第11章 大学2年 11月・早稲田祭の頃
- kaburagi2
- 2022年10月30日
- 読了時間: 54分
更新日:2024年4月7日
早稲田祭が始まる前の土日、桂木隆司は甲府の美術館に行っているし、坂口美子もどこかに出かけているらしく寮に電話してもつかまらなかった。誰とも会えない土日は特に寂しい。
私は発作的に大学からそのまま山手線で上野まで行き、午後の東北線に飛び乗ってしまった。電車は既に満席で座れず、立っている人も多い。電車が動き出すまでの間、私はまだ宇都宮に帰るかどうかふんぎりがついていない。思い立って急に帰ることが可能な距離であるだけに、明確な意思の無いままつい電車に乗ってしまった。
発車のベルがジリリリと激しく鳴り始めると戦慄すら感じる。宇都宮までの数時間、満員の電車の中で閉塞感に苦しむことが分かっていても、一人では支えきれない何ものかがまだ私の内に巣くっていた。
開け放された窓から冷たい風が吹き込んでくる。私はドアに凭れかかるようにして風を避けた。秋の終わりの午後は、既に夕暮れの気配がある。ススキとセイタカアワダチソウのシルエットが、小さく凍り付いた花火のように夕日に浮かんで流れていく。後ろ向きの心が、こうして電車に乗っている自分を非難している。動き出してしまった電車から途中下車しようという勇気はもう無い。
電車に乗っていることから意識を逸らそうとして、外の景色に背を向けて文庫本サイズのエル・グレコの小さな画集を開いた。涙をたたえた聖ペテロが、手を組み合わせ天を振り仰いで祈っている。通俗だとして評価の低いグレコだが、聖ペテロの涙は私が流して来た涙と同じもののように思えて、目を逸らすことができなかった。
聖ペテロは天国の鍵を持っているという。救いの鍵を持っていてさえも、悲しみや疑いが消えないというのなら、救済の秘蹟をきっぱりと拒んでしまった私は、この宇宙のどこにも身の拠り所を持てないまま、一人ぼっちで見知らぬ街を漂うしかないのだろうか。
尾口博史はカンディンスキーが好きだと言っていた。美しい玩具を自由に取り散らかしたような画風。幾何学的なくっきりした線で描かれた物象、瞬発力のある色彩美、直線や曲線が画面上を楽し気に遊んでいる。大切なことは、何を表したかを分析することではない。意味より先に感覚がある。カンディンスキーが好きだという尾口博史は、端的なフィーリングや明快さを好む陽の世界の人なのだろう。
桂木隆司は…確かラ・トゥールという画家を研究しているのだった。暗闇の中でろうそくの炎を見つめるマリア。その片手は頭蓋骨の上に置かれている。揺らめくろうそくの長い炎。彼もまたろうそくほどの明かりも無い夜の暗さを耐えたことがあるのだろうか。ラ・トゥールを愛する彼の心は、あるいは私の心にどこか似通っているのかもしれない。
電車の中から日没を見た。もう五時前に日の沈む時期になったのだ。
家に帰ったからといって別に何もやることはない。両親に顔を見せればひとまず安心してもらえる。それだけのためだ。私は手持無沙汰を騙すために、飛びついてくる飼い犬にかまけて時間をつぶすしかない。
家に全然帰らないでも全く平気なような、そんな奔放な娘であった方が、実は本当の意味で安心であることに、両親は気づいていない。
月曜日の午前には、再び東京への電車に乗り込んだ。授業はもう無いのだが、この日午後に早慶戦の三回戦が行われることになっていた。土曜日の試合は慶応に負け、日曜は十一対一で慶応に勝った。今日が決勝戦だ。
外はどんよりと曇っていて雨が降り出しそうだ。陽射しの照り返しが無いために、停車場の茶色の機材がくっきりと見える。宇都宮始発の電車はまだガラガラだった。車内には油のような匂いがたちこめている。私はボックス型の座席に進行方向を向いて腰掛け、窓際に頬杖をついてぼんやりと外を眺めていた。動き出すまでの待ち時間がやりきれない。
すぐそばのドアから乗り込んできた一人の青年が、座席を探すように通路に立ち止まった。どちらの方向に行こうかと首を左右に動かしているのが視界の隅に入った。青年は、ふと私を覗き込むようにした。
「あっ、もしかして小島さん?」
その声に顔を上げて青年を見たが、すぐには誰だか分からなかった。
「あ、えーと、中学の時、一緒だった‥‥?」
「そう、篠田です」
名前を聞いてやっとなんとなく思い出した。篠田哲、同じクラスにはならなかったが、隣のクラスにいた人で、廊下で時々私に話しかけてきたことのある人だ。突然「小島さんにあげる」、と言って和同開珎の古銭を一枚、私に差し出してきたことがあった。
中学生だったあの時は私より背が低く、幼いような丸い顔をしていた。今見る彼はさすがに背が高くなっていて、顎の線がしっかりしていた。切れ長の目とやや大きい鼻がかつての面影を残している。
「前、座っていい?」
「ええ、どうぞ」
篠田哲は鞄を網棚にのせ、座席に腰を下ろすと私を正面からまじまじと見つめた。
「なんだか中学の頃に比べて随分変わったね。少し瘦せたかな?」
「そう?」
「うん、垢ぬけたっていうか、‥‥里中満智子の『悪女志願』の主人公に似てるよ」
「読んだことないけど…私って悪女っぽい?」
「いや、そういう意味じゃなくて、ただ似てると思った。髪型とか雰囲気とか」
私はどう答えたらいいのか分からなかったので、黙って頬だけで微笑んだ。心のどこかがしらけていて、彼と会話を楽しむ気にはなれなかった。そもそも隣のクラスの人だったので交流もほとんど無く、どんな人なのかも知らない。中学が一緒だからといってそうは懐かしい気持ちにはなれなかった。
視線を窓の外に彷徨わせると、緑色をした箱のようなコンテナが向こうの線路にいくつか並んでいるのが見えた。貨車も何台か待機している。その壁面に書いてある「クハ」とか「モハ」とかの数字や記号の意味を、子どもの頃国鉄勤めの父から教わった時のことを思い出そうとしていた。あれはどんな意味を表していたのだったろう。
「確か慶応に行ってるんだっけ。宇都宮セミナーの広告に載ってたのを見たよ」
「ああ、あれは違うの。慶応は補欠で結局落ちちゃったの。本当は早稲田」
「そうなのか。僕は千葉大の工学部。二浪で入ったからまだ一年なんだ。入ったのはいいけど第一志望じゃなかったから授業に興味が持てなくてね。結構落ちこぼれてるんだ。文芸クラブの部長やっててね。そのためだけに大学通ってるっていう感じだよ」
「小説を書いてるの?」
「うん。書いてる。‥‥小島さん、中学の時、死について書いた作文とか、遠藤周作の「沈黙」の感想文で賞をもらってたでしょ? あの作文がすごく衝撃的でさあ。僕もいつか小島さんみたいな文章を書きたいって思ってたんだ」
「賞って言っても‥‥。中学生にしては、女の子にしては、っていう接頭語がついてる受賞だったと思うの。‥‥子どもにしては、女性にしては、高齢者にしては、障がいのある人にしては、‥‥そういう接頭語がついてる作品の評価は信用ならないと今でも思ってる」
「そんなことないよ。すごい作文だったよ。小島さん、まだ何か書いてるの?」
「小説は書いてないけど、詩を少しね」
「詩を書いてるのか。今度読ませてほしいなあ」
ホームに発車のベルの音が響く。切り裂かれるような痛みを、この音を聞く度に感じていた。一瞬目を閉じて耐えた表情を、篠田哲に見られてしまっただろうか。
電車が動き出す。彼と膝と膝がぶつかりそうになって、私は窓の方に体を捻じ曲げた。こんな窮屈な態勢で東京まで行かなくてはならないことに既にうんざりしていた。
彼の膝の上には、『プラトン全集』と『性の社会学』の分厚い本が乗せられていた。中学の頃は特に目立つところの無い人だったけれど、文学を始めたとは少し意外だった。
「今、『青春の門』を読んでるんだ。早稲田が舞台なんだよね。読んだ?」
「途中まではね」
「梓先生とどうなるか、僕、すごく気になってるんだ。年上の女性との恋愛って経験無いから、どんな風かなって想像するとちょっと刺激的だよ」
「私には、読んでいてちょっとつらい部分があるけどね。男の人にはこれがリアルな青春なんだろうなとは思う」
「女の人にはそうかもしれないね。性的な描写とかレイプシーンとか、きっと嫌なんじゃない?」
彼は私の顔を斜めからうかがうようにする。その視線が煩わしかった。揺れる電車の中でジーンズをはいたお互いの膝と膝がどうしても触れ合ってしまう。性的な話題に触れようとする彼に不快の念が沸き起こってきて、私は冷たい顔をしたまま遠くの景色を眺めていた。
「女性にとっての幸福は結婚だと思ってるんだけど、小島さんはどう思う?」
そんなことを聞いてどうするというのだ。最初から肯定の意見など求めてはいないのだろう。私がリベラルだとかセオリストだとかレッテルを貼りたいだけなのだ。
「結婚で幸福になれると思うならすればいいし、それ以外に幸福になれる方法を持っているとか、探したいと思うなら、結婚にこだわらなくていいんじゃないかな」
「ふーん。小島さんはすぐには結婚したくない方でしょう」
「たぶんそうでしょうね」
「抽象思考が先だってしまうと、素直になれなくなるっていうこともあるしね。千葉大の女の子って、すぐに寄りかかってくるっていうか、自立してないって感じる時がよくあるんだ。それに比べて、早大の女の子は違うね。すごく大人っぽい」
篠田哲はその後も私の反応を試すように、次々と議論を吹っかけてきた。私はそれを醒めた心で受け流していた。それはそれで一つの効果だった。彼は自分の言う事なら何でも賛美し迎合する千葉大のいわゆる『可愛い子ちゃん』とは系統を異にする私の虚無に、独り善がりの解釈を与え、私を『早稲田の女の子』として特別な目で見ているらしかった。ここで私が煙草でも吸えば、そのイメージはより固定化するのだろうか。化粧もしていない沈んだ顔色を彼の前にさらしていながら、もうどうでもいいと思っていた。
「関口、覚えてる? 関口」
急に彼は言った。
「関口君? うん、覚えてるよ」
「あいつ、まだ詩を書いてるよ。家の都合でもう就職してるんだけどさ、詩の同人誌の会に入ってるらしいよ。学生のじゃなくて、大人の、一般の人の」
「そう。まだ書いているの。なんだかうれしい」
「あいつ、小島さんのことが好きで有名だったものな」
「ああ、そんなこともあったね。一度、自作の詩を書いた紙をもらったことがある」
中学一年の時、朝一番に学校に行く習慣があった私は、誰もいない教室で、覚えた中原中也や立原道造の詩を黒板一杯に書きなぐるのを日々の習いとしていた。誰か来る前に消すつもりだったが、サッカーの部活でやはり早朝に登校して来る同級の関口由夫に、その落書きをたびたび見られていた。彼は教室の片隅でそそくさと着替えると、黒板に書かれた詩を一瞥して校庭に向って走っていった。
彼はサッカ―少年ではあったが、国語も大好きだった。国語資料集に乗っていた北原白秋の詩「落葉松」を、私の隣の席で暗誦してみせたりしていた。
中二、中三では別のクラスになってしまっていたが、何かの集会で体育館に全校生徒が集まっていた時、手から手に一枚の紙切れが私のところに回ってきて、開いてみたら関口由夫の詩だったことがあった。別にラブレターというものでもなく普通の詩、「お寺の鐘に夕日が射して/森のカラスがカアと鳴く/僕はどこへ帰ろうか」みたいな。
関口由夫とは、そんな詩のつながりがあった。学年が上がると、彼は廊下で私を見かけるたびにダッシュして忍者のように逃げるようになってしまっていた。私はいつもそんな彼を見て苦笑していた。天然パーマで、サッカーが得意で、ゴールキーパーとして俊敏な動きをしていた彼を思い出す。
「僕も、和同開珎を小島さんにあげたことあったよね。まだ持ってる?」
「ああ、実家の机の引き出しに入ってる」
「よかった。ずっと持っててくれるとうれしい」
「何でくれたのか意味分からなかったけど」
「あれだよ、好きな子に自分のものを持っていてほしいっていう」
「ああ、ごめん。全然気付かなかった。何気にもらっちゃった」
「いいんだ。持っててくれれば」
彼は鼻のあたりをかいて、少しだけ微笑んだ。
間々田を過ぎたあたりから、あまり話すこともなくなり、お互いに黙っていた。時々彼の視線を感じた。私は気づかない振りをして、横顔を彼に見せていた。きっと青ざめた冷たい表情をしているに違いない。いつもの仮面をつけるきっかけももう失ってしまった。
大学にいる時は皆に嫌われたくなくて、誰にでも尻尾を振って人懐こい振りをしていただけなのだ。本当の自分は孤独に疲れ切っていて、暗く弱々しい。虚勢を張る気力さえ無くして、こうして黙り込んでいる。それを篠田哲は大人っぽさと誤解して興味のある目を向けて来る。皮肉と言えば皮肉だ。
大宮を過ぎたあたりから彼は少し焦り始めた様子で、話題を探そうとしていた。私は赤羽で電車を降りる予定だった。降りてしまえばもう偶然にしてでも会う機会は無いだろう。
「もうすぐ早稲田祭だよね。うちの大学も同じころ大学祭なんだよ。文芸雑誌を交換するために早稲田に行くかもしれない。その時にでも会わない?」
「そうねえ…」
どうせ千葉からなんてそうは出て来られまいと思った。会うつもりなどなかった。
「じゃあ、東京に出てくる時、連絡するから、電話番号教えてくれない?」
「電話番号‥‥か」
一瞬どうしようかと迷った。どういうつもりで私に会いたいと言っているのか。ややこしい要求を持ち出されても困ると思った。そんな私の逡巡を見破ったかのように彼は、
「別にしつこく付きまとうつもりなんてないからさあ。僕が東京に出てこられる時にでも会って、少し文学のことについてでもお話したいと思って…」
と、少し慌てて言った。
「そう‥‥じゃあ、教えてあげる」
「よかった」
彼のうれしそうな顔。彼の小さな手帳に電話番号を書きながら、なんだかすべてが面倒だと思い続けていた。
東北線を降りるとそのまま山手線に乗り、代々木から総武線に乗り換えて信濃町まで行った。この駅でよかったのだろうかと不安に思っていたら、明治大学の学生たちが提灯を持ってぞろぞろと乗り込んできた。
神宮球場前の広場は明大の人たちで一杯だった。今年は一足早く明大が優勝を決めたのだ。興奮して大声を出して騒いでいる。真っ黒な学生服を着た男子学生があちこちにたむろしていて、その群れの中を一人で歩いていくと怖い感じがする。神宮の森の深い木々の連なりが薄暗くあたりに覆いかぶさっている。
ネットの内側でバッティングの練習をしている数名の選手がいる。その力強いスウィングと、跳ね飛んでいく硬いボールを、ただ自分の方に迫ってくる勢いとして圧倒されるような思いでしばらく眺めていた。
もう早稲田と慶応の試合は始まっていた。学生席は一杯で、私は後ろの方に立って見ていたが、外野席が比較的すいているようなのでしばらくしてそちらへ移動した。誰か知っている人はいないかと学生席の方をうかがってみたが、遠いしぎゅうぎゅうに混みあっているのでとても一人一人の顔までは判別できなかった。
芝生の緑がしみるようにしっとりした色合いを見せている。空は暗く曇ったままで、芝生の上に散らばって立つ白いユニフォーム姿の選手たちが妙に浮き立って見えた。
先に早稲田が一点を先取した。学生たちの歓声は耳を聾せんばかりだった。試合よりは
応援のすごさに度肝を抜かれていた。角帽をかぶったマンガのフクちゃんの大きな絵が描かれた看板が外野席の後ろの方に立てられている。今日の日の応援のために入れ込んできた学生たちも沢山いるのだろう。
六回の裏に慶応が一点を入れ返した。双方の応援団とも、絶叫したまましばらくは収まりがつかない。学生たちは立ち上がり、どよめき、紙吹雪を投げ上げ、皆が最大級のリアクションで、点を入れた事、入れられた事に声を上げ、熱狂していた。
早稲田の学生たちが応援団のリードで『都の西北』を歌い出す。慶応側も負けずに『陸の王者』を歌い出す。熱気が固まりのようになって騒然とした球場を覆っている。学生席は興奮の高まりのままに皆声を張り上げて応援歌を競っている。野球の試合だけではない、応援も戦いなのだ。
外野席にいる者は比較的冷静で、あまり騒いだりせずに静かに観戦している。席にゆとりがあるせいか横の連帯感も薄かった。私には外野席ぐらいの冷めた気分の方がむしろ居心地がいい。
バッターがヒットを打った。外野手が滑り込んでボールを取ろうとして、芝生の上をざあっと転がっていく。外野席のすぐ下まで滑り込んできた。私のまわりに座っていた人たちも思わず「おおっ!」と声を上げる。一瞬、私も芝生の冷ややかな感触を頬に感じたような気がした。テレビ中継では味わえない生の迫力だ。外野手はすばやく起き上がり、ボールを投げ返す。そのシュッという音さえも聞こえたかのように思えた。
試合は一対一のまま延長戦に入り、十二回延長した後、早稲田が一点を入れて勝った。私は長引いた試合に少し飽きてきていて、日暮れと共につけられたオレンジ色のナイター照明が、上空で燦然と輝いているのをずっと見ていた。夜を見ないために。もう五時近くになって空は完全に暮れている。
選手たちが引っ込んだあとも試合の余韻が残っていて学生たちはなおも座席でざわめいていた。私は電車が混まないうちにと、すぐに席を立った。背中から大勢の者たちが歌う早稲田の校歌が重く低く追いかけてくる。その歌に口の中で和して歩きながら、いつのまにか早稲田の校歌を覚えてしまっていることに気が付いた。
帰りの電車の中で篠田哲に軽率に与えてしまった電話番号の行方についてぼんやりと考えていた。もう電車の窓からは、夜と建物の明かりしか見えない。闇が私の上に垂れこめてくる。怯えそうになる。この瞬間、一体誰が私のことを気にかけてくれているだろう。今倒れかかったら、一体誰が抱き抱えてくれるのだろう。
まわりに乗っている学生たちは試合後の興奮も冷めやらず声高に話し騒いでいる。私は電車の窓ガラスに映った自分の顔を見つめながら、ほら、一人ぼっちでも全然平気な顔をしているじゃないか、まわりにいる人たちと何も変わらないよ、と懸命に自分に言いきかせていた。
時々下宿でお化粧の練習などをした。桂木に会う時は少しだけお化粧めいたこともしたのだが、彼が気付くか気づかないかの程度の薄さで、口紅も控えめだった。
ちゃんとファウンデーションをつけて鏡を覗いてみた。鏡の中の顔は不自然に白くお面のように平板に見える。もっと微妙な陰影をつけたり、こまやかに色彩を使えば自然な感じになるのだろうか。頬紅も薄く重ねてみた。
アイラインとかマスカラとかつけまつげとか、アイメイクはどうやったらいいのかわからない。道具も何も持っていない。幸い睫毛が長いと昔からよく人に言われる。マスカラは必要ないかもしれない。
濃い赤の口紅を塗ってみる。急に派手やかになった口元が圧倒的に顔の印象を変えている。唇ばかりに目が行ってしまう。
お化粧をした自分の顔はよそよそしくてなかなか馴染めない。鏡の中でいろいろな顔をしてみて、やっぱり変だ、と思った。大きめの鏡に映した自分をカメラで気取って自撮りしてから、すぐにごしごしとティッシュで拭き取った。
もっと美しくなりたいと思った。別人みたくきれいになったら桂木は目を見張ってくれるだろうか。でも彼は今のところ私に女性らしさは求めてはいない。急に派手なメイクなどしたら、「おまえ、どうかしたのか」などと言われてかえって引かれてしまいそうだ。
十一月に入った。一日は早稲田祭の前夜祭の準備のためもう授業は無い。坂口美子と誘い合わせて、十時ごろ学習院大学の学園祭を見に行った。しかし、まだ準備中のようで、屋台などを作っている最中だった。板切れや段ボールを運ぶ学生たちがばたばたと行き交っている。待っていてもしばらくは何も始まりそうになかった。
「来て損しちゃった。これからどうしよう」
坂口美子と顔を見合わせてぼやきながら、ピラミッド校舎や生協食堂あたりをうろうろしていた。よその大学なので、勝手に教室にも入っていけず、ラウンジのような休憩場所も探し出せない。
その時、校舎の間の道を書類を持った二人の女子学生がこちらに近づいてきた。彼女たちの顔にはちょっとだけ見覚えがあった。今年の春、私より後に入ってきた歎研の新入部員だ。彼女らと親しくなる前に、私は入れ違いのように歎研をやめてしまっていた。
彼女たちは私たちの前で立ち止まり、緊張した面持ちで尋ねてきた。
「あの、早稲田の歎異抄研究会の者なんですが、学習院の方ですか?」
坂口美子が私の顔をちらりと見ながら答えた。
「いいえ」
学園祭の時期は勧誘の書き入れ時だ。多くの歎研の部員たちが各大学に散っているのだろう。私も歎研を抜けなかったら、こうして他人を顕証することを命じられたのだろうか。きっと私には出来なかった。他人を引き入れたいと思うほどの『信』を数ヶ月で得られていたとは思えない。
「ちょっとお話を聞いていきませんか」
その言い方に、四月の晴れた日、吉川清彦に声をかけられた時のことをふと思い出した。あの時の学習院は桜の盛りで空がもっと明るかった。私は何の思想も持たず、吉川清彦の語るすべての言葉に畏敬を抱き、歎研に希望を見ようとしていた。君を絶対に信心決定させてみせる、そこまで言ってくれた人なのに、私は彼にとってやはり裏切る側の人間だった。しかし胸を張って言おう。裏切ったのではない。私は私であろうとしただけだ。
「人生の目的や、本当の幸福について知りたいと思いませんか? 何があっても消えることのない絶対の幸福を獲得するためにはどうしたらいいかについて、お話をさせていただいています」
彼女たちは、吉川清彦と同じようなことを言った。『勧誘のマニュアル』というものでもたぶんあるのだろう。
私は坂口美子の前に一歩出て、彼女たちを真っ直ぐにみつめてゆっくりと言った。
「私、一度歎研に入って、抜けたんです。歎研にはもう戻らないつもりです」
女子学生たちはちょっとびっくりした顔をした。
「あっ、そうだったんですか。お話したのは誰でしょう?」
「吉川さんです」
久し振りにその名前を口にした。懐かしくつらい名前だ。
「ああ、吉川さんですか」
「歎研に戻る気はありませんが、吉川さんにひどいこと言って歎研をやめたから、ちょっと気になってて‥‥。もし吉川さんに後で会ったら、私がお詫びしてたって伝えてください。私、小島といいます」
「小島さん? あっ、‥‥そうだったんですね」
彼女たちは腑に落ちたように顔を見合わせた。私と吉川清彦とのことは、歎研内でも何か話題になっていたのだろうか。またあの痛みがチクリと胸を刺した。
「でも、もしよかったら、ちょっとお話聞いていきませんか? 人生の目的や本当の幸福について、もう一度考えてみませんか? 私はずっと自律神経失調症で苦しんでて薬も飲んでいるんですけど、歎研に入って仏教のお話を聞いてから心が落ち着いてきたような気がするんです。歎研でお話を聞いていくと、必ず絶対の幸福を得られるようになるんです」
「そうですか。続けて聞いていけばきっとそうなれるんでしょうね。でも今はちょっと歎研に戻る気は無くて‥‥。今日は友だちと一緒ですし、機会があったらまたお話しましょう」
二人の女子学生は残念そうに微笑んだ。
「私たちあの建物の一階に部室借りてますから、時間があったら是非来てくださいね」
彼女たちが行ってしまったあと坂口美子は溜息をついた。
「歎異抄研究会ってあんな感じなの? 私にはちょっとついていけんなあ」
私はちょっと笑った。
「生きるとか死ぬとか、追及するテーマが壮大過ぎるんだよね。私も全然ついていけなかったよ」
暇な時間ができてしまったので、坂口美子と池袋の『サンシャイン60』に行ってみることにした。つい最近できたばかりの、このあたりでは一番高い高層ビルだ。池袋の駅を降りて、ひと際高く聳える銀色のビルを目指して私たちは歩いた。
地下道へ降りるエスカレーターの所で、坂口美子は悪戯っぽい顔をして私を振り向いた。
「あの角を曲がったら驚くものがあるよ。すごく感動するから」
「えー? 何? 何?」
エスカレーターを降りた所にあったのは、動く歩道だった。スピードはかなりゆっくりで、動く歩道の外を普通に歩いて行く人がどんどん追い越してゆく。
「ねえ? 面白いでしょう? 降りる時がまた傑作なのよ」
彼女は先に立って歩道を降り、大袈裟にコケる真似をした。
「本当だー! コケそうになる!」
「でしょ? 大阪駅にもこういうのがあってね、妹なんかもろにコケたんだよー!」
彼女の笑いを見ていると救われる。いい意味で天真爛漫な人だ。
サンシャイン60のビルの地下一階の噴水広場は、三階くらいまでの吹き抜けになっている。音楽に合わせて光の色と水の形が変わる大噴水がここの呼び物だった。私たちはしばらく噴水広場に立って、感嘆しながら眺めていた。
噴水の多彩なバリエーション。虹のように水の中を突き抜ける光。リズム感あふれる水の動きは見ていて飽きなかった。軽やかなBGMに乗って、注ぎ込まれ、吹き上がり、静止する。白い飛沫が霧のように飛ぶ。点滅する色彩豊かな照明の中で、華やかなショーはいつまでも繰り広げられていた。
ロシアの民芸品のお店で、彼女は実家に送るのだと言ってジャムのセットを買い、私は安いものは何か無いかと探して、縦笛のようなウクライナの笛を買った。他に置いてあるのは、蓋を開けても開けても人形が出てくるマトリョーシカ、木のおもちゃ、壺など。興味を引かれるものも多かったが、このお店にある品はどれも手が出せないほど高い。
輸入品売り場では試供品の香水を振りかけ合って、
「これって紳士の香りだってよ」
と言いながらお互いをくんくん嗅いだ。
「こんな匂いつけて帰ったら、実家だったら大騒ぎだよ」
「確かに。よく電車でも柑橘系の香りがきつい男の人っているよね」
「うん、うん。ポマード臭いのもたまらん」
香水の匂いはしつこく、なかなか消えそうになかった。本当に男性の香りをつけて帰っても誰も気に掛けることもない下宿生活の気安さと、危険な自由。それをうまく利用できるほどには私たちは器用でも小ずるくも無い。こんな気取った香水つけてる男の人ってどうなのよ?と言いながら、私たちはふふっと笑い合った。
一通りお店を覗いたあと、エレベーターに乗って展望台に行くことにした。ロビーのカウンターのようなところに案内嬢が座っていた。帽子をかぶりピンクのワンピースを着て、しっかりお化粧をしたまるで人形のようにきれいな人。
「あのう、展望台に行くエレベーターはどこにあるんですか?」
案内嬢は白い手袋をはめた手をバスガイドのように掲げると、ひどく職業的な鼻にかかった声で答えた。
「こちらをまっすぐに行って、左に曲がったところでございます」
私たちはその場は神妙にお礼を言って離れたが、廊下を曲がるともう我慢できなくなって顔を見合わせてぷーっと吹き出してしまった。
「聞いた? あの声。鼻に抜けちゃってるの。どうやったらあんな声が出るの? こちらをまっすぐに行って‥‥」
「いや、こうだよ。こちらをまっすぐ‥‥」
鼻をひくひくして真似し合ってゲラゲラと大笑いをした。
展望料金は五百円だった。展望台へのエレベーターは六百m/分の高速で上るので、耳がつーんと痛くなる。エレベーターの中は展望台に行く人で満員で、さっきつけた紳士の香りがまわりの人の迷惑にならないかちょっと気になった。私はエレベーターの階数を表す数字がどんどん上に点滅していくのをドキドキしながら見つめていた。猛スピードで一気に六十階まで上がるのは初めてだ。
よく晴れているので展望はすばらしい。高さに慣れないうちは足元がふわふわして窓際に寄るのが怖かった。三百六十度ガラス張りの展望。転落の感覚に襲われそうになる。
「ほら、あそこにBIG・BOXがあるよ」
「本当だ、すごーい」
遠くの霞の中に海さえ見えそうだ。地平線を眺めると、地球の描く弧が感じられた。雲が街に大きな影を落として動いていくのが見えた。一面に建物で埋め尽くされた街。ごちゃごちゃと片付けようも無く、眩暈するほどに見極めがつかない。かたわらには新宿のビル群、あちらこちらに小さな緑の森が窮屈そうにかたまっている。
何か密度の高いざわめきが、はるか下の方に淀んでいるような気がした。私は吸い込まれるように眼下の風景を眺めていた。開放感もあったが、同時に、逃げ場のない空中の孤島にいるような気もしていた。
これが東京だった。東北線で入って行く時、いつもその無機質な建物の海を前にして息が塞がれそうになる。矩形を基本にして拡がる人工物の硬さや冷たさ。それが主たる東京の構成物だった。いかに便利で、いかに文化的に優れていても、ここに住み続けることなどできはしないと思わせる何かが東京にはあった。私にとって東京は組み伏すことのできない怪物‥‥。
五十円で望遠鏡を覗くと、東京タワーと荒川が見えた。
坂口美子は、
「戦争の頃、この辺はすっかり焼けてたんだよね。こんな上から見下ろしていると、本当に誰が死んでもいいっていう感じだね」
と、しんみり言った。
展望台からのエレベーターを降りて、レストランに入って休憩した。
「結構疲れたね。でも面白かった」
「やっぱり展望がすごかったよ」
「また来ようね」
食事の後、彼女と恋愛について真面目な話をした。
「‥‥ねえ、聞いて。私ね、この前ちゃんと上川さんにお別れしましょうって言ったの。そうしたら、君は疲れているんだとか言って、まともに聞いてくれないの」
「そう‥‥やっとちゃんと言えたんだね。でも彼氏も坂口さんにまだ相当気持ちが残っているわけだし、そう簡単に手放したくないんだろうね」
「そうなんだろうけどね。今までだってそれとなく匂わせてきたのに、全然本気で取り合ってくれなくて。ちょっとうんざりしちゃった。それでね、私が本部から文学部まで歩いていく間に、何人もの知っている男の人に会って、こんにちは、こんにちは、って挨拶してたら、君は八方美人だ、少し自重したまえ、だって」
「ははは、坂口さん、もてるからねえ。彼氏からしたら気になるよね」
「もてるっていうのとも違うんだけど、でも私少し反省した。自分の方を注目してもらいたいとか、いつでも思われていたいっていう感情は、孤独な女の子なら誰でも持つ感情だと思うけど、そんな風にしてあちこちの誘いに乗ってしまうのって、とっても危険なことなんじゃないかなって。思わせぶりでいろんな人を繋ぎとめておいたとしても、いつかはその人たちを傷つけることになっちゃうんだよね。自分自身だって不誠実さに苦しむ事になるでしょう?」
「そうだね‥‥。実は私も最近同じようなことを考えてた。‥‥たとえば授業で、他に席があるのに私の隣に男子が座ってくることがあるのよね。わざわざそばに来るということは、私に興味があるのかなと思うけど、席を立って離れるのもおかしいから、そのまま話しかけられれば普通に会話してしまうよね。そういうのが何回もあって、でもそれってどうなの? 愛想よくしてたりして、きっぱり拒絶してない私は、男子の心を弄んでるっていうことになっちゃうの? 私は普通に友だちとして接しているだけなんだけど」
「小島さん、きれいだし、小島さんの微笑みは魔力あるからね。きっといい気になっちゃってる人もいるかもね」
「ええー? そう? 私って魔性?」
「期せずして魔性よね」
「そう?! それなら坂口さんだって十分に魔性だよ? まあまあ、冗談はさておき、早稲田って男子多いから、男子と話さないわけにはいかないじゃない。そこに変な感情が入ってくると、考えちゃうよね。私の態度はこれで正しいのかなって。いろんな思惑で心が渋滞しちゃってる感じ。私の考え過ぎで、相手も私の事を単なる友だちとしか思ってないのならそれに越したことはないんだけどね」
「そうね。私もね、友だちのままでいられるなら何人だって男の人のお友だちいてもいいんだけど‥‥。面白い人っていっぱいいるからね」
「ほんとだよね」
「小島さん、教室で何人か男子と親しくお話してるの知ってるけど、誰か本命はいるの? 安達くんとか、尾口くんとか、松下くんとか、桂木くん、あと西城くんも?」
「そうだねえ。一番波長が合うのは桂木くんかな。話してて一番気が合うっていうか、面白いし気取らないで馬鹿な話もできるから」
「桂木くん? 彼いつも教室の後ろの方に座ってるから、私、同じクラスなのにまだ一度も話したことが無いんだけど、信頼できそう?」
「うん。信頼できる。いい人だと思う。思いやりもある」
「それは恋愛?」
「まだ恋愛じゃないと思ってるんだけど‥‥。友だち以上ではある」
「恋愛にしたいの?」
「そうねえ。今のまま気持ちが進めばたぶん恋愛になるんだろうけど、私、卒業したら東京にいたくないのよね。卒業で終わるなら恋愛にしちゃいけないって思ってるんだ」
「それなら、今のうちにはっきり言っておいた方がいいわよ。じゃないといつか、君の気持ちはどうなんだって詰め寄られるわよ。キスなんか迫られて慌てても遅いのよ」
「そうかー。そうだよね。でも気持ちって難しい。歯止めなんかかけられなくなるのが恋愛だからね。彼の気持ちがっていうより、私の気持ちも危うい。友だちだなんて言っていられない日がもうすぐ来そうで」
桂木隆司に日展に誘われていることを思い出した。日に焼けた精悍な笑顔。見つめられれば怖くなるほどの強い目の光。今にも私をさらいそうな長い腕。私が恋と認めてしまえば済む感情を、きれいごとの友情ごっこにとどめておこうと算段するのは、身も心もすべて奪われたら、心の平衡ごと崩れ去ってしまうような気がしていたからだ。
「今は何も言い出せないなあ」
「お互いに好きならそれでいいんだし、怖いのはどちらかが一方的に恋愛になっちゃって、 もう一方の人がそれに応えられない場合、もう友だちにさえなれないということね」
彼女の言葉が耳の奥でかすんだ。彼とのことは、もう少し時間をかけてじっくり考えなくてはいけない。
翌日の早稲田祭には、宇都宮稲門会の手伝いをすることになっていた。宇都宮女子高の後輩と高田馬場で待ち合わせて早稲田に向かった。校門に入る時には三百円を出して分厚い冊子状のパンフレットを買わなくてはならない。これが入場券の代わりだった。
パンフレットの表紙は赤と黒の二色刷りで、軍服を着た人物が足を組んで椅子に座っている絵が描かれていた。その人物には顔が無く、ワイシャツの襟から巨大な手が、ぐいっと何かをもがき掴もうとするかのように虚空に突き出ていた。遠景は極端な凹レンズ視の荒涼とした山脈である。判じ物のように不気味でインパクトのある絵。いかにも早稲田生が好みそうな形而上学的暗示に満ちている。
早稲田祭はお祭りとはいえ、やはりシンポジウムや講演会、パネルディスカッションも多いようである。『インドシナの二つの戦争は理論戦線に何を問うたか』『トロツキーの理論的遺産・永続革命論』『頻発する原発事故を考える』『言語論の位相』『変貌する政治構造と八十年代の労働運動』‥‥あまりにものものしいタイトルに、活動家か学究派でないかぎり、ほとんどの一般学生は恐れをなしてしまいそうだ。
その他には、コンサートや映画上映といったところだ。何故か古い白黒映画の「月光仮面」上映などのプログラムもおふざけで交じっていた。劇団『木霊』『七転舎』の部員たちは、奇想天外なメイクと衣装で文学部のスロープあたりを呪文のようなわけのわからないセリフを吐きながらうろついている。そばに寄って来られると気味が悪い。どうも目つきがまともではない。それも全部計算され尽くした演技なのだろうが。
宇都宮稲門会の模擬店の出し物は、味噌おでんとラムネだった。本部法学部前あたりに設置された模擬店では、六、七人くらいの男子学生が下ごしらえをしていた。人通りは多かったが、誰も立ち止まって買おうとする者がいなかったので、法学部の三年生がくさっていた。
その三年生は私が中学一年の時二級上にいた先輩だ。生徒会の集会では生徒会長として、統率者の側に立つ者のみが持つ独特のオーラを放っていた。その強気な立ち居振る舞いと頼りになりそうな声や眼差しに下級生女子の人気も高かった。成績がいつも学年トップだということだけでも、私にとって気になる先輩の一人だった。
先輩は東大に行ったものだと思っていたから、早稲田の、この模擬店で会った時には少しびっくりした。強気のオーラは変わらずに健在だった。先輩は中学一年だった私のことなど勿論覚えてなどいなかった。
私と後輩は直接には売り上げの利害を被らない立場だったので、適当に笑顔を振りまいていた。
「ラムネはいかがですかー。味噌おでんもありますよー」
時折声を張り上げるだけで、たいして熱心に売ろうともしていなかった。ラムネはともかく、味噌おでんは地味だなー、と心の中で思っていた。
二時間ぐらい売り子を務めた後、近くで待っていた坂口美子と本部の方を見に行った。
広場では大隈銅像を真似て、角帽に学生服、黒いマント姿の男子学生が台の上に立って恨めしそうに天を睨んでいた。これはおそらく早稲田祭恒例の人間銅像なのだろう。精神高揚会の新入部員あたりがやらされているのだ。
「動かないでずっと立ってるのって大変だよね。それにしてもあの恨めし気な目。あれはやめてほしい」
坂口美子とそう言い合って、こっそり笑った。
本部広場はいろいろな模擬店でひしめいている。サーファーの笈川が駄菓子店をやっている。合気道部は、やきとりとおでん。その他にも、お餅やクレープ、やきそば、だんご、野草を食べる会の怪しい鍋物とか。坂口美子とあちこちつまみ食いをしていたら、結構おなかが一杯になってしまった。
彼女は午後、政経学部にいる高校の時の同級生に会う約束があると言うので、その後は一人で本部を見て歩いた。学内通路を歩いていたら、こんなにサークルがあったのかとびっくりするほど雑多な看板が掲げられていた。
同級の者たちに声を掛けられることも少なくはなかった。あの人がこんなサークルに入っていたのかと、新しい発見をすることもあった。
演劇博物館前を歩いていたら、岡部智子に出会った。油絵同好会の模擬店の手伝いをしているのだという。彼女は私の手を取るようにして人懐こく微笑みかけた。
「ねえ、小島さんのこと部長さんに紹介したいの。この前、小島さんが感想書いてくれて、とっても感激してたわよ。どんな人か会いたいって言ってたから」
「ええー? 全然たいしたこと書いてないよ。恥ずかしいよ」
「そんなことない。すぐそこだから」
岡部智子と一緒に油絵同好会の模擬店に行くと、彼女は店の奥の方にいた男子学生らに声をかけた。
「小島さん連れてきたわよ。ねえ? きれいなひとでしょう?」
私が、これこれ冗談はやめなさい、と岡部智子にささやいていると、奥からやや口の大きい、ちょっとずんぐりした、優しい目をした男子学生が顔を出した。
「あっ、こちらが小島さん? 初めまして、僕が油絵同好会の部長の田島です。この前は絵の感想を書いてくれて本当にどうもありがとう。部員一同に代わってお礼を言います。あれだけ沢山感想を書いてくれた人は初めてで、皆とても励みになりました。また是非いらしてください」
「あ、はい。私は見るしかできないので。皆さんの絵、楽しんで拝見させていただきました。また機会があったら鑑賞しに行きますね」
「いや、また小島さんに褒めてもらえるように、もっと頑張ります」
上級生と話をするとちょっと緊張する。私は岡部智子の後ろに半分隠れるようにしていた。
部員たちは私がトレーナーに海賊姿の犬をデザインした『ロクジロー』のバッジをつけているのを見て、
「もしかしてそれって、NHKの『600こちら情報部』のバッジですよね。NHKの関係者なんですか?」
と聞いてきた。
「これは、この前NHKの放送センターに行った時に買ったんです」
「なあんだ、そうだったのか。僕はまたNHKの回し者かと思っちゃいました」
岡部智子は、
「そのバッジかわいい。私、放送センター行ったことないから後で行ってみようかな」
と言って私に笑いかけた。
部員たちの好意的な笑顔。和やかな雰囲気のサークルだ。美しい岡部智子は彼らのマドンナ的存在なのだろう。
「じゃあ、また次の展覧会、楽しみにしています」
そう言って私はその場を離れた。
想像していた通りに、歎異抄研究会の部員たちは至る所で勧誘活動をしていた。あちこちで立ったまま話し込んでいる二人連れは、たいがい歎研の部員と素人の学生だ。つかまってしまった学生たちは、迷惑そうな顔をしながらも振り切れずに黙って話を聞いている。優柔不断な態度で聞いていると、こんな所ではなんだから場所を変えましょうという事で教室に連れていかれ、更に難しい講義で煙に巻かれてしまうのだ。
顔見知りの部員が図書館前にいた。理工学部の大学院生だと言っていた眼鏡の青年が、勧誘しようとしていた相手に逃げられキョロキョロしながら次の学生を探している。私は少し離れた所を急ぎ足で通り過ぎようとしていて、その人に気づかれてしまった。
「やあ、久し振り。元気だった? このごろ部会に来ないんだね」
手を挙げて、親し気に近づいてくる
「あ、はい」
「来てみない? 思索の会」
「思索の会? 歎異抄研究会じゃないんですか?」
「これは教室を借りる手段でね」
その人は皮肉っぽく言って笑った。
「暇ならちょっとお話聞いてって。すぐそこの教室だから」
私はもう歎異抄研究会と関わるつもりは無かった。ただ吉川清彦が今日も以前と変りなく自信に満ちて勧誘をしているなら、その姿を一目だけでも見て安心したい気持ちはあった。でも顔を合わせてしまったら、またこじれるばかりだ。私は「ごめんなさい、用事があるので」と言って、その部員とすぐに別れた。
文学部に戻ろうと馬場下通りを歩いていたら、また別の歎研の部員に会ってしまった。長いコートを着ていて、やや細い目をした大人びた感じの男子部員だ。学生というよりOBのように見える。実際、歎研には、早稲田のOBや社会人も数多く所属しているのだ。
その人は一旦私とすれ違ってから、回り込むように私の前に引き返してきた。
「あの、もしかして、一学期、歎異抄研究会に来てましたよね」
「ええ、もうやめましたけど」
「もう一度お話を聞いてみる気はありませんか?」
「何度聞いても考えは変わらないですけれど‥‥」
「そうですか。それでは、これが最後の機会だと思って、僕に質問をぶつけてみませんか? 歎研についての不満とか、仏教についての疑問とか。ああ、仏教に関係なくても何でもいいですよ。勧誘とかじゃなくて普通のおしゃべりをしましょう」
穏やかな、控えめな口調だ。押しつけがましいところが無い。ふと、心が動いた。
「顕証にならなくてもいいんですか?」
「ええ、もちろん。じゃあ、文学部の教室で少しお話しましょう。僕は小峰といいます」
「私は小島です」
「ああ、小島さん。確か吉川君からお話聞いてたんですよね」
小峰は改めて私の顔を見直すようにして言った
「はい」
「実はあなたのことは、吉川くんから何回か相談されたことがありましてね。せっかく縁があったのにどうしても顕証まで進めなかったとか、僕の言い方がまずかったのかとか」
「私、聴聞にも一度も行きませんでしたから、随分吉川さんに怒られました」
「ええ、しつこく誘いすぎてかえって反感買って、逆効果になってしまったようだと、彼、反省しながら悩んでいましたよ」
文学部のスロープを上り、右の方に並ぶ小さな教室のうちの一つに入った。そこは歎研が借りた教室で、いつものように何組かが既に仏教の話をしている。正確には、歎研の部員が一方的にまくしたてて、片方は釈然としない顔でうなづいている、といった状況だ。
小峰は長机を隔てて、私の正面の椅子に座った。
「ご病気だったと聞いてましたが、もうすっかりいいんですか?」
「はい。おかげさまでもう普通に生活できています」
「それはよかった。じゃあ、何かお話したいことがあれば、どうぞ」
小峰は静かに私を待った。
何を話したらいいのか迷って少し黙っていた。一つ息をついて、なんでもいいから話してみようと思って口を開いた。
「‥‥吉川さんには、とても熱心に親身になってお話をしてもらいました。でも私は、随分言い返してしまったりして、素直じゃなかったと思います。その点は、吉川さんに謝りたいと思っています」
「うん。そうですか」
「でも、私が今までどんな生き方をしてきて、これからどう生きて行こうとしているのか、全然聞いてくれないことが物足りなくて、それに吉川さんも仏教以外のご自身のことを何も言ってくれなくて、お話が仏教ばっかりなのが息苦しくて、それが仏教を離れたいと思う一因となってしまったかもしれません」
「そう。吉川くんは真面目すぎるところがありますからね。吉川くんだけじゃなく、部員は皆、新しい人にも信心決定してほしくて一生懸命になってしまうんですよ。まだ仏教を知らない人の人生の目を開いてあげたくて、つい畳みかけてしまう」
「‥‥そうなんでしょうね。私が病気で自宅療養していた時にも、吉川さんはわざわざ宇都宮まで来てくれました。それは、とてもうれしかったです。でも聴聞に来れば苦しみが解決するんだということばかり言われて、がっかりしてしまったんです。どうして私の今の状態を分かってくれないんだろうって。正直言って、その時は仏教どころじゃなかったんです。大学にさえ通えなくなっているのに、なんで東京に行って聴聞を聞かなくちゃならないの?って、怒りすら覚えていました」
「そう。そんなことがあったんですね」
「どんなにつらくても生きなくちゃと思って、すごく心が張りつめている時期でした。それなのに死をとことん考えろ、と言われて、もういやだ、と思ってしまったんです」
「うん。わかります」
「それに‥‥その病気だった時を含めて、私は過去にも、死を強く意識したことがあります。小学校5年だった10歳の時、首に何十個もリンパ腺のしこりができて、それが数ヶ月たっても消えなくて、病院に行ったら悪性リンパ腫の疑いがあると言われました。それで生検のためここのリンパ腺のしこりを一つ手術で切って取ったんです。ここが傷跡。三センチぐらいの手術跡がまだ見えるでしょう?」
私は首を傾けて傷跡を小峰に見せた。
「結果的には悪性リンパ腫ではなくて、私はこうして生きてるわけなんですけど、その時の恐怖を今でも忘れることはできません。10歳の時、自分は癌なんだと思って本当に死を覚悟したんです。子どもだって死ぬとはどういうことなのか、なんとなく分かります。手術後まだ結果がわからないうちに学校に行って、皆が楽し気に校庭で遊んでいるのを窓から見て、私はもうすぐこの世界にはいられなくなるのかもしれないと思ってひどく絶望していました。死は急にやってくる。普通の楽しい生活に急に入り込んでくる。あの時、子どもながらに皆と違う死生観を持ってしまったように思います。あの時から死の恐怖が心にこびりついてしまって、中学になっても死というものをつきつめて考える癖が抜けませんでした。死をテーマにした中学生らしからぬ作文を書いて賞をもらったこともあります」
「そうでしたか」
小峰は小さくうなづいて耳を傾けた。
「ああ、結果、全然生きてられたから、ずっと暗い思いを引きずっていたわけではないんですけどね。そして去年。東京に出て来て、初めてきつい孤独に打ち負かされて、いろいろなものが怖くなりました。特に夜が怖くて、毎日やってくる夜をやり過ごすために、いろいろ忙しくしようとして、それで歎異抄研究会にも入ってみたわけなんです。そのうち体に不調が出てしまい、大学も休まなくてはならなくなってしまい、あの時も本当に参りました。体よりも心が」
小峰は黙って聞き続けていた。
「吉川さんにも随分お話を聞いて質問もしました。絶対の幸福、大満足の境地、本当にそんな心の状態を獲得できるならすごいなと思いました。でも、」
「でも、ある時から、私を生かしてくれるのは仏教じゃないと思い始めてしまって、自分で本気になって生きなくちゃって。皆さんが仏教を一心に学んでいる姿は尊敬に値しますが、私は仏教ではなく、自分の心と体を信じて生きていきたいっていうか‥‥。うまく言えませんが、死は簡単に克服できるものじゃないと思います。たとえ、仏教を信仰していても本物の死が目の前にぶら下がっていたら、大安心、大満足の境地などなれるはずが無いと思います。それなのに皆さんすごく簡単そうにそういう境地になれるって言い切ってる。どうして言い切れるんでしょう。本当にどうしようもない苦しみや悲しみに出会った時、人はまずはそれになんとか対処しようともがきますよね。もがきながら自分なりの解決を求めていきますよね。皆さんはもがきもしないで、仏教を信じていればすっと大安心の境地になれるんだとおっしゃる。そこがどうしても信じられなくて」
黙って聞いていた小峰が口を開いた。
「あなたが素直に仏教にうなづけないのは、きっとその点なんですね。他力本願、ということに対する疑いですね」
「苦しみに立ち向かおうとするその心の働きについても、信心していればそんなもの最初から感じないでも済むのだから、苦しんでいる時間など無駄だと言われているような‥‥。苦しむこと自体、仏教は否定してしまっているような‥‥。そこのところが、すごく違和感があって‥‥。私の言っていることは変ですか?」
「いえいえ、変ではありませんよ。一生懸命生きていることが伝わってきます。小島さんは苦しみに出会った時、まず自分の回復力を信じて立ち向かおうとしてきたんですよね。仏教は、いわばその回復力に相当します。信じ切ることでほっと力が抜けて、ある時、絶対の幸福というものにたどりつくのです。そのためにはお話を聞いて聞いて、聴聞にも行って真の仏の言葉を聞き続けなくてはならない」
「‥‥はい。でも、仏教に対する拒否反応が先に立ってしまって、吉川さんに何度言われても聴聞に行く気になれませんでした。仏教に飲み込まれていくことが怖かったんです」
「仏によって生かされているんだと思えたなら、そして回復していく過程に仏のお力添えがあったと思えたなら、そこに大安心の境地が生まれるのです。吉川君はあなたにもその境地に至って欲しくて、頑張りすぎてしまったのかもしれませんね。聴聞、聴聞と事あるごとに言い立てていたのも、あなたを思ってのことだったのでしょう。早く信心決定させてあげたくて。ご病気だったと知って尚更その気持ちに拍車がかかってしまったのかもしれません。
宗教、それ自体、人はうさんくさいものと感じて敬遠しがちですよね。よく本部の立看で戦っている創価学会とか原理研とか、それぞれが強い信念や主義、主張をもって勧誘しているわけですが、僕たちの会は決して入会してくれた人を裏切らない、聞き続けてくれたならきっと信心決定までさせてあげられる、その自負や自信はあるのです。時を移さずにこの教えを受け取ってほしいという思いや、その熱心さが、人によってはしつこいと受け取られてしまうのかもしれませんが。
でも小島さんは短い間でも歎異抄研究会に来てくれて真剣にお話を聞いてくれた。だからこうして僕とも生きる事や死ぬことについての真面目なお話ができている。これも仏のはからいです。仏縁があったということです」
「はい」
少し泣きそうになっていた私を、小峰は慈愛に満ちた悲しそうな顔で見た。
「小島さんが真摯に死と向き合ってきたことはつらかったでしょうがとても尊いことです。それに加えて、歎異抄研究会でいろいろお話を聞いて人生について深く考えた日々は、小島さんの心に何か大きな物を確かに残したと思います。振り返ってみてどうですか? 吉川くんが繰り返し言っていたことや部長のお言葉を聞いて、生きるという事の新たな意味に気づかされませんでしたか?」
「はい。あの数ヶ月、今まで考えたこともないくらい人生の目的や幸福について考えました。部室に通って、皆さんとお話して、いろいろなお話もうかがって、大学の授業より濃厚な時間を過ごしました。苦しかったけれど私の生きる糧になっていると思います」
「できれば小島さんにも信心決定できるまで、歎研でお話を聞いていてほしかったのですが‥‥。でも歎研を抜けたからといって仏教に対する機会が永久に失われたわけではありません。高森顕徹先生のご法座も聞きたいと思う時が来たならば、いつでも聞きにいくこともできますし。何か相談したいこととか疑問に思うことがあったら、いつでも部室に来ていいんですよ。吉川くんのことでこだわりがあるかもしれないけれど、全く気にすることはありません。彼もあなたに会えて大きく成長できたんです」
「ありがとうございます‥‥。でも私、吉川さんのことを苦しめてばかりいたような気がします。言い返してばかりで。どうしてか仏教に飲み込まれたくなかったんです。吉川さんの熱心なお気持ちに全然添えてなかったです。言い負かされまいって、そればかり考えてしまっていました。きっと吉川さんは私の事不愉快に思っていたんではないでしょうか」
「いえいえ大丈夫。僕らの絶対の幸福はそんなことでは揺るぎません。彼は尚更あなたを信心決定させてあげたいと強く思ったはずですよ。部会でもしきりにあなたのことを口にして心配そうにしていましたから」
「ああ‥‥。それを聞けてよかったです。吉川さんを傷つけてしまったことがずっと気になっていたので」
「聴聞に来てくれれば、もしかしたらあなたの気持ちも変わるかもしれない。吉川君はそう思って何度もあなたを責めるようなことを言ってしまったのでしょう? だけど無理強いはよくなかったですね。あなたも悩んだことでしょう。申し訳なかったです。ただ僕たちはそれだけ真剣に仏教と向き合っていて、その教えを一人でも多くの人に享受してほしいといつも願っているのです。あなたが仏教から離れて行く道を選ばれたことは、僕としても残念ですが、それはそれであなたの生き方を応援したいと思っています。‥‥吉川君にもあなたのお気持ちをちゃんと伝えておきますから、あなたはもう悩まないで」
私と小峰は、お互いに静かにうなづき微笑みあった。
「最後に聞かせてください。あなたは今、幸福ですか?」
小峰が真面目な目になって私をみつめた。
「‥‥多分、相対の幸福だと言われてしまうのでしょうが、今私には親身になって相談に乗ってくれる友人もいますし、体も復調しつつあります。勉強の方も今は問題ありません。生活も別に困ってはいないし‥‥幸福だと思います」
「幸福ですかと聞かれるとたいがいの人は考え込んでしまうものです。あなたはしっかりと答えられた。それはとてもいいことです。仏教を顕証する身としてはそこからはじまるお話もあるのですが、あなたはもうさんざん聞いてきて聞き飽きたことでしょう。あなたのお気持ちも大体聞けたし、もうこの辺でやめにしておきましょう」
小峰は、机の上に広げたファイル帳を鞄にしまった。
「あなたの存在は、あなたの知らないうちにきっと多くの人を生かし救っています。あなたのおかげで生きていられる人もきっといる。今までも、これからも。あなたはいつかそれに気づくでしょう。今こうして僕たちが会えているのも、生きる事の奇跡かもしれません。仏縁、とあえて言わせてください。今日はどうもありがとう。あなたとお話ができてよかったです」
教室を出ると、隣の教室でやっている喫茶室の男子学生が、もの知り顔で声をかけてきた。
「お疲れになったでしょう。まあ。お茶でも飲んでゆっくりしていってください。いやー、あちらさんの勧誘はしつこいという噂ですから。大変だったでしょう?」
私は曖昧に笑って、その人のそばを擦り抜け校舎の外に出た。まだ夕暮れには早く、午後の陽射しが柔らかく照りつけていた。
あの四月、最初に小峰に会っていたら、もしかしたら私はまだ歎異抄研究会に残っていたということもあったのだろうか。これも何ものかに図られた運命。私が選んだというより、選ばされてきた運命。たどり着いた今を、後悔はしていない。
アルバイトも無い日だったので、もう少し早稲田祭を楽しむ時間があった。
十号館内では、同級の寺井雄二と畑中正則の心理学のサークルが心理テストをやっていると聞いていた。行くかも、と約束ともつかない約束をしていたので、足を伸ばしてみることにした。
「あ、来てくれたの」
畑中正則が、私をみつけてにこっとした。現役で入った人だから一つ年下だけれど体ががっしりしていて柔和な優しい目をしているので、お父さんみたいな落ち着きを感じる時があった。特に今日は地味なスーツを着ているので大人っぽく見える。
「テストやって行く? 二百円なんだけど」
「わ、お金取るんだ。ただじゃ駄目?」
「うう、他の人の手前、それはちょっと…あとで何かおごるよ」
畑中正則はちょっとうろたえたように大きい目になった。
「冗談だよ。二百円ぐらい払ってあげるよ」
「なんだあ。ドキッとさせないでよ」
お互いに、ははは、と笑った。
彼に渡されたテスト用紙の質問に鉛筆でチェックして、記入し終わった用紙を彼に採点してもらった。
「では、小島さんの性格について、ご説明します」
「はい。お願いします」
「一応、心理学の研究をしていますから、信用してください」
「ほおお、もったいぶってるねえ」
「さて、採点した結果はですね。これは見事なAC型です」
「AC型って?」
「Advantage Calm、つまり典型的な良妻賢母型っていうわけだね」
「えー? そうなの? 嘘だあ。全然家庭的じゃないよ?」
「でも、そういう判定。いい奥さんになるよ」
「いやだあ。ならない、ならない。無理」
「そうなの? まあ、深層心理は誰にもはっきりとは分からないんだけどね」
「うん。うん」
「さっきテストした男子なんかさあ、Black Listと、Excentricの項目がどーんと高くてさあ、一体何考えてるんだか怖かったよ。異常人格じゃないかなって。犯罪者に多い性格だから、結構危ないよ」
「ふーん。そういう人って見た目もそんな雰囲気なの? 怖い感じ? 目つき悪いとか」
「そうだねえ、そんな人に小島さんが誘惑されたりしたら大変だからね、教えてあげたいところだけど、うん、見た目は普通の感じだったよ。特に危ない顔はしてなかったよ。外見じゃ心の中までは分からないということだね。今後の参考にするように」
「はい、先生、分かりました。ところで、先生、秘密は守ってくれるんでしょうね」
「もちろん。でも良妻賢母型なら悪くないでしょ? もう少しBlack Listの項目が高くても妖しくていいかな、と僕的には思うけど。毒を隠し持ってる、なんちゃって」
「そうだね。私って、たぶん畑中君が思っているよりずっとおかしな奴なんだよ。見た目じゃわかんない?」
「そうなの? でもテスト上は、いい性格だよ。男にとっては、ということかもしれないけど。君自身がそれに不満を持つかどうかはまた別の問題だけれどね」
「良妻賢母型なんて、今時流行んないよね。人格改造しようかな」
「僕は、そのままの小島さんでいいと思うけど。物静かで優しいっていうことなんだから。争いの少ない穏やかな人生なんじゃない?」
「ところが、そうでもないのよ。あんまり穏やかでもないよ。嵐吹き荒れちゃう時だってあるんだよ? 畑中くんも知らない私の本性とは!」
「君の本性とは?」
「実は自分でも分かんない。話す相手によって人格が変わってしまうというところもあって。話し方によって、しおらしくもなるし、強気にもなるし、気取っちゃったりもするし、ヤンキーっぽくもなるし、もう全部人格違う。ちなみに畑中君には、同級生モードだよ」
「そう? ヤンキーな小島さんなんてあるの? 初耳。本当は性格なんてテストじゃ決められないものだしね。いろんな場面で違う自分になるのもありだし、性格なんてどんどん変わっていっていいものなんだと思うよ。自分で納得のいく性格になるまで、人格改造を行うのもまた面白いでしょう」
「性格変わったらまたテスト受けに来るね」
「うん。楽しみにしてる。君が危ない系の女性になっていても、それはそれで面白い」
畑中正則は、真面目なような、冗談のような、大きな目で笑いながら私を見た。
早稲田祭の休暇も終わりに近づいていた。
その日は朝から土砂降りの雨だった。午後から桂木隆司と日展に行く約束をしていたが、私は朝から頭痛がしていて、少し気が重かった。
女性としての周期的な不調はあまり無い方だったけれど、時々は頭痛とか、嫌な感じの眠気とか、下腹部の痛みを感じる時もあった。桂木隆司には私の女性的な部分に注目してほしくはなかったから、不調があってもいつも隠してきた。
中学の頃から、自分が女子であることが嫌だった。男子はいつもフラットでいられるのに、どうして女子は度々心身の波に悩まなくてはならないのか。同級生の女子の中には、毎回保健室で休まなければならないほど不調に陥る子もいた。男子に比べてひどく不公平だと思った。胸のふくらみもいらなかった。
しかし、今、桂木隆司と一緒にいる時に感じる何か甘美なもの、密かなときめき、それは私が女であるが故に感じる異性への本能的な反応であるのかもしれなかった。その気持ちに自分でもとまどう。
約束の時間近くになって、のろのろと電話機の前に行き、彼の家に電話した。
「雨だから、また後にしない?」
「雨? 雨なんか関係ないじゃない」
彼は早口であっさりと言う。
「‥‥うん」
「どうした? 具合でも悪いの?」
「ううん。大丈夫」
「雨だからって一日下宿に一人でいると滅入っちゃうだろ? 体調悪く無いんなら決めた通りに行こう」
「うん」
「なんか、声に元気がないぞ。何かあったか?」
「別に」
「別にじゃ、分かんねえよ。俺に言えることなら言ってみな」
「何でもないよ。寒いからさっきまで寝てたんだよ」
早稲田祭を挟んだ少し長めの休暇をほとんど一人で乗り切った疲れもあっただろう。小峰との語らいもまだ脳を熱くしていた。体の不調と共に、メンタルもすぐに落ち込む。こんな弱々しい私では駄目なのだ。平然と当たり前のように、何があってもタフに生きていく自信がまるで無い。そんなことを考えて更に気持ちが沈んだ。
「めしは食ったのか?」
「まだ」
「ちゃんとめし食えよ。それ以上痩せたら、ますます胸がなくなるぜ」
「ばーか」
「じゃさ。一時に高田馬場駅の上野寄りのホームで待ってるから。絶対来いよ。返事は?」
「はい。はい」
「返事は一度」
「はいよ」
「よは、いらねえよ」
「へい」
「反抗しやがって。じゃ、駅で待ってるからな」
電話を切って溜息をついた。そのまますぐ隣の台所で歯を磨き顔を洗った。水が冷たくてもう冬が近いことを知らされた。
もし、恋人同士だと認め合ったのなら、女性としての不調も彼に打ち明けることになるのだろうか。なんだか生々しくて嫌だ。言いたくない。絶対言わない。
朝から続く鈍い頭痛もなかなか収まってこなかった。でも桂木と授業以外で個人的に会えるのは週に一回ぐらいしかない。私の都合でキャンセルしては桂木に申し訳ない。そんな思いで気持ちを奮い立たせた。
駅のホームに着くと彼は先に来て待っていた。私は彼に待たされたことが今まで一度もない。彼はいつも約束の時間より十分か十五分も早く来ている。じっと遠くを見るようにして、深緑色のショルダーバッグに軽く手をかけ、真っ直ぐに立っている。茶色のタートルネックのセーターが似合っていた。
彼は私を見つけると、足を蹴り出すようにして大股で近付いてきた。
「お、化粧してる?」
「うん。少しね。変?」
「いや、いいんじゃない。それにスカート、めずらしいじゃん」
彼はどう言っていいか分からないように、一人で照れている。
「電話の声が元気無かったからさ。気になっててよ。上野まで行ける?」
「平気、平気。ちょっと疲れててさ」
「無理に行かなくてもいいぞ」
「大丈夫。行ける」
彼の優しさが少し悲しかった。馬鹿な事を言って笑わせてくれたり、私自身が馬鹿になれるような、そんな人がずっと必要だった。いつだって倒れそうで、いつだって一人ぼっちが寂しくてたまらなかった。言葉で救いを説いてくれるより、その場で抱き締めてくれることの方が‥‥。もし、もしそうなったら、そこにいるのは、女としての私なのだろうか。
上野に着くころには雨は止んでいた。日曜日だったので、美術館はとても混んでいた。巨大な絵をたくさん見て回ると疲れる。絵に込められた画家の魂、そこからエネルギーを貰うというより、エネルギーが吸われていってしまうような気がしていた。
美術館を出た後、東照宮の方へ歩いて行き、不忍池へ降りた。不忍池は思っていたよりも大きくて、蓮の葉が一面に突き出ていた。曇天の空の色を映している濁った池。隣に並んで歩いている彼に、私は元気な振りをして坂口美子とサンシャイン60に行ったこと、早稲田祭でいろいろなものを食べたことなどを話した。
弁財天のところで、ガラス切りの道具を売ろうとしている香具師の講釈が面白いのでしばらく聞いていた。香具師の周りには人だかりがしていた。彼も感心してのぞいている。
「俺、味噌の訪問販売のアルバイトやったことあったんだけど、一つも売れなかったんだ。やっぱり口がうまくなくちゃね。はったりかませて売りつける度胸が無いと、ああいう商売できねえよな」
「そうだよね。あくどいくらいしつこくて強引じゃないとね」
「俺って、正直だからさ、相手が困った顔してると、それ以上踏み込めないんだ」
「ふーん、案外純情なんだ」
「そういうの純情って言うのか?」
「ちょっと違うか。まあ、嘘つきじゃないことは認める」
「嘘つけたらさ‥‥、嘘つけたら、卒業したら結婚しようとか言って、おまえのことホテルに誘ったりできるんだけどな」
ドキっとした。
「えっ?」
「冗談だよ」
けれど彼の頬に浮かんでいたのは自嘲のような歪んだ微笑みだった。
たぶん彼は私を恋人として身も心も求めたいと思い始めている。そうなんとなく気づいてしまった。その気持ちをどう受け止めていいのか分からず、私は黙っていることしかできなかった。
弁財天の裏を回ってボート乗り場の方に行き、ベンチに座った。
「早慶戦行ったの?」
「第一試合に兼子と行った。兼子がさ、スポーツバッグ一杯に紙吹雪作って持ってきたんだけど、試合負けちゃったじゃん。あんまり盛り上がらなかったよ。おまえも行ったんだろ? 坂口さんと?」
「うん。坂口さんが都合悪かったから一人で行った」
「一人で? よく行ったな」
「うん。私、どこだって一人で行くよ。地図があればどこでも行けるもん。どうせ卒業したら宇都宮に帰っちゃうんだからその前に東京めぐりしようと思って。この前はNHK放送センターに行ってきた」
「寂しいこと言うなよ。俺に電話しろよ。一人で出歩いてると襲われるぞ」
「大丈夫だってば」
「やっぱり、卒業したら‥‥、うん、いや、なんでもない」
桂木隆司はちょっと沈黙した。私も黙っていた。
大嫌いな東京。私がこの東京に居続けることができなかったら、そこで彼ともきっと終わりになってしまうのだ。東京。二年半後の私はどこにいるのだろう。
「俺、最近読んで感動した本があるんだ」
「何?」
「井上靖の『氷壁』」
「ああ、読んだことある。ザイルが切れちゃうやつね」
「うん、最後さあ、崖崩れで死ぬなんて不自然だよ」
「そういえばそうだね」
「あれ読んでから山登りに興味持ったんだ。大袈裟な登山っていうのじゃなくて、山の尾根とか歩いてみたいなあって」
「ふうん。山のサークル探して入ってみれば?」
「うん。探してみる」
彼が山に惹かれ始めている。一人山に向かう彼を思って少し不安になった。山で死んでしまったらどうしよう、とまで思う。
彼は笑顔を作って私に向き直った。
「そういえばプラネタリム今月いっぱいで閉まっちゃうんだ。早いうちに行こう」
「うん」
「行く時は学校まで車乗って来るから」
「川崎から高田馬場まで随分遠いんじゃない?」
「今、地図で研究してるとこだ」
「そう」
「じゃあ、前の日にでも電話するよ」
「うん」
どうしていいか分らなかった。もしかしてもうこれは恋の領域? 明らかに友だち以上になってしまっている。彼を好きだと思う気持ちを否定できない。それは桂木にしても同じなのではないか?
歎異抄研究会をきっぱりと辞め、吉川清彦への思いもその影響も完全にふっきれた今、私が強く思う異性は桂木しかいなかった。その思いが恋であるのか、親友としてのただの強い友情であるのか、まだどこかあやふやだった。
とにかくただの友だちなんだからと自分に必死に言い聞かせる。大学を卒業したらそれぞれ別の道を歩むんだから。今、東京を一緒にあちこち歩いているのも、私が宇都宮に帰ってしまうまで東京を探検し尽くしたいと言ったから、彼が付き合ってくれているだけなんだから。その先は望んじゃいけないのだ。
そう思いながら、桂木を振り返る。桂木も少し悲しいような目で私を見ていた。
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