第14章 大学2年 3学期 1月
- kaburagi2
- 2022年11月23日
- 読了時間: 43分
更新日:2023年11月1日
グレイ教授の英語は、事前の予告によると、三枚のプリントからディクテーション、それに暗喩、直喩、擬人法、婉曲などに関する問題が出る予定だった。
グレイ教授の三限の時間が始まる前、教授が受け持っている別のクラスが問題だけもらって試験無しで帰ったという情報が入ってきて、あ、これはもしかしたらうちのクラスも、などとクラスの皆とざわめいていたら、やはり試験は中止だった。
授業時間の始めにやって来た助手の人が、
「グレイ先生は風邪でお休みです。試験は行いません。レポートだけ提出してください」
と、事務的に言った。
私たちは、やったー!と叫びながら席を立ち、教卓の上にレポートを積み重ねて教室を出た。
「グレイの試験、恐怖だったんだ。得したね」
そんなことを言い合いながら、散らばってゆく。しかしまだ試験は始まったばかりだ。すぐにドイツ語の勉強に取り掛からなくてはならない。
日曜日、カーテンを開けてみたら、みぞれが降っていた。カシャカシャとトタン屋根に当たる音がどうも雨の音とは違うようだと寝床の中でずっと思っていた。窓を開けて手を差し伸ばしたら、氷雨が冷たく掌の上にこぼれてきた。みぞれが降る日はいつでも宮沢賢治の『永訣の朝』を思い出してしまう。こんな日に死んでいく人は、氷の音を聞きながら魂を透き通らせてゆくのだろうか。
午前中、ドイツ語の勉強をした。『ラデツキー行進曲』とハイネの短編小説。勉強と言っても文章の訳を丸暗記するぐらいで、文法問題が出たら最初からお手上げだ。どの文章が出るか、単語の当たりもつけておかなくてはならない。
炬燵しか暖房機具が無いので、部屋の中はひどく寒々としている。みぞれの降る音が、かすかな音楽のように窓の外から聞こえてくる。ドイツ語の文章と和訳を対照させながら、すっかり暗記してしまうまで何度も読み返した。試験範囲は十数ページあるので、暗記するのに結構時間がかかった。
一人で下宿の部屋に籠っていると閉塞感に息が詰まりそうになる。桂木に電話でもしようかと思ったが、彼は土曜日の夜からオールナイトで黒沢明監督の映画を見に行くと言っていた。今頃はたぶん家で寝ているかもしれない。試験前だというのに、勉強は大丈夫なのかとちょっと心配になる。坂口美子の寮も、例によってなかなか電話が繋がりにくい。
私は勉強も一区切りついた午後二時頃、雪の町にふらりとさまよい出た。みぞれは少し前から本格的な雪に変わっていた。もう、四~五センチ積もっている。スニーカーが一足ごとに雪に埋もれて、ほとんど歩かないうちから濡れて冷たかった。
特にどこに行こうという目的は無かったが、下宿にじっとしていることが出来なかったのだ。苛立ちを紛らわせてくれる人がそばにいないことがつらくて、雪道を歩きながら行き悩んでいる。とにかく、歩みに方向を持たせなくては。
私は急に武蔵関公園に行きたいと思った。そして行こうと思った。その決定がいささか安易に過ぎたとしても、行き先を決めたことによって少し元気を取り戻した。お風呂屋さんの前の道をずっと西に歩いていき、最初の信号を右に折れた。線路脇を通って西へ西へと道を選んでゆく。
傘を持った右手が赤くこごえていた。背を丸めながら、地面の雪ばかりを見ながら歩いた。いつも歩き慣れている道も雪に埋もれていると、距離感が狂い、見知らぬ道のように遠い。雪はますます濃く降り重ねられ、出歩いている人もまばらだ。
道を間違えたのだろうか。しばらく行っても三叉路や細い裏道ばかりで、到底公園まで辿り着けそうになかった。晴れた日にジョギングで走って行った時には、あんなに近くに思えたのに。すでに私は迷子のように雪の中に佇んでいる。道を走る車が、半ば溶けた泥まじりの雪をジーンズに撥ね上げてくる。
なにかしら惨めな気持ちになって、私はちょうど目の前にあった小さなギフトショップのドアを押した。狭い店内にはぬいぐるみやレターセットや、女の子が喜びそうな可愛い小物や文房具類が所狭しと置いてあった。
私はぬいぐるみのコーナーを眺めた。カラフルな愛らしい人形や、様々な種類の動物のぬいぐるみ、どれもふかふかで暖かそうだ。その時ふと、コートのポケットに入りそうなくらいの大きさの淡いオレンジ色のカバのぬいぐるみが目に入った。そのカバは頬にバッテンの形で絆創膏が貼ってあるデザインで、今にも泣き出しそうな目をしていた。誰かとケンカでもしたの? おまえもひとりぼっちで悲しいの? 何故かそのまま立ち去れなくて、そのカバのぬいぐるみの方に手を差し延べていた。私と一緒においで。私はそのぬいぐるみを買って、包みを懐に抱きながら来た道を戻った。
途中、お風呂屋さんの隣にあるお寺に立ち寄った。ここの宗旨は浄土真宗であるらしく、庭の隅に等身大の親鸞上人の銅像が立っていた。行脚姿の衣にも、杖を持つ腕にも、太い眉毛の上にすらも雪が積もっている。
去年の早稲田祭の頃の小峰の言葉がふと脳裏に甦った。
「あなたが再び仏教を求めようとした時には‥‥。親鸞上人の教えがきっとあなたの助けになる‥‥」
終電間際に私の下宿まで訪ねてきて、ポストに走り書きの手紙を投函しただけで帰った人は、愛を信じないと言った。愛は無常のもの、人はすべて人を裏切る、人間も愛も信ずるに足らない‥‥。その言葉はあまりにも悲しかった。だから私は、私のあるがままを受け入れ、私の弱さまでも愛してくれる人の方を振り向いた。その選択だけは間違っていなかったと思う。
墓地の方に視線を巡らすと、恐らくは今日が命日であったらしい人の墓の前の雪に夥しい足跡がついていて、黄色い菊と白い金魚草が供えられていた。お線香の火は雪のために途中で既に消えていた。あたりの墓石は常よりも孤独の影を減じて、雪をかぶった一群の森を見るように不思議に明るかった。
本堂に手を合わせようと傘を持ち換えた時、傘に積もった雪が不意に重いと感じた。下宿を出てからどれくらいたったろう。いつ夕暮れになったか見極めもつかず、雪に降り込められてゆく。長靴をはいた少女が二人やってきて、本堂の前の空き地で雪だるまを作りはじめる。子どもは雪ではしゃぎながら遊んでいる。私はどうしてこの雪を手に取ってみることもしないのだろう。
こんなに寒くて雪の降っている夕方に用も無いのに外を出歩いているのは馬鹿だ。もうジーンズの裾はガチガチに凍りつき、スニーカーの中まで入り込んだ雪で足は感覚が無いほど冷え切っているのだった。
次第に青く暮れてゆく町を、疲れ果てるまで歩かなければ帰れない。一人ぼっちの下宿の夜は、暗い雪道よりも寂しい。
翌朝、雪は既にやんで、空はよく晴れていた。昨日積もった雪は車の轍のままに固く凍りついている。上石神井の駅に行くために雪の道を危うく歩いている私の姿を見て、見知らぬ家の裏口から出て来た初老の婦人が、
「気をつけてね。滑るから」
と声を掛けてくれた。
昨日、きっちりと閉ざされた門の中に吐息の気配すら消していたのが嘘のように、雪の朝の人々は優しく目配せを交わし合っている。
高田馬場から大学への商店街の歩道は歩く人も多いので、もうほとんど雪も消えていた。ところどころに雪かきで積み上げられた雪が埃をかぶって冬山の形を成している。
ぼんやりとドイツ語の試験のことを考えながら歩いていたら、後ろから人が追いついてきて、私の左側で、
「やあ」
と言った。驚いて目を上げるとそこに桂木隆司の笑顔があった。
「あ、おはよう。早いね。テスト始まるの九時からだよね」
「あ、そうなの? 八時二十分からだと思って急いで来たんだけど」
彼はちょっと肩をすくめるようにして言った。
彼の歩幅に合わせてついていくと空気が風のように動き出す。普通に歩いている学生たちを追い抜きながらぐんぐん早足で歩いた。
「昨日、勉強した?」
「昨日? 俺、土曜日にオールナイト見に行ったじゃん。行く前から具合悪かったんだけど、前売り買っちゃったから無理して行ったら、やっぱり熱出ちゃってさ。昨日は一日寝てたよ。まだあんまり調子よく無いんだけど、今日は試験があるからさ」
「そうなの? 大丈夫? 具合悪いなら、映画、途中で帰ればよかったのに」
「だって深夜だからもう電車も無くなっちゃっててさ」
「あ、そうか。もう、試験あるんだからオールナイトなんか行くなよ」
「だって黒沢の『デルス・ウザーラ』とか見たかったんだ。ポルノ映画見に行って風邪引いたんじゃマヌケだけど」
「ああ、そりゃそうだ。Hな映画見て風邪引いたんなら、同情しないよ」
「あ、俺、時々日活の映画見に行くよ。日活に友だちが勤めててさ、撮影風景とか聞かされてるからなんか笑っちゃうよ。効果音の作り方とか、色気もクソもないんだぜ」
「いやー、初耳。そういう映画好きなんだ」
「男ならそういうの見たいの当たり前だよ。絶対見ませんていう方がおかしいよ」
「うわー、そうなの? あーやだやだ。男って何考えてるんだか」
そうか、彼もそういう映画を見るのか。よくは分からないけれど、それが男の生理として普通なのかもしれない。別にいやらしいとも思わなかった。普段の誠実な彼を知っていたから。変に隠さないでくれたので、私もさばさばと受け流せた。
彼は私が歩きながら鼻をぐずぐずさせているのを聞きとがめて、私の顔を覗き込んだ。
「おまえも風邪を引いたか?」
「風邪というほどじゃないけど、昨日、雪の中を散歩したりしてたから、ちょっと鼻水がね」
「散歩? このくそ寒いのに物好きだなー。面白かったかよ」
「面白くはないよ。すごく凍えちゃった。だけどなんか寂しくて下宿にいられなかったんだよ。桂木くんに電話しようかなとも思ったんだけど」
「そうだったのか。電話すればよかったのに」
「だって、寝込んでたんでしょ? やっぱり電話しなくて良かったよ」
彼は、はあーと溜息をつくと歩きながら私の顔を覗き込むようにした。
「おまえなー。おまえが来いって言うんなら、俺は熱があったって行ってやるよ。おまえはぎりぎりまで我慢する奴だから、おまえが言ってくるなら余程の事だと俺は心得てるよ。電話するぐらい遠慮するなよ。もっと甘えろって言っただろう?」
彼は怒ったような真面目な顔で言った。
しみじみと彼の言葉が嬉しかった。誰かに心配してもらえるということはなんという甘い喜びなのだろう。
「ありがとう。じゃあ次は甘えさせてもらうよ。それでさ、散歩途中でなんか変なカバのぬいぐるみを買っちゃってさ、昨日の夜はカバに添い寝してもらったんだ」
「ああ? カバに? 呼んでくれれば俺が添い寝してやったのに」
「またまたあ。風邪ひいてる人に添い寝されてもねえ。風邪うつっちゃうし、ノーサンキューですよ。桂木くんも寂しくなったら、私に電話してもいいよ。慰めてあげるから」
「おお。体で慰めてくれる?」
「ひゃはー。どうしてもそっち系の話になるねえ」
ふざけて笑い転げながら、恋であれ、友情であれ、ここまで自由に何でも話せる人は、恐らくもうこの先、出会えないに違いないと考えていた。
一月の穴八幡神社の境内には縁日のお店がたっている。参道の石畳の両側に並んだ二十~三十軒の出店では、お守りや鈴、植木の寄せ植え、お好み焼き、大判焼き、玄米パン、唐辛子などが売られている。
英文の小論文の試験の後、クラスメートの宮迫典子と別れて帰ろうとしながら、ふと神社への石段をのぼった。
出店を覗きながら奥まで行き、神社に拝礼をした。祈るべきことは、健康と平穏な日常、試験がうまくいく事、桂木との今後の事などだ。
石段の方に戻ろうとした時、一番神社寄りにいたお守り売りのおばさんに声を掛けられた。
「よかったら、見ていきませんか? この打ち出の小槌はね、中に大黒様が入ってるんですよ」
おばさんはわざわざ蓋を取って見せてくれた。米粒ほどの大黒様が可愛らしい。
「それからこの瓢箪の中には六つの瓢箪が入ってるんです。だから無病のお守りなんですよ」
「わあ、本当ですね。六瓢ですか」
二センチほどの珊瑚の色のプラスチックの瓢箪の胴体を回すと、二つのパーツに切り離され、中には3ミリほどの金色の瓢箪が六つ入っていた。私は感心してそのお守りをながめた。
「早稲田の学生さんですか?」
「はい。二年です」
「ああ、二年ならまだ楽ですね。うちの子なんか四年でね。早稲田じゃないんですけどね。今、試験の真っ最中で、卒業できるかどうか大変なんですよ」
「そうなんですか。卒業がかかると大変ですね。早稲田も今、試験最中なんです。今日も一つあって」
「そう、頑張ってね」
私はそのお店を素通りできなくなってしまい、六瓢のお守りを一つ買って帰った。
年が明けて初めてのアルバイト。少し早めに行ってみた。玄関のドアを開けるとあの消毒液の匂いがした。久し振りにこの匂いを嗅いだ。治療室の方は誰もいなくて電気もついていなかったが、ついさっきまで治療をしていた形跡が残っていた。待合室の水槽の熱帯魚たちも元気そうにキラキラと泳いでいる。私は待合室のソファーに座って、高田馬場駅前のサンジェルマンで買ってきたクロワッサンを食べながら時間を待った。
二時ちょうど、アコーディオンカーテンをざあっと開けて、秀夫先生と知子さんが出て来た。相変わらず美しい姉弟だ。私は待合室のソファーから立ち上がり、診察室に入っていきお辞儀をした。
「あけましておめでとうございます。今日から来てみたんですけど、アルバイトできますか?」
二人はちょっとびっくりしたように目を見張った。
「ああ、あけましておめでとうございます。もう今日からいいの? 大学ってもっと冬休みが長いんだと思ってたけど」
知子さんが大きな目のまま尋ねた。
「はい。七日から始まってるんです。授業と言うより試験が早速あります」
秀夫先生が白衣を着ながら、ちょっとうなづいて頬をゆるめた。
「そうか、後期試験があるんだよね。勉強大丈夫?」
「はい。なんとか。大丈夫です」
「じゃあ、今日からお願いね。私はこれから出かけなくちゃならないから、後よろしくお願いね」
知子さんは軽くお辞儀をして、診察室の電気をつけるとまた控え室に戻っていった。私もその後を追うように控え室に入り、白衣に着替えた。知子さんはコートを着ると、「じゃ」と私に向って頷いて、裏口から出ていった。
診察室に戻ると、秀夫先生は器具を整えながら、ちょっと私を見て微笑んだ。
「今のところあんまり患者さん多く無いんだ。勉強でもしてていいよ」
「あ、はい」
院長先生はいないのだろうか。二階にもまるで人の気配がしない。静まり返った診察室に秀夫先生と二人きりという状況を私は気にしている。秀夫先生はセメントの歯型を削ったりしながら、私のすぐそばの椅子に座っていた。眼鏡越しに鋭い目が、型とドリルの接点に集中している。
仕事をしている時の秀夫先生の真剣な目が好きだ。白衣の折り目もぴしっとしている。まとう空気が透き通った水色のようなイメージの人。気軽に話しかけられないし、話しかけてくれることもほとんど無い。ずっと私のことなど無関心でいてほしい。そうすれば私は先生のそばに安心して身を置いていられる。
私がドイツ語の薄っぺらい教科書に目を落としていた時、秀夫先生が急に振り向いた。
「試験は何があるの?」
「あ、ドイツ語と、英語と、イギリス文学史、宗教学、民族誌、あと英文学の演習と研究です」
「ほう、随分あるんだね。僕も試験では苦労したよ。試験が終わるまで大変だよね」
「はい。でも別に優を狙っているわけではないので、単位落とさない程度の点数が取れていればいいかな、みたいな感じです」
「それもそうだよね」
秀夫先生はふっと笑うと、削り終わった歯型を棚に戻し、控え室に戻っていった。その後ろ姿を見送ると、私はやっとおおっぴらに教科書を開いて勉強を始めた。
時々先生は、様子を見に診察室を覗きに来た。確かに患者の数は少ないらしく、いくら待っても誰も来なかった。見回りにくる度に先生と目が合ってしまう。その目に何の表情も読み取れないまま、私はあわてて教科書に目を落とす。
恐らく女性なら百人中百人、秀夫先生のことを素敵だと言うだろう。それほど魅力的な、哀愁を帯びた美貌の人だった。そんな人と二人きりで過ごす時間は、夢のように不安で、かえって息苦しい、そういうものだろう。
試験はまだ前哨戦が始まったばかりだ。一般教養の試験は設問があらかじめ三~四問提示されていて、それについて論ぜよといったものが多かった。設問自体意味が把握しにくいものだと、教科書のどこを覚えればいいのか判断がつかず、とにかく目についた文章を覚え、それらしい部分を答案に書きまくるしかない。
単位が取りやすい教科は、たいがいレポート提出だけで済み、試験が無い。講義が面白いか、興味が持てるかは別にして、そういった楽勝の科目も取っておかないと、軒並み厳しい試験を受けなくてはならなくなり、他の人より苦しむことになる。どの科目が楽勝かを知るためには先輩からの情報が必要で、こんなとき人脈の多い人、ネットワークの幅が広い人が得をすることになる。私は幸い坂口美子や数人の男子から情報を得ることができたので、そうは試験の負担が多い方ではなかったろう。
難敵はやはり語学で、英語はなんとかなりそうだったが、ドイツ語はとにかく勉強しなければ答案に何一つ書けないで焦ることになる。前々から少しずつ勉強していたと言っても、正確さを期すとなるといくら勉強しても足りない。一般教養は、今の学年で単位が取れなかったら、次の学年で取り直せばよかったが、語学は落としてしまったら次が無い。ドイツ語と英語はなんとしても落とすわけにはいかなかった。あと英文科として必修の演習と研究も重要だ。テーマが決められての小論文だったので、それについて本を読んで文章の構成を考えておかなければならなかった。
英文科では英米詩の講義が好きだった。ジョン・ダンやウィリアム・ブレイクら古典の詩人について個人的に研究書も集め始めていた。いずれ卒論も書かなくてはならない。自分で研究したいテーマについてもそろそろ考え始めてもいい頃だった。
三学期になって最初で最後の弓道の授業は、個人戦だった。上位三名は表彰するという。一人四本ずつ弓を引くことになった。初めての弓道の授業の時から、もう何本矢を放っただろう。透明な諦めに似た無我。心を鎮めて真っ直ぐに立つ。あの弓を引く瞬間の緊張と開放。まるで禅の世界にいるように世界が止まって見える。
雑草があたり一面色濃く生えていた屋外の弓道場は、冬枯れの今、乾いた石ころだけが目立っている。列を作って次々と学生たちは弓を射る。コートを脱いでセーターだけで順番を待っていると、冷たい風が身体に突き刺さってくる。指先がかじかんで、血の気も薄かった。
弓道の授業では特に友だちらしい友だちも出来なかった。週1回1時間の授業、男女六十名。チームで行う球技などと違って、ただ個人が順番に弓を引いていくだけなので他の人と会話することも少なかった。二年の始め病気で何回か休んでしまっていたことも響いていた。不得要領のまま参加していた授業。訳も分からず無になってそこにいた。むしろ無であることが求められる場であったことも幸いし、私はほどなく皆に追い付けたのだった。人見先輩の親切な助けや声かけも私の力になった。
私が射る番が来た。すぐそばには人見先輩が腕組みしながら立っている。私は深呼吸して弓を構えた。胴造り、弓構え、打越し、引分け。矢が左手の人差し指の上からこぼれ落ちそ
うになる。弓の構えがねじれていると、離した弦が頬をピシッと打つことになる。
会、離れ。当たれ! ヒュッと音立てて飛んでいった矢は的の真ん中あたりで跳ね返った。
「惜しい!」
人見先輩が握りこぶしを振って絞り出すような声で言った。黒い袴姿の先輩。袖口が広い白い着物姿の弓道着がとても寒そうに見える。
「さあ、じっくり構えて。頑張れ!」
「はい!」
初めての授業に出た日から、人見先輩は背筋を伸ばして、筋張った腕を組んで学生たちが弓を構える体の正面に立っていた。人見先輩が何学部なのか私は知らない。学生として普段着で授業に出ている人見先輩がどんな風なのか、想像することができない。私の前に腕組みをして立つ凛とした姿だけが、私の印象の中に残り続けるだろう。
結局後の二本は全く外れ、もう一本は的の下の方に当たった。それでも三位に入り、シャープペンシルの賞品をもらった。
最後に直径五センチほどの、金的、銀的を皆で狙った。それは今までの的と比べてあまりにも小さく当たる気がしなかった。銀的に当たった人が一人いたが、他の皆は全然当たらなかった。無傷なままの小さな金的。もし許されるなら私は、当たるまで矢を射込みたかった。
これで弓道の授業はすべて終わりだ。この弓道場に足を踏み入れることももう無い。持ち帰るために自分の名前が書いてある矢を矢入れの筒から探していた時、鴻池雅也が何か話したそうに近づいてきた。
「この後お時間ありますか?」
「あ、すみません。三時からアルバイトがあるので。授業ではいろいろとありがとうございました」
私はちょっと微笑み、すぐに彼と別れ弓道場を後にした。もう彼と会うこともないだろう。
金属の丸い小さな灰色の突起がついている矢の先端、茶色の羽が三翼ついている矢尻。殺傷能力など持っていそうもない繊弱な武器は、しかし、私に一つの美しい世界を見せたのだった。
その日の歯科医院のアルバイトでは、患者さんの数は少し増えてきているようだった。ドイツ語の教科書を開く余裕は全く無かった。
院長先生が私に向って指示を出す。
「赤いセメントをこねて! 早く持ってきて、この台に置いて、早く!」
慣れていない上にそんな風に急かされては尚更手が震えてしまう。無駄に粉をこぼしながら、なんとか液体と混ぜて台の上に置く。院長先生は黙ってそれを患者さんの歯に詰めている。ちゃんと固まってくれるか、実は不安だ。
歯の局所レントゲンを撮るとき、私はいつものようにスイッチを押す手伝いをしようと、黒い機械に手を掛けたら、秀夫先生が横から機械に手を伸ばし、
「いいから、出来るだけ遠くに離れてて」
と鋭い目を私に向けながら言った。
「あ、はい」
私は理由が分からないままに受付の席の方に体を遠ざけていた。レントゲンを撮った患者さんが帰った後、秀夫先生はカルテに何か記入しながら誰に言うともなく独り言のように言った。
「これは、未婚の女性にはちょっと危険だからね」
「あ、放射線ですか?」
「そう、あんまり体に良くない」
秀夫先生はカルテから目を上げ、ちらりと私を見て言った。
私はちょっと不安になりながら問いかける。
「でも、そんなに強くは無いんでしょう?」
「うん。一日に百回当たったって大丈夫とは言うけどね。用心するに越したことは無い。僕の場合もう職業病だから仕方ないけど」
「そうなんですか…」
「まあ、心配する程じゃないんだけどね。これから赤ちゃんを産んだりする人は気を付けていた方がいいから、君はこれからレントゲンを撮る時は離れてていいよ」
「はい」
院長先生の指示で今までに何度かレントゲンの補助をしたことがあったが、ほんの数秒、患者さんの歯に向けてだけ照射されるものだからほとんど影響はないのだろうと思っていた。一日に百回当たっても大丈夫というなら、私にリスクについて黙っていても別に問題はなかったろう。でも、わずかなリスクをすくい上げて私に知らせてくれたのは秀夫先生の良心だ。秀夫先生の口から「これから赤ちゃんを産む人」と言われたことに、はっとした。放射線は私の身体ばかりではなく、将来の赤ちゃんにも影響することだった。
診察が終わって帰る支度をしていた時、鞄のそばに置いてあった矢を見て、秀夫先生が尋ねてきた。
「アーチェリー、やってるの?」
「これは和弓の矢なんです。体育で弓道を取っていたので。今日が最後の授業だったのでもらってきました」
「あ、弓道か。そういう矢なの。ふうん。珍しいね」
秀夫先生は個人的なことを尋ねてきたりは滅多にしない人だから、小さなことでも言葉をかけてくれるとしみじみと嬉しい。今日、私の健康や将来の赤ちゃんををさりげなく心配してくれたことも、そう言えばあの台風の日だって。思い返せば先生の優しさはあちらこちらに示されていた。私は暖かい気持ちになる。ここはもう私の居場所となったのだろうか。
一月十五日の成人の日も下宿で勉強をして過ごした。一年前の成人の日もそうだった。この時期、大学の後期試験の真っ最中なので、帰省して成人式に出るどころではない。もっとも私には振袖を着たいとか、着飾った自分を見せびらかしたいという欲求がまるで無かった。結婚式もウェディングドレスも憧れたことが一度も無い。私は子どもの頃からどこか変なのだ。女の子であるよりは少年のようでいたかった。
高校は私服通学で、華美にならないようにという学則があったが、私は華美どころか、ジーンズに兄のお下がりのジャケットを着て、髪もショートヘアという風に、まるで男の子そのものだった。
三者面談で、担任の先生は開口一番、
「お宅の娘さんは色気が全然ないね! もっと色気つけないと駄目だね!」
と言った。
母は家に帰ってから、成績のことではなくて色気のことを言われたと言って大笑いしていたが、ある意味それは、成績如何より私が女性としてちゃんと生きれていないということを見抜いた先生の慧眼だった。女であることの拒否と嫌悪をもって二十歳まで生きて来た。今更振袖を着たいとは思わない。
ただ、最近の私は、桂木に会う時には少しお化粧をする。スカートなどもはいてみたりもする。自分が女性の体であることを意識する。遅ればせながら、私の内に女性らしさが急に芽生えたのだろうか。自分でもどう扱っていいか分からない心と体の変化だ。
まだ雪は消え残っていて、線路沿いの日陰の土手には白い雪の帯が出来ていた。このところよく晴れた日が続いている。電車の中でわずかでも試験勉強をしようとしたが、鷺宮駅を過ぎて電車が混んでくると、もう試験などどうでもよくなって窓の外を眺めていた。
語学の授業のあと、イギリス文学史の試験を受けるために同じ英文科の宮迫典子と251教室へ向かった。彼女はとても小柄で私の肩のあたりぐらいしか身長がない。童顔なので中学生のようにもみえる。彼女と一緒にいるようになったせいか、いつも私の隣に席を取りたがっていた安達望は自然と私から離れていった。
251教室に着くと、戸口のところで桂木隆司が待っていた。
「俺、この後、授業無いんだ」
「そうかあ」
「この授業、何時頃終わるんだ?」
「試験なんだ。だから十一時ちょっと過ぎぐらいかな」
「じゃあ、十一時にここにまた来るから」
「あ、ほんと? 待っててくれるの?」
「じゃ、試験頑張れよ」
「うん。ありがと」
桂木はふっと笑うと、背を向けて廊下を去っていった。
彼とはもう土曜日だけの付き合いではなくなっていた。朝、高田馬場駅で待ち合わせて大学まで一緒に歩いていくこともあれば、専攻の授業後、互いの教室を訪ねて行き昼食に誘ったり、帰りに早稲田松竹に寄ったりするようになっていた。
私が虚勢を捨てて素直に笑ったり怒ったりできるのは彼の前だけだったし、彼も自らの弱点をさらけだして本音で付き合ってくれていたと思う。嘘とか虚飾、気取りは最初から私たちの間では必要なかった。まだ手も触れ合ったことはなかったから恋人と言えるかどうかは分からなかったが、少なくとも親友であることは確かだった。そして今は、親友であると言い合える関係が何よりも誇らしかった。
宮迫典子は先に教室に入り、席を取っておいてくれた。
「勉強した?」
「あんまりしてない。ノートもちゃんと取ってなかったから、どんな問題が出てもチョーサーを書くしかないよ」
私は諦め顔で答える。
「私もそう。チョーサーに賭ける!」
二人で、やっぱりチョーサーだよね、と言い合って試験前の緊張を紛らわせた。
イギリス文学史はとても退屈な授業で、講義内容も全然頭に入ってこなかったので、試験の山も絞れず苦慮していた。坂口美子が隣の席だったら、こそこそっと互いの答案を見せ合うなどして補うこともできただろうが、真面目な宮迫典子は一切協力などしてくれそうもなかった。まあ、それが正しいのだが。
そうこうしているうちに試験問題が配られた。裏返しにして渡された用紙を透かして見たら、幸運にもチョーサーについての問題が一問あった。その他に、アングロサクソンの詩の特徴について記せ、という問題が見えたので、ノートをめくって急いで探したが該当部分を見つける前に、
「ノートをしまって。では始めてください」
という教官の声が聞こえてきた。
イギリス演劇の発展について‥‥最初、キリスト教を民衆に理解させるために教会の修道士が演じたのが第一期。その後、シェークスピアが現れ数多くの戯曲を物し、著しい演劇の発展が‥‥云々、もっともらしくうろ覚えの知識を書き連ねる。
宮迫典子は案外スラスラと答案を書き一足先に提出して教室を出て行った。私も、もうこれ以上は何も書けないというところまで書いて、なんとか答案を仕上げた。と言っても、一番最後の問題はどう考えても書くべきことが何も思いつかなかったので、無回答のままだった。
まわりを見回すと、皆、鉛筆を持つ手が止まっていて、なかなか答案が書けずにいるようだった。机のそばを何度も試験官が歩き過ぎる。仕方がない。解答できなかった一問が心残りだが、これでよしとしよう。
答案を提出し教室を出ると、桂木が廊下に設置してある座面が破れた古いソファーに足を組んで座って、煙草を吸いながら待っていた。
「あ、随分早かったな。試験どうだった?」
彼は煙草を灰皿に擦り込んで消すとソファーから立ち上がった。
「全然できなかったよ。でたらめばかり書いちゃったよ。最後の一問は全くのお手上げ」
問題用紙をひらひらと振ると、彼はすっとひったくるようにして読み始めた。
「ひえー、難しそう。随分たくさん問題出たなあ」
「でしょ?でしょ? 自信があるのはチョーサーのとこだけだよ。もう、なんとか可が取れればいいよ」
「俺なんか内陸アジア史、落としそうだよ」
「難しくてつまんない授業を取ってしまうとお互い苦労しますなあ」
私たちは校舎を出ると、これからの試験日程について話しながらスロープを降りていった。
「やっぱり、語学の試験が終わらないことには気が抜けないねえ」
「全くだよ。俺、訳のコピー抜けてるところあるんだけど、後で見せてくれよ」
「いいよー」
スロープ横の銀杏並木はすっかり葉を落とし、細い枝が素直なシルエットを空に刻んでいた。学校の行き帰りに見る風景は季節を反映して確実に移り変わっていった。去年の六月に見た銀杏の力強い緑の葉が、次第に黄金色になり、蝶のように散り、今すっかり落ち尽くしてしまったように、自分では癒すことが出来ないと思っていた心の傷もいつのまにか痛みを薄れさせ、その跡を消していきつつあった。
早稲田通りに出ると、彼は改まった様子で、
「これから付き合える?」
と尋ねてきた。
「うん。今日はアルバイト無いし」
「じゃあ、付き合ってもらおう」
彼はほくそえむように私を横目で見た。何か企んでいる悪戯っぽい目。彼は私を驚かせたり、わざと不安がらせたりして私の反応を楽しんでいるかのように振る舞う時がある。
「えー? どこ?」
「行けばわかるよ。俺にとってはすごく面白い所だけど、おまえにはつまんないとこ」
「怪しいなあ。武器でも持っていこうかなあ」
「はさみぐらい持っていけば?」
「どこどこ? 男には面白くて女にはつまらないとこ? 釣り堀とか? もしかしてラブホとか?」
「所詮、おまえの発想はそんなもんだろうな。へへへ」
「どこなのー? 教えてよ。やばいとこなのー?」
「さあ、どこでしょう」
風のように歩く彼に早歩きでついていこうとしながら、一体どこに連れてゆこうとするのか、少し不安にも思っていた。しかし彼に限って私を危険な目に会わせるわけがない。
そのまま山手YMCA近くの『コア』という喫茶店に入って軽く昼食を取った。この喫茶店はいつも表の大きな窓に白いカーテンがかかっているから、外から見ると喫茶店という感じがしない。奥の席の窓の外には小さな池があり、錦鯉が数匹泳いでいる。池の左寄りに植えられた木の根元に丸い艶やかな大きめの葉っぱの植物があり、彼は、
「あれは、つわぶき」
と教えてくれた。
池の面に赤いさざんかの花びらが散っていた。店の中には、二、三人の常連とおぼしき人しかいなかった。彼はこれから行く場所についてやはり何も言おうとせず、秘密っぽい笑顔を見せるばかりだった。
池袋に向かう電車の中でも、彼は私の方をちらちら見てはニヤニヤ笑う。
「何か怪しいなー。絶対何か企んでる」
「やっぱ、来るべきじゃなかったんじゃない? 夜になっても帰れなかったりして」
「うわー、今日はいつもと性格違くない?」
池袋で山手線を降りると、西武池袋線に乗り換えた。
「わかった。豊島園だ」
「ちがーう。そんな遠くじゃない。そら、もう降りるよ」
そこは椎名町の駅だった。
「椎名町に何かあったっけ?」
「何だろうね。ふっふっふ」
「あー、ようし。地図を見てやる。うむむ‥‥分かった長崎神社」
「違う、違う」
「じゃ、豊島カトリック教会」
「あっ、近い。その辺だよ」
彼はジャケットのポケットから折り畳んだ紙を取り出した。その紙には手書きで地図が描かれてあった。
「この近くに、俺、幼稚園の時まで住んでたんだ。今は家はつぶされちゃって、駐車場になってるけど」
「そうなんだー。この辺に住んでたんだ。それならそうと始めからそう言ってよ」
「なーんて言って、計画的に連れ出したりしてな」
「こらー。またー」
彼の父親が十数年前の記憶をもとにして描いたという地図はほとんど当てにならず、私たちは小一時間ほど歩き回った。池袋が目と鼻の先だというのに、その町は下町のように古い平屋が並び、迷路のように細道が入り組んでいた。八百屋さんに長崎小学校の場所を聞いて、やっとそれらしい場所を探し当てることができた。敬愛病院という大きな病院がすぐ裏にある小さな路地沿いの狭い駐車場。
「ここだよ。ここに俺んちがあったんだよ。あー、随分変わっちゃったなー」
彼は溜め息をつくようにそう言うと、駐車場の前にたたずんだ。
「もう十五年以上たったんだよなあ」
私もその場所に立ち、そこに建っていたであろう彼の家を想像した。茶色いペンキで塗られた塀で囲まれた、縁側のある小さな家。そこに彼の若い両親と、祖母、病気の叔母、幼稚園児の彼、まだ赤ちゃんだった彼の弟が住んでいた。
私が越戸の町で、家の裏手の用水堀のある広場で虫取りをしていた時、彼はこの町でベーゴマなどしていた。別々の場所に住み、別々の人生を歩んできた者同士が、早稲田で偶然会ってこうしてここに一緒にいるということが、何故か奇跡に近いことのように思われてきた。
彼は近所の表札を見て回った。
「ここに幼なじみの女の子がいたんだ。この家の子は小児マヒだったんだ。ここんちにはザクロの木があったんだけど、もう無くなっちゃってる。ここんちは丸紅関係で大金持ちだった」
彼の説明を聞きながら、今、彼は自分の故郷を私に見せてくれているのだと思った。何の変哲もない下町だけれど彼にとってそこは特別な場所だった。それなら、私にとっても特別な場所である。どこよりも懐かしく来歴を教えてくれる町。その見知らぬ町で、幼い彼が遊び、泣き、笑っていた姿が見えてくるような気がした。彼が探そうとしているものを私も一緒に探そうとしながら、私は彼と共に共有し得なかった時間を歩いていた。
少し行くと彼が通っていた幼稚園があった。すっかり建て直され立派になっていたので、彼は昔の面影が全然無いと言って茫然としている。
「もっと小さい幼稚園だったと思ったんだけどな。だけどこの坂は夢で見たのとそっくり一緒だよ。この傾斜の度合いとか」
彼は不思議な感覚を辿るように、幼稚園の前の坂道を行ったり来たりしていた。
去年、私の故郷はあらかじめ紹介されるべき一つの機会を失っていたが、彼が自分の幼年時代を愛しむように話すのを聞いていて、彼なら私の故郷も愛してくれるだろうと思った。でも、そんな日は来るだろうか? 幼い日からのすべてを知り合いたい。その失敗や愚かさや、悲しみもすべて。
薄暗くなってしまった帰り道、向こうから歩いて来る酔っ払った数人から私をかばうように歩く位置を変えた彼は、正月に飲み過ぎて床を這いずりまわって苦しんだことを面白おかしく話した。私は、笑ったり、茶化したりしながら、今とても幸福だと感じていた。
「‥‥これが私のふるさとだ。さやかに風も吹いている‥‥知ってる?」
「知ってる。中也の詩でしょ?」
「そう。よく知ってるね」
「‥‥ああ、おまえはなにをして来たのだと‥‥吹きくる風が私にいう‥‥」
夜の色に変わりつつある空に、サンシャイン60の巨大な建物が聳え立っていた。展望のあたりで点滅している明かりを見上げながら、一体いつまで彼とこのように歩いていけるだろうかと考えていた。
試験も一段落した一月の終わり頃、O組のコンパがあった。アルバイトを早めに終わりにしてもらって、集合場所の高田馬場駅近くの『ドイツパブ』というお店に急いだ。夕方も六時を過ぎると高田馬場駅付近は派手な赤や黄色のネオンをビルの壁面にうごめかし、いきなり夜の顔を見せるようになる。何百回もこの道を通ったけれど、あのビルのネオンを見ると、いつも急に心が挫ける。私は到底、東京に馴染むことは出来ないのだと。
店に入ると既に十二、三名の人たちが来ていた。会費が二千五百円とやや高かったこともあって、出席者はクラスの半分にも満たなかった。にぎやかに騒ぐ場所が苦手な桂木隆司も欠席していた。
店を貸し切りにしたらしく、一般のお客は入って来ない。外から見た入口のドアが小さくこじんまりしている割に、入ってみると店の奥行きは深く広く見えた。細長いテーブルの上にはもういろいろな料理が並べてあった。皆に招かれて奥の方の席に行くと、坂口美子が先に来て待っていた。
「おそーい」
「ごめん、ごめん。これでもアルバイト早めに切り上げて来たんだよ」
「そっか。アルバイトだったんだ。その後どう? ハンサムな若先生のお声がかかった?」
「いやいや全然、ていうか、気安くナンパしてくる感じの人じゃないのよ。とっても真面目で無口」
「どんどんアタックしちゃえばいいのに」
「いやー、最初から相手にされてないから。ヒヨッコの女子大生なんてさ。二十七歳ってすごく大人なんだよ。仕事的な事以外ほとんど話なんてしないよ。あ、この前、試験のことについて聞いてきてくれたけどさ、それぐらい。ところで坂口さんの方はどう? 新しい恋とか?」
彼女は私の方に身を屈めると、小声で言った。
「実はね、同じサークルの法学部の人と最近お付き合いを始めたの」
「おおー。やったじゃん。今度はうまくいくといいね」
「ありがと。私、体育でスキー取ってるじゃない? 二月に菅平で合宿があるんだけど、その合宿が終わったら彼に別のところのスキーに行こうって誘われてるの。まだ行くかどうか迷ってるんだけど…詳しいことは、後でお話してあげる」
「そうか、なんか楽し気でいいなあ。スキーも上手になって、恋もうまくいったら最高だね。よかったよかった」
「上川さんのことで、痛い目も会ったけどいろいろ勉強もしたからね」
彼女はウィンクするように目をしばたいてみせた。
人数が揃うのを待って、ワインとウィスキー、ウーロン茶で乾杯した。坂口美子はこの後約束があるとかで、皆にひとしきりウィスキーを作ってあげたりした後、そそくさと帰っていった。
私は右隣に座っていた安堂加耶子と、テーブルの上のオードブルを競って自分の皿に取り分けた。キャビア、ジャーマンポテト、ハム‥‥。ドイツ料理のお店だということで、大皿の上には山のようにフライドポテトが積み上げてある。私と安堂加耶子はお酒が飲めないので、ただひたすら食べていた。勿論私は無理をすることのできない胃腸なので、ゆっくりと体の声を聞きながらである。
このようなコンパに出るのは初めてのことだった。おとなしそうな女子たちが案外ぐいぐいとお酒を飲んでいるのにびっくりしたし、煙草など縁が無さそうなお坊ちゃん顔をした松下透が慣れた手つきで煙草を吸っているのも意外だった。
男子たちも普段よりはめを外してはしゃいでいるようだった。お酒が入ると無口な人も饒舌になる。いきなり『エイトマン』や『おもちゃのチャチャチャ』を踊りながら歌い出す人もいた。西城研二や氷室正人はギターを持ってきていて、誰に聞かせるともなく弾き語りを始めた。
昨秋の小雨の日、西城研二とあのアクシデントが無かったなら、私は西城に「すごーい。上手だね。かっこいいね」とか何の気なしに声をかけてしまっていたに違いない。それが彼への思わせぶりになってしまうとも気付かずに。
坂口美子が帰った後の左隣の席に片山孝二が座ってきた。少し酔っているようで、いつもの精神性を感じさせる落ち着いた瞳が少しトロンとしていた。彼は愛嬌のある笑みをたたえて、
「もっと酔いなさい。酔わないとつまんないよ」
と言って、ウィスキーのボトルを私に差し出した。
「ああ、でも私はあんまりお酒飲めないから…」
「じゃあ、味見ぐらいしなさい」
なおもしつこく言うので、かなり薄く割ったウィスキーをほんのちょっと口に含んでみた。
「ああ、やっぱり駄目。飲める気がしない。なんか、からいっていうか‥‥本当に、アルコールっていう感じ」
顔をしかめた私を見て、片山孝二は愉快そうに笑った。そんな風に無邪気に笑う片山孝二を初めて見た。酔った彼はいつもと全然雰囲気が違っていた。いつも端正に保持している姿勢を崩し、子どもじみた動作で手を叩いて笑っている。ちょっと意外だった。彼の思いがけない一面を初めて見て、私も知らずに微笑んでいた。
「そういえばさあ、君にもらった年賀状に書いてあった短歌は、君が作ったの?」
片山はテーブルに肘をついて、大袈裟に私の顔を覗き込むようにして言った。
「一応、そうですけど。‥‥へたくそでごめんなさい」
「そんなことない。すごくうまいと思ったよ。確か、『佐保姫の 忍んで渡る うすらいの かそけき音を 枕辺に春の夢』だっけ?」
その短歌は、私の友人たちの中でも特に文学に造詣が深い数名にだけ宛てた年賀状に書いたものだった。
「あ、覚えててくれたの? いやー、今思うとすごい字余り。恥ずかしい」
「短歌なんかよく書くの?」
「ううん、めったに書かない。受験生の時、気分転換に少しだけ書いてたけど、本当はもっぱら詩です」
詩、と聞いて、片山孝二の目がふと真面目な光を帯びた。
「あ、そういえば、君、詩を書くんだったね。今度ぜひ見せてください。読みたい」
「ああ、本当に人に見せられるようなものじゃないんですけどね、抒情的でもないし」
「いい、いいよ。ぜひ読ませてほしい」
「じゃあ、今度、機会があったら。それに片山くんの詩とか小説も読んでみたいなあ。『Pan』はもう作らないの?」
「なかなか原稿が集まらなくてね。努力はしてるんだけど。なっ、中村?」
片山孝二はすぐ隣にいた中川誠の方に向って言った。中川誠は既にひどく酔っている様子で、急に声を掛けられて一瞬わけが分からないようにキョトンとした。
「何? 詩の話? 詩は書こうとして書くんじゃなくて、ふっと心に浮かんで来るものだよ。俺なんか一晩にいくつか書けちゃうこともある。小島さんも詩を書いてるって佐伯から聞いたけど、どんな風に書く?」
「私の場合、書こうとして書いてるところがあって、原稿用紙に向かって何も書けなくてずっと苦しい思いをしている時が結構ありますよ。詩のインスピレーション、っていうの? ずっと待ってて、他の人の詩集をひっくり返したりして、ヒントもらえないかなあ、なんてあがいて、ああ、今日も駄目だったーみたいな」
片山孝二がうなづく。
「詩を書くのって、実はすごく苦しいよね。でもうまく出来上がった時、自分でも感動しちゃって、ぐっと来る時があるんだ」
「そうそう。私も涙ぐんじゃう時もあって、これで完成、ってなった時の瞬間がたまらないですよね。まるで痛いナルシスト」
私は、ふふっと笑う。でも実際そうなのだから。
「詩って、どう書いていったらいいんだろうか。僕もとても悩むときがあるよ」
片山孝二が掌に包んでいるグラスをみつめながら言う。私は少し考えながら言った。
「詩って、その時の感覚だけで出来るんじゃなく、時間をおいて過去のイメージと交じり合って、更に未来へ馳せる思いもにじませることで、初めて深さが出るものだと思う。だから私、何回も推敲しますよ。1~2年かけて推敲している作品もあります」
「そんなに推敲するんだ。すごいな」
片山孝二が感心したように言う。その途中で中川誠がひどく酔った風情で会話に参入してきた。
「そうなんだよな。時間を置かなくちゃ薄っぺらになっちゃう。いろいろなイメージがね、こう、交じり合わなくちゃ」
「だ、そうです」
片山孝二は氷の入ったグラスをカチャカチャ振りながら、私の方に苦笑のような笑いを投げかけた。グラスの中のアルコールが氷と融合しきれずに、もやもやと陽炎のようにたゆたっている。
「私、中島敦の『名人伝』っていう短編が好きなんですよ。弓の名人になろうとした人が厳しい修業を何十年もするんだけど、本当に最終的な達人になった時、弓の道具を見ても、何に使う物か分からなくなっちゃって。全然弓を使わないことが究極の奥義だったっていう。言葉もそんなだったら、面白い」
「うん。本当に必要な大切な言葉は、最少限で済むのかもしれないね。そこまで削ぎ落したものが詩なのかも。言葉がどんどん透明になって、言葉って何?ってなったらすごいよね」
「本当にそう。たとえば八木重吉の詩、技巧も何もないシンプルな短い詩が多いんだけど、心に沁みるんですよね」
「うん。そうだね。八木重吉は、常に死と向い合わせの短い人生だったから、命が凝縮しているような、溜め息のようなつぶやきのような作品が多いよね」
「そう、闇の中に咲く白い薔薇、みたいな。でも自分を振り返ってみて、私が八木重吉を目差すかっていうと、全然そうじゃない。やはり雑誌とかコンクールで入選しそうな、こねくり回したような難しい詩ばかり書いてしまう。もっと誰にでも読める平明なもので、人を感動させるものじゃなくては駄目なんだと思いながらも。本当に後にまで生き残るのはそういうシンプルな作品なんじゃないかなって心では分かってるんですけどね。実際自分が書くとなると漢字ばっかり。そこがジレンマです」
「そうだね。高尚で衒学的な詩は人を煙に巻いて、すごい、って言わせるけど、本当にすごい詩は、やさしく心にすっと沁みてくるような作品だよね。一体どんな言葉を選べばいいのか‥‥。詩は、真髄を目指そうとすればするほど逃げて行ってしまうような気がする。うん、これは一生かかっても解けない命題かもね。まあ、とにかく、お互いにこれからも精進しましょう」
片山は、ちょっと笑って私の方に、乾杯するようにグラスを掲げた。
「そう言えば君、去年、しばらく学校休んでたよね。すごく痩せちゃったけどもうすっかり元気?」
あの時の私の病気の話をしなくてはいけないだろうかと、ちらりと思った。
「うーんと、まあ、元気と言ってもいいでしょう。お酒とかお食事のお付き合いは本当はまだ注意してないといけないけど」
「そう…実は僕も去年の五月、しばらく大学休んでたんです」
「えっ? どうして?」
「今思えば五月病だったのかな。なんかすごく生きていくのがつらくなっちゃってね。大学に行く気力がなくなっちゃったんだよ。学校休んで木曾の方を一人で歩いてたんだ。二週間ぐらい。一人旅したからって解決できることじゃないんだけどね。一か月ぐらいおかしかったかな」
「片山君にも、そんなことがあったなんて‥‥ちょっとびっくりした」
彼の周りにはいつもいい仲間がいたし、彼自身一種深い落ち着きを身につけていて、危うさをどこにも感じさせなかったから、魂の疾苦とは無縁の人だと思っていた。あの暖かい春の息吹に満ちていた五月。新しい出来事が次々と立ち上がってくる春は誰にとっても危険な季節だ。あれはほんとに地獄だったよと、まだ笑い話のようには語る気になれないでいる、私は。
「君は一年の時からいつもほとんど休まず真面目に授業出ていたから、あんなに長く休むなんてどうしたんだろうって、僕たちの仲間うちでもちょっとした話題だったんだよ。実家で何かあったのかなとか。もしかして大失恋でもした?とか。そしたら六月になってすごく痩せて大学に出て来たから」
「やだ、そんな想像してたの? 失恋とか、笑っちゃう。端的に言うと胃腸の病気です。大学一年の頃から、いや、そもそも高校の時から痛みとかの症状はあったんだけど、市販の薬でごまかしてて、そしたらどんどん悪くなっちゃっていたらしく、とうとう多めに出血しちゃって」
「えっ、出血って? それはびっくりするねえ」
「あの時は正直死ぬかもと思いましたよ。下宿でしばらく倒れてました。気持ちも悪くて、貧血気味にもなって」
「そうだったんだ。それはつらかったね。一人だとすぐに誰か頼ることもできないしね」
片山孝二は眉をひそめて心配そうな顔になった。私はうつむいてひと口ウーロン茶を飲んだ。少しあの時のことを思い出してしまった。急いで実家に帰ろうと涙を流しながら乗った東北線の電車の中で、よりによってそんな時に、隣に座った男に太ももをしつこく触られたことも。あれは心と体のダメージに更に追い打ちをかけた。
「一か月か二か月、入院してなくちゃ駄目って言われたんだけど、治ってないのに無理して大学にも復帰しちゃったから、あの頃、実は命がけだったんですよ。お医者さんにもすごく怒られちゃって。悪くなってたら留年とか、もしかしたりそのまま大学に行けなくなって退学もあったかも」
「そうかあ。そんなこと全然気づかなかったよ。君、普通に元気そうにしてたから」
「元気そうに振舞ってただけで、私なんて、万年五月病みたいなもんですよ。一年の時だってどう生きていいか分からなくなってやさぐれてたし、二年になって何かサークルに入ろうと思ったら宗教系のサークルにつかまってしまって、これが体悪くするきっかけにもなってしまって。いろんなことがいつも不安で、ぐらぐらしていて。こんな体でちゃんと生きていけるのかとか、将来に対する不安で滅入る事ばっかりです」
「そんなこと言ったら、僕もそうだよ。この頃じゃあ、不安になる方が正常なんだって思い込もうとしている。君はそんな体の病気も抱えてて、よく頑張ってきたよ。すごいよ」
彼はそう言うと黙り込んで、グラスをゆっくりと口元に運んだ。彼も私と同じように待つしかない時間を耐えているのかもしれない。私はそっと彼のやせた面長な横顔を盗み見た。
他の男子より大人びて見える思慮深そうな瞳。文学を志す人は皆、心に危うさを持ってしまうのだろうか。陽の感情のみならず、負の感情をも、掘り下げて言葉にしようとしてしまうから。
私の辛かった時のことを、桂木隆司以外に初めて片山孝二に打ち明けることができた。男とか女とか関係なしに、人間としてちゃんと話せたことが嬉しかった。
私と安堂加耶子は大体料理も食べ終わり、ワインに氷を入れてちびちび飲んでいたりしていた。酔わないで正気でいる分やはり時間をもてあます。安堂加耶子と、試験どうだった?、春休みどこか遊びに行くの?などと少し会話を交わした。
私の前の席に座っていた畑中正則が、
「ワインを薄めて飲む人、初めて見た」
と言って私たちを見て笑いながら言った。
彼は私が片山孝二と話すのを一段落つけたのを見計らって、
「その後、人格改造の方はうまくいっていますか?」
と話しかけてきた。
「どうなんでしょう? でも去年畑中君が言ってくれたように八方美人を心がけていますよ。誰にでも愛想よくしちゃってる。まあ人を選んではいるけどね。いろいろ勘違いされると困るから」
「あはは。友だち増えすぎても、かえって交通整理が面倒になっちゃうものね」
「そう、それそれ。でもさ、早稲田祭の時の心理テストの「良妻賢母」っていうのは絶対違うと思う。私、中学の時、家庭科の先生にずっと反抗してて、先生に、そんなに家庭科が嫌いなら総理大臣にでもなって家政婦雇えばいいわ!って罵られたからね。それぐらい家庭科が嫌い」
「わ、ひどい先生だな。でもそれより、君が反抗的だったなんて信じられない」
「家庭科が嫌い、っていうか道徳家ぶった先生が嫌いだったの。授業中もにらんでたりしてたから。そんなでもテストではいい点取っちゃうから、先生も悪い成績をつけられなくてね。ほんと、あの先生にとって嫌な生徒だったと思う」
「ふーん。君の意外な一面を知ったよ。人間ていろんな面を持ってるから面白いんだよね。見た目とか雰囲気とか普段の言動とかで、あなたはこういう人だ、なんて決して決められないんだよね。決めたら失礼だ」
「でも良妻賢母って、本当にいたらすごいよね。私の方がそんなお嫁さんもらいたいよ。お金があったらほんとに家政婦さん雇いたい」
安堂加耶子が隣で私たちのやり取りをいぶかしげに聞いている。
「何? 良妻賢母って」
「あのね、早稲田祭の時にね、畑中君に心理テストしてもらったら、私って良妻賢母型なんだって」
「あら、いいじゃない」
「全然よくないよ。そもそも結婚願望なんて全然無いし」
「そういう人に限ってさっさと結婚しちゃうんだよ。みなさーん、小島さんは良妻賢母ですよ。お嫁さんにもらうとお得ですよー」
「やだ、やめてよ」
私は安堂加耶子を苦笑いしながら肘でこづく。
「あ、君ってそうなの?」
片山孝二が私に笑いかけた
「でもそれって嫌だから、人格改造を試みているわけ。ね、畑中君? 悪魔のような女になるのが目標です、って言うか、実はもう悪魔だったりして」
「おお、では悪魔のような小島さんに乾杯」
畑中正則が愉快そうにグラスを持ち上げる。
「はい、はい、男性陣、くれぐれも気を付けて。ははは」
私は悪乗りしてそう言いながら、本当にそれぐらいの毒を身につけられれば、もっと生きやすいのにと思っていた。持ち上げたグラスの中に終末感覚が揺れている。それを飲み干してしまうこともできずに。
お開きになる前、皆で肩を組んで早稲田校歌を歌った。校歌を歌うといかにも仲間だなという感じがする。早慶戦の時以来歌っていないので少し歌詞を忘れてしまっていた。片山孝二は私の隣で大声を張り上げ片手を大きく振りながらいかにも楽しそうに歌っている。そうやって酔える人はまだ救われている。
店を出ると二次会に行く者と帰る者とに分かれた。もう十時近い。私は帰ることにした。中川誠は私を下宿まで送りたそうにしていて、実際、送っていくよ、と言った。そばにいた安達望が呆れた顔をして、
「上石神井まで行ってまた戻ってくるんじゃ大変だよ。僕、田無だから、僕が送る」
と中川誠をなだめるように言う。安達望こそ私を送る気満々ではないか。私は内心ちょっと嫌だな、と思う。
BIG・BOX前の広場はさすがに閑散として、歩いている人も少ない。ビルの朱色の表壁に張りついた巨大な絵が、屋上からの照明に照らされて浮き立っていた。白と赤のシルエットで描かれた全裸の青年が身体を前掲させて一心に真冬の夜を走っている。彼は何かから逃げているのだろうか。それとも何かを追い求めているのだろうか。彼の白い肌は余りにも寒々しい。変わり絵のように時々裏返しにされる壁面の絵も、確かダ・ビンチの全裸の人体図だった。
片山孝二と中川誠が、
「じゃあ、今度ぜひ詩を見せてください」
と言って手を振った。
中川誠は足元がよろけ、いかにも酔っている風情をあらわにしていたが、片山孝二はいつもの端正な佇まいを取り戻していた。
皆と別れて、安達望と西武線に乗った。途中からガラガラにすいてきて座席に座ることができたのだが、彼はやはり私に密着して座ってきた。私は左端の席に座っていたし、席をわざわざ立つのもおかしいような気がしたのでそのまま黙っていた。私の右腕と彼の左腕、そして太腿が、異常に密着して気持ちが悪い。私に触れることを遠慮する気遣いが一切感じられないことが、安達望のそばにいたくない理由だ。桂木隆司とは、たとえ夜の公園を歩いていたとしても安心していられるのに。
「女性はお酒が入るとすっごく色っぽくなるね。岡部さんや鈴木さんなんか、すごくなまめかしくなっちゃって。君も酔えばよかったのに。こう考えてみるとうちのクラスにも可愛い子がたくさんいたなあ」
安達望がそんなことを話しているのを聞き流しながら、三年になったらO組の人たちと会うこともずっと少なくなるのだろうと考えていた。
このクラスの中で、私が思う人、私を思う人、彼を思う人、彼女を思う人、どれだけの思いが入り乱れていたことだろう。思う人の矢印と自分の矢印が、ほとんどの場合合致せず、諦め去っていく中、私と桂木隆司だけは正しく互いに向けて矢印を放っていた。それはどんなに幸運なことであったろう。
そのどちらかの矢印を失った場合、何倍もの不幸としてはね返って来るにしても、私は自分の矢印の向かうところに突き進むしか無いのだと思った。
Comments