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第2章 大学1年

更新日:4月1日


大学一年一学期


 文学部の長いスロープを上り、一歩構内に足を踏み入れると、すっと薄暗くなり、ひんやりとした空気に包まれる。廊下や階段の壁には乱雑にビラが張りめぐらされ、引き剥がされた痕も汚らしく残っており、ところどころにはマジックインクでじかに落書きがされていた。気味の悪い悪魔めいた犬の絵が描かれていたこともあったし、真っ赤な文字で学長を糾弾するアジテーションが壁いっぱいに書かれていたこともあった。

 文学部はこれでもおとなしいほうで、本部に行くと、大隈公の銅像前の広場には所狭しと激しい文句の立看が立てられ、学生たちが拡声器を片手に何か熱弁を奮っていた。大隈講堂の前では、応援団風の黒い学生服を着た「精神高揚会」の人たちが檄を飛ばしていたし、演劇部の部員たち十数人が、大声で声を揃えて発声練習をしていて、あたりにこだまするようだった。

 若者たちはそれぞれに書物を手に、急ぎ足で行き交っていた。サークル勧誘のビラ配りも今が盛りで、文学部も本部も歩いているだけで、いつのまにか手にあふれんばかりのビラが握らされていた。

 雑然とした中にも、若者たちのエネルギーがほとばしり出ていた。それはどちらかというと男っぽいがさつさが主たる部分を占めていて、私にとって居心地のいいものではなかったが、伝統ある早稲田に入ったという確かな実感と喜びを損なわせるものではなかった。

 講義が始まってからは、いかに効率よく単位を取得するかが当面の関心事になる。どの科目が必ず単位を取れるか、どの教授が点数が甘いか、出席を記録されない講義は何か、話のわかる先輩から聞き出した情報を、クラスのみんなで交換しあうことで、新学期の最初の数日間はもちきりだった。


クラスの学友たち


 同級生の寺井雄二が一番の情報源だった。寺井雄二は群馬県出身で、ちょっとずんぐりした庶民的で素朴な印象の青年だった。彼の高校の時の先輩が早稲田の文学部にいて、その人が後輩の寺井に指南してくれた情報のようだった。

「神沢先生の倫理学はちゃんと出席していれば単位が絶対取れるって。あと生物学Bの佐土原先生は通称「仏の佐土原」と呼ばれていて、レポートを出せばOK。曽根先生の歴史学Bも楽勝だよ。あとは石関先生の哲学A、鈴木先生の法学Bといったところかな」

 寺井雄二のまわりには四、五人が集まり、一生懸命メモを取っていた。もちろん私も聞き耳を立ててご相伴に預からせてもらった。実際そうでもしなければ、早稲田で、ある程度の優の数を取得するのは至難の業なのだ。

 しかし中にはそういう私たちを冷笑的に見ている者たちも確かにいて、

「僕は取りたい講義があるからな。興味もないのに単位を取りやすい講義だけ受けたってつまらないじゃない。単位を取るためだけにわざわざ早稲田まで来たんじゃないんだから」

確かにそうではあるのだが。

 寺井雄二派と対抗しているのは須山勝彦という小柄な青年だった。銀縁の眼鏡をかけ色が白く華奢な印象だったが、声は割と野太く、教授をやりこめるほどの切れ者だった。自分で、東大が第一志望だったのだが、落ちてしまったから第二志望の早稲田に来たのだと公言していた。

 理想に燃えた一部の優等生にとっては、楽勝の講義に群がる私たちは早稲田の風上にもおけない安直な奴らにしか見えなかったのだろ。早稲田まで来た以上、次に目指すものは一流企業、国家公務員、または教職、といったところだろう。私のように小説家とか詩人とか、うわついた抱負を持って大学に入ってきた者も少なからずいたには違いないけれど、大方は堅実な職業を目指して、まずは優の取りやすい講義を登録していた。

 私は別に優にこだわっていたわけではなかったけれど、特に取りたい講義もなかったから、先輩ご推薦に従っていれば無難だろうと思っただけだ。優を取るどころか単位を落として留年などという事態も早稲田ならありうる。それだけは避けたかった。

 大学の一年生は、ドイツ語、英語、国語といった語学のほかに、六つの一般教養科目、それに体育の理論と実技を取る必要があった。

 体育で何を取るかは頭の痛い問題だった。バレーボールとかバスケットボールは人気が高いから、抽選制でなかなか取れないという噂だったし、水泳、スキー、スケートなどはなおさら取る気も無かった。そういうわけでかなり投げやりに取った実技は合気道だった。

 八十名ほどの定員のうち女子は十名ほどで、皆、他の実技の抽選に落ちて仕方なく来た者ばかりだった。「アイキドウ」と記された登録カードを手にした時は、自分で希望しておきながら、少し力が抜けてがっかりした。大学に来てまで体育に悩まされるとは。週に一度とはいえ、わけのわからない武道を大勢の男子に混じってやらなくてはいけないのは気の重いことだった。

 講義の登録が済むと、いよいよ本格的な授業の始まりだった。大学というものは、出席してもしなくても特にチェックされないものだと思っていたが、ほとんどの授業は出席カードを提出させられ、出席日数が一年を通して三分の二に満たない者は単位が取れないらしかった。なんだか高校と変わらないねえと、隣に座った人と話したものだ。その人は坂口美子という名前で鳥取出身の人だった。

「私、一浪してこの大学に入ったの。あなたは?」

「私も一浪。結構一浪の人、多かったね」

「そうね。やっぱり早稲田だもんね。現役で入れる方が奇跡だよ」

「そうだよね。でも私早稲田の試験問題あんまり難しいと思わなかったよ。きっと一点差、二点差で合否の分かれ目があったんだろうね」

「うん、うん、言えてる。私たちきっと運が良かったんだよね」

坂口美子は、そばかすがうっすらと浮かぶ白い頬をほころばせて、茶目っ気たっぷりに微笑んだ。

 彼女は背がすらりと高く、やせ型でスタイルがよかった。はじめのうちは口数が少なかったが、本来はにぎやかで明るい人らしかった。私はこの人と友達になるのだろうと最初から思っていた。海鳥のようなしなやかさと、霧雨のような繊細さを持った人だった。


 私たちが座っていたのは、窓際の後ろの方の席だった。前の方の席を取る人の顔ぶれも大体決まっていた。やる気十分の何名かの女子、特に目立っていたのは、声が低くて教授に頻繁に質問もしていた宇田川純子という人だった。いかにも聡明そうで、早稲田に来るべくして来た人という感じがした。男子たちからは幾分の揶揄もこめて「宇田川女史」と呼ばれていた。

 宇田川女史は、服装はあまりかまわないほうで、いつも地味な事務服のような上着をはおっていて、灰色や紺色のズボンをはいていた。見た目は十代の女子らしからぬ老成した落ち着きがあったが、勉強の面では、あの組のどの女子よりも熱意を燃やしていたように思う。浦和女子高から現役で早稲田にきたのだそうで、少し冷たいけれど深いまなざしで、いつも最前列の真ん中の席を陣取り、講義する教授をまっすぐ見上げていた。

 彼女は、孤立しているようにみえた。男子からは明らかに敬遠され、女子とは授業中は席の近くの人と何かおしゃべりすることもあったが、授業が終わればさっさと一人で帰ってしまうのだった。

 彼女の質問は鋭く、時には教授をたじろがせていた。彼女が優秀であることは誰もが認めることだった。きっとこの人は、卒業しても大学に残るに違いないと私は思っていた。その刻苦勉励ぶりは研究者にこそ似つかわしかった。だから四年生になって、彼女が高校教師を目指していると知ったとき、なんだか拍子抜けがした。それならもうちょっと力を抜いて学生生活を楽しんでもよかったのに。大学に入ってその解放感から、ファッションを自由に楽しみ派手になっていく女子も多い中、宇田川女史のように真摯に学業に邁進し、地味をずっと貫き通す人はかなり特異な方だった。

 宇田川女史のすぐそばには大体、菊池洋子、宮迫典子、青木泉が席をとっていた。菊池洋子は岩手の遠野出身、宮迫典子は秋田の能代出身、青木泉は青森県出身だから、自然に東北出身の者が肩を寄せ合ったということだろう。

 宮迫典子とは専攻に分かれても、同じ英文科で一緒のクラスだった。とても小柄で一緒に並んで歩くと、背の高い私の肩のあたりぐらいしかなかった。笑顔が愛くるしい人だった。三軒茶屋の方の寮に入っていて私も何度か泊りに行ったことがある。彼女の父親は中学校の校長をしていて地元でも名士だそうだったが、彼女は父親を徹底して嫌っていて、自分でもその感情に苦しんでいた。彼女は腎臓が悪く、それは父親からの遺伝であると言っていた。

 菊池洋子は大学四年の時、鉄道自殺で亡くなり、宮迫典子も高校教員として秋田で就職して四年目の冬に、心不全で急死した。荒れた高校での苦しい授業の様をせつせつと書いた手紙をもらったすぐあとだったので、病死ではない死に方だったのではないかと、今でも私はいぶかしく思う。生きられなかった彼女たち、青春が、晴れやかな季節だと思ってはならない。青春だからこそ、青い芽のような心は、最も死に近い。

 もう一人印象に残っている女子がいる。掛井愛は大阪出身でジーンズ姿が似合う細身のボーイッシュな人だった。女子が数人集まって「どこ出身?」など、お互いの情報を聞き合っていた時のこと、掛井愛が入学金、授業料、アパート代、生活費等一切、実家の援助を受けずに自分でアルバイトをして支払っていることを知った。その場にいた皆が、「えー?!」と驚いた。東京に出て来たばかりの女の子が百万円単位のお金を稼ぎだすのは至難の業だ。というより普通不可能だ。余程貧しいのかというとそういうわけでもない。父親は神戸大学の教授であるそうだった。

 掛井愛は家庭教師をいくつも掛け持ちして、その他にも何かのアルバイトをして毎日飛び回っていた。もはや勉学に集中するどころではない。最低限の授業出席日数を確保したあとの時間は、全部お金を稼ぐことに使っていた。女子ならばあまりにお金に困ると、手っ取り早く金を稼げる夜の接客業とか、少しやってみようかともなるのだろうが、真面目な掛井愛は家庭教師主体で頑張っていた。それ故に稼げるお金はたかが知れていた。

 授業で会う彼女はいつも疲弊していて、机にもたれてぐったりしていた。友だちづきあいをする余裕もない毎日。なんて過酷なんだと私はそばで見ていていつも思っていた。彼女の家族は何故娘にそんな試練を与えるのか。ちゃんと勉強する時間も作れないなんて本末転倒ではないか。家族と確執でもあって、掛井が親の意向を振り切って家を飛び出してでもきたのか。それにしてもあり得ないほどハードでサバイバルな掛井愛の日常。

 若かったからなんとか乗り切れたのだろう。はかばかしく授業に出られなくても、彼女はちゃんと卒業までこぎつけた。「思惟の森」というサークルに所属し時々岩手県に行き森林活動をしているとも聞いていた。ちゃんと学生生活を楽しめてもいたのだろう。もし会えたなら、どんな大学生活だったのかを詳しく聞いてみたい。卒業アルバムの中の彼女の笑顔の写真を見て、あなたはすごく頑張ったよね、と心の中で感嘆している。

 クラス六十名、しかしそのうち三、四名は一学期の最初出て来ただけで後は全く姿を見せなかった。どういう理由か知らないけれど、大学をやめてしまったらしかった。せっかく受験戦争をくぐり抜けて皆の羨む早稲田まで来たのに、すぐに脱落してしまうとは。本人はそれに代わる価値観を見出したのだろうが、普通の判断基準を持つ者には、特にその家族には理解不能なことだったに違いない。あるいはもしかして「脱落」ではなくて病気や転学という人もいたのかもしれないが。

 髪をショートカットにして、いつも派手な大きなイヤリングをつけていた村田悦子も脱落組の一人だった。私や坂口美子と比較的近くの席に座っていたので、最初の何日間かはよく話をしたのだが、彼女はだんだん休みがちになっていった。たまに来てもどこまで授業が進んでいるのか分からなくなっていたから、まわりの者のノートを当てにしてその場を凌ぐだけだった。

「あの人大丈夫かしら」

と坂口美子とよく言い合っていたものだ。

 そのうち村田悦子は完全に学校に出てこなくなった。すべての教科が出席不良で単位が取れそうになかった。他人事ながら心配だった。

 六月も終わりの頃、一学期の試験真っ最中に、学食の前でばったりと村田悦子に会った。

「わあ、久し振り。元気だった?」

「うん。もう試験してるんだね」

「試験受けないの?」

「そうね。今年は留年ってことになっちゃうかな」

「えー、まだ諦めるのは早いよ。よかったらノート貸してあげるよ。試験だけでも受けてみたら?」

「うん、ありがとう。でもいいよ。全然出席していないから試験だけ受けたってきっとだめだよ」

 村田悦子は寂しそうに笑った。

 相変わらずちゃらちゃらした大きなイヤリングをつけていて化粧もかなり濃かった。彼女が花柄のワンピースをひらめかせて、そばに止まっていたワゴン車に乗り込むと、中に乗っていた男子学生がエンジンをふかした。そのワゴン車にはへたな字で「自動車クラブ」と書かれていた。

「じゃあね。試験頑張ってね」

「また学校においでよね」

「うん」

 しかしそれ以来四年間、村田悦子を大学で見かけることはなかった。


 私は上智大学にも合格していて、当初ほとんど上智に行くつもりだったので入学金を払い込んでしまっていた。兄が上智大の卒業生で、素晴らしい教授陣の顔ぶれや魅力ある講義についてしばしば私に吹き込んでいたため、行くなら上智が良いなと思っていた。しかしその後になって早稲田の合格も判明し、早稲田と上智、どちらを取るか、私はひどく迷った。

 知名度、キャンパスの雰囲気、兄からの情報、大学としてのレベル。最終的に私は打算的に、早稲田というブランド名をとったのだった。

 早稲田に正式に入学したものの、そのことを上智大に連絡し忘れていたため、二週間ほど上智と早稲田に二重に学籍を持っている状態だった。上智大の教授たちは出席してこない小島恵子を、病気か何かの事情で出席できずにいるのだろうと思っていただろう。

 早稲田の授業の合間を縫って、上智大の事務局に行くために四谷の駅に向かった。駅からすぐの古びた街灯のある橋を渡り、大学横の土手道を歩いた。土手に囲まれたグラウンドが広がり、ゴルフ部の人たちが練習をしているのを見下ろすことができた。

 ここから見る風景は好きだった。煩雑な早稲田の町よりも、上智大周りの方が伸びやかで緑が多く落ち着いた雰囲気だった。受験の面接の時に会ったあの青年はきっと上智大生となってこの構内のどこかにいるに違いない。ひとつ前の受験番号だった彼も合格していたから。英語のスピーキング、ヒアリングの面接を待つ間、お互いにひどく緊張して震えている中、きっと新学期に大学で会いましょうねと、励ましあった眼鏡をかけた誠実そうな彼。

 構内を一回りした後、上智の事務局の人に除籍にしてほしい旨を申し出た時、私にはまだ迷いがあった。これで永久に上智とは縁が切れることになる。二つの運命のうちの一つを選んだ。そういうことだ。

 それがよかったのか悪かったのかは誰にも分かるはずもないが、早稲田で出会えた友人たちはかけがえのない存在だったし、本気の恋を知った喜びと苦しみ、期せずして関りをもつこととなった宗教のサークルでの煩悶など、良かれあしかれ早稲田は私に果てしなく心の滋養を与えてくれていた。苦しむことが多かったにせよ、早稲田を選んだ事に後悔はない。


 記念会堂の前の広場を縁取るように咲いていた桜の花もやがて散り、八重桜ばかりが厚ぼったくふくらんだ花を、重く風に揺らせていた。小さな児童公園を一画に持つ穴八幡神社では、子どもたちがブランコをこぎ、母親たちがおしゃべりをしていた。菩提樹の巨木のまわりをカラスが群れ飛び、笑うような鳴き声を響かせている。

 私はまだ自分の居場所を見つけられずに、大学のまわりをぐるぐる歩きまわることで授業までの空き時間をつぶしていた。いくつかの書店、生協の売店、演劇博物館、ハンバーガーショップ、本部図書館。孤独そうな学生の後を密かに追って、一体どこへ何をしに行くのかを知りたいとさえ思った。

 坂口美子と一緒の時は、近くの食堂や喫茶店に入って軽いおしゃべりを楽しむこともできた。男子たちが私たちに合流してくることもあった。それはたいがい話しやすい坂口美子目当てで、私一人の時は誰も話しかけてこない。

 坂口美子は、はにかみと気さくさを微妙に使いこなし、男子たちの心を着実につかんでいった。私は彼女のそばでぎこちなく微笑んでいるだけだった。微笑みは私の鎧だった。その鎧の下でどんなにか人を愛したかったことだろう。私はすぐには理解されにくい人間だった。人に対して自己を開放し一歩前に踏み出していくことがなかなか出来なかった。


 テレビを持っていなかったから、夕方下宿に帰るといつもラジオを聞いていた。谷村新司と堀内孝雄がディスクジョッキーをやっていた「青春大通り」という番組の中の「天才、秀才、馬鹿」というコーナーが好きで、これを聞きながら一人の下宿の部屋でいつも笑っていた。笑いながらも声が尻すぼみになる。一人で過ごす夜はあまりに長くて、ラジオをずっとかけっぱなしにしていないと寂しくてたまらなかった。

 坂口美子とは語学の授業は一緒だったが、他の選択科目は別々だったので、会える日はそうは多くはなかった。誰とも話さない日が何日か続くと、声を失ってしまったような気分になってきて、ため息のように自分の声を試すこともあった。


 早稲田の授業は確かに難解なものだった。若い男性教授の英語の授業で使われたテキストは、アメリカ社会についての専門的な論文のようなもので、意味の分からない単語が頻繁に出てくるし、一つの文章があまりに長いので、どこからどこまで係っているのか把握するのが難しく、一応まとまった訳文を捻り出すまでが非常に苦しかった。しかしそれだって受験の英文解釈をやりこなせたのなら、出来ないものではない。事実、英語のよく出来る人は教授をさえやりこめるほどで、

「あの先生、自分でも全然意味が分かってないよ。支離滅裂じゃん。早稲田の教授なんていってもたいしたことないんだねえ。自分で意味の取れない本なんかテキストに選ぶなよ。ああ、失望しちゃった」

などとうそぶいていた。


 O組の担任となった美人の女性教授は「屋根の上のバイオリン弾き」とか、クリスティの

短編集とか、書店に訳本が出回っている本をテキストにしていたから、生徒たちは訳本を参考にうまく訳の指名をかいくぐることが出来た。無難な授業ではあったが、目新しい発見もなくただ単に訳しているばかりなので、昼下がりの時間帯という事もあって、いつも眠気を誘われた。

 ドイツ語も、皆同じスタートラインに立ったばかりだし、これから頑張ればなんとかなりそうだった。そう本気で思っていた。私はドイツ語を完全にマスターする心づもりで、かなり意気込んで予習もきちんとしていた。生協の書店に売っていた教科書準拠のドイツ語のカセットテープなども買い、発音の練習も下宿でよくやっていた。

 男性名詞、女性名詞‥・、単語も一から覚えなくてはならない。中学の英語のように基礎から時間をかけて丁寧に教えてくれるわけではないから、上達は本人のやる気如何にかかっていた。

 語学力は一学期の半ばぐらいはそんなに差はつかないが、学期の終わりごろにはもう取り返しのつかないほどの歴然とした差がついていた。 

 私はというと、やはり落ちこぼれてしまった口だ。早稲田に入るまでは非常な努力でなんとかなった。しかし早稲田には、努力などしないでもすぐになんでも覚えることのできる、いわゆる天才のような人たちが多かった。努力型の私などひとたまりもない。やる気など何の役にも立たなかった。しかし、優秀な友人たちに恵まれていたので、ノートを借りたり、試験で密かな助けをもらったりしながら、なんとか及第点をとることができたのだった。


 単位が取りやすいと聞いて取った石関教授の「哲学」は、講義の内容がさっぱりわからなかった。文学部で一番大きい教室である181教室は、階段式でぎっしり詰めて座れば何百人もの生徒を収容できた。この教室を当てられた「哲学」はきっと登録していた生徒も相当多かったに違いない。しかし、出席人数はそれほど多いようにも見えなかった。

 よくこれほど訳の分からないことをしゃべっていられると思うほど、石関教授の講義は難解だった。

「合目的性」「自然の斉一性」「演繹、帰納」「カント、スピノザ、ベルグソン」「哲学は永遠の真理のみを扱うのではなく歴史的なものとして、変わっていく人生、世界を扱う。理性の真理を扱うのではなく事実の真理を扱う。抽象的真理を扱うのではなく具体的真理を扱う」

 当時のノートを読み返してみても、やはり内容が全く頭に入ってこない。

 181教室の照明は薄暗く、教科書を読んでいると目が痛くなった。机の上にはさまざまな書き込みがあった。それはたいがい試験のカンニング用の書き込みだった。あの薄暗い大教室でカンニングをするのはたやすかった。その他にもいろいろと不真面目な落書きがしてあった。

 ある時たまたま座った机に、ボールペンで黒々とこう書かれてあった。

「死よりもくらい絶望」

 私はこの文字から目をそらすことが出来なかった。その時の私にとって見過ごすことのできない言葉だった。私だけではないという思いに涙が滲んだ。絶望という名の哲学。私が大学で学んだのは、絶望と、絶望からの回復、ただその二つだけだったような気もする。

 181教室ではまた神沢教授の「倫理学」の講義も行われていた。「天知る、地知る、人知る、我知る」ということわざについての講義は今でもよく覚えている。「恒産なくして恒心なし」という言葉も忘れ難い。「倫理学」は比較的わかりやすい講義だった。のちに読み返すかもしれないと思い、教科書として使われていた神沢教授著「倫理学」の単行本は今でも捨てずにとっておいてある。

 神沢教授の夏休みの宿題のレポートのテーマは、禁欲主義と快楽主義の比較をせよというものだった。古書店でエピクロスの本を買って読んだり、市立図書館でいろいろと参考文献を漁ったりしなければならなかった。今まで触れてもみなかった本を手に取り、考えてもみなかったことに思いをはせる。生活に必要のないことのように見えても、それによって世界が広がる。一般教養とはそういうものなのかもしれない。


 大学に入った当時の新鮮な気持ち。下宿に真っ直ぐ帰り、真面目に英語やドイツ語の予習復習に取り組んでいたあの頃。もしあの頃の気持ちを持ち続けていたなら、私も一角の人間になれていたに違いない。きっと兄のように大学院まで進んだかもしれない。私の実力も捨てたものではなかった。あれだけ打ちこんだ受験勉強、おそらくあの頃私の頭脳はピークに達していた。

 しかし私の望みはただ一つ、創作活動において成功することしかなかった。有り余る時間の中で、私はどんどん書き進めてもいいはずだった。書くことが生存理由のすべてと言っていいほどに、ただそれだけのために、受験勉強を頑張ってきたのではなかったのか。自由な時間を与えられて、いざ何かを書こうとした時、初めて気づいた。私には書くべき何ものも無かったのだということに。

 苦しくなると私はよく石神井川沿いの道を散策した。そばに団地が立ち並んでいて、通勤の時間帯を除けば人通りもない静かな道だった。小説家を志していたある友人は、下宿の窓から見下ろした人々の生活風景を事細かに描写することをもってして習作とした。しかしその時の私はそうした習作さえできずにいた。

 緑の炎を噴き上げるカイズカイブキの樹、いつも老婆の押し殺したような念仏が聞こえている路地。自転車が溢れかえっている駅前通り。その散歩はいつも次第に力を失っていった。

 何かを探しているのにみつけられないもどかしさ。目に映るものを感動に移し換えられない悔しさ。私の日常は、文学に囚われ、圧迫されるものとなっていった。小説を書くには私には何かが欠けていた。受験という隠れ蓑をかさに着て、見まいとしてきたこと、それが今明らかにされようとしていた。

 毎日新聞の文芸欄に投稿し続けていた詩も、悪い方に固定化していた。ほとんど書けなくなったと言ってもいい。この自由な時間、やっと勝ち得たこの時間を私はもうもてあましているのだった。

 小学生の頃から小説家か詩人になりたいと思い、人にもそう公言し、そのためにはたくさん勉強をしてよい大学に入らなくてはいけないと頑張ってきた。そしていざ大学に入ってみて、大学が必ずしも何かを書かせてくれるものではないことに、はっきりと気付かされてしまった。

 この意気消沈した感じ。それは次第に苛立ちとなって私の生活を侵していった。三島由紀夫や芹沢光治郎の確かな語彙力、梶井基次郎の瑞々しい表現力、中原中也や立原道造の切ないほどの抒情。優れた作家や詩人の作品はどれも私を打ちのめした。ノートに文章を書き写してみても、到底自分のものにはならないように思われた。


 大学一年の頃は毎週土日宇都宮に帰っていた。それが私を東京に出すにあたっての両親の条件だった。各駅停車の東北線に乗って三時間近くもかけて、東京と宇都宮の往復を繰り返すのは正直言って苦痛だった。土曜日の授業を終えてから、午後四時過ぎから五時台の電車に乗ると、もう満員で座る場所もなく、宇都宮までの二時間近くをほとんど立っていなければならなかった。

 土曜日は宇都宮の実家で夕食を取るだけで終わってしまい、日曜日も何もすることもなく過ぎ、月曜日の朝には昼過ぎの授業に出るために、また東北線に乗って数時間かけて東京に向かわなければならなかった。

 日曜日に友達同士でどこかへ出かける相談がされることもよくあり、私と坂口美子も鎌倉に行かないかとクラスの男子3~4人のグループに誘われたことがあった。私は迷いつつも、つい帰省の方を選んでしまい、坂口美子にも鎌倉行きを断念させてしまったことがあった。

 私は何故家族に縛られていたのだろう。なぜ友だちより親を選んでしまったろう。無理を言って東京に出してもらったから? それなら同じ条件で地方から来ている人だって数知れずいるではないか。私は親を悲しませたくなかった。裏切りたくなかった。親を嘆かせたり愚痴らせたりしたくなかった。それは裏返せば親の支配下から抜け出せずにいる姿に他ならなかった。

 親の、子どもに対する過剰な心配は、かえって害毒だ。子どもが、親の顔色を窺いすぎることもまた。そう考えられるようになるまでにはかなり時間がかかった。


 大学生活にもようやく慣れようとした頃のこと、授業の始まる前、必ず廊下の椅子に座っている男子がいた。背は私より少し低く、眉毛が黒々と濃く、意志の強そうな幾分不敵な面構えをしている人だった。時折下駄をはいてきてガタガタと廊下に音を響かせていた。

 その青年は語学の授業前、いつも廊下で足を組んで座っていて、私が教室に入ろうとすると、すっと席を立ち、

「おはよう」

と、私をまっすぐに見て声をかけてきた。

 私は一瞬ドキッとして身をすくめながら、

「おはよう」

と、返事を返し、あわてて坂口美子のそばの席に逃げ込んだ。いかに鈍感な私でも、彼が私に興味を持っていることに気づかないわけにはいかなかった。

 女子高の三年間、男子と普通に話す機会もほとんど無いままに過ごし、浪人中も予備校に属してはいたがほとんど自宅で勉強していたから、わずかな男子しか知り合いもなく十九歳まできてしまった。大学で毎日大勢の男子たちの中で授業を受けなければならないということは、絶えざる緊張の連続だった。

 女子高の中では女同士、あけっぴろげに過ごしていればよかった。大学ではやはりどこかで男子に見られているという意識があって、いつでも気が抜けなかった。

 坂口美子は共学校で学んだそうで、男子とつきあうことに全くこだわりは持っていなかった。明るく気さくな彼女は早速男子の取り巻きを作り、音楽のカセットテープを貸し借りしたり、講義の出席カード提出を頼んだりしていた。彼女の笑顔は春の花のように、クラスの中でも一際輝いていた。少し鳥取弁のアクセントが残る話し方もどこかチャーミングで、可愛らしい印象をあたえた。

「私ねえ、共学だったから、何人かの人とお付き合いしたことがあるのよ。学校の近くに鳥取砂丘があるの。よく砂丘まで二人で歩いていって、いろいろおしゃべりした事、今ではとってもいい思い出よ。私、共学で良かったと思うの。やっぱり男子がいると、いい意味での緊張感があるし、女子には無い物の考え方とかすごく新鮮だったから」

 O組の中で、坂口美子に注目している男子は多かった。私の右隣に座ったある男子学生は、私を間に挟んで、私の左隣に座っている坂口美子の方ばかりを身を乗り出すようにして見ていた。おやおや、私はお邪魔でしたね。そんな時、私の居心地は大変に悪かった。

 坂口美子はあけっぴろげな鳥取弁で、

「なっ!」

という掛け声のような言葉を連発して、無邪気に明るさを振りまいていた。変に男女にこだわっていないところに彼女の魅力があった。

 彼女は高校時代バスケットやハンマー投げの選手をしていたそうで、スポーツも万能であるらしかった。特にハンマー投げはたまたま遊びでやってみたら、正式な選手よりも遠くに飛んでしまったため、急遽選手に仕立てられてしまったのだと、彼女は笑いながら言っていた。

 彼女のそばで私はいかにも地味な自分を意識せずにはいられなかった。栃木なまりは田舎臭いように思えて、人のおしゃべりに参加するのにも気後れが生じ、聞き役に回ることが多かった。女の子らしいワンピース一つ持っていなかったし、可愛らしく見える媚態も何一つ知らなかった。口紅さえつけたことがなかった。

 私は男子の前でどう振る舞ったらいいのか分からず、時々突拍子もない笑い声をたてたり、男子からの当たり前の話しかけにも過度の警戒をあらわにしたりした。

 それでも私はあの頃、一番美しかったのだ。少女時代を抜け出し、みずみずしい青春の真っただ中で、危うい美しさを示していたのだ。しかしそれを私に気付かせてくれる人には、まだ出会えずにいた。


 サークルの勧誘もしつこいくらいで、文学部の門の前にずらりと並んだ先輩たちは、新入生かそうでないかまるで頓着せずに、通る者すべてにちらしを握らせていた。私はちらしを見てもどのサークルに入ったらいいのかわからず困っていた。というより、新しい仲間を作ることをまだ怖がっていたのかもしれない。文学系のサークルに入る勇気もなく、遊び系のふざけたサークルにはなおさら食指が動かなかった。

 気紛れに「児童文学研究会」の部室に顔を出してみたりもした。教室に丸く椅子が並べられていて十人ほどの部員が座って歓迎の態勢を取ってくれていた。部長は背の高そうなハンサムな男子学生で、あとは皆女子学生。ああ、この男子をめぐって恋のさや当てがありそうだと早くも不穏な気持ちに襲われる。

 部長に「好きな児童文学作家は?」と聞かれて、あわてて「宮沢賢治です」などと答えてみたが、私はそもそも児童文学など好きではなかった。坪田譲二とか、新美南吉とか? アンデルセンとか? 読みはするが特に研究したい素材ではない。そういうわけでそのサークルにはとうとう入らなかった。

 坂口美子は「山歩会」という軽いハイキング系のサークルに入って、休日には秩父の方の山歩きに出かけたりしていた。そのころ人気のあった太川陽介というアイドル歌手に似た人がメンバーにいるのだと言って、翌週の授業で会った私に、嬉々として報告してくるのだった。


 一学期も半ばを過ぎた頃のこと、坂口美子と私に近づいて来る男子のグループが二つあった。ひとつは、寺井雄二とそのテニス仲間たち。彼らは明るく健康的だった。授業がはけるとすぐにテニスコートに行って日が落ちるまでテニス三昧の時を過ごしているらしく、何の悩みも屈託もなさそうだった。もう一つは文学を志す四人の青年たちのグループ。片山孝二、佐伯伸也、中川誠、二階堂優がそのメンバーだった。

 片山孝二はやせていて長身だった。面長の顔に思慮深そうな落ち着いたまなざしを持ち、いかにも文学青年らしい静謐な佇まいが印象的だった。主に小説を書いているらしかった。佐伯伸也も大柄な方で、髪が天然パーマのように沸き立っていた。文学をやる人というよりはスポーツマンタイプに見えたが、その実、非常に繊細な詩を書くのだった。中川誠は、いつも廊下で私が来るのを待ち構えている人。不器用そうに見えて、やはり小説や詩を書いていた。二階堂優は四人の中では一番エキセントリックな感じで、整った二枚目なのだが、あまり笑った顔を見たことがない。完璧主義者らしく、友人たちとも度々文学上の反目を繰り返していたようだ。

 彼らは坂口美子の誕生日に、何かのプレゼントを贈ったりしていた。文学部のラウンジで、青年たちは彼女を取り囲み、何か楽しそうに談笑していた。私はそれを邪魔しない程度に少し離れて見ていた。二階堂優があまりものを食べないことを皆で心配しあい、佐伯伸也の髪型が爆発していると言っては笑い、中川誠がおどけた作り話をしているのに合いの手を入れたり。片山孝二はおとなびた風貌で微笑みながら耳を傾けていた。

 坂口美子を真ん中に、彼らはにぎやかな和を成していた。私はいつでも彼女の影にいた。男子と自然なつきあいが出来る彼女が羨ましくも妬ましくもあった。あの時は、だれも私のことなど気にもかけていないと信じていた。ただ単に私が固く心を開かなかっただけなのに。

 この四人の文学青年たちは大学三年生ぐらいまでに文芸誌を3号まで作った。文学で成功するしないは別として、彼らは早稲田生として前途が洋々と開かれているはずだった。しかし、このうちの一人は卒業して一年もたたないうち自死という選択をしてしまうのである。


 六月の終わりごろから期末試験が始まった。一般教養として取っている哲学、心理学、倫理学、歴史学、生物学は、試験が無かったり、夏休みにレポートを書いて提出していればそれで済んだ。国語も「伊勢物語」について原稿用紙に十枚程度レポートを書く課題が夏休みに出ていて、それで試験は無しで済んだ。

 問題は語学で、英語、ドイツ語共になかなかシビアな試験が行われた。美人教授のクラスの英語の試験は出題範囲の訳を丸暗記すればなんとかなったのだが、超難解な英語論文をテキストとした授業の試験は、きちんと授業に出ていないと正確な訳が分からないので、優秀なクラスメートの訳のコピーを手に入れるべくノートの争奪戦になっていた。

 一年生の語学のドイツ語は、主に文法の試験だったので、まだまだ単語を覚えるのに精一杯だった私にまともに太刀打ちできるものではなかった。それは坂口美子とて同じで、私たちはいつも真面目に授業に挑んでいた安堂加耶子を間にはさみ、ちょっとカンニングをさせてもらってやっとドイツ語試験をしのいだのだっだ。

 高校の期末試験とも確かに違う。必ずしも優秀な成績を取らなくていい。落第しない程度であれば。学生たちの間にはそんな空気さえ漂っていて、どこか気が抜けていた。それほどまでに大学受験とは大きなものだったのであり、今後あれを超す試験は、超難関の資格試験を受けるのでもない限りお目にかかれまいとさえ思う。


 夏はいつのまにか来ていた。もうすぐ夏休みという意識が、東京での孤独な下宿生活を耐えさせる一つのよすがであったとしたら、私はもう既に東京に負けているということになる。白状しよう。実際負けていたのだ。

 朝、下宿の北向きの窓を開け放つと、ニメートルと離れていない向かいの古びた木造二階家の窓辺で、若妻が洗濯物を干し始める。洗濯物で相手の視線が遮蔽されるまで、私は気づまりな思いで机代わりにしている炬燵の前にじっと座っている。北向きの部屋だから窓の方を向いていなければ暗くて本も読めないのだ。

 私は天気が良い限り窓を開け放していた。四角い箱の中では、わずかな日光や風でさえ貴重なものとなる。布団も干せない日陰暮らしが、どれだけ心身に悪影響を及ぼすものか自らの身をもって研究するのもいいだろう。

 幼い赤ん坊が泣いている声がして、若妻は後ろを振り向きながら声だけであやしている。庭では姑が、何か怒鳴っている。この姑はいつ見ても不機嫌そうに顔をしかめていた。どんなに夫がいい人だったとしても、日中ずっとこの姑と過ごさなくてはならないのは若妻にとって結構な試練だったろう。

 若妻は能面のように表情の無い顔でもくもくと洗濯物を干している。夫が勤めに行ってしまった今、もうすでに、庭でがなりたてる姑との闘いは始まっている。きっと赤ん坊だけが彼女の救いだろう。私は心ひそかに彼女に同情している。しかしそれだからといって、すぐ前にいる彼女に「おはようございます」とも言えず、教科書を読んでいるふりをしている。彼女もまるでこちらを無視している。どうやらそれが、前にこの下宿の部屋にいた人と若妻との常態だったらしい。気まずいけれどそういう習慣であったなら、敢えて壊さなくてもいいだろう。

 私は窓を開けっぱなしにして、これみよがしに教科書に目を落としている。若妻はじきに洗濯物を干し終えて、部屋に引っ込んでしまう。赤ん坊はいつのまにか泣き止んでいる。

健康な赤ちゃんを抱き、ひとまず人生の選択が一段落した若妻を、私は羨ましく思っていたし、若妻もまた人間関係のしがらみの無い自由な学生である私を羨んでいただろう。私たちは一言も言葉を交わさなかった。しかし空気のようにお互いの気持ちを呼吸していたかもしれない。

 感情が渦巻いて動いている。太陽は今日も暑く照りつけようとしている。それなのに私はつまらない英語のテキストに取り組まなくてはいけない。それは直接には私の将来に必要なものではない。おそらく私は教師にはならないであろうから。

 下宿のおばさんは毎朝同じラジオ番組を聞きながら掃除機をかけている。今はやりのシンセサイザーミュージック。私も浪人時代、ジャン・ミッシェル・ジャールの「OXYGENE」が好きだった。

 娘さんが飼い猫を叱りつける。

「にゃんにゃん、駄目じゃないの。こんなところにねずみの死骸なんて置かないでよ。気持ち悪いじゃない。食べないで遊ぶだけなんだから」

 だんなさんの、「行ってきます」という声。「いってらっしゃい」というおばさんの声。

 遅い授業の日は、私の朝は時間が動かない。まわりだけが勝手に動いていく。

 もう近所は歩き尽くした。本を読むと神経が疲れた。がむしゃらに受験勉強をしていた時とはどこか違っていた。がむしゃらになれるものを見失っていたということか。


 一学期の期末試験をなんとかやり過ごすと、あちこちから旅行の誘いがかかってきた。

「赤城山の麓にある保養所にみんなで来てみない? 俺、予約とっとくから」

寺井雄二は慣れた様子で皆に声をかけていた。

「小島さんもぜひおいでよ。みんなでわいわいやろうよ。キャンプファイヤーなんかもやってさ」

 けれど私はまだそこまで皆と打ち解けられてもいなかったし、男子も参加している旅行で何泊もする勇気もなかった。あとで聞いたら女子も含めて十数名が参加していたらしい。もし私が参加していたとしたら、はめをはずすこともできず、片隅で当たり障りなくニコニコしていただけだったろう。行かなくて正解だったと思う。しかし行ってみて、そこに新しい友情が広がったかもしれないと思うと、そんな運命を受け取れなかった自分を残念にも思うのである。

 そして、試験が済んだ者から順に夏休みに入っていった。



大学一年 夏休み


 教科書など見るはずもないのに、鞄にぎっしり詰め込んで東北線に乗り込んだ。東北線と言うからには東北まで行けるのだろうが、東北大学受験で行った仙台より北には行ったことがない。このままずっと乗っていればもっと遠くに行けるというのに、私の意識は宇都宮止まりだ。

 大学の夏休みは、七月の半ばから九月の半ばまでほぼ二か月ある。私にはもはや何も目標が無かった。去年の夏はひたすら勉強に打ち込んでいた。苦しいながらもどんなに充実していたことだろう。受験勉強から解き放たれた今、私は茫然としてこの夏休みをどうすごしたらいいのか考えあぐねている。東京にはいたくなかった。しかし宇都宮に帰ってきたところで、たいした喜びも無かった。

 佐野で高校教諭をしていた兄も夏休みに家に帰ってきた。兄は今の仕事に何か釈然としないものを感じていたらしく、弁理士の資格を取るための勉強を始めていた。

 勉強に意識を集中している時間はなんだかんだ言っても幸福なものだ。将来きっと役に立つという希望をもつことができる。私もまた次なる目標を探していた。詩や小説などという茫洋とした目標を追うことに少し疲れてしまっていたのかもしれない。


 この夏休みをどう過ごしたか。もう私の記憶には無い。おそらく何冊かの本を読み、漫然とテレビを見たり、いくつかのプラモデルを作ったり、自転車であちこちぶらついたりしていたのだろう。待ち焦がれた自由な時間なのに、全く有効に使えないままただ過ぎ去って行く。

 詩や小説を書くことにきちんと挑んでみたかったが、受験勉強でもないのに部屋に閉じこもっているのはなぜか気が引けた。ほら、まだ親の目をうかがっている。家にいても自由ではないような気がしていた。

 鳥取に帰省していた坂口美子とも何通か手紙をやりとりした。彼女も暇をもてあましているようだった。大学一年の夏、私はまだ何も始められずにいた。


二学期


 九月の半ば、夏休みが終わり上京することになった。二学期が始まる。次の冬の休暇までの三か月をどうすごそうか。行政書士の資格をとる勉強を始めてみようか。そんなことしか思い浮かばなかった。

 相変わらず殺風景な部屋の中。ほとんど諦めてはいたものの、私は文学に対する異常な執着からまだ逃れられずに原稿用紙に向かう日々を続けていた。立原道造の詩を愛しながら、私の詩はちっとも抒情的ではなく、高村光太郎の明快な力強さに憧れながら、私の詩は表現の硬さをどうしても打ち壊せなかった。苦しくなるばかりの詩作と毎日対峙していては身体を壊す方が当たり前だ。そうして私は自律神経のバランスを崩し急速に体調を悪くしていった。心と体のホメオスタシスが全く狂ってしまったと感じた。

 ぎゅうぎゅう詰めの教室で何度か貧血を起こしてから、授業に出るのも怖くなった。それでもこらえながら授業に出ることはやめなかった。休んでたまるものかと歯をくいしばり、朝の満員電車にも窒息寸前になりながら耐えた。毎日がギリギリだった。学生生活を楽しむなどという次元からあり得ないほど遠ざかってしまっていた。

 本を読んでも全く頭に入ってこない。集中力も欠いてしまっていた。悩んだら周りの人に相談せよとよく言うけれど、ここまで落ち込んでしまうとかえって知られたくないものだ。坂口美子はおそらく私がどんな状況に陥っていたか全く知ってはいなかっただろう。私は表向きいつも通りに振る舞っていた。

 大学からやっとの思いで上石神井まで帰り、ひどい頭痛と胃の痛みにひとり下宿の部屋に横になっていながら、涙ばかり溢れてきた。夕暮れと夜が怖くなったのは恐らくこの頃からだ。


 大学の講義の無かったある日、上石神井駅からいつもとは逆に向かう電車に乗った。ラッシュをはずした電車は寒々しく、黒っぽい板張りの床が油くさい匂いをたてていた。目的もなく、理由もなく生きていくことはできない。これまで生きているという事を特に意識し自覚することなどなかったけれど、今、私は細胞単位の生の震えを感じていた。

 電車は終点に辿り着いて止まった。駅の目の前に西武園遊園地があった。メリーゴーラウンドがきらびやかな装飾を施されてたたずんでいた。こんな大きな遊園地に今まで一度も入ったことが無かったし、もうメリーゴーラウンドに乗って楽しい年頃ではない。ここにも私が知ることを失してしまった世界があった。

 私は多摩湖の方までふらふらと歩いていった。平日の公園は人気も無く、傾き始めた薄い日差しは秋の寂しさを感じさせた。目の前に開けた湖は、濁った空の色を映して陰鬱な灰色をしていた。湖のまわりの林は青ざめた靄に覆われぼんやりとかすんでいる。

 どうして私はこんなところにいるのか。どうして湖を見に来たのか。答えられないのが苦しかった。身体が冷たかった。不規則な鼓動が私を脅かしていた。誰かそばにいて私を支えてくれなければ倒れてしまいそうだった。湖の静けさに包まれて、死の意味を始めて真剣に考えていた。「死よりもくらい絶望」、あの教室の机の落書きの意味を。

 物理的な息苦しさも秋からずっと続いていた。呼吸がうまくできない。意識しないと空気が肺に入ってこない気がした。いつもあっぷあっぷしているような状態で毎日がその苦しさで支配されていた。

 ある日、耐えきれなくなって本部校舎近くにある大学の診療室に駆け込んだ。

 初老の医師は、私の症状を聞くと、

「痩せているから気胸を起こしているのかもしれないですね。レントゲンを撮ってみましょう」

と言った。

 息苦しさの原因がやっと分かると思って、少しほっとしながらレントゲンを撮ったが、結果、別に気胸では無かった。心臓が小さめだから、よく運動するように、とだけ言われた。

 この息苦しさは、やはり精神的なものだった。体の緊張がずっと取れずにいたことが原因だったのだろう。病気というほどのものでは無いことが分かって、少し気が軽くなり徐々に息苦しさの症状は取れていった。しかし実に一か月ぐらい苦しくて苦しくて悩んでいたのだ。心の体に及ぼす影響がいかに大きいか思い知らされた。かといってどうやって安らぎを得たらいいのかも皆目見当がつかなかった。

 思えばこの頃から私を追う男子たちからのいくつかの視線はあったのだ。しかしちゃんと声をかけてくれる人はまだおらず、私は全く孤独だと感じていた。同級生たちとの付き合いはありきたりの挨拶と雑談ぐらいで終わってしまい、その先を深く語り合える人はいなかった。私が深い付き合いを避けていたということもある。

 心身の不調がもたらす苦しみから抜け出すのには、少なからぬ時間が必要だった。悩みの渦中にいるうちは、その時間が永久に続くものと思ってしまう。友人たちの前では、普通に笑い平気な振りをしていながらも、心の傷口からは絶えず血が流れ出ているのだった。


 東京に来て初めての冬を迎えようとしていた。一日の最終講義を終えるともう外は真っ暗だった。夕食を学食で食べていくことも多かった。たいがいは早稲田ランチを頼み、コロッケと千切りキャベツなどをおかずに、男子学生向きなのだろう、やや盛の多い丼のご飯をぼそぼそと食べた。味噌汁はこてこてに煮込まれたキャベツなどが具になっていた。

 こんな時間に女子学生がひとりで学食にいるのは稀だ。すぐそばで体育会系の男子が同じメニューを食べていると逃げ出したい気持ちになった。三百円出せば、スペシャルランチというちょっと格上のものがあったが、内容は早稲田ランチとそう大きく変わりはしなかった。


 バスが混んでいる時は歩いて帰ったが、駅までの距離がまだ私にはつらかった。穴八幡神社へと上っていく階段は既に闇の中に沈み、鬱蒼とした木々の中に何羽ものカラスの気配を潜ませていた。大通りに面した洋書専門店や喫茶店の前を過ぎ、古本屋の立ち並ぶあたりに辿り着くと、その一帯はある種の賑わいを見せ、学生たちも駅へ急ぐばかりではなく立ち止まって本をめくったりしていた。

 私も古本屋にはよく立ち寄った。薄暗い店の奥にぎっしりと押し込まれている茶色に変色した古本たち。おそらく過去の早稲田の学生が使ったのであろう分厚い専門書を手に取り、思索的な細かい書き込みがしてあるページを探すのが好きだった。

 私は早稲田まで来て一体何を学んだのだろう。文学的にもちっとも進歩がなく、大学の講義にもたいして興味を引かれなかった。文学に対する憧れが現実に直面して少しずつ萎れていくのを押し留めることもできず、ただ時に流されていくだけだった。過去の学生たちもこんな苦しみを抱えて、古書店に立ち寄っただろうか。きっと私一人だけではない。過去の学生たちの溜息や呻きが古書の中からにじみ出てくるようだった。


 高田馬場の駅に近づくと、激しいネオンの点滅するビルが林立しはじめる。この派手やかさ、活気、雑踏。夜の暗さや孤独に重苦しい圧迫感を感じていながら、いかにも東京らしい明るい賑わいの中にも身の置き所が無かった。

 駅近くになると学生たちばかりではなくサラリーマンやOLたちも入り混じり、割烹料理店の食品サンプルを物色している者たちや、パブの中になだれ込んで行く者たちで、混雑の様相を呈してくる。私は身を捩りながら人々の間を縫って歩いた。

 高田馬場駅前で私が入っていけるところといえば、芳林堂書店かBIG・BOXの中の喫茶店、三省堂書店ぐらいのものだった。芳林堂までエスカレーターで上っていき、新刊の詩集などをめくってみては、私も何か書かなければという思いと、もう何も書けないかもしれないという諦めで、ぐるぐると目眩を起こした。


 下宿に帰るとすぐにお風呂屋さんに出かけて行った。下宿から南へ三百メートルほど行くと小さな踏切があり、その先の道を右に曲がるとすぐにお風呂屋さんがあった。踏切際には赤ちょうちんの一杯飲み屋があり、そこの小太りの臆病そうな目をしたおやじさんが、暖簾を出そうとしているのによく出くわした。

 私は石鹸と洗面器の入った手提げバックを抱えて暗い街灯の道を急いでいる。おやじさんは暖簾を出し終えた後も、煙草をふかしながら赤ちょうちんの前に立っていた。おやじさんも寂しそうだった。

 私はいつの間にかこのおやじさんに、

「こんばんは」

と言う習慣がついた。おやじさんは最初のうちは慌てたようにお辞儀をするだけだったが、次第に私の姿を見憶えて、待ち構えたように挨拶をしてくれるようになった。

 お風呂屋さんの中は明るく天井も高く開放的で、私はちょっと熱めのお湯で満たされた浴槽に出たり入ったりしながら、小一時間もお風呂屋さんにいることもあった。外が暗くなってからたびたび女性が一人で散歩に出かけるのも危険だったから、早く暮れてしまった冬の夕暮れは、ここで時間をつぶすしかなかった。

 お風呂屋さんには三歳ぐらいの男の子がいて、番台のそばで愛嬌を振りまいていた。この子とおしゃべりするのは楽しかった。

 お風呂屋さんを出ると、すぐ隣にあるコインランドリーに入れてあった洗濯物を取り出し、乾燥機の中に投げ込む。乾燥機が作動している間、置いてある漫画の本などをめくって、下宿に帰るまでの時間を引き延ばしていた。

 洗濯物の入った袋をぶら下げ、冷たい夜気の中を歩いていると、濡れた髪が触れる首筋が冷え冷えとしてくる。小さな踏切を渡り、赤ちょうちんの前を過ぎ、暗い民家の向こうに街灯の明かりが見えるとほっとした。しかし、私を怯えさせる夜はまだ始まったばかりだった。


 解決を求めてさまざまな人生論を読んだりしたが、頭の中で考えるだけでは回答は出せないことはわかっていた。

 私はしばしばロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」を思い出した。

「クリストフは垂直に沈んでいった。だが彼は両腕を体にくっつけたまま、戦いもせずに溺れてゆくような人間ではなかった。どんなに死にたがってはいても、やはり生きるためにできるだけのことをしていた。彼はモーツァルトが言ったような、“万策尽きるまでは行動することを欲する人間”だった。

 そして私も、どんな状態であっても生きることを欲していた。


 その年の冬、実家で一匹の子犬を買った。血統書つきのビーグル犬だった。体中真っ黒で顔は茶色、おなかは白の、まだ生後二週間ほどにしかならない小さな犬だった。新しい環境に慣れていない子犬は、毎晩のように母親を恋しがって甲高い鳴き声を上げた。

 子犬はじゃれついているつもりなのか、いたずらな目をして、私の腕に爪を立てたり軽く噛み付いてきたりしてきた。コラコラと叱りながらも、心の痛みに比べて体の痛みはいくらでも耐えられそうな気がしていた。感情はしおたれたまま、元気な子犬の動きを目だけで追っていた。こんなにも無邪気な子犬の仕草を見てさえも、心からは楽しめなくなっていることに愕然としながら。

 それが、大学一年の終わり頃の私の姿だ。




















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