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第12章 大学2年 11月半ば~12月上旬

更新日:2月20日


 早稲田祭も終わり、授業は平常通りに戻った。十二月には語学の試験が二、三あるが、他の科目の試験は大体三学期にあるので、試験勉強らしい勉強をすることもなく、聞き漏らした部分の講義のコピーを集めたりするぐらいの下準備をしておけばよかった。二学期は比較的余裕がある。

 お祭りがあった後の構内は少し荒廃して見える。あんなに賑わって、人とぶつかり合うように歩いていた道も、模擬店がひしめいていた広場も、今は閑散として銀杏の落ち葉ばかりが風に吹き上がっている。

 早稲田祭で頑張った者はその疲れ休めに、また一部の学生はこの秋休みとも言える長い休暇にどこか旅行にでも行っているのか、すぐには大学に戻ってはこない。学生たちの姿もまばらだった。

 宗教学は人気のある講座だったが、普段から休講や教授の遅刻が多いので、この時期は更に当てにはできなかった。その日、掲示板の前で宗教学の休講札を見てがっかりしてスロープを降りかけていたら、後ろから西城研二が来て、

「休講だったね」

と声をかけてきた。

「うん。今日はこの後授業無いから、帰ろうかと思って」

「俺も馬場まで行くから一緒に帰ろう」

 西城研二と私は肩を並べるようにして歩き始めた。少し背を丸めて寒そうに長身を前屈みにしている。少し前から細かい雨が降っていて、私は自分がさしている傘を差しかけてあげようかどうか迷っていた。彼は東西線で来たらしく、傘を持っていなかった。

スロープを下り切ってから彼は、

「ちょっと入れてくんない?」

と、さり気なく肩をすくめるようにして傘に入ってきた。

「あ、いいけど」

 彼は背が高いので、私は傘を上の方に持ち上げていなくてはならない。それに女物の小さな傘だったので、お互いに肩が触れてしまう。ちょっと馴れ馴れしいなと思ったけれど、彼は同級だったし、宗教学、民族誌を偶然一緒に取っているということもあって、邪険にはできなかった。後で思えば、たいした雨ではなかったのだから、傘を閉じてしまえばよかった。

「小島さんと相合傘しちゃった。桂小五郎の気分だな」

「えー? じゃあ私は、小五郎の恋人の芸妓さんってこと?」

「あ、いや、そういう意味じゃないけどさ」

 彼が妙にうろたえているので、私はくすっと笑った。

 男性と一つの傘に入っていると居心地が悪い。歩幅も合わなくて不自然に早歩きになってくる。

「俺、佐伯に金貸してるんだ。金が戻ってきたら買いたいジャケットがあるんだけど、小島さん、見てくれないかな。すぐ近くの店なんだけどさ」

「別にいいけど」

「よかった。すごく気に入ったのを見つけたんだよ。あんまり高くなくてさあ」

 その店は戸塚のロータリーの手前の、ジャケットやジーンズを扱っている小さな洋品店だった。店の中はお昼時ということもあって、客は一人もいなくて、店員も奥に引っ込んでいるようだった。

 彼はジャケットが吊るしてある所に行った。

「こういうやつなんだけど、あれー、無いなあ。あれー、売れちゃったのかなあ。こんな高いやつじゃなくて、あったんだけどなあ」

「売れちゃったのかもしれないね」

「そうかあ、小島さんに見てほしかったのに」

 彼はしきりに残念がっている。私はなんだか気の毒になって、

「待ってればまたいいの入るよ」

と慰めるように言った。

「そうかあ、ちぇっ、すごく気に入ってたのになあ。諦めるしかないか」

 私が笑いながら他のジャケットの値札を引っくり返して見ている時のことだった。

 その時、急に後ろから肩を抱かれた。あっと思って振り向いたら、再び正面から肩を引き寄せられた。

「どこかでもっと話さない?」

 彼はそうささやくように言ってなおも近づき、私の背中にそっと手を回してきた。

「あ、ごめんね、このあとアルバイトがあるの。もう帰るから。ごめんね」

 私は彼を傷つけない程度にゆっくりと体を離した。どういう顔をしていいか分からず、つい曖昧な微笑みを浮かべてしまっていたかもしれない。

「そうかあ、帰っちゃうのか。お茶でも一緒にと思ったんだけどな」

 彼の気持ちには、気づいていないこともなかった。言葉の端々に私を意識している雰囲気はあった。しかしだからこそ、私は彼とはあっさりした会話を心掛けていた。いつもただ同級生として普通に話していただけだったのに、私の態度に何か彼を勘違いさせるものがあったのだろうか。

 煩雑な早稲田通りの道に出て少し安心した。もう、私は傘をささなかった。早く駅に着きたくて走るように歩く私の後を、彼は黙って大股でついてきた。

駅に着くと彼はもう一度、

「ちょっとでもいいから付き合わない?」

と聞いてきた。真剣なような真面目な顔だ。

「でも、やっぱり帰る」

薄く霧雨の湿り気が全身を覆っていて、寒気がしていた。

「そうか、駄目か。残念だなあ。じゃあ、俺、芳林堂に寄っていこう」

「うん。じゃあね。バイバイ」

私はぎこちなく微笑んで手を振った。

「バイバイ。また今度な」

 彼は名残惜しそうに私を見送ると、芳林堂のあるビルの中にふらりと入っていった。

 西武線に乗って、座席に沈みこんでうつむいた。次の駅でお年寄りが乗ってきて前に立ったのに、席を譲ってあげられなかった。

 彼は彼なりに寂しくて私と話をしたかったのだろう。決して悪い人ではない。でも体に触られたことの怯えが先に立った。あまりにもスムーズに体に触れられた。彼はきっと女性に触れることに慣れているのかもしれない。さっきの西城は、クラスメートではなく、一人の男性だった。

 灰色に煙った街を窓から眺めながら、心が暗く塞いでいくのをぼんやりと感じていた。


 そんなことがあっていくらもたたないある夜、桂木隆司からプラネタリウムに行く約束の確認の電話があった。

「明日、車で学校行くけど、大丈夫だよな」

「‥‥やっぱり行けない」

私は思い切って言った。ずっと考えてきた答えだ。

「どうしたんだよ。何か用事?」

「うん‥‥行く心境じゃないの」

一瞬の沈黙があった。電話の向こうで彼が眉をひそめてむっとしているのが感じられた。

「何かあったのかよ。このところ何か変じゃないか? 元気ないよ。体の具合とか?」

「何もないよ」

「じゃあ、どうして駄目なんだよ」

 私はどう言ったらいいのかわからなくて言葉を探した。どう言っても彼を傷つけてしまうに違いない。でも曖昧なままごまかしてしまうのではなく、今、本当の気持ちを言わなくては。

「私、孤独がつらくって、話しかけてくる人みんなにいい顔しちゃうところがあるんだ。それに最近、いろんな人に声をかけられるようになって、その人たちがどういう気持ちで、どういう風に私に踏み込んでくるのか分からなくって、少し怖くなったんだよ。この前、体に触れられることがあって、それでもその人と日常普通に授業で会うことを考えたら、きっぱりと怒ることもできなくて。いやなことがあっても、どこか繋ぎとめておきたいって思う自分もいて、すごく自分が嫌になった。自分が女だっていうことも嫌。こんなことで悩まなくちゃいけないなんて、私が女だからだよ」

私はとぎれとぎれに、泣きそうになりながら、やっとのことでそう言った。

「体に触られたって? 大丈夫だったのかよ」

「‥‥うん。ちょっとびっくりしたけど、肩とか背中ぐらいだったから」

少しの沈黙の後、彼が口を開いた。

「そうか。ショックだったんだな‥‥。女だと男が近づいてくるのが怖いっていうのもあるんだろうな」

「‥‥うん」

「いろいろあったのは分かったけど、でも、もう俺と会うことも駄目なのか? 俺もそこら辺の体目当ての男と一緒なのか? おまえのこと俺なりに大切にしてきたつもりだけど、男っていうだけで駄目なのか? 急にどうしたんだよ。今までうまくやってきたじゃないか」

彼の声もとまどうように低くなっている。

「おまえが、孤独でいつも淋しがっているのは分かってるよ。いろんな友だちと話したりして、明るい振りをしているのも知ってるよ。知ってて、俺がそれでいいって言うんだから、それでいいじゃないか」

「よくないよ。こんな私じゃ駄目だよ。何か思惑あって寄ってくる人は切り捨てればいいのに、それもできなくて、自分がなんとか生きていくためにそういう人の気持ちも利用してるんだよ。桂木くんのことだって、私が東京にいる間楽しく過ごすために利用してるだけなのかもしれない。結局、私は身勝手なんだよ」

彼は一つ大きな呼吸をした。

「‥‥もしかして他に誰か憧れている人がいるのか? それでもう俺と付き合えないとか‥‥」

それは思いがけない質問だった。

「そんな人いないよ。絶対に」

不意に涙があふれた。

彼は黙り込んだ。沈黙がつらい。時間が遠ざかる。

「‥‥とにかく電話じゃうまく話せないから、明日学校で会って話そう。二限が終わった後、記念会堂の広場のところのベンチで」

「うん」

 部屋に戻って炬燵にもぐりこみ仰向けに体を倒した。なんだかとても疲れていた。別れを切り出すようなことを言ってしまったのに、本当に別れることになったら私はどうなってしまうだろうか。吉川清彦と絶交した日のことを思い出した。あの時の比ではなく、絶望感のようなものがどんどん膨れ上がっていった。


 翌日大学に行くと、先に来ていた桂木隆司が掲示板を覗いているのが遠くから見えた。私はそばに近づいて行けなくて、離れた柱の陰に立ちどまって彼をみつめていた。掲示板を離れた彼が振り向いた瞬間、目が合った。彼はゆっくり近づいてきた。彼は、それで? という風に私の言葉を待った。

「昨日はごめん‥‥どうかしてた」

彼は口元を緩めてちょっと微笑んだ。

「別に深刻になることもないんじゃない?」

彼のくっきりした眼差しが少し和らいで、いつもの優しい光を放った。

「じゃ、授業終わったらな」

 彼はくるりと踵を返すと、自分の教室の方に少し肩を揺するようにして歩いて行った。その後姿を見ながら、今この人を失ったら、どれだけの喪失感が私を打ちのめすのだろうかと思った。既にそれは友情ではなかった。


 二限の後、待ち合わせの場所の記念会堂の広場に向かった。階段を降りながらも彼と会って何を話していいか分からず、一歩一歩が重かった。黄色くなった銀杏の葉だけが明るく、その他の風景は白黒の画面のように色を失くしている。

 広場の右の方のベンチに座って煙草を吸っていた彼は私に気付くと、煙草を消し、黙って立ち上がって先に立ってずんずん歩き出した。いつもは私を待って並んで歩いてくれるのに、そんな風に先に行ってしまうということは、彼も重い気持ちでいるということなのだろう。

 記念会堂の入り口のところで彼は振り向いた。

「今日、ドイツ語、休講だったね」

「うん。私から当たるはずだったんだ。昨日、めちゃめちゃ勉強したのに、損した」

 私の声はいつになく弱々しくかすれかかっている。

 記念会堂の左の入り口から入って、階段状の観覧席の一番上に座った。丁度、体育のバスケットの人たちが練習をしていて、私たちの方をちらちら気にして見上げてくる。

「何、悩んでるんだよ」

彼が静かな低い声で聞いてきた。

「‥‥人と付き合うのが怖くなった。男の人が怖くなった。ちょっと体を触られただけなのにこんなに震えるほど嫌悪感を感じてしまう私は変なんじゃないかって。‥‥桂木くんともどう接していいかわからなくなった」

桂木は私の顔を覗き込むようにしてちょっと笑った。

「自分の世界を壊されるのが怖いんじゃない? そうだったら、自分から壊しちゃえばいいんだよ。もっとしたたかに生きてみろよ。俺の高校の時の友だちなんか、女の子なんだけどさ、夜、家に帰らなかったり、お酒飲んで酔っ払っちゃったり、相当奔放に遊んでるよ。そういうのがいいっていうんじゃないけどさあ、失敗してもいいじゃん。悩むなよ」

「うん。でも楽しければいいなんていう生き方してたら、きっと誰か傷つけたり、自分でも後悔すると思う。桂木くんとも、いつまでも友だちのままではいられないと思うし、どういう付き合い方をしていったらいいのか分からない」

「俺が突っ走っちゃってると思った? 体求めるとか?」

「……このまま気持ちが進んだら、あり得ることだよね。友情じゃなくなったら……」

「俺は冷静だよ。でも、もし俺が突っ走っちゃったとしても、それはそれでいいじゃない。おまえを傷つけることだけはしないつもりだよ」

「……うん」

「俺がどうしておまえに声かけたか分かるかよ。俺が本屋とか学読とか行くと、いつもおまえがそこにいて、まるで俺が後をつけてるみたいでよ。変な奴とか思われないか心配だったんだ。行くところが似てるってことは話も合うんじゃないかと思って、あの日、おまえに思い切って声をかけたんだ。俺は知り合えてよかったと思ってるよ。おまえが女だから近づいたんじゃなくて、声かけて親友みたいになれた奴が、たまたま女だったというだけのことであって、おまえが女だっていう要素にはあんまり注目はしていないんだぜ。いや、もちろん全然女を意識してないっていうんでもないんだけど。卒業した後のことも考えないこともないよ。でもさ、そんな先の事を心配するより、もっと俺の事を見ろよ。俺もおまえの事だけ見てるから」

 彼がずっと前から私を見ていてくれたことを初めて知った。孤独にうつむく私のそばを、背後を、彼は偶然のように何度も通りかかっていたのだ。

「昨日は一人でプラネタリウムに行ったんだぜ。おまえと一緒じゃねえとつまんねえよ。おまえほど身持ちの堅い女はいないぜ。二人で夜中の星を見るなんて到底許さねえだろ。せめてプラネタリウムで一緒に星を見たかったんだ」

 バスケットをやっている学生たちのシューズがキュッキュッと鳴っている。試合をしながらも私たちのことが気になるのか、たびたび好奇心に満ちた視線が注がれた。

「別れ話でもしてると思ってるぜ、きっと、あいつら」

「‥‥変なこと言い出して、ごめんね」

「気にすんなよ。こんなことぐらいで別れたら、今までのことがもったいないだろ?」


 その後、記念会堂を出て穴八幡神社の方に二人で歩いて行った。落ち葉が厚く降り積もっていて、私たちはそれを蹴散らしながら歩いた。樹木の多い穴八幡は森のような匂いがする。

 でっぷり太った布袋像の前の大きな木の下で、一人のおばあさんが箒を上に向けて、枝に引っ掛かっているものを落とそうとするような仕草をしている。そのおばあさんは近くまで来た私たちに気が付くと、おいでおいでの手振りをした。

「俺のことかな」

私たちはおばあさんのそばまで歩いていった。

銀色の髪の、ほっそりとした美しいおばあさんだった。

「これはね、菩提樹という木でね。この下でお釈迦様が悟りを開きなすったんですよ。それでね、この木の一箇所だけ実が二つずつついているところがあるんですけど、それを取ってもらえないでしょうか。とっても縁起のいいものなんですよ」

おばあさんは上を見上げながら、私たちにそう言った。

彼は手を伸ばしておばあさんの指し示す枝をつかみ、

「これですか?」

と、一枝、おばあさんに折り取ってあげた。

おばさんはうれしそうに枝を受け取って、実を指差した。

「まあ、ありがとう。ほら、二つついてるでしょう? あなたたちも一枝ずつもらいなさいよ。きっといいことがありますよ」

 私たちは顔を見合わせた。彼はもう一度手を伸ばすと、黙って小さな枝を折り、それを半分に分け、一枝を私に手渡した。葉っぱの根元あたりについている小さい実は、確かに二つ並んでいた。他の枝を見てみると、どれも一つだけのようだった。

「あ、本当ですね。二つついてる」

「珍しいものなんですよ。大事になさいね」

 おばあさんは枝を丁寧に抱え、箒を引きずるようにして、ゆっくりと階段の方に歩いていった。

「何だったんだ? あのおばあさん」

 彼は狐につままれたような顔をして突っ立っている。その手にはやはり、しっかり枝が握られていた。

 珍しい菩提樹の枝を、彼と私が一枝ずつ持っているということが、なぜか私を幸福な気分にしていた。二つの実が並んでついている菩提樹の枝。何かの啓示のようだと思った。連理の枝、比翼の鳥。そんな言葉をふと思い出した。

 この世界は絶対ではない。どんな啓示を受けたとしても、桂木と別れる日も来るのかもしれない。ちょっとした気持ちのすれ違いで取り返しのつかない方向へそれぞれが向かってしまうこともあるだろう。友情か恋愛か、その境界線を踏み越える時が来たら、その時も私は大きな気持ちの揺らぎに悩み立ち止まってしまうだろう。

 今回のことは、こらから起こることの前哨戦なのだ。桂木が生半可な気持ちでただの時間つぶしに最適なガールフレンドとしか私のことを思っていなかったなら、こんなには食い下がってくれなかった。面倒くさい女だと思われてここで交際も終わっていた可能性もある。

 けれど桂木は私とは別れたくないという強い意思を示してくれた。そこに単なるクラスメートとか友情とかを超えたものを感じた。私も覚悟をもって桂木を一人の男性として見直す時が来たのかもしれない。

 震えやすい臆病な心を持った私。それでもいい、一緒にいたいと彼が言ってくれるうちは、その言葉から逃げずに一緒にいたい。

 下宿に帰ってあらためて桂木という存在をこの上もなく大切なものとして思った。少しだけ落ち着いて、今日のことを詳細に日記に書いた。おばあさんにもらった菩提樹の枝は、その後も本棚の片隅にぼろぼろに枯れてしまうまで大切に飾っておかれた。


 毎朝、ジョギングをすることにした。もう朝の空気は冷え切っていて、走っているとすぐに肺と耳が痛くなってくる。上智大学神学部前を通り、武蔵関の手前で上石神井団地の方に道を折れて、石神井川沿いに一周するコースだ。団地からは通勤や通学の人たちがぞろぞろと出てくる。寒そうにコートにくるまって、うつむきながらせかせかと歩いて行く人たちを横目に、私はトレーナ一枚で汗をかいていた。

 団地の前庭にある子ども用の低い鉄棒に飛びつき、前回りをする。ぐるりと回る感覚を久し振りで思い出した。一生かかっても知り尽くせないものが、私の前途に広がっている。恋ですら果て遠い宇宙だ。今まで狭い視野で暮らしていた生活の殻を破りたかった。もっと私は強くなりたい。心も身体も。鉄棒から逆さまに見上げた団地の壁は朝日の照り返しで白く輝いていて眩しいほどだ。

 私は再び走り始める。未だ不安定に陥りそうな健康をしっかり立て直さなくては。そして生きていく最低限の条件を満たすだけではなく、それ以上の自信がほしかった。まずはこの日常をきちんと踏みしめ、一分一秒を制覇することだ。


 早稲田祭が終わって初めての英米演劇の授業に出席した。松原教授はいつになく早口で、厳しい表情のまま講義を始めた。

「イエスは、『我、地に平和を与えんために来たると思うか。我、汝らに告ぐ。如からず。かえって争いなり。父は子に、子は父に、母は娘に、娘は母に、姑は嫁に、嫁は姑に分かれて争わん』と言った。イエスは許しの神と言われるが、非人間的強制もした。天国に行くには、家、妻子、親も捨てなくてはならないとする。

‥‥イギリス中世の演劇は聖書の中のエピソードを庶民に分からせるために演じられた。道徳劇には偉大な悲劇は生まれない。

‥‥ジョージ・スタイナーの論、ギリシャ悲劇『オイディプス』は真の悲劇であるが、旧約聖書のヨブ記は悲劇とは言わない。オイディプスに、ある日、『最も悪い罪を犯しながら、罰せられない者がいる。その者のために、悪疫が町を脅かしている』という神のお告げがあり、罰せられぬ最悪の犯罪者とは自分のことだと、オイディプスは気が付く。そして彼はすべてを捨てて放浪するのだ。ここには救いが無い。オイディプスには罪はない。父と知り、父を殺したのではない。母と知り、母と結婚したのではない。それは避けられぬ運命だった。人間が人間を超えた存在に挑戦していって、翻弄されて滅びてゆく。その滅びがこの上も無く感動的だとするのが西洋の悲劇である。ヨブも悲惨な運命に会うが、神は最後に償いをする。正義のあるところに悲劇ない。故にヨブ記は悲劇ではない。

‥‥ディオゲネスは言った。あらゆることのうちこの世に生を受けないことが最も良い。生まれてしまったのならできるだけ早く死ね。

‥‥ソフォクレスの言葉、立派に生きるか、立派に死ぬか、それだけが高貴な人間にふさわしい。

‥‥ホメロス、神々は惨めな人間どもに、この苦しく悲しい生涯を送らせるようにはからいながら、ご自身たちは何の苦労もお持ちになっていない。

‥‥キング・リアー、神々の人間に対するは、いたずら小僧のとんぼに対するごときものである。神々は人間を慰みのために殺すのだ。

‥‥神は正義である。だがその正義は理不尽である。ギリシャ悲劇においてはオリンポスの神々は全知全能ではなく限界を持っていた。人間と神の間の明確なる区別は、死と不死である。アンブローシャという食べ物とネクターという飲み物によって不死になる…」

 教授は猛烈なスピードで講義を進めていった。ノートに書き取りきれない。いつもと様子が違うので学生たちもざわめき始めた。

すると教授はいきなり叫んだ。

「そこの男子、うるさい! 教室を出ていきなさい!」

 教室中が震えあがった。名指しされた学生はしぶしぶとノートを片付け、教室を出ていった。その学生を見送ると、教授はものに憑かれたような目をしてこんなことを語り始めた。

「君たちはニュースとか新聞で、韓国の朴大統領が暗殺されたことは知っているだろう。あの事件は、実は私の目の前で起きたんだ。

 私は早稲田祭の時の休暇を利用して韓国に旅行に行っていた。朴大統領と面会できることになって、私はまさしくあの事件現場にいたのだ。大統領は私のすぐ二、三メートル先にいて、私が大統領と何か話そうと近づいた瞬間、発砲音が轟いた。側近の誰かが大統領めがけて拳銃で撃ったんだ。

 後で聞いた話によると、警察署長の職にある人物が大統領に個人的恨みを持っていて、それにKCIAが加担してあの発砲事件になったらしい。

 私は事件が起きた瞬間、何が起きたのか分からなかった。朴大統領が生きているのかどうかも分からず、人波に押し流された。とにかくこれは大変な政変だ。情報を収集するために私はあちこち奔走した。私が朴大統領と会うことを知っていた家族に電話をかけて、このことを知らせようとした。

 しかし、ちょうどその時、家では長女が急病で死んでいたのだ。大統領暗殺で、私が浮足立っていた時に、娘は苦しみながら死んでいったんだ。

 私はすぐさま飛行機に飛び乗った。かろうじて葬式には間に合った。何の因果か娘の死に目に会えなかったわけだが、それは朴大統領暗殺よりも私にとって衝撃的なことだった。

忘れることはできない。朴大統領が死んだ日が、娘が死んだ日だ」

 教授の言葉の最後の方はすすり泣くように呼吸が乱れていた。

 一瞬、学生たちの間に驚きのざわめきが起こり、その後、しーんとして皆が息をこらした。まさかそんな重大な告白を聞くとは思わなかった。教授がこの日、鬼気迫る感じで授業をしていたわけがやっと分った。教授の身に起きた事件を自分の体験として体感したわけでもない私ですら、喉元を抉られるような痛みを感じた。

 教授は語り終えると頭を抱えうなだれ、そのまま黙り込んでしまった。私たちはじっと待つよりほか仕方なかった。

 午後の陽射しが机に差し込んできて、教室の窓辺は初冬のほのかな温もりを漂わせているのに、教授のまわりは凝縮された悲嘆が渦巻いていた。

 しばらくして、講義は再開されたが、私たちはもう教授の顔をまともに見られず、異常な緊張状態にうつむいているしかなかった。

 授業が終わり、教室から吐き出された学生たちは、一様に深呼吸して急にガヤガヤとしゃべり始める。

「こんなすごい授業初めて」

「今日の講義、やばかったな。緊張して疲れた」

「朴大統領の事件って、どんなだったっけ」

「先生の娘さんが、ねえ」

 鮮やかに黄葉した銀杏の葉が、構内を散らばっていく学生たちの上に降り注いでいた。マラソンをしている学生たちの号令の声。談笑しあう女子学生。広場の方から聞こえてくる拡声器の聞き取りにくいがなり声。

 私もすぐに次の講義の教室に向かって歩き出す。世界情勢が変わっても、誰かが死んでも、それが直接自分の身に危害を及ぼすものでない限り、私たちはこうして自分の生きがいとかアルバイトとか恋愛とか、地上的なものに囚われて毎日を過ごしてゆくのだろう。


 土曜日、いつものように桂木隆司に会い、話をした。小さな喫茶店に入り、コーヒーを前にして彼は言った。

「二週間後の金、土、日に富士山に登るんだ」

「ええー? だってもう冬山だよね。すごく雪も積もってるんじゃないの?」

 彼は少し前に友人の兼子彰浩を誘って秋期募集の紅峰倶楽部に入っていた。普通のハイキング程度の山歩きのサークルではなく、本格的な高山登山を目指すバリバリの登山部だ。あちこちに貼ってある部員募集のビラは私も見ていた。部室は『花蓮』という中華料理店横の道をちょっと入った旧旅館だ。

 以前、山に興味を持ったと言っていたが、彼に登山経験は無い。素人に冬山は危険ではないのかという思いが瞬間湧きあがった。

「雪なんて生易しいものじゃあないよ。もうアイスバーンになっちゃって、つるつる滑ってすごく危険なんだってよ」

「大丈夫なの? 初めて登る山が雪の富士山だなんて」

「どうなるか分かんないけどさ、やってみるよ。毎日四キロぐらいジョギングしてるんだ」

「そうなの。私がやめなよって言っても、今更やめないよね。でもさ、気をつけてよね。死んじゃいやだよ。頑張って生きて帰ってきてよね」

私はわざと冗談めかしく言い、笑顔を作る。

「まあな」

彼も苦笑いのように笑う。

 いきなりの冬山登山は無謀だと言えば無謀だ。しかし彼がやろうと思って決めたことに、余計な口出しはしたくなかった。友人の兼子彰浩も一緒なのだから助け合うこともできるだろう。私には彼が無事に帰ってくることを祈るしかできない。彼の命は、もはや彼一人のものではなく、私にも強く関わるものとなっていた。

「冬休みはペンキ屋のアルバイトをやるんだ。屋根の上とかガスタンクとかに上ってペンキを塗るんだ」

「また危ないアルバイトをよく見つけてくるね」

「何かやってないと精神的に苦しいから、体使うバイトやって自分をごまかしているんだよ」

「気持ちは分かるけど、まわりの人に心配かけないようにね。私もだけど、ご家族にもだよ」

「分かってるよ」

 彼はこれから挑む山のことを考えて少し無口になっていた。私も、時折上石神井駅の架橋上から眺められる、はるか遠くの白い富士山のことを思い浮かべていた。不安な気持ちが胸を騒がせる。

 彼にもきっと心に何らかの苦悩はある。それを忘れるために、危険な山や、きついアルバイトに向ってしまうのだろう。私は助けてもらうことばかりを考えていた自分を恥じた。彼の痛みや悩みに、しっかりと寄り添ってあげられるような人間にならないといけない。



 次の週の日曜日の午前、安達望から、入院していた時に借りた本を返したいから私の下宿まで行きたいという電話があった

「あ、急がなくていいよ。今度学校で会った時にでも‥‥」

「でも、学校まで持って行くんじゃあ重いからさあ。武蔵関の駅から下宿近い?」

「そうねえ、上石神井と武蔵関の中間あたりなんだけど。でもいいよ。わざわざ来るんじゃあ‥‥。私が武蔵関の駅まで行くよ」

「いや、僕がそっちに行くよ。目印とか無い?」

「‥‥うん。えーとね。関町の電話局のすぐ近くだけど」

「わかった。一時頃行くよ。それに僕、今、日本橋の三越でやってるドレスデン秘宝展の招待券持ってるんだ。一緒に行こう」

「あっ、でも、ちょっと急だから‥‥どうかなあ‥‥」

「遠くないし二、三時間で帰ってこれるよ。何かお礼がしたいんだよ」

「うーん、でもやっぱり‥‥」

はっきり断わるべきなのだと思った。しかし安達望は私に断る隙を与えなかった。

「とにかくこれから本を持っていくから、じゃ、待ってて」

彼はそう言ってすぐに電話を切った。

 私は本を受け取ったら、そこで断ればいいやと思った。

 昨日の夜から雨が寒々と降り続き、昼近くになってやっと止んだ。今年の秋は雨が多かった。十一月の半ばを過ぎ、もうすっかり薄暗い冬の空になっていた。

 安達望からの電話の後、窓を開け放ち部屋の片づけをした。片付けるといっても下宿の四畳半の部屋には、炬燵と冷蔵庫と本棚しか無い。せいぜい炬燵の上に散らばっている本やノートや筆記用具、櫛や鏡などを並べ替えるだけだ。萩原朔太郎や谷川俊太郎の詩集、何も書かれていない原稿用紙など、私が私であろうとする最後のあがきとしていつもそばに置いてある品々。

 私の部屋には女性的なものが無い。服も同年代の女子と比べて驚くほど少なかっただろう。ファッションにはあまり興味は無かった、いつもジーンズにTシャツ、トレーナー姿で、スカートをはくのも稀だった。服を買うにしても西友の衣料品コーナーで安いものを買うだけだ。仕送りしてもらっているお金を、服などにかけては申し訳ないという思いもあった。お金があったら、何か本でも買った方がいいと考えてしまう。

 安達望に私の下宿の場所を知られたくはなかったので、一時少し前に下宿を出て武蔵関方面にゆっくり歩いて行った。近所の柴犬に挨拶しようと垣根から覗き込んだ。年老いたその犬は、晴れた日にはいつもぼんやりと縁側でひなたぼっこをしている。私が覗くと縁側から降りてきて垣根の隙間から鼻面を突き出し物欲しそうに鼻をくんくんさせてくる。少しなでることができるようになった犬だ。今日は寒いので小屋の中で眠っているようだった。

 こんな冬寒な日は、家に閉じこもっていた方が賢明だ。午前中に降った雨の匂いがまだ大気の中に残っていて、微細な湿り気が髪にまとわりついた。どこからかわずかに煙の匂いが流れてくる。

 電話局の電話ボックスの前を通りかかった時、さっきまで電話をかけていた男の人が、すぐそばに止めてあった車の中から私に向って手を振った。一体誰だろうと警戒しながら近づいていくと、その人は思いがけないことに桂木隆司だった。

「おーい、俺だよ」

 彼は車の窓を開けて身を乗り出すようにして顔を出した。びっくりした目がいつもより大きく見開かれていて、人を射抜くような激しい視線に少年のような無邪気さが加わっていた。私は息をのんですぐには言葉が出なかった。

「今、おまえのとこに電話かけてたんだ。やっぱりこの辺だったのか」

「あー、びっくりした。うん。すぐそこの、あの茶色の壁の家の向こう側の二階」

「この前、上智大学の神学部の近くって言ってたから、地図で探して寄ってみたんだ。向こうから、どうもどこかで見たやつが来ると思ったら、やっぱりお前だった」

「私も歩いてて誰かあそこで電話をかけてるなっていうのは分かってたけど、なんだかいつもと雰囲気が違うから桂木くんとは思わなかったよ。びっくりしてドキドキしちゃった。車で来たの? 随分時間かかった?」

「うん。一時間ぐらいかな」

彼の車は灰色の小さいシビックで、後ろの席には壊れたギターが入っていた。

「これからどっか行くのか?」

 私はどう答えようか迷った。安達望がこっちに向っていることを言うべきだろうか。でも少し濁してしまった。

「うん。ちょっと武蔵関まで」

「そうか。俺はこれから兼子の所に行く約束をしている」

 私は彼と話をしながらも安達望と鉢合わせになってしまうのではないかと気が気ではなかった。そして案じていた通りに、少し先に安達望が武蔵関方面からゆっくり近づいてくるのが見えた。

 安達望は私が車の中の桂木と話しているのを見て「えっ? なんで」というような複雑な表情をした。

 桂木は安達に気付くと、とまどいながらも「やあ」と挨拶し、これから友だちのところに行く予定でここを通りかかったら偶然私と会ったとか、安達の家はここから近いのかとか、クラスメートらしく笑顔で礼儀正しく話しかけている。

 安達は仏頂面で車の中の桂木を見下ろして、

「へぇー。そう」「うん、割と近い」

と短く答えた。そばで聞いていてはらはらした。

 桂木隆司は素早く状況を察して、

「じゃ、また」

と言って眼鏡をかけ、ちょっと私に微笑みかけると車を発進させた。

 上石神井駅方面に向かって小さくなっていく彼の車を見送りながら、私は妙に力を落としていた。彼に不愉快な思いをさせてしまった。安達と安易な約束をしてしまった自分がうらめしかった。


 安達望はスーツ姿に長いコートを着込み、ピカピカの革靴を履いて、傘を手に英国紳士のような身なりをしていた。

 桂木の車が見えなくなると私の方に向きなおって、抱えていた包みを私に手渡した。

「じゃ、これ、本。どうも有難う」

「あ、わざわざありがとう」

「これからちょっと日本橋に行けるね?」

「ああ、でもやっぱりいいよ。遠慮する」

「せっかくこんな服装してきたんだぞ。日本橋につきあってくれたら貸し借り無しっていうことにしよう。今日が最終日なんだ」

「でも‥‥」

「そんなこと言ってる間に帰ってこれちゃうよ。さあ、行こう」

 安達望があまりにもきちんと盛装してきてしまっているので、ここで断ったら彼の面子を損なうことになりそうだった。同じ英文科だし、多少なりとも利害が関わる友人関係。私は「貸し借り無し」という言葉に自分を納得させて、日本橋に行くことを承諾してしまった。

 私は一旦下宿に戻って、手渡された本を置くと、白いタートルネックのセーターとジーンズの上にベージュのコートを羽織って外に出た。心はまだ迷っていたが安達望と共に上石神井駅に向かって歩き出した。

 去っていった桂木隆司の、いつもと違って眼鏡をかけた静かな横顔と、車のギアを操作する左手の長い指が目の奥に消えなかった。友人の兼子彰浩の下宿に行くと言うのは口実で、もしかしたら私を目指して会いに来てくれたのかもしれない。私は安達を断って桂木を引き留めるべきではなかったのか。考えれば考えるほど意思の力が乱れ、呆然として混乱していった。

 私が感情を隠そうと努力していた時、安達望は不意にこう言った。

「日本橋に行くのにジーパンじゃあいかんなあ。それに履き古したスニーカーだし。もっといい服無いの? そう言えばこの前、大学に紺のジャージのジャケット着てきたろう? グリークラブの友だちが見ててさ、僕に教えてくれたんだ。なんだか僕が恥ずかしかったよ。ジャージはやめなよ」

 その言い方に私は自分のテンションが急に下がっていくのを感じた。

 桂木隆司も以前、洗濯物が乾かなくってさあ、と言いながらジャージの上着を大学に着てきたことがあった。私も同じころ、洗濯が間に合わなかったんだよ、と言いながら彼にジャージ姿を見せて、苦笑しあったことがある。桂木は決して私の服装をけなしたりはしなかった。一人暮らしって大変だよな、全部自分一人でやるんだからな、と思いやってくれた。安達望はその時の私のジャージ姿を友人に揶揄されて、いまいましく思っていたというのか。

 安達の言い方にがっかりはしていたが、顔だけは微笑みを作って、そうだよね、変だったよね、とうなづきながら聞いていた。

 そういえば、前に聖心女子大の子に香水をプレゼントすると言っていたけれど、その子とは付き合ってはいなかったのか。少し前から安達の興味がまた私に向いているのを感じていた。

 西武線の電車はほどほどに混んでいた。私の斜め後ろに立った安達望が少し私に密着しすぎてはいないか気になったが、すぐに目の前の座席があいたので、私は彼に少しお辞儀をして座らせてもらった。

 日本橋三越デパートに着き、洋服売り場を通りかかった時、安達望は高価そうな衣装をまとったマネキンの前に立ち止まった。

「こんなのを君に着せたいな。すごく似合うだろうなあ。君、すらっとしてるし」

それは胸元が開いた華やかなサテンのロングドレスだった。

「わあ、値段の桁がすごいよ。とても買えないね」

「いつか買ってあげられるといいんだけど」

 その言葉がどこまで本気だったのか。言外に自分の彼女であるかのようなニュアンスを感じて、私はちょっと慌てる。やはり安達が肺炎だった時、お見舞いに行ってしまったことで彼に勘違いをさせてしまっていたのか。

 ドレスデン秘宝展の会場は非常に混んでいた。黄金やルビー、エメラルドがちりばめられた美しい王冠や、意匠を凝らした古い紋章など、ヨーロッパの数々の宝石工芸品、黄金装飾の武器などが飾ってあり、歴史的な価値も高く見応えがあった。警備員があちこち台の上に立って目を光らせている。私は混雑した会場を押し流されながら、背伸びをしてやっとの思いで隙間から展示物を見た。安達望も見るのに苦労して、あちこち体を傾けて見づらそうに覗き込んでいる。

 デパートを出るともう辺りは薄暗くなっていた、高田馬場まで戻り、駅前で軽く食事を済ませて、帰りの西武線に乗った頃には夜の七時ぐらいになっていた。電車に乗ってしまえばあと三十分ほどだ。やっとこの窮屈なデートから解放されると思って気持ちが緩んだ。

 電車はさほど混んではいなかったが座れなかった。並んで吊革につかまっていると、安達望がさりげなく私に体をぴったりとくっつけてきた。

 学校で会う安達望は特に危険な感じがする青年ではなかった。英文科の授業で会って、授業の内容について少し会話するだけの普通の友人。それなのになぜ彼は今日、こうも私の体に密着してくるのだろう。大学の外という状況が、彼を恋人気分にさせてしまっているのだろうか。

 私は顔をこわばらせながら、不自然に力の入った態勢で上石神井の駅まで耐えた。

上石神井に着くと彼は、

「下宿まで送っていくよ」

と言った。

「あ、大丈夫だよ。アルバイトする日なんかもっと帰り遅いから。ここで降りちゃうと安達君、武蔵関でまた電車を待ち合わせしなくちゃならないでしょ?」

「いや、送っていくよ。僕が誘ったんだし。送っていくのが男の義務だよ」

 安達はどうしても送って行くと言ってきかなかった。

 商店街を抜けると街灯の明かりだけが頼りだ。暗い道で彼はやはり私に接近してきて、腕と腕がぶつかり合うほどだった。私がそれを嫌って早歩きすると、彼は息を切らしてやはり早歩きでついてくる。

「歩くの早いね」

 私は振り向きもせずに先を急ぐ。

 小さな書店と薬局ももう店を閉じていた。駄菓子屋のある角を曲がると、道の両側は急に畑が多くなる。中学校裏の人通りの少ない道をほとんど小走りで通り抜けた。里芋畑の大きな葉っぱが、暗闇の中でゆっくりと揺れているのがちらりと見えた。まだ道路は黒っぽく湿っている、小さな犬小屋の中で子犬のちろはもう眠っているらしい。

 私は下宿のずっと手前の街灯の下に立ち止まった。

「じゃあ、ここで。今日はどうもありがとう」

安達望は驚いたような顔をする。

「あ、下宿、もっと先じゃないの?」

「もうここで大丈夫。じゃあ、また学校で。さよなら」

「そうか、もう着いちゃったのか」

 彼は名残惜し気に言って、ちょっと私の顔をみつめ、コートのポケットに寒そうに入れていた両手を出した。

 彼はいつもと違って口数も少なく、眼鏡の下で中途半端に微笑んでいた。立ち去りあぐねて私の下宿を探すようにあたりを見回している。

私はもう一度、

「じゃあね」

と言った。

彼はやっと、

「うん。じゃあ、またコンサートに誘うよ」

と言って、ゆっくりと踵を返し武蔵関の方に歩きはじめた。

 私は彼が遠ざかっていくのを見届けてから、そこから少し先の下宿に小走りで帰った。部屋に入るとバッグを投げ捨て、コートを脱ぎ、一息つく間ももどかしく、着替えと洗面器と石鹸の入った袋を持って銭湯に走っていった。

 安達望のあれらの言動は、彼なりの私への愛だったのかもしれない。しかし、受け入れる気持ちの無い私にとっては、ただ私を戸惑わせるものでしかなかった。

 男性からの接触をこんなに嫌悪してしまう自分はおかしいのか。桂木にだったなら、いつか触れられることを許せるのだろうか。桂木の求めになら応じられる私なのだろうか。

 私は熱い湯船の中に首までつかり、自分の胸をかき抱くようにして、深く迷う心のざわめきと戦っていた。


 悩みを負った時、一人暮らしでは転がり出してしまったボールの軌道修正をしてくれる人が周りにいない。それに安達望とのことは、人に軽々しく相談できることでもなかった。

 唯一何でも話せる桂木は、今、富士登山に向けて意識を集中しているだろうし、こんなことで煩わせたくはなかった。

 時間をみつけては長い散歩に出かけた。時には息が続く限り走った。上石神井の町から武蔵関公園の方まで足を伸ばし、ボート乗り場のある池のベンチで一息ついた。池にはアヒルやカモも泳いでいて、エサをやっている人もたくさんいた。線路沿いの公園なので、行き交う西武線の電車がよく見えた。走っていると物思いから一瞬でも解放される。桂木隆司も身体づくりのために走っているという。私も一緒に強くならなくては。

 このところの悩みに加えて、秋に実家に帰った時の母の言葉も、心の奥にずっとくすぶっていた。

 私はそれとなく付き合っている人がいることを母に打ち明けていた。だから日曜日にそうはたびたび帰省できない、ということを伝えたかったのだ。

 母は娘の一人暮らしに男性の影がきざしたことへの心配が高じたのか、

「妊娠なんかして帰ってきたら家の敷居を跨がせないからね」

と、厳しい顔で少し強く言った。

 私が遊びでそんなことができる人間ではないことを知っているくせに。私がどれだけ自分の身を守ろうと苦しんでいるかも知らずに。それにもし、妊娠という事態になったなら、そこには何か深い事情があったに違いないと思ってほしいのに。

 もっと私を信用して欲しかった。

 私は東京で一人で十分頑張っている。しかし完全にひとりぼっちではやっていけないし、人と付き合うことで生じる軋轢とも向き合わなくてはいけない。

 それに私が悩むのは西城研二や安達望のことばかりでは無かったのだ。BIG・BOXの中でも見知らぬ男性に追いかけ回され、トイレに逃げ込んでしばらくしてから出て行っても、まだトイレのそばにその男性がいて、再び私めがけて近寄ってきたこともあり、振り切るのに怖い思いもした。

 文学部の水飲み場で苦い緑色の薬を飲んでいた時も、振り向くと男子学生がじっと私を見ていて、私がハンカチで口を拭いながら急いで立ち去ろうとした時、急にその人が近づいて来て「法学部のものですが、お話できますか?」と聞いてきたこともあった。ひどく思い詰めたような暗い目だったので、「ごめんなさい。授業あるので」と断るのも少し怖かった。

 一般教養の試験後も、他学部の男子たちに声をかけられやすい。聞こえなかったふりをすることもあった。ずっと後をついて来るのに気づいていたが、交差点でなおも後ろからかけられた声を無視したら諦めてどこかへ行ってくれたので、ため息をついてやっとほっとしたこともある。

 東北線の中でも隣に座った若い男性からしきりに話しかけられ、東京に着くまでの長時間、このあとお茶でも、どこかでもっとお話をなどとしつこくされたり。

 美容院では男性美容師が私に張り付き、私の肩や首を不必要に撫でまわしてくる。私生活について立ち入って聞いてきたりする。それに気づいた女性美容師たちが不穏な眼差しでこそこそ陰口を言っているらしいのも不愉快だった。私がいい気になって撫でられているとでも思ったのか。

 映画館の中、西武線や山手線の電車の中、バスの中。男性からのちょっとした痴漢めいたいやな接触を挙げたら切りがない。

 気になるほど張りついて来る男性からの視線。それも決して私の自意識過剰のせいではない。気付かない振りをし続ける努力も結構な疲労を伴った。

 女であるということだけで面倒なこと心配なことが沢山ある。都会の人ごみにもまれて毎日を過ごすことだけでも、いやなストレスばかりでつらいと感じることもある。そう感じるのは私だけなのだろうか。

 桂木に相談しても一種のモテ自慢のようになってしまうから、困り笑いになってしまうだけだろう。しかし私には深刻な問題なのだ。白昼のできごとであっても危険を感じてしまう。

 そういえば一学期の頃、歎研の吉川清彦と不自然に何回も学内で出くわしていたことも、彼が下宿まで何度も来て手紙をポストに入れていったことも、遠路宇都宮にまで来てくれたことも、あの頃はひどく孤独だったからついうれしいと感じてしまっていたが、冷静になって考えてみると、その粘着ぶりは少し怖いことだった。

 夏休み以降の電話は、私が離れて行くことに焦ったのか、ひどく攻撃的なものになっていった。それは顕証の範疇を超えていた。吉川も私が男だったならこんなにしつこく追おうとは思わなかったに違いない。

 男性というものが急に分からなくなってきた。自分というものも分からなくなってきた。男だの女だのとは関係なしに人間として生きていたいのに。


 語学の試験範囲が発表になった。ドイツ語はテキストとなっている『ラデツキー行進曲』

の中から二題、あともう一題全く別の文章から出題されるが、これは持ち込んだ辞書を引いていいらしい。

 『ラデツキー行進曲』はドイツ軍の軍隊内のある部隊で起きた発砲事件を題材にした心理小説である。同名のオーケストラ曲もあるが、それとどう関連しているのかは私には分からない。

 夏休みにはレポートも出題されていたが、教授が無断で何週も欠席したので、なかなかレポート提出できずにいた。この本に出てくる四、五人の登場人物の中の一人に焦点を当て、その性格を論ぜよ、という出題だった。

 何かの用事で授業に出られない尾口博史が私にレポート提出を託していったことがあった。結局その日も休講で、私は彼のレポートを持ち帰らなければならなかった。悪いと思ったが読んでしまった。それは私のものよりもはるかに優れたレポートだった。

 彼のレポートはこうだ。


『‥‥このような伍長Cの性向は、当時の中産階級、平凡で安定した生活を営む穏健な小市民のそれと相通ずるものがあるように思われる。ファシズム台頭以前のワイマール共和国では極めて頽廃的な風潮が見られた。歴史家はその一時期を特徴づけるものとして『3S』を挙げる。すなわち、Speed、Trill、Sex、である。民主的なワイマール憲法によって自由を保障されていたとはいえ、他国への賠償に苦しみ、失業者の増大に悩んで、人々の心には不安の影が忍び寄ってきたのである。そのような状況において、人々は3Sに興じ、快楽の中に逃避したのだろう。そこへヒトラーの率いるナチスが出現し、巧みにカムフラージュされた綱領と効果的な宣伝によって、Cのごとき小市民の支持を得ることに成功したのである。そして国内の不満を対外侵略へと向けたのである。

 更に曹長のいう『冒険に対する病的欲望』を持つCの残虐性はまさにナチスのそれである。Cは人間の生命の尊厳性という観念を持ち合わせていなかったと言えよう。彼が望むことはびっくりするような事件が起こることであって、人間が一人死のうと問題ではなかった。同様に、ナチスはゲルマン民族以外の人間の生命を軽視して、ついにはユダヤ人を虐殺するに及んだのである。

以上、伍長Cの場合を考察してきたが、ナチスが民衆の支持を得たことは、Cの性格の分析からある程度は理由づける事が可能であると思われる』


 尾口博史の文章を読み、彼がいかに優秀なのかを実感した。理路整然として比喩も的確だ。歴史的知識も豊富であるように思えた。それに比べて私のレポートはなんとなく幼稚でただの感想文のようでしかない。

 当然のごとく早稲田には本質的に頭のいい人が多い。一度教科書を読んだだけで、全部頭に入ってしまうと豪語している人もいた。そういう人たちに比べて、私はただの平民だ。もがくように勉強してもたいして吸収できない。ドイツ語も全然マスターできないままだし、レポートだってかろうじて落第しない程度の代物だ。私の心の底にはいつも劣等感があった。

 グレイ教授の英語の試験は、文法上の修辞についてあらかじめ細かく問題が出題されていた。これは坂口美子とノートをつき合わせて大体の解答をシミュレーションすることができた。いくつかの一般教養も、冬休みの宿題として早々とレポートが出題された。


 十月に受けた行政書士の試験に合格したという知らせが実家からあった。さほど自信があったわけでは無かったが、合格率から言ってなんとか受かりそうな気はしていた。これで宇都宮に帰るための足掛かりが一つできた。

 次のチャレンジとして司法書士の参考書を買ってみたが、読んでみて行政書士とは段違いに難しいということが分かった。法律的知識が基礎から欠如しているので、用語をどう読むのかさえ分からず、分厚い法律書を前に最初から立ち往生していた。しかし時間はまだたっぷりある。どこまでやれるか試してみるのも悪くないだろう。


 歯科医院でのアルバイトは少しずつ技術的なことを要求されるようになってきた。

「白セメントは新しくて上等なやつだから無駄にしないで。赤いセメントは使い古しなんだ。セメントはよく練り込んでね。N2とか、他の補填材は混ざればそれでいいんだから、あんまり必死にかきまわさなくてもいいよ」

 秀夫先生は治療の合間に、セメントとどろりとした液体の混ぜ加減を教えてくれた。

台の上のガラス板に粉と液体を等分に垂らして、銀色のへらで手早くかきまぜる。そのセメントは急速に固まってしまうので、放っておくとガラス面にこびりついてしまい、洗ってもなかなか落ちない。使い余ったセメントは、なるべく素早く脱脂綿で拭き取らなくてはならない。

「あとは、アマルガムの作り方だけど水銀を使うから取扱いには気を付けて。粉と水銀をこの容器に入れて、この機械にセットすると電動で混ざりあって丸い固まりになるんだ。出来立ては軟らかいけど、だんだん固まってくるから、使う時まで掌の上で丸めていて。じゃあ、忙しい時に頼むかもしれないから、少しずつ覚えていってね」

 秀夫先生の繊細な指先が薬品を扱うのを私は真剣に見つめた。間違わないようにしなくては。ここでは無駄な感情は必要とはされていない。きちんとカルテを整理して、器具を消毒する。使い終わった薬品の始末、静かな挙動。

 私は与えられた仕事を精一杯注意深くこなした。仕事の流れのパターンも次第に分かってきた。無駄な緊張も取れてきて、ちょっとの暇をみつけて語学の予習をする余裕もできた。


 ある時、治療を終えた一人の婦人が治療代を払いながら、そばに立っていた私をしげしげと見た。

「こちらの方、もしかして若先生のお嫁さんですか? まあ、いつの間にこんなお綺麗な方とご結婚なさったんですか?」

 秀夫先生と私は素早く顔を見合わせた。私は何故だか頬が急に熱くなった。

「あ、いや、この子は…」

 秀夫先生が言いにくそうにしているのを、少し離れたところにいた院長先生が治療をしながら言葉を継いだ。

「残念ながら、嫁さんじゃないんだ。知子が子どもの事で忙しくなったんで、アルバイトに来てもらってるんだ」

「あら、失礼しました。てっきり若奥様かと思っちゃいました。でも若先生ももうそろそろご結婚なさってもいいお年頃ですわよねえ」

婦人はなおも秀夫先生と私を見比べている。

「あ、僕はまだ予定は無いです」

秀夫先生は困ったように下を向いて、カルテに書き込みをしながら答えた。

「まあ、もったいない。こんなにハンサムでいらっしゃるのに」

婦人は甲高い声でおしゃべりを続け、早くご結婚なさいとか言って、秀夫先生を苦笑させている。

 私はそうっと使い終わった器具を持って控え室の方に入った。秀夫先生のお嫁さんに間違われたことよりも、秀夫先生が独身だと分かったことが、なんとなくうれしかった。独身だったとしても、恋人はいるのかもしれない、確かにとってもハンサムだからなあ、そんな事を思いながら、私は洗面台で洗剤を一杯使ってぶくぶく泡を立てて器具を洗った。

 入念に洗って治療室の消毒の機械の方に持っていくと、さっきの婦人はもう帰っていていなかった。秀夫先生は次の患者のカルテをめくって見ていたが、私がそばに行くと顔をちらりと見て、悪戯っぽい笑みを浮かべてわずかに頷いた。

 秀夫先生のそばにいるといまだに緊張する。一歩踏み込めない何かがあって、それはあまり笑わない切れ長の幾分沈んだまなざしのせいであるかもしれないし、必要なこと以外は話さないその無口さの故だったかもしれない。

 休憩時間に控え室に入ってきた秀夫先生は、やはりいつもと同じ端正な彫像のような横顔を見せていた。めったに感情を表に出さない。こんなに長い時間一緒にいるのに、私に対して意図して不愉快な行為を起こしたことは一度も無く、積極的に話しかけてくることもない。私もそんな秀夫先生に話しかけられなくて黙っている。それは不思議に調和した沈黙だった。

 秀夫先生のそばからはいつも消毒の匂いがしていた。私は薄くレモンの香水をつけている。二つの香りが交じり合うことは決して無いのだろうが、この静かに停止した時間の中に切り取られた小さな空間に、秀夫先生と私と二人だけで閉じ込められているということが、甘い秘密のように私の心をくすぐっていた。学校にいる時には感じる事の無い大人びた空間。

 何か話かけたいような、秀夫先生の休憩を邪魔しちゃいけないような、迷いとたゆたいの後には、結局いつも黙っていることを選び、休憩時間は静かに過ぎていくのだった。


 待合室の子どもたちとも次第に親しくなっていった。人懐こい何人かが、窓口から顔を突き出すようにして、学校であったこととかを話してくれるのを、私はにこにこしながら聞いてあげる。

「今日ね、おいも掘りしたの。三つぐらいとれたよ。こーんなに大きいの」

「すごく大きいね。どんな風にして食べるのかな?」

「うーんとね、やきいも」

「やきいも、いいなあー。おねえさんも好きだよー」

 ギシッと椅子の音をさせて秀夫先生が振り向きながらちらりとこちらを見る。仕事の邪魔をしてしまったかなと少し心配して、私も秀夫先生をちらりと見る。口元は大きなマスクで隠されていたが、その目はやわらかく微笑んでいる。とても貴重な微笑みだ。私はほっとする。

 その子の治療の番になると、いつもほとんど無駄な会話をしない秀夫先生が、

「今日、おいも掘りだったんだって? 面白かった?」

と、治療をしながらやさしい声を掛けている。よかった。私はカルテを整理しながら、温かい気持ちになっていく。


 桂木隆司が山に登る日が近づいて来た。前日に電話がかかってきた。

「こんな天気だけど明日やっぱり行くの?」

「行くよ。吹雪だって行くんだって。死の雪中行軍だなんて皆言ってるよ」

平気そうな声だけれど、内心はどうだろう。

「大丈夫なの? 本当に気を付けてね」

「うちには富士山に登るなんてとても言えないから、ピッケルとか山の道具はみんな車の中に隠してあるんだ」

「そう。ご家族、心配するもんね。富士山だなんて言ったら、駄目―、って言われちゃうよね」

「うん。これから午後、部室に行って泊まろうかと思う。明日七時集合だから」

「朝早いんだね。頑張ってね。それしか言えないけど、頑張ってちゃんと無事に帰ってきてよね」

「うん。おみやげは多分買う余裕なんて無いと思うけど」

「おみやげなんていいってば。ちゃんと怪我もなく帰ってきてくれればいいよ」

 考えれば考える程不安な気持ちが沸き上がってくる。万が一のことを考えずにはいられない。その考えは私の心臓を脅かし、息苦しくさせた。どうしてこんなに落ち着かないのだろう。他の先輩部員や友人の兼子彰浩も一緒だというのに。私はただ彼の命のことしか考えられなくなっていた。

「心配すんなよ。本格的に登山するっていうんじゃなくて、ウォーミングアップみたいなもんだっていうから」

「うん。でも上石神井から見える富士山、もう真っ白だよ‥‥。あんまり上に登らないで下の方で練習する程度ならいいね」

「そういえば、おまえの下宿の場所が分かったから、今度こそ車でどこか行こうぜ。もうすぐ今学期も終わりだから、三学期にでも」

「うん。今度は行くよ。それから、この前はせっかく下宿まで来てくれたのに、あんまりお話できなくてごめんね。ちょっと安達くんと約束があったんだ。本を返してもらうだけのつもりだったんだけど、強引に日本橋に誘われちゃって。ごめんね。また断れなかったよ」

「別にいいよ。いろんな友だちと付き合えよ。俺はおまえを拘束するつもりはないよ。いろんな奴と付き合ってみて、それでも俺に戻って来てくれればベストだよ。‥‥戻ってこなかったら困るけどよ。ははは」

「うん。ありがとう。だけどさ、あの日、安達くんと日本橋に行ってすぐに帰ってきただけだったんだけどさ、疲れたよ。‥‥すごく疲れた。もう安達君とは授業で顔合わせてしまう以外、個人的には会わないよ」

「そうか。話するくらいなら別に誰と付き合ってもいいけどさ、」

桂木隆司は、言葉を区切るようにして、一呼吸、間を空けた。

「抱かれるなよ」

ドキッとして体が固まった。

「おまえを、最初に抱くのは俺だからな。誰にも、抱かせるなよ」

 真っ直ぐな目で私にしっかりと言い聞かせるように。ああ、なんという言葉か。

 照れて茶化すといった次元を超えていた。彼の口から聞いたその言葉は、陶酔のような痺れをもって私の体を包んだ。

「‥‥うん。わかった」

 彼の山行に対する不安と相まって、私の心は乱れ震えていた。

電話を切って部屋に戻ってからも、彼の言葉が頭から離れなかった。雨がトタン屋根をカタカタと鳴らしている。


 桂木隆司が山に出かけた金曜日は祝日で学校も休みだった。私は下宿にいるのがいたたまれなくなって、朝から散歩に出た。地図を見ながら北の方へ石神井公園を目指して歩き、緑も無い冬枯れの住宅地の道をただひたすら歩いた。時間がなかなか過ぎていかない。

 やっとたどり着いた石神井公園の三宝寺池をちょっと回ってから、とんぼ返りに帰った。一人で公園に来てもつまらない。どんより曇っていて寒い。数か月前、桂木隆司とボートに乗った明るい初夏の一日がひどく懐かしく思える。

 宇都宮の実家に電話をしてみたら、連休なのになぜ帰ってこないのかと、母は心配気な声で聞いてきた。声はいつも最後の方は泣き声のようになってくる。つい、うざい、と思ってしまう。学期末の試験があるから勉強しなくてはならない、と嘘をついてごまかして、私は早々に電話を切ってしまう。

 これは東京に一人でもいられるための訓練、桂木隆司の不在を耐える訓練、宇都宮から少しずつ離れていくための訓練なのだ。


 日曜日の朝刊には、富士山の登山事故がトップで大きく載っていた。いつもは山の事故など興味も無く読み過ごしてしまうのに、その日の記事は私をほとんどパニックにした。

 滑落事故多数発生。死者も何名か出ていた。その記事に桂木隆司と早稲田パーティーの名が無いのを確認して少しほっとしたが、もしかして今日にでも事故を起こすのではないかと考えると目眩がするようだった。

 どうか無事に帰ってきてほしい。こんなにも彼のことを思っている。彼が事故に遭うようなことがあったら、私はどうしたらいいのだろう。

 不安なまま桂木隆司の不在の三日間をすごした。その三日間、夜もあまり眠れなかった。帰る予定の日の夜になっても、彼から、無事帰った、という電話は無かった。

 次の日の月曜日、彼が帰っていれば語学の授業に出てくるはずだ。それとも疲労で休んでしまっているだろうか。私は彼のいそうな場所をあちこち探した。美術史の教室、書店、学生読書室、学食‥‥やっぱり今日は学校を休んだのかもしれないと半ば諦めた時、104教室横の廊下で桂木隆司に偶然会った。

 彼はかすかに笑って片手を上げた。わずかに無精ひげが目立っていた。どこか野性的な鋭さが増したような気がした。彼の顔を見て私はほっとして、力がふっと抜けた。

「ああ、無事だった‥よかったあ‥」

「うん。なんとか」

「けがは?」

「打ち身なんか、少し」

私たちは廊下をゆっくりと歩きながら話した。

「新聞に遭難の記事とかたくさん載ってたから心配してたんだよ」

「うん。人が転げ落ちていくのが見えた。俺も死ぬかと思ったよ。ザイルを体に巻き付けて滑落の練習をしたんだ。下が見えないし、氷で足元がつるつる滑るしで、一歩間違えたら完全に死んでたよ」

「そうだったの。それは怖いよ。新入部員で素人なのにさ、先輩たちももっと考えてくれなくちゃ。危なすぎるよ」

「うん。夜なんかも寝かせてくれないんだ。兼子とYMCAの歌を踊りながら歌わせられたよ。もう疲れてぶっ倒れそうなのにだよ。頭に来るし、体はあちこち痛いしで、散々だったよ」

「そうかあ。ちゃんと休ませてくれないと事故につながっちゃうかもしれないのにね。でも無事に帰ってきてくれて本当に良かった。私も心配しすぎて、眠れなかったよ」

「俺が思っていた登山とは違ってたよ。山に登りたい気持ちは変わらないけれど、冬山は俺にはまだ無理だ。いさぎよく撤退するよ」

「うん。そうだね。その方がいいよ」

 彼はまだ遥かな山を目指しているような眼差しで、真っ直ぐ前を向いて歩いていた。私は彼と並んで生協の書店の方に向かいながら、彼が元気な姿で私のそばにいることに、深い安堵を感じていた。

 『おまえを最初に抱くのは俺だからな』、という彼の言葉をあれから何度も思い出した。『抱く』って、それはセックスの「抱く」? そんな時がいつか本当に来るような気もどこかでしていた。

 怖いけれど、桂木となら嫌じゃない。そう思い始めている自分に少し驚いていた。でも本当にその場になったらきっと逃げてしまうんだろう。気軽に肌を触れ合わせるなんて今の私にはとても出来そうにない。















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