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第6章 大学2年 1学期④ 夏休み前

更新日:4月5日


 坂口美子から、彼氏についての相談をよく受けるようになった。彼女はどう付き合っていいのかまだ迷っているようだった。

「あのね、聞きにくかったんだけどね、あの人のお父さんのお仕事聞いてみたのね。そしたら社長さんだって」

「おお! すごい! やっぱり本物のお金持ちだあ!」

「うん! それでね、先週の土曜日なんか、ご両親が大きなパーティーに招待されたりしてたんだって。そういう生活なのよ」

「そうかあ。お金持ちの生活ってなんだか想像つかないわあ。お金使い放題だよね。家なんかも大きくて、きらびやかで派手なんだろうね」

「派手だよ。お金を使うにしても値段なんか見ないもの。この前なんか車をギャランからサバンナに買い替えたのよ。寮まで送ってくれたんだけどね、高そうなスポーツカーだったわよ」

「うわあ、かっこいいね。なんか羨ましい」

「そう羨ましがらないで。なんだかお付き合いしていて、いつもの自分を出せない感じなの。同級生と付き合うみたいに気軽に話せないっていうか…」

「そうか…でもそれはまだ付き合って日が浅いっていうこともあるんじゃない? それにやっぱり四年生だしさ、大人っぽいんでしょ? そうは同級生みたくはなれないよね。だけどその分、頼れるっていうか、安心できるっていうか、そういうところもあるんじゃない?」

「うん。包容力っていうの、感じるときある」

「それなら大丈夫だよ。頑張れ!」

「そうね」

 彼女は少し思案するような表情をした。

 以前はラフなトレーナーと短めなスカート姿で快活に振る舞っていた彼女だったが、最近は美しいワンピースを着るようになって女性らしい深みが増したようだった。化粧も入念にするようになっていた。

「それにね、あの人今、上級公務員の試験勉強してるでしょ? 試験に合格したら外国に六、七年滞在しなくちゃならないかもしれないんだって。もしそういうことになったら私ついていく覚悟はあるんだけどね」

「なあんだ、やっぱり結婚することも考えてるんじゃない」

「うん。ちょっとはね。やっぱりお付き合いするんなら、遊びじゃなくて真面目にお付き合いしたいの。そうしたら結婚のことも心のどこかで意識していないとね」

「そうだよね。本当に好きな人と大切にお付き合いしたいよね」

「うん。それでこの前会った時、『今年の夏はなるべく帰らないようにしたいと思います』って言っちゃったのね。そしたら『でも一週間ぐらいは帰省しておいでよ』って彼が言うの。私、二か月の休みのうち、一か月ぐらい東京にいて、あとの一か月は帰省しようと思ってたから、そのギャップを埋めるの大変だわ‥‥」

「そうか。下宿生活とか寮生活してない人は、実家に帰るってことがどういうことか分からないんだよね。東京で一人でやっていくのって、自由でいいとかよく言われるけど、いいことばっかりじゃないのにね。私なんかいつもどこかで緊張してるよ」

「そう、私だってすごく心細い時あるわよ。こんなとき家族がそばにいてくれたら気が紛れるのに、とかよく思う」

 彼女は溜息をついた。

 私たちは色々な本、特に人生論や恋愛論を読み漁った。倉田百三、亀井勝一郎、武者小路実篤、有島武郎、ヘッセ、‥‥私たちが読んだのは旧弊な論であまり役にはたたなかったかもしれない。しかし若者の生き方、恋愛はどの世代、時代でも通じ合うものがある。何かを感じ考えることが今の私たちには必要だった。

 プラトニック・ラブを描いて有名だった中河与一氏の「天の夕顔」も読んだ。七歳年上の人妻を愛してしまった青年が一途にその女性を心で愛し抜く話だ。精神的な愛を描いているとはいえ、これも何か違うと感じた。

 女性は不実な夫の元を飛び出し、青年の胸に飛び込むべきだったし、青年も代償のようないいかげんな結婚や雪山に逃げず、ちゃんと愛する女性と結ばれるべきだった。プラトニックとはいえ、なにかそれぞれに今の生活の安定を失いたくないというような打算も感じられ、心の奥底の気持ちからの逃げがあって、素直に美しいとは思えなかった。

 そう思ってしまうということは、本当の愛は偽りのプラトニックを超えた所にあると、私は思い始めているのではないか?

 あるいは、あまりに進歩的すぎる恋愛について書かれた小説を読んでも私たちにはぴんとこなかった。そのころ前年度の文学部の卒業生の見延典子氏が卒業制作で書いた小説、『もう頬づえはつかない』が学内でも大きな話題になっていた。少し後には映画化もされ桃井かおりも撮影のため早稲田に来たそうだ。英米演劇の松原教授はこの本を読んで、下品で汚らしいと評していたが‥‥。

 私たちはこの本を読んでさえもこういう学生生活をしている者がいるということが信じられなかった。もっともこれは『小説』として書かれたものだからフィクションではあったのだろう。早稲田の女子がこんな乱脈な恋愛をしているわけがない。本はベストセラーになったが、見延典子氏はこれが彼女自身の実体験と思われていることにさぞ当惑していたことだろう。世間は早稲田女子が書いたセンセーショナルなセックスの描写を、いかがわしい気持ちで物見高く読みたかっただけだ。

 週刊誌で大学生のセックス経験者の統計記事を見ても、私と坂口美子は、

「うそみたい。こんなに? 本当かな」

と言い合ったものだ。私たちはまだ心と体を巻き込む本当の愛には出会ってはいなかった。いつかは知らされる。しかしそれは結婚と結びついた堅実な恋愛でありたかった。


 語学の英語はアメリカ人のグレイ教授が担当していて、『リア王』を教材に使っていた。シェイクスピアの英語は古典だしやたらに饒舌だから、訳本を持っていても教授の講義を完全に理解するのは難しかった。

 グレイ先生は日本語を一言も話さず、授業進行はすべて英語だった。それに突然ディクテーションテストをするのは勘弁してほしかった。教授は英語で何かの文章を読み、生徒はそれを聞き英語で書き取るのだ。英文科の私は英語に触れる機会が多いからまだしも対応できたが、英語が苦手な者は、ディクテーションをやると聞くとあからさまに自信なさそうな呻き声をあげていた。

 グレイ教授は金髪で青い眼をしていた。丸顔な感じがジョン・デンバーに似ていると私は思っていた。背はあまり高くはなく、若いのか年配なのかよくは分からなかった。私には三十代に見えた。

 教授はよく政治的なことで激昂して、何か英語でペラペラとまくしたてることがあった。ちょうどその年は東京サミットが開かれる予定で、東京はものものしい警備体制に入っていた。

「東京サミットなんてやるから、こんなにひどく暑いのだ。神が東京に天災を下したに違いない。ミスター大平も、カーターも何も分かっちゃいないんだ。明日の事は誰も分からない」

というようなことをグレイ教授は英語で汗を拭きながら怒ったように言っていた。

 宇田川女史は相変わらず一番前の席を陣取っていて、一種冷めた視線を教授に送っていた。鋭い質問を教授にたびたび浴びせかけて、教授と個人的な議論を始めてしまうこともあった。

 私の後ろの席に座っていた松下透は、私の肩をとんとんと叩いて一枚の紙きれを手渡した。その紙には、

「Freilty thy name is women. Storength thy name is Udagawa.」

と書いてあった。私はちょっと苦笑して、うなづきを背後の彼に返した。


 松下透はいつもスーツの上下と革靴といったサラリーマンのような服装をしていて、アタッシュケースを持っていた。祖父が法曹関係の人で、母親が日本画で名を知られた人で、父親も会社を経営している名門のお坊ちゃんということだった。風采は悪くはないが背が低かったので、坂口美子は彼を見る度に、

「あの人って、童顔だしいつも七五三やってるみたい」

と言ってこっそり笑った。

ある時、その松下透に廊下で呼び止められた。

「僕、前から思ってたんだけど、君って、つげ義春の『紅い花』に出てくる女の子にすごく似てるよ」

急に言われたので少し驚いた。

「『紅い花』? ああ、‥‥キクチサヨコ?」

「そう! その女の子に似てる」

「それって、褒めて言ってくれてるんだよねえ?」

「勿論!」

「そう。じゃあ、ありがと!」

「うん」

松下透はにこっとして通り過ぎた。

 『キクチサヨコ』か。貧しくて薄幸な感じのする少女。抒情的な作品ではあるが、あのあと少女が身体を売ることになったりはしないか、何か不穏なものを感じさせる漫画だった。でも、わざわざ褒めてくれるために彼は言ったのだから深読みはすまい。私は『キクチサヨコ』に似ているらしい。


 六月も後半になると、もうぼちぼち本格的に前期試験の準備を始めなくてはならない。欠席していた頃の授業のノートのコピーは大体坂口美子からもらっていたが、念のため他にも何人かノートのコピーを頼み回った。語学さえクリアできれば後はなんとかなりそうだった。

 宗教学、民族誌、イギリス文学史、英米演劇、その他に英文の専攻科目。試験問題が事前に言い渡されることもあったが、そうでない場合は山をかけて、もし山が外れたとしても、覚えたことばかり書くしかない。論文形式の試験であるため、三つ四つのお題について、とにかくぱっと見、紙面が埋め尽くされていればなんとかなりそうだった。あれだけの生徒数だ。教授が一枚一枚ちゃんと答案を読んでいるはずがないというのが、私たち学生の見解だった。噂では、ある教授は、階段から答案を落として、上の段に引っかかった答案からA,B,C‥・と成績をつけているということだった。

 また実際、ある体育教師は、一人一人の顔を覗き込み、

「君の面構えはと、B。君の面構えは、うん、なかなかいいよ…A 」

などといい加減につけているということだった。

 とにかく教養科目は大人数が取っているし、論文形式の試験だから点数がどうこうと言うものでも無く、試験を受け、出席日数さえ満たされていれば単位を落としてしまうという事も無かった。

 しかし、語学となるとそうはいかない。英語、独語ともに、一学期にやった分の教科書の訳はすべて丸暗記しなくてはならないし、独語の文法といったら、もうついていけているのか危ぶまれるレベルであったので、とにかく例題を覚えて似た問題が出ることを祈るしかなかった。試験勉強は、ほとんど語学に費やされると言ってもいい。

 体の調子は徐々によくはなっているようではあったが、体の内部のことであるから、包帯をはずして傷口を調べるという訳にもいかず、一体どこまで治ったのか、またはもしかして悪くなっているのか、自分ではまるで判断がつかなかった。食後と食間に1日五回飲む薬。

ただそれを守るしかなかった。私が、アイスクリームもコーヒーも駄目、コロッケやトンカツみたいな揚げ物も、と言うのを坂口美子は気の毒そうな顔で聞いていたものだ。

 体重はちっとも戻っていかなかった。お風呂屋さんに行って服を脱いでいると、後ろから「ほそーい」という声がもれ聞こえてくる。振り返ると番台に座っている三十代ぐらいの若いおかみさんが私の方をちらちら見ているのだった。


 歎研の部会には、申し訳程度にしか顔を出さなくなった。時折かかってくる吉川清彦からの電話にも生返事をして、無視してしまうことも多くなった。

 歎研は創価学会批判に続いて、原理研究会の糾弾に取り掛かっていた。今、歎研が本部広場に出している立看には、原理研の血わけの儀式について事細かに書き連ねてあった。それを最初に読んだ時、ちょっとショックを受け、あ、これはまた一波乱あるなと思った。

 血わけの儀式とは、悟りを得るためには体内の血液を入れ変えねばならないとし、特に女性信者は教祖と姦淫行為をしたりするというものらしい。歎研はこれをひどく忌まわしいことのように殊更に誇張して書いていた。こんな書かれ方をしては、原理研も黙ってはいまい。歎研のやることがだんだんエスカレートしていくようで、私は心穏やかではなかった。

 学内発行の『早稲田乞食』というミニコミ誌に、歎研を非難する記事が載ったのも、これらの立看が立てられたすぐあとの事だった。歎研の部員たちは騒然として『早稲田乞食』の編集部に謝罪文を要求した。

 今、歎研は早稲田内で最も過激な信仰集団と見られているようだった。あんなに慎ましやかで穏やかな部員たちが、外部からの刺激で異様に好戦的になっている。部員の一人一人は皆思慮深い人たちばかりなのに、いざ信仰のことになると人柄ががらっと変わって、不遜で尊大な態度になるのはどうしてだろう。

 『早稲田タイムス』という学生新聞も取材に来た。私はちょうどその時部室に居合わせていたので、隅っこの方でそれとなく聞いていた。たった一人で来た学生の記者は、十数名の歎研の部員に取り囲まれ、かなり緊張しているようだった。

 あらかじめ記者が用意してきた歎研の学会批判と原理研批判についての質問状は、かなり気を使って事を荒立てないよう配慮した内容だったように思う。記者は言葉遣いも丁寧に、慎重に中庸の立場で部長に質問していたが、部長はいつもの早口で仏教について捲し立てていて記者を完全に煙に巻いていた。あまりの言葉数に、記者は途中でメモを取るのをやめてしまった。

 記者の隣に座っていた吉川清彦はそのメモを覗いていたが、記者が帰った後で、

「あれでは原稿書きが大変だろう」

と、皮肉っぽく言った。

 その後『早稲田タイムズ』がどのような記事を書いたか、私は残念ながら確認できていない。

 部員たちは歎研に対して外部が圧力をかけてきたことに興奮しているようだった。元々は自分らが大々的に仕掛けたというのに。吉川清彦もいつになく冷静さを欠いていたように思う。私が最初に入った歎研と、今の歎研は、どこかが違ってしまったように思えた。


「どうして君は、一度も聴聞に来ないんだ。体調が悪いのは分かっているけれど、授業には出られるんだろう? 聴聞だって一度ぐらいは出られるんじゃないか?」

ある晩、吉川清彦から怒りのこもった電話がかかってきた。

「どうして君は、仏教に対して懐疑が捨てられないんだ」

「私は‥‥今まで聞いてきて、まだ信じたいという気が起きないんです。もっと他にやることがあるんじゃないかと‥‥」

「しかし、結局はすべては虚しいと分かって、仏教に帰ってくることになるんだよ」

「そうかもしれませんが、いろいろな事をやってみて、本当に虚しいことなのかどうか見極めることも必要なんじゃないでしょうか」

「一体、何をやりたいわけ?」

「それは‥‥まだ‥‥分かりません。ただ、今は健康を取り戻すことで精一杯で‥‥」

「回り道をするのもいいが、君は最後には時間を無駄にしたと気づくはずだ」

「やってもみないのにどうして無駄だって分かるんですか?」

「無駄なことなんだよ。とにかく明日、昼の部会においで。僕は授業があるんだけど休んで部会出るから。きっとおいで」

 翌日、午前の授業を終えた後、恐る恐る部室に行ってみた。

 ドアを開けると、部員が5名ほどいて、吉川清彦は黒板に向って何か書いていた。彼はいつものワイシャツ姿ではなく、珍しく白いTシャツにジーンズを着ていて、その服装は不思議に彼を少年じみて見えさせた。細い腰がチョークで文字を書く度にかすかに揺れていた。

 彼は黒板から離れると、近くの机の前に座り額を押さえるようにした。

「なんだか熱があるみたいだ」

近くの部員にそう言っているのが聞こえた。

「おっ、それは大変だ。体温計、誰か持ってきて」

 部員の何名かが部室の奥に体温計を探しに走った。

 吉川清彦は眉根を寄せてうつむいてじっとしていたが、私が部室の後ろの方に座っているのに気づくと、かすかに会釈をした。

「あっ、熱あるよ。三十八度近いよ。今日の部会は止して帰った方がいいよ」

「いや、大丈夫だよ。部会終わってから帰る」

彼はつらそうにしながらもそう答えた。

彼は何列も並んでいる低い長机をまたいで、私のそばに来ると隣に座った。

「変なこと聞くけど、今日は何で来たの?」

「昨日、吉川さんから電話があったから…」

「ああ、ごめん。昨日はちょっとどうかしてた。きついこと言い過ぎた。精神状態がいつもと違ってたんだ。怒るつもりは無かったんだよ。ごめん」

「いえ、いいんです。聴聞に行かない私が悪いんですから。あの…熱があるんですか?」

「たいしたことないよ。だって君にあんなこと言っといて、僕が休むわけにはいかないだろう?」

いつもの声の張りは無く弱々しかった。

 部会が始まっても、隣に座っている彼は正座をしているのがつらそうに何度も身動ぎをした。心なしか呼吸も早いようだった。

 熱に耐えてまで私に関わらなくていいのに。もうとっくに私の心は仏教から離れてしまっているのだから。


 部会が終わってからも彼はすぐには帰らなかった。

「せっかくだから少しお話していきましょう」

「熱は大丈夫なんですか?」

「うん。大丈夫。このごろあんまり会えないからね。会える時にお話ししなくては。何か質問ある?」

彼は珍しく正座を崩していた。机の上に広げられたレポート用紙に何か書き込もうとボールペンを持った。その手はかすかに震えているようだった。何か痛々しい気持ちになったが、言葉はそれとは裏腹に彼を言い負かそうとしていた。

「吉川さんは、今、心安らかに死ねますか?」

「うん、そうだね。やはりこれからやりたい事、やり残した事を思うとそう簡単には死ねない。だけど、死ぬ時が来たら大安心で死んでいけるだろう」

「仏教以外はすべて無常だから信じるに足らないとおっしゃっていましたが、詩や小説、絵、音楽といった芸術にも何の喜びも感じないのですか?」

「喜びは感じる。だがそれもまた自分を裏切る存在だということが分かっているから、それに執着することは無い」

「執着しないということは、そういうことに深く感動するとか、我を忘れてのめり込んでいくことが出来ないということなのでは」

「芸術は、たとえ一時心を慰めたとしても永遠には僕たちを救わない。優れた芸術を生み出した芸術家でさえ、芸術では救われなくて自殺していった者が多いじゃないか。だから、僕たちは芸術を人生の目的にすることはない。のめり込むということも無いだろう」

「では、人間に対してはどうでしょう。人間を深く愛し信じることによって得られる幸福が無常であるとしても、相対の幸福だとしてこれを人生から排除することはできますか」

「人間は皆、人を裏切るんだよ。信じられるのは仏教だけだ」

そう…それならばこの問いは?

「家族も、友人も、恋人も、信じられない存在ですか? 吉川さんを裏切る存在ですか?」

彼は持っていたボールペンをゆっくりと机の上に置いて、目を伏せたまま一呼吸した。

「そういうことだ」

ああ、何故否定しないのか。今はっきりと、私という存在は彼の中の仏教に喜びを上書きするものではなかったことを知った。もう話すことは何もなかった。


 束の間の梅雨の時期に入っていた。私は文学部の授業を終えるとよく本部の図書館に行った。銀杏の木立の合間を抜け、雨に濡れた立看を横目で見ながら、誰か知っている人はいないかと探していた。あの聡明な揺るがない眸。いつも書類を片手に背を伸ばして立っていた。孤独そうなのにそれを全然苦にしていなくて、自信たっぷりで。もし会えたとしても、私は傘で顔を隠して道を変えたに違いないのだけれど。

 図書館の壁を覆う蔦の葉は、緑をつややかに滴らせていた。図書館の入り口付近には紫陽花が植えられていて、水色の花をぼんやりと咲かせていた。光の通ってこない雨の真昼に、紫陽花の重く揺れる花は似合っていた。構内を歩く学生の数も、四月に比べればだいぶ減っていた。

 図書館への小さな石段を上がろうとした時、ある見知らぬ男子学生が傘もささずに紫陽花の花の前に立ち止まり、その花びらと雨の滴をそっと掌に受けているのが見えた。周りの目に頓着せずに、その人はしばらく紫陽花に眺め入っていた。その静止画が、ふと私の胸に沁みた。

 素直に花を見つめる心。美しいものをそのまま美しいと思える心。決して永遠のものではなく、やがては枯れ萎れてしまうものをそのまま受け止める事の出来る心。予告された彼方の光よりも、掌の上の紫陽花の明るみの方が大切だと思える人を私は愛したいと思った。

 歎研のことも、吉川清彦のことも、私が素直に聴聞に行き、疑問を持ちながらも法話を聞き続けていたなら、外見上はうまくいっていたはずだ。しかし私は自分の気持ちを裏切ることは出来なかった。

 宗教を信じるという事は、人生を支配する重大事であり、死に関わる問題となることだろう。宗教によって死を乗り越える。それは結構なことだ。しかし私があの病院の屋上で倒れた時、私を生かすものはただ、生きようと思う私自身の気持ちであることに気づいてしまったのだ。仏とか神は許し見守ってくれるだけである。私の生に直接手を下すことができるのはこの私自身だけなのだ。

 ここ数ヶ月、誰よりも死を思った。おそらく吉川さん、あなたよりも。死の虜となった観念がどんなに危険なものかも知った。だから私は観念を離れて、この身体をもって具象を生きてみたくなったのだ。もっと私という具象を生き生きとさせてみたくなったのだ。

 そうさせてくれるのは仏教ではない。吉川清彦が生き生きと出来る場が仏教であるというなら、彼は自分のために正しい道を選んだのだろう。しかし彼にはそうであっても私にはそうではなかった。何か他の事、私の知らない他の多くの事の中に、生の解決がありそうな気がいつもしていた。

 私は普通に人を愛し、普通に結婚し、普通に子どもを産みたかった。ありきたりの普通の幸福。しかし健康を失った体を抱え、薬を飲み続ける日々に、私は何かを諦めてしまっていた。未来へのヴィジョンとか、勇躍する希望とか、若者らしい何か溌剌としたもの‥‥小さな、平凡な、安らかな幸福にすら見離されていると感じていた。

 だから宗教を聞いてみたくなったのだ。あなたは私に対して熱心だった。あなたの輪郭はしっかりしていて、不思議な確信に満ちていた。あなたの透徹した瞳は悠久な宇宙を思わせた。深く、果ての無い闇。私には星のかけらも掴めなかったけれど、あなたの瞳と引き換えに分かったことがあった。

 まず今やらなくてはいけないのは、死に際しての平安を獲得することではなく、この現世の中で行動し、見、聞き、感じ、万象を受け取ることだ。歩くことだ。話すことだ。書くことだ。歌うことだ。悲しむことだ。喜ぶことだ。怒ることだ。感動することだ。相対の幸福だと言って歎研の部員たちが軽んずるものの中にもきっと真理はある。日々の生きる糧は、きっと小さな相対の幸福の積み重ねの中にある。


 短かった髪は、肩のあたりまで伸びた。目に触れる自分の腕は、人に言われるまでもなく随分細く骨ばってみえた。しかし以前よりはずっと強くなっていたのだ。倒れることをもう恐れてはいなかった。

 高田馬場の駅前にあった楽器店で安いギターを買い、カルカッシ教則本でクラシックギターを独習しはじめた。下宿の隣の部屋の商学部の人は、授業の後、税理士専門学校に通っていていつも帰りは夜の十時か十一時だったから、ギターの練習の迷惑とはならなかった。母屋にも音が響くかもしれないので、部屋を出て母屋とは反対側の廊下の隅っこで練習した。

 ギターの細やかな和音に自己を埋没させ、音符の流れに意識を集中させる。弦の響きを全身に受ける時、私は私という存在ですらなく、限りなく無に近い存在に変化していた。

 一つ生きる喜びをみつけたと思った。


「あのサークル評判悪いみたいよ。実際のところどう?」

私が歎異抄研究会に入っていると知って、ある日坂口美子が心配して訊いていた。

「うーん。歎異抄研究会は異常だって皆言うけど、異常っていうのも違うと思うんだ。部員の皆はすごく真面目だし正しいことを言っているような気はするんだけど、ただ部員全員が同じことを言って同じことを目指しているってことが私にはついていけないなあと感じることがある。どうして皆そうやって仏教に対して一途になれるのか…いろいろお話聞いてきたけど、やっぱりそこだよね。皆全く同じ方向を向いていて、それに全く疑いを持たないっていう…」

「そんなに仏教のことばっかりなの? こう、他のサークルみたくワイワイガヤガヤつまんないこと話すとか無いの?」

「ないない。仏教ばっかりなの。やっぱり私たちっていろんな事をやってみて得てゆくものってあるでしょう? それが歎異抄研究会の人は、そういうのは相対の幸福だからやっても無駄なんだって言って最初から何もやらないでいるような‥‥それがきっとまわりの人に違和感を抱かせる原因なんだと思うんだ。いろいろ私も戦ったけど、すべて全否定されたよ」

「やっぱり変よ。仏教のことばっかりやってるなんて。カルトっぽい」

「そうだよね…前さ、私たち冷やかしで寄席研のサークルを見にいったことがあるじゃない。あの時、部員の人が『輪島とガッツ石松はどっちが馬鹿だと思うか』なんてくだらない質問してきたよね。私たち呆れかえって適当なところで帰ってきちゃったけど、今思うとああいう軽いサークルの方が楽しかっただろうな、なんて思う」

「そうだよ。もっと楽しいサークルいっぱいあるよ。若いんだからいろんなことをやってみなくちゃ。仏教一色になっちゃうなんて絶対変。私はプロテスタントで教会にも時々行ってるけど、尼僧になるわけじゃないんだから信仰一色になんてなりたくなし、なれるわけがないんだから」

「うん。それにね、私にずっとくっついてお話をしてくれる理工学部三年の人がいてね。ちょっと素敵だなあなんて思ってたんだけど、やっぱり仏教の事しか言わないの。お互いのプロフィールとかも言い合ったことないし、趣味も知らないし、どこ出身で兄弟はいるのかとか、全然話題にできないっていうか。分かんな過ぎてもうお付き合いどころじゃないよ」

「そっか。そんな人がいたの。それで、一緒にいて楽しかったの?」

「楽しく‥‥は無いよね。だって仏教の事しか言わないんだから」

「楽しくないなら、彼氏じゃないわよね」

「うん。まるで先生と生徒。デートの『デ』の字も今後出て来るとは思えない。あっ、もしかして聴聞っていう御法座にすごく誘ってきたけど、それがデートのつもりだったかもしれない」

「何それ。ふふっ。もう無理しない方がいいわよ。サークルやめたっていいんじゃない?」」

「うん。その方向で考えてはいる」

 体調を理由に既に夜の部会は出なくなっていた。思想の違いはどうしても譲れなかったが、吉川清彦の存在はたやすくは私の心から消えていきそうになくて、まだ部会を全て断ち切れずにいた。試験が終わったら夏休みに入る。帰省前に部会に顔を出して、それで最後にしようと思っていた。


 土曜日の二限目のイギリス文学史がお昼で終わると、次は二時まで授業が無かった。学食は混むので、生協の売店で買ったサンドイッチを持って、空いている教室で食べようと思った。151教室に入ると、同じO組の男子学生が窓際に一人座っていて、私に気付くと軽く会釈をした。いつもは教室で会っても挨拶もしない人だったので、あれっと思った。確か桂木くん‥‥?という名前だったような。

 サンドイッチを食べている間もなんとなく気になった。その人は頬杖をついて窓の外をじっと眺めているようだった。外は『いこいの広場』と名付けられた猫の額ほどの広場があったが、別に眺めていて面白いところではない。誰かと待ち合わせなのかもしれないと思った。それならばお邪魔だろうと、そそくさとサンドイッチを食べ終わらせ教室を出ていこうとすると、その人も同時に鞄を持って立ち上がった。

「ちょっといい?」

「あ、はい」

「これからどうするの?」

「あ、本部の図書館に行こうかと‥‥」

「暇だったら、ちょっとお茶でも飲んで話さない?」

「ああ、ええと、いいですよ」

それが桂木隆司と知り合う最初のきっかけだった。


 桂木隆司はひどく真っ直ぐな、意志の強そうなくっきりとした視線を持った青年だった。それは危険なほどの印象を抱かせるまなざしだった。眉毛が濃くて肌は浅黒く精悍なイメージを与えた。まだ頬や顎のあたりに十代の名残を残してはいたが、これからもっと男っぽさを増していく人のように思えた。

 語学で一緒ではあったが、いつも後ろの方の席に友人の青年と座っていて、まわりの者と交渉を持たないので私も彼の顔は知ってはいたが話したことはなかった。通学で歩道を歩いていく姿もなんとなく見知っていた。均整の取れた筋肉質の体つきをしていて、蹴るような大股で、前を行く学生たちをぐいぐい追い越していった。彼には何か爽快な強引さがあった。

 何故彼の誘いに乗ったのか。よくは説明できない。ただ何かを修復するために新しいエネルギーが必要だったのかもしれない。切羽詰まった何かが私の内で溢れそうになっていたその時に、声を掛けられたのだ。

 穴八幡神社のちょっと先にある『LUCK』という喫茶店に入った。狭いけれど小綺麗な感じで、天井からは和紙でできた少女の人形がブランコに乗っているモビールが吊り下げられていた。

「何を専攻しているんです?」

「俺? 俺は美術史」

「わあ。珍しい。人数少ないでしょ」

「うん。そうだね」

 彼はあまり口数が多くはなかった。間近で聞く彼の声はつややかで落ち着いていた。好きな声だと思った。長く伸びた足を窮屈そうにテーブルの横で組んで、煙草をゆっくりとふかしている。煙で表情がかすんだ。

「暇な時には何をしているの?」

「釣りをしたり、ギターを弾いたりだね」

「そうなんだ。釣りはどこに行ってやるの? 川?海?」

「うん。多摩川が家の近くにある」

「わあ。川が近いなんていいなあ。釣った魚はどうするの?」

「泥臭くて食べられないからね。逃がしてやるよ」

 桂木隆司は一言一言を確かめるように、少しぶっきらぼうに答えた。

 そしてゆっくりと、私が何を専攻しているか、出身はどこか、何かサークルに入っているのかとかを聞いてくれた。私が一か月も学校に姿を見せなかったので、どうしたのかと思っていた、ということなども。

 その表情には、私をちゃんと知ろうとしてくれようとしている一生懸命な雰囲気が見て取れた。時々照れたような視線で私を見ては視線を外した。

「俺はね、現役の時、千葉大の園芸を受けたんだ。試験科目もちょっと変わっていてね。傾向がちっとも分からなくて落ちちゃったんだ。今でも通信教育で園芸の勉強してるんだけどね。農業試験場みたいなところに勤めたかったんだ」

「ちゃんと夢があったんだね。私はね、現役の時東北大の文学部を受けたの。でもやっぱり数学が全然できなくてね。理科も試験科目にあったから生物で受けたんだけど、偏差値三十点だったもん。試験やってる最中も、ああ、これは駄目だと思いながらやってた」

 苦笑するように笑う桂木隆司の顔を見て、やっと普通の会話が出来る人に会えたと思った。普通の事をいっぱい話して、いっぱい笑いたかった。

 彼はサイモンとガーファンクルの曲をギターで全部弾けること、福永武彦、堀辰雄が好きな事、今もう既に公務員試験のための勉強をしていることなどを話してくれた。

「俺んちの近くに、ねじばながたくさん咲いてるんだ。知ってる? ねじばなって」

「あっ、知ってる。もじずりとも言うんでしょ?」

「そう! よく知ってるね。あの花好きなんだ。ピンク色でさ。形が不思議だよね」

 今、この人は花の名を口にした。花を好きだと言った。外見は硬質なイメージを与える人だけれど、その心はきっと優しい。私はなんとはなしに気持ちが和らいでいくのを感じていた。

 音楽、絵、小説、園芸、釣り。彼は幅広い趣味を持っているようだった。彼と話してみて初めて、吉川清彦との付き合いがいかに異常なものであったのかに気が付いた。吉川清彦は宗教だけを私に植え付けようとして、それだけを目的にして私の心の奥まで覗いてはくれなかった。お互いをちゃんと知りあうことだけでよかったのだ。私を救う、そんな御大層な大義名分があったが故に、本来あるべき人としての付き合いが最初から封じられてしまっていたのだと思う。

 桂木隆司は会話が途切れるとゆっくりと煙草をふかした。私の周りには今まで煙草を吸う人がいなかったから、煙草を吸うその動作が珍しかった。

 午後の授業の時間になり、その日は喫茶店で別れた。次にいつ会おうとかの約束もしなかったし、正式に付き合おうとも言われなかった。気紛れに私と話をしたかっただけだろうと思った。

 次の週の語学の授業で会っても、少しうなづいて挨拶するぐらいで、彼は私になれなれしく関わってくることはなかった。また以前のような、遠い関係に戻ったのだと私は思っていた。

 そしてその週の土曜日、約束もしていなかったのだから桂木がいるはずはないと思って、私は151教室には行かなかった。でもなんとなく胸騒ぎはしていたのだ。

 まさかね、と思いながら1時間も遅れて151教室を見に行った。そうしたら彼は出会った時と同じ位置に座って、私をずっと待ってくれていたのだ。

 私が教室の入り口で、

「あっ! 待っててくれたの?」

と焦りながら声をかけると、彼は何事も無かったかのように立ち上がり「ヨウっ」と私に笑みを向けた。

「ごめん。待ってくれてるとは思わなくて」

 しきりに謝る私を別になじるでもなく、桂木は授業のことなどを話しながら近場の喫茶店へと私を誘った。桂木が私との付き合いの継続を望んでいることを初めてちゃんと認識できて嬉しかった。

 それ以降、土曜日の午後の二時間を彼のためにあけておくようになった。


 六月の終わりごろに、安達望のグリークラブのコンサートがあった。会場は上野の東京文化会館だった。素晴らしくよく晴れた日だった。

 アメ横のあたりをうろうろしてから文化会館に行こうと上野公園への階段を上りかけた。多くの人が行き交う中、スケッチブックを持った似顔絵描きの人たちが三~四人たむろしていた。その中の一人、三十代ぐらいのがっちりした体格の人が私に声をかけた。

「学生さん? 似顔絵を描いてあげるよ。どう?」

「でも値段高いんでしょ?」

「うーん。学割で描いてあげる。五百円でいいよ」

 コンサートまでまだ時間があった。私はちょっと描いてもらうのもいいかなと、立ち止まった。

 その人はひどくお世辞が上手だった。ほめ殺し、というのはこういうことか。

 君は美しい、美しい、全身が輝いている。目がきれいで澄んでいる。本当にきれいな人だ。十年間似顔絵をやってきたが、君みたいに美しい人は初めてだ。僕は本当に幸福だ。いろんな人からプロポーズされたでしょ。いや、本当に清純そうな美しい人だ。君みたいに美しい人と一緒に飲みたい…等々。

「君をモデルにして一度何か描きたいなあ」

「ヌードモデルだったりして?」

「あっ、ヌード描かせてくれる?」

「わあ、それは駄目です」

「こうやって描いてるとね、ヌードの感じがどんなかも目に浮かんでくるの」

「ええっ!? それはまずいです!」

「君の睫毛、長いね。つけまつげ?」

「いえ、本物です」

「君の鼻、整形したの?」

「いえ、何もいじってませんよ。私の鼻って血管の青い筋が浮いてみえるじゃないですか。他の人には無いのに、どうしてだろうなーって」

「うん、うん、人と変わっているところがまたいいんですよ」

 絵を描いている十分間の間、そんな事を言い続けていた。これだけ褒められたら勘違いしてついていってしまう女性もいるかもしれない。だから東京はこわい。

 そばを通っていく人が「よく描けてる」と言って絵を覗き込んでいった。出来上がった絵はあまり似ているとも思えなかったがお世辞料も入っていると思えば、五百円は安かったろう。


 コンサートは早稲田と慶応のグリークラブの合同形式だった。私は前から四番目の席に座った。男声のコーラスは地響きのような迫力があって聴きごたえがあった。歌い終わった安達望が客席の方に目をさまよわせている。もしかしたらチケットを買ってあげた私が来ているか探しているのかと思い手を振ったら、彼は気づいてにっこりした。

 なんだかこのごろ私は八方美人だ。皆に笑顔を振りまいてしまう。それは相手に変に誤解を与えてしまうような笑顔だったかもしれない。でもどうでもいいや。孤独でいるよりはましだ。


 ある日、授業を終えて帰ろうと早稲田通りを歩いていたら、歎研の山上美代子に呼び止められた。

「小島さーん。久し振り。元気だった?」

「あっ、久し振り。皆さんも元気ですか?」

「まあね。小島さんが部会に出てこなくなってから、吉川さんあんまり元気がないみたいよ。よかったらまた出ておいでよ。吉川さん、喜ぶよ」

「そうですね‥‥ちょっと今は仏教から離れたいっていうか‥‥。もう試験が始まるし、いろいろ済んだらあとで挨拶行きます。吉川さんによろしく伝えておいてください」

「そう残念だな。気持ちが変わったらきっとおいでよ。歎研って女子が少ないから、小島さんが入ってくれて嬉しかったんだ。またお話を一緒に聞きましょうよ。待ってるね」

「ありがとう。じゃ、また今度」

 夏休みを過ぎた頃には、彼らも私のことを忘れるだろう。私も忘れていけるだろう。


 七月に入るとたて続けに試験がある。英語、独語、専門課程の英文の科目‥‥。宗教学はあらかじめ問題が出ていた。『宗教の社会性』『自然宗教と啓示宗教』について論ぜよ、云々。独語は筆記試験の他にレポートも出た。

 六月の終わり頃は、ほとんど学生読書室か図書館にこもって、試験勉強をしていた。勉強といっても語学の場合は訳を丸暗記するだけだから、後で役に立つ勉強ではない。独語は訳すのがやっとで、文法はついにマスターするのを諦めた。

 試験の頃になると映画の『ペーパーチェイス』を思い出す。あれほど無我夢中に一心不乱に勉強している者は、恐らくこの文学部には数えるほどしかいなかったろう。出回った誰かのノートのコピーをかき集め、できれば優秀な友人に頼み込んで試験当日の席を隣同士にしてもらう手筈さえ整えておけば、優とまでは望まないが良程度の成績が取れる答案を要領よく作成することはできた。しかし、そうであったとしても、暗記しなければならない量は少なからぬものだったから、試験前は教科書とコピーをにらめっこしている学生たちで学生読書室はいつも満席になっていた。

 試験が終わり次第もう夏休みだ。アルバイト情報誌を傍らに、学生たちは最後のスパートをかけていた。


 語学の試験会場で空いている席を探していた時、後ろから来た桂木隆司が丸めた教科書で私の肩をポンと叩いた。

「今日、テスト終わったら、石神井公園に行ってみよう」

「今日? うーん」

「行こうよ。ボートに乗ろう」

「ボート? 私泳げないからボートから落ちたら死んじゃうよ」

「大丈夫だよ。行こうよ」

「変な事しない?」

「するわけないじゃんよ!」

目を大きくしてむきになった顔が一瞬の無垢を表した。

「じゃあ、勇気出して行ってみようか」

「よし!」

 今まで男性と二人でどこかへ出かけたことがなかったから、私は少し不安だった。会ってまだ三、四回くらいしか話していないのにこうして誘ってくるなんて、もしかしたら遊び慣れている人なのかもしれない。 不良? でもそれもいいだろう。今までの自分を壊さないことには何も始まらないような気もして。


 独語の試験はやはり和訳だけだった。比較的早く答案を書き上げたのだが、後ろの席に座っていたサーファーボーイの笈川が、

「もう少し席を立たないでくれ」

と囁いて、必死に私の答案を覗き込もうとしていたので、時間いっぱい教室にいた。坂口美子は彼氏と待ち合わせがあると言って先に帰ってしまった。

 笈川は湘南の方に住んでいるらしく、海の潮に焼けたように髪の色が赤茶色に脱色していた。その髪色のせいでどこにいても目立っていた。眼鏡をかけた硬い優等生のイメージの早稲田にあって、彼の存在は特異だった。教授にも目をつけられがちだったが、その実は海をこよなく愛するちょっとひょうきんな気のいい青年だった。

 彼は独語の試験が終わると私に、

「助かったー。ありがとう」とこっそり私に言って笑った。バレたら私もただじゃ済まない。なんとか先生の目をごまかせてよかった。


 独語の試験を終えると次はイギリス文学史の授業だ。この授業は専門的すぎてちっとも面白くない、というより私の理解が追い付かないといったところか。ノートもほとんど取っていなかったけれど、前期はどうやら試験は無く『Beowulf』か『カンタベリー物語』についてレポートを書けばいいらしかった。

 安達望が隣の席に座ってきて、私が持っていた『クオ・バディス』の本について何かしゃべっていたが、私は上の空で聞いていた。桂木隆司との約束が心に掛っていた。早く授業が終わらないかとばかり考えていたが、そんな時に限って時間を超過してなかなか終わらないものだ。安達望は私を食事に誘いたそうにしていたけれど、私は授業が終わると、

「じゃ、また」

と言ってすぐに席を立った。


 ミルクホールで桂木隆司と待ち合わせていた。ミルクホールは学食と通路を隔てた向かいにある小さな休憩室で、ソファーが四、五脚置いてあった。共産主義系のサークルの溜まり場とか言われていたが、ふだんはほとんど人気がなかった。大学は今のところ平穏で、革マルなどの武闘派の人がいたとしても、活動を起こすきっかけがつかめないかのようだった。


 私たちは喫茶店で軽く昼食をとったあと駅に向かった。西武池袋線の石神井公園駅から歩いて十分ぐらいのところに石神井公園はあった。思っていたよりとても広く、土曜日の午後ということもあってあちこちにカップルが散見された。

「あらら、カップル多いねえ」

「俺たちだってカップルじゃん」

彼は笑って言った。

「それもそうだね」

 広々とした石神井池が目の前に広がっていて、濃い緑の葉を茂らせた樹木が池を取り囲んでいた。桂木隆司は黙ったまま石神井池をずうっと西の方に歩いていった。急いでいる風にも見えなかったが、並んで歩くと、私は小走りにならないとついていけない。それに気付いて彼は時々歩調を緩めたが、またすぐに早歩きになった。

 池の端に辿り着くとそこにボート乗り場があり、彼は、にやっとしながら私を見遣った。

「うう、やっぱりボート乗らないと駄目?」

「覚悟して来たんだろ?」

「それはそうだけど‥‥」

 彼は先にボートに乗って、私がボートに乗り込むのを待っていた。口を尖らせしぶしぶの体でボートに足をかけた時、ボートがぐらりと大きく揺れて、私は思わず声を上げてしまった。彼は手を差し伸べようかと身構えていたが、私がなんとかボートに座ると自分も足を伸ばして座った。

 彼はオールをしっかり握り、踏ん張るようにして腕を引き寄せた。唇を結び、後ろを気にするように振り返りながら全身を使ってオールを操った。白い開襟シャツの胸元が眩しかった。


 ボートが池の上を滑り出すと、心地よい風が正面から吹き付けてきた。

「なっ、怖くないだろう?」

「うん。気持ちいい」

 池はあまり深くはなく、オールはすぐに泥をかきあげた。淀んだ池の水が、とぼん、とぼんと音をたて、古びた木製のボートにオールが当たるたびに、ごとごととボートの底が響いた。

 梅雨の晴れ間の日差しは暑く、池を一周する頃には彼は汗だくになっていた。

 日陰を探して小さな橋の下にボートを止めた。

「疲れた?」

「うん。結構きつい」

「二人合わせて百キロ以上あるからね」

「ええー? そんなに体重あるように見えないのに、結構あるんだ」

「えへへへ」

 池の波光の反射が丸く撓んだコンクリートの橋の裏側に映っていた。ゆらゆらと何十本もの光のリボンを入り組ませ、絡ませて、真昼のオーロラを見ているようだった。手をかざせば、その手にも光の網目がまとわりついた。くすぐったいと思った。こんな光を最後に見たのはいつだったろうか。窓際に置いた水槽の水に反射して、天井に映る小さな光の波。


 彼はオールを離すと、手や腕をもみほぐすようにした。そして一息ふーっと大きな息を吐いた。

「橋の下なんかにいると、バイトのことを思い出しちゃうよ」

「どんなバイト?」

「俺、今までに下水工事とか電気工事のアルバイトやったことあるんだ。川のヘドロ取りとか、アパートの排水孔掃除とか。マンホ-ルの中は強烈だぜ。真っ暗な中をドブネズミは走り回ってるし、何か得体の知れないものがいそうでさ。尋常な神経じゃやってられないよ」

「マンホールの中に入るの? それって危険じゃない?」

「臭いし、狭いし、汚いし、危険だよ。閉所恐怖症になりそうだよ。バイト一日目から人が死んだし」

「ええっ? なんで? 誰が死んだの?」

「バイト始めたばっかりの時、先にマンホールに入っていった正社員のおやじさんが、一酸化炭素中毒にやられてね。皆で引っ張り上げた時には意識不明でもう駄目だったんだ。あの時はさすがにビビったぜ。目の前で人が死んでいったんだから。救急車とか警察が来てさ、すぐに現場検証」

「そんなことがあったの。マンホールに入る前って何か検査しないの? いきなり入るのってあぶないじゃない」

「検査なんてしないよ。小さい会社だし。検査の道具も持ってないんじゃない?」

「そうなの。それはひどいね。それでそのバイトすぐにやめたんでしょ? あぶなすぎるよ」

「いや、すぐにはやめなかった。アルバイト生が一遍に止めちゃったら仕事できなくなっちゃうじゃない。残ったおっさんが必死で引き止めてね。現場検証が終わった後、どうかやめないでくれって鰻をおごってくれたけど、さすがに食べられなかったよ」

「そりゃそうだよ。そんなことがあったんだもの。でも危険なバイトはやめた方がいい」

「うん。だけど俺、机に向かって、なんかしこしこやってるの性に会わなくってさ、体使った仕事が好きなんだ。下水掃除とか溝さらいとか、人が見たらものすごく汚いし、シャワー浴びても身体についた匂いが消えなくって、家族にも臭い臭い言われるんだけどさ、自分でもなんでこんなことやってるんだろうって思う時もあるけど、やっぱり体動かしてる方が好きなんだ。一緒にやってる仲間もいい奴ばっかりだしね」

「ふーん、分かるような気もするけど、でもマンホールに真っ先に入っていくのはやめなよ。誰か先に行かせてさ、様子見してた方がいい」

「当たり前じゃん。マンホールの中でくそまみれになって死にたかないからな」

 彼は口元だけで笑った。彼の生身の生にちょっとだけ触ったと思った。この人も心の中に何か切羽詰まったものを隠し持っているのかもしれない。私が夜の長い散歩をやめられなかった時があったように。闇雲に体を動かさずにはいられないような。


「詩を書いているんだって? 俺、中原中也が好きなんだ。高校の合格祝いに神田の古本屋でおやじに全集を買ってもらったんだよ。『臨終』とか『妹よ』とか好きだよ。読んだことある?」

「たぶんあると思う。中也ってさ、ダダイズムの頃はわけわかんない詩も多いよね」

「あれは俺も嫌いだよ。ダダイズムじゃないやつでさ、いい詩いっぱいあるぜ」

「今度じっくり読んでみる。私は萩原朔太郎とか伊東静雄が好き。私には到底あんな詩は書けないなと思うとがっくりくるけどね。でも将来子どもでもできて、子どもに私の詩を読んでもらって、へたーとか言ってもらうだけでもいいかと思って。もし結婚できたらの話だけどね」

「どんな奴と結婚するのか、そいつの顔見てみたいな」

「案外、桂木くんだったりして。そうだったらどうする?」

「ええっー? 結婚してくださいってか? どんな顔して言うんだよ」

 ふざけたように将来のことを話せたことが嬉しかった。もっと希望について話したい。それが信じられるような気がしてくるまで。


 再びボートを漕ぎだした時、日は少し傾いていた。彼は傍らに置いた鞄の中から小さなカメラを取り出すと、ふふふと悪戯っぽく笑った。

「接写するよ」

「うわー、いきなり写真? こんな近くで? わー困るー」

「普段の顔でいいから。構えないで」

 今、私はどんな顔をしているのだろう。ぎこちなく微笑みながら、カメラを意識してドキドキしていた。今日の私の写真が彼の手元に残ることが嬉しいような怖いような、でも大切な一枚になるだろうと思っていた。


「今日はどうもありがとう。楽しかった」

 池袋の駅で別れる時そう言ったら、彼は照れたように片頬だけで微笑んだ。

「じゃ、また」

 体を斜めにして人ごみの中を擦り抜けていく彼の後ろ姿を、私はホームの壁際に佇んで見えなくなるまで見送っていた。

 はじめてちゃんとした異性の友だちができた。学校の日常の中で男子たちと挨拶したりささいな会話をすることはあっても、お互いの背景や心についてよく知ろうという働きは今までしてこなかった。吉川清彦とは随分話もしてきたが、いまだお互いが何ものであるのか知り合おうともしていないし。

 桂木隆司と過ごした数時間は、精神的に私を充足させてくれた。彼が声をかけてくれた日、ちゃんと応じることができて本当によかった。それまでの私だったら、男子からの個人的な誘いなど一も二もなくはねつけていただろう。男子という生き物をなんとなく警戒していたし、人との付き合い全般に臆病だったから。

 去年から続く心身の不調が私を弱くしていたということもある。孤独が異常に怖くなってしまっていたということもある。桂木はそんなタイミングで私にすっと手を差し延べたのだった。

 この思いが恋になっていくのかどうか、まだ見極めることはできそうになかったが、一つ失った思いの隙間、いやそれ以上を埋めてくれていることは確かだった。


和泉祭


 七月一日は明大の和泉祭だった。試験の無い日だったので気分転換にちょっと覗いてみようと思い、一人で京王線に乗り込んだ。明大前駅は学生たちでひどく混雑していた。大学へ通じる小道は受験で行ったことのある慶応の三田校舎までの道によく似ている。

 和泉校舎の方に行くと、かき氷、やきそば、アイスクリーム、コーラなどを売っている出店がたくさん出ていた。顔を真っ白に塗って、真っ赤な着物を着た男子学生が路上で一人芝居をしている。いろいろなサークルが呼び込みをしている。学生たちが笑ったり、走ったりしている中を私は何かを探したくて歩いていた。

 バンドの激しい音が聞こえる。相性占いをしてみませんかと怒鳴っている声がする。バターの匂いやソースの匂い。アイスをなめなめ学生たちがあちこちの店をひやかしている。

 大学祭はどこもこんなものだろう。あわよくば可愛い女の子をナンパしてやろうという男子学生。背が高くてハンサムな男子を物色している女の子。そして自分のサークル活動を精一杯アピールしている者たち。


 大学脇の歩道橋を渡ったところに小さな公園があった。ちょっと休憩してから帰ろうと思い公園に足を踏み入れると、学生が三十~四十人、円陣を組んで集まっていた。何かの打ち合わせをしているのだろうかと入っていくのを躊躇していたら、一人の学生が急に振り向いた。私は息が止まった。そこに集まっていたのは歎研の部員たちだった。なんということだ。こんなところで会ってしまうなんて。

 私を最初にみつけたその学生は、

「あっ、小島さんじゃないか!」

と大声で叫んだ。その声で皆が一斉に振り向いた。もう逃げられない。

「よく来たね。誰かに今日集まるって聞いたの?」

「いいえ、たまたま遊びに来ただけで‥‥」

「やっぱり仏縁があるんだねえ」

皆勝手な事を言って騒いでいる。

吉川清彦がゆっくりと私の前に歩み出た。

「今日午前中、君の下宿に電話したんだよ。そしたら下宿の人が出て、君は朝から外出してるっていうから、授業にでも出ているのかと思ってた」

「今日は授業は無くて…試験の息抜きのつもりで来ました。‥‥ここでまた勧誘をやるんですか?」

「うん、そう。緑風荘というところを借りて、勧誘をしている」

「私がお手伝いできそうなことは無いですよね。もう帰ろうかと思ってたんですけど」

「帰るなら、その前に部長さんに挨拶してって」

「はあ」

 私が困った顔をして返事をするのを、吉川清彦は愉快そうに髪をかき上げながら見やっていた。

 皆が勧誘に散っていった後、私は彼に案内されて古びた旅館のような所に行った。二つの部屋を借り切ってあり、部長は奥の部屋で女子学生と話していた。

「私は朝夕、勤行をしているんですが、この前数珠を変えたら四回使って四回とも紐が切れてしまったんです。これは何か意味があるんでしょうか」

 女子学生は何か予言めいたことでも言ってもらいたいのか、真剣な表情で部長に尋ねている。

「それは、うーん、あんまり気にしなくてもいいでしょう」

 部長は答えにくそうにして顎を撫でていた。毎日勤行をしているなら、もっと自分を信じればいいじゃないかと、私は離れたところで聞いていて思った。


 一人の部員が、医学部の一年生だという男子学生を連れてきた。部員たちは私が今まで聞いてきたことをそっくりそのまま繰り返している。次に何を言うのかさえ予測がついた。

「豊臣秀吉が死ぬ時残した歌が‥‥」

なにわのことも夢のまた夢、死ぬ時はどんな栄華も無意味だと。

 その男子学生は、ふん、と、顔をはすかいに向けると部員の言葉を遮るようにして、

「ああ、あれは豊臣秀吉が作ったんじゃないですよ」

と、こともなげに言った。

 部員は思いがけない反撃に絶句して顔が赤くなった。

痩せた頬に幾分暗い瞳をしたこの学生は、淡々と、しかし剃刀の鋭さをもって部員たちに反論していた。

「僕は武家思想と国粋主義で育てられたから、目の前で自分の子どもが苦しんでいたら、すぐに殺して楽にしてやりますよ。‥‥自分の母親が胃癌で死んだから、癌の研究をして人類のために貢献しようと思っている。これだって仏教なんかよりよほど明快な人生の目的ではないのか。‥‥一人の人間を殺したら罪になるが、百万人を殺したら罪にならず英雄になる。人の命は時によって重くなったり軽くなったりするものだ」

 その後、部長と部員たちがどのようにこの青年を顕証したかは分からない。私はいつになく緊迫したその場から、気付かれないようにそうっと退出した。

 その青年の思想には底深く暗い危険なものが潜んでいたにせよ、部員たちを絶句させる魂の激しさがあった。うろたえている部員たちを見てちょっと痛快だと思えたということは、私はもう反歎研側に立っているということなのだろう。

 世の中で正義の旗印を大きく振りかざしているものの一つは宗教で、正義(宗教)の名のもとにどれだけの戦争が起きてきたことか。宗教のもたらす功罪の構造についても、もっと慎重に考察しなくてはいけない。


 下宿に帰って気を取り直して試験勉強に取り組んだ。七月上旬は試験が目白押しにあって気が抜けない。一年の頃は夏休みにやればいいレポート課題が多くてこんなに試験に苦労しなかったような気もする。一般教養の科目を少し多めに取ってしまったせいだろうか。

 進級に必要な試験を受けるために、体が本調子でもないのに無理して大学に復帰したのだ。優、良は望まないまでもせめて可にひっかかっていたかった。

 試験の会期中、桂木隆司から電話がありドイツ語とか英語の訳のコピーとかあったら貸してほしいと言われ、教室で待ち合わせて貸してあげたりした。そのコピーは私自身のノートのコピーではなく須山勝彦などいかにもできそうな人のノートをコピーさせてもらったものだ。授業を何回か休んでしまった私は必死になって優秀な人のノートのコピーを結構たくさん集めていたのだ。

 私は一年の時から坂口美子と共に、取りやすい授業、出やすい試験内容などの情報を、先輩にコネを持つ男子たちに気安く声をかけ聞き出したりすることができた。彼らもノートを快くコピーさせてくれた。そのおかげで試験もなんとなくしのいできたし、進級もまあまあできたのだといえる。

 桂木は友人が少なかったし、そういう情報を手に入れる手段が今までなかったらしい。ここにきて桂木はやっと私という情報源を通じて、語学の正確な訳のコピーを手に入れ安心して試験を受けられるようになった。

 桂木は私と同じ様に、早稲田の授業の難しさに不安や悩みを抱えていた。明らかに天才みたいな人が多い早稲田にあって、平凡に授業の理解に苦労している私たちはそれだけで親近感を持ち合った。つまり同じレベルで馬鹿だったことで、その馬鹿さかげんを同じレベルで笑い合うことができたのだ。

 桂木のそばにいると心底ほっとした。背伸びしないでいられた。しかも桂木が、学業とは別に深い知性と思いやりをもっていることを言葉の端々に感じて、それも心地よかった。

 桂木は大学で私をみつけると必ず挨拶をしてくれるようになっていた。他の女子には全く無愛想なのに。私にだけ向けてくれる笑顔がなぜかひどくうれしかった。

 七月の二週目ぐらいで前期試験はすべて済んだ。上出来とは言えないまでも不可を取ることは無いだろう。これでいつ帰省してもいい。桂木とは、手紙を書くからと言い合いながら笑顔で手を振って別れた。互いの住所も交換し合った。桂木が東京に近い川崎に住んでいることを知った。はるか遠くの県の人ではないことに、何故かほっとしていた。


 既に構内は閑散としていた。試験が終わり次第もう大学に用は無い。学生たちは麻雀をやりに行ったり、アルバイトの申込みに行ったりでそそくさと大学を後にしていった。

 ランニングシャツ姿の学生たちが、スロープ横で石垣によじのぼろうとしている。それはたぶんロッククライミングの練習をしているのだ。腕や肩の筋肉が盛り上がった青年たちが蜘蛛のように石垣にへばりつき、ある者はそのまま力を失い下に滑り落ち、ある者はスロープ上に登り立ち、下にいる者を覗き込んでいる。炎天下に汗を滴らせ、けれど彼らは『登ること』に青春の力をありったけ注いでいるのだろう。

 また、スキークラブの者たちが記念会堂の前でボーゲンの練習をしている。男子たちに混じって少数派の女子が疲れてつらそうにしている。さっきまでずうっと大学のまわりをジョギングしていたし、柔軟体操もかなりきつそうだ。

 私はベンチに座ってそんな彼らを眺めていた。もう、いくつかのサークル、体育会系のクラブの者ぐらいしか大学に残っている者はいなかった。


 帰省する前に一度歎研に顔を出して、最後の挨拶をしていかなければならないだろう。ちゃんと言っておかないと、また吉川清彦から部会に出てという電話が来てしまう。足が重かった。部室に行きドアのすぐそばにいた男子部員に、もうすぐ帰省するから当分部会には出られない旨を伝えて帰ろうとした。当分、と言いつつ、もう本当にこれで終わりにするつもりだった。

 しかしその部員は私の手を掴んで部屋の中に引っ張った。

「首だけ出してないで、まあ、こっちへいらっしゃい」

 しぶしぶ入って行くと部員が十名ほど机の前に座っていて、珍しく雑談をしているようだった。その中に吉川清彦もいた。彼は私に気が付いたが、目だけで挨拶しそのまま雑談を続けていた。

 私を部室に引き入れた男子部員は法学部の三年生で、長いまつげの夢見るような瞳をしていた。

「夏休み中、合宿があるんだけど、出てこれる?」

「たぶん、無理です。まだ体が完全に治っていなくて食事制限もしていますし、行っても皆さんに気を使わせてしまうだけだと思うので。夏休みはどこにも行かないで静かにしてます」

「そうか。残念だな。真の親孝行とは、いつまでも一緒にいてあげる事ではなく、両親にも人生の目を開かせてあげることだ。それにはまずあなたが正しい宗教を聞いて、絶対の幸福を得なければならない。この夏休み、家にいてごろごろして仏教から離れていたら、あなたの人生にとって大変な損失になるだろう。ぜひ合宿に来て続けて聴聞してもらいたいんだ」

「はあ」

 ごろごろしてって‥‥。私はこの夏休みで本気で体を治さなくてはならないのに、その言い方って‥‥。私は微笑みながらも心の中ではちょっと怒っていた。一日中仏教の話なんか聞いていたら、ストレスでまた体を傷めてしまう。

 私が早く帰りたいと思いながら吉川清彦の方にぼんやり視線をさまよわせていることに、その男子部員が気付いた。

「あなたは吉川くんからお話聞いてるんだっけ」

「はい」

「吉川くんも合宿に来るよ。法話会がある時だって、いつも吉川くんは最後までロビーにいて、きっとあなたを待ってたんだよ。合宿おいでよ。皆であなたを歓迎するよ」

「‥‥すみません。行けそうにないです」

 男子部員はなおも何かを言っていた。私はわずかにうなづきながらそれを受け流していた。

 それよりも吉川清彦が、いつもと違う親し気な表情で先輩らしい人と雑談をしているのが珍しく、その声にいつしか耳を傾けていた。


「‥‥吉川くん、気仙沼の出身だよね。海は近いの?」

「うん。うちから二、三分のところがもう海です。遠浅の海なんだけど、僕は泳いだことあんまり無い」

「どうして? もったいないじゃない」

「泳ぐの好きじゃないんです」

「ふうん。気仙沼なら東北大が近いよね。どうして東北大受けなかったの?」

「僕は山の上にある学校はもうこりごりなんですよ。小学校から高校までずうっと山の上にある学校に通ってたんだけど、登るの疲れて」

 吉川清彦は、鼻の上にちょっと皺を寄せて笑っていた。笑った時の、困ったような表情が好きだった。彼がよく使う『信じられない』という口癖。五月の頃、下宿のポストに直に投函したらしいp.m.10:30付けの走り書きの手紙。可愛らしい感じの書き文字。長い年月、彼と一緒だったような気がした。別れゆく前に彼のことをできるだけ知りたかった。


「吉川くんはいいよな。まだ就職の心配なくて。二年だっけ? もう専攻に分かれたの?」

「うん。この頃実験ばっかりで大変ですよ。今日もこの後実験があるんです」


 何気なく聞いていてはっとした。二年? 最初に出会った日、彼は確か三年と言っていた。そうか、ではあの最初の出会いの日から彼は嘘をついていたのか。すべての弱さと無知をさらけ出した私を、彼は心の中で笑っていたのかもしれない。先輩と思わせておいた方が、私が言うことを聞くと思って。

 でももうそんなことはどうでもいい。そうやって嘘をついてまで仏教を教えようとしてくれたことに感謝こそすれ、憎む気にはならなかった。しかしそれと仏教を信じることは別のことだ。決着はつけなくてはならない。


 目の前の夢見る瞳の法学部の先輩部員はまだしゃべっている。

「人生は悲しいものなんだよ。つらいものなんだよ。早く解決しなければ今に後悔することになるんだよ」

 皆、同じことを言っている。それはもう何十回も聞いたことだ。雑毒の善、凡夫の知恵、親鸞上人が‥‥平林たい子が‥‥財欲、色欲、名誉欲‥‥地獄とは…因果応報‥‥

 もういい。もう沢山だ。胸の中でずっと堪えていたものがぱっとはじけた。


「どうして皆さんは、人生は悲しい、苦しいって言ってばかりいるんですか? 一体何が苦しかったんですか? まだ二十歳そこそこで何を知っているというんですか? 

 こうして大学まで来て、金銭的にもそう心配あると思えないし、将来的にだって早稲田まで来れたんならどんな風にだって切り開いていけるでしょう。それで何が不足だっていうんですか? 

 皆さん、健康じゃないですか。五体満足じゃないですか。それなのに悲しい、苦しいって言ってばかりいるなんて変です。私だってこんなに恵まれた生活をしていながら、死にそうに苦しい時はありますよ。でもだからって、人生そのものが苦しいものとは思っていません。苦しい時もあるけど、それだけじゃないってことを信じています。

 皆さんは自分の人生を信じられないんですか? 苦しいことだらけなんですか? 今、ほとんど人生を知らないのに、人生は悲しいと結論づけて、宗教を受け入れて、他のことを一切遠ざけてしまうなんて、私にはできません。

 たとえ宗教的な大満足が得られるんだとしても、大満足のために普通の幸福を切り捨ててしまうなら、やはりその幸福は何かが欠けていると思います。

 仏教というすべてを照らす光に辿り着いてしまったら、もうそこで暗闇の中にある大切なものまで見失ってはしまわないですか? 今は信仰はいりません。もっといろんな事を知りたいんです」

 冷静なつもりでどこか体が震えてくるのを感じていた。舌足らずな言い方しかできないことが歯がゆかった。もっと気の利いた言葉で相手を威圧してやりたいのに。あの和泉祭の時の医学生のように。

 先輩部員はなおもくどくどと、そういうものでは無い、生きている間に死の解決をしなければと言っている。何を言っても彼らは反論を用意している。歎研の部員たちが語る言葉が『これしかない』真理だとは思えなかったように、おそらく私が出した答えも『これしかない』答えではない。手を汚し、血を流した者だけが、きっと辿り着ける真理。私は真理に辿り着ける道を一つ失ったに過ぎない。次の真理がきっと私に訪れるだろう。私は必死にそう思い込もうとしていた。

「とにかく合宿には出られません。皆さんによろしくお伝えください」

そう言い置いて席を立った。

 ドアのところで振り向くと、帰る時いつも必ず一言は声をかけてくれる吉川清彦が正座したまま苦しいような顔をして私を見ていた。目が合ったけれど彼は微動だにせず、席を立ってくることはなかった。

 さようなら、あるいは、おやすみなさい、か。

 私は一礼をして部室を後にした。





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