top of page
検索
  • kaburagi2

第7章  大学2年 夏休み・療養

更新日:2023年10月24日


 やっと夏休みに入った。私は体と心に痛みを残したまま帰省した。夏休みは7月半ばから9月半ばまで2か月近くある。とにかくこの夏休みの間に病気を治さなくては。薬をきちんと飲み、一日おきに注射に通った。

 大学からの宿題としてレポートの課題がいくつか出されていた。ルネサンス期の詩を何か選んでその感想、英文学の本を何か1冊読んでその感想など。イノック・アーデンの三角関係について9枚のレポートを夏休みに入って早々に仕上げたが、後はすぐにはやる気が起きなかった。カンタベリー物語を読んでレポートを書く宿題が特にやっかいそうだった。あとドイツ語もレポート課題が出ていた。

 レポートを書くための参考書類を探して図書館や書店めぐりをするほかは、出来るだけ家で横になっていた。病院は自転車で三十分ぐらいのところにあってそんなに遠くはなかったが、兄が時々車で病院に連れていってくれたので助かった。一日置きの注射はひどく厄介で面倒くさかったが、これが病気を治す手立てであるなら、サボるわけにはいかなかった。こんなに注射をしていていいんだろうかと、腕に残る夥しい注射痕を見て思っていた。

 私はただ静かな平穏な生活を取り戻したかった。波立ちやすい心を馴らし、力を失った体に、わずかでも生きるエネルギーを注ぎ込みたかった。しかしそれはなんと難しかったことだろう、心の問題を体の回復へとすり替えておくこと。あとは無為。


 高校の夏休みで暇をもてあましていた教員の兄は、時々遠出のドライブに私を連れだしてくれた。恋人とか結婚相手とかそろそろ真剣に考えてもいい年頃になっていた兄は、やはり時折イライラしているようだった。

 日光の杉並木街道を猛烈なスピードでとばし、目的も無く日光まで行って知らないホテルの庭先を歩いてはとんぼ返りに帰ってきた。不安定な天候になりやすい夕方、よく突然の夕立に見舞われた。杉並木の木々から斜めに刺すように降る雨。飛沫に霞んだ視界。そして雨に入り交じって急に差し込んできた陽射しが煙のような明るい筋を作る。杉並木の緑が洗われて、緑それ自体が発光しているかのように。

 兄はその頃パチンコにはまっていて、私もよくパチンコ店に連れていかれた。煙草臭いしうるさいしで、パチンコはどうしても好きにはなれなかった。五百円ぐらいすって、全然面白くないじゃんと思いながら兄が終わるのを待っていた。

 映画も見に行った。ちょうどやっていたのは「スーパーマン」で、主役のクリストファー・リーヴはなんとなくクラスメートの畑中正則に似ていると思った。体ががっしりしていて、目がぱっちりしているところとか。髪型なんかも。


 飼い犬のビーグル犬ロンは、成犬に近い大きさに成長していた。おしっこもちゃんと足を上げてすることができるようになった。まだ子犬の陽気さを失ってはおらず、エネルギーを持て余し、散歩に連れ出すと嬉しがって猛然と綱を引っ張ってどこへでも行きたがった。

 自宅の北にある野球場の東側は一面の田んぼだった。私はよくこの田んぼのあぜ道を犬と散歩した。夏の稲は清々しく細やかなうるおいのある緑で、一面が風に揺れ動いているのを見ていると、私は自己の感覚を無くし、風であるような、揺れる稲であるような錯覚に陥った。


 気が強く独善的なところのあった母は、庭の植木のことなどでよく父とケンカをして大声を張り上げていた。それが夕食の食卓につくといつも始まるので、私は食欲もなくしうんざりして、争いに巻き込まれないように早々に食卓を離れなくてはいけなかった。また胃がおかしくなりそうだった。

 父は五十七歳の時に足の骨折に因する病気で国鉄を早期退職し、療養後、栃木銀行の事務の仕事に就いていた。夜番や早番があって仕事時間が不規則だったころに比べて、定時に帰れるので家にいられる時間も多くなった。母は、父が国鉄勤めの頃、父が家にいない状態にずっと不安を覚えていたのか心の安定を欠いていた日々もあったが、今は落ち着いているようだった。飼い犬の散歩を習慣にすることで体調もよくなっているようだった。

 母が元気になったのはいい。ただ言いたいことをすぐにポンポンと口に出してしまう母の性格には、私はいつもどんよりした苦しいものを感じていた。

 ある日、兄の結婚話をもってきた人が、ついでに私に千葉大医学部出身の男の人の話を持ってきたことがあった。母はその人が帰ったあと、私に向かって不機嫌そうに、

「体が弱いんだし、長男の嫁などつとまるはずがない」

と言い、くどくどとなじるように私の病気のことを非難し溜め息をついた。

 私はそれを聞いて呼吸もできないくらい腹がたったし、ひどく悲しかった。そして、やはり私には普通の結婚などできそうにないのかと暗い思いに沈んだ。少なくとも母は私のことをそう思っている。

 母は私が帰省中、一生懸命ごちそうを作ってくれたり、あれこれ世話をやいてくれたりしていい母なのだ。いい母であるという認識を保とうとしているのだが、時々母の無造作な言葉にひどく傷ついてしまう自分もいて、そんな自分の心をどうしたらいいのか分からず、黒いもやもやが湧きあがってしまう。そんな時は、まだ日盛りなのに飼い犬のご機嫌もかまわずに犬を連れて散歩に飛び出していったりした。


 私はまた詩を書くようになっていた。殻を打ち破れずにはいたが、書くことはやはり私の希求だった。せめて一冊の詩集が出版できるまでは書き続けようと思った。

 兄と詩の話をすることもときたまあった。

「難しい漢字を使わなきゃ詩が書けないというのはどこかごまかしがある。やさしい言葉を使うと月並になるっていうのはやっぱり未熟だからだ」

兄の言葉は蓋し本質を衝いていて、私はぐうの音も出ず、

「そうだね‥‥」

とうなだれるしかなかった。。


 七月の初め、文学部のラウンジで詩の原稿の手直しをしていた時、同じクラスの西城研二

が隣に座ってきたことがあった。芸能人みたいな名前だから顔と名前はよく知っていた。手足がひょろりと長くて少し髪の毛が天然パーマ気味で、いつも猫背で歩いている。ひょうきんそうな笑顔を持った青年だ。

「宗教学の試験、全然できなかったよ。事前に四問出題されてたじゃん。俺、そのうちの一つだけを選んで答えるんだとばっかり思っててさ。一つのテーマだけしか勉強してなくて、失敗した」

「そうかあ、でも一つだけでもしっかり解答できたんなら、なんとかなるかも」

「そうならいいけどな。ところで何やってるの」

「ちょっと友だちの詩の原稿を読んでるの」

私は咄嗟に嘘をついてしまった。

「どれどれ読ませて」

西城研二は真面目な顔をして読んでいたが、

「うーん、いい詩もあるけど、俺はあんまりこういう詩は好きじゃないな。ちょっと観念的すぎるっていうか‥‥。佐伯の詩、読んだことある? あいつの詩はうまいよ」

「そうなの。佐伯くんの詩、読んでみたいな」

「うん。あいつは、見かけによらず繊細な詩を書くんだ。俺、あいつの詩、すごいと思う。今度佐伯に会ったら、小島さんが読みたいって言ってたって伝えるよ」

 佐伯伸也、中川誠、二階堂優、片山孝二。この四人は詩のサークルを作っていた。まだ詩誌は一冊も作ってはおらず、仲間うちだけで詩の合評会をやっているらしかった。詩について真面目に語れる人はまわりにいくらでもいたのに、私は臆病で、自分の詩に自信が無くて、クラスの誰にも見せてはいなかった。思い切って西城研二に見せたら、

「佐伯の方が才能あるよ」

と言われてしまった。

 しかし上手だと言われなくてもいい。書きたい言葉があり、詩の構成に意識を集中できるうちは、私は詩に命を託すことをやめない。

 私が覚えたての萩原朔太郎の詩「こころ」を暗唱してみせたら、西城は感心したように聞いてくれて、「はぁー」とため息をついて少し黙り込んだ。

「いい詩だな。俺も萩原朔太郎は好きだ。あと伊藤静雄とかヘッセの詩も好きなんだ」

 そのあと、私が下宿に帰ると言ったら俺も二階堂のところに行くと言うので、一緒に西武新宿線に乗り、井荻で別れた。私は電車の窓から彼に手を振った。詩のことを語れる友だちをひとりみつけたと思ってうれしかった。夏休みに入る直前のことだ。


 七月も半ばを過ぎた頃、かかって来た電話を取った兄は、私に、

「早稲田の吉川さんだって」

と取り継いだ。

 背骨の中の神経が一斉にビクっと震え上がったのを感じた。一体何を話すことがあるというのだろう。さんざん傷つけ合ってきたではないか。もう忘れさせて欲しいのに。

「今朝、合宿から帰ったんだ。元気?」

 電話の中の彼の声はいつも沈んでいる。

「はい。まあまあです」

「君も来ればよかったのに。どう? 生きる目的が仏教の他にみつかった?」

「そんなにすぐにはみつかりません」

「死の解決をしないと、安らかには死ねないんだよ」

「‥‥幸田露伴は平穏に淡々と死を受け入れていたと、誰かが言っていましたが」

「しかし、心の中では安らかであるはずはない。今まで、古人の中で一体どれだけの人が安らかに死ねたか。ほとんどいないと言っていい」

「仏教を信じていなくても、安らかに死ねた人はきっといます」

「いや、いない」

「いると思います」

「いない!」

「います!」

 私たちはもうこんな風にしか話せなくなっていた。安らかに死ぬ方法を電話なんかで論じている私たちが、途中からひどく滑稽に思えてきた。

「何度も言うようだけど、生きる目的を仏教以外に求めても、君はきっとそれに裏切られることになるんだ」

「裏切られてもいいんです。その時、生きるエネルギーを与えてくれるのなら、それが生きる目的です」

「次の瞬間、君を裏切る目的など、本当の目的ではない。一体何が生きるエネルギーを与えてくれるというんだ」

「私は詩を書いています。今は詩が生きるエネルギーです」

「詩がなんだ! 死ぬ時、詩が君を救ってくれるというのか!」

「‥‥」

そんな言葉を彼の口から聞きたくはなかった。胸がちぎれそうに痛んだ。

「とにかく、もう部会には出ませんから。聴聞にも行きません」

私の声は震えていた。怒りで、あるいは絶望で。

「では僕の方から行く」

「えっ? 行くって、ここに‥‥?」

「あとで手紙書くから」

彼はそう言うとすぐに電話を切った。


 こっそり様子を伺っていた兄が、

「生きるの、死ぬのって、何かすごい電話だったね」

と、からかうように言った。

「宗教のことばっかりしか言わないから疲れちゃうよ。しつこくてさ」

私は平気な振りをして言ったが、胸はまだきりきりと痛かった。

「あんまり深入りしない方がいいかもしれないね。サークルの人が皆、今みたいな調子なら、ちょっと思想的に重いかもしれないからね」

「もうほとんどやめてるんだけど、聴聞に来いって、うるさいの」

 全く連絡が無くても、心の隅で苦しんだかもしれない。どこかで期待していた。しかし、やはりもう修復不能だ。

彼が、

「仏教などどうでもいい。君に会いたい」

そう一言でも言ってくれていたなら‥‥。しかし彼は、死んだってそんなことを言いはしないだろう。

 それに、来るって‥‥。また五月に彼が来た時のようなことが繰り返されてしまうのだろうか。急にいきなり、今宇都宮に来ている、と電話が入ったらどうしよう。会いたくないから帰ってくださいとも言いにくい、でも会ったらまた苦しめられてしまう。私の心は一気に迷宮に陥ってしまった。


 数日後、本当に吉川清彦から手紙が来た。

『前略、元気ですか? 

僕らは夏の合宿、そして聴聞合宿も終わって、今は富山にいます。富山には聴聞のために来たんだけど、小島さんは東京の聴聞にも来たことがないでしょう? あんまり「来い、来い」と言われると来たくなくなるとも思うんだけど、それじゃ駄目なんだよね。

歴代の仏教の先生は、仏教は聴聞に極まるとおっしゃっている。お釈迦さまの御教えを仏教と言うんだから、聴聞しなければわからないんだよ。それに仏教以外に人生の目的にすべきものがあるとしたら、我々の先哲が見つけられなかったというのはおかしいよ。

現に、人生の目的を見つけたぞ、と喜びの声をあげた者が一人でもいるだろうか。みんな苦しみの中で死んでいっている。なぜなら生死一如というけれど、死を考えずに生きている者は、必ず死を苦しむことになるんだ。死を考えてはじめて生が分かるんだ。ここでいくら言っても駄目だと思うけど‥‥

七月二十二日に小田急線の代々木八幡というところで御法座があるんだけど来てみない?

知らないものは人間誰しも怖いんだ。とにかく一度来てごらんよ。

もしかすると二十二日に、僕、宇都宮に行くかもしれないから、その時は電話するよ。

それではまた。                            吉川清彦』


 語り口は優しいけれど、内容は聴聞に来いということでしかない。私たちはいつまでこんなことを続けていくのだろう。人生の目的は仏教だけではない、私はそう繰り返し言い、彼は、仏教しかないと言い続ける。私はかえって意固地になる。仏教に太刀打ちできる生きがいを探すのは容易ではないのかもしれない。しかしきっと探してやる。


 七月二十二日、日曜日。本当に彼は宇都宮に来てしまうのか。落ち着かない気持ちで朝から電話を待った。

 十時ごろ電話が鳴った。

「もしもし、吉川です。今、東京で、今日はそっちに行けないんだけど、聴聞に来る決心はついた?」

 来ないのか。少しほっとした。でもやはり聴聞のことで言い募ってくるのだろう。また言い合いになるのは嫌だなと思った。

「何度も言いましたけど、もう仏教のお話は聞きたくないんです。死を考えろとおっしゃいますが、死は、今一番考えたくないことなんです」

「死を考えずには生きていけないんだよ。楽しみばかりを追って生きてゆく生き方なんてごまかしにすぎないんだ」

「ごまかしであったとしても、死の問題には関わっていたくないんです」

「君は自分の人生に対して、無責任な生き方をしているんだよ」

 どうして分かってくれないんだろう。こんなに何度も言っているのに。本当に死にそうになって、そこから必死に立ち直ろうとしているのに。

「どうして無責任だなんて言えるんですか? 私は私なりに人生のことを大切に思っています」

「それなら聴聞に来て、お話を聞くべきだ。きっと君の迷いは晴れるよ」

「一度聴聞に行ってしまうと、次の聴聞にも誘われるでしょう。今ここで断ち切りたいんです」

「君の考えは間違っている!」

それまで感情を押さえて話していた彼が、怒りをあらわにして叫んだ。

「仏教を信じない者には、生の平安もないんだよ。生きている限り不安から逃れられないんだよ。仏教を信じれば、いつ死んでも大満足の境地になれるのに!」

「私に必要なのは、大満足の境地ではなく、生きることそのものなんです。何も考えずにしばらくは生きてみたいんです。ここ数ヶ月、生きることと死ぬことを考え過ぎました。疲れてしまったんです」

「生死の問題は考え過ぎるなんてことは無い。君は結局、楽な方に逃げようとしているだけなんだ」

「そう思われるのなら、そうなんでしょう。逃げてるだけなのかもしれませんが、それが今の私の結論です」

吉川清彦は沈黙した。

「そうか。わかった。じゃ。」

 がちゃっと電話が切れた。ひどく冷たい電話の切り方だった。きっとこれが最後の電話になるのかもしれない。

 受話器を置いた後、急に息苦しくなって、自分の部屋の敷きっぱなしの布団の上にばったりと倒れ込んだ。せいせいしたという感覚とはおそろしくかけ離れた痛みに私は襲われていた。

 呼吸を鎮めようとしながら、

「これでいいんだ。よくやっ。た頑張ったよ」

と、自分に言い聞かせていた。自分の信念を通したんだから何も後悔することはない。後悔はしていないけれど‥‥なぜか悲しみがこみあげてきて涙があふれた。

 もう彼の事は考えまい。布団の中にもぐりこんで、治りかけた身体がまた壊れることだけを恐れていた。


 この夏休みの間に、ご近所の方が二人亡くなった。一人は隣家のご主人で、もう一人は少し離れたところに住んでいたおばあさん。

 隣家のご主人のお葬式の時にはなぜか私の家がお葬式の会場になっていて、テーブルを運び入れたり、ご近所の奥さん方が集まって台所で料理をしたりしてざわついていた。日中、何人もの人が家に出入りしていて私は自分の居場所を失くし、仕方なくオリオン通りの書店のほうに自転車で出かけたりしていた。

 イギリス文学史のレポートを書くために「カンタベリー物語」を手に入れなくてはならないのに、宇都宮の書店ではそんな特殊な本は扱っておらず、念のために行った図書館にもみつからなかった。大学に戻ってから本を探して急いでざっと読んで、それからレポートを書くことになりそうだ。書店でレポートとは関係ない本を何冊か買って、ゆっくり家に戻った。

 夜、お坊さんが帰った後も、近所の人たちは家に残って飲み食いをしていてうるさかった。

 隣家のご主人は、堅実そうな人で、黒縁眼鏡をかけた少し小太りの人だった。あまりに急な死に方だったので、母やご近所の人は腹上死だったんじゃないかとこそこそ言い合って意味ありげに笑っていた。若い奥さんもらったりするから、と。

 一人取り残された後妻さんの気持ちを思ったら、そんな下世話なことで笑うなんてもっての外だと、私は話を漏れ聞きながら憤っていた。

 後で聞いた話だが、ご主人が亡くなった後、ご主人のお子さんと遺産の問題が発生してもめたそうだ。ご主人の遺書もなかったらしく、たいして一緒に住んでいなかった後妻さんに財産が行くのが子どもたちは許せなかったのだろう。

 それが収まりしばらくはおばさんは一人で隣家に住んでいたが、ある日見知らぬ男に家に侵入されるという事件が起きて、傷心のままお隣の家を越していくことになるのだ。

 母の寝室は垣根を隔てて事件現場の部屋のすぐ近くにあった。おばさんが大声で助けを呼んだのに気づいてもらえなかったというようなことを、あとで母に非難するような口ぶりで言ったそうだ。母は全然聞こえなかったのだから仕方がないじゃないかと怒っていたが、何らかの異変を感じていたのに知らん振りをしてしまったのか、本当に熟睡していて気付かなかったのか、もう誰にもわからない。

 後になって事件のあった翌朝の新聞を母に見せてもらった。「六十歳の老女、襲われる」という小さい記事が載っていた。若く見えていたけれど六十歳だったんだと思った。見た目全然「老女」ではなかった。

 私は本当にお隣の後妻さんを気の毒に思ったのだった。そして、こんな閑静な住宅地で隣家ともくっついているのにそんな事件が起こるんだと思い、少し震撼とした。女である限り、何歳になってもそういう危険と隣り合わせなのだ。

 男性って一体何なんだろう。中学の時、通学路が暗い森沿いだったということもあり、何度か自転車のうしろをのろのろ運転の車に追いかけられたりもした。信号待ちをしている私の傍らに車を止めて、にやにやしながら道を聞いてくるかと思ったら、ふと見たら下半身が裸だったり。痴漢がよく出没する危険な通学路だった。大人の男性は何を考えているのか分からず、少なからず怖いのだ。

 今、ほとんど男性ばかりの大学にいて、うまく適正な距離感がとれていない自分を感じていた。吉川清彦のことに関しても、英文のクラスでいつも私の隣に席を取りたがる安達望に関しても。六月から話すようになった桂木隆司とはどうなるだろう。男性としての嫌な面が見えてきてしまう時があるのだろうか。


 八月の終わりに、胃内視鏡の検査をした。

 麻酔を口に含んでいる時、目が回るような感じがした。そばにあったダンボールの箱にilluminationとか英語で書いてあったが、文字がなかなか読みとれなかった。瞳孔が震えている感じ。

検査中はやはり吐きそうになって涙が出た。

 付き添って来ていた母は、検査が終わって処置室から出て来た私が目を赤くしているのを見て、

「また泣いたの? みっともない」

と言って私をなじったが、私は結果が不安で怒る力も無かった。

 治っていなかったらまた入院を言い渡されてしまう。そうしたら、また大学に行けなくなってしまう。

 医師はフィルムを覗き込みながら、

「大体治ってますね」

と、ぶっきらぼうに言った。私はふうっと力が抜けていくのを感じた。そばで一緒に結果を 聞きに来ていた母は、

「治ってますか!」

と一言言ったなり、急に涙ぐんだ。恐れていたようには悪化してはおらず、大体治っているということに、パァっと希望の光が射したような気がした。

 おそらく私が苦しんでいたのと同じくらい、母も私の病気のことでは苦しんでいたに違いない。これでやっと安心させてあげられる。安心してもらわないと困る。私のことを心配しすぎてあれこれうるさかったから。

「ここが、肉が盛り上がっているでしょう? これは怪我した時なんか跡が残るみたいにね、ちょっと変形しちゃってるんだけど、顔とか手とかっていうんじゃなくて、見えないところだからこれぐらいは我慢しなくちゃね。薬はもう少し飲んでてください。こういう病気は再発しやすいから、これからも気を付けて生活してください」

 医師は説明している間にも、忙しそうに看護師に心電図の指図をしていた。さぞわがままな患者だと思っていただろう。勝手に退院して、東京の大学にも通い始めてしまっては、治るはずがないと思っていたかもしれない。

 腕に残ったいくつもの注射痕。まだ本当に食欲が戻っているとはいえなかったが、でももう終わった。賭けに勝ったのは私だ。

 受付で待っていると、近くのドアから、あの可憐な看護師さんが顔を出した。

「あっ、直ってよかったですね。お大事にしてください」

少女は華やかに微笑んだ。

「どうも有難うございました」

私はやっと心からの笑みを返せるようになっていた。


 夏休みに入ってすぐに、桂木隆司に暑中お見舞いの葉書を出していた。それに対して思いがけず長文の手紙が返ってきた。

 彼との手紙のやり取りは、夏休みの間中私を救い続けた。桂木隆司は、思想的なもので私を苦しめることは無かった。優しさと思いやりと、普通の青年の持つ将来へのかすかな不安、詩や絵画に対する深い造詣。吉川清彦との閉塞的な関係に疲れていた私にとって、桂木隆司の手紙は、一切の汚濁を流す澄み切った清流のように思われた。



『大袈裟に言えば、この世に生を受けて初めて手紙なるものを書くわけだ。形式的な事は一切無視して心に移り行く由無事を記すことにする。

十八日に葉書着いた。美しい絵画の絵葉書を送ってくれて有難う。さて今日は二十二日、日曜日です。昨日は多摩川の花火だった。(芥川の『舞踏会』が思い出された) 

バイトもそろそろ二週間たち大分慣れたが、やはりまだシンドイ。仕事から帰ってくると何もする気が起こらず、テレビすら見ず、いわんや本など読むはずもない。一切の精神活動が等閑になってしまった味気ない毎日の生活に、一枚の葉書が無償に嬉しかった。

最近はギターもあまり弾かない。(仕事の都合で爪を切ったため) 今年中にはバッハのシャコンヌを完奏したいと思っているのだが。それにトランペットはしまいこんだままだ。ペットは河原まで行かないと練習が出来ないので、どうしても御無沙汰になる。音楽も車の中でしか聞かない。音楽といえば、本田はクラシックしか聞かないそうな。俺はクラシックはあまり聞かない。福永の小説で『風土』にはベートーベン「ピアノソナタ・月の光」、『草の花』にはショパンの「ピアノ協奏曲第一番」、『死の島』にはシベリウスが出て来るが、「月の光」以外は聞いたことがないといった具合なのだ。

 秋になると美術展が多く催されるだろう。去年はシャガール展とアイワゾフスキー展へ行った。ロシアの画家であるアイワゾフスキーの「第九の怒濤」は素晴らしかった。ラトゥ-ル展(この前、本を見せた画家)が催されることはまずありえないだろうが、ユトリロやオランダ絵画展(レンブラント、フェルメール、ロイスダールの風景画etc)くらいは催されるだろう。その時はぜひ一緒に行きたい。

最近どんな本を読んでいるのか? 俺の方はほとんど読んでいない。石川達三や山本有三、武者小路なんかを読んでいたのはもう昔のことだ。以前は太宰治や立原、黒岩のニヒリズムを気取り、カミユを夢中になって読んだものだった。ところがここ数年来すっかり感情が薄っぺらになってしまって、物に感動しなくなった。ほとんどの書物がつまらなく思える。    それでもやはり福永武彦の文章には新鮮な驚きを感じるし、五木の「青春の門」の続編を待ちわびたりするところもある。この間読んだ高橋和巳の「黄昏の橋」、水上勉の「飢餓海峡」は割とよかった。一読を勧める。(もうすでに読んだか?)

その後、創作の方は進んでおりますか?

詩についてリルケは「人は一生かかって最後におそらくわずか十行の立派な詩が書けるだろう。詩は感情ではなく経験だ」と言っている。‥‥「詩はただ、詩のための表現である」(ボードレール) やはり詩には、朔太郎のいう「詩のにおい」が伴わなければならないと思う。詩はまさに一瞬間における霊智の産物である。‥‥また詩を見せてくれるのを楽しみに待つ。

七月二十二日だというのに依然天気ははっきりしない。先週は日光の戦場が原に雪が降ったと聞いた。本格的な暑さはこれから。体にだけは十分気を付けるように。ではまた、さようなら。                           

                                    桂木隆司』


『お手紙どうもありがとう。今日届きました。もうすぐ七月も終わりですね。気紛れな戻り梅雨も去って、やっと夏らしくなってきました。私の家の庭では白いヤマユリやテッポウユリ、深紅の百日草、時季遅れのライラックなどが咲いています。桃色のバラは一日咲いたきりですぐに枯れてしまいました。この二、三日、三十度を越す暑さが続き、繊細な花々にとっては酷な季節です。私自身もこの暑さにはうんざりです。七月二十四日は芥川龍之介の忌日の河童忌でした。その年、やはり連日暑い日が続いていたそうです。暑さは確かに人の心を弱めます。

 このごろ大学生らしく難しい本を読もうと決意し、小林秀雄の本を読んでいます。受験生の時は小林秀雄の文章にひどく苦しんで、接続詞や穴埋め問題に出そうな語句にばかり気を取られていたから少しも好きにはなれなかったのですが、今改めて読んでみると、切れ味の良い的確な文章構成が見えてきて、やっぱりすごいと感嘆させられます。

『近代絵画』の途中を今読んでいるのですが、モネの章の「色とは壊れた光である」という言葉が印象深く心に残りました。『作家の顔』という本の中にたった四ページですが、富永太郎という詩人について載っています。富永太郎は私が高校の時から好きな詩人で、「橋の上の自画像」「秋の悲嘆」といった詩の、破滅的な無頼感、またはその虚無性に一時取りつかれていたことがあります。あの時代の詩人たちがすべてランボーに影響されているのだとしたら、彼の詩の原点もやはりランボーだと言ってもいいのでしょうか。

 それはそうと、小林秀雄と最も関わりの深い詩人はやはり中原中也でしょうね。あなたが中原中也の詩が好きだという事を知り、最近改めて中也の詩集を手に取りました。

「汚れちまった悲しみに‥‥」「海にいるのは/あれは人魚ではないのです…」「これが私の故里だ/さやかに風も吹いている‥‥」「私の上に降る雪は…」色々な詩を思い出しました。私の心に残っているのは、「お天気の日の、海の沖は/なんと、あんなに綺麗なんだ!/お天気の日の、海の沖は/まるで、金や、銀ではないか」という詩です。悲しいイメージの詩の中にあって、この詩の一連、二連は不思議に明るく、安らぎさえ感じさせられますが、それは想い出であったからこそであり、現実にはその昔ポカポカとした岬にあった煉瓦工場は廃墟になってしまっているのです。けれど中也は、「死ぬとき思い出すことは、たぶんお天気の日の海のことです」とも書いています。死にゆく彼の瞳にキラキラと輝くお天気の日の海の沖が映っていたとしたら、その死はまだしも救いがあるように思われます。

 まだ体を労わらなくてはならないので、あまり外出できていません。犬の散歩が唯一の運動です。やけに歩きたがるワンちゃんで、帰ろうと促さないと知らない町まで行ってしまいそう。夏は夕方いつまでも明るいのでいいですね。少しずつ体力をつけていこうと思っています。

ではあなたもお体に気を付けて  

                                    小島恵子』



『三十日に手紙着いた。手紙が生憎、月曜日に着いたので返事を書くのが遅れることとなった。なにしろ日曜日くらいしかゆっくり手紙を書くことが出来ない状態で、平日は疲労で思考がまとまらず、手紙どころか日記すらつけられぬ始末なのだ。

 去年の今頃は神津島に行っていた。海は限りなく澄み、白い砂に青い空が印象的だった。(どうも凡庸な表現しか思い浮かばない) けれど人の多いのには閉口した。新宿や高田馬場とたいして変わりがない。港にはゲームセンターやディスコがあり、想像していた島のイメージと非常に異なっていて残念だった。俺はどちらかというと鄙びた温泉あたりがいいのだ。三島の行った川湯温泉だとか、未だに行燈のある上州の名湯、法師温泉などへ行きたいと思っている。

 味気ない生活を送っていると、蘆花の「みみずのたわごと」の中の生活が羨まれる。旅行に行けないので、せめて、堀辰雄の「大和路 信濃路」、亀井勝一郎の「大和古寺風物誌」でも読み返そうかと思っている。

 バイトの方はもうすぐ一か月になる。連日仕事場は三十六~四十度という暑さである。その中で汗を流しながら働いている。初めの頃は全ての作業を全力でやっていたからひどく疲れたが、最近は大分手抜きが上手になってきた。責任者がいなくなると、煙草ふかしてさぼったりする事もある。十三~十五日はお盆休みなので、千葉の海にでも行ってこようかと思っている。

 中也の詩で好きなのは、「臨終」「秋の一日」「帰郷」「ためいき」「盲目の秋」「死別の翌日」「含羞」「ポロリポロリと死んでいく」など、あげたらきりがない。「含羞」を読む際には、文也の死について知らなければならない。「ポロリ‥‥」なら、中也の弟の死の電報を受けて中也が「私は同居人のいないことがどんなに嬉しかったかしれはしない。存分に悲しむために、私は寝台にもぐって頭から毛布をひっかぶった。息がつまりそうだった。が、それがなんであろう。私がビールを飲んでいる時、弟は最期の苦しみを戦っていた‥‥」と言ったことを知らねばならない。中也の詩は理屈じゃない。芸術なんていう生易しくて曖昧なものじゃなく、赤裸々な「人の生きざま」を直に感じさせてくれる。彼の敗残者的ナルチシズムに陶酔感を覚え、彼の吐く一切の語句が黄金律の響きをもって俺を魅了するのだ。

 それはそうと、体の具合はどうだい? 俺は幼稚園の頃、通園するより病院に行っている日が多かった。ここ数年来は大病はしないが、病気というものに対しては敏感で、常に神経質である。そんなわけで君の病気を本当に心配している。一日も早く完治することを祈っている                                  

                                    桂木隆司』



『お手紙どうもありがとう。アルバイト、とても大変そうですね。でも活動的なあなたが羨ましいです。忙しく働くこと、それは何にも勝る生き生きとした生の証であると思います。がんばってください。

 私も、この夏休みは駄目でも、二学期には東京できっと何かのアルバイトをしたいです。(バイトしたことが無いのでちょっと不安ではありますが) お金が入ったら、何を買おうかなあ。きれいな服とか? いいスニーカーとか? 古本を買いあさったりして。生活費に消えちゃうかな?

 うちの近くの梨畑では、もうプラムぐらいの大きさの実を結んでいます。そちらは多摩川梨が有名なんでしたね。梨畑とか、たくさんあるのでしょうね。果樹園のある町ってなんだか素敵です。いつかそちらの多摩川梨を食べてみたいです。

 中也は、ありきたりの人生では終われなかった人、生まれながらの詩人なのだと思います。小さな風景にも哀しみをみつけてしまう心。心の内をきつく見つめすぎてしまうのが詩人だとしたら、私はこれからどんな詩を書いていったらいいのか、中也には及びもつかない拙い心で。できれば哀しみの中にも希望を込めたい。課題は大きいですね。

 私が歎異抄研究会に入っていた(もう過去形で書いた方が妥当でしょう)ことはご存知でしたね。ここ数ヶ月、人生について随分考えました。考えたって何も解決しないのだけれど、考えることを強いられていました。もう引っ張り込まれる勢いで仏教に取り込まれそうになっていましたが、どうやら離れることができそうです。どうしても部員の人と考えが相容れなくて。少し戦いました。私でも戦えるんだって思いました。

 この頃は何か夢中になれることを探したくて、意識を前向きに持って行く努力をしています。亀井勝一郎は「生きることの中にその解決はある」と言っています。きっとそうなのでしょう。真摯に生きていく中で、きっと何かをみつけることができるだろうと楽観しています。もっともっと楽しいことを探したいです。(一緒に行った石神井公園、あの日は、とてもとても楽しかった。感謝しています)

 普段は家でギターの練習をしたり、独語のレポートのための下調べなどをやっています。あとは犬と遊んだり、散歩に行ったり。一日おきに注射に行かなくてはならないことはちょっと面倒な仕事です。面白い話題がなくてすみません。

まだまだ暑い日が続きます。夏バテしないように。ではまた。      小島恵子  」



『今朝はひぐらしの声で目を覚ました。きのうの夕暮れはルソーの絵「日暮れの処女林」のような美しさだった。暦の上では既に秋だ。日中はまだまだ暑さが厳しいけれど、朝夕はいくらか涼しくなった。芭蕉の「つれなくも日はあかあかと秋の風」という句が似つかわしい。   

 太宰の小説に、夜、電気を消して床に入ると、床の下でキリギリスが鳴いている、という小説があるが、昨晩風呂に入っていると、どこか近くでこおろぎが鳴いていた。その声が悲し気で秋の訪れを感じさせた。秋の夜、虫の声に耳を傾けるのは実によいものだ。百人一首にも「きりぎりす鳴くや霜夜のさ莚に衣かたしきひとりかもねん」や「足引の山鳥の尾のしだりおのながながしき夜をひとりかもねん」など秋の夜長をうたった歌は多い。

 高一の頃、百人一首大会が学校で催されたのだけれども、何故か俺が優勝したのだ。当時は上の句を読めばすぐ下の句が分かったものだが、ここ数年来、正月恒例の百人一首をやらなくなり、今ではほとんど忘れてしまった。

 五木の「青春の門」第五部九巻がついに一年の沈黙を破って出版された。青春の門とは中一の時からの付き合いだ。主人公は早大文学部の学生で親近感がある。「文学部校舎のスロープ」「高田馬場のロータリー」などが出てくると一種懐かしいような気持ちがする。三部の放浪篇、四部の堕落篇が特にいい。俺と同世代の主人公の挫折感、苦悩や悲しみがそのまま自分にも当てはまる。それに文学などと気取っていないところがいい。真摯な人間の生き方というものは、少なからず人の心を打つ。(この小説を女の子に勧めようとは思わないが)

 今、大藪春彦フェアをやっているけれども、彼の小説の中の主人公の強靭な生命力には圧倒される。俺が欲しいと思うものは、書物百万巻の知識ではなく、強い生命力である。浪人の時、大藪のハードボイルドを三十作ぐらい立て続けに読んだ。イライラしている時のいい解消法になった。

 福永武彦先生が十三日の早朝、息を引き取られたことは非常に残念である。これから新しい本は一冊たりとも書かれることは無いのかと思うと悲しい。

夏休みも三分の二過ぎてしまった。残りの休みをお互い有意義に過ごそう。ではまた。

                                   桂木隆司』


『お手紙ありがとう。

もう盆踊りや花火の音も聞こえず、だんだん夜が暗くなっていくように思われます。小さいカエルが秋海棠の葉っぱの上で、じっと動かずに眠っていました。夏ももう終わりかなと実感させられます。

 福永武彦さんが亡くなられたことは、本当に残念なことですね。彼の作品は「風土」「廃市・飛ぶ男」「愛の試み」「草の花」くらいしか読んでいませんが、その繊細な感受性、人々の心の機微の表現には、多く学べるものがありました。愛と孤独に対する考察も深くて、特に「愛の試み」は意味をかみ締めるように読んだことを覚えています。「死の島」も読もうかと買ってはあるのですが、長編なのでまだ読んではいません。この休み中にちゃんと読んでみようと思います。

 千葉の海はどうでしたか。台風が近づいているから荒れていたかな? 私は海のない栃木っ子だし、子どもだった頃、家族で大洗の海に行っただけで、ちゃんと海で泳いだり遊んだりしたことが無いのです。皮がむけるほど日に焼けたこともなくて。人気の引いた静かな海辺を歩いてみたいです。お盆の頃の海は、まだまだにぎやかでしたか?

 昨日、栃木会館というちょっと大きめのホールで、早稲田大学のサークルの「ハーモニカソサイアティー」「モダンジャズ研究会」のコンサートがあったので聞きに行きました。一応私も宇都宮稲門会の一員なので、チケット売りなどをさせられたのですよ。ハーモニカも大勢での合奏となると迫力があってよかったです。ジャズもなかなか見事なサックスの演奏でした。強めの音響に慣れるのに少し時間がかかりましたが。

 百人一首、すごいですね。私も高校の時の冬休みに百人一首を覚える現国の宿題が出て、休み明けに筆記試験があったのですが、八十点ぐらいでした。満点を取った人はそうはいな かったと思います。似たような歌がいくつかあって、間違えやすいですよね。完璧に覚えていたなんて、すごい。ちなみに私の好きな一首は「玉の緒よ絶えなば絶えねながらえば忍ぶることの弱りもぞする」です。

 両親は今、岩松に凝っています。最近水のやりすぎか何かで枯れてきてしまって、夫婦喧嘩真っ最中。岩松と言っても実に様々な種類があって、盆栽のようにすると美しく日本の情緒を感じさせてくれます。日本画の題材に合いそう。

では、バイト頑張ってください。

                                  小島恵子』



『十三日の夜から十四日にかけて高校の友達と千葉の海に行ってきた。行きは始終運転させられたので、海に着くまでに疲れた。それに十二日に引っ越しのバイトをやったので尚更だった。空はゴーガンの描いたタヒチの空のように青く、太陽はムルソーがアラビア人を射殺した時と同じく狂ったように輝いていた。海はマラルメの「夏の悲しみ」を思い出させるのに十分な情熱を持っていた。(大袈裟か?)

 俺にはまだ、岩松だとか万年青の良さというものは分からない。俺は洋蘭の華やかさよりも野菊のつつましさが好きだ。十一月の日本海の潮風が吹き寄せる岸壁に寂然と咲くつわぶきの花の黄が俺の頭の中に一つのイメージとしてある。鴎外の生家のある山口県津和野は、昔つわぶきが町中に咲き乱れていたところから、この名がついたそうだ。他の花たちがひっそりと春の訪れを待っている冬に、たくましく咲くつわぶきが何とも愛おしい。風蘭という花を知っているか? それは樹上からの使者だ。風が通り過ぎた後、樹上から小さな蘭の花が舞い降りてくるのだ。その姿といい、香りといい、風情のある花だ。

 今度、一度ジャズを聞きに行こうか。下北の「マサコ」新宿の「サムライ」、馬場の「MOZE」、‥‥やはりいいのは吉祥寺の「アウトバック」、渋谷の「ブレーキー」だろう。

 それにしても人の邂逅というものは実に不思議だ。君と俺の場合もしかりだ。では元気で。

歴史学の曽根先生の住所を知っていたら教えてくれ。

                                  桂木隆司』



『ジャズ喫茶、すごく詳しいんですね。ジャズはあまり聞いたことがないですが、興味深いです。ピアノとかサックスとかその時のフィーリングで弾くのって、演奏者の生のパッションに触れることができて、また格別の味わいがありそうですね。いつか機会があったら誘ってください。

 先日、胃の検査をしました。おかげさまで大体治っているようです。再発しやすいので引き続き注意は必要ですが、もう普通に生活しても大丈夫です。五月の終わりの頃、「治ってもいないのに東京の学校に通うなど言語道断」とお医者さんに怒られたのを振り切って東京に出て来てしまったから、もしかしたら夏休みに手術なんていうこともあるかもしれない、また学校を長く休まなくてはいけないかも、と覚悟はしていましたが、大丈夫でした。ほっとしています。

ここ二~三か月、一人でいると涙が出そうになることも多かったのですが、これからは笑顔で過ごせそう。薬はもう少し飲んでいたほうがよいようです。ずっと静かに生活していたので、少しずつ体を鍛えていかないとね。もし一緒にお食事をする機会があったら、私はまだちゃんとしたお食事づきあいはできないかもしれないので、あなたは私に気を使わず、お店では好きなものを注文してくださいね。

 曽根教授の歴史学を取っているのですか? 私も去年取っていましたが、結構面白い授業ですよね。「奉教人の死」とか「私が・捨てた・女」とか読むよう推薦してませんでしたか? 私は読んで結構感動しました。レポートはもう書けたのですか? 長いと思っていた夏休みも、残りわずかになってしまいましたね。

九月十五日か十六日あたりに上京する予定です。気が向いたら電話をください。

                                   小島恵子』


『今、ほろ酔い機嫌でこれを書いている。不謹慎だろうか。土曜の晩に飲む癖はこの間のバイトの時についたものだ。

 日曜は家の藤棚の修理をしたのだけれど、その際、腐った角材が落ちてきて見事に俺の右手の甲に当たったのだ。その日一日、箸も持てなかった。手は腫れあがり、しびれ、もう右手は一生使えないんじゃないかと一瞬思ったりした。今日は今日で、サンダルで走ろうとした途端、砂利道で転倒。両手の掌とすねにだいぶ擦り傷を作った。全く情けない。

 学校が始まるまでに木曽の方に三泊ぐらいの予定で行ってこようかと思っている。(新宿、塩尻、上松、南木曽、馬籠、恵那峡、飯田、塩尻、新宿) 時刻表で計画だけはたてたが、いつ行くかは未定だ。

 この前の手紙で君の体の具合がそんなに悪かったと知って、非常に驚いている。いつも元気そうに振舞っていたから分からなかった。無理をさせてなどいなかっただろうか。秋になったら一緒に色々なところに行こうと思っていたのだが、体調が悪いようならすぐに言ってくれ。俺で助けになるのなら。

 学校が始まる前日にでも会わないか? 場所と時間はこちらで勝手に決めるわけにもいかないので、都合の良い日時を教えてほしい。もちろん無理にとは言わない。君の健康の回復を祈っている。      

                                   桂木隆司』



 この夏休みの間、O組の男子の何名かからも暑中お見舞いの葉書や手紙をもらった。私はそれぞれに丁寧な返事を書いて出したが、桂木の手紙ほど私の心をつかむ手紙はなかった。

 私は桂木へ苦心して時間をかけて考え考え何枚も便箋を無駄にしながら、やっと手紙を出した。こんなにちゃんと手紙を書こうとしたのは初めてだった。

 桂木の知的で思索的な手紙に圧倒されていた。こんなに密度の高い手紙をもらったなど一度も無かったので、私はとまどいつつも深く感動していた。次に来る桂木の手紙が待ち遠しかった。

 桂木に対する希望が無かったなら、私はまたあれこれ悩み体を悪くしていたかもしれない。吉川清彦からのいやな刺激がまだ終わってはいなかったし、生きることに対しての自信の無さも消えてはいなかった。

 桂木の存在は、自分でも気づかないうちにもはや私の光となりつつあったのだ。



 

















閲覧数:41回0件のコメント

最新記事

すべて表示

第19章 大学3年 夏休み・伊豆旅行

宇都宮での一か月の夏休みが始まった。帰省したその日から、兄の結婚に関する揉め事にまた巻き込まれた。兄が結婚相手に選ぼうとしている女性を母は決して認めようとはせず、家の中は険悪なムードが漂っていた。兄は冷静に母を説得しようとしていたのだが、母の方がひどく感情的になっていて、絶対に反対の意思をあらためようとはしなかった。 私が帰省してくると、母の怒りの矛先は私の方にも向けられた。前期試験がとっくに終わ

第20章 大学3年 2学期・山梨旅行

『少女とは、‥‥どこまで行っても清冽な浅瀬』 芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、そんな一節があった。 そうであるならば、少女ではなくなった私は、絡まり合う水草を秘めた森の中の湖沼‥‥ 九月の半ば、もう秋の気配が夕暮れに潜んでいる。あまりにも大きな出来事があった夏だったので、桂木がそばにいない今、一人では心を整理できず、時々溜め息をついて壁に凭れかかって涙ぐんでしまう。 そしてやっとレポートに取り掛

第21章 大学3年 3学期・千葉旅行

経験を持つことで、私の詩は深くなっただろうか。いや、そうとも言えない。桂木との愛を詩として書こうとしても、あからさまな表現を使うこともできず、やはり抽象に逃げるしかない。あまりにも直截的であってはいけない。そこが小説と詩の違いだ。 アンリ・マティスは自らの芸術を『気持ちの良い肘掛け椅子のようでありたい』と語ったという。『私は、安定した、純粋な、不安がらせも困惑させもしない美術を求める。労苦に疲れ果

bottom of page