰らなかった。父の願いを裏切ってまで私は桂木との未来を選んだのだ。


 三月の終わり頃上京した。新学期が始まる前の残りの春休みを少しでも桂木と一緒に過ごしたかったのだ。勉強に疲れていた桂木は私を喜びと共に迎え、抱き締めた。ちょうど春のお彼岸の時期になっていたので、桂木は桂木家の菩提寺がある池袋の法明寺へ私を連れていってくれた。

 池袋の駅から花束を抱えて住宅街を少し歩いた。駅周りの喧騒が嘘のように閑静な街並みだった。地図を見ると近くに鬼子母神があり、都電に乗れば早稲田も目と鼻の先のところにあった。桂木の祖父は池袋で時計店を営んでいたという。それも戦争ですべて焼けてしまったそうだ。

 法明寺は割と大きめの立派な寺だった。墓地の一番北側に木家の墓があった。やや古びていて、震災か何かで一度倒れたらしく墓石の左側が少し破損していた。

 私と桂木はお墓の水を換えて花を生けた。お線香を供えて二人しゃがんで手を合わせた。ここに桂木のご先祖様が眠っていらっしゃると思うと、自然と祈る気持ちも深まる。

(どうか私が桂木の名になることをお許しください)

 そんなことを心の中で思っていた。

 人を愛するとは、その人だけではなくその人に繋がる連綿たる人間の歴史をも愛することなのだ。お墓を前にして、私は桂木との死に至るまでの愛を心に誓っていた。もし運命が許せば、のことだけれど。

桂木は、

「桂木家のお墓の場所、覚えておいて」

と私に言った。

 彼も私を桂木家に迎え入れたいと思ってくれているのだろうかと思って、心が満ち溢れ少し涙がにじんだ。


 そして少したって桂木は、三月の終わりから四月の頭にかけての三泊四日の千葉旅行に私を誘った。春に向かい花なども美しく咲いているであろう房総。

 一度目の伊豆旅行はひどく怖かった。たぶん他の女性が感じる以上に怖がっていた。行ってしまったら自分をどう保てばいいのか見失いそうで、本当に決死の覚悟で旅行に赴いた。

 二回目の山梨の旅行は、少し慣れたとはいえ、まだまだ怖い気持ちは残っていた。もはや決定づけられた愛が、この先どこに向かうのか把握しきれなくなっていて。

 そして三度目。桂木との旅行はもう怖くはなかったが、何度一緒の夜を過ごしたとしてもやはり慣れるということはない。桂木が少しずつ体に触れてくるのを、また新たな恥じらいと共に受け止めることになるだろう。どうしよう、という思いがなし崩しになるまで。

 昨年の秋以降の体の不調も徐々に収まってきていた。女性として少しずつ身体が変ってきているのかもしれない。もう少女ではない。そうは言っても一足飛びに大人になることもできずに、心弱さととまどいとがいつもどこかにあった。特に一人で考え込んでいる間は、ひどく自信がなくなる。

 私の周りを見回しても、私のように激しい愛を経験しているような女子はどこにもいそうになくて、皆、真面目に平穏に学生生活を過ごしているようである。男性と何回もお泊りの旅行をしている人はどれくらいいるのか。そもそも学生時代に相思相愛の運命の恋に出会えている人なんているのだろうか。坂口美子のように本気な恋をして既に同棲のような状態になっている者はむしろ稀だったろう。

 私は桂木の愛に圧倒されてただ流されているだけなのではないかと思う時もある。体の求め方の男女間の差もあるだろう。桂木に求められている嬉しさはあったが、求めに応じきれていない自分も感じていた。

 それでもひとたび桂木と抱き合ってしまえばそんなことは忘れて夢中になってしまう自分もいるのだ。それを恥ずかしく思う客観的な自分も同時にいて‥‥。そのギャップが少し私を苦しめる。

 もっと体と心のすべてで俺を愛せ、俺がそうしているように。倫理も道徳も超えてこのかけがえのない愛に集中しろ桂木はそう私に望んでいたはずだ。それほどまでに桂木の愛は大きかった。


 三月三十日、夜中の十二時頃、車で迎えに来た桂木と千葉へと向かった。昼間から私は落ち着かなくて、気を紛らわせるためにアトリエ飛行船で少しだけ作陶をしてから、午後二時ごろ下宿に戻った。仮眠を取ろうとしたが一睡もできなかった。

 夜中に高速道路をとばすのは不思議な感じだ。町のネオンが遠くに美しくきらめいていた。

「おまえがおふくろと話しているのをそばで聞いてても、安心して任せられる感じだ」

などと桂木が言ってくれるので、私は嬉しかった。母親との相性を気にしてくれるということの根底には、結婚という思いが隠されているのではないかと思って。

 道路がスムーズで早めに着きそうになってしまい、少し時間調整をしようかと二十四時間営業のファミレスなどを探したが全然無くて、夜中三時には木更津の證誠寺に着いてしまった。

 車から下りて暗い中を本堂の方まで歩いていった。親鸞聖人の像が傍らに立っているのが見えた。たぬき囃子のお話の発祥の地なので狸塚と書かれた碑がある。狸も飼っているそうで、網が張られている檻のようなところ覗いてみたが、狸はどこかで寝ているらしく姿は見えなかった。

 あたりはまだ真っ暗だったので、五時ごろまで車の中で仮眠した。まだ春の少し手前、明け方は結構寒かった。

 五時半には富津岬に着き、そこにあった大きめの展望台に上り、朝日の写真を撮った。少し赤みがかった朝日が昇っていき光を強めていく様を二人で眺めていた。寝不足で少しだるかったけれど、この旅をよいものにしようという思いが湧いて来た。展望台の螺旋階段のシルエットがうまく捉えられるようにカメラを構えながら、記憶の中にこの太陽の美しさを刻みつけていた。

 マザー牧場に寄ったが早すぎて開園前だったので、菜の花が美しく一面に咲いている丘で写真だけ撮った。その後、鋸山日本寺に行った。少し急ぎ足で山を登り、山頂の展望台から海を見下ろした。恐ろしいまでの絶壁である。その後、白浜、野島崎を経て、その日は「庄栄荘」に泊まった。

 二日目はウサギが放し飼いになっているポピー農園で花を摘んだりしたあと、灯台を回り、清澄寺、養老の滝などを見た。私のカメラがフィルムが巻き取れなくなってしまい壊れてしまった。あとは桂木のカメラで撮ってもらうしかない。せっかく買った一眼レフのニコンFE、写真の腕を奮いたかったのに残念だ。

 その日は、民宿「風見鶏」に泊まった。宿のおかみさんは、今日は、夕方に人工衛星が地平線近くを飛んでいるのが見えるはず、と言っていたが天気が悪くて見えなかった。

 昼間摘んだポピーは一晩のうちにみるみる開いていってしまって、すでに花びらを散らし始めている。私たちはポピーを持ち帰るのを諦めて、民宿に飾ってもらい、そのままおいて翌日宿を出た。

 三日目は、月の砂漠の碑を見てから犬吠埼の外川まで。急に土砂降りの雨が降ってきて、桂木は前方に目をこらしながら必死で運転していた。犬吠埼の浜辺には、迷い犬のような真っ黒な犬が一匹さまよい歩いていて、私が浜辺を歩いていると親し気に近づいてきた。雨の中、濡れそぼった黒い犬。ひどく寂寥感を感じた。

 民宿の「文治」に着いた時はもう五時半を過ぎていて、危うく泊まれないところだったが、なんとかOKをもらえた。

 ガイドブックを持たずに、大きな一枚の地図をたよりに、行き当たりばったりに旅を続けていたので、どんな道順をたどったのか、どこを訪ね歩いたのか、実は記憶もかなりおぼろげだ。それだけ旅に慣れてしまったということだろうか。特に緊張することもなく不安に思うことも無く、私たちは旅を終え、四月三日には、私は下宿に送り届けられた。

 私たちは、各々の民宿の夜をやはり裸で抱き合って過ごした。桂木のリードのもとに互いの体を深く慈しみ、愛し合った。二人きりで自由に思うままに、相手を身体ごと愛せるのはなんと素晴らしいことなのだろう。恥ずかしいことも楽々と飛び越え、解放された世界を軽々と泳ぎ回り、気持ちを吐息と吐息で結び合わせ、快い疲れと共にほどいていく。こんなことは恋人同士でなくては絶対にできないことだ。

 何度かの旅で『慣れ』が生じ気持ちの新鮮さが失われ、桂木が私に興味を失っていくのではという心配は杞憂だった。桂木はやはりやさしく、情熱的だった。

 桂木の肌に触れていると心底うれしい。もうそこに迷いや怖れはなかった。私が、心と体を桂木に安心して委ねられるようになっていったということだろうか。


 私たちは時々、互いの日記を見せ合った。会えない時間に、相手が何を思い、何を感じ、何を悩んでいるのかを知ろうとして。

 私は相変わらず幼稚に、寂しい、孤独だ、体調良くない、将来が見えなくてつらい、など愚痴ばかり日記に書いていた。私の諸々の記述から、長池が私の下宿のすぐ近くに住んでいることを知った桂木は少し心配そうな顔をしたが、私に長池には絶対に会うな、などと命令することはなかった。あくまでも私の意思を尊重してくれて、桂木が私の行動を規制し束縛したことは一度もない。

 桂木の文章はいつも私を圧倒する。これだけの思いを私に投げかけてくれる人など、他に誰がいよう。桂木が私のことだけを思って綴った膨大な文章は、どんな文学作品よりも私を感動させ、私を泣かせる。それは、私ただ一人だけの為に書かれたものであるから。

 二年前までは、卒業後は実家に帰って少し何か仕事をした後、お見合いでもしてなんとなく結婚でもしてしまうのだろうと思っていた。東京に住み続けるなんて絶対ありえないと思っていた。でも、あまりにも桂木を愛してしまった今、とても桂木と別れて実家に帰ることなどできそうにない。桂木以上に私を思ってくれる人など、世界中どこを探してもいないと断言できる。


桂木ノート


『大学生活のほとんど全て、いやそのものが、恵子という人間に重なり合っている。ありきたりの出会いからの発展が、今の自分の気持ちにまでなろうとは夢にも思わなかった。そして、何より尊いことは、そのことを少しも後悔していないこと、恵子に対し純粋に感謝できるという事、そして何より恐ろしいことは、どうやら恵子が必要不可欠な存在になってしまったということだ』


『俺らの心は、ただ月日がなんとなく経っただけではないのだ。一日だって心が恵子を離れたことはなかったし、ずい分心を触れ合わせてきたと思う(異常な程に)。こんな関係ってもう特殊だよ。いい悪いを超えて稀少だと思う。俺はこの二年恵子だけを見て来たんだ。だから幸福になるのも不幸になるのも一緒。俺の喜びを恵子に分けてやりたいし、恵子の幸福を心から願っているんだ。相手は俺ではないかもしれないけれど、幸福になれよ!』


『とにかく恵子と話していると楽しいのだ。何を言っても打てば響く感じ。植物のことや小説のことを言ってもたいがい知っていて的確に返事を返してくれる。たとえば俺が中也の詩を口ずさめば、恵子もそれを知っていて後を続けてくれるといった具合。恵子が疎い分野だって俺が話せばちゃんと興味を持って聞いてくれて学ぼうとしてくれる。

こんなことは今までなかった。こんなに話が合うのは恵子しかいない。俺にとって恵子は唯一無二の得難い女だ。恵子を手放すことなんてできそうもない』


『おまえを大事にするのは、別に女であるという理由からではない。(女なら手ごろなのが他にいくらでもいる) 

俺はかつて女を本当に思ったことがなかったのではないか?と、今考えている。

そして、おまえを知るまで自分以外の人間に絶望していたのだ。まして女との付き合いにおける薄弱さにはイヤ気がさしていたのに、おまえに声をかけさしめたのは、何だったんだろう。自分になくてはならない存在を俺は自分の手で得た、という実感』


『「あなたは絶対的孤独を本当には理解できない」といったことに、俺はどれだけ言い返すことができるだろうか。しかし、俺にとっての課題は、それをどれだけ自分にあてはめてつらさを感じ、役に立ちたいと思うか、ということだ。俺はおまえに何も与えてやれないかもしれない。何もしてやれないかもしれない。しかし、おまえには幸福になってもらいたいと思う。そう思う人間がおまえにはいるということは、分かっておいてほしい』


『一人の、たった一人の女に対して、誠実さをもってともかくも自分を賭けてみようと思っているのは確かだ。

俺が今みつめているのはおまえだけだ。(心も体も)かわいい余りに、ついおまえが不愉快に感じることもしたかもしれない。あやまる。しかし、それは欲望のみによる行為だと受け取られては俺は耐えられない。

ただ、俺が思うのは数年後に思い返してみた時に、「あの時は燃えていた」とか「自分を賭けていた」とか、つまり一生懸命であったと思えれば、それで充分』


『恵子が帰省してしまうと、俺はひどく落ち込んでしまう。我慢できず一度だけ宇都宮に電話をしてしまった。元気そうな声だった。宇都宮は雪が降っているという。恵子の周りに降っている雪。こっちはおだやかな晴天だというのに。お互いの住んでいる場所の遠さ、隔たりを感じてしまった。この状態がもし永遠に続いてしまうとしたら俺は耐えられない』


『五日に恵子が上京してきた。新宿の「ミカド」に行くかどうかでけんかになった。俺の読みが浅かった結果だ。恵子はあのことを休み中ずっと悩んでいたのだ。それをのっけから誘ったので、恵子が頑として受け付けず「絶対やだ」と言い放ち、俺は多少誤解を受けたのを承知しつつ、腹をたてていた。恵子は行為そのものに抵抗があるわけではなく、ただ、その場所に「行く」ということが徹底的にイヤなのだと言った。俺もいやだったが、するとこれからはずっと恵子を抱けないのかと思うと、つい頭にきたわけだ。それで帰ってから自分の矛盾の中で涙し寝付かれなかった。この問題は度々二人で話し合ってきたけれど、毎回話題は同じだが、その度に少しずつ進歩はしてきている。昨日のことは、ただ、恵子が上京したてで不安定だったところに「行く」という行為がイヤな場所へ、いきなり自分の意思を無視して決めたことに対する怒り、そして俺が少し言ったことで涙。別に抱かれてもいいと思っているし、その場になれば全てを許してもいいと言っているのに、何故俺が腹を立てる必要があるのか。六日には、自分も気持ちがのってる時なら、あそこへも行けそうだと言ってくれた』


『昨日は本当に良い日だった。朝寝ていられず机に向かい手紙を書いていた。それは楽観したものではなく多少破滅の匂いのするものだった。それから恵子からTELがあった。結論が出るまで会うのをやめようと、おとといの夜TELして決めたのに、さみしいから出てこいと言うのだ。でも、それでよかった。‥‥全て昔のままだった。去年のようになれた。冬の暖かな陽射しの中で、数時間はなし続けた(アゴが痛くなった)。全て何もかも、そうして最後には全てが前と同じだった。否、前よりもいっそう強く結び合ったと言っていい。昨日は不思議と体が欲しくはなかった。ただ、恵子という人間が無性に愛おしく感じ、ただ、抱き合っただけだった。恵子の反応も少しも変わってなんかいなかった。ただ、一度家に帰ると、帰省前の状態、心境に戻るまでに時間がかかるということだ。それもいくらもたたず俺たちはすっかり打ち解けて、お互い最高の状態だと思えるまで高まることができるようになったのだ』


『ああいうことはやはり男と女が一致することは無いらしい。俺は、恵子はそうなれば応じてくれるのだから、どんどんリードしていってもいいのだし、恵子もそれを望んでいる。なのにいちいち聞くから、前もって承知させようとするから、それまでの期間奴は一人で自問自答、挙句の果ては‥‥。結局自分に自信が無いせいだ。それで恵子に半分押し付けようとする。こういうのは男が責任を持つべきだ。二年もやってこれた人間的つながりって、こんなことで崩れるものか? 俺は自分が憎くて仕方ない。今年になってから、あればっかり。恵子にそんな印象すら与えてしまった。それが目的みたいな。「そのために一緒にいるの?」などと言ったら、多分張り倒すだろう。俺がどんなに情けないほどに恵子を思っているか。だから、求め、欲しいと思う。矛盾かもしれないが』


『俺は熱情家だから、ブレーキはきかないよ。おまえは俺と生きていくしかないのだ。体の問題なんて小さいと思う。もっと二人が生きていくうえで深刻な問題がたくさんあるじゃないか。我々も若いな』


『「いつまで?」と言うけれど、軽はずみなことは答えたくない。気持ちとしては「一生」と言うだろう。少なくとも俺は死ぬまで一緒にいたい。ただ、俺の不安は、自分のような人間より、恵子を幸福にできる人間、誰からも認められ祝福されるような人間は、他にいくらでもいると考えてしまうことだ』


『昨日telする。高円寺でエキストラのバイト頼んだんだって、やけに精力的にやってるな。どうしたんだ。何か置いていかれそうだ。恵子が、健康になって、精神状態も前よりずっとよくなって、人付き合いもまあまあ、相手に合わせることができて、最近とみにキレイになって、新宿を歩いててモデルにスカウトされたんだって? ハナシ半分でも大したもんだ。えらい変わりよう。もうフツウの人間になりつつある。それは恵子自身にとって大変いいこと。俺も祝福してやる。でもなんだかどこかさみしい気になる。そうやって恵子が、ごくありふれた完全な人間になって、俺を必要としなくなることが。恵子を俺だけのものにしたかったんだ。他人の同意は必要なかった。スカウトされて無邪気に喜ぶ恵子が憎らしかったぜ。でも、まあ、いいことか?』


『恵子がかつて心身とも弱かった時、俺は何かと勇気づけたいとか、そばにいてやりたいと思っていた。それが次第に恵子が充実し対等になってくると、甘え出したのか恵子を悩まし始めた。このままの自分ではますます恵子にとって取るに足らぬ存在になってしまうだろう。最近もう与えるものがなくなってきたような気がする』


『俺は2つの条件が整えば恵子と実際ずっとやっていく。その1は、恵子が熟慮の上でついてくること。その2は恵子を幸福にするのは自分だという自覚(と共に自信、勇気)があること』


『最近の感情の不安定さはひとつには人生の分岐点に立たされたための不安感からくるものだろうか。一人で楽しむことがなくなったということが関係している。つまり、笑った後は寂しいし、幸福の次に寂しさを感じるというもの。特に一人で悪い方へ考えるのは得意中の得意だし。以前のように冷徹な目を持ち続けていたなら、周囲には何ら動じず、一人で閉じこもってはいただろうが、生き延びたろう。しかし、いったんカラを切り裂かれるともろいものだ。人に対して悩みや苦しみを打ち明けるなどと前代未聞の芸当をやってきたり、そんな相手がいることを幸福だなどと考えたりもしたが、果たしてそうなのか。どうあっても人間が一人であるなら、やがて去って行く人間であるなら、今俺が抱いている感情はあまりに危険だ。そしてあまりに残酷すぎる』


『俺たちは弱かった。そして今も弱いことを知っている。それが不幸のはじまりだ。飢えた心は何ものよりも強く、充ちた心ほど弱いものはない。人には二つの型がある。相手のために強くなり幸福にしてやろう、自分でなければ‥‥型と、相手のために別れてやろうという、自信喪失型。どちらが成功するかは一概には言えまいが』


『以前、ボクが暗示的に言った「笑って別れてやること、恵子を自由にしてやることが、ボクの最大最後のやさしさかもしれない」という言葉が、最近揺れている恵子を見ていると、切実に思い出される』


『俺はもう道徳家ぶって、別れた方が恵子の幸福だからという理由で自分の方から身を引くことはしないだろう。いや、できなくなってしまったのだ。もし意に反してそうすれば、一生後悔するような気がする。一人の人間を思い続けて二年半が過ぎた。このいつくしみの気持ちは、ぼくの生涯で最初で最後の経験になるだろう。大袈裟でなく、人間関係の微妙さ、複雑さを思えばほとんど奇跡に近いことだと思う。この絶対無比なる対象を都合とか状況で手放してなるものか。一つ一つの要因が最良の条件で結びついた巡りあわせは妙なるものだ。(俺の霊感の成果だ)。互いの欠点もそれはそれでこやしになった。少なくとも俺の学生生活のうちで、最も有意義だったこと、そしてこれからの人生に重大な影響を及ぼす人物が恵子であったことを、誰はばかることなく言えるのだ。おそらく健康な他人には分かるまい。僕らのこの二年間の結びつきは確かに尋常なものではなかったと思う。恵子といたいという感情より「恵子という人間が必要」なのだ。とうとうそこまで来てしまった自分を大いに恐れる。一瞬のうちに三年間の思い出に別れを告げることが、弱い自分にできるだろうかということを』


『恵子が今度のことで泣いたり苦しんだりするのは大きな進歩でしょう(ゴメン)。何故なら去年の四月には、荒崎で別の理由で涙を流したのだし、あの頃ならすんなり故郷に帰ったでしょう。そして今は俺のことで迷ってくれている。当然にはあっさりと故郷に帰れないでいる。これは明らかに恵子の内部的なものが変ったということだよ。これを喜ぶべきなのか? さてもう少しだ。あと恵子に必要なのは、あっけらかん、ずぶとさ、むかんかく?』


『今、俺たちは離れて暮らしているけれど、今度一緒になる時は、寂しいから、ではなく互いに十分「自分」というものを確立して、再スタートしよう! その転換期だから、恵子もがんばってください。かえって以前のままずるずるいって何も見えずに終了より、つらいけど静かな目でみつめることが大事だということは恵子もよく分かってると思うし、永久の別れではなく、再スタートのための「準備期間」、お互いを充実させて、俺をびっくりさせるくらい強くなっていること。これが恵子の課題』


『今度恵子の下宿で、雨の音を聞きながら一緒に寝るんだ! いいだろう? 土曜日の遅い午後でもいいな、サイモン&ガーファンクルの「Kathy's Song」だ、などと勝手な事を思っております。今、とても恵子が欲しい。膚のぬくもりが』


『去年の五月十七日を覚えているかい? 僕らの記念すべき日です。多摩川にて。(我は恵子の上に乗せてもろた!) あの日は確かよいお天気でしたね。おびえていたような目をしていた恵子が懐かしい。(今はよー‥‥(笑))あれからもうすぐ一年。そのことだけとってもいろいろありましたなー。「いやだー」とか言うなよ。誰にも言われず、二人だけで決めてきた。後悔はない。

そして、五月十八日は雨模様で、池端で‥‥。実に懐かしい、かつ、こわい』


『朝よりの雨で憂鬱になっております。というのはどうも自分の記憶の堆積と深いかかわりを持っていて、つまり雨の日は一日白日夢を見るがごとく、二十四時間が平板で思考力が沈滞し、回顧的にならざるを得ないということなのです。本当に良く降るなー。恵子は今日、バスで陶芸教室に行くはずだけれど、この雨では大変じゃの。でも雨の井の頭公園もそれなりの味があるかもな。

窓を開けて雨を見ていると、様々な記憶が自分の内に蘇ってくるけれど、一番強烈なのは、こないだのこと。生憎、一日目と最終日だけしか晴れなかったけれど、それなりに思い出深かった。だから雨の思い出がやたら多いね。佐原の土砂降り、九十九里の土砂降り、犬吠のどんどこ土砂降りetc. そんなことを思い出しています。ちなみに阿字ヶ浦は強烈だったな。寂しい町で、なんだか「二人きりだなー」と町を歩いていて痛切に感じた。その他、諸々? 良かったです』


『今回の旅行で、恵子の心と体が俺のものになっていることを感じて、本当にうれしかった。裸の恵子を抱いていて、「ああ、こいつとはもう離れられそうもない」と思ったものだ』


『「男と旅行行くようなミーハー」云々だが、そもそもボクらの旅の目的は、恵子の勇気を試し、ボクが恵子のことを尊重できるか?ということにあった。そして結果は成功だった。3度の旅がどれだけボクらにプラスになったことか! 恵子にとっては不安や恐れもあったことだろう。しかし、二人で乗り越えてきたじゃないか。これは大きな自信や信頼につながると思う。臆病なままでいたら、得るものも少なかったと思うよ。数日全く一緒にいるということはすごいことだよ。特に、オレのような神経質なのが、自分に無理をしないで、正直一緒にいて楽しかった、ということはもう奇跡だよ。

だから恵子は誰に恥じることも無いと思う。分かってもらわねばならぬ人間には、正直に話して納得してもらう努力をすればいいし、それ以外の人間には全く関係ない。大事なのは、オレたちの受け取り方、今後へどうつなぐかということ。せっかく勇気を奮って一緒に出掛けたのだから、後悔めいたことは言うな! いいな! 

 しかし、3度の旅行もそうだが、今まで恵子と出かけた所、歩いた道、宿のおばはん、風景、etc. つまらぬ道や風まで印象深く残ってるよ。全く、雨にも負けず、風にも負けず、でしたな。』


『公務員試験は、ぎりぎりで入る確率三十パーセント。だから寝る間も惜しんで勉強してます。恵子とボクの幸福のために‥‥』


『英語の授業終わって帰るとき、someoneが「おまえはオヤジのコネで県庁入れんだろ?」という声が聞こえてきて、anyoneが「でも俺、役人にはなりたくねーよ」なんてことを言っていて、もうがっくりきたね。寝る時間削って焦ってやってるわりに力が伸びないで悩んでいるのに。恵子とも会わず一切を犠牲にしているのに、頭にくるぜ。どこでもいいから早く決めて、また潤いある悔いの無い生活を送りたいと思っています』


『→これは愚痴だから読まなくても良し。

一般事務へ行くか、学校事務へ行くか迷っている。合格可能性について迷っているのではない。それが将来を決する分岐点でもあるから。

学校と言っても養護学校、聾学校などもあり、果たしてボクにやっていけるでしょうか?

今は昇進なんてゾッとするけど、今の気持ちが将来も変わらないだろうか? 可能性があって自分の意思で放棄するのと、全く可能性が閉ざされた時の自分が不変かどうか、年をくうといやらしくなるから。

余裕のある時間を有効に使えるか? 芸術活動に完璧に還元できるか?ということ。 ThemeというかLife Workになるような事を見出だせなくなったら、時間があっても全くの無意味になってしまう。そうすると一般事務の方が無難なんだよね。

でも時間の無さは民間と同じでAcademicな恵子とは少しずつかけ離れていくでしょう。当たり前の人間、無感動な人間になってしまうことも恐怖なのです。一体、どうすりゃいいんだ。

「芸術的」なものを捨てきれぬ自分と(関わっていないと安心できぬ)、才能も無いのに続けられるのか?と考える自分。

全国の仏像、社寺を撮り歩くといっても現実離れしているようで、見知らぬ町や風土に触れ、祭りを訪ね歩く‥‥などと言ったらバカにされそうや。

民間に入れば会社で生き残ることに精神を費やすから、そんなこと考える間も無いだろう。油絵にしたって何だって「趣味」なら休みの日にすればいい。「趣味」の域を出ないのならば暇のある職に就いても仕方あるまい。

週一回の休みだっていろいろな用でつぶれるんだってよ。休みでも疲れて寝てるだけ、その毎日。慣れてしまえば何でもないんだろうね。でもそれでいいのか。恵子とも縁遠くなってしまう。そんな当たり前の無感動人間になったら嫌われてしまうだろう。

恵子が自分のやりたいこと、夢を具体化しようとしているので、大変うらやましいぜ。二人でアカデミックに生きれたら最高だね。

俺にできることがあるだろうか、(趣味の域から抜け出られそうな)

恵子の為に、で決めてはいかんのでしょう。(もしいなくなったらやりきれん)

四十年間の職だもの、自分のためなのは当然だ。だけど、失いたくない人、恵子。あああー。

大学四年間、恵子とだけ生きて来た。途中、他に心を奪われたことは無かった。だってボクのような性格の人間って、そうやすやすと他人を受け入れられないし、接する機会も限られている。

やりがいのない仕事に就いたら、恵子に対する自信さえ失ってしまいそうで怖い。恵子の周りの人間だって、そんな人間の所に行かせたがらないでしょうし』


『p.m8:20 今帰ってきたところ。金曜日というのは喜と悲が同居している。恵子に会っている間と、家に帰ってきて次に会えるのは5日後かと思う事との間に落差がありすぎて、もうどうしようもなく落ち込むのだ。土日、恵子がどう過ごすのかと思うと心配。どうして俺は土日まで勉強しなければならないのか。余裕のない人間は困りものです。恵子が土日誰とどこへ行こうと何も言わんから(本当は言う)、思い切って誰かをさそってみな。さすれば何か新しいことが見つかるかもしれない』


『自分の気持ちを出し過ぎてるか?、正直すぎて醜態か? 確かに自分自身なさけねえなと思うが、まず自分の方から心を全部開いていかないと、恵子だってなかなか本当のことは言ってくれないでしょうから』


『やはり恵子と一緒が最高。時にオチコマサレ、フリマワサレ、カナシマセルが、それでも恵子が一番や』




小島ノート


『私は甘い言葉が言えなくて、つい素直じゃないきついことばかり言ってしまうから、いつも隆司に失望させてばかりいるね。平気な振りして強がってるだけで、本当は隆司に会いたくてたまらない。

隆司は今勉強を頑張らないといけない時だし、私も陶芸のことをどうやって具体化していこうかずっと考えて悩んでいる。なかなか会えないと、お互いの気持ちが見えなくなっていきそうで‥‥。また孤独が怖くなったよ。

会いたい、なんて電話で呼び出したら迷惑だろうと思って我慢する日々。足手まといにはなりたくないな。

私は情けないほど弱いんだよ。

どうやったら強くなれるんだろう。一人暮らしをしている皆って、どうしてるんだろう。私だけがこんなに不安定なのか、考えると落ち込んでしまう』


『一人でいると落ち込む心に歯止めがきかなくなって、底まで墜ちてしまう時がある。時に耐えられなくなって「いいよ、卒業したら帰るから。家にいればこんなに苦しまない」とか言っちゃったりして隆司に悲しい顔をさせてしまう。駄目な私。

隆司と別れることなんてできないくせに、絶対に宇都宮に帰らないと決めているのに。将来に何の約束も無い事が不安になってつい隆司に苦しい気持ちをぶつけてしまう。

 思うに私には誰かにいつも保護されていたいという甘えがあるのだ。だから心の底で家の方を向いてしまう。桂木と生きるためには、「保護」ではなく「自立」の意識を育てなくてはならない。今はその心の転換の途上なのだ』


『隆司と好きな時に好きなだけ会えるようになるのはいつ? 

 ある人に、いつも淋しくて、気持ちが心もとないのは何故なんでしょうね?と相談したら、巣ごもりの時期に入ったんじゃない?と言われた。つまり、結婚のような安定した生活を求め始めているのではないかと。

 そうは言っても、今は隆司に結婚を求める気持ちは無い。まだお互い未熟だし、将来も未定だし、隆司の家に繋がっていく自信もまだ無いし。

 それならばもう少し、この心もとなさに耐えていくしかないのでしょう。そのうち悩むのにも飽きて、もうちょっと強くなれるのではないかと期待している』


『隆司のお母さんは、物静かでとてもやさしそうな人。この人とならもし同居することになったとしても一緒に暮らしていけそうって思ってる。でも普通に考えて、お母さんはいい気分じゃないよね‥‥。あんな親密な旅行の写真とか見ちゃったら、何? この女、って思うよね。私って桂木家にとってどんな存在? きらわれたくない』


『「ミカド」みたいなところも私が喜んで平然と利用できていたなら、隆司はもっと楽になれたのだろう。だけど、不特定多数のカップルが遊びみたいに「それ」をしに行く場所に、私たちも同じように「それ」をしに行くって考えたら、もう拒否反応しか出てこなかったのだ。もっとあっけらかんとバカみたいに軽く考えれたらよかったのに。どうしたらよかったのか今でも考える。泣いたりしてごめん』


『隆司は勘違いしている。私が活動を広げあちこち飛び回り、いろんな人に笑顔を見せてしまうのは、いわゆる「普通の」人間になったからではなく、一人でいることがひどく怖いから。いつも不安な気持ちは根底にあって、夜とか本当に息が苦しくなってしまう時もある。隆司が精一杯私のことを思ってくれているのは分かっている。でもいつまでもその気持ちに甘えて、「私はどうしたらいい? 私の事どうしたい?」 なんて聞いてる場合じゃない、ここからは私自身の戦いだと思うんだ。

本当に東京に居続けることができるか。東京でやるべき仕事が見つかるか。またずっと一人暮らしになるのかと思うと、怖くて怖くて。ふらふらとあちこち根回しのようなことをしてしまっているの』


『卒業後は絶対宇都宮に帰るって思ってたのに、いつから、帰らない、になったのか。いつも東北線で東京に近づいていくと、ずーんと落ち込んでしまう。元気出るまでしばらくげっそりと下宿で寝っ転がっているんだよ。見知らぬ町にたったひとり、みたいな感覚が未だに抜けなくて。隆司にすぐに会えると思っていてもこの弱さは治らないんだ。でもそのつらさを、今超えようと思っている。隆司も同じような苦しみを分け持ってくれていると感じるから。きっと乗り越えるよ。ずっと隆司のそばにいるよ』


『隆司には、私みたいな心も体も不安定な人間より、いつでも健康で明るい人の方がいいんじゃないかと時々思ってしまうことがある。私がこの弱さのまま実家に逃げ帰ってしまったら、それですべて終わりなんだよね。

 終わりにしたくなかったら私が東京で頑張ればいい、ただそれだけのことなのに、私にはそれがとても難しい。ずっと東京は嫌いだった。東京に住み続けるなんて有り得ないと考えていた。でも隆司のことを好きになったらそうは言っていられなくなった。

 隆司にはずっと私が帰ってしまうんじゃないかという不安を感じさせてきてしまった。私の弱さは私だけの問題では無くて、もう隆司を巻き込んでいる。ここで私がちゃんと立ち上がらなくては駄目だ。こんなに私を思ってくれている隆司のためにも、私は東京で生きていく覚悟をしなくてはならない。腹をくくらねば‥‥』


『陶芸家の先生たちに、弟子入りお願いの手紙を何通か出し始めている。下井草、馬事公苑、上野あたりに住んでる陶芸家。最近早速一通お断りの手紙がきた。当たり前だよね。当たり前じゃないことを突破しようと、私も頑張っている』


『昨夜来た陶芸家の先生の二通の手紙で頭が一杯。下井草の永見鴻人先生は「迷いなさい。私はそれだけしかあなたに言ってあげられない」という内容の丁寧なお手紙。文章から尊敬できるようなお人柄がうかがわれて、ご縁がなかったことが残念。

 高円寺の石井良夫先生は「一度お会いしましょう」との毛筆のよく読めない字のお手紙。これって脈あり? 現実化するとかえって怖い。お電話で、後日お会いすることになった。

 このことに関しては隆司に助けてもらうわけにはいかないから。随分一人で悩んだけど、目標もなく会社勤めなんかしてたら、私のことだからきっと気持ちが不安定になってしまうと思うのだ。アパートでの一人暮らしになるのだろうし、一日中会社で仕事をして疲れて帰ってきてまた一人。新しい人間関係の中で面倒な付き合いも発生するだろうし。女性の友だちはほしいけど、男性に意味ありげに接近されたりするのはもう勘弁してほしいのだ。親し気にまとわりつかれるのも面倒。だけど私はきっと思わせぶりの笑顔を見せてしまうんだろう。孤立するのも怖いから。もしかして忙しすぎて悩む暇もなくなるのかもしれないけれど。

 同じ苦しむんだったら他の人には真似のできない何か特別な技能を得るために苦しみたいと思った。陶芸の仕事だったら、雑多な人間関係とかなくて黙々と作業してればいいのではないかと思う。男とか女とか意識しないでいられる世界がいい。

 もし隆司と会っていなかったら、私は一も二も無く、何の迷いもなく実家に帰っただろう。そして適当に簡単な仕事なんかを探してその日その日をなんとなく暮らしていただろう。実家にいればいろいろ安心、そんな気がしてた。まあ、いろいろと精神的にはきついこともあるんだけど、少なくとも生活の面は、ということ。夜ひとりぼっちじゃなく、誰かと一緒にいられるというのは大きなことなんだよ。

 だけど、隆司がいたから、私は新しく道を切り開いていく気になったんだ。この先、うまくいくか、挫折するかまだ分からないけど、とにかく私に出来る限りやってみるつもり』


『両親は、私があんまり丈夫じゃないから、私が東京でずっと暮らすなんて言ったら絶対反対する。でも頑張って説得する。親の言いなりになんかならない。今の下宿、出なくちゃならないから、今度はアパート探さないとね。そうしたら隆司に時間がある時に来てもらえるだろうか。まだ先のことだけど、来てもらえるといいな。想像するとわくわくするよ。どこに出かけるんでもなく静かに部屋で一緒に過ごしたい』


『隆司のおかげで少し強くなれたような気がする。宇都宮に帰らない選択なんて一年前は考えられなかった。どうしようかな、なんて言葉を濁しながらも結局は絶対帰ると思っていた。でも私にはどうしても隆司が必要だと気づいてしまったのだ。

隆司以外の人と改めて付き合おうとかも思わないし、親密になりたいとも思わない。だとすると、隆司と別れたら私はどうなってしまう? そう思ったら、隆司と別れて宇都宮に帰るなんて絶対に言えない。もう隆司と共に東京で生きていくことを考えるしかない』


『結婚、とかいう言葉は持ち出さないし、約束も求めないよ。隆司がそのことで苦しんでいることは分かっているから。二十歳そこそこで結婚という言葉で縛り付け合うことこそ間違っている。自信も勇気も無いのはお互い様。学生時代を終えて、ちゃんと仕事とかし始めて、もっと将来が見えてきたら、そこで考えればいいこと。考えが違ってきてしまうことだってあるだろう。それはそれで運命に従うよ。すがりつく女になんかにはならないよ。でも、いつかは一緒になりたい、っていう気持ちで一杯、ということは分かっていて』


『隆司が仕事をするようになって、新たな人間関係が出来た時、もしかして若いきれいな人とずっと一緒に仕事するなんていうことがあるかもしれない。そうなったらどうしようと思う。今までの気持ちが変ってしまったら。

 そんな状況がとても怖い。それが、「約束」もなく東京に残り続けることの怖さなのだ。

だから、私は隆司に依存するような生き方はしない。東京にいようとするのも自分のためだ。自分を高めるような生き方をしていこうと思う。それで、隆司がずっと私に会いに来てくれるなら最高。

 もし違う運命が訪れたとしても、私は自分の生き方に誇りを持っていたいから、すぐに宇都宮に逃げ帰るような生き方は絶対にしない』


『一人では生きられないから誰かと一緒にいるというんでは情けない。一人でも生きられるけど、自分と相手をより生かすために協力しあって生活を築いてゆくというのがいい。隆司とならそういう生き方が可能なような気がしている』



大学四年


 大学四年の新学期を前にして、学校で宮迫典子と会った。彼女は卒業後は秋田に帰って高校の先生になる心づもりで教職課程の案内を事務所でもらっていた。白いブラウスを着た彼女が、いかにも純潔な風情なのがまぶしかった。

 文学部のラウンジで彼女と、春休み何してた? などとあたりさわりの無い事を話した。  県庁でアルバイトをしたとか、陶芸に興味をもってるんだとか、卒業後は大学院なども視野に入れて、いくつの大学から資料を取り寄せていることなどを話した。

 私が陶芸の道を考えていて、陶芸家の先生に手紙を出し始めていることをそれとなく言ってみたら、宮迫典子は、「すごーい。そうか芸術家を目指す道もありだよね。かっこいい」と好意的に受け取ってくれた。少し前に須山勝彦に「なにも早稲田まで来てそんなことをしなくても」と言われていて、それが大方の反応だろうと思っていたので、宮迫に素直に笑顔で聞いてもらえたことがうれしかった。

 大学院への道も少しは本気だった。

 早稲田の大学院は無理でも、ランクを落とした大学なら入ることは可能だという感触は得ていた。しかし、これは陶芸の道が駄目だった時のことだ。経済的な負担をこれ以上実家に負わせるわけにもいかないなとも考えていた。

 少し前に一人の陶芸家の先生から「会いましょう」とのご返事をいただいていたので、今はそれに賭けてみるしかないと思っていた。一週間後の日曜にお会いする約束をしていた。

 正に清水の舞台から飛び降りる心境。この先生からのお声掛けを逃したら、もうチャンスは無いかもしれない。そうなったら陶芸はあきらめて大学院を目指すか何か東京での仕事を探すことになるのだろうと思った。早くも気持ちが挫けそうだった。でも宇都宮に帰らず東京に住み続けるためには、この不安を乗り越えていかないといけないのだ。 


 宮迫典子とは結構打ち解けて話せている方だったが、私がもう三回も恋人と旅行に行ってしまっていることは、彼女にはどうしても話せなかった。

 思えば坂口美子が私に同棲のことを打ち明けてくれた時、どんな勇気を奮ったのだろう。私がどんな反応をするか、どんな顔をするか、怖くはなかっただろうか。私はしっかりと坂口美子の話を受け止めてあげれていただろうか。

 まだボーイフレンドもいないらしい宮迫典子に、私と桂木との生々しい恋愛事情など打ち明けられるはずもなかった。大学ではセックスの話なんて誰ともできなかった。遊びではなく、ここまで魂に踏み入った恋愛をしている者なんて大学の中を探してもどこにもいなさそうで。

 それとも学生たちのうち少なからぬ者たちはセックスを普通の日常生活の一部として軽く楽しんでいたのだろうか。軽く楽しむ、私はまだそこまでにはなれなかった。冷静になると、私たちはまだ学生なのにこんなことしてていいのかな、と思ってしまう。喜びの中にもうっすらと葛藤があった。

 税理士や公認会計士の資格を取ろうと一日中勉強している下宿の隣の部屋の商学部の人などを思うと、桂木のことで頭を一杯にしている自分がなんだか空っぽな人間のようにも思えてくるのだった。

 でも振り返って思う。学業に邁進できなかったとはいえこの恋を逃さなかったのは、私の人生における正解だったのだ。桂木と共に歩む人生は、もうこの時から始まっていた。


 桂木の公務員試験は七月。合格すれば面接は九月。それまでの間、私は桂木の邪魔をしてはならなかった。桂木は毎日真面目に勉強に取り組んでいた。いまや交換日記のようになった一冊の日記帳に思いの丈を書き綴り、それに茶化したコメントや、ふざけたイラストを描き加えたり、シールをべたべた張ったりして、互いにノートの中で遊んだ。時には真面目に悩みあい、ノートに涙の痕を残した。

 三年の成績表を貰う日、桂木と学校で待ち合わせて久し振りに会った。記念会堂のベンチに座って、互いの成績表を見比べた。

「優の数、私、30個。隆司は?」

「俺、24だった」

「わーい、勝った!」

「くそー、恵子に負けたー。悔しい」

「私って見かけによらず、頭いいんだぞ?」

「たいして勉強してるように見えないんだけどな」

「してないようで、してるんだよ。一人暮らしだとやることないと勉強するしかないしさ」

そんなことを言って笑い合った。

 その後一緒に金城庵でお昼を食べ、新江戸川公園に行った。よく晴れていて暑いくらいだった。ベンチで千葉旅行の写真を見せてもらった。どれも良く撮れている。一面の菜の花畑の中の二人、橙色のポピーの花束を持って微笑んでいる私。犬吠埼のやせた黒い犬と一緒にしゃがんでいる私。懐かしく旅を思い出し、雨が多かったけど楽しかったねと言い合った。

 おしゃべりをしながら公園の石段を下りている時、彼は急に立ち止まり私を抱き締めた。私も黙って彼の体に腕を絡ませ、そしてキスをした。


 大学四年の一学期がはじまる。それぞれに自分の進むべき道を探し出さなくてはならない。今までの進級とは違う身の引き締まるような気持ちで新学期の手続きをした。

 大学三年までで、ほぼ主要な単位は取れていたので、登録しなくてはならない科目は割と少なめで済んだ。いくつかの必修科目をこなせばいい。空白の時間も多くなる。歯科医院のアルバイトも週四日行けるようになった。

 四年生の大きなイベントは就職活動と卒業論文だ。卒論は夏以降頑張ればなんとかなるだろう。同級生たちと学校で顔を合わせることも少なくなっていった。英文科の授業でぐらいしか知っている顔に会えない。リクルートスーツ姿で授業に出席する者もいた。皆就職活動を始めているのだろうなと思うと、心に焦りが湧いてきた。


 ある日の午後、大学からの帰り、アルバイトに向かおうと西武線に乗り込んだ。電車の中はまあまあゆるく混んでいて座ることはできなかった。2~3駅ほど進んだところでO組の同級生だった中島智弘が乗り込んでくるのに気づいた。中島も私に気付くと軽く会釈をして遠慮がちに私の隣に立った。小柄で髪の毛がアインシュタインのようにふくらんだおとなしそうな人だ。

「こんにちは。久し振りですね。中島君て、西武線使ってたっけ?」

「あ、いや、今日はたまたま東伏見に用事があって」

「そうかあ。初めて西武線で会ったですね」

「そうですね」

中島はちょっと照れくさそうに微笑んだ。

「確か哲学専攻でしたよね。すごいなあ。私、一般教養で哲学取ってて、さっぱり理解できなかったの。アキレスと亀のパラドックスとか。なんで?なんで?って思ってた。やっぱり専門課程になると講義もぐっと難しくなるんでしょうね」

「うん。難しいけど、そういうこと考えるの、昔から好きだから」

「そうなんだ。やっぱりすごい」

 私は、中島に気さくに話しかけ続けた。前の席の人が席を立ったので、私はその席に座らせてもらい、正面に立つ中島を見上げる形になった。

「就職とか考えると気が重いですね。私なんかまだ何にも決められずにいるの」

「僕も」

 中島は短くそう言って黙り込んだ。哲学を専攻しているとなると、やはり教職を目指す形になるのだろうか。中島はとてもおとなしい感じなので、生徒の前で声を張り上げている姿が想像しにくい。

 電車は数駅進んだ。

「小島さんて、以前に比べて随分印象変わりましたよね。‥‥女の人はすごく変わるから」

 中島は急にひとりごとのようにそう言った。

「あっ、そう? どう変わったかな」

「なんか、ぱっと華やかになったっていうか、なんか、遠くからでも目立つ」

「あっ、ははっ。私、身長高くて、でかいからね」

「あっ、そういうわけではなく」

 中島は慌てて打ち消した。

「遠くにいても、小島さんがいると分かる」

「そう? 別に派手な服装してるわけじゃないのに?」

「うん」

「そうかあ。‥‥人からどう見られているかとか、よくは分からないんだけど、自分で変わったと思うことは昔より人付き合いに慣れたことかな。昔だったら自分から話しかけるなんてできなかった」

「‥‥僕は、O組の女の人とあんまり話せなかったな。小島さんともっと友だちになれたならよかった」

「そうか‥‥。あんまり話さなかったね。でも教室で会えば挨拶とかしてたじゃない。友だちだと思ってたよ」

「うん」

 中島は少し微笑んでもうそれ以上、そのことには触れなかった。

 去年、篠田にも言われた。前と随分変わったと。それは彼らにとってよい変わり方? 残念な変わり方? 私が無理して社交的な振りをしていたことについてはもうお見通し?

 ほとんど友人もいなさそうで、いつも一人でいる中島。ショルダーバッグを肩から斜め掛けにして構内を早歩きで歩いている姿を時折目にしていた。とても真面目そうな人。あまり遊んでいるようにも見えず、三年間ずっと思索的な雰囲気を貫いていた

 そういえば去年早慶戦に行くと坂口美子と話していたのを後ろの席で聞いていたのか、授業終わりに、

「早慶戦行くんですか?」

と聞いてきたことがあった。

私は笑顔で、

「行く予定なの! はじめて! 坂口さんその日用事あって行けないんだけど、私一人でも行ってみる!」

と返した。中島は人懐こそうな目で、にこっとしてくれた。中島と会話らしい会話をしたのはその時ぐらいだ。

そのうち私が先に降りる駅に着いた。

私は中島に、

「じゃあね。またね。お互いに就職活動頑張りましょうね」

と言って席を立った。

中島はちょっと微笑み、

「頑張りましょう。じゃ、さよなら」

と言った。

 中島とは、このままこの先も、卒業したらもう会うことはなくなるのだろう。

 中島に限らず、4年生になったらもうO組の人たちと顔を合わせることもほとんどなくなる。クラスメンバー60名。全員と仲良くなるなんてできなかったが、なかなか目が合わない数名を除けば私は誰とでもにこやかに挨拶をしてちょっとした会話にも楽しく応じられるようになっていた。畑中の忠告に従って、幾分八方美人気味ではあったのだが。

 おととしのあの日、151教室で声をかけてきたのが仮に中島だったとしたら、私は中島と付き合っていただろうか。中島は思索的で私の知らない面白い話題を提供してくれて、楽しく会話できていたかもしれない。しかし友だち以上になれていたかどうか。

 151教室に他の人を置き換えてみる。畑中や片山や佐伯や須山やいろいろな人‥‥。どの人とも表向き楽しく会話できただろう。でもある時点で物足りなく思い何か違うと感じ始めるだろう。

 私は最初の日から桂木の真っ直ぐな眼差しに心引かれていたのだ。桂木を探し求めていたのは私の方だった。ひと時も離れられない気持ちになっていき私が思いを決した時、桂木は見事に私の全てをさらったのだ。

 アインシュタインのような髪型だった中島君。やはり西武線の電車で会ったのが最後だった。私がずっと後々までこの時の中島を覚えているように、中島もこの日の私を覚えていてくれているといい。


 新学期が始まって少したったころ、ある英文科の同級の男子と通学路で会った。

「僕はこの前、東映のニューフェイスに応募して一次オーディションに通ったんだ」

と言った。

「わあ、すごいですね。俳優さん志望ですか?」

「できたら東映に入れたらいいなあ」

 背の高い、それなりにかっこいい人だった。どちらかというと一癖ある悪役が似合うかもしれない。叶うかどうかは分からないけれど、そんな特殊な進路を考えている人もいる。

 教師や官僚、マスコミ、出版社。いろいろな道はある。早稲田出身という事を生かせても生かせなくても、自分の望む方向に一歩を踏み出さなくてはならない。

 私もまた、陶芸への道を真剣に探り始めていた。

 

 私は陶芸の先生と会う手筈を整え、密かに緊張しながらその日を待った。石井先生からの毛筆の手紙があまりに達筆すぎて判読が難しかったので、たまたま廊下で会った佐伯伸也に見てもらった。

「うん、確かに、会いましょう、って書いてあるよ。すごいな。陶芸の道に飛び込むの?」

佐伯は驚いたように目を見張った。

「会うだけ会ってみるよ。どうなるかわかんないけど」

私はちょっと肩をすくめて答えた。

 へんなやつ、と思われてもいい。私はなんとしても前に進まなくてはいけない。逃げ帰る道は自分から絶った。高円寺の石井先生のところで受け入れてもらえなかったら、あと四~五人の陶芸家に手紙を出す予定だった。それも駄目だったら? 何かの会社に勤めることも考えなくてはならないだろう。

 桂木との愛を守るために東京に残る。それはもう桂木のためではなく自分のためだった。もし桂木と別れ宇都宮に帰ったとして、今後会うどの男性もすべてにおいて桂木を超えることはないだろう。私は死ぬまで桂木と別れたことを後悔する。それははっきりとした確信だった。










 




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