第22章 大学4年 東北旅行 ・卒業
- kaburagi2
- 2023年1月19日
- 読了時間: 55分
更新日:3月24日
ある雨の土曜日、「会いましょう」と言ってくれた陶芸家の先生のマンションに赴いた。お名前は石井良夫先生と言って、住んでいるところは高円寺、陶房は西武池袋線の東久留米にあるらしかった。年齢は六十歳。六十歳といったら私の父の年齢に近い。情報は「全国陶芸家事典」に載っていたものによる。
父は私が高校三年の時に大病をして、家族全員が死を覚悟したのだが、奇跡的に助かって今は銀行の嘱託の事務のような仕事をしている。決して無理はきかない体になっていた。痩せている父を基準に考えると、六十歳は大分枯れている初老の人。そんなイメージを持って、約束の日時の日曜午後五時半、石井先生の元に向かった。
指定されたのは高円寺の駅近くのマンションだった。陶芸家事典に記載されている先生のご自宅のご住所とは違っていたから、先生のセカンドハウス的なものなのかもしれない。私は紺色のワンピースに地味目な化粧で訪ねていった。少し前から雨が降っていた。
ベルを鳴らした後少ししてドアを開けてくれたのは先生の奥さんだった。小柄で人の良さそうな少し垂れ目の優しい顔をしている。和服を着ていて上品だった。
「どうぞ。お待ちしていました」
と笑顔で招き入れられた。玄関口に大きな備前焼きの黒灰色の壺が飾ってあった。
石井先生は奥の居間の椅子に座っていた。ややはげていて黒縁の眼鏡をかけていて、背は私より低めのような感じがした。作務衣のようなものをまとっている。やはり笑顔で迎えてくれたが、私の抱いていた六十歳のイメージとは少し違っていた。初老で枯れているといった雰囲気はなく、まだまだ精力的な感じがした。
若い女性の身でこの人に師事しても大丈夫かという不安が少し湧いたが、今このチャンスを逃したら次は無いのかもしれないと思った。他の陶芸家四人に出した手紙では、皆にやんわりと断わられてしまっていたから。「会いましょう」と言ってくれたのはこの石井先生だけだ。
最初、大学ではどんなことを学んでいるのか、今まで陶芸はやったことがあるのかなどを聞かれた。井の頭公園の教室で半年ぐらい学んできていることは伝えた。
石井先生は、
「まずデザイン学校に行った方がいい」
とおっしゃったので、やっぱり駄目かとひどくがっかりしたが、そこをねばって、
「先生はお弟子さんは取られないのですか?」
と食い下がった。
石井先生は、真面目な顔でしばらく考えていたが、
「つらいぞ」
と一言言った。つまり、これは‥‥? 脈がある?
「大丈夫です。やります」
私も真剣になって答える。
先生は私をじっと見て、
「やってみるか?」
と一言。
私は(やった!)と思いながら、大きく「はい!」と答えていた。
これで決まり。なんだか思ったより簡単に決まったので拍子抜けがした。
大学卒業までは、授業の合間を縫って先生の茂竹庵陶房での作陶のお手伝い、主に土練りなどをすることになった。陶芸教室もなさっているので、先生の助手ということで教室の準備などの手伝いもすることになった。もちろんまだ無償である。
もし、大学卒業まで気が変わらず続けられていたら、先生が陶器置き場にしているマンションの一室を貸してくれるので、そこに住んでもいいということだった。光熱費は負担しなくていい代わりに、お給料として支払われる代金は五万円ぐらいのこづかい程度だと言われた。むろん教えていただくのにこちらから謝金を払わねばならないところを、少しでも先生からいただけるのなら文句は言えない、それどころか恩の字である。しかし経済的には苦しくなるだろうから、何かアルバイトなども探さなくてはいけないだろう。
帰りは、高円寺駅から野方行きのバスに乗り、西武新宿線に乗り換えて帰った。下宿にたどり着いたのは九時ぐらいになっていた。興奮してなかなか寝付かれなかった。
この石井先生の元には、私が結婚して子どもを産むまでの二十八歳までお世話になった。
先生とは割と早めにセクハラめいたこともあり、作陶風景に幻滅したりもあって、私の心の中にはいろいろ考え悩む所もあったのだが、総体的には善良ないい人であったことは確かだ。
石井先生の奥さんも実に優しい人だった。今まで先生は奥さんと二人で陶房を営んでいたのに、私が入り込むことによって奥さんの居場所がなくなり、奥さんは陶房に来れなくなってしまった。奥さんはお姑さんにいじめられているというようなこともあって、先生が陶房に連れ出してあげていたのだ。後になってそのことを知って、奥さんに申し訳ないことをしたと思ったが、私も必死だったのだから仕方がない。
先生は、あの面接の日の私の印象を笑いながら、後日こう言った。
「ワンピース姿のまたえらく清楚できれいな子が来たと思って、だまされちゃったよ。にゃあ(私のこと)は見た目より結構頑固で言う事は言うよね。いやあ、女性は魔物だ」
先生は私のことを迷い込んできた子猫ちゃんぐらいにしか考えていなくて、私がいたら地味な陶房が華やぐかもといった軽い気持ちで私を招き入れたのだろう。だが私が先生の甘い考えにいろいろと反撃を加えたので、先生も私を見る目を改めざるを得なかったのだ。陶房で私は傷つき悩むことも多かったのだが、私に東京での居場所を与えてくれたという点で、石井先生には今も深く感謝している。
手塚治虫の「火の鳥」は六巻まで持っているが、もう何度読み返したかしれない。あれは、弱った心には少し恐ろしい内容だった。命、時間、宇宙、どれをとっても突き詰めて考えたら計り知れない脅威だ。
「火の鳥」の中の女性たちは子どもを産むことで逞しく命を繋ぎ、永遠を得ていった。
長い長い歴史的スパンで物事を考えれば、人一人の悩みや弱さなど何ほどのものでもないのかもしれない。
その何ほどでもない自分のはずなのに、未だ生きる事への怯えが魂の底に沈殿していて、夜になると桂木が恋しくて「来て」と電話をしたくなってしまう。受話器を手に取り、迷い、電話をかけずに受話器を下ろすまでの数秒間、私はひどく消耗し疲れ果ててしまっている。
桂木との日記には、
「私は放っておかれても大丈夫だから、隆司は自分のことをしっかりやってね」
などと書いておきながら、私はやはり一人ではつぶれてしまいそうなのだ。
大学に行っても知っている顔を見つけると、誰かれなく声をかけてしまう。そして彼らに元気な笑顔を見せることで、やっと自分が元気であるらしいことを確認するのだ。
大学四年は、受講するべき科目も少なくなって、皆、就職のための活動を本格的に始める。大学で友人にもなかなか会えなくなってきて、そうすると授業が終わると一人町をうろついて時間をつぶすしかない。私はまた「孤独」という病に侵されかかっていた。
石井先生の陶房に通うようになったら、何かが変わるだろうか。忙しくなれば孤独感が消えるだろうか。私は「強くなる」と桂木に約束したのだ。なんとしてでも東京で踏ん張ってやっていくしかない。陶芸という新たな足掛かりを得た今、私は大きく変わらないといけないのだ。
陶芸の先生からは、来れる時はいつ来てもいいと言われていたので、二、三時間でも隙間時間ができたら陶房に通うようにしていた。行けば何かしらの仕事があり、土練りとか陶芸教室の準備とか、新宿三越デパートで開かれる先生の個展の準備などのお手伝いをしていた。
大学の授業やアルバイトの無い時、そして先生が所沢や障害者施設の陶芸教室に行っていない時は、だいたい東久留米の陶房に通っていた。行くところややることがあることはうれしい。私は桂木に会えない孤独を東久留米に行くことで紛らわせることができた。
紙の契約書も無い状態だったので、先生に必要ないと思われたらいつでも即クビになってしまう。私は先生に嫌われないように、従順に言われたことをこなしていた。
その他にも、先生が作ったものに文様をつけるとか、釉薬をつけるとかの仕事も教えてもらって少しずつ陶芸技術も身につけていった。窯詰めの仕方も教えてもらった。釉薬が垂れて下の台にくっついてしまわないように、小さく丸めた粘土を、陶器の下の高台に三つばかり付けるのだが、先生はそれを唾をつけてやるのだ。それはさすがに真似できなくて、私はお皿に水を張ってそれにつけてやっていた。先生の奥さんも、「その方が衛生的にいいわね」と賛同してくれたのでほっとした。
電動ロクロには触らせてもらえなかった。勝手に使わせてもらう雰囲気でもなかったので、手びねりや、たたら板を使った作陶を本で学んだりして、先生のいない時などに練習をしていた。
大学生のうちは、先生の三越デパートでの個展の際は、窯詰めや、作品の搬入、搬出のお手伝いなどに関わらせてもらった。三越デパートは、閉店後も店員さんたちは忙しく立ち働いている。地下に物品倉庫が何階もあって、業務用の大きなエレベーターは商品の移動で大忙しになるのだ。そんな舞台裏も知ることができた。
三越の美術ギャラリーはそこそこ広く整然としたスペースで、先生の作品が並ぶと何かいきなり高名な作家さんの個展のように思えて、私まで誇らしい気持ちになってくる。実際は個展の朝までバタバタしていて、会期中も往生際悪く窯を焚いていたりして全く余裕がなく汲々としている。そんな実情もおいおいと知っていき、いずれ私が会期中の窯焚きの下支えをすることになるのである。
先生は私に好意的で、いつもやさしく声をかけてくれて娘のように接してくれた。時々手を握ってくることもあったが、私はまずは陶房でうまくやっていけるかで一生懸命だったので、先生の態度を別に不快だとも思わなかった。学生のうちは、先生が私を気に入ってくれているらしいといううれしさで、多少の違和感は飲み込んでしまっていたのだ。そしてたぶん先生は私が笑顔でいつも応対していたので、勘違いしていったのだ。
後々先生の親密度がエスカレートしていって、私を悩ませることにもなっていった。それは私が大学を卒業して、正式に先生のマンションに移り住んだあたりから深刻さを増したのだった。
桂木は、猛勉強の甲斐あって、筆記試験、面接を通り、公務員試験に合格することができた。川崎市の学校事務の仕事を選んだ。面接では「学校という環境が好きなので‥‥」などと言ったそうだ。「そんなのは全然嘘だけどな」と、桂木は後で笑って言っていた。
一般事務よりは暇な時間があるということで、日曜などを利用して関東周辺の双体道祖神巡りなどが出来るかもしれないことを喜んでいた。
桂木が勉強を終えて自由な時間ができたのに、私は東久留米に行っていることが多くなってしまった。桂木は、それを寂しく思っていただろうが、私のために黙って耐えていてくれた。それも日記を読んで知ったことだった。
十月、私たちは互いの進路も決定しほっとしたところで、思い切って東北旅行に出かけた。私たちにとってかなりの遠出だった。
桂木の小さな車でどんどん北上していき、福島県の五色沼、猪苗代湖などを見て福島県の「ますや」で一泊。どこか寂し気な、いかにも東北の山奥にあるといった風情の宿だった。
ロビーの雑誌置き場に西岸良平の「三丁目の夕日」という漫画本があって、昭和三十年代生まれの私たちはこの漫画に描かれた情景にいたく懐かしさを覚え、私はその後、書店で西岸良平の漫画をみつけるとすぐに買うようになった。
二日目は岩手県の中尊寺を見て、遠野に行き「曲り屋」で一泊した。この旅行の直前に遠野出身の菊池洋子が鉄道自殺していたので私たちは宿の窓から遠野の夜の町の明かりを眺めながら、胸に迫る気持ちを押さえて菊池洋子を悼んだ。遠くに電車の明かりの列が流れていくのが見えた。
「曲り屋」は座敷童子が出るらしいのだが、その気配があったのかどうか。ひどく寂しい感じがしたのは覚えている。
宿泊客たちと囲炉裏を囲んでいる時、ちょうど写真雑誌の取材が来ていて、私たちも写真に撮られてしまった。その雑誌は銀行の雑誌置き場によく置かれているもので、私たちは東京に戻ってから写真を確認した。桂木が「LEE」という大きいロゴが入った白いトレーナーを着ている後ろ姿、その隣にやはり白いトレーナーの私。一ページまるまる使った大きな写真だったがメインは曲がり屋のおかみさんで、私たちの顔は写っていなかったのでほっとした。
三日目は陸中海岸、浄土が浜をめぐり「かみやま」で一泊。宿と言うよりドライブインの休憩所みたいな感じがしたが、おかみさんは気さくで、売れ残ったお土産用の古いキーホルダーを無料でいくつでも持って行っていいですよ、というので、二つもらった。
四日目、とうとう東北の北端の恐山まで到達した。賽の河原のような異様な風景で、何か最初から心ざわつかせるものがあった。車を降りてもなんだか不安で、私は桂木のそばを離れられなかった。
気のせいかもしれないが霊的なものがあたりにうごめいているような不穏な気配がする。イタコの口寄せなどが行われるにふさわしい縹渺とした寂しさだ。あたりを取り巻く山々の紅葉は真っ赤に燃え盛り見事だった。それ故にかえって恐山の地獄のような異様さが際立っていた。
こんな最果てなのに、河原に掘立小屋のような食事処がポツンと建っていて、入ってみると女の人が一人で切り盛りしているのだった。年配というほどでもない若めの人。それも恐山にそぐわなくて私たちに不思議な印象をもたらした。
そこから南下し始めて、奥入瀬渓谷、十和田湖のあたりにまで来た。「渓山荘」というところに泊まった。きれいで新しい感じの民宿だったような気がする。
五日目は秋田の田沢湖を眺め、角館へ。宿は「おぬき」。樺細工の工芸品がお土産としていろいろ売られていて、私は一輪挿しを一つ買った。
この頃私たちの間で、会話をカセットテープレコーダーに録るのがはやっていて、布団に横たわりながら随分馬鹿げた会話をし合っては笑い転げていた。桂木は興に乗るといつまでもふざけた話をおどけた声音で繰り広げてくれる。このテープは誰にも聞かせられないねと言い合いながら、お茶らけた話、Hな話なども大笑いしながらテープに吹き込んだ。
そうして東北の旅を終えた。途中桂木の車の電気系統が故障するというアクシデントがあり焦ったが、なんとか帰ってくるまでもたせることができた。
桂木の小さい車で長距離を巡るのは少し無理があったのだ。もし、恐山あたりで車が動かなくなったらどうなってた? と顔を見合わせながら、車を置いて電車で帰ってくることになったのか?とか、少し無謀だった旅を振り返って、笑いながらも、無事に帰れてよかったとほっと胸をなで下ろす私たちだった。
桂木の車、小さくて窮屈なホンダの「LIFE」。元々はおばあさんを病院に連れて行くために桂木は無理矢理免許を取らされ、安い中古車を買ったのだそうだ。この車の中で私たちはどれだけ愛を語らい、悩み、ケンカをし、キスしあったことか。遠く旅行にも出かけた。数えきれないほど上石神井にも来てくれた。この車があったからこそ、私たちは愛を深めることができた。桂木と私のすべてを知っているホンダ「LIFE」。私たちは「ライフちゃん」と呼んで、この車を壊れるまで慈しんだ。
その後十二月までは、卒業論文に専念することになる。
テーマは『ウィリアム・ブレイクの「天国と地獄の結婚」の考察』。夏休み前から少しずつ資料をまとめ書き始めてはいたが、秋ぐらいになっても三十枚ぐらいで止まってしまっていた。提出期限は十二月十七日。私は、アルバイトや東久留米に行っていない時間などは全部論文制作に費やした。
『物質的な世界と肉体的な欲求は、同じように神の秩序の一部である』という思想がこの「天国と疑獄の結婚」という本の根幹となる。本は散文や詩、彩色を施されたイラストを含んだ銅版画から成っていてかなり分厚いようだ。原本通りの本は手に入らないので、訳本か誰かの研究書を基に考察を進めることになる。なかなか難解で幻想的な言葉遣いなので、意味を紐解くのにてこずる。たとえば序詞となる詩はこうである。
リントラが吼え 重苦しい空に火を吹き上げる
飢えた雲が海面に垂れ込める
かつては温厚だった正しき人が
今は死の谷に沿った
危険な道を行く
茨の生えたところにバラを植え
不毛の荒地にも
ミツバチが歌う
危険な道に草木が生じ
あらゆる崖や墓場にも
川が流れ 泉が湧く
干からびた白骨からは
赤い土が噴き出した
すると安楽の道にいた悪人が
危険な道にやって来て
正しき人を不毛の地に追いやった
いまやこっそりしのび歩く蛇が
へりくだりながら入ってくる
正しき人は怒りの声をあげた
ライオンが咆哮する荒野に
リントラが吼え 重苦しい空に火を吹き上げる
飢えた雲が海面に垂れ込める
この詩が表しているのが希望なのか破滅なのか、革命なのか。まずそこから解読が難しい。切り込む方向を見定めるのにかなり時間がかかった。
従ってなかなか原稿用紙の枚数がかせげなかった。下宿の部屋で行き詰まりを感じると原稿用紙を持って散歩に出た。途中喫茶店に腰をおちつけてやっと数枚書いて、蕎麦屋で読み直し、下宿でまた数枚書き足す。学校の学生読書室や図書室でも数枚書くと言った具合。
下宿のすぐ近くの洋食屋の「タンタン」でも、カレーを食べながら原稿を読み直したりしていた。この店のオーナーの若い夫婦は私が客として入っていくと、決まって険悪になりカウンターの下で足の蹴り合いを初めてしまう。どうやら夫の方が私にいやに愛想よく話しかけたりするのが妻には気にくわないらしい。だんなが女子大生に色目を使ってる、という風に。
私は食事が終わって少しの間、原稿の推敲に没頭している振りをしながら夫婦の様子を観察している。我ながら意地が悪い。
夫婦は気まずそうに私の方をちらちら見ては、調理の合間に足蹴を続けて時々にらみ合う。私をきっかけに二人の隠された愛情が表に出て揺れている。そんな夫婦の心の機微を、人間らしくていいなと思っていたりもする。
しかしそんなことを面白がっていると卒論の手直しが全然進まない。一体何をやってるのかと自分に呆れながら店を出ることもしばしばだった。
原稿用紙百枚は相当のプレッシャーだった。こんなに大量のまとまった文章など書いたことがなかったから。とにかく章立てして、十枚一区切りをイメージすることで、書き進めていった。
五十枚を過ぎたあたりから随分楽になっていった。なんとか書き上げられそうな目途がついたのは十一月半ば。その後半月で補筆修正し、十二月頭には原稿用紙約百枚の卒論をまとめあげ清書にもちこんだ。
手書きなので、清書するのに何枚も反故紙を費やしながら、やっと十二月半ば前には製本することができた。
桂木は、試験勉強の間、卒論は何も手をつけることができずにいたので、ここにきてひどく焦っていた。ただ資料だけは膨大に集めていたので、なんとか引用を多用しながらまとめたようだ。
論文を提出後、氷室美佐子教授の評価を受ける面接の場で、私は思いがけなく、よく書けています、との評価を受け、百点満点中八十八点をいただいた。謎めいた箴言と禅の思想を比較考察したのが、なんだかよかったようだ。自分ではこじつけめいた解釈だなと自覚していたので、教授に褒められてびっくりした。
全部英語で論文を書いていた人もいて、私はそれだけでもすごいと思っていたが、案外評価が低かったと面接からしょげて戻ってきたので、形式よりはやはり内容が重視されているのだろうと思った。
桂木の方は、法隆寺伽藍の建築様式についての論文を書き、なんとかそこそこの評価を得て通ったようだ。卒論に当てる時間が私より圧倒的に少なかったのだから、きっと最後の方は急ぎ足になってしまっていただろう。
これで、卒業に向けての単位はすべて取得した。
そうして私たちは、何のレポートも宿題もないおだやかな年末に向けての日々を、駆け抜けるように東京巡りに費やした。
長期の休みに私が帰省する前は、桂木はいつもひどく淋しがる。私がなるべく帰らないようにとあれこれ出かける約束をもちかけて引き止めがちだ。十二月も終わりに近づいた頃、この冬休みも私に帰省してほしくなくて桂木は伊豆への旅行の計画を組んだ。
大学三年の時に行った思い出深い伊豆。近さもちょうどいいし、もう一度行ってもいいと思った。私はもう何も緊張することもなく安心して旅行に赴き、年末の三泊四日を桂木と伊豆で過ごした。
城ヶ島、爪木崎、下賀茂のフラワーパークなどを見て回り、松崎の町をめぐり、長八記念館なども見学した。桂木は露天風呂をいたく気に入りあちこち見つけ次第に入っていた。私は人目があるので、さすがにそうは入れなかった。外ですぐに裸になって嬉々として露天風呂に入る桂木の無邪気な姿に微笑みを誘われた。これも彼が私だけに見せる無防備で安心しきった姿だ。
いのしし村では、いのししのショーも見た。いのししが思ったより賢くてちゃんと芸をしているのを興味深く観覧した。「ロク!」とか「ハチ!」とか、数字の名前で女性スタッフがいのししたちを呼んでいる。その元気のいい掛け声が耳に残った。私はいのしし年生まれだから、いのししにはちょっと思い入れがある。いのししが階段を駆け上がったりして威勢よく活躍しているところを見れてなんとなくうれしかった。
泊まったのは「磯風荘」「まつざき荘」「戸田荘」など料金の安い国民宿舎だった。桂木の媚びたり気取ったりしない性格によって、また本当にそうはお金もなかったので、私たちはいつも安宿に泊まっていた。それでも海辺の宿はいつも最高においしい料理を提供してくれて、私たちは満足だった。高級ホテルに泊まって緊張しながらフランス料理を食べるより、私たちには鄙びた宿の庶民的なもてなしの方が安らげたのだ。
帰りの車の中で、私はふと「結婚」の言葉を口にしてしまった。桂木は考え込むように黙ってしまった。桂木にしてもこれから社会に出て行くにあたっての不安もあるだろう。自分の将来が確固たるものになっていないうちに人一人を請け負うことなど、簡単に気安く言えるものではない。それは彼の誠実でもあり、それゆえの弱さだった。ふざけた感じにその場限りの安易な約束をすることができなかった彼を、私は十分理解していた。
私は東京での自分の生活をきちんと生き、能う限り桂木のそばにいよう。その世界線上に彼との生活が築けていることを願った。
私が実家の両親に卒業後も陶芸家の先生のもとで陶芸を学びたいという決意を口にした時、両親がどんな反応をしたのか実は全然覚えていない。ただ四年生になった時から、陶芸の先生の手伝いをしていることは言ってあったし、他に就職活動はしていないことから、こうなることは察してはいただろう。駄目だったら実家に帰ってくればいい、ぐらいの気持ちで私を許してくれたのだと思う。
私に付き合っている人がいることも知っていたから、そうそう簡単に別れて実家に帰れないのだろうということも察してくれていたのかもしれない。
私は体や心に不安定な面があったから、東京で健康を損なわずやっていけるのかという心配もあっただろう。しかし私は案外意固地で強情なのだ。反対したら私がどんなに落ち込むか、または怒るか、反抗するか、その反応が恐かったのかもしれない。両親は静観の構えでいてくれた。親としてはひどく心配だったろうが、私の自由にさせてくれた。娘が勝手に決めた進路に対して、両親が慌てふためかず冷静に対処してくれたことを有難く思う。
もっとも私が何も決められずにいて、卒業後どうしよう、と親に泣きついていったとして、その方が困っただろう。結局親は子どもの進もうとしている道を見守るしかないのだ。親を頼らずに自分の意思を通して勝手に進んでいくということは、ある意味親孝行とも言えるものだったろう。
三月の下旬、いよいよ上石神井ともお別れだ。閑静な住宅地で駅前にはお店もいろいろあって住みやすい町だった。随分散歩もしてあちこち歩き回った。武蔵関公園へも何度もジョギングした。桂木との思い出がしみついた町だ。東久留米でも桂木との生活をはぐくめるだろうか。
友人たちがどこに就職し、あるいは地元に職を求めたかなどの情報はよくは分からなかった。坂口美子は代々木のアパートに引き続き住むらしかった。同じ組にいた深沢順子は西武池袋線の清瀬のアパートに住むと聞いた。オーケストラ部に所属していてバイオリンを弾く人だ。時々クラシックコンサートに誘われて聞きにいったことがある。さほど多く話をしてはこなかったが、東久留米と清瀬は近い。これを機会にもしかしたら親交を深めることもあるかもしれない。一人でも知っている人がそばにいるとうれしい。
三月二十五日、いよいよ卒業式の日。朝九時ごろ美容院に行き髪をセットしてもらった。十時に東久留米のマンションを出て高田馬場に向かった。駅で桂木と待ち合わせをしていた。
改札辺りは同じく待ち合わせをしているらしい卒業生でいっぱいだった。袴姿の女子学生も何人かいて、宇都宮女子高の時の同級生だった水谷ゆかりもその中にいた。早稲田在学中にミス東京にも選ばれた美しい人だ。長いつややかな髪をピンク色のリボンで結び、やはり一際目を引く美しさだった。
彼女は教育学部だったので在学中ほとんど会うこともなかったが、時折男子学生と一緒に早稲田通りを歩いているのを見かけたことがある。今日の待ち合わせの相手もその男子学生だった。彼女は卒業後も宇都宮に帰らず東京に残るのだろうか。笑顔の彼女からは一切の悲壮感は無かったので、たぶん彼女も愛を全うする方向で進路を選んだのだろう。
卒業式が始まるのは午後からで、まだ少し時間があったので桂木と地下鉄で飯田橋まで行き、筑土八幡神社の珍しい庚申塔の写真を撮った。立っている牡猿が桃の枝を手折ろうとしており、座っている牝猿が手折られた桃の一枝を持っている不思議な構図の、二メートル近くもある大きな庚申塔だ。雌雄の猿の仲睦ましさがほのぼのと伝わってくる。
珍しい石仏や庚申塔、道祖神を巡り写真に収める私たちの趣味は、大学四年の後半から始まりその後数年にわたって続いた。四月、五月と慣れない仕事で息苦しくなったりした時、こうした石仏写真を見ることで心が少し癒されるような気もした。
その後、神楽坂のお店で昼食のハンバーグ定食を食べてから早稲田に向かった。午後になり大学まわりは既に卒業生や関係者でひどく混雑していた。
卒業式は文学部の記念会堂で行われた。黒いマントや学帽をかぶった教授たちによる祝辞などが続き、その後、学部ごとに総代が卒業証書を受け取った。すべて男子学生だったので、一人ぐらい女子がいてもいいのにと思った。法学博士が三十人も呼ばれた頃には背中が痛んで疲れてきた。
記念会堂内は天井も高く暖房設備も無いのでひどく寒かった。式の最後に全員で立って早稲田校歌を歌った。全員で歌うと迫力があり声の響きで圧倒されそうになる。歌いやすく覚えやすいいい歌だ。少し涙が出そうになった。
卒業式が終わった後、453教室に行き英文科のクラス仲間と共に一人ずつ卒業証書もらった。紙コップのビールで乾杯した後、友人たちとの別れを惜しみながら写真を撮り合ったりした。
桂木とはミルクホールで待ち合わせをしていた。二人で本部の方に行き、図書館の前を回って学内を少し散策した。
図書館前で長池が石の手摺に一人腰かけているのが目に入った。長池は私と桂木に気づいてはっとした後、少しおじぎをして微笑んだ。またあれからひどくやせたようだった。最近は上石神井でも長池に出くわすことはほとんど無かったので、司法試験を諦めると言ったその後の進路については私は全く知らない。今日図書館で会ったのはほとんど奇跡にも近い偶然で、もうこれを最後に長池と会うことはなかった。長池はこのあとすぐに淡路島に帰ったらしい。
大隈公前の広場にあるいくつかの立看も学生がほとんどいない今は寂しく見える。
立看前は歎異抄研究会の恰好の勧誘の場だった。立看の激しい文字の羅列にいつも圧倒されていた。立看前で歎研の仲間と立ち話していながらもまわりの目が気になって、
「私は部員じゃないからね。勧誘されてるだけだから」
という雰囲気を出そうとしていた。とすると、私は自分が部員であることに納得できていなかったのだろう。
吉川清彦も同じ学年だったから留年していなければ今日の卒業式に出席していたはずだ。ひとこと「ありがとうございました」ぐらい言っておきたかった。
春休み中で一般の学生もおらず静まりかえっているこの広場も、一週間後に四月になったら、大勢の学生が行き交う中、にぎやかに息を吹き返すのだろう。そうしてまた歎異抄研究会につかまってしまう新入生がいる‥‥。そこで生きることについて、幸福についての究極の命題を突き付けられるのだ。
桂木と二人で演劇博物館に入って、ゆっくりと中を見学した。もうこれで早稲田ともお別れだ。
青い夜明けの荒野に佇む中世風の人物を描いた油絵の前で写真を撮った。誰もいない薄暗い演劇博物館の二階。もう何度この場所でキスしたことだろう。ひんやりと湿っていて、油っぽいワックスの匂いがたちこめている小部屋。坂口美子ともここでよく語り合ったものだった。
共に早稲田のあちこちを最後に見て回りながら、多くの学生たちの中から、ただ一人桂木に会えたこと、愛を育めたこと、その幸福を改めてかみしめていた。卒業後には別れることになるのかとあんなに悩み合ったことが今は懐かしい。ここにたどり着くまでに多くの涙も流さなくてはならなかった。互いの愛や勇気が試された日々。卒業後も彼と一緒にいられるよと、悩んでいたかつての私に伝えたかった。
演劇博物館を出るともう夕暮れの気配になっていて、私たちは早稲田通りをゆっくりと歩いて高田馬場駅に向かった。途中甘泉園にも寄った。私たちにとって苦しくも輝かしい学生時代の思い出が散りばめられた愛おしい公園だ。
もうこの道を学生として一緒に歩くことはない。けれど私たちの付き合いがこれからもずっと続いていくなら、またいつか二人でこの道を歩く機会もあるだろう。
五時半に高田馬場に着き、そこで桂木と笑顔で別れた。四月になって互いの仕事がちゃんと始まるまであと一週間、それまではまた毎日のように会ってあちこち出かけるだろう。
私は池袋まで行き西武池袋線に乗って東久留米のマンションに向かった。マンションに着いたのは七時近くになっていた。石井先生と奥さんは、まだ陶房の方で仕事をしているようだった。
大学一年の時は、早稲田に入れた嬉しさで意気込み期待に溢れ一生懸命勉強もしていた。優秀な友人たちとも知り合えて新鮮な刺激も得た。高校時代の授業とは一線を画する難しい講義内容に真の学究の極みを感じ襟を正す思いだった。
そのうち自己の稚拙さと、求めるものとのギャップが埋められないことに焦り出し、一年の後半、精神的に崩れてしまった。あれはひどく苦しい経験だった。自己のもろさに初めて気付き、孤独感に圧倒され、呼吸することさえつらかった。ここまで墜ちたことがなかったのでどう対処していいかわからず、毎日蒼ざめた顔で過ごしていた。しかし、表向きは何もつらいことはないかのように装っていた。こうした心の苦しみを経験することも人生には必要だ。その後の生き方を見直す転機ともなった。
二年では、歎異抄研究会に飛び込み、一生懸命人生について考えた。吉川清彦と議論めいたことを繰り返したことは私を大きく成長させたと思う。その結果病気をこじらせることにもなったのだが。
大学を長期休んだことは私にとって挫折にも近い経験だったが、それを乗り越え前に進んだことで、桂木隆司とも知り会えたのだ。
桂木とは一年の時から一緒のクラスだったのに、声を掛けられるまで挨拶すらしたことはなかった。もし私が自分の弱さに気づかず、ひとりでも生きていける気でいたなら、桂木の誘いに乗りはしなかっただろう。
あの151教室。「お茶でも」と声をかけてくれた彼に、「ごめんなさい」と答えたか、「いいですよ」と答えたかで、私の運命は大きく変わっていたのだ。桂木とのデートともつかない土曜日ごとの語らいは、私の心を豊かにし、孤独の苦しみを薄れさせてくれた。
そして初めてのアルバイトに挑み秀夫先生と知り合えたことも忘れられない鮮やかな経験だった。秀夫先生が無駄に美しい人だったので一緒にいていつも少し落ち着かない気分にさせられた。その心の揺れも今思えば微笑ましい。
三年は、桂木と本気の恋をして心も体も大きく揺さぶられた一年だった。悩みに悩んで命がけの覚悟で踏み切った夏休みの伊豆旅行。年を経た今でも彼とは「えりか荘」の名が出る時がある。もっともっときちんと日記を書いておけばよかった。書ききれない思いがあったことを今は懐かしむことしかできない。
そしてある夏の夜、私にいきなり告白してきた長池和幸の存在も、私の人生に忘れられない痕跡を残した。
『Pan』の仲間たちと詩について話すこともできた。詩は私の全人生を通すテーマだ。臆病にならず、彼らの会合にも参加してもっと話せばよかった。
桂木と恋をすればするほど互いの将来の進路に悩み合い、少しずつつらくなっていった三年の終わり頃。
四年では、桂木は公務員試験に集中し、私は陶芸家の先生のもとにお手伝いに行くようになり、それぞれが離れ合って頑張ることになった。会える日は少なくなったが、好きだという気持ちが弱まることはなかった。
恋にうつつを抜かしてはいたが、勉強の方をなおざりにすることもなく、決して悪くはない成績で早稲田を卒業できたことは一応誇ってもいいことだろう。
しかしそれも私一人の力ではない。学友たちの多くの助けもあった。優秀な友人たちが快くノートを貸してくれたから数々の試験を乗り越えられたのだと思う。友人たちと助け合えなかったら、私は単位をいくつか落としていただろう。
そして原稿用紙百枚の卒論を書き切ったことも私の自信につながった。
一足先に恋をして先を歩いていた坂口美子も、私に大きな影響を与えた存在だった。彼女が勇気あるお手本を示してくれなかったら、私は桂木との交際を前に進めていくことはできなかったかもしれない。彼女との出会いも、私の運命を方向付けていたのだ。
私は桂木と初めて本気の恋をした。こんなに人を好きになれるなんて思ってもみなかった。桂木との毎日は驚きや感動、喜び、不安や悲しみなど多彩な感情で彩られ鮮やかに輝いていた。その輝きの中を迷いながらも一途に駆け抜けていくうちに私は徐々に大人の女になっていった。その過程は今思うと随分急ぎ足であったような気もする。
私はあわてふためきながら精一杯桂木についていった。それによってかけがえのない数々の思い出を作ることもできた。それも桂木が強い情熱をもって私を思い続けてくれたおかげだ。
桂木と付き合うことにならなかったなら、私はどうなっていたのだろう。
吉川清彦との苦しいつながりを断ち切れなかったかもしれない。私に告白してきた人となんとなく流れで付き合ってしまっていたか、あるいは長池の積極的なアプローチに屈して、彼のアパートに出入りしていたかもしれない。誰とも付き合わず一途に勉学に励んでいたか、孤独から脱することが出来ず心病んでいたか。それはそれで私はその人生を受け入れて生きていったのだろう。
でも桂木との出会いは私の運命だった。桂木に出会うべくして、私は早稲田に入った。
早稲田での四年間は、まるで一気に起こったビッグバンのように私の人生を開いた。そこにはかけがえのない多くの出会いがあった。忘れ去ってしまわないうちに、そしてまとめる力のあるうちに、いつか大学時代のことを文章に書き起こそうと思っていた。
ここ数ヶ月、大学時代を振り返り少しずつ文章にしていくことで、学ぶこと、恋をすること、生きることの喜びと苦しさを追体験していった。
私は今また、桂木に(夫に)恋をしているのである。お互いに随分年をとってしまったが、今でもあの頃の気持ちは消えてはいない。共有した記憶を、いずれ互いの立場から振り返るときもあるかもしれない。少なくとも私は、若い頃の自分の気持ちをすべて吐き出した。一段落した今、ほっとしている。
最後に友人たちのその後について、私が知る限りを綴ろう。
坂口美子は、卒業後、青山の双子ビルの中にある会社にOLとして何年か勤め、25歳ぐらいで同棲していた法学部の彼氏と結婚した。彼氏は海外派遣もある商社マンになっていて、結婚後、坂口美子もその人の海外の赴任先についていき、エジプトからの絵葉書をもらったこともある。そして数年後、彼女は一児の母となった。
彼女の結婚式は東京の友人たちを呼んで大隈庭園にある式場で行われた。彼氏は岐阜出身なので、岐阜でももう一度披露宴をやったそうだ。私はスピーチなどを頼まれていたので、かなり緊張していて何を食べたかあまり記憶に無い。
そのスピーチで私の自作の詩を朗読してほしいという要望が事前にあったので、私は彼女の結婚式の1か月前から悶々と苦しんで、やっとの思いで一編の祝婚の詩を捻り出したのだった。(その時の式に安堂加耶子が一緒に出席していたのだが、彼女が結婚する時、またしても私の詩が所望されるという事態になり、私はもう一度詩作に苦しむことになった)
大学在学中はいろいろと思い悩むこともあっただろうが、果敢に前に進んだことで幸福な結婚にこぎつけることができた。時々の経緯を知っていた私は、彼女が恋を成就できたことを心から祝福した。
早稲田生の結婚につきものの早稲田校歌合唱も、新郎側の友人たちや安堂加耶子と一緒に前に出て腕を振りながら歌うことになり、これはちょっと恥ずかしかった。ウェディングドレス姿の坂口美子も、やはり恥ずかしそうに腕を振って歌っていた。
私の恋も、もう大変なことになっていたんだよと、いつか照れ笑いをしながら話せる時も来るかもしれない。坂口美子から大学時代に受けた恩恵は計り知れない。
宮迫典子は、卒業後、東京で弁護士事務所の事務のような仕事に就いたのだが、教員試験を受けて1年後には秋田に戻り高校の英語の先生になった。彼女からの手紙には、黒板に文字を書いていると、後ろから上履きが投げつけられてくるの、などと書かれてあったので心配していたが、それから二年後ぐらいに心不全で亡くなったという訃報が届いた。
びっくりして宮迫典子の実家に電話をしたら、お母さんが電話にお出になった。宮迫典子そっくりの可愛らしい高い声。まるで電話の向こうに宮迫典子がいるような気がして、尚更 涙が誘われた。
彼女自身、腎臓などが弱くて、その上ストレスなどもあったのかもしれない。お父さんとの確執はどうなったのか。お酒の飲み過ぎも気になっていた。そういった諸々の悩みも彼女の死を早めるのに影響していたのかもしれない。
卒業して一年目に彼女が卒業証明書を大学から発行してもらうため東京に出て来る機会があった。事前の電話で、東京近くで半日ぐらい静かに観光できるところは無いかなと彼女が言ったので、高田馬場駅で待ち合わせて西武新宿線で一緒に川越のあたりに行った。お蕎麦を食べ、町をゆっくり散策し、喜多院のユニークな五百羅漢を見せてあげた。途中休憩したお店で買ったスイカ味のアイスを、「ほんとだ、スイカだ」と言って笑いながら食べた。彼女の可愛らしい笑顔が今も忘れられない。
菊池洋子は、前述のように四年の終わりごろに突然自殺してしまった。ドイツ文学専攻の人だったから、語学の授業でしか会えなかったが、おとなしく本好きな真面目そうな人だった。友だちになっていたらきっと話も合っただろう。
私の所属していた語学のO組は在籍者60名近くいたのだが、私の知る限り20代で亡くなった人が4人いる。自殺が2名、病気で2名。菊池洋子がその一番目に亡くなった人だった。大学4年の終わりごろだった。
カロッサを卒論テーマにすると言っていた。学食でたまに会う時があり、うどんを食べながら互いの近況などの話をしたりすることもあった。
菊池洋子の死は、下宿にかかってきた宮迫典子の電話で知った。宮迫は、
「自殺するなんて、馬鹿野郎だよ!」
と泣きながら怒っていた。
すぐ後から坂口美子からも電話がかかってきた。
「私、菊池さんが自殺する前の日、学食のところで菊池さんに声をかけられたの。少しお話しませんか?って。でも私、行くところがあって忙しかったら、また後でね、って言って、菊池さんと別れちゃったの。もしかしたらあの時、菊池さんとお話できてたら、自殺しなかったんじゃないかって、考えると苦しい。すごく後悔してる」
級友たちに、そして遠野のご両親に、さまざまな苦しみや悲しみを与えながら、菊池洋子は地下鉄に身を投じ死んでいった。
菊池洋子は体が弱く、卒業後は遠野に帰ってくるようにご両親に言われていたらしい。結局のところ、彼女の心に何が起きていたのか私には分からない。しかし、たいがいの自殺の根底には深い孤独があると思う。もしかして恋人がいたとして、卒業後の別れが決定づけられてしまったとか。いや、もっと何か大きな解決できない悩みがあったに違いない。
あるいは、本当は自殺じゃなくて、急に貧血を起こして、ふらっと倒れてしまっただけとか‥‥。
早稲田の女子学生が朝の銀座線に飛び込んだことが、ほんの二センチぐらいの小さな記事で翌日の新聞に載っていた。私は今でも銀座線に乗る時は彼女の顔を思い出してしまい悲しい気分になる。
長池和也は、私が大学4年だった夏に行われた司法試験の筆記試験の最中に突然吐血して倒れてしまったそうだ。夏休み明け、帰省から帰ってすぐに上石神井の道で長池に会った時、そのことを聞かされた。それは衝撃的な話だった。よりによって試験会場で吐血してしまうなんて。
急性の胃腸炎をおこしてしまっていたらしい。入院するほどではなかったらしいが、そこまで体を悪くしていたとはちっとも知らなかった。いつもコーヒーの入ったポットを持ち歩いていたから、前々からコーヒー飲み過ぎじゃない?とは思っていた。私は胃腸を悪くしてから、何故か思い込みでコーヒーは一口も飲んでいない。
楽天的で適度に息抜きし遊んでいる風だったから、ストレスをため込まない方だと思っていた。しかし今年も試験が駄目だとするともう頑張る気力も尽きてしまったのだろう。私の目の前にいる長池は憔悴した顔色でがっくりと肩を落とし、うつむいて溜め息をつくばかりだった。
慰める言葉もなかった。また来年ありますよ、頑張って、なんて安易な言葉は言えなかった。
長池はしばらくひどい絶望に陥っていたようだ。秋ごろに彼から夜電話がかかってきて、
「会ってくれませんか。あなたとどうしても話がしたい。誰かと会っていないとつらい」
と言われて、ひどく迷ったが最終的に断ることができなかった。あまりにも切実な苦し気な声だったので。
長池のアパートに行くことは憚られたので、武蔵関の駅の近くの喫茶店で三回ぐらい会って話をした。
もう実家からの仕送りも止められてしまっていて経済的に苦しいから、会社勤めをしようと思っているということ、既に一つ面接の日取りも決まっているということ、司法試験は諦めるということ、淡路島に帰ることも考えているということ。体調も良くなくすっかり落ち込んだ長池は、自嘲した薄い笑い顔で私に弱々しく話し続けた。
そばに長池を慰め温めてくれる新たな恋人もいないらしく、それでせめて近くにいる私と話をしたくなったのだろう。私はただ、うなづき聞いてあげることしかできなかった。
互いの下宿とアパートに戻っていく夜の帰り道の沈黙が、寂しくつらかった。長池はいつも愉快そうに話をする人だったから。
いつかの夜、桂木とのことで苦しみ涙を止められずにいた私をそっと部屋に招き入れ、ミルクをごちそうしてくれたことがあった。長池は弱っている私に一切手を触れず離れたところから見守ってくれていた。私を思う気持ちと自制する気持ち。そこに彼の魂の高潔さを感じ、私も我に立ち返れたのだった。その時の長池のように、私もまた友人として、彼の気持ちに添ってあげたかった。
長池は、私が卒業した少し後に淡路島に帰っていったらしい。もらった手紙によると実家で塾を開いて収入を得ているようだった。
私が陶芸の道に進んだことを知っていた長池は、もし私が淡路島に来てくれたなら陶芸ができるよう窯を築くのを援助するということまで書いてくれた。そして、きっと駄目だろうけれど、と言いつつ、私に結婚を申し込んできた。
そこまで思ってくれていた長池の気持ちに、涙が出るような思いがしたが、その申し出には詫びながら断るしかなかった。彼が淡路島で幸せな結婚をしていることを今はただ祈ることしかできない。
須山勝彦は、羽生の実家に戻って高校の先生をやっている。彼は大学の前期・後期試験で最も頼りにしていた友人だった。特に語学において彼のノートは完璧だった。頼めばいつも快くノートを貸してくれた。諸々の試験をかいくぐれたのも彼のおかげだ。彼のノートのコピーは私を介して桂木にも回っていたから、間接的に桂木も須山のお世話になっていたということになる。
大学の後半では、須山に映画や食事に誘われたりした。旅行のお土産だといって、スラリとした白木のこけしをもらったこともある。
私が桂木と付き合っていることを知っている上で誘ってくれているんだろうなと思って、私は特に彼を避けたりはしなかった。非常に曖昧な関係だったが、友情の範疇だったと思う。積極的に個人的な付き合いを求めてきたり、しきりに連絡してくることはなかったから。
一緒に「クレイマー、クレイマー」というダスティン・ホフマン主演の映画を見た後、夕方になってしまったことがあった。このあとどこかのお店で食事をしながらお話でもと誘われるかと思ったが、そのままあっさりと駅で別れた。彼は本当にただこの映画を見たかっただけなんだなあと思って、別れた後クスっと笑った。羽生から通っていたから帰りの東北線の時刻が気になって早く帰りたかったのかもしれない。
全然デートじゃなかった。恋愛の気配があったら、ごめんなさいと言おうとしていたが、言う隙もなかった。
須山の気持ちがさっぱり分からなかったが、卒業まで特に何もこじれることもなかったので、それはそれでよかった。
心にぐいぐいと食い込んでくる桂木と比べたら、どの男子も私には物足りなく思えた。
大学4年間の間には、須山の他に同級生の男子たちに誘われて一緒にランチをしに大学の外のお店に行ったり、近場の公園や漫画喫茶に行ったこともある。まだ桂木とステディといえる関係でもなかったころは、授業の合間の時間つぶしに気軽に誘いに応じていたりもした。
大概はその場限りのお付き合いだ。次に誘われることがあっても私はたいがい用事にかこつけて断わってしまった。私はその人に友だち以上の気持ちを感じたことは無かった。彼らには悪かったが、つい桂木と比べてしまう。いつも「やっぱり桂木くんと話している方が楽しい」と思ってしまう。
そうして私はまた居心地のいい桂木との土曜日ごとのデートに戻っていくのだ。
私の素をさらけ出せるのは桂木だけだった。桂木との三年間をかけて作り上げた心と体の結びつきに、力強く分け入って来れるような人などとうとう現れなかった。
生きるか死ぬかの真剣な恋、私にこのようなことを思わせたのは桂木ただひとりだった。
大学4年の半ば頃、早稲田通りを歩いて学校に向かっていた時、須山が追い付いてきたことがあった。
「久し振り。なかなか会えなくなっちゃったね。ところで『羽なしティンカーベル』っていう柳沢みきおの漫画、読んだことある?」
「読んだことはないなあ」
「主人公の高校生の女の子が急に高校をやめて、陶芸家に弟子入りするんだ。君を見てて、その漫画を思い出した」
「そうなんだ。あとで読んでみるね」
「陶芸を目指すのもありだと思うよ。やりたいことがあるなんてうらやましいよ。がんばって」
少し前に須山に否定的なことを言われていたが、彼なりに私にかける言葉を考えてくれていたのだろう。須山に励まされて暖かい気持ちになった。彼はそれ以降私の密かな理解者になった。
卒業後も、時々なんとなくハガキのやり取りをして近況を伝えあっていた。彼の学校の文化祭の自主制作映画で、殺人犯の役にされてしまったなどとおどけて書かれた葉書をもらったりもした。
そのうち私が結婚することになり、住んでいたマンションを離れたので、葉書のやり取りも自然消滅してしまった。彼とは、ちゃんとお別れが言えていない。学生時代もいろいろと助けてもらったのにきちんとしたお礼を言い損ねたままだ。それが少し心残りだ。
『Pan』の同人の二階堂優は、四年になったあたりから異常に痩せていき佐伯伸也の話によると腎臓か肝臓を傷めているということだった。西武新宿線で彼と乗り合わせることも何度かあったのだが、会うたびに頬がこけていき鼻梁が尖っていく様子が見受けられた。
卒業して数ヶ月たってから佐伯伸也から私に手紙が来て、二階堂優が飛び降り自殺したことが伝えられた。拒食の症状で入院していた病院の窓から飛び降りたのだった。片山、佐伯、中川は、二階堂の郷里の兵庫県西宮に行って、もう既にお葬式にも参列してきたとのことだった。
二階堂は卒業後、母親の強い求めで実家に呼び戻され、そのまま入院となっていた。その事だけでも充分な挫折体験だったろう。せめて卒業後も東京に残れていたなら、なんやかやで気を紛らわせ友人たちと会いながら忙しく生きていけたかもしれない。その場合体の病気は悪くなってしまったかもしれないが。
根本的な治癒を家族が求めたため、彼はいやいやながら病院に押し込まれ、それによって体の治療はできたかもしれないが、反比例するかのように心を弱らせてしまったのだろう。
二階堂優と少しは親交があった私にも、二階堂の遺稿集『‥‥という小説』が送られてきた。二百ページもある分厚い冊子で、彼が書き溜めていた小説やエッセイなどが数多くおさめられていた。才能あふれる人だった。プロ並みの文章力があった。
「これでいいという生き方ではなく、これしかないという生き方」、彼の本の中に書いてあった言葉だ。二階堂はほんの少し生き方に柔軟性を欠いていただけだったのかもしれない。若者は死に向かってたやすく傾いていってしまう。私自身がそうであったように。
彼の失われた将来、失われた才能を深く悼む。
彼のお母さんとはしばらく手紙のやりとりをした。手紙の文章では明るく闊達な人のように感じた。しかしその陰では息子の死をどんなに嘆いていたことだろう。二階堂の入院は、彼を心配した母親の強い希望だったと聞いていた。母親としてどう対処すべきだったのか、答えの出ない苦悩にずっと責められていたに違いない。
何度目かの手紙の後で二階堂のお母さんに、仏壇に果物などを供えられるような陶器のコンポート皿を注文された。先生の作品ではなく、私が作ったもので。まだまだ技術は拙かったが、精一杯ロクロをひいて制作した。さほど上手でもなかったが気にいってもらえたかどうか。こげ茶色の釉薬のものと乳白色の釉薬のものの二種類。自分が作ったもので代金を得ることができたのは、このコンポート皿が初めてだった。
二階堂の母親からのある手紙の言葉も印象に残っている。
「優しさは生きる強さとはなりません。もっと意地悪におなりなさい」
私は自分では十分に自我が強い方だと思ってはいたが、確かに争いを避けようとして一歩引いてしまうところがあった。二階堂の母親に自分の弱点を突かれたように思った。
「もっと意地悪に」。そうは簡単に生来の性格が直るものでもないが、相手に気を使い過ぎて気持ちを押し殺すことのないように、それからは心がけるようになった。
長池和也の郷里の淡路島、二階堂優の郷里の兵庫県西宮市、どちらもあの阪神・淡路大震災で大きな被害を受けた地域だ。無事だと言う声を聞きたかったが、私はもう彼らには過去の人間になっているのだろうと思って、こちらからは何も連絡しなかった。とても気がかりではあったが、私が連絡しても何ができよう。こんな時、ただ遠くから心配していることしかできない。皆、元気でいてくれるといい。
同じく『Pan』の同人の中川誠は、留年してしまったようだ。私が陶房に通っていることを知った中川誠は、急に自分も陶芸をやりたいと思い始めたらしく、茂竹庵に何度か赴いて石井先生と相談をしていた。
先生は、男性は今後家庭を持ったり経済的にしっかりしている必要があるから、すぐには収入が見込めない陶芸は勧めない、と言って断っていた。中川はそれでも諦められずに何度か陶房に来て土練りなどをしていった。
正直言って、私は中川のたびたびの来訪にとまどっていた。
私は中川に、私は女だから自分一人養えればそれで事足りるけど、これから家庭を築いていく男の人は、もっと着実な仕事を選んだ方がいいよと繰り返し忠告した。収入の面でそうではあったが、それより先生のむら気やセクハラ、パワハラなど人間関係に東久留米に来てからずっとひとりで悩み続けていたので、中川までこの苦しみに巻き込みたくなかったのだ。
中川は陶芸に多大のロマンを持ちすぎていた。実際にこの世界に入ったらきっと幻滅することも多かっただろう。仮に中川が一時の気の迷いなんかではなく、本気でやりたいと思っていたならそれも一つの可能性としてありだったかもしれない。でもそういった場合でも、師は、石井先生ではない人を選んでほしかった。
そもそも弟子入りはそう簡単なことではない。もし簡単だったとしたら、その真意を疑ってかかるべきだ。
私が石井先生の元に潜り込めた理由も、私がうぶで無防備な若い女で、なんでも言う事を聞きそうに見えたから、という点にあったらしいので。
中川はしばらく迷走していたが、そのうち陶芸を諦めて、キャノンの会社に入ったようだ。
中川は一人旅が好きで、学生時代、長期の旅行をした時などには旅先からたびたび絵葉書を送ってくれた。特徴のある角ばった字で一杯に埋め尽くされた葉書は、彼が文学青年であることをうかがわせる精緻な文章の魅力であふれていた。
鯨の形の可愛らしい土鈴などもお土産でもらったことがある。私のことをずっと思ってくれていたらしいが、私ははぐらかして気づかない振りをして、ただの友だちとして最後まで通した。彼の気持ちを思うと少し胸が痛む。
卒業前の3月に、中川から一枚の葉書をもらった。その葉書には谷川俊太郎の「雛祭りの日に」という詩が一つ書つけられていた。
娘よ
いつかおまえの
たったひとつのほほえみが
ひとりの男を
いかすことも
あるだろう
そのほほえみの
やさしさに
父と母は
信ずるすべてをのこすのだ
おのがいのちを
のこすのだ
谷川俊太郎氏の詩はある意味読みやすく、心にすっと入ってくる。この「雛祭りの日に」も、どこかで読んだことのある詩だった。いい詩だったので印象に残っていた。
私のほほえみについて何人かの人が言及していたことを思い出した。誰かを生かすこともできるほどに、やさしいほほえみだったのだろうか。そうであったならいい。
片山孝二は、大学院を受けたのだけれど落ちてしまったと言っていた。その後、高校教師になったらしい。
石井先生の個展が新宿で春頃行われたので、片山に案内状を出したところ電話がかかってきて先生の個展を見に来てくれることになった。個展を見た後、二人で近場のレストランで食事をした。私が遊びで作った手びねりの湯飲みがなんと四千円の値段で展示されていて、それが売れてしまったことなどを片山に話して笑った。
片山は二階堂の死のことや、仲間たちとのこと、これからの人生の不安などを静かに語った。お互いに文筆活動はこれからもずっと続けていこうと誓い合った。彼と少しの時間でも詩について真面目に話せて嬉しかった。
片山は桂木の住んでいる所のすぐ近くに家がある。もしかして将来私が桂木と結婚できたとして、私が桂木の家に入ることになったら、片山とどこかで会ってしまうかも、とも思っていた。
その勘は当たって、私の息子の入っている幼稚園に片山のお子さんも入ってきて、幼稚園の運動会の時にその姿を再び見ることができた。遠くからだったが、普通にいい父親になっている片山の姿がそこにあり、彼の隣には小柄な奥さんが寄り添っていた。
時の流れを感じひとしきり懐かしさに胸が騒いだが、声をかけるのはやめにした。
片山とまたいつどこで会うか分からない。いつも身ぎれいにしておかなくてはと、生活に適度の緊張が戻ったのはよいことだった。
佐伯伸也とは、最後に卒業式の日に大学事務所で会った。式には参加していなくて、普段着のまま職員と何かを話していた。左手の指が包帯でぐるぐる巻きになっていて、あとで聞いたら、アルバイト中の事故で、指先が削り落とされる大きなケガを負ってしまったらしい。
背がとても高く、スポーツマンのように背筋が伸びている人だった。『Pan』のつながりがなかったなら、話すこともなかったかもしれない。詩について少しだけでも話すことができてうれしかった。
私の詩集を贈ったときも、わざわざお祝いのワインを持って東久留米まで来てくれたのに、私が留守だったために会うことができなかった。
私はその日、桂木と日帰りで山に行っていたのだ。佐伯は、友人の西城とともに私のマンションのすぐ横の喫茶店で、私が帰ってくるのを夕方までずっと待っていたそうだ、通る人、通る車を全て見ていたと彼からの手紙には書いてあった。
とすると、私が桂木の車に乗って帰ってきて、一緒にマンションに入っていった姿も見たのだろうか。もしかしたら、がっかりした悲しい気持ちにさせていたのかもしれない。佐伯と西城は、私に会うことを断念して帰っていったそうだ。
そのことを後で知って、申し訳なかったと思うと同時に心がひどく動揺した。桂木と付き合っていることを隠したことはないが、一緒にマンションに入っていく姿は見られたくはなかった。そういう関係なんだと思っただろう。彼らの前では、せめて清純ぶっていたかった。
彼らとは、あれからもう二度と会えないままだ。
二階堂優の死に際しても、佐伯からは何度か手紙をもらった。二階堂のお葬式の様子、家族の近況などがつづられていた。文学青年らしい美しい文章の手紙だった。
学生時代より卒業してからのほうが、手紙を介して彼とより近しくつながっていたような気がする。少なくとも彼は私を詩を書く一人の友人としてちゃんと存在感を認め敬ってくれた。そのことを深く感謝している。
安達望は、英文科の同級生としてわりと近しい関係だった。たぶん友だち以上に私のことを思ってくれていたのだろう。長期の休みやお正月などには必ず丁寧な手紙やはがきをくれた。英文科の教室ではいつも隣に座ってきたし食事にも誘われた。食事は1回ぐらいは付き合ったが、彼がおしゃべりすぎて私は聞いているだけで疲れてしまったので、2回目以降は断った。私は安達と付き合っている感覚はまるで無かったが、安達はそうではなかったのかもしれない。
一年生の秋に安達から自分の出身校の田無高校の文化祭に誘われて、上石神井から近いからと何の気なしに付き合ってしまったことがあった。安達は部活の後輩に私を彼女として紹介してしまい、集まってきた後輩たちは、「うわあ、先輩いいなあ」とか言ってはやしたてる。安達は自慢げに笑っている。私はもう「違う、違う」と言うのも安達に悪いと思って、そのまま微苦笑で流してしまった。それで安達は勘違いしてしまったようだ。
安達には、私が思わせぶりな態度を取ってしまったために、曖昧な関係を引きずらせてしまった。悪かったと思っている。三年以降、たぶん私が桂木と付き合っていることをちゃんと認識した彼は、もう必要な時以外私に話しかけてくることはなかった
安達は私に対して割と積極的であったので、私が桂木と付き合っていることを知った時、結構傷ついたのではないかと思う。グリークラブの仲間たちにも私のことを彼女のように言っていたらしいし。
卒業後に一通の手紙をもらった。それには「君はいつもポーカーフェイスで気持ちがつかめなかった。僕の手に負えない人だと思った」などと書かれてあった。安達にとって私のことはほろ苦い思い出になってしまったのだろうか。
彼は卒業後、大丸デパートに勤めを決めたらしい。
桂木隆司とは、卒業後それぞれの仕事を頑張りつつ、土日には会える状態が作り出せた。
思いをぶつけあえる土曜日の夜が無かったなら、私は東京でやっていけたかどうか。
しかしそれも石井先生が気紛れにマンションに来たりするので掻き乱されたりもしたのだが。
桂木の新しい職場には、彼より少し年下で明朗闊達なきれいな女性がいて、彼はその人と一日中事務室で一緒の二人体制での仕事であるらしかった。
「ほら、私が危惧していた運命のいたずらだ」と、私は当初疑心暗鬼から随分一人でもやもやとしていたものだ。桂木にはずっと平然とした顔を見せてはいたが。今思えばそれも神の配した愛の試金石だった。
大学卒業後、私が宇都宮に帰らなかったということで、桂木はほっとしていただろう。そのことでは学生時代随分苦しみ合ったから。私はありったけの勇気を奮ったのだ。
一方、かすかな可能性として、桂木と何らかの理由で後々破局することもありえたことだった。そうなったら私は東京で本当に自分だけの力を頼りにして生きていけただろうか。そうそうすぐに宇都宮に逃げ帰れなくて、私はきっと手近にやさしくしてくれる人に寄りすがってしまっていたかもしれない。そうして桂木との思い出を吹っ切れもしないうちに安易な間違った結婚などをしていただろう。きっと本当には幸福になれなかった。
幸い桂木との絆は切れることはなく今につながる。
お互い慣れない仕事や環境に疲れ果てたり落ち込んだりしながらも会える時はできるだけ会うようにしていた。少し仕事に慣れてきたころには、少しずつ一泊旅行や山登りもはじめた。桂木が石仏に興味を持ち双体道祖神を探して群馬や信州に撮影旅行に行くようになった時にも、私はできるだけ同行した。
そもそも桂木が写真を趣味にするようになったのも、私が大学三年に自分のニコンFEを買い、彼に自慢したことが発端だ。彼は私のシルバーニコンと色違いのブラックニコンを買い、学生時代から随分写真を撮ってきた。一緒に同じものを写真に撮ったりしていたが、彼の方が写真にのめりこみ私よりうまくなっていった。カメラは元々私の趣味だったのに途中から彼に取られた体にもなったが、彼の人生を豊かにしたのならそれもまたよき、である。
早稲田の友人たちとはもう全く会えてはいない。一度だけ坂口美子と安堂加耶子と横浜の岡部智子の家で待ち合わせて会ったことがあった。それぞれ結婚して子どもが幼稚園生になった三十代の頃のことだ。
お互いまあまあ幸せに暮らせていて、大きな不幸を抱えている者もなく、楽しく会話することができた。
その席で安堂加耶子の友人だった同級の熊内真奈が26歳で乳がんで亡くなってしまっていたことを知らされた。彼女の母親も若くして乳がんで亡くなったということも学生時代に聞き知っていた。その頃は乳がんが時として強い遺伝性を持っていることなどほとんど誰も知らなかった。熊内もたぶんその知識が無いまま、遺伝性の乳がんに侵されてしまったのだろう。
小柄で、清らかな笑みをもった美しい人だった。京都美人ってまさしく彼女のことを言うのだと思っていた。早稲田の校友会の大きなポスターのモデルに起用され、一時期、学内のあちこちに彼女の笑顔の大きなポスターが張ってあった。一緒に歩いていて彼女はそのポスターを見る度に「いやー恥ずかしい」と言って可愛らしく照れていた。
一度帰り道に、一緒に高田馬場駅まで歩いたことがあった。背が高い私と、小柄な彼女。私が何の気なしに普通に歩いていたら、熊内真奈は少し息を切らして、
「歩くの早いね。背が高い人っていいな」
と言った。
普段背の高い桂木の歩幅に合わせて私が幾分無理して早歩きになっていることを思い出した。それとは逆の状態になっていて、私はやっと熊内が小走りになってしまっていることに気付いたのだった。
そういえばやはり小柄な宮迫典子も一緒に歩く度にいつのまにか少し早歩きさせてしまっていた。案外人は自分のペースに集中していると、人のペースに無頓着になってしまうものだ。
「あ、ごめんごめん」
私は彼女のために意識してゆっくりと歩いた。彼女をエスコートする男子の気分だった。
こんな可愛い上品な人と付き合える男性は幸せだと思っていた。うりざね顔で本当にやさしい目をしている。
しかし彼女は結婚することなく、若く美しいままで亡くなってしまった。彼女と赤い糸でつながる運命の男性がいたとして、もう彼女を見つけられなくなってしまった。
宮迫典子、菊池洋子、二階堂優にしてもそうだ。
運命の理不尽は絶えず周りに渦巻いていたが、その渦に飲まれてしまうかどうかは、時の運でしか無いのだ。青春は誰にとっても一番美しく一番危険な季節だ。青春を生き延びることが出来た私は、ただ運が良かっただけだったのかもしれない。
最後に、私が二年半お世話になったアルバイト先の歯科医院の方たちのことも書かねばなるまい。
秀夫先生とはずっと安定した穏やかさの中で一緒に仕事ができた。私が卒業後、陶芸家の先生の元で陶芸の勉強をすることを伝えたら、知子さんも、秀夫先生も驚いたような顔をしていたが、すぐに、
「そう、頑張ってね。なかなか夢があるね。うらやましい」
と言ってくれた。
希美ちゃんとは随分仲良くなって、患者さんがいない時には、
「おねえさん、ドラえもんの本読んで」
とか、
「サイコロしよう?」
と人懐こく寄ってきてくれるので、一緒に楽しく遊んだりもした。
自費出版した詩集に希美ちゃんについて書いた詩が一つあり、本を送ってあげたところ、希美ちゃんから、ひらがなで書かれた丁寧なお礼の手紙が届いた。
「おねえさん。ほんをおくってくれてありがとうございます。おかあさんが、のぞみのことかいてあるよというので、よんでみたら、わたしのことがかいてあってうれしくてしょうがなかったです。かいてくれてどうもありがとう。こないだ三こしへ行ったらおねえさんがいなかったので、こんど行ったらあえるかもしれないのでたのしみです。わたしはときどき会いたいと思っています。またどこかで会えたらいいですね。
去年の12月にねこをかいました。かおのくろいシャムネコです。おじいちゃんたちが、ちゃこというなまえをつけました。
おしごとがんばってください。またおてがみください。さようなら。のぞみより」
とても可愛らしく賢い子だった。ピアノの練習をひどくいやがっていたが、いつか好きになって楽しんで弾けているといい。
院長先生からも、中国旅行で見た陶器のことや、陶器が展示してある博物館などについて書かれた手紙を受け取った。診察室にいた時は強面だったのであまりお話できなかったが、手紙はやさしい口調で、大変でしょうが精進していってください、と書かれていた。その心遣い、とてもありがたいと思った。私をモデルに試し撮りをした写真は、まだ先生のアルバムに残っているだろうか。
大学四年の終わり頃、秀夫先生とのお別れが迫った頃に私は秀夫先生に歯の治療を頼んだ。奥の方に小さな虫歯があったのだ。少しでも先生を思う気持ちがあったなら口の中を診てもらうことなんてできないはず。私はそれを自分に確かめるためにそうした。
秀夫先生は患者さんがすべて帰った後、最後に私を診てくれた。秀夫先生の指が私の唇に触れ、先生の切れ長の目が銀縁の眼鏡越しにすぐ近くで私の口の中を覗く。ドキドキしていた。こんなに近くに先生の顔を見るのは初めてだった。自分で思っていたより動揺してしまった。私はあわてて目を閉じた。
先生は丹念に私の歯を調べていき、「上の八重歯の後ろに鬼歯があるね」と言って少し笑った。
「生えなくてもいい余計な歯だけど、特に他の歯に悪さしているわけではなさそうだから、このままにしておいても大丈夫でしょう」
そうして奥歯の虫歯を治療してくれた。
照明が当てられ目を閉じている私の顔は秀夫先生にはどんな風に見えているのだろう。それとも私の歯のことにだけ集中してくれているのか。
ドリルで歯を削られながら、これできっぱりお別れできると思った。少し痛かったけれど黙って耐えた。
二年半、ここにいさせてくれてありがとうございます、と心の中で思っていた。ここは夕方から夜にかけての私の病的な不安を落ち着かせてくれる大切なお守りのような場所だった。
ずっと欲しいと思っていた秀夫先生の写真は、歯科医院にいる間にとうとう手に入れることはできなかった。しかし最近インターネットの検索画像で、秀夫先生の画像を見つけることができた。もう歯科医師会の理事長にまでなっていた。
七十歳、端正に年を重ねた秀夫先生の顔を見て胸が熱くなった。落ち着いた目の感じはかつてのままだった。今でもやっぱり素敵だ。声も思い出せる。
時々貧血を起こして倒れそうになっていたりしたので体調を心配していたが、画像の中の秀夫先生はとても元気そうだった。あれから先生はどんな人と結婚したのだろう。
私ももう今は六十歳を過ぎた。秀夫先生にはもう会えないだろうが、私の最も美しかった時の姿だけを少しでも覚えていてくれているといい。
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