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第4章 大学2年 1学期② 病気療養

更新日:4月6日


  授業の後、夜の部会に9時過ぎまで出る日が続いた。食欲も無く、「高田牧舎」で生温かいスープをすすっただけで夕食を済ませてしまうこともあった。部会では打ち負かされないように、絶えず戦闘的な気分でいなければならなかった。そんな無理がたたったのだろう。五月を前にして、突然胃から出血した。

 大学のトイレで症状に見舞われ、自分でもただ事ではないと気づいて愕然とした。通りに出ると、もう夕暮れになっていて大学の広場に植えられている満開の八重桜に街灯の照明が当たってピンク色に美しく浮き立っていた。この世の最後に見る桜のように、私はその八重桜の木を見上げていた。絶望していた。

 とにかく下宿に帰らなくちゃと、うつむき憔悴しながら歩いている時、同級の西城研二に声をかけられた。

「あ、まだ学校に残ってたの? 授業?」

「うん」

私は彼に笑顔を見せながら平静を装って答えた。

「俺、これからバイト。じゃあね、バイバイ」

 西城研二はにっこり笑って先を急いで歩いていった。

 明日はもう授業には出ず、帰省しようと思っていた。大学にいつ戻れるか。戻れないかもしれないと思って震えていた。

 耐えがたい吐き気に苦しみながらも、なんとか下宿に帰り着き、布団にもぐりこんで泣いた。


 次の日、ふらつく体で宇都宮行きの電車に乗り込み帰省した。急いで病院に行き、心身を消耗させる精密検査を受けた後、私は医師の前に呆然と座っていた。

「十二指腸に潰瘍ができていますね。アーモンド大のポリープができてしまっています。これは一期、二期、三期と分けた場合、三期に入ってしまっています。手術をした方がいいのだが、若い娘さんのことですし、できることならおなかを切らない方がいいですから、薬と食事療法で直しましょう。しかし時間はかかるでしょうから、その点は気長に構えてじっくり直していくように。とりあえず一か月は入院してください」

 医師はにこりともせずにそう言った。私はどうしたらいいのか分からなかった。

 思っていた通り相当悪くなっていた。それに、一か月も休んでしまったら、大学の方はどうなる? そもそも一か月だけで身体がもち直すのか? 考えるにつけひたひたと絶望感が押し寄せてくるのを感じていた。


 案内された病室には、三人の年配の女性患者がいて、皆好意的に私を迎えてくれたが、私は笑顔を向けることさえできなかった。土日にかかってしまったせいもあって、医師の回診も無く、私は胃腸よりもむしろ精神的にまいってしまっているのだから、こんな病室に閉じ込められていてはかえって苦しむばかりなのだ、ということを訴えることも出来なかった。 

 男子病棟には、さだまさしに似た男子高校生が入院していた。彼は痛々しく痩せていたが、人の目を盗んでは煙草を吸っていて、私と同室のおばさんたちから、

「治りたいんなら、煙草やめな」

と、いつも忠告されていた。高校生は苦笑いしながら、

「煙草でも吸っていないと、やってらんないですよ。暇で暇で」

と、屋上に煙草を吸いに出るのだった。

 消化器内科外科の専門病院であるこの病院では十数人が入院していたが、若い入院患者は私とこの男子高校生だけだった。高校生は、食べたものをすべて吐いてしまうのだと言っていた。

 もしかしたら肉体的な病の底にはメンタル的なものがあったのかもしれない。しかし、ここでは何が原因であるかは問題とされていない。物理的に肉体の損傷を治すのみである。私も高校生も原因を見逃されたまま、ベッドに縛り付けられ、安静と薬による治療を施されていた。


 同室のおばさんたちは既に入院生活が長いらしく、まるでそれが普通の生活であるかのように淡々と入院生活を楽しんでいるように思えた。私は、決してそうはなれなかった。ベッドに横になっていても、身体はこわばり頭が締め付けられそうだった。治りたいという意識はあっても、身体がそれを拒んでいる、そんな気がした。何冊か持ち込んだ本も1ページも読めなかった。階下に降りていって、診察の待合室に置いてある漫画の本をめくってみても、内容が頭に入ってこなかった。手が震えて力が入らなかった。

 仏教の教義についても考えた。人間に生まれるとは、海に漂う浮木の穴に百年に一度浮上してくる盲亀の頭が入るぐらいの奇跡的な確率であるという。最初に盲亀の話を聞いた時は、海にただよう一本の木? 百年に一度の亀? しかも目の見えない亀? しかも木の穴に頭をつっこむ? なんという荒唐無稽な話!と心の中で笑ったものだった。しかしもう笑ってなどいられなかった。そんな奇跡的な人間としての命が今、悲鳴をあげていた。生きるのがつらい、と。生きるための呼吸ができない、と。

 注射に来る看護師さんはまだ二十歳にもなっていない幼い印象で、注射の仕方もたどたどしく痛かったが、仕事ぶりはとても一生懸命で、時折くすっと笑うその笑い方がいかにも可憐だった。私は二十歳になって数ヶ月にもなっていなかった。それなのにこの少女と比べて、私の苦しみは尋常の基準をはるかに超えてしまっているように思えた。生きるという単純な営みさえ、並の努力では続けていけない。何を見つめても目の焦点が揺れてかすんで見えた。

「痛みますか?」

白衣の少女は、首を傾げて尋ねた。

「いいえ、大丈夫です」

力なく微笑もうと努力しながら私は答えた。

「大学に行ってらっしゃるんですか? いいなあ。私も本当は大学行きたかったんだ…。じゃあ、何か用事があったらすぐに呼んでくださいね」

「ええ。有難うございます」

病室を出ていく真っ白な印象の少女の後ろ姿は、軽やかで、いかにも快活そうに見えた。


 ベッドに横になっているのがつらくて、安静時間にこっそりと病院の屋上に出た。4階建てのその病院の屋上からはごみごみした下町が見下ろせた。私は金網に寄りかかって空をぼんやりと見ていた。ぼんやりと‥‥空はきれいに晴れていた。遠くの鯉のぼりも色鮮やかにたなびいていた。小川のせせらぎのような風だ。‥‥吉川清彦との出会い‥‥私はあの人を好きだったのだろうか? 空の奥には青い山並みも見えている。いい季節なのに私はもうどこへも行けない…。

‥‥ふと下を見ると、小さな工場のテラスで薄汚れた茶白の猟犬が毛布に寝そべっていた。かわいそうに、一人ぼっちで誰にも構われないで。あの犬を撫でてあげたい。あの犬を抱き上げたい。あの犬の毛皮に指を差し入れたい。‥‥その時、犬が急に首を上げた。私の方を見上げたと思った。

 私ははっと我に返った。私の両手がきついくらい金網を握りしめ下の方に身を乗り出そうとしていた。私はもう立っていることも出来ずコンクリートの床にへたりこんでしまった。一瞬自分を見失ったその事の重大さにただ震えながら荒く息をついていた。

 もう一時間だってこの病院にはいられなかった。ここにいたら命が削られていってしまう。医師になんと言われようと退院させてもらおうと思った。安静にするだけなら、家で寝ていたって同じことだ。私は冷たいコンクリートに手をついて、やっとの思いで立ち上がった。目眩に再び昏倒しそうになりながら、しかし、まだ、生きている、と心に言い聞かせながら。


 自宅療養の日々が始まった。一つの危機を乗り越えただけあって、心は不思議に平穏だった。

 一月から実家で飼い始めたビーグルの子犬は、やんちゃな盛りを迎え、くるくると自分の尻尾を追いかけたり、地面を猛然と掘ったり、虫に飛びついたりと、眠っている時以外はいつでも軽快に動き回っていた。まだまだ小さくて、しゃがんだ私の両腿にすっぽりと収まるくらいだった。徐々に額のあたりから茶色い毛が増え始めてはいたが、顔はほとんど真っ黒な毛色で、いたずらな目を上目にすると、白眼の部分がくっきりと浮かび上がるのだった。

 私がロンと名付けたこのビーグル犬は、わがままで強情な面もあったが、とても甘えん坊で私の膝の上にすぐに乗りたがった。子犬は私の腕にじゃれつき、軽く噛み、しゃぶり、それに飽きると静かにうずくまって膝の上で眠ってしまうのだった。その温かさは心を和ませた。

 新緑の季節。庭の植木も若々しい葉を芽吹かせ、吹く風も柔らかに春の名残の匂いを香らせていた。大学は新歓コンパの真っ最中といった明るさの中にあるのだろう。私は弱った身体と沈んだ心を、そよ風の撫でるままにしていた。しばらくは大学にも戻れないだろう。失意というよりは虚脱。とにかく今は早く身体を治さなければならない。

 漢方のような緑色の苦い粉の薬と、柔らかく刺激の少ない食べ物での食事療法。それに一日おきに病院に注射を受けにいった。もう寝込むほどではない。痛みさえ治まれば普通に生活はできた。

 天気の良い日は子犬を連れて近所を散歩した。子犬はちょこちょこと走りながら行きたい所に行った。あちこち嗅ぎまわり、まだ足を上げておしっこが出来ない姿に微笑みを誘われた。その微笑みが、すでに治療だった。

 水を張った田んぼには稲の苗が植えられ、さやさやと風に揺れていた。遠くまで空が見えていた。勇壮な連峰の形が北の空を青く侵食していた。「これがわたしの故里だ/さやかに風も吹いている」、そんな中也の詩が口をついてくる。都会の中で、人とぶつかりながら歩いていた時は、コンクリートの灰色しか見えなかった。たとえ自分で覚悟して出て行った東京であっても、あの孤独な灰色の町に馴染むことはないのかもしれない。そんなことを思っていた。


 歎異抄研究会は五月の連休に日光街道沿いのホテルで合宿をすることになっていた。部員たちはその他にもいろいろな会場で聴聞と呼ばれる法話会を聞きに行っているようだった。私も何度か誘われたが部会に出るだけで精一杯だったので一度も行ったことは無かった。

 皆はあの部室で毎日議論を交わしているのだろう。急に部会に出なくなった私のことを皆はどう思っているだろう。散歩に出ても赤い色をした服を着ている人に自然と目が行った。吉川清彦は白いワイシャツの上に、好んで赤い色のチョッキやセーターを着ていたから。


 5月も半ばを過ぎたある日、吉川清彦からの手紙が舞い込んだ。


「合掌

 体の具合はどうですか? この前、君の下宿を訪ねていったんだけど、大家さんから君は精密検査を受けに実家に帰っていると聞いて心配してたんですよ、本当に。体は大切にしなくちゃならないからね。健康は目的を達成するための良き手段だからね。それに元気にならないとこっちに戻ってこないんでしょう? 小島さんの顔が見えないと、なんとなく淋しいからね。これは時間を作ってお見舞いに行かないと、大きな花束でも持ってさ。迷惑かな?

 僕は今一応健康だから、病気になった時の苦しみなんて本当には分からないけど、また、生まれてこのかた入院ということもしたことがないから言えるのかもしれないけど、体は病の器だと言われている。それに健康も相対の幸福である以上は無常なものだからね。

 人間には生苦、老苦、病苦、死苦という四つの苦がある。たとえ一時的に回復したとしても、念々に老い、念々に死に近づいてゆくんだからね。たとえ今死ななくても五十年乃至百年の命でしかない。その中で一体何が出来ると思う? 今まで二十年間してきたこととどこがどう違うか。

 たとえ生を燃やしてゆきたいと思っても、相対のもの、無常なものに対して本当に燃えられる? 今まで味わってきた失望以上のものが得られるかい? どう思う?

 誰でも生を満足して送りたいと思ってるんだ。でもどれだけの人が満足しているだろうか。

 小島さんは情熱的な女性だと僕は思う。だけどその情熱をどこに向けるかが問題だと思うんだ。それが徒労と終わるかどうか。今の小島さん次第だと思う。

 とにかく体には十分気をつけてください。歎研のみんな、小島さんのあのなんとも言えない微笑みが見たいと言ってますよ。

                                   吉川清彦」


 私はこの手紙を読んで、少し生き返るような思いがした。相変わらず仏教について語りたがる人だと苦笑しながらも、今にも彼が大きな花束を抱えて現れるような幻想に心があたたまった。何にしても私のことを気にかけ心配してくれて、下宿までわざわざ訪ねていき、このような手紙を書いてくれた彼の気持ちが嬉しかった。


 吉川清彦から電話がかかってきたのは、その手紙を受け取ってから一週間もたたないうちだった。

「どう? 元気? 具合はいいの?」

「はい、寝込んでいるということは無いです」

「病気だなんて手紙が来たから皆びっくりしてるよ。無理しないでじっくり直すといいよ」

「はい。ありがとうございます」

「起きてても大丈夫なら、あのう、自宅の方に行っちゃ駄目かな」

「えっ?」

「お見舞いに行きたいんだけど」

「お見舞い、ですか? それはうれしいですけど…東京から宇都宮まで結構遠いですよ?」

「それは大丈夫。来週の火曜日空いてるから、火曜日に行くよ」

 急な展開に私はあたふたした。

「あっ、はい。本当に? 火曜日、ですね。あの、無理しないでくださいね」

「うん、じゃ、また」

「はい、お待ちしています。お電話ありがとうございました」

「さようなら、おやすみなさい」

 電話を切ったあとも、本当に来てくれるの?という思いでドキドキしていた。電話越しの彼の乾いた低い声がいつまでも耳に消えなかった。


 次の週の火曜日の朝、病院が開くのを待ってすぐに注射をしてもらうと、ケーキを買って家に戻り、彼からの電話を待った。私はいつになく動揺してそわそわしていた。

 十一時少し前に電話がかかってきた。

「吉川ですけど、小島さんのお宅ですか?」

「はい、そうです。恵子です」

「あ、どうも。今、宇都宮に着いたんだけど、これからどう行ったらいいのか教えてくれない?」

「はい、駅から出たら左方向に関東バス乗り場があります。それで新鹿沼行きのバスに乗って、鶴田橋というところで降りてください。駅から鶴田橋まで三十分ちょっとぐらいかかるかも。大丈夫ですか?」

「しんかぬまと、つるたばし?」

「新しい鹿の沼と書くんです。それで鶴の田んぼの橋です。一つ手前が三ノ沢」

「うん、分からなかったら人に聞いてみるよ。じゃ、行きます」

「お待ちしています」

 駅中から電話をかけているらしく、彼の声にがやがやとした雑音や音楽がかぶっていた。

 私は時間を見計らって自転車で新鹿沼のバス停に行き待っていたが、三台くらいバスが通り過ぎても彼は降りてこなかった。どうしたのだろう。バスを間違えたのだろうか。

 着いてもいい時刻から三十分くらいたって、一つ先の羽黒下のバス停方面から彼が歩いてやってくるのが見えた。大きめのショルダーバッグを肩から下げ、緊張したような面持ちをしていた。

 彼は私を見て、ちょっと鼻に皺を寄せて苦笑いした。

「乗り越しちゃったよ。随分遠いんだね」

「疲れたでしょう。東京からここまで四時間ぐらいかかりましたか? わざわざこんな遠くまで来てくれてありがとうございました」

 私たちは家まで十分ほどの道程をゆっくりと歩いて行った。


「この近くに育成牧場があってサラブレッドを養成しているんです。綺麗な馬がいっぱいいて、すぐそばで見られるんですよ。あそこにナイター照明が見えるでしょう? あの下に野球場があるんです。夏は夜いつも試合をしています。その向こうに自衛隊の射撃練習場というのがあって、大きな土手が何棟もあります。今はもう射撃場としては使ってはいないのですが。私が中学の頃までは使っていて、日曜日になると銃を撃つ音がパン、パン聞こえてたんですよ」

 私は彼に私の故郷を見て欲しかった。静かで美しいところだねと言って欲しかった。北の空に聳える日光連山に感嘆して欲しかった。しかし彼はあたりの風景には無関心で、自分だけの物思いにふけっているようだった。私の言葉にも軽くうなづくだけだった。

 細い髪の毛が額にかかるままになっている。疲れているようにも見えた。気分でも悪いのだろうかと私は気になって、会話も途切れがちになった。

 道の中ほどに「生長の家」の信者の家があった。門の前に机を出して「生長の家」と「白鳩」という機関誌を四~五冊ぐらい並べて無料配布していた。彼の興味を引き付けられる話題はもうこれしか無いのだろうか。吉川清彦の無言に耐えかねて私は、

「ここは生長の家をやってるみたいです」

と、明るく言ってみた。彼ははっと顔を上げると立ち止まり、積んである機関誌をながめた。

「生長の家だって? 生長の家というのはあらゆる宗教をごちゃまぜにしているからね。いいかげんな宗教だよ。こんなのを信じているようでは駄目だ」

 やはり図星だった。彼はまるでスイッチを押されたかのように雄弁に宗教批判を始めた。聞きながら、もう、やめてと、耳を塞ぎたかった。

 家に着いて、子犬のロンがはしゃいで鳴いていたりしているのも、彼は無表情に眺めやるだけだった。かわいい子犬を見ても何も感じないのだろうか。一体この人は何を愛しているのだろう。本当に頭の中は仏教だけなのだろうか。彼が家にまで来てくれた喜びは、徐々に凋んでいった。

 もうお昼の十二時を過ぎていた。

 母は私が初めて連れてきた男友達だというので、ジュースやお菓子やお寿司などをテーブル一杯に用意してくれていて、笑顔で彼を歓待した。しかし彼はテーブルの上に並べられたものをひどく迷惑そうな面持ちで見て、一言、

「気を使わないでください」

と言うと、あとは押し黙っていた。

 私は自宅まで来てくれた彼の様子が、いつも部会で見る自信ありげな様子とは違って見えることに当惑を覚えていた。窓を背に黒革のソファーに二人並んで腰を掛けたが、お互いにぎこちなく、気まずい雰囲気が漂っていた。

 母が「遠慮なく召し上がってください。ごゆっくり」と言って、部屋を出ていくと、彼は目の前の大きな寿司桶の方をちらっと見て、

「僕はこういうの駄目なんです。魚は食べられない。肉だってよく焼いたのじゃないと食べられない」

と言い、顔をしかめた。

「ああ、そうだったんですか。かえってすみません」

謝りながら、私はせっかくの母のもてなしを拒まれたようで更に心が暗くなった。

 彼は鞄の方に身を屈めると、分厚い辞典のような本を取り出した。それは仏教用語の説明書のようだった。ああ、また‥‥。

「僕は今日は小島さんを聴聞に連れていくつもりで来たんだ」

私は耳を疑った。

「えっ? 聴聞? それは‥‥東京であるのでしょう?」

「そう、今日は新宿でやる」

心の底に怒りのようなものが湧いてくるのを、深呼吸してかろうじて抑えた。

「とてもまだ東京に行けそうにありません。体力も戻っていませんし‥‥」

「そう? でもそうやって起きていられるなら、来られるんじゃないの?」

「行けません」

 私の表情も硬くなっていたに違いない。彼は慌てたような表情で私の顔を覗き込んだ。

「そうか。駄目か。今日は大阪から高森顕徹先生と言う最高の悟りを得ていらっしゃる先生がわざわざ来てくださって法話をしてくださるんだ。ぜひ、君にも聴いてほしいと思って‥‥」

 私は黙っていた。恋に近い気持ちで思ってきた人が、大学を長期休んで病気療養をしている私に向って何ひとついたわりの言葉をかけてくれないばかりか、ただ仏教を顕証しようとばかりしていることに深く傷ついていた。


 彼は仏教辞典をぱらぱらとめくりながら、

「僕の話だけじゃ駄目なんだ。何度も聴聞しなくては…」

と、つぶやくように言った。

「仏教を続けて聞いていくと、煩悩は消えなくても、弥陀に対する疑いは消えていくんだよ。今君は病気で苦しんで、この苦しみから早く逃れたいと思っているだろう? それには一刻も早く死の解決をしなくてはならないんだ。今がチャンスなんだよ」

「今は生きることだけを考えていたいんです。生きる気力を取り戻そうとしているのに、どうして死のことを考えなくてはいけないんです?」

「それはそうだろうけれど、死を恐れる気持ちをなくさないと、精一杯生きているとは言えないよ」

 彼はその後も延々と仏教についての話を続けていた。私は頷いてはいたが、何も頭に入ってこなかった。こうして椅子に座っているだけでも貧血を起こしてしまいそうな私の体のことを気遣う言葉は、最後まで一言も無かった。


 あなたは一体何のためにここに来たのですか。あなたの頭の中には仏教しか無いのですか。私を顕証できさえすれば、あなたは満足なのですか。私は彼の一方的なまくしたてに抗弁する気力も失っていた。それはもしかしたら、私が仏教に屈服した姿のように見えたかもしれない。しかし、実際は逆だった。もう仏教の話は一分だって聞いていたくはなかった。

「じゃ、僕、これで帰ります」

 彼がそう言ったのは三時間も延々と仏教の話をし続けた後のことだった。私はうごめく嘔吐感に冷や汗が滲み出ていた。彼は寿司にもケーキにも全く手をつけず、ジュースを少し飲んだだけだった。色の変わった寿司を見ていたら、更に気分が悪くなった。

「バス停まで送っていきます」

私はやっとの思いでそう言った。

「うん」

帰りはもうお互いに一言もしゃべらなかった。

「じゃあ、部員の皆さんによろしくお伝えください。今日はありがとうございました」

私は頭を下げた。

「うん、じゃ」

 彼がバスに乗り込むと、私はよろけるように家に帰り、そのままソファーに横になった。何か大きなものを失ったと感じた。どこか体の奥がぎしぎしと悲鳴を上げているような気がした。

 涙も出てこなかった。とんだ茶番だ。なにがお見舞いだ。ただ私を苦しめに来たようなものじゃないか。期待する気持ちが大きかっただけに、落胆は激しかった。目眩が頭の中を逆巻いていた。町で似た人を見かけて、胸をドキドキさせていた日もあったのに、もう今は、どこか決定的なところで、彼に慕い寄ろうとする気持ちが途切れたのを感じていた。


 普通に授業のある五月の平日に彼はわざわざ東京から宇都宮まで何時間もかけて来てくれていた。ただの同級生とか、普通の友人とかではできないことだ。両親もこんなに遠いのに娘のお見舞いに来てくれた人として、彼を好意的に見ていた。彼は色が白く背も高く上品で一見良いところのお坊ちゃんに見える。娘の恋人かもしれないと思っていただろう。娘が体をこわし心も不安定になっているところへ東京から励ましに来てくれた男子学生に、娘を立ち直らせる希望を見ていたかもしれない。

 私もまた、こんな遠くまで来てくれたという彼の行為に恋愛めいたものを感じて浮かれてしまっていた。体の具合はどう?とか、大変だったねとか、大学のほうも心配だよねとか、普通に優しい言葉をかけてくれるものと思っていた。しかしそんな言葉は一言も無かった。

彼はただ私を聴聞に連れ出したいだけだった。私の病気に付け込んで、一気に仏教に取り込もうとしていただけに過ぎなかったのだ。

 東北の出身だと彼が言っていたのを小耳にはさんだことがあった。宇都宮は、つまり東北線に乗り慣れた彼にとってはただの途中下車の駅にすぎなかった。彼にとってはそう苦も無くやって来れる距離だったのだ。

 何もかも期待外れだった。母が用意してくれた鮨桶にも全然手をつけてくれなかったことにももやもやしていた。母への挨拶もお礼もそっけなかった。会話もうまくできなくて最後にはうなだれて黙り込んでしまった私への気遣いの言葉も無かった。私は貧血を起こすすれすれで、相当顔色が悪かったに違いないのに。

 結局彼は仏教を説く前にまだまだ人間として未熟だったのだ。人の気持ちをまるで理解できないようなお子様だった。好きかもしれないと思って損した。彼は私を救ってくれる人ではなかった。むしろ私に痛みを与える人だった。

 その日は夕方まで布団から起き上がれなかった。しばらく何も考えることができなかった。


 ロンはいつでも無邪気だった。ロンのおかげで気持ちが紛れた。夕方、散歩に連れ出し山影の道を歩いていたら急に雨が降ってきた。近くにあった石切り場のトタン屋根の下に逃げ込んで雨が止むのを待ちながら、ほんの何年か前まで放浪の旅に憧れていたことを思い出した。このままジプシーのように見知らぬ所に流れていきたい。

 私は四角く切り出された大谷石に凭れかかり、ロンをなでながらしばらくぼんやりしていた。徐々に夕闇は迫ってきていた。ロンはおとなしくお座りをして、私が動くのを待っていた。そうだね。帰らなくちゃね。立ち上がった時、急に涙が溢れてきた。想像以上にダメージを受けていたことに、その時初めて気づいた。


 自宅療養を始めて一か月が経とうとしていた。これ以上大学を休むと留年になってしまうかもしれない。結構焦り始めていた。せっかくできたO組の友人たち、英文の専攻クラスでもでき始めた友人たちとも会えない日が続くとこのまま疎遠になってしまう。また一年の時のような孤独な下宿生活になることが怖かった。

 それに六月以降からは前期試験も始まる。受けておかないと切実に進級に関わる。一か月間抜けてしまった講義のことも気になっていた。ノートを誰かに借りることができるだろうか。追いつけるだろうか。

 無理を承知で大学に戻ろうと思った。その前に病院でレントゲン撮影をした。

「まだ、半分ぐらいしか治ってないねえ。あと一か月は治療が必要だよ。入院すれば八割の人は治るんだが、入院しなければ三割程度だな。一か月治療を中断すると、もうなかなか治らなくなってしまう。一気に治しちゃった方がいいんだがな。注射して治るのは、十人のうち一人ぐらいなものだ。治療で大切なことは、食事療法と薬だ。これを徹底させなくては治らないよ。こんな状態で東京で下宿生活をするなんて言語道断だよ。もっと悪くなって手術しなくちゃならなくなるよ。手術したいっていうんなら構わないけど」

 医師は、私が無理矢理のように退院し、しかも治りもしないうちに復学しようとしていることに不興の色を隠そうともしなかった。突き放すような冷たい口調で検査結果を語る初老の医師の顔を見つめながら、この戦いは一体いつまで続くのかと、喉の奥にまで押し寄せてきた絶望感を押し留めるのに精一杯だった。


 それから数日後、東京に戻る支度をしている時、吉川清彦から一通の手紙が届いた。まだ彼のことを信頼していたかった私は、すがるような思いでその封書を開けた。しかし、その手紙にはただ聴聞が行われる日付が沢山書いてあるだけだった。体調はどう? とか、お大事に、の一言も無かった。本当に日付だけ。

 彼って何なの? 頭の中、仏教だけなの? 私が仏教を信じるようになればそれで満足なの? 私は激しい失望に苛まされながら座り込んでしまった。東京に戻る勇気が一気にしぼんでしまった。

 それでも決めたことだ。ひどく落ち込んだまま、重い荷物を持って7分ほど歩いた先にある幹線道路のバス停に歩いていった。雨が降りそうな暗い曇り空の正午過ぎ。気持ちは完全に後ろ向きになっていて、これから東京に一人で行かなくてはならないことが怖くてたまらなかった。その後の下宿生活も不安だった。家に引き返そうかと何度も思った。けれどここで引き返したら、私は折角手に入れた早稲田での学生生活を全部失ってしまうような気がした。何度も深呼吸をして心を落ち着かせようとした。

 吉川清彦からの手紙は、たとえ聴聞の日付しか書いていなくても私を思って出してくれたもの。その気持ちにすがるようにして私はバスに乗り込んだ。すぐにめまいのような症状に見舞われ、吐きそうな気分で倒れそうになったが、なんとかそのまま踏みとどまり宇都宮駅に向かった。生きている実感もなく、ただ揺られているだけだった。


 東京へと向かう電車に足を一歩踏み入れながらも、やはり平静ではいられなかった。まだ回復していない体を孤独と緊張の生活に投げ込むには、リスクが大きすぎることは分かっていた。両親もひどく心配していた。しかし、療養を一か月伸ばしたところが、前期試験も受けられなくなり留年になってしまうばかりだ。

 せっかく手に入れた早稲田というステイタス、そして、今まで培ってきた友人関係がゼロになってしまうこと。それは私にはこの先の未来がなくなってしまうかのような恐怖だった。

 電車がのどかな田園風景から巨大な建物だらけの都会に入っていく。私はまた息ができなくなってしまう。この都会に踏みとどまることができるだろうか。今は6月に入ったばかり。前期試験は6月下旬から7月上旬まで。家に逃げ帰ることができるようになるまであと1か月ちょっとだ。文字通り血を吐いてでも、この1が月を頑張るしか無いのだ。

 上野に着き山手線に乗り換え、新宿で降りる。このひどい雑踏。人と人がかすめるように通り過ぎて行く。みんな他人。誰も私の存在など目にもとめない。ほとんどよろめきながらただ前だけを見て歩いた。ショルダーバックの荷物は本類が重すぎてすぐに息が上がった。足に力が入らなかった。体力が全然なくなっていることを実感して、また気持ちが弱くなった。

 上石神井に着いて、ここで一人で頑張らなくてはならないのだとやっと観念した。下宿の部屋に入り荷物を下ろす。窓を開けてしばらく畳の上に横になっていた。まためまいのような不安が襲ってきたが、大丈夫大丈夫と心に言い聞かせて深呼吸した。

 孤独が耐えられなくなったら坂口美子に電話してみよう。学校を休んでいた五月に、安達望が私の体調を気遣うハガキを送ってくれていた。いざとなったら安達にも電話してみようか。東京の暮らしで私の錨となってくれそうな人たちをあれこれ思い出しながら、気持ちを鎮めていった。

 夕食のことも考えなくてはならない。食事療法を誤ったら、1か月ももたずにまた病院に戻らなくてはならなくなる。


 少し落ち着いてから、上石神井の下宿のおばさんにまず挨拶に行った。ドアを開けたおばさんは私の顔を見るなり、

「まあっ!」

と、茶色っぽい大きい目を見張った。

「お帰りなさい。もう大丈夫なんですか? 心配してたんですよ」

「はい、まだすっかりは良くはないんですけど。授業くらいは出られると思いますので‥‥。どうもご心配おかけしました」

「まあ。随分痩せちゃいましたねえ。すごく痩せたわ。背がお高いから余計痩せたように見えるのかしら。勉強より体の方が大切ですからね。無理しないようにね。何かあったらいつでも相談に来てくれていいのよ。遠慮しないで。下宿代も五月分はいいですからね」

「はい、ありがとうございます」

 おばさんの優しさは身に染みて嬉しかったが、やはり私はおばさんには甘えられないだろうと思った。

「あっ、それからね、吉川さんていう男の方が、五月に二、三度こちらに見えられましたよ」

 彼の名がおばさんの口からこぼれるとは思っていなかった。私は少しうろたえて言葉に詰まった。

「近頃珍しいような、おとなしそうで落ち着いた方ねえ。色が白くって背が高くってなんか素敵な方」

 おばさんは好奇心をあらわにしていた。

「ああ、サークルで一緒の人なんです」

「ええ、ええ、なんとか研究会とか言ってらしたわ。その方がね、下宿までいらしてね。小島さんのこと随分心配してらしたみたい」

「そうですか。じゃあ、今日早速電話してみます」

「ええ、そうね。そうしてあげた方がいいわね」

「じゃあ、どうも、またよろしくお願いします」

「こちらこそ。お大事にね」

 その日、吉川清彦に電話をすることは、やはりできなかった。


 



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