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第8章  大学2年 9月・アルバイト

更新日:2023年10月24日


 四丁目の尾形医院から東へ真っ直ぐと聞いたのだが、なかなか寮が見つからず路地をうろうろと迷っていたら、すぐ目の前の建物の四階から、坂口美子が手を振っているのが見えた。

 ノースリーブのワンピースを着た彼女は、軽くカールさせた髪を揺らして、窓から身を乗り出すようにして一生懸命に手を振っていた。伊豆の踊子のようだと一瞬思った。だが残念ながら私はハンザムな一高生ではない。私はふわっと暖かい気持ちになりながら、彼女の部屋まで階段を上がっていった。

 部屋はそう広くはなく、ベッドと勉強机とタンスでほぼ一杯だった。西向きの窓からは朱をほんのちょっと足したような午後の陽射しが射しこんでいる。人形がいくつか飾ってあり、女性の部屋らしい清潔さがあった。

「元気だった? 体の具合どう? 良くなった?」

彼女は私を部屋に迎え入れると、真面目な顔でそう尋ねた。

「おかげさまで、たぶんもう大丈夫。とはいってもまだ注意してなくちゃならないんだけどね」

「うわあー! よかったね! でもまた痩せたんじゃない? 随分細くなっちゃったみたい」

「うーん。ここ二~三か月で六キロぐらい体重減ったかも。ジーパンとかぶかぶかになっちゃったから買い替えたし」

「すごーい。病気で痩せちゃったんだから羨ましいなんて言っちゃいけないんだろうけど、なんか羨ましい」

「坂口さんだって痩せてるじゃない」

「この夏休みで体重増えちゃって困ってるの」

坂口美子はほっぺた一杯に微笑んでみせた。額と頬に白い粉のような薬が塗ってあるのがさっきから気になっていた。

「その白いのどうしたの?」

「これ? にきびのひどいのが出来ちゃってさ。天然痘みたくなっちゃったの」

「せっかくの美貌が台無しだね」

「美貌だって。ははは。夏休み中にね、サークルで志賀高原に合宿に行って帰ってきたらいきなりできちゃったの。きっと疲れたせいかもね」

彼女は机の上に広げたあったドイツ語の教科書の方にちらりと目をやった。

「予習した? もう明日から授業あるんだよね。英語とドイツ語の予習が一番面倒。また協力しましょうね」

「こちらこそです。私はまだ全然予習やってないよー。帰ってからやらなくちゃ」

 坂口美子は実家から送って来たのだと言って、段ボール箱の中から梨をいくつか取り出し、私に手渡した。その梨はいかにも甘そうな香りを立てていた。一つ掌に包んでそっと撫でてみる。鳥取の二十世紀梨はすべすべとして、青りんごのようだ。

「…ところでさ、彼氏の上川さんとはうまくいってる?」

私が何気なく尋ねると、彼女はふっと表情を暗くした。

「それがあんまりうまくいってないの」

「ええー? どうして?」

「やっぱり彼ってお金持ちのボンボンじゃない? 価値観が全然違うのよ。お金すごく使うし。それに親の有難さが分かってないっていうか。それでね、彼は本当に真剣でプロポーズしかねないくらいなんだけど、私の方が気持ちがついていかなくってね。最初の頃は結婚できたらいいなって思ってたけど、いざプロポーズされそうになると、やっぱり結婚なんてまだまだしたくないし、現実的に考えられない」

「そう‥‥なんだ。確かに結婚となると、本人同士だけじゃなく相手の家族の事もあるし事は重大だよね。すぐには決められないよね。まだ大学の二年生だし。結婚を考えるのは早すぎると思う。彼氏だって二十二、三歳なんだから結婚を言い出すの早すぎるよ。でも、そんなに焦っちゃうほど坂口さんのこと好きなんだね」

「うん。それでね。電話とか一杯かかってきてさ、嬉しい反面煩わしいところもある」

「そう。分かる分かる。交際って相手を拘束してしまう面あるよね」

「そうなのよね。それが煩わしいと思い始めたら、もう駄目かもね」

彼女は眉を顰め、ため息をついてドイツ語の教科書を片付けながら窓の外を眺めた。まだ陽射しは暑く、机にまで差し込んでいる。古びた木製の机の上で、梨が一つ、静物画のように転がっていた。

「それにさ‥‥」

彼女は言いにくそうに口ごもった。

「あのね、彼がね‥‥、何て言ったらいいか‥‥単刀直入に言っちゃうとね、体を求めるっていうの? そういうことがあってね。私、彼と会うのが怖くなっちゃって‥‥」

「ああ‥‥そうか。やっぱり、そうなってくるよね」

「うん。お互いに好きならいいじゃないかって彼は言うんだけど、私はどうしても許せなくて、どうしても逃げてしまう」

「そう‥‥。私だってきっとそうかもしれない。流れに任せてしまったら、後で後悔することにならないか、考えてしまう」

「そうでしょ? 私が変なんじゃないよね」

「全然変じゃないよ。性急に求められても、はい、いいですよ、とはならないよ。すごく悩むよ。いくら好きでもさ、やっぱり女性にとっては人生に関わることじゃん」

「だよねー」

 彼女は恋の新たな局面を迎え、悩んでいた。大人の恋をしていれば遅かれ早かれ出てくる問題だった。どう切り抜けてゆくべきか、私たちにはまだ回答は出せなかった。逆に言えば身も心も捧げたくなるような激しい恋愛をまだしていないということだ。


 桂木隆司から学校が始まる前に会おうかという提案があったが、久し振りに東京に出るにあたって、まず自分の気持ちを立て直す時間が必要だった。上京したては大概気持ちが疲れていて落ち込んでいる。そんな姿を見せたくなかったので、その週の土曜日に彼と会うことにした。もっとも、語学の授業ですぐに顔を合わせることになるのだが。クラスでは親しく話したりはしないで、挨拶程度なので。


 月曜日、久し振りに会ったクラスメートたちは、日に焼けて健康そうでいかにも青春真っ盛りといった元気さを振りまいていた。桂木隆司も後ろの方の席に座っていて、私が教室に入って行くとちょっとうなづき、口の中で、「ヨオッ」と小さく言った。私も小さく「おはよう」と言って笑いかけながら前の方の席に座った。


 須山勝彦は以前から不眠症だとか焼酎を飲まなければ眠れないと言っていて健康が不安定だったが、この夏休みに痔瘻の手術を受けたそうで、少しやつれたように見えた。彼から夏休み中に届いた手紙はユーモアに満ち、痔の手術のことを面白おかしく綴っていて、こんな文章を書く人なんだと思って興味深く読んだ。「尻滅裂な手紙でごめん」という表現に笑った。

 今日の彼は黒いサングラスをかけ、黄色いズボン、水色のシャツ、下駄ばき姿で、異様に悪目立ちしていた。

 私の後ろの席に座った須山勝彦に、

「どう? まだ痛いの?」

と、声をかけてみた。

「まあな。ガーゼ交換とかせにゃならんし。結構面倒だよ」

「痩せたみたいね」

「ちょっとね。そういう君もまた痩せたでしょ」

「ちょっとね」

 彼は一学期の終わりごろから東京の下宿を引き払って、羽生にある自宅から通学を始めていた。東北線で羽生から東京まで結構距離がある。さぞ通学が大変だろう。

「朝、何時ごろ家を出てくるの?」

「六時ごろだな」

「それはすごく早いねえ…。電車の中で予習とかできるでしょ」

「うんにゃ、眠ってる」

 彼は顔に似合わない野太い声で、おじさんくさく答えた。


 サーファーの笈川が私の右隣の席に座ってきた。

「俺、今日のドイツ語、最初に当たるらしい。小島さん予習してきた? ちょっとノート見せて」

 笈川は『お』、小島は『こ』。あいうえおの出席番号順だと私も当たる圏内だ。夏休みが終わったばかりでまだ勉強に身が入っておらず、さっき学生読書室でやっつけで予習しただけだから私だってそんなに訳に自信はない。

私は苦笑いをしながらノートを開く。

「訳が合ってないかもしれないけど。間違ってたらごめん」

「いいの、いいの、大体できてれば。助かる」

そう言って私のノートを一心に写しはじめた。


 坂口美子があたふたと教室に飛び込んできた。

「聞いて! 聞いて! 昨日の夜中、寮に痴漢が出たの!」

「えー!? あれからー!?」

「そうなのよ! 昨日ね、レポート書くんで三時過ぎまで起きてたのね。そしたら、急に人の悲鳴とガターンっていう音が聞こえてきたの。何かなって思っていたら、管理人さんがばたばた四階までのぼってきて何か騒いでいるから部屋から出てみたら、四階の掃除道具入れに痴漢が隠れてたんですって! 非常階段で上がってきたらしいの。警察とか来て大変だったのよー! 私の部屋と近いところだったし、昨日は全然眠れなかったわよ!」

「うわあー。大変だったねー。それで誰も被害に会わないで済んだ?」

「うん。大丈夫だったみたい」

 彼女は息を弾ませてそこまで一気に言うと、力が抜けたようにペタンと椅子に座った。にきびの痕はお化粧でうまく隠されていた。


 ドイツ語の授業ではやはり指された。笈川は写した私の訳で、なんとかしのいで切り抜けた。笈川は発表を終え席に座ってニヤッと私に笑いかけた。私は当たるか当たらないかの瀬戸際だったのだが、時間内に回ってきてしまった。なんとか訳して発表したが、特に間違っているとも言われず次に進んでいったので大体合っていたのだろう。

 文法がおぼつかなくなっているので、単語の意味を辞書で引いて、文章をなんとかそれらしく組み立てるしかない。自分の訳はもう信用ならなかった。試験の時は誰かほかの人の正確な訳のノートをコピーさせてもらわなければならないだろう。

 入学当初はドイツ語をマスターしようと意気込んでいたのに、今やすっかり落ちこぼれてしまい情けなかった。しかしクラスメートのほとんども同じ具合だったのだ。必修語学だから単位を落とさないように最低限の努力はしていたが、ドイツ語の勉強をすることにあまり意義を感じてはいなかった。


 体育の弓道は、一時間半、日の当たる屋外に立ちっぱなしだったので、時間の終わりの方はつらくて仕方なかった。すうっと貧血を起こしてしまいそうだった。椅子があったらすぐにでも座りたい。皆の射る矢が的をはずれて砂に突き刺さるのを眺めながら、自分の体力の無さに少ししょげていた。

 久し振りの弓は、感覚をつかむまでやや時間がかかった。弦の張りが微妙に違うので、力に合わない弓を選んでしまうと、引き絞る手がぶるぶる震えてしまう。矢は的に当たったり当たらなかったりだったが、弓道部員の先輩の一人が、

「君、弓道の素質あるよ」

と言ってくれた。

 十月の体育祭に出る人を来週から選抜していくそうだ。まさか私は選ばれまいが、少ない女子の中で私の弓は比較的よく当たっている方だった。


 イギリス文学史の教室に行くと、安達望が先に来ていて席を取っておいてくれていた。

「今日、午後また演奏会があるんだ」

と言って、ドイツ語の歌詞が書いてある楽譜を読んでいた。夏休み中、グリークラブはヨーロッパをずっと回っていたそうだ。

「ドイツでホームステイの家の人と仲良くなっちゃってね、今でも文通してるんだ。やっぱりドイツ語は使う目的があって勉強するのが楽しいね。それでね、ホームステイの人が、ガールフレンドはいるんだろ、とか、名前教えろよ、とかしつこく聞くから、つい君の名前を言っちゃったよ」

私はドキッとした。

「あれれ、私で良かったのかな?」

「だって、他に思い浮かばなくて。あと、これ、おみやげ。バンコクのお財布」

「わあ、お土産まで。どうもありがとう。すごい綺麗」

 青と赤と黄色の糸が入り交じったカラフルな織物の財布からは、不思議な芳香が立ちのぼっていた。私はその財布を鞄にしまい込みながら、安達望の気持ちを推し測りあぐねて、これからどういう態度をとったらいいのか考え込んでしまった。

 席が隣の時は当たり障りないことを少しおしゃべりする程度、しかも彼がほとんどしゃべっているから私は完全に聞き役。一回食事に付き合った、一回コンサートに行った、今回旅行のお土産をもらった、それだけだったはず。でもまあいいか。別に付き合ってと言われたわけでもない。

 桂木隆司と授業が終わってから待ち合わせて文学部構内を普通に一緒に歩いていることはよくあったから、安達望もそのうちに何かを察するかもしれない。


 イギリス文学史がお昼で終わると、桂木隆司と151教室で待ち合わせてどこか食事に行っておしゃべりするのが6月16日からの習慣だった。彼はいつもずっと待っていてくれた。        待ち合わせの約束もしていなかった最初の頃、いるはずがないと思って一時間も過ぎて教室を覗きにいくと、逆光線の中、机に頬杖をつく黒いシルエットがあった。

「待っててくれたの?!」と私が驚くのも意に介さず、彼は「ヨウッ」と言って席を立ち、笑った。私はあの時から、彼を裏切れなくなっていたのだ。


 金曜日の夜、桂木隆司から電話があった。遠慮がちにポツポツ話すので最初何の用事なのか話が掴めなかったが、どうやら駅で待ち合わせしようということらしかった。

「高田馬場のバス停のところで待ってるから、何時がいいか時間を決めて」

私は、その日は午後まで授業がなかったから、

「十時ごろ、でいい?」

と答えた。

 翌日、よく晴れて暑い日差しが照りつけていた。私は早く行き過ぎてしまい桂木隆司はまだ来ていなかったので、BIG・BOXの中をうろついて時間をつぶしていた。十時近くに駅の方に歩いて行ったら彼がさりげなく目をそらしながら近づいて来るのが見えた。近づいてしまうまで目を逸らしているのが彼の癖だ。ちょっと可笑しかった。

 大学と高田馬場駅の中間あたりに「甘泉園」という公園がある。ひょうたん型の池のある静かな日本庭園だ。ここは木々の植え込みも多く、ちょっとした散策には丁度いい。

 私と桂木隆司はそこまで歩いていき、池のそばの木のベンチに座った。

「どう? 体調は」

「うん。随分いいんだけどね、この前体育の弓道に出たら、立ってるのがきつかった」

「まだ暑いからね。完璧に健康でもずっと日向に立ってるのはきついよ」

「そうだよね。‥‥休み中、怪我したところはどう? 手とか膝とか」

「ああ、まだちょっと痛いけど大丈夫」

「それならよかった」

「手とか骸骨が見えちゃってるぞ。もしかして、あばら骨も浮いちゃってる?」

「そうなのよ。脂肪が無くなると、胸までなくなっちゃうんだよー。残念だったね!」

「別に残念じゃねえけどさ」

「高校の時は揺れるくらいあったよ」

「見栄張るなって。でも高校の時会いたかったなー。ははは」

「うわー、いやらしいぞ! それじゃあ、また揺れるくらいにもどしてやるか!」

 彼と話していると愉快だった。気の置けない親友のような感じ。恋とか愛とかとは別の、もっとさっぱりした感情。彼とは、心の核に触れ合いながらも傷つけあうことなく、なんでも話すことができた。彼はぶっきらぼうで愛想がないようでいながら、いつも私の気持ちを思いやってくれた。彼のそばにいると心まで純化する。

彼は鞄から小さな包みを取り出すと、

「これ、木曽のお土産」

と言って私に差し出した。

「どうもありがとう、開けていい?」

「うん」

箱には「お六櫛」と書いてあり、中につややかな黄楊の櫛が入っていた。

「わあー、素敵。高かったでしょ?」

「いや、たいしたことない」

 彼は照れたようにそう言って、寄って来た何羽かの鳩を足先でからかっていた。

「昨日は鎌倉に行ってきたんだ。今は萩寺がきれいだ。萩って地味なようでもあれだけ沢山咲くと、すごく華やかな感じがするんだ。今度連れてってやるよ。小さいけど一応車持ってるから」

「うん。ありがとう。楽しみ」

 彼は鎌倉の地図を広げいろいろ説明してくれた。木漏れ日が地図の上に影を作った。折り目が少し破けた大きな地図を二人一緒に覗きこみながら、本当に私は彼と鎌倉の町を歩くことがあるのだろうかと、訝しく不思議な思いに打たれていた。

 桂木は外見は硬派なイメージだが、自分を外に大きく表現していくタイプではない。付き合っている友人たち、佐渡から来た兼子や歯科医の息子の本田などもどちらかというと静かで虚無的だ。今まで内に閉ざしていた桂木は、私に対して精一杯の勇気を奮って付き合ってくれようとしているのだという感じがした。それは殻を脱ごうと努力してきたこの数ヶ月の私の姿と重なった。

 桂木が普段クラスメートとは一切しない馬鹿話を私に振ってくれて、私が笑うと本当に嬉しそうにするので、私も桂木に合わせやすかった。私もつられて馬鹿なことを言うことができた。不思議にお互いに壁が無かった。互いの欠点も見え始めていて、これから気の置けない友人として一緒に成長していけるのかなと思った。

 桂木は坂口美子の次に親しく話をすることのできるクラスメートだった。まだ異性という事にさほど重きはおいてはおらず、はっきりとした「恋」の意識はなかった。

 けれど桂木は、以前から思っていたことだが、かなり際立った二枚目なのだ。私の隣をこんなかっこいい人が歩いてくれるなんて信じられない思いだった。身長も私より10センチ近く高くて、一緒にいて誇らしく気持ちがよかった。小柄な男性と話す時、その人が私を少し見上げる感じになってしまうのがなんとなく気が引けて申し訳なく思うことがよくあったから、相手の背が高いということは私には必須条件だった。

 それに、桂木が他のクラスメートとは全然打ち解けていないのに、私にだけ子どものような笑顔を見せ、馬鹿馬鹿しい話をしてくれるのも嬉しかった。

 つまり桂木は私にとって嫌なところが一切ないパーフェクトな人だったのだ。外見、知性、優しさなど。孤独癖さえ好ましかった。恐らく恋にしないでいることの方が難しかったのだろうが、恋になったら多分に性的なものも含まれてくる。桂木とそうなるのはなんだか違う、というような気がしていた。適度な距離がある友だちのままでいる事の方が心地よい付き合いが長続きする。

 私は卒業したらもう東京にいるつもりはなかった。体を壊したことから、東京で一人気を張って生きていける自信がなくなってしまっていて実家に戻ることは決定事項のように思っていた。だから卒業で彼と別れる時、笑顔で手を振り合えないような付き合いになってしまったら困るのだ。


 九月も半ばを過ぎると、夕方の授業を終える頃には日も暮れてしまっている。語学の授業の後、すっかり暗くなって街灯もつき始めた文学部のスロープを降りていき、私と坂口美子は本部に張り出されている就職関係の掲示板を覗きに行った。

 どこに就職したいのか、まだはっきりと決めてはいなかった。教職課程も取っていなかったし、どんな分野が自分に合っているのかも分からない。文学から離れないためには出版関係か。坂口美子はマスコミ関係がいいわあ、と言って掲示板をあれこれ物色していた。

 大隈講堂の丸時計にも薄だいだい色の灯が入った。五限の講義を終えた学生たちがまだぞろぞろと歩いている。本部校舎の窓にも明かりがついていて、夜の授業は続けられているようだった。二文や社会科学といった夜間の課程の人たちも、これから授業を受けに来るわけだ。皆が帰ってくつろぎ始める時間に、夜九時過ぎまで講義を受けるということは、かなり強い意志の力が必要であるに違いない。

 薄闇の中、共産党のチラシを配っている人がいた。チラシを受け取り通り過ぎながら、

「やっぱりソ連とか亡命者がいっぱいいるっていうことは、共産主義も問題があるのよ」

と私が言うと、坂口は、

「それはそうだけど、日本にあっては抑止力としてああいうのがあってもいいと思う。日本って経済格差がありすぎると思うの」

と言った。

「でも共産という事は自分の財産を持てないで一律平等にしようとすることだから、個人の能力差を無視している部分もあるよね。能力のある人にとっては不満でしかないかも」

「うん。うん。私たちだって、いい大学に入りたいって勉強したんだから、平等、平等とは言えないけどね」

「そうだね」

そんなことを話しながら、私たちは本部の掲示板を放れ、門の方に歩いていった。

 立看の前を通りかかった。たむろしている学生たちの間を何気なく擦り抜けようとした時、暗闇の中で誰かが小さく「あっ」と声をあげた。ふと顔をめぐらすと、そこに集まって立っていた七、八人の青年たちが私の方を見ている。心臓がぎゅっとなった。歎研の部員たち。どうしてこう何度も部員たちと会ってしまうのか。

 奥の方にいる人たちの表情は見えなかったが、手前にいた眼鏡の男子部員は、言葉をかけるのをためらうように私と坂口美子を見比べている。私はものも言えず一瞬そこに立ちすくんでしまった。

「これから帰るの」

誰かが声かけてきた。

「はい」

「そちら、お友だち?」

「はい」

「よかったらまた部会においでよ」

「あ、はい」

 私は固まったまま「はい」しか言えなかった。坂口美子は一歩後ろにいて神妙にやり取りを聞いている。

「今ね、勧誘の打ち合わせをしているんだ」

 その声は! 目を凝らして初めて部員たちをちゃんと見回すと、奥の方に吉川清彦の白っぽい顔が浮かんで見えて来た。地面がぐらりと揺れたような気がした。

「ああ、そうなんですか」

 もごもごと低い声でそう言いながら、どうやってこの場を逃げ出そうか必死で考えていた。もう何も話したくない、できればこのまますうっと遠ざかっていきたかった。

「じゃあ、もう、今日は帰りますので。さようなら」

 それだけ言うと私はこわばった顔に不自然な微笑みを作りながら、身を翻すように彼らのそばを離れた。誰かが追いかけてきそうで背中がびくびくしていた。

 坂口美子はなんだか分からない風で、小走りについてきた。

「どうしたの? 誰?」

 後ろを振り返って誰も追いかけてこないことを確認して、やっと息がつけた。

「歎異抄研究会の人たちだったの。ああー、一番会いたくない人に会っちゃったよ。もう、倒れそう、ああー、立ち直れないー」

「何言ってんの。ちゃんと立って歩いてるじゃない」

彼女は笑いながら私の肩をポンと叩いた。

「そう言われると確かに、歩けてるわー。でもさっき本当に死にそうになっちゃった。やだ、もう立看のあたり絶対行かない!」

「そんなに嫌な人だったの? 温厚な小島さんにもそんな人いたんだ」

「そうなのよ。喧嘩別れみたいな感じになっちゃった人なの。もう、あのまま倒れるかと思った」

「大丈夫よ! ほら、元気に歩いているわよ」

 坂口美子と一緒でよかった。そうでなかったら、しばらくつらい気持ちを引きずっていただろう。元気に歩いているよ、と言ってくれたおかげで本当に元気が出て来た。

「うん。もう大丈夫!」

気を取り直して彼女と駅までわざと関係ないおしゃべりをしながら歩いた。

「夕飯、何食べようかな」

「いつも自炊してるの?」

「うん。いろいろ作ってるよ。外食はまだ無理なような気がしてね。一応体に良さそうなものを作ってる。何でもぐちゃぐちゃ煮込んでさ、シチューとかよく作る」

「偉いわー。私なんか寮だから、夕食は出るんだけどね。あんまり帰りが遅いと何も残ってないの。そうすると外食になっちゃうね」

「ふうん。でも、寮っていろんな大学の人と友だちになれていいよね」

「そうね。おつきあいが煩わしい時もあるけど、ユニークな人も多いし、刺激になるわ。横尾忠則とか萩原真一と知り合いの子もいるのよ。よく夜中までパーティーしたりもするしね」

「楽しそうだね。私なんか下宿帰ったらしーんとしてるしさ、つまんないからお風呂屋さんとかコインランドリーで時間つぶしてたりするの。秋になるとすぐに暗くなっちゃうじゃない。散歩も行けないしね。本とかも飽きるぐらい随分読んだよ。頭痛くなっちゃうくらい。でも寂しい」

「下宿生活ってそうなんだろうね。私じゃ耐えられないかもしれない。今度寮に泊りにおいでよ。部屋狭いけどさ」

「うん、ありがとう。私の下宿にも遊びに来てね。四畳半で本当に狭いけど」

「うん。行きたい。それでさ、さっきの歎異抄研究会、もうやめたの?」

彼女はずっと気になっていたという風に尋ねてきた。

「私はやめたつもりでいるんだけどね。部会とか聴聞に来いって何度もしつこく言われてね。でも皆同じことばっかり言ってるからもう聞き飽きちゃった感じ」

「そう」

「言葉ばっかりで行動がないような気がしたの。信心決定することが最終目標で、それがいかに素晴らしいか繰り返し言ってくるんだけどね。仏教を信じればすべて解決する、それが人生の目的だって言われても、なんか違うような気がして。部員の人たちは皆真面目ないい人たちではあるんだけど、皆同じことを言っているのに気づいてしまうと、全部部長の受け売りじゃんと思ってしまう」

「やっぱり、どこか変よね。人生の目的が仏教だけだなんて」

 そうしてゆっくり歩いていき、西早稲田のロータリーを過ぎて繁華な街並みに入って行った頃、坂口美子が後ろをたびたび気にし始めた。何度も振り返ったり、私の方に体を寄せてきたりする。どうしたの? と聞こうとした時、坂口美子の向こう側を背の高い人影が私たちを追い越していった。

 吉川清彦! 一瞬目が合った。彼は私の顔を覗き込むようにしてわずかにうなづいた。ちょっと鼻に皺を寄せて笑ったような気がした。どうしてこんなところで。あれからずっと後をつけてきたのだろうか。

 彼は私たちを追い越すとそのまま歩調を緩めずにずんずん歩いていって、すぐに人ごみに紛れてしまった。暗くて、背伸びしてうかがってももうどの頭が吉川清彦のものかわからなくなっていた。

 一瞬棒立ちになって、道の先を窺っている私を坂口美子は訝し気に覗き込んだ。

「お知り合い?」

私は平静を装って、ゆっくり答えた。

「歎異抄研究会の人だったの。夏休みにあの人とひどい言い合いをしちゃったんだ。一番会いたくなかった人って、あの人のことなの」

彼女は、私が見ている道の先に視線を合わせながら、うなづくようにした。

「あの人、さっきからずうっと私たちの後をついていて、私たちの話聞いてたんだよ。しばらく私のすぐ横を歩いていてね。何だか気味が悪くて早く行ってしまえばいいと思ってたら後ろに引っ込んだから良かったと思ってたの。随分色が白い人ね。盗み聞きするなんて変な人。ああいう偏った思想の持主とはどんどんケンカしなさい」

「うん。そうだね。また会ってしまって何か言ってきたら、何度でも戦うつもり」

 虚勢を張って元気そうに答えたけれど、何故か息苦しかった。高田馬場駅に着くまで、ずっと先に行ってしまったはずの吉川清彦がまだどこかの暗闇で待ち伏せしていそうで落ち着かなかった。

 彼の存在がもう私を幸福にするものではなく、神経を刺激する苛立たしいものでしかなくなっていることが、私を妙に落ち込ませた。彼は私に何か話しかけるためについてきたのだろうか。あるいは、以前私が彼の雑談を盗み聞きしたことがあったように、彼もまた私のことを知りたいと思ってくれたのか。あの取り返しのつかない夏休みの電話。もう以前のようには決して戻れない。


 夏休みが終わって一か月近く経つのに、桂木の友人の本田はずっと欠席している。桂木が電話をしたところ、本田は、「夏休み中に考えて大学をやめるという結論に達した」と言ったのだそうだ。

 大学に行くことすら本田の本意ではなく、医師である父や家族に強制されて仕方なく早稲田に入ったそうだ。それも、現役の時には東大を受け、一次に通ったのに二次試験を受けに行かず自ら浪人したのだという。頭が良すぎると人生も単純なものにはならないのだろうか。最もよく考える人は、最もよく道を失いやすい。よほどやりたいことがあったのか、あるいは虚無に沈んでしまったのか。そんな迷いの最中に歎研に付け込まれたら、たやすく仏教にのめりこんでいたにちがいない。

 どこか影の薄い、周りと打ち解けない雰囲気を持った人だった。やはり学生生活では、たとえフリでも、周りのおしゃべりに加わり楽し気な雰囲気を作っていないとたやすく孤立してしまうのだ。桂木はそんな本田の気持ちに寄り添える人だったが、やはり本田の意思を変えることはできなかった。

 本田の姿は、それ以降大学では見られなくなった。本田は新たな生きる目標を見つけることができただろうか。桂木は友人を一人失って、後ろの席で寂しそうだった。



アルバイト


 私はまだ夜を恐れる気持ちを制御できなかった。これから早まる夕暮れを乗り切るためには、その時間を一人で過ごすことは避けたかった。何かアルバイトでもはじめよう。書店で偶然手に取ったアルバイト情報誌をめくっているうちに『歯科助手、都立家政、経験なし可』という募集広告をみつけた。都立家政なら西武線で上石神井と高田馬場の間だ。学校帰りに寄れる。とりあえずここに面接に行ってみようと思った。

 その歯科医院は、都立家政駅の真後ろにあった。ほとんどホームに接している。ドアを開けると消毒の匂いが立ち込めていて、ドリルのキュイーンという音が聞こえた。その音を聞いただけでやっぱりよそうかと逃げ腰になった。しかし、もう逃げるまい。勇気!

 駅のホームに向って窓があり、電車が通過する度に振動が部屋全体にわずかに響いたが、防音設備が整っているらしく音は思ったよりはひどくはなかった。診察室には治療用の椅子が二つ据え付けられている。内装は上品な淡い水色に統一され、狭いながらも整然としていてまだ新しいような感じだった。FMラジオが低くかかっている。

 六十歳ぐらいの頭のはげた院長と、まだ若い、院長の息子とおぼしき人が治療を行っていた。そっとうかがうと院長は気難しそうな顔をしている。目が今にも怒り出しそうだ。私で勤まるだろうかと再び弱気になったが、まあ単なるアルバイトだし、いやだったらすぐに止めてしまえばいいんだと、深呼吸をして落ち着こうとしながら待合室に座っていた。

 待合室には大きな水槽があり、青く光るグッピーが群れを作ってきらきらと泳いでいた。水草の緑が柔らかく揺れていた。小さなソファーが二脚、四人も座ればいっぱいになってしまうほど狭い。

 二人が治療に一区切りつけたところを見計らって、席を立った。

「あの、さきほどお電話しました小島です。アルバイトニュースを見て来ました」

「ああ、はいはい。もうアルバイトの子が来たのか。確か昨日広告出したばっかりだったよな」

 院長先生は、そばにいた若い先生に声をかけた。若先生は、かけていたマスクをはずして、

「うん、昨日出したんだよ」

と答えた。

 若先生は面長の顔立ちで鼻がすっと高く、はっとするほど完璧な美形だった。際立って背が高い方でもなかったが、全体の均整が取れていて背筋がぴんとしている。水色のユニフォームがよく似合っていて、ちょっと鋭い目つきがいかにもやり手の歯科医師であることをうかがわせた。

「早稲田の学生さんね。今までこういうアルバイトやったことある?」

 院長先生は履歴書を読みながら、眼鏡の上から私を値踏みするようにじろじろと見た。しまった。学校帰りだったので、普通のジーパン姿で来てしまった。もっとちゃんとした格好をしてくるべきだった。

「いいえ、初めてです」

「できるかな?」

「ああ…そうですね、やってみないと、出来るかどうかわかりません」

「それもそうだね。じゃあ、お願いしようかな。感じよさそうだし。美人だし」

初めて面と向かって「美人」と言われた。うわ、美人だって! 私は気を良くして元気が出た。

「ありがとうございます! よろしくお願いします」

「これが、息子の秀夫。二十七歳だ。これの上に姉がいて、ここを手伝ってくれてるんだけど、今日は幼稚園のお迎えに行ってるんだ」

院長先生が紹介すると、秀夫先生は、

「よろしく」

と、少し頭を下げた。

 丸顔の院長先生とは全然似ていない。すっきりした頬の線。笑顔よりは静かな考え事の方が似合う彫像的な顔だ。私よりも七歳年上の男性。ほとんど同じ年の兄ともどこか違う。クールで口数の少ないいかにも女性にもてそうなタイプ。ずっと室内にいるせいか肌の色は白っぽかったが、吉川清彦のような柔弱な白さではなく、よく磨かれた硬質な大理石のような感じがする。半袖の治療衣から伸びた腕もすべすべとしていた。

 完成された大人の男の人。素敵だけど、もしかして危険な人だったらどうしようという不安が私の胸にちらっと浮かんだ。結婚はしているのだろうか。人物が分からないだけに、若先生の美貌がかえってマイナスイメージになって私の胸にわだかまった。

「二階には家内も来ているけど、ここに住んでいるわけじゃなくて、家は青梅街道の方にあるんだ。休憩する時はあのアコーディオンカーテンの向こうに部屋があるからね。詳しいことは、今度娘が来た時にでも聞いて」

「はい」

 院長先生はにこりともせず、せかせかした口調でそう言った。診察室の棚にはリアルな入れ歯の型がいくつも陳列してあって、少しグロテスクだった。とにかく乗りかかった船だ。出来るところまでやってみよう。

 授業の無い、火曜、水曜、金曜の午後二時から七時。時給五百円。仕事の内容は、受付で順番に患者さんの名前を呼ぶこと。新しい患者さんのカルテに患者名、保険番号を書き、指示された時だけc1,c2などの簡単な記号を書き込む事。器具の洗浄、殺菌。セメント練り。アマルガム作り。レントゲン撮影の補助。場合によっては、治療中のお母さんに代わって赤ちゃんをあやしたりすること。終わったあとの掃除。

 何の資格も無い私にやらせてもいいのかと思う仕事も含まれていて、医療の分野でもあるので、いい加減な気持ちで勤めてはいけないだろうと気が引き締まった。大変かもしれないと思った。しかし、それでも孤独に苦しむよりはましだ。ここを私の夕暮れ時の居場所にしなければ。

「よろしくお願いします」

「はい、よろしく。じゃあ、来週からね」

 返答もそこそこに、院長先生はもう次の患者を呼んでいた。若先生はちらっと父親の方を見ると、いつもこうなんだよ、というような目配せをすると、こっそり私に苦笑いを見せた。

「じゃあ、来週から頑張って」

「はい。頑張ります。よろしくお願いします」

若先生の笑顔を見て少しほっとした。

 面接を終えて歯科医院を出る頃には、すっかり暗くなっていて、霧雨も降っていた。都立家政駅までの短い距離を歩きながら、『家政銀座』と書かれた白っぽい提灯が、商店街沿いにいくつも揺れているのをぼんやりと眺めていた。心のどこかがうわずっていて、西武線に乗り込んでからも電車がどこを走っているのかさえ意識に上らなかった。

 初めてのアルバイト。不安でないと言ったら嘘になる。慣れるまでは精一杯の勇気を奮わなくてはならないだろう。一人でも生きていける自信をつけるための、これは第一歩だ。


 次の日、授業で坂口美子と会った。

「私、アルバイトすることにしたの。歯医者さんの受付」

「えー、本当? すごーい」

「昨日、面接してきたんだけど、おじいさん先生と若先生と二人でやってるの。その若先生が美形でね。びっくりしちゃった。原辰徳と中条きよしと石膏像のダビデを足して三で割ったみたいな」

「なにそれ、わかりにくい。でも美形であることは伝わったわ。いいわねえ。下宿の三浦友和といい、アルバイト先のダビデといい、どうして小島さんのまわりにはいい男が集まるの? ちょっと悔しい」

「まあまあ、いい男って言っても別にお付き合いしているわけじゃないんだから。それにアルバイト先の人が美形って、全然いらない要素だよ。気が散る」

「そうね。その美形の歯医者さんも悪徳医者だといけないから、よく調べて慎重にね」

「うん。分かってる。私、ナース服着るし、変な妄想されても困るし。ははは。それはそうと、上川さんとその後どう?」

「上川さんねえ。実はあんまりうまくいってないんだ。教室じゃあ何だから、あとで別のところでゆっくり話聞いてね」

「そっか。わかった」

 五月、六月、七月、そして夏休みをはさんで、坂口美子も交際に陰りを感じているようだった。私が苦しみながら吉川清彦との決別を決めたように。


 九月の終わり頃、桂木隆司に誘われて上野の院展に行った。このような美術館に行くのは初めてのことだったので、展示されている絵の大きさにまず圧倒されてしまった。

「わあー、すごいねー。でっかい」

「でかいとやっぱり迫力あるよな。よく描けると思うよ。俺もさ、油絵の通信教育やってた時あったけど、全然絵になんなくてさ、才能無いって諦めたよ」

「絵も描いてたの? すごいー。多才だね。油絵かあ。描くの難しそう。昔から絵が好きだったの」

「一応、美術史専攻だからね。西洋の画家で好きな絵とか一杯あるよ」

 桂木隆司は濃い眉毛をそびやかしながら答えた。

 彼は私の前を案内するように、気に入った絵の前で立ち止まり、

「この風景画いいな」とか「これはちょっと抽象的すぎる、グロい」とか言いながら、微細な筆のタッチを覗き込んでいた。その後姿を眺めながら、なんて姿勢のいい人なんだろうと思っていた。長い足を蹴るようにして、さっさっと歩いていく。その歩き方は、私の知っている誰のものとも違っていた。今までずっと歩いていて、これからもずっと歩いていくような、どこまでも歩いていけそうな。

 野生と繊細の共存。陽と陰の間を微妙に揺れる振り子。馬鹿話をしてゲラゲラと笑っていても、どこかに魂の静けさが潜んでいる。彼の魂の振幅は私のものと似ていた。だから私たちはいつの間にか何でも話せる親友になっていたのだ。

 美術館の中は結構広くて、一回りする頃にはすっかり疲れていた。階段を上る足が重かった。体力はまだまだ回復しているとは言えなかった。

 夏休み後、最初に会った安宅から、

「また痩せた? 栄養不足じゃない?」と、心配するでもなく軽く笑った感じで言われたことを思い出した。

 この身長で五十キロは確かに痩せすぎなのかもしれないし、パワーが出てこない感じはしていた。かといって沢山食べることもできなくなっていたのだ。自らに厳しい規制を課していて、消化の良いおかゆに近いものばかり食べていた。まだ完全に回復してはいない体を感じていた。この先いつまで食事に気を使っていなくてはならないのか。考えると気持ちが沈んだ。

 階段の上がり降りですぐ疲れて息が上がってしまう体が情けなかったが、それを桂木に気遣わせまいと必死で頑張っていた。ただでさえ食事のお付き合いで彼に物足りない思いをさせていた。これ以上「弱い女」と思われたくなかった。

 見物人も平日にしては多かったのではないだろうか。人だかりで絵の近くまで行けないこともあった。絵を十分見たからもういいか、と言い合って、彫刻や書道の方までは回らずに引き返した。

「これからどうする? もう疲れたか?」

「ちょっと疲れたけど大丈夫」

「科学博物館に寄れるか?」

「ここから近い?」

「近いよ。じゃ、科学博物館で休憩しよう」


 博物館までゆっくり歩いていった。館内にはいると、巨大な恐竜の骨が出迎えてくれた。

「うわー。やっぱりあったよ。俺が小学校の頃、親父がここに連れてきてくれたんだ。でっかい恐竜の骨が印象的でね。まだあるかなと思って来たら、やっぱりあったよ」

 興奮したように話す彼は少年のようだった。彼の少年時代を私は知らない。お互いに全く知らない今までの二十年間。これからもっと知り合っていけるだろうか。お互いの過去と現在、そして未来を。

 帰りの山手線はひどく混んでいた。桂木隆司は私をドアの方に寄せると、棒を掴み体全体で押し合う人たちから私をガードする体勢を取った。守ってくれている。しかも私に触れないように気を使っている。彼が男で、私が女であることが急に意識された。彼の深緑色のチェックのシャツからは、うっすらと煙草の匂いがした。

「混んでるな」

「うん。私混んでるの嫌いだから、いつも西武線、各停に乗ってるんだ。急行よりはまし」

「俺も嫌いだよ。だけど小田急線で新宿まで出ると、高田馬場まで山手線だろ? 何駅も無いんだけど朝のラッシュはきついよ」

「坂口さんが言ってたけど、山手線って痴漢がすごく多いんだって」

「そうなんだろうな。俺はやったことはないぜ。疑われるのだっていやじゃん。痴漢やれるほど神経図太くなりたいよ」

「男って面倒よねー」

「知ってもいねえくせに。ははは」

 電車が揺れるたびに踏ん張って耐えている彼をそっと目の端で見上げながら、その誠実さに感謝していた。友情か恋かと聞かれたら、迷わず友情と答えただろうが、私の気が付かない部分で、恋の気配が忍び込んでいたのかもしれない。


演劇博物館


 数日後、坂口美子から授業の後、話があるというので、二人で演劇博物館に行った。演博へと続く道の両側の銀杏並木はまだ青々としている。演博の前の広場では、白い胴着に黒い袴をはいた男子学生が四、五人いて、棒術の練習をしていた。二人で組になって二メートル近い長い棒で型を練習している。様式美を感じさせる武道だ。規則正しく互いの棒が当たる音がして、空気がここだけ清明であるような気がした。

 赤い屋根に白壁の洋風の造りの演博は、本部構内の北側の片隅で静かな佇まいを保って建っていた。ここには演劇関係の古びた資料が展示されていて、二階には油絵なども飾られている。学生たちも無闇にここに立ち寄ったりしない。静かであるというだけで、特に面白い展示物も無く、記念物を保管しているといった意味合いしかもたない博物館だ。普段でも外部からの見学者はほとんどいなかった。

 演博の中はひんやりとしていて、湿気が立ち込めている。板張りの床に塗布されているワックスが、いつも油臭く匂っていた。坂口美子と入っていくと、足音がガタッ、ガタッと大きく響いた。その時は沢田正二郎展をやっていた。早稲田の英文を出た演劇者だそうで、眉毛がものすごく濃いので、写真を見て二人して笑った。

「見て。ここ、オリムピックなんて書いてあるよ」

「本当。よくビルの看板でさあ、ビルヂングって書いてあるの見たことない?」

「ある、ある」

 演博の中で笑うと、笑い声も湿ってくるようだ。ガラスケースの中には、人形浄瑠璃の人形たちが、手、足、首、ばらばらにされて展示されていた。

 私たちは窓際の椅子に座った。

「私、上川さんとはもうお付き合いやめようと思ってるの」

「そう‥‥。やっぱり駄目だった?」

「うん。体の問題だけじゃなくてね、心も食い違ってきちゃったから‥‥。彼ね、女に学問はいらないって言ったのよ」

「ええっ、また考えの古い‥‥」

「そうでしょ? 彼が私に求めてるのは従順さとか可愛さだけなのよ。女は黙ってついてこい、みたいな。私、そういうのって嫌なの。こうして頑張って早稲田まで来たんだし、私だって何かやって出来ないことは無いんだから、私に出来ることは精一杯やりたいのよ。だけど彼は、そんなに頑張る必要は無いって言うの。女なんだからって」

「そういう考えってすごく嫌だよね。女だからどうとか言われると腹が立ってくる。彼氏、おとなしく家庭に入ってくれる女性を望んでるってこと? 私たちだってやりたいことあるんだからそうはいかないよね。心の核は守ったままで、そのまわりを柔軟に変えていくっていうならいいんだけど、核まで自分の思う通りに染めようなんて、傲慢だよ」

「うん。心の核まで吸収されたら終わりだよね」

彼女は溜息をつくようにして言った。

 こうした結論を出すまで随分悩んだことだろう。彼女は潔癖さと良識を大切に守っていく人だった。保守的というのも違っていた。人間としての自負も強く、人の好き嫌いははっきりしている方だった。一度嫌いだと決めた人にはもう見向きもしないきっぱりとした性格だった。

「それで上川さんには、ちゃんと坂口さんの気持ちは伝えたの?」

「そんなに簡単に言えるもんじゃないわよ。なんとか察してもらおうとそっけなくしてたら、彼ね、『僕が就職試験があるから気を使って本当の気持ちを言ってくれないなら、僕はかえってつらい。今、君の気持ちを聞かせてくれ』だって。でも面と向かって言えるわけがないわよ」

「そうか、上川さんの方も大事な時期なんだね。国家公務員の試験受けるって言ってたっけ」

「最初はそう言ってたけど、試験の日程が合わないんで、海上火災とか、そんな感じの大きい保険会社にしたんだって。どうせコネよ。勉強とかやめてそういう安易な道を選んだってことも、彼のこと嫌いになった一因かな」

「わあ、厳しい! よく知らないけど海上火災だってなかなか就職するの難しいんでしょ? いくらコネがあったからって入るの大変なんじゃないかな」

「そんなこと無い。お金とコネさえあればどうにだってなるのよ。彼、自分で人生を切り開いていく努力を放棄したんだわ。それとね、私、体育でスキー取っていて、二月に菅平に行くって言ったら、彼もね、僕も行くだなんて言うのよ。もういやになっちゃって」

「そうか。ちょっとしつこいよね。保護者感覚? 監視したいのかなと思っちゃうね」

「そうでしょ?」

「冷却期間置いたら? それでお互い離れていくようだったらそのまま自然消滅っていうことで」

「私もそう望んでるんだけど、彼がね、しょっちゅう寮に電話してくるし、この前だって図書館の中で強引に会う約束させられちゃって。彼が私につきまとってくるの」

「ああ、そうか‥‥。上川さんの気持ちも分からないでもないけど、変にしつこいのって逆効果だよね」

「うん。うん。最初は優しくしてくれるからいい気になってお付き合いしてたけど、ほんと、気持ちがぴったり合うのって難しいわあ。私が結婚する気持ちなんて無いのに思わせぶりしちゃったのがいけないんだわ」

 坂口美子は顔を曇らせてうつむいた。

「小島さんも誰かとお付き合いする時は気を付けた方がいいわよ。単なる友だちとしてやっていきたいのか、恋愛なのか、はっきりさせといた方がいいわよ。こっちが友情でも相手がそう思っていなかったら、お互いに悲劇だよ」

「そうだね。でも友情か恋愛か、はっきりと区切るのってむずかしいと思う」

「それはそうなんだけどね‥‥。そういえば小島さん、最近桂木くんとよく一緒にいるよね。正式にお付き合いしてるの?」

私と桂木、そういえば私たちの関係は何なんだろう?

「うーん、付き合って欲しいとか言われてないし、なんとなく空き時間におしゃべりしている感じなんだけど。どっちかというと友だち? 下品な馬鹿話して大笑いしてるし、男女の雰囲気じゃないと思ってるんだけど‥‥」

「小島さんがそう思っていても、相手がそうじゃない時もあるのよ。単なる友だちでいたいっていうんなら車なんか軽々しく乗らない方がいい。二人きりで出かけるのも避けた方がいいわよ。大学だけのお付き合いにしといた方がいい」

「ほおおー。石神井公園と、上野の美術館に行ってしまったよ‥‥。恋愛かなあ。友情のような気もしてるんだけど、私は友情のままでいいんだけど。ああー、男女の気持ちってややこしいね」

「そうよ。私の例を見て分かったでしょ? それにまだ恋愛じゃなかったとしても、友情のままでいるのって、恋愛関係になるのよりももっと難しいのかもしれないわよ」

 私は桂木隆司とどういう付き合い方をしたいのかまだ分かっていなかった。いつも淋しかったから、誰でも私に話しかけてくれる人は大切にしたかった。相手の気持ちを深く読もうともしていなかった。今の私が元気になれるのであればそれでいい。そんな付き合い方ではいつか誰かが傷つくのは分かっていた。しかし私はまだ誰かを本気で愛し、誇りをもって愛してもらえるほど本来の自分を回復してはいなかったのだ。

 演博から出ると、いつの間にか降り始めた霧のような秋雨が音も無く風景を霞ませていた。まだ棒術の学生は、髪を濡らしながら練習をしている。昨日は蝉の声が聞こえていたのに、今日は肌寒くすっかり秋の様相をしていた。


 金曜日の松原教授の英米演劇は私のお気に入りの授業になっていた。古典文学を軸に、哲学や宗教にまで踏み込んだアグレッシブな授業は、他の授業の追随を許さない迫力があった。

「‥‥白隠禅師が姦淫の濡れ衣を着せられ自分の子どもでもない赤ん坊を押し付けられた。それに抗わず自分の子のように抱き抱えながら托鉢をした。汚名を着せられ禅師は人々に罵られるようになるが、まったく意に介さず淡々と過ごしていた。それを見ていて耐えられなくなった娘の告白によって濡れ衣は晴れるのだが、禅師は、初めと同じように、別に怒る風もなく、

『ああそうか、父がいたか。よかったな』

と言って、その赤ん坊を返したのだ。物にこだわらない。言い訳しない。それが禅の真髄である。

‥‥過去の失敗から逃れようとして自分を捨てられるか。死を選んでもよいか。いや、それはよくない。自分というものはどんなに情けないものであったとしても、それも一緒くたにして愛さなくてはならない存在だ。

‥‥日本にないもので、ヨーロッパにあるもの、それは「悲劇」である。本当の悲劇では涙すら出ない。「ハムレット」で泣くとしたら、オフィリアに関するところだけだろう。「オセロー」ではデズデモーナが歌う歌のところ。ソフォクレスの「オイディプス」で泣く人はいないだろう。

‥‥悲劇は観客に畏敬(awe)の念を抱かせるもの。涙を誘うものはメロドラマという。

‥‥ニコマコス倫理学「しかるべき時にしかるべき仕方で怒らない者は痴呆である」

‥‥力は正義である。正義とは強者の利益である。

‥‥世の中の人は不正を非難するが、それは不正を行うことを恐れるからではなく、不正を被ることを恐れるからである。弱者は自分が弱いことを知っているので、平等をしきりに主張したがるのである。

‥‥力は正義である。能力のある人間、力のある者は、力のない者の犠牲の上に富み栄える。百人中九十九人を、一人の強者が抑える。

‥‥数は正義である。それは民主主義。多数決の論理。百人中五十一人に、四十九人が従う

‥‥道徳上倫理的な問題に、単純明快な解決は無い。」


 緊張感のある英米演劇の授業の後、本部近くの廣文堂へ英語の新しい教科書を買いに行った。ドイツ語も今度「神の裁き」という本が新たに教科書になるので少し前に購入したところだった。坂口美子はその薄さから二~三百円ぐらいだと思っていたのに、五百三十円だったことに驚いていた。

 書店の中には寺井雄二と畑中正則がいた。私が英語の教科書と共に、初級アマチュア無線の本を物色していたら、畑中がそれを覗き込んで、

「あ、僕と正反対。僕ね、あっちで少女フレンド読んでた」

と笑いながら言った。

「少女フレンド? 畑中くん、そういう漫画読むんだ。かわいい」

私も茶化しながら笑いを返す。

 彼らと別れて駅に向かった。誰かと会っていないと寂しい。歎研でのサークル活動がうまくいかなくなっていたから、他に何か新しいことを始めたいなと思い駅前のYMCAでいろいろなパンフレットをもらってきたが、どれも会費が高すぎて駄目だった。


 ドイツ語の老教授は、三週間続けて休講した。出席しようとして大学に来たクラスメートが、掲示板の休講の札を見て不満の声をもらす。サーファーの笈川が、

「あの先生、寝た切り老人になっちゃってるんじゃないか? 一人でうちで死んでたりして」

と騒いでいる。

 女子も「やあだあ」と言いながら笑っている。宿題のレポートをまた提出できなかった。


 



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