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  • kaburagi2

第15章 大学2年 2月~3月 狭山湖めぐり

更新日:3月27日


 二月に入るともう試験も無い。きちんとした終業式があるわけでは無いので、いつから春休みとも言い難かったが、学生たちの大半は自主的な春休みに入っていた。私は二月いっぱいくらい歯科医院でアルバイトを続ける予定だった。アルバイトは二時までに行けばよかったから、その時間まで東京を見て歩くことにした。

 小金井公園、千鳥ヶ淵、北の丸公園、国立近代美術館、靖国神社、雑司が谷、鬼子母神、善福寺公園、新江戸川公園、東京カテドラル聖マリア大聖堂、四谷、聖イグナチオ教会、迎賓館‥‥。

 私は地図を頼りにどこへでも行った。見知らぬ駅で降り、方向を定めて黙々と歩く。たった一人でも生きられるということを実感したかった。地名と番地を確かめ、時には人に道を聞き、目的地に必ず到達するまで歩き続ける。太陽と風と天と地だけがいつも私と共にあった。

 かたわらを猛然と走る抜ける車。排気ガス。高層ビル。異常に混みあっている駅。コンクリートばかりの道。派手な格好をした若者たち。私は東京のすべてを見てやろうと思った。歩き続けて、不意に緑の森に出くわすと、そこで初めて息がつけるような気がした。

 しかし大きな公園など一人で歩いていると、少し怖い思いもする。六義園に行った時、木々に囲まれた薄暗い小道を歩いているとずっと後をついてくる一人の男性がいて、なんとなく気になったので小走りになってしまった。散策する人たちのいる明るい所に出て振り向くと、その男の人も丁度私を見ていてドキッとした。

 私を追いかけてきたわけでもなかったのかもしれないが、女の一人歩きだと余計な心配がつきまとう。小暗い道を歩くのはやめておいた方がよさそうだ。夜はいざ知らず昼間でさえ行動が制限されているような気がする。私が女だから? そんな時は、つくづく男の方が生きやすそうだと思い、せめて桂木が一緒だったらよかったのにと思う。


 午後二時のアルバイトの時間に遅れないようにスケッチブックを抱え歯科医院に入っていくと、知子さんが大きな目を見張って、

「絵を描くの?」

と尋ねてきた。

「あ、絵は得意ではないんですが、東京を見て回りながら気に入った場所をスケッチしたりしています」

「皆が見てるとこで? 恥ずかしくない?」

「恥ずかしいですから、できるだけ人のいない所でこっそりと描いてます」

 そのスケッチブックには、千鳥ヶ淵の風景や、武道館の建物、国立近代美術館にあった村山槐多の『バラと少女』の油彩の模写などが描いてあった。

 槐多の絵を発見したときは「あっ」と声をあげそうになった。ずっと本物の絵を見たいと思っていたからだ。

 全体的な色調は幾分暗い。夕刻のような空。灰紫の縦縞の着物を着た少女が、紅いバラの茂みの中に立っている。彼女の唇は少し開かれ、かすかに微笑んでいるようでもあり、髪はほつれて後ろに少しなびいている。健康的な赤い頬。穏やかでありながら、その少女の佇まいと質感にはただならない凄みがあった。これが、二十二歳で悲劇的な死に方をした詩人そして画家の村山槐多の絵だった。

 私はこの絵の前でしばらく動けなかった。破滅的な情熱。ためらいのない真っ直ぐな筆致。芸術に邁進する野獣的な活力。しかし槐多はその背景に家族との確執を抱え、自死を意識したかのような遺書も書いていた。

『‥‥自分は、自分の心と、肉體との傾向が著しくデカダンスの色を帶びて居る事を十五、六歳から感付いて居ました。私は落ちゆく事がその命でありました。‥‥』

『‥‥神さま、私はもうこのみにくさにつかれました。

涙はかれました。私をこのみにくさから離して下さいまし。地獄の暗に私を投げ入れて下さいまし。死を心からお願いするのです。‥‥』

 私は彼の遺書を読んで、彼が流し続けた涙を思い、私自身も涙を止められなかった。彼にも家族との確執があった。歪んだ家族関係の中にいて彼はどんなに苦しんだろう。芸術上の悩みと家族との確執が二重に二十二歳の彼を縛り上げ、最後は自殺に近い形でのスペイン風邪での死だったという。

 私はもうすぐ二十一歳になろうとしているのに、私のやっていることは槐多の足元にも及ばないという思いに心が騒いだ。転落の果ての死を見据えて、尚も岸壁から身を投じることの出来る者こそ、最終的な芸術感覚を掴み得るのかもしれない。

 私は遂に岸壁から引き返した者だった。それだけの器量しか持ち合わせていなかったことは、或いは幸いだったかもしれない。とにかく生き続けることは出来る。ただ生き続けることだけが、今の私の心からの願いだった。


 私が一人で東京めぐりをしているのを知った桂木隆司が、途中から私の散歩に加わってきた。

「知らぬ間に出かけてるんだからな。一人で出かけて楽しい? なんで人を誘わないんだよ。そんな風じゃ友だちできないぞ。時には他人に迷惑かけたっていいんだぜ」

「そう? じゃ、来る? 今度ユネスコ村に行こうと思う」

「ようし、行ってやろうじゃん」

そしてある日、二人でユネスコ村、狭山湖に行ってみようということになった。

 朝十時に彼は上石神井まで車で来た。下宿前の文房具店の近くに車を止めると、武蔵関駅まで歩いていきそこから電車に乗った。小平で乗り換えると向かいのホームに西武園行きの電車が既に止まっていた。ほとんど乗客は無く、たった二両の編成である。

座席に座ると彼は、

「春休み、なんで帰らないんだ?」

と私に尋ねた。

「今月一杯、アルバイトやるんだもん。帰った方がいいの?」

「いると気が散る」

「なにそれ、ははは」

 都心とは逆方向に向かう電車は、乗って来る乗客も少ない。窓の外は冬枯れの景色が続いていた。狭山が近づくにつれて平坦な茶畑が増えて来る。くすんだ渋い色の絨毯が無造作に投げ出されているかのような風景を、薄い霞みが繭のようにそっと包んでいる。

 西武園駅で電車を降りた。四キロほど先のユネスコ村へはおとぎ電車に乗っていく。おとぎ電車の運行時間を調べるとあと三十分ぐらい余裕があったので、待ち時間に多摩湖の方に行ってみることにした。

 いつか一人で来た時のように、湖の表面は曇った空を反映して、まだらな暗い模様がついていた。湖の果ての方は薄白く霧に煙っていて、森の方に遠ざかるにつれて白のグラデーションを色濃くしている。あれはもうおととしの事になってしまったのか。夢のように、あの時と同じ姿で多摩湖は身動きもせずに、私の前に横たわっていた。

 あれから私はどう彷徨ったのだろう。もうこの人生は駄目だと思い込んでいた日々は、どこに沈められているのだろう。湖はやはりきらめきもせずに暗い広がりを見せていたが、少なくとも今は、死のイメージを湖に重ねることは無い。生きることがつらい、と呟くことすらせずに私は無我夢中で闘ってきた。これからも闘い続けていかなくてはならないのかもしれない。以前と違ったことといえば、その闘いをみつめていてくれる人がそばにいるということだ。

「湖に来るの久し振りだな。俺、こういうところで釣りでもしたいよ」

桂木は湖の柵に凭れかかりながらそう言った。

「でも釣りしてる人、見かけないね。ここは一応貯水池だから汚れるとまずいんじゃないの?」

「そうか、東京都の飲み水だもんな。…ここに青酸カリ投げ入れたらどうなるだろうな。そういう事考えない?」

「ああ、一気に東京に人がいなくなっちゃうだろうね。あんなに人が一杯の町がいきなりゴーストタウンになったら、すごく怖いだろうね」

「そうだな。ビルばっかりで人がいない町なんてな。SFの世界だな。‥‥あの森の方、煙が出てないか?」

「ああ、靄みたいに‥‥」

「靄じゃなくて、煙じゃないか?」

「そう言われるとそうかも」

 私たちは森の一部分を白く染めている煙を黙って見つめた。あれは、誰かが焚き火でもしているのだろうか。森の色を消して湖の方にも白く流れ出ている。空を覆う厚い雲の色とも溶け合って、どこが果てとも見極めがつかない。

 ああ、あの時の寂しさとあまりにも似すぎている。少し離れて立っている彼の存在があってさえも闘いは私個人のものだ。息ができない、と言おうか迷いながらも、私は言葉を飲み込んで、耐えながら遠くを見ている振りをしていた。

 おとぎ電車は四キロ弱を十五分かけてゆっくり走る。線路の両側はずっと林が続いていた。林の合間には、西武ライオンズ球場、そしてユネスコ村の大きなオランダ風車が見え隠れしていた。乗客は、私たちと一組の中年の夫婦だけだった。最後尾から外のデッキに出ることができたので私が何気に出て風を浴びていると、桂木が後ろから心配そうに声を掛けて来た。

「おいおい、そんな所に出たら落っこちるぞ。危ない。車掌に怒られるぞ」

私は「大丈夫だよー」と言いながらもしぶしぶ車内に戻った。


 電車を降りるとすぐ目の前がユネスコ村だった。以前から東京の観光地図を眺めていて、「ユネスコ村」という表記がずっと気になっていたのだ。これは何だろう、遊園地のようなものなのだろうか、村というからには村のように建物が沢山あるのか。

 目の前に現れた実際のユネスコ村に踏み入っていく。薄汚れた掘っ立て小屋のような雑な作りの民家がいくつか建ち並んでいる。たぶん世界の建造物を略式で再現しているのだ。

まるで子どもだましだ。ひどく拍子抜けしながらも、私たちは一軒一軒覗いてみた。

 家の中も殺風景で、家具も何も無く、壁に世界の子どもたちが描いた絵が展示してあるだけである。かろうじてオランダ風車のあたりだけが写真になるぐらいだ。小動物園で、ペンギン、猿、キツネなどを見たら、もう見る所が何もなくなった。見学所要時間は三十分ぐらいだった。

 ユネスコ村を出てから私たちは文句を言い合った。

「なんだよー、あのユネスコ村は。六百円の価値がまるで無いよー。お金返せ」

「ほんと、つまんねー場所だな。ユネスコなんて名前からして胡散臭い。だから止した方がいいって言ったのに」

たいして期待していたわけでもなかったが、それにしても見所が無さすぎる。

「これではあんまりだ。仕方が無いからこれから山口観音に行ってみようか」

「うん。その後、狭山湖の方に行ってみようぜ。六道山とか村山砦の方」

「どれ、地図見せて。‥‥あー、こんなに遠いじゃん。帰れなくなっちゃうよ?」

「それがいいんだよ。野生の証明、なんちゃって」


 私たちは深く考えもせずに狭山湖の方に歩いていった。もうお昼時ということもあって

湖の縁でお弁当を食べている家族連れが目立った。私たちもお昼どうしよう、と思ったが、一時間ぐらい歩いたら帰ってくればいいという目算で、そのまま先へ行った。

 狭山湖に架けられた橋は、しっかりした造りであったにもかかわらず渡り始めるとひどく頼りない感覚におそわれた。それは川に架かっている橋と違って、向こうまでの距離が果て遠く長いせいなのかもしれない。

「俺、こういうの夢に見るんだ。両側が絶壁になってて五十センチ幅の道を一人で歩いてるの。すっごく、怖い」

「ふーん。私も怖い夢、見るよ。ものすごく狭くて急な階段をずうっと空の方まで登っていくの。振り返るとすごく高くて怖いんだけど、どうしても登らないとうちに帰れないの」

「そういう夢を見るとさ、起きてからもドキドキしてるんだよな」

 橋を渡った向こう側の石畳の道沿いは桜並木だった。春の頃はきっとこのあたりは花見客で賑わうに違いない。そこを過ぎると雑木林の中の林道になっていく。やや上り坂である。林道は石ころだらけで歩きにくかった。右手の山の上の方に国民宿舎の白い建物が見える。  左手の木々の間を通して狭山湖の暗い水面が見下ろせた。こんなところまで入ってくる人は誰もいない。勿論、人家も全くない。ただ続く単調な林の道を、私たちは他愛ない冗談を言い合いながら歩いていた。

 少し行くとホテルが三、四軒固まって建っているのに出くわした。

「あー、『ホテル777』だって。こういうの日光街道にたくさんあるよ」

「あるところには固まってあるよな。しかし、よくやるよ。こんなところまで来て。俺の友だちもラブホのサービスとか料金とか間取りとかいやに詳しいやついるけどよ。いくつか実地検分に行ったらしい」

「え-?、一人で?」

「一人で入れるかよ」

「うわー、お盛ん」

「俺たちも将来のために場所を覚えておこうぜ」

彼はニヤっとして私を見る。

「いやいやいや。来ない来ない来ない」

そんな軽口を叩いて、無闇に笑い合って、まるで早稲田通りを歩いてゆくような気軽さでどんどん林道を登っていった。ラブホテルがあるということは、まだここまでは入ってくる人があるということなのだろう。


 しばらくこのまま行っても大丈夫そうだと見当をつけて、私たちは更に奥の方へ登って行った。道は車が通れるぐらいの広さはあったが、舗装されていないので砂利に足を取られて歩きにくい。左にはまだ狭山湖が見下ろせた。右はもう深い森になっている。狭山湖が見えているうちは、自分の居場所が地図で大体分かる。もう既に戻ろうという意識は無くて、とにかくどこかに辿り着けるまで歩いてみようという暗黙の決定が、私たちの心を支配していた。

「やだなあ、せっかく新しいスニーカー履いてきたのに、もう汚れちゃったよ」

「俺なんか新しいの分かると恥ずかしいから、わざと汚したりするよ」

「もったいない。白い方がいいじゃん」

「ふふふ、見てろ、今にもっと汚れるから」

「ひどーい」

 道々、『ハイキングコース・Gコース 3.0km』とか標識があったが、あまり当てにすることはできなかった。ゴミ捨て場に行くらしいトラック二台に追い抜かれただけで、後は人っ子一人出会わない。

 曇っていた空は次第に晴れてきて、明るい午後になっていた。葉の落ちた木立の間から、ちらちらと薄日が見え隠れする。天候の回復も私たちの無謀なハイキングに拍車をかけていた。帰ろう、と言い出した方が負けだ。私は意地になって彼と張り合っていた。彼も男の沽券がかかっているから尻尾を巻いて逃げ出すわけにもいかない。二人まるで競歩のように、先へ先へと急いだ。

 随分歩いているのに、まだまだ大きい通りに出そうもない。どこかのお店でお昼を食べるつもりだったがこれではお店どころではない。私はあまりに空腹になると胃が痛み始めるので、いつも牛乳とか軽食とか鞄に忍ばせていた。この日は念のためおにぎりを一つ持ってきていた。これはあくまでも応急の食料のつもりだった。この際これを分け合って食べるしかない。

「ほら、隠し玉。おにぎり一個ならあるよ」

「うわ、一個だけっていうのがなんとも言えないな」

彼はおにぎりを半分に割って、大きい方を私に差し出し、自分は小さい方にかぶりついた。

「やっぱ腹がすいてるとなんでもうまいぜ」

「これは緊急用なんだからね。まさかこんな道を歩かせられるとは思ってなかったから」

私はちょっとぼやいてみる。

「これほど何も無いと思わなかったんだからしょうがねえよ」

 道端にしゃがみ込んで、わずかなおにぎりを食べると、それでもいくらか元気が出て来た。  

 休む時間も惜しんで、再び立ち上がって歩き始める。引き返すよりは先に行った方が早く帰れるような気がして、私は我知らず早歩きになる。いつも早歩きの彼が、もっとゆっくり歩け、と言うほどだ。


 『六道山』へと導く道標を見出だした時には、既にもう二時間歩いていた。ここで一息ついて写真を一枚撮った。六道山の矢印の標識のある道の左側にも道があり、私としては左の方が近道のように思えたのだが、やはり標識通りに行った方が間違いはあるまいと判断して右の道を行った。

 しかし、歩き出していくらもたたないうちに、その判断に確信が持てなくなっていた。この道だと狭山湖からどんどん離れていってしまう。沢が道の近くを音立てて流れていて、その流れが道の方まで迫ってきていて、大きな水たまりが道幅一杯に広がっている。とてもまともなハイキングコースには思えない。どう歩いていいか分からないほどの深い泥の水たまりの前で立ちすくむことが度々あって、私と彼は顔を見合わせながら、そろそろといくらかでもましな足場を探して渡っていった。

 彼が差し伸べてくれる手をしっかりと掴んで、水たまりを飛び越す。恥ずかしがってなどいられない。私も彼も我知らず必死の形相になっていた。

「これは予定外だったな。謝らなくちゃいかんな」

「そもそも私がユネスコ村に行こうなんて言ったからだよ。私こそごめん。お弁当もちゃんと作ってくればよかった」

「今の安心度は?」

「うーん、十パーセントぐらいかな」

「えっ、十パーセント? ほんとかよ。俺って信用無いんだな。がっくりきちゃうよ」

 真面目に考えたら結構まずい状況ではあったが、彼と一緒だったので本当はそうは怖くはなかった。『十パーセント』は、照れも入ったしゃれだ。しかし依然として私たちがどこを歩いているのか所在が掴めない。そこの部分の不安は拭い去れなかった。

「このままだとこんな山の中で野宿だよ?」

「俺とならいいじゃんよ。この前、車で井の頭公園と多摩動物園に行った時、俺の安全度が証明されたじゃん」

「あの時とは状況が違うから。とにかく明るいうちにちゃんとした道に出られないと本当に今日は野宿になっちゃうんだからね。真冬なんだから凍死しちゃうかもしれないよ?」

「そういう時は俺が温めてやるよ。緊急事態じゃしょうがねえよな」

「えー、やだなー。やっぱり野宿やだ」

「ひでえ。ほのぼのと抱き合うならいいじゃん」

「そもそも小屋も無い野っ原で野宿なんて、あり得ない。熊とか狼にも襲われちゃうよ?」

「そんなのいねえって。それともあれか? 俺が危険動物ってか? ははは」

 野宿も内心覚悟はしていた。そうしたら彼と抱き合って一晩を過ごすのか。何を話すのだろう。全然眠れないだろうな、などと他人事のように考える。

私が先を急ごうと彼の前をどんどん歩くので、彼は、

「おい、先に行くな。先に行く奴は先に死ぬぞ」

と、いつになく真剣な顔で言った。

 数週間前、彼の車で井の頭公園に行った時の事を思い出していた。公園を少し歩いてから多摩動物園へ、そして府中街道で彼の家のすぐ前を通り過ぎて、生田緑地までも行ったのだった。彼が言っていた通り、プラネタリウムは改装中で閉まっていた。

 夕暮れ近くまで緑地を歩きながら、色々なことを話した。あの時も私は夕暮れを意識して明るいうちに帰りたがった。彼はそんな私をからかって、「まだ心配してる? 冗談だろ? やっぱ小説の読み過ぎだよ」と言って笑った。

 今の不安はあの時のものとは違う。とにかく自分の力で歩かなくては帰れないのだ。この先どれだけの道程があるのか、それを歩き通せる体力が私にあるのか、把握しきれないことが私をぼんやりと不安にしていた。車でどこかに運ばれるのを怖がっていた自分が馬鹿らしくなる。彼が私を裏切るようなことはしないのは、分かり切ったことではないか。

 緊張しているせいか、ほとんど疲れを感じなかった。

「本当なら普通の女の子なら、この辺で、もう一歩も歩けないーなんて座り込んじゃうんだけどね。本当に疲れてないの? 元気そうな振りをしているんじゃないの?」

彼が私を振り返りながら心配そうに言った。

「いや、本当にあんまり疲れてないよ。まだまだ歩ける。最近、ジョギングしたりして鍛えてるからね。心配ご無用」

「うわ、もしかして俺より体力あったりして」

彼は肩をすくめて、また前を向いて歩き出した。

「おまえ、本当は強いんだよ。心も体も」

彼は前を向いたまま言う。

「えー、全然強くなんてないよ。やってることいつもブレブレだしさ」

自分のことを強いと思ったことが無かったので、彼の言葉にぐっときていた。

「普通の女の子はさ、すぐに誰か頼って、相手にやってもらおうとするけど、おまえ、何でも一人でやろうとするじゃん。見ていて危なっかしいんだけど、そういうの強いと思うんだ。体悪くしてずっと心細かっただろうに、少なくとも俺の前では平気そうにしてたじゃん。強い女だなと思って、おまえを見てたよ」

「ええー? 桂木くんに褒められちゃったよ。照れる」

そう言いながら私は少し涙ぐんでいた。

「車に乗るの警戒するのだって、おまえ、一人で気持ち張って生きてるから、たやすく男に頼れないからなんじゃないの?」

「…そうかも」

「頼れよ。もっと頼ってもいいよ。つらかったらほんとに言えよ」

「うん。わかった。ありがとう」

「ほんとにまだ歩けるか?」

「ほんとにまだ大丈夫だよ、って言いながらバタっと倒れちゃったりしてね。そしたら、おんぶしてくれる?」

「おんぶしたら、重くて俺も歩けねえ」

「ひどーい。ははは」 

 今日、彼は八時半ごろ家を出て来たと言っていた。渋滞の道を車で運転して、上石神井に着いたのは十時。私より疲れているはずだった。しかし、彼のことを心配できるほどの心の余裕など、もうとっくにありはしないのだった。とにかく私が倒れずに歩き続けることが、彼の助けになるのだと思いながら。

 歩き始めの頃、三、四メートルあった道幅も、このあたりになると一メートルそこそこになっていた。両側は林が迫ってきていて、抜け道は一本も無い。モトクロスのバイクの轍の跡が二、三本、泥を盛り上げて道を更にぐちゃぐちゃにしている。人の足跡は全然無い。まるで底なし沼のように一歩一歩足を取られる。スニーカーは泥を厚くぶら下げて、時々こそげ落とさないと重くて歩きにくい。泥に埋まったスニーカーが引き抜けなくなる度に、私がワーワー悲鳴を上げるので、彼は呆れた顔をして、

「俺の足跡のところを来いよ」

と言った。しかし彼の歩幅は大きいので、かえってよろめいて転びそうになる。

「足が長すぎるんだよ。一歩が全然届かん」

私がやけになって叫ぶように言うと、彼は苦笑いして、

「なんだか男同士で話してるみたいだな」

と言った。


 そんな泥道を十キロぐらい歩いただろうか。それは一口では言えないような大変な距離だ。道が間違っているのではないかと迷いながら歩いていると、更に遠く感じられる。もう引き返すこともできない。本当にこのまま夜になってしまったらどうしようと思い始めた頃、林が急に切れて、山の傾斜地に作られている茶畑のところに出た。不意に空の明るさを感じた。

「やったー。凍死は免れたあ」

「よく歩いたよなあ」

二人で道端に座り込んで休憩した。やっと人の匂いのする場所に出ることが出来てほっとして緊張が緩んだ。だがまだ道は遠い。心の片隅で夕暮れまでの時間を計ることを止めてはいなかった。

 地図を見ると、狭山湖の周りをめぐる道の三分の一ぐらいしか来ていない。時刻はもう三時になっていた。しかし、雑木林の中をたった二人きりで、もしかしたら間違った道かもしれないと思いながら歩いていた時よりはずっと気が楽だった。 

 座り込んだ私道の右手の向こうの方に大きな舗装道路があり、車がたくさん通っているのが見えた。

「ヒッチハイクしようか」

「ヒッチハイクなんていっても、女しか乗せなかったりしてな」

「うわー、男は降りろ、なんて?」

「そうだよ、餌食だよ」

「そっかー、アメリカ映画だとそうなるよな。バスは? バスは通ってないのかな」

「通ってないみたいだな」

「ああ、まだ歩くのか‥‥」

私たちは立ち上がって左の方に降りていった。二本の分かれ道の狭間に道標があり、それには、

『藤原邸/六道山・狭山湖・多摩湖』

と書いてあった。

 右の丘の上には立派な作りの『藤原邸』らしき建物が見えた。藤原邸というのがどういういわれの家であるのか詮索する余裕すらなく、左の道を取った。また雑木林の中に入り込んでいく道だ。

「また林の中だよ。嫌な感じ」

「しかし、行くしかないぜ。それにしてもさっきから思ってたんだけど、おまえ、性的なものを感じさせないタイプの女の子だな。スニーカーにジーパンだなんて、何だか少年みたいだ」

「嫌なの? 駄目?」

「別に駄目だなんて言ってないじゃないか」

「スカートにハイヒールなんかで来てたら、とっくに遭難してたよ? 狭山湖で遭難してニュースになってたら、恥ずかしくて学校行けないよ。無謀なカップル、軽装でハイキング中、道に迷って二人とも凍死、とか。やだやだ」

「俺もやだよ。やっぱり男の責任になっちまうもんな」

「そうだよ。責任取りなさい」

「まだ責任取らなくちゃならないこと何にもやってないぜ? なんなら凍死する前に、やる?」

「ばかー!」

そんな事を話しているうちに、すぐに林が終わり、広々とした見晴らしのよい場所に出た。

「うわー! やっと六道山に着いたー!」

 山というよりは、なだらかな丘と言ったほうが妥当かもしれない。枯れた白っぽい雑草の名残に覆われた傾斜地は、のどかな散策には丁度良いかもしれなかったが、既にはるかな泥まみれの道程を歩いてきた私たちには、間の抜けた中途半端な丘にしか見えなかった。

 丘の上には『六道山』と書かれた木の柱と休憩所があり、四、五人の男女がベンチに座って談笑していた。

「ここが六道山かよ。どんな山かと思ってたら、たいしたことないじゃん」

彼が小山を見上げて、力が抜けたように言った。

「ほんと、ほんと」

 休憩所の男女たちは大学生のようだった。きっと近くに車を止めて、ちょっとしたハイキングに来たに違いない。私たちがずっと狭山湖から歩いてきたことを知ったら、彼らはどう思うだろう。少し、優越感を感じた。よれよれになっているのを気付かれないように、いきなり背筋を伸ばして、私たちは彼らの前を速足で通り過ぎた。

 太陽はもうだいぶ傾いて、夕日の色をつけ加え始めていた。地図をよく見ると西武遊園地の駅までは、今まで歩いた以上を歩かなくてはならない。二人で、うわーっと溜め息をついた。

 休憩している暇などない。向こうから灰色の制服を着た掃除人の人たちが三十人くらいぞろぞろやって来る。こんなに人がいるのだから、すぐに大きい道に出るだろうと気もそぞろに歩いていたら、いきなり何かにつまづいてしまった。私は、わははは、転んだーと言いながら立ち上がった。横を歩いていた彼はびっくりして、立ち止まった。

「あー驚いたー。急に転ぶんだもん。今まで普通に歩いてたのに、あっと思う間もなく転ぶんだもん」

「あははは、気が緩んだんだな」

「立ち上がる時は笑うなよ」

「ははは。歩き過ぎて変になっちゃったよ」

「おいおい、まだ先は長いぞ。気を付けて行けよ」

 彼が時折心配そうに声をかけてくれるのが嬉しい。もし私が歩けなくなったとしても、彼がそばについていてくれるなら、一晩を雑木林の中で過ごしてもいい。そんなことすら心の片隅で考えていた。

 左に社が二つあるのを見ながら先を急ぐと、狭山湖と多摩湖の二差路に出た。左の道は藪の中に入っていくけもの道、右はそれよりはいくらか広い砂利道。これはやはり右だろうかと、二人でしばし考えながら、そこで少し休憩を取った。ちょうど二つ立方体の石があったので、その上に座った。

「なんだか今日は分かれ道のところで迷ってばかりいるな」

「まるで人生の選択のようだよ」

「そうだな…しかし、これは本当に謝らなくちゃならねえな」

「いいって。でもほんと、よく歩いたよ。まだ終わってないけどさ」

「ユネスコ村だけで帰ってたらそれはそれできっと後悔したぜ。あまりにつまんなくて」

「そうだね。ユネスコ村がひどかったのがそもそも悪い。だけどさ、人って極限状態になると本性出るじゃん。こんな状況でも桂木くん全然普通で、いつも通り面白くおしゃべりできて、楽しく歩けてよかったよ。分かれ道でもケンカとかしなくていられてさ。ありがとう、ってか、まだ終わってないけどさ」

「俺も楽しかったよ。おまえもこんな状況でも笑ってついてきてくれて、ありがとう、ってか、まだ終わってないけどな」

二人顔を見合わせて笑った。

 元気を出して再び立ち上がり、右の道をうかがっていたら、バイクの音が近づいて来て、モトクロスの装備をした青年が右の多摩湖方面から出て来た。バイクは私たちの横を通り六道山の方に向って走り去っていった。私たちはその後を見送ると、右の道を歩き始めた。

「今度弟がオートバイ買うんだ。あいつ俺より行動的だかんな。俺が不良になれなれって勧めてるから。佐藤愛子が言ってたことだけどさ、佐藤愛子には二人の兄がいて、一人は真面目で、一人は不良だったんだって。それで、『私は不良の兄からより多く人生を学んだ』って。おまえは俺の事を不良みたいだって言う時あるけど、本当に不良になれたらどんなにいいかと思うよ」

 彼は少し寂し気に笑った。

 彼は確かに他の男子とは違って一匹狼のような雰囲気があった。みんなとわいわいがやがや騒いで楽しく遊んだりするタイプではない。しかし知り合っていくうちに彼がどんなに思慮深く優しい人であるか、どんなに深い思いで私と付き合ってくれているかに気付いたのだ。煙草を吸っていたりすると不良っぽく見えてしまうが、不良じゃないことは私が一番よく知っていた。彼が秘める少し寂しい魂の色のことも。その色は私のものとよく似ているような気がしていた。


 四時ごろやっと『村山砦』に着いた。もう完全に夕暮れになっていた。地図上に『村山砦』という表記があって、これもユネスコ村と同様に何であるのか謎だったものだった。アミューズメント施設だろうか、史跡か、何らかの名所なのか。

眼前に現れたのは日本の城のようないくつかの建物群だった。

「あー、私、こんな感じ夢に見たことある。こういうお城」

「ほんと? 確かそういう映画あったな、神様のくれた赤ん坊、桃井かおりがね、子どもの頃のお城の記憶を頼りに自分の故郷を探し歩くんだ」

「ふうん。そうなんだ。お城ってなんだか象徴的だよね。それにしてもなんでこんな所にお城?」

 その不思議な建物を見ながら少し先に行くと、木の立て札のような大きな看板が立っていた。そこには、料理のメニューが墨で黒々と書き連ねてあり、それでやっと村山砦が食事処、高級料亭のようなところであることが分かった。戦国料理、懐石料理、焼き鳥など、どれも一品二千五百円以上する。

「すっごく高いな。やっぱ山の上だかんな」

「ジュースでさえ五百円するよ」

「こりゃ駄目だ。そう言えばこの前のコンパも会費が二千五百円だったんだろ? どんな料理出た?」

「うーん、料理っていうか、おつまみみたいのばっかり。ポテトとかキャビアとか。やっぱり飲むのがメインだからね」

「二千五百円も出したら、もっといいとこ連れてってやるのに。お二人様いらっしゃーい、なんてね」

「それは二千五百円ぐらいじゃ多分足りないね。万札を用意していかないと」

「そうか、そうだな。全然足りないな」

町の気配を感じて、もう大丈夫だと感じた。野宿ということは無いだろう。

橙色の西日が当たった村山砦を後にして先を急ぐと、またラブホテルの群れに突き当たった。

「まただよ。いいタイミングだな。ちょっと休んでいくか?」

「入ったら、休むどころかもっと疲れることになるのでは? ははは」

「それもそうだ。ははは」

 ホテルがあるという事は、大通りが近いという事だ。先は見えて来た。もう惰性で足が

勝手に動いているといった感じだ。

 想像していた通りに、じきに太い道に出た。今度は舗装してあるし車の通りも多い。あと少しだと思って気持ちを奮い立たせる。足はもう豆だらけになっていた。豆の中を水が動いているのを感じる。

「足にいっぱい豆が出来ちゃったよー。豆と言えば、この間の節分は豆まきしたの?」

「うちは、ばあちゃんがいるから、そういうのちゃんとやるよ。親父が撒いてた」

「私もアルバイトから帰ってくる道で、人んちの二階の窓から、鬼は外―って声がして豆が降ってきてね。慌ててよけたよ。私は鬼か、っての」

 もうすぐ帰れると思うと不安も疲れも吹っ飛ぶ。ただ足の痛さだけは紛らわしようがなかった。


 ユネスコ村に着いたのは四時半だった。既にユネスコ村は閉園していて誰もおらず、駅にはおとぎ電車の姿も無かった。歩きながらそうかもしれないとは思っていたが、それを目の当たりにすると、また行程が引き伸ばされたことに気力の糸も切れそうだった。

「あー、ちくしょー。おとぎ電車四時で終わりだよ」

「うわー、これから西武園駅まで歩くの? 四キロあるよ、四キロ」

「あと三十分早ければ乗れたのにな」

「がっかりー」

「仕方ない。とにかく休憩だ」

 二人で肩を落としながら駅のベンチに座った。太陽はまさに沈もうとしているところだった。木々の間で赤く燃えている太陽が完全に光を消してしまうまで、私たちは黙って見ていた。

 夏のような雰囲気がする。すっかり暗くなってしまった夕暮れに、見知らぬ場所で彼と二人ぼっちでいることが不思議だった。クラスの他の皆は、まだ賑やかな夜の町で遊んでいたり、アルバイトをしていたり、家に帰ってテレビでも見てくつろいでいるに違いない。私たち二人だけが、他の惑星に流れ着いてしまったかのように孤絶した暗い場所にいる。この世に二人きりしかいないかのように。太陽が沈んだ後も、空には茜色の雲がしばらく消え残っていた。

「何キロ歩いたんだろう。二十キロぐらいかな」

「きっともっとだよ。すごくぐねぐね歩いたからね」

「今日のこと一生忘れないぜ。何年かたって誰かと結婚して子どもでも出来たら、子どもと一緒に来てみたら?」

「子どもと? ユネスコ村見せたらつまんないって言って怒られちゃうだろうし、狭山湖一周したら今度こそ遭難しちゃうよ」

「ははは。そうだな」

 笑い合いながら、心に寂しさが忍び込んでいた。私が将来、彼ではなく別の人と結婚する、その可能性について、彼は冗談に紛れ込ませながら示してきた。名も知らぬその誰かは、私の弱さをも理解してくれるというのだろうか。彼のいない将来。不意に慄然として、そんなのは嫌だと胸の中で叫んでいた。彼以外の人とこれ以上分かり合うことなど出来そうにない。

 結婚とか、二十歳そこそこの彼に約束を求めることなどできない。彼も私を縛る言葉は、注意深く避け続けるだろう。誠実とはなんとむごいものなのだろう。お互いに相手の人生を大切に思うあまり、傲慢になれずに一歩身を引いてしまう。

「さあ、もう一息だ。頑張ろう」

 あと四キロ。去年台風の日、やはり線路上を五~六キロ歩いたことを思い出した。線路は歩きにくく、四キロはただの四キロではない。しかももう日は沈み、西の空に夕日の名残をとどめているだけで、線路の両側は真っ暗な森に覆われ、はるか先まで既に夜の領域に入ってしまっている。

 時計は四時四十五分を指し示していた。私たちは最後の力を振り絞るようにして、おとぎ電車の線路内を歩き始めた。

「あ、映画みたいだよ」

彼は、真っ直ぐに続く線路の暗い果てを透かし見ていた。

「なんかドラマティックだね。この線路が終わったら、もう、歩かなくてもいいんだね」

私の足よ、あと少し頑張れ。最後の最後にへたり込むわけにはいかない。


 藍色だった空は、次第に林の暗さに色を同化させていった。闇の中を歩く四キロ。私たちはゆっくりゆっくりと歩いていった。線路脇の雑木林には街灯もほとんど無く、足元がよく見えない。足の痛みも極限を越していた。二人でよろけながら歩いた。街灯があるところだけ線路がキラキラしている。

「こんな情景見るの、二度と無いんじゃない? よく見とけよ」

「うん」

 暗くて、もうその表情もはっきりとは見えなかったが、彼の瞳だけはくっきりと明るい光を反射しているように思えた。

 狭山スキー場、西武ライオンズ球場、西武園遊園地。西武鉄道へ行く途中のSSWのトンネルを抜ける時も、彼は、

「映画になるよ」

と、立ち止まって線路の先を透かし見ていた。

 おとぎ電車でたったの十五分だった道のりを、闇の中で手探りの状態で苦労しながら歩いていることが、何かの冗談のように変な愉快さを伴って胸に込み上げてきた。

 野方から上石神井まで六キロの線路上を一時間半で歩いた。それならこの四キロは一時間ぐらいで歩けるはずだ。ただ足元が真っ暗なのが閉口する。

 この線路を歩き終われば必ず西武線に辿り着ける。私たちはよろけながら、しかし間違いようもない線路上を、出鱈目な馬鹿なおしゃべりをし続けながら歩いていった。今となってはこの小冒険が終わってしまうことが、しきりに名残惜しかった。


 西武園の駅に着いたのはもうほとんど六時だった。あたりは完全に真っ暗だ。駅の明かりがやけに眩しかった。駅のホームのベンチに座ると、はあーと溜め息をついてやっと心から休息した。彼は煙草をポケットから取り出し、自分が一服吸うと、私にも煙草を差し出した。

「喫ってみない?」

「いやだ。絶対喫わない」

「たいがいの人なら、それならちょっとだけって言って喫うんだけどな。モラリストなんだな。意志が強いっていうか」

「吸わない。桂木くんが勧めてきても嫌なものは嫌と言う」

私が断固として拒否すると、彼は苦笑いした。

 間もなく電車はやってきた。ぽつりぽつりしか人は乗っていない。私は座席に浅く腰掛け行儀悪く足を投げ出して座った。人目など気にしていられないほど疲れて足が痛かった。もう少し大胆だったなら、座席に寝転んでしまっていただろう。

「よく歩いたな」

「半日歩いてたもんね」

「よく三年とか五年とかつきあってる人いるだろう? 俺たちも続くかな。四年生ぐらいになったら険悪ムードになってたりしてな」

「どうなってるだろうね」

「卒業の時は泣けよ」

「…うん。きっと泣くよ」

二人顔を見合わせて少し笑った。

 卒業したら別れるものだと覚悟しながら今を精一杯輝いて生きる。別れないという未来をも探りながら。私は疲れ切った思考で、自分が将来をどう決定していくのかを、他人事のような遠さをもってぼんやりと考えていた。

「車、大丈夫かな。あんな道端に止めちゃったからな」

彼が少し不安気に言う。

「無かったらどうする?」

「おまえが男だったら、下宿に泊めてもらうんだけどな」

「それは無理だねえ‥‥泊めてあげたいところだけど、なんとかして帰って。帰らなかったら桂木くんのご家族も心配するし」

 私が男だったらよかったのに。そうしたら一緒に銭湯に行って、一緒にちょっとぐらいビールでも飲んで、何の気兼ねなく一緒に寝ることもできただろう。男同士の親友だったなら。

 電車は上石神井に向って真っ直ぐに進んでいく。私は無意識に向かいの暗いガラス窓に映し出された彼の姿に、『雪国』の主人公がしたように町の明かりを重ねていた。彼の体を星座が取り巻く。きらめく光をまとって、彼は居眠りしそうになっている‥‥。



 二月二十一日が私の二十一歳の誕生日だった。その日、桂木隆司が下宿まで車で来てくれて、一緒に石神井公園の三宝池に行った。素晴らしくよく晴れている日だった。

 数日前に降った雪が消え残って、日光を眩しく反射している。雪が溶け込んだ池は沼のように濁っていた。池の周りに何本かある梅の木はもう白や赤の花を咲かせていて、焚きしめられたお香のような香りを立てている。持ち込んだパイプ椅子に座って油絵を描いている人が何人もいた。誰かがサキソフォーンの練習をしている。道は溶けた雪のせいでひどくぬかるんでいた。

「まるで狭山湖だな」

彼は私の顔を見て、ちょっと笑うようにして言った。

「あの時は本当に無事に帰れるのかなって、一瞬思ったぜ」

「あ、信用してついて行ったのに」

「信用してた? 安心度十パーセントって言ってたくせに」

「言ったけどさ、一緒ならなんとかなるって思ってたよ」

「そうか? やっとそう思えるようになった? ちょっとは進歩したな」

 三宝寺池の南側はまだ踏み荒らされていない雪が残っている。笹のような葉の上にわずかに乗っている雪も、暖かな陽射しに溶け、ゆっくりとしずくとなって滴っていた。

「すごい経験だったよな。おまえも頑張ったよ」

「一歩間違えたら本当に野宿だったよね」

「野宿してたらどうなってただろう」

「私は下宿に帰らなくたって誰も心配する人いないけど、桂木くんちは大騒ぎだろうね。うちの息子が連絡なしに帰ってこない、って」

「ああ、ばあちゃんが大騒ぎして警察通報するかも」

「あぶない、あぶない。無事に帰ってこれてよかったよ」

 あの日、本当に帰れなかったら結構大事になっていたかもしれない。思い返すとひやっとする。でもなんとか頑張り通せたことは、私の自信になった。彼にしても同じだったかもしれない。こんな経験は若いうちにしかできない。そもそも思慮分別がついたちゃんとした大人だったなら、地図もちゃんと読み取れないような山道になど最初から入って行きはしない。

 三宝寺池を巡る散策路は殆んど誰も歩いておらず、ただ何かの鳥の声だけが聞こえていた。

「なんでも俺にしゃべれるようになった?」

「…どうかな。まだ遠慮してる部分があるかもしれない」

「思ってることをしゃべらないと何もはじまらないんだよ?」

「男の人って、何考えてるか分からなくって、時々怖くなることあるけど…」

「あ、俺が? どんなとこ?」

「桂木くんがっていうんじゃないけど、私ってずっと女子高だったじゃない。男の人がそばにいるっていうことに慣れていないせいなのかな、なんか私のテリトリーにぐいぐい踏み込んでこられそうになると、怖くって逃げたくなる」

「そう言えば、十一月の頃、俺に釘刺したよな」

「ああ、あれは、ごめん。桂木くんが原因じゃなくて、他の男の人のことで嫌な事が続けてあったから。自分が女だってことも嫌になっちゃって」

「ふーん。おまえ、男に対して潔癖なところあるからな」

「他の女の子ならたぶん簡単にスルーできてしまうことかもしれないのにね」

「男と付き合う事、そんなに大袈裟に考えること無いんじゃない? 俺、変な事しなかったろう? 俺の事は絶対に安心して大丈夫だよ」

「うん。それは分かってる。だけど、本能的な警戒は完全には消せないんだ。手が触れ合うことだって、実はそんなに平気じゃない」

 三宝寺池は、ボートで賑わう開放的な石神井池とは雰囲気が全く違っていて、まわりを深い樹木に覆われている。途中、石神井城跡に導く林の中の細道があり、その薄暗さがちょっと狭山湖の森の分かれ道のようだと思った。

「本当に今まで誰とも付き合ったことないの? 声かけられるとか」

「うーんと、高校の時、自転車通学中にいきなり知らない人にラブレター渡されたことがあった」

「道端で? 道端で手紙渡すなんてすごい勇気だな」

「そうだね。半年ぐらい迷ってたんだって。ははは」

「あ、そうやって男の気持ち笑い飛ばしてたのかよ。ひでーな。中学の時は?」

「私に片想いの子がいてね、廊下で会うとコソコソ隠れちゃうの」

「可愛いじゃん。それで自分から誰か好きになったことは無いのかよ」

「気になる人はいたけど好きでたまらないっていうほどでは。なにしろ受験で頭いっぱいでガリ勉ばっかりしてたんだよ。恋なんてしてる暇があったら単語をいくつも覚えられちゃう。そんな感じ。男っ気は全然無かったよ」

「そうか。進学校だとそうなんだろうな。じゃあ、俺と付き合うのが初めてか?」

「そうなるね」

「だから男に対して臆病なんだな。よし、俺が徐々に鍛え直してやる」

「何? 何を鍛えるって?」

「まずは、俺に対して素直になれ」

「素直になれることとなれないことがあるじゃん」

「そういう頭で考え過ぎるところだよ。先走ってあれこれ考えず、もっと素直に俺の気持ちを受け取ってくれ。俺もおまえの気持ちに最大限寄り添うから」

「‥‥うん。わかった」

 彼にきつく見つめられて、いつもならはぐらかして笑い出してしまえるのに、その時は彼の本気を感じて茶化せなかった。何かが変わり始めている。不安でもあったけれど、心の底ではそれを望んでいたのだというような気もしていた。

ぬかるみに足を取られて滑りそうになる。彼はさりげなく私の手を取り、

「きれいな雪のところを歩けよ」

と言った。

 狭山湖では差し伸ばしてくれる彼の暖かく大きな手を何度強く握ったことだろう。そばを歩いている彼はまだ距離をあけていてくれる。でももしこの距離がどんどん無くなっていったなら‥‥。新しい不安が胸をざわつかせていることを彼に気付かせずに、私はいつも通りに微笑みながら、彼の隣を歩いていた。

「徒然草にあったよね。下品な人は雪に中に入って喜ぶが、上品な人は家の中で見るだけで満足するっていうの。『花は盛りに、月はくまなきをのみ見るものかは』っていう章で」

「そういえばあったな。あと花の匂いをくんくん嗅いで、枝を折ったりする奴のことも」

「ああ、そうだったね」

「俺なんか、枝、二、三本折っちゃったぜ」

「あ、下品なんだ」

「どうせ下品だよ」

彼はすねたようにした唇を突き出した。

 私のアルバイトの時間が迫ってきたので、上石神井まで送ってもらった。別れ際、彼はコートのポケットから小さな紙袋を取り出して、照れくさそうに、

「これ、使ってくれ」

と言って差し出した。

「え? 何?」

開けてみるとそれは美しい容器に入った白いハンドクリームだった。

「わあ、どうもありがとう」

「今日おまえ、誕生日だったよな。こんなもので悪いけど、おまえ手ががさがさだったからよ」

彼は照れくさそうな笑顔で言う。

「アルバイトでしょっちゅう水使うからね。ありがとうね」

「うん。じゃあな。‥‥もうすぐ帰省するんだろう?」

「うん。あさってあたり」

「‥‥あさってか‥‥。ちょっとでも時間できたらまた電話するよ。もう一度会えたら会おう」

「うん。わかった」

「じゃ、また」

 車に乗り込んで彼は去っていった。取り残されると胸が痛くなる。この気持ち、置いて行かれる感じが、いつも切ない。

徒然草の『花は盛りに』の章には、こんな文章もある。

『よろづのことも、初め終はりこそをかしけれ。

男・女の情けも、ひとへにあひ見るをば言ふものかは。

あはでやみにし憂さを思ひ、あだなる契りをかこち、長き夜をひとり明かし、遠き雲居を思ひやり、浅茅が宿に昔をしのぶこそ、色好むとは言はめ』

 会わない時間をこそ大切に過ごさなければいけない。もの思う心、寂しさや憂いも気持ちを育てる元となるのだから。


 その日の歯科医院のアルバイトは、院長先生がゴルフに行ってしまっているので、患者さんを昨日のうちにセーブしたらしく、来院者が非常に少なかった。秀夫先生と診察室で二人きりになりたくなかったので、私は誰もいない待合室で棚に置いてある雑誌などを読んでいた。

 たいした仕事も無く、夕方帰る支度をしていたら、院長夫人が二階から降りて来た。

「おでん沢山作ったから、食べていかない?」

「あ、いいんですか?」

「ええ、主人はゴルフ行っちゃってるし‥‥秀夫も一緒に食べていくわね。これから何かご予定とかあるの?」

「いえ、無いです」

秀夫先生は眼鏡をはずし、白衣を脱ぎながら私を振り向いて、

「食べてけば?」

と言ってちょっと微笑んだ。

「じゃあ、ご馳走にならせていただきます」

 控え室の狭いテーブルの前に、秀夫先生と隣り合わせに座った。何か話しかけようかとも思ったのだけれどなんだか言葉が浮かばず、かしこまって座っていることしかできなかった。

院長夫人は、二階からおでんの入った大きな鍋と取り皿を持ってくると、

「どうぞ、ごゆっくり」

と言って、二階に引っ込んでしまった。

え、奥さん一緒に食べないの? 秀夫先生と二人きり? と思って落ち着かない気分になった。秀夫先生はゆっくりとお茶を飲んでいる。

「今日は患者さん少なかったですね」

「今日は父がいないからね。父が受け持っている患者さんには休んでもらったんだよ」

「そうですか。今日ぐらいなら楽ですが、やっぱり、混んでる時は大変ですか?」

「そうだね。時々どっと患者さんが来る時があって、その時は大変だね。僕はすごい低血圧なんだよ。上が100無いくらいなんだ。そのせいかいつもふらふらしていてね。病気じゃ無いんだけど、治療に差し支えるようだと困るし。混んだ日には診察終わると二階まで這いずっていくようにして上がって、しばらく寝ていかないとうちまで帰っていけないこともある」

「それは‥‥、つらいですね。やっぱり姿勢もきついし、細かい治療ってとても疲れるんでしょうね」

「うん。神経が疲れるね。でもこんなに疲れるわけが無いんだ。自分でも情けない」

 そういえば一度だけ秀夫先生が治療途中によろけるように控え室に入っていき、しばらく出てこなかった時があった。院長先生に促されて見に行くと、秀夫先生はソファーに突っ伏すように横になっていた。私が、恐る恐る「大丈夫ですか?」と声をかけたら、なんとか半身を起こしたが、なかなか立ち上がれない様子で真っ青な顔をしてうつむいていた。その時も後で聞いたら貧血を起こしていたということだった。

 秀夫先生が自分の体調に悩んでいたという事に初めて気づいた。いつもふらふらしているという感じは全然しないのに。むしろアウトドア派のスポーツマンだと思っていた。

 私ははんぺんを取ろうとしていた箸をちょっとお皿に置いて、思い切って言ってみた。

「私は貧血とかは大丈夫なんですが、胃腸が弱くって沢山食べられないんです。刺激の強いものとかも駄目だし、コーヒーもお酒も飲めません。いつも自分の体調のこと気にしていて、羽目を外すことができないです」

秀夫先生は真面目な目で私を見返した。

「そうなんだ。大学生だと飲み会とか結構あるんじゃないの? あんまり食べられないんじゃつまらないね」

「そうですね。もともとそういう集まりはあんまり行かないんですけど、この前クラスのコンパに出て、お酒は飲めなったんですが、雰囲気だけ楽しみました。普段真面目な人が酔っぱらうと別人みたくなって、面白かったです」

「そう。女の子でもお酒飲む子はすごく飲むよね」

「そうなんです。普段おしとやかで静かな人がウィスキーとかすごく飲んでおしゃべりになっていたりして。結構意外でした」

 私は取り皿に取ったはんぺんをつつきながら、先生はゆで卵をたべながら、二人で途切れがちにぼそぼそと会話をした。

「私の兄が先生と同じ年なんですけど、今、お見合いを沢山している最中なんです。なかなかいい人みつからなくて、ちょっと焦ってるみたいで。もう四、五回ぐらいお見合いしてます」

「そう」

先生はふふっとわずかに笑った。

「お兄さんに言っといて。男は焦らなくても大丈夫だからって」

「あ、はい。私も兄の結婚なんて想像したことも無くて」

「だけど、女の人は焦った方がいいかな。二十歳過ぎたら本当にすぐだからね。君は、何年生まれ?」

「三十四年です」

「三十四年‥‥するとまだ二十歳ぐらい?」

「あ、あの、実は今日が二十一歳の誕生日なんです」

秀夫先生は瞬間驚いたような顔になった。

「あ、そうなの。じゃ、おでんじゃなくてケーキの方がよかったね」

「いえ、そんな‥‥。おでん、おいしいです」

「そう? ははは」

 秀夫先生のそばにいるとぎこちなくなる。つまらないことを言ってはいけないと思うと萎縮してしまう。私がおしゃべりで気さくな女子大生を演じることができたなら、もっと雰囲気も違っていただろうに。

「そう。二十一、一番いい年頃だよね。いいな、羨ましいな。いろんなことをやってみた方がいいよ。就職しちゃうと何もできなくなっちゃうからね。結婚して子どもでも生まれたらもっと大変だろうしね」

「はい」

 秀夫先生は少し疲れたように目をこすった。青白く月のように輝く先生の額。先生はどんな女性と結婚するのだろう。やはりもの静かな大人っぽい人なんだろうか、それとも、先生を大笑いさせてくれそうな明るい愉快な人? 

 お鍋いっぱいのおでんはそうは減らず、お互いを深く知り合おうという場でもないので、ほどほどのところで私は先に失礼した。

 以前、坂口美子が、アタックしちゃえば、と言っていたが、もし私が桂木隆司と付き合っていなかったなら、もうちょっと深い会話に踏み込んでいたかもしれない。それでも秀夫先生と付き合うということは百パーセント無かっただろう。私の事を少しでも好きだと思っている男子の眼差しの色を、私は知っている。秀夫先生の私への眼差しにはそんな色はない。私はただのアルバイトの女子大生。それでいいと思った。


 帰省する前の日の午後、桂木と新江戸川公園で会って、話をしながら池の周りを散策した。話題はやはり狭山湖の冒険に終始した。あの一日は二人に忘れ難い強烈な思い出を残した。もう他の誰ともこんな経験できない、一生の語り草だよと言って笑い合った。

 夕方が近づき高田馬場駅まで楽しく笑い合いながら歩いていったが、駅で別れたくなくてそのまま新大久保駅まで歩いていくことにした。

 もう明日私は帰省する。桂木がどんどん口数が少なくなっていくのを感じた。桂木はコートのポケットに手をつっこんで黙って歩いていた。人通りの少ない線路沿いの通り。傍らには何かの大きな会社のビルがあって、よく刈り込まれたツツジの植え込みなどが続いていた。

 私は「寒いね。手が冷たいよ」と言いながら思い切って桂木のコートのポケットに片手を差し入れた。桂木は私がそんなことを初めてしたので、驚いたように私を見ると、すぐににこっとして私の手を強く握り締めた。私たちは強く手を握りしめ合いながら駅まで歩いた。 

 桂木に対して少し進歩した自分。友情から明らかにはみ出してゆく。どうしても恋になっていく道筋にいるのだとしたら、こんな風に少しずつでいいなら‥‥。でも友情のままの方が楽しい部分だけで付き合えるのかもしれない。笑い合うだけに留めて、相手を深く知りすぎない方が‥‥。そんな思いを心に描きながら、桂木と新大久保の駅まで歩いた。

 駅の前で名残惜しく私は彼のコートのポケットから手を引き抜いた。

「じゃあね。三月の終わりごろには戻ってくるよ」

「うん。できるだけ早く帰ってこい。気を付けて」

「また電話する。手紙も書くよ」

 桂木は沈んだ気持ちを奮い立たせるように笑顔を作って私に小さく手を振って、ゆっくり背中を向けた。そこから彼は新宿方面の山手線に乗り、私は逆方向の高田馬場に向かう山手線に乗った。

 翌日私は帰省した。春休みの前半二週間は東京で過ごし、残ったのはあとの三分の二、ほぼ一か月の休暇だった。春休みの間、しばらく彼とも会えない。帰省したい気持ちと、彼とずっと一緒にいたい気持ち、どちらが大きいのか、もう自分でも判断がつかなくなっていた。

 レポート書きなどの宿題も無く何の予定もない春休みの帰省は、いつも少し手持無沙汰になる。本を読んだり、犬の散歩をしたり、バスで宇都宮駅の向こう側にあるスケート場に何度か通ったりした。スケートは何度挑んでも全然滑れるようにならなくて、周りの手すりから離れられない。すぐに転んで変な筋肉痛になるばかりだ。

 少したってから桂木隆司に手紙を出した。



「お元気ですか? 三学期はいろいろなところに一緒に行けて本当に楽しかったです。極めつけは狭山湖一周ですね。あんな寂しい山道を迷い歩いて、後で考えるとすごく危険だったのだけれど、なんだか愉快な経験でした。私にとって線路を歩くのは台風の時に次いで二回目です。もうあんな経験は無いだろうと思います。あの一日の記憶を共有できるのは私たち二人だけ。一生忘れないでしょう。

 帰省前に、沼袋の百観音公園と駒込の六義園に行ってきました。百観音公園は普通の住宅地の路地にいきなりある感じで、石の観音様が公園内に百八十体もあります。六義園は有名なとても大きな公園です。日本庭園のような植栽や池の佇まいが美しかったです。いつか一緒に行きましょう。大きな公園は薄暗い木立の道が多く、女性一人で歩いているとなんとなく怖いので。

 家では暇なので本など読んで過ごしています。モーリアックの『愛の砂漠』『テレーズ、デスケイルゥ』、あとヘッセを読み返しています。『車輪の下』『知と愛』『シッダールタ』など。『車輪の下』はいつも読んでいてつらいです。私はヘルマン・ハイルナーのように気性が揺れやすく、ハンスのように過剰適応しようとしてしまうところがあり、本当に心のままに自由に生きれていないような気がして。

 一人でももっと強く生きられるようになることが、私の課題なのです。自分で自分を幸福にできなかったら、誰かを幸福にしてあげることなんかできないし、まして幸福にして欲しいなんてとても言えない。守る、守られるという関係性ではなく、一緒に守り合いたい。

 私は狭山湖を歩いていて、あなたと並走できるような人間になりたいと思っていました。あなたは、力を抜いてもっと身を委ねてこいというようなことを言う。私はどうしたらいいのでしょう。とりあえず今は、一人でも生きられるような人間になる、強くなる、という努力目標は捨てずにいようと思います。

アルバイト頑張ってください。ではまた」



「この間訪れた三宝寺池は割とよかったじゃないか。冬枯れの池端の散歩は実に快いものだった。思い返すと随分いろいろなところに行ったね。狭山湖一周も楽しかった。思うに、ああいう経験はこれからだってめったに無いぜ。おまえにとっては少しばかり冒険的試みであったかもしれないが、しかし今になって振り返ってみれば、そういった緊張感がいい思い出になっているんじゃないか?

 こちらは毎日バイトで変化に富んだ生活を送っている。夜勤に関するエピソードはいずれ後で話すとして、二月中の出来事について少し。十九日‥雪の砧公園で作業。二十~二十二日‥夜勤。二十四日‥神保町の喫茶店の掃除。二十六日‥発熱・ダウン。二十八日‥雪のため作業できず喜ぶ、がしかし車をガードレールにぶつけ、テールライト、バンパー、ドア、破損す。二十九日~‥四夜連続で夜勤。


 以前俺は『一人でも十分生きていける』式の考えを持ち、他人より数段上にいるつもりだった。『人は誰も一人では生きていけない』なんてちゃんちゃらおかしいと思っていた。が、数年前から、どうやらその言葉は本当らしいと思うようになった。何故そんな簡単なことがもっと前に分からなかったのかと自分に腹を立てたものだ。そしてそういった事が分かった時、自分の性格がいかに卑小で稚拙であるか、それがこれからの人生においてどんなに頼りないものであるかを知り絶望したのだった。

 おまえの考えもわかるが、だが一人でも生きていけるなんて思わない方がいい。

 本を読むのもいいが、何かしろよ。でないと流されちまうぞ。では、風邪など引かぬよう。」



「風邪は大丈夫でしたか。こんなに寒いのに夜勤などがあるアルバイトなのですね。夜勤、と聞いただけで尻ごみしてしまう人が多いのに、敢えてそんなバイトを選ぶなんてすごいことだと思います。

 私は帰省すると東京で張り続けていた緊張が切れてしまうせいか、かえって体調が悪くなるのです。食欲もなくなるし、頭痛もひどくなったりで気持ちが塞ぎます。そんなところなのです。私の駄目なところは。

 そういう時は裏手の野球場の周りを少し走ったりします。ポケットに文庫本の「月山」を忍ばせていって、ベンチで読んだり。『月山』は哲学的な作品だと思います。暗く厳しい雪深い村の生活、幽玄な月山。「たとえ這い上がっても飛び立って行くところがないために、這い上がろうとしない自分」、それはまさしく私の姿だなとも思いました。『月山』は物語的にはあまり面白くはありませんね。なにしろ何も起こらないのですら。


 私はこの二年間の下宿生活で、孤独がいかにつらいものであるかを知りました。事実、完全に孤独に押しつぶされて一人で苦しんでいた時もあったのです。本当に誰かの助けが欲しくて‥‥。

 知り合ってからのあなたの存在はどんなに私の救いになっていたことか。でも頼り切って甘えていたくはないのです。あなたの負担になるような人間にはなりたくない。あなたに寄りかかって、人生の責任まであなたに転嫁するようになってしまったら自分がみじめです。

 だからまずは、孤独に打ち負かされないような自分になりたい。そのためにはしっかりした生きる目標をもちたい。誰からも自立して一人でも生きられるように。男性から見たら、可愛くない女、なのかもしれませんが。

そんなことを、ここ数日考えていました。

アルバイト、夜などは気を付けてください。ではまた」



「四日間の約束の夜勤が一週間になり、十日になり、ついに二週間になってしまった。雪や雨の降る晩もあったが、やはりつらいのは六日間連続で作業をした時だった。AM二時以降の寒さなんて想像つかないだろう。友だちは胃の調子を悪くしてダウンした。真夜中にマンホールなんかにもぐっていると、随分惨めな気持ちになるぜ。狭い横管に何十メートルも入っていくと、胸が詰まる思いがする。そこにはねずみの他、蛙や鰻もいるのだ。一緒にやっている連中がいい奴ばかりだから、その分救われているが。夜の貨物操作場風景や、川崎港、石油化学工場の煙突から立ち上る火柱などには、感動させられた。

 今まで夜勤で手紙を書く程の心の余裕が持てず、今日になってやっとこれを書いている。今日は埼玉県の東村山にある大東文化大学まで行ってきた。やはり昼勤がいいね。明日は久し振りの休みなので、映画でも見に行こうと思っている。


 おまえの孤独癖については全くよく分かるよ(特に俺には)。がしかし、いつまでそうやっていくつもりだい? 絶対に続かないと思うね。おまえはまだ奢り高ぶっているところが十分あるね。はっきり言ってそう感じる。こんなことを言ったらおまえは怒るだろう。でも俺は思った通りを言ったまでだ。ご機嫌取りじゃ長い付き合いは出来ないものな。負担になるかどうかなんて先回りして考えるな。思っていることは俺にどんどん言えよ。


 こちらへはいつ出て来る予定だい? 俺は三月二十二日までバイトをする。二十七、八日は成績発表だな。単位落としてなければいいが。とにかく出てきたらTELしてくれ。再会(?)を楽しみにしている」



 こんな私でも長く付き合ってくれるようとしてくれている。私の心に一歩踏み込んで諭そうとまでしてくれる。彼の気持ちに応えるには私はどうしたらいいのだろう。ますます彼の負担になりたくないという思いが募る。

 故郷の雪は濃く激しい。それでも犬は散歩に行きたがった。外に出るとまるで吹雪のように視界一面が白い。暗い森を背景にして振り募る雪を見ていると、心が苛立ってくる。スノーノイズ。雪の只中で私は自分の居場所を見失って真っ白に染められながら佇んでいた。

 ここでいくら叫んでも桂木隆司は駆けつけてはこられない。一人では生きてはいけないけれど、一人で生きなければならない時間が膨大にありすぎる。数年前まではそんなことに苦しみはしなかった。この心もとなさは何だろう。

 ある夕方、犬と散歩の途中、どうしても彼の声が聞きたくなって、西宮団地の手前の電話ボックスから神奈川の彼の自宅に電話をかけた。しかし彼はおらず、彼の中学生の弟さんが電話口に出た。彼の声とよく似た低い少しぶっきらぼうな少年の声。私ははっと息をのみ、また後でお電話します、と言って電話を切った。胸はますます苦しくかきむしられるように痛んだ。心が、彼との距離を飛び越えていけない。私はしばらく電話ボックスの中で唇を噛み締めていた。


 その年の早稲田大学の入試で、商学部の入試問題が漏洩した事件が、テレビで連日のように流されていた。新学期もおそらくこの話題で持ち切りだろう。早稲田生ということを特に意識していたわけでもなかったが、やはりそれは母校の恥と感じて、愉快な気持ちはしなかった。

 三月も終わりに近づくと、上京の意思を自らに問わずにはいられない。ふらっと遊びに行くように軽い気持ちで東北線に乗り込むことなど到底できなくなっているのだった。


 三月の終わりには成績発表がある。新学期には少し早いが上京した。上石神井駅に降り立つと、改札口のすぐ上に取り付けられている天気予報の電光掲示板に、傘のマークが入っているのが瞬間目に入った。今日は雨が降るのか。そう言えば既に曇天だ。

 改札を出て人の波に沿ってそのまま西友ストアの二階に吸い込まれていくと、春らしい軽い色合いの洋服を着たマネキンが立っていた。東京は宇都宮に比べると随分暖かい。まだ吐く息が白いような日もある宇都宮から三時間あまり。ぼやけた暖かさの中に投げ込まれて、体中の皮膚がとまどっている。町を見渡せばもう桜の花も咲いているし、白木蓮も満開だった。

 下宿に着いて荷物を整理するとすぐに歯科医院に電話をし、そのままアルバイトに向かった。長距離電車に乗り続けて疲れてはいたが、下宿で一人で夕暮れを迎えるよりは、知っている人の気配の中に身を置いていたかったのだ。桂木隆司にはやはり電話できなかった。今すぐ会いたい、と無理を言ってしまいそうで。会ったところで、弱々しく落ち込んでいる姿を見せてしまうだけだ。

 再び西武線の上り電車に乗り込み、さっき通り過ぎたばかりの都立家政で降りた。昼間はあまり目立たない『家政銀座』の赤い提灯がいやに乾いた色でぶら下がっている。商店街をずっと先まで彩る赤い提灯。真っ暗になってしまったアルバイトの帰りには、明かりの入った提灯をいつも見上げてしまう。

 歯科医院の玄関のドアを開け、スリッパを履いていると、私が今日から来るとは知らなかった秀夫先生が診察室から顔を出し、あっ、と声をあげて大袈裟に驚いた。

「もう、帰ってきたの?」

「まだ新学期には早いんですが。‥‥またよろしくお願いします」

「あ、こちらこそよろしく。一時すごく暇だったんだけど、また患者さん増えてきてるから、ちょっと忙しいよ」

「はい」

 きれいにクリーニングされた薄い水色の白衣を着ると気持ちまで清潔になる。もうここでアルバイトを始めて半年近くなる。仕事も随分慣れてきた。受付の席で患者名を書くノートに線を引きながら、この場所を得ることができて私は幸運だったと考えていた。

 ノートをめくってみると、前の週は一日に二十人くらいしか患者が来ない日もあった。ここ数日で徐々に増えてきているようだ。混んでいてくれた方が私は嬉しい。何でもいいから仕事がしたかった。孤独を忘れたい。心の中で結滞している時間を流して行きたい。

 すぐそばで治療している秀夫先生の冷たく澄んだ切れ長の瞳に囚われそうな一瞬の心の隙さえ無いほどに。カルテ探しや器具の消毒に追われていなければ、ここにいてさえも危険な想念に心が挫けそうになる。

 夜、やっと桂木隆司に電話をした。

「今日帰ってきたの。明日あたり成績表もらいにいく予定なんだ」

「そうか。俺も近いうちに取りに行くよ。落としてる科目があったらまずいな」

「なんか怖いね。成績表って実家にも送られるじゃん。成績が親にもバレバレってプレッシャーだよね」

「中高生じゃあるまいし成績悪くても怒られるとかは無いだろうけどな。単位落とさなきゃいいよ」

「そうだよね」

「新学期始まる前に会わないか? プラネタリウムが改装終わったから、一緒に行こう」

「うん。わかった」

 また彼との新しい季節が始まる。狭山湖のことがあって以来、少し距離が縮まったように感じる。まだ友だち、と思いたがっているのは私だけだろうか。彼は?


 翌日、大学まで成績表をもらいに出かけた。しばらくぶりの高田馬場はいつもながらの賑わいだ。靴磨きのおばあさんが一人、キオスクの外壁沿いに手持無沙汰に座り込んでいる。頬かむりをしたその姿は、そこだけ冬が居座っているかのようだ。

 BIG・BOX前の催し場では植木市をやっていて、鉢植えのパンジーが春の色彩をあたりに撒き散らしている。人々は思い思いに立ち止まって花を見ているが、買っていく人は稀だ。

 戸塚小学校の塀沿いに植えられた沈丁花は今が満開で、あたりに強い芳香を放っている。

東京で売り物でない花の匂いを感じるのは、私には、恐らくここだけだ。つつましく咲いていたとしても、東京の花はほとんど排気ガスの匂いに打ち負かされ存在感が無い。そして悲しいことに、故郷の透明な空気にいくらかでも洗われた肺も、すぐに光化学スモッグや、不純物の入り混じった都会の濁った空気に汚れていってしまうのだ。

 高田馬場の商店街の歩道を彩るピンク色の吊り飾りに目をやりながら、私は大学までの歩き慣れた道をゆっくりと歩いていった。まだ新学期には間があるので、大学近くの飲食店は入るお客もほとんどなく、寂し気に暖簾を揺らしているばかりである。穴八幡神社の樹木も寒そうに裸をさらしているが、もうすぐ新しい緑を纏いはじめるだろう。文学部の門のあたりに植えられている桜の木もあと数日もしたら満開になる。

 文学部の構内は、やはり成績表を取りに来たらしい者たちが三々五々している。スロープを上りきるとすぐ左手に大学入試の合格者の番号が細かく書き込まれている大きな紙が張りだされているのが見えた。まだ覚えている。二年前の私の受験番号は六十二番だった。今年の六十二番は無かった。その人の運命がどうなったにせよ、落ちたことは最悪の不幸ではない。早稲田に入ったからといって、それ自体が幸福につながるとは誰も言えないように。

 文学部の掲示板の前で、心理学専攻の寺井雄二と畑中正則に会った。

「やあ」

「あ、こんにちは」

「昨日帰ってきたんだ」

「私も。成績表、もうもらった?」

「うん」

畑中正則は悲しいような顔をして肩をすくめた。

「思っていたよりずっと悪かったよ。がっかりだよ。これからもっと勉強しなくちゃ」

彼は片手に持っていた分厚い『心理学大辞典』を振りかざしてみせた。

「もう定期は買った? 何か月?」

と寺井雄二が聞いてきた。

「うん。三か月」

「あ、やっぱりな」

「じゃあ、私、成績表もらってくるから、また授業始まったらね」

私が掲示板の前を離れようとすると、畑中正則があわてて鞄の中を探り、

「待って。これあげる」

と言って、小さな饅頭を二つ私に手渡した。

「これ、かるかん饅頭って言って、九州では有名なおみやげなんだ。外側の白いやつが山芋でできてるの。よかったら、どうぞ」

「わあ、どうもありがとう」

 畑中と寺井が笑いながら生協の書店に向かったのを見送りながら、私は饅頭をつぶれないように鞄に入れて、153教室に行った。そこで成績表は配られていた。

 成績は、そんなに悪くは無かった。落とした科目も無い。取得しやすい科目ばかり取ったのだから、それは当たり前だろう。ドイツ語の文法と、イギリス文学史の『C』も予想はついていた。ほっとして文学部を離れ、本部の方に歩いていった。本部の生協書店で、民法に関する本を買うつもりだった。

 本部の正門のあたりに、テレビ局の人たちがハンディカメラを持ってうろついていた。入試漏洩事件についての取材をしているのだ。彼らは大隈講堂や本部校舎、道行く早大生を撮っていた。もしインタビューされたらどう答えようかと考えながら、彼らの前を足早に通り過ぎた。漏洩事件についてはあまり多くの情報を得てはいなかったが、事務局の人が関わっていたらしく、取り調べの済んだある日、関係者が自殺したというニュースが流れた。本部校舎からの飛び降りだった。

 漏洩事件よりも、死者が出た時の方が衝撃だった。「あの校舎から‥‥」と学生たちが指を差して立ち止まる。どんな理由であれ、自殺に至る心的状況のその入り口は、私の知るところのものである。まるで私自身が飛び降りたような取り返しのつかない切迫した心理に圧倒されて、私は自殺者の出た校舎をしばらくの間、まともに見ることが出来なかった。

 本部はまだ歩いている学生も少なかったが、その中でも、歎異抄研究会の部員たちがいやに目立った。もう勧誘を始めているらしく書類を片手に手当たり次第に学生に声をかけている。知っている部員に捕まらないように、私は道を変えた。そうしながらも知らず知らずのうちに、吉川清彦の姿を探してしまう。もう完全に決裂してしまった関係は修復のしようもなく、友人となる可能性さえなくして、見知らぬ学生たちよりも彼の存在は遠い。もう会いたいとは思わなかったが、せめてわだかまりの無い形で別れたかった。

 新入生たちの何名かは、彼らの振りかざす『絶対の幸福』の深みにはまることになるのだろう。それがその人にとっていいとも悪いとも私には言えない。いたずらに人生に悩んで死の淵に誘われるくらいなら、幸福そのものを追求するサークルに入り、一種特別な連帯に身を置いていた方が賢明だろう。決して他が評するような悪いサークルではなかった。吉川清彦に関する一切が無かったなら、私もこれほどまで歎異抄研究会を避けずに済んだかもしれない。


 新学期を前にして、桂木隆司と待ち合わせをして去年行けなかったプラネタリウムに行くことにした。プラネタリウムは小田急線向ヶ丘遊園駅の先の生田緑地の中にある。銀色のドーム型の建物は思ったほどには大きくはなかった。まだ春休みなので館内は小学生たちで一杯だった。私たちは後ろの方の席に座った。

「この椅子、背もたれが後ろに倒れるんだぜ」

彼はそう言って、自分で先に横になった。

「おまえも寝てみろよ」

「ふうん。ほんとだ。ぽよんぽよんする」

しかし、たとえプラネタリウムの中であっても。彼のそばに横になっていることが急に恥ずかしく思えて、私は慌てて起き上がった。

「最初怖いぜ。真っ暗になって星が一面に出てくるんだ」

彼は天井を見上げたままそう言って黙りこんだ。

 まだ天井には明かりがついていて、小学生たちはざわざわと騒いでいた。半球状の館内の中央には黒っぽい投影機が設置されていた。球状の機械にはピンホールのような細かい穴が開いている。その機械を取り囲むように椅子は配置されていた。

「私、プラネタリウム初めてなんだ。なんだかドキドキするよ」

「結構感動するぜ。この辺じゃ星なんかあんまり見えないからな」

 彼は横になったまま足を組んで、口数少なく開演時間を待っていた。その静かな姿はそのまま眠ってしまうのではないかとさえ思われた。

 そのうちブザーが鳴り、女性の声で注意があって急に天井の照明が消された。

 町の明かりを反映した薄明るい夜空から、徐々に本当の闇になっていく。それと共に夥しい細かな星が浮かび上がってきた。美しいけれど何か圧迫される。暗闇はひどく苦手だ。こんな人工的なものでさえもだ。非常灯の緑の明かりの方に視線を向けて波立つ心を落ち着かせようとした。怖がって泣き出した幼児の声が館内に響いている。

 アルクトゥルス、スピカ‥闇の中で星座の説明が始まった。彼が私の方に身を傾けて、

「目が慣れないうちは怖いだろう」

と囁いた。私のいつもより幾分早い呼吸を感じたのだろうか。

「うん。ちょっと怖い。でもだんだん慣れてきた」

 プラネタリウムの外は雨の降り出しそうな曇天だったけれどまだ真昼なのだということを自分に言い聞かせて、闇の中に光の手がかりを探していた。

 変転する星座に神々の神話が重ねられる。昔、私が小学生だった頃、夜空には北斗七星、オリオン、カシオペアがはっきりと見えた。それだけは私にも判別できた。星座の名前は分からなくても星の数を百個近く数えることもできた。しかし今はもう星があまり見えない。北斗七星を見つけるのさえやっとだ。それは弱まった視力のせいだろうか。それとも濁った夜空のせいだろうか。

 欠けていく月食を観察した夜も、深夜、流星群を待ちわびた夜も、眩しいほどの月の明かりを浴びた夜も、今はもう私の内でその意味を変え、もっと不可思議で、もっと計り知れない、『畏怖』に近いものになっている。

 星座はやがて北極の空へと移り、オーロラや氷山を映し出した。流麗な極北のショーを私は息を飲んで見上げた。ゆらめく虹色のカーテン。いかなる神秘の手がその美を形作ったのだろう。人間がどんなに技術を駆使しても、自然が何気なく行う奇跡を超えることはできない。宇宙の創世記に神々が見た風景。混沌と荒涼と静寂の中から生まれた永遠の翼が、私の頬を打つかのように思われた。

ふと気が付くと彼がプラネタリウムの天井から私の顔に視線を移していた。

私が「なに?」と聞くと、彼は私から視線を外さずに囁いた。

「おまえのことずっと見てた」

「えっ?」

「おまえの息遣いが分かる」

「なにそれ。変なの」

 私はわざとふふっと笑い、何も気にしていない風に答えたが、いつもと違った色の彼の意識が私に向って強く注がれてくるのをはっきりと感じていた。こんなに暗い闇の中で、彼が私の呼吸を感じるほどに深く私を見つめていたということに私は動揺していた。

 東の空が明るくなり、白い太陽が顔を出すとプラネタリウムの上映も終わりだ。夜明けにいつまでも残っている星が金星であることが説明され、私が、

「夜明けの金星、見たことあるよ」

と言うと、彼は少し笑ってやっと私から視線を外した。

 場内の明かりがつけられ、子どもたちが大声で騒ぎながら出口の方へと流れていく。子どもたちがすっかり出て行ってしまった後に、私たちもゆっくりと立ち上がりドアを押して外へ出た。自然光が眩しい。プラネタリウムの外はいつのまにか雨が降り出していた。

出口のところで雨の量を目で計ったが、結構濡れそうな密度の高い雨だった。

「俺、折り畳み傘一本持ってるから」

そう言って彼は鞄から傘を取り出すと私の上にかざした。

「入れよ」

「うん」

 一つの傘に入ると距離を保てなくなる。去年、西城研二が私の傘に入って来た時もそうだった。私と桂木はいつも男同士の友人のように離れ合っていたから、一つの傘に入って腕や肩を触れ合わせながら歩くことに何か違和感があった。

 プラネタリウムの裏手から菖蒲園に続く石の階段を降りながら私たちはさっき見た星々の事を言葉少なに語り合った。暗闇は怖かったけれど、私は結構感動したのだ。

「普段でもあんなに沢山星が見えたらすごいだろうね」

と私が言うと、彼は、

「そうだな。空気が綺麗な山とか行ったら見れるのかもよ」

と言って微笑んだ。

「プラネタリウムに連れて来てくれてありがとう」

彼はうなづき、

「また来ような」

と言った。

 触れ合う肩が気になる。何故だか二人ともいつもの冗談も出なかった。雨が傘を叩くかすかな音がしていた。濁った小さな池に白い鯉が顔を出す。汚れたベンチのある藤棚の下で彼はふと立ち止まった。

「こっち来ないと濡れるぞ」

彼は低くそう言うと、そっと私の肩を抱き寄せた。

 その瞬間私は悟った。もう友だちとしての猶予期間は終わったのだと。手を握り合うぐらいでは済まない恋人の領域に彼は私を誘っている。

 彼に肩を抱かれるのは決して不快ではなく、むしろ胸がときめくような出来事。しかし、私はすぐには鎧を外せなかったのだ。身をよじって彼の腕を避けるようにしてしまった。

「いやなのか?」

彼が私の顔を覗き込むようにして尋ねた。

「‥‥うん」

「ほんとに?」

「‥うん」

「そう、か」

彼はゆっくりと腕を下ろした。

「じゃあ、腕組もう。ほら」

彼が左腕をかぎ型に曲げたので、私は恐る恐る右手で掴んだ。

「ぎこちないなあ」

彼は少し笑った。

そのまま菖蒲園まで下りていった。雨が水たまりのようになって沼地で光っている。雨の波紋が丸く重なり合って、滲んでいくのが見えた。

「俺、以前おまえのこと性的なものを感じさせない女の子だなって言ったことあったけど、やっぱり、おまえ女だよ。俺の中では女なんだよ。まだ触ったりするの嫌か?」

彼の真剣な目に気圧されて私は目を伏せた。

「‥‥どうしたの? ずっと友だちのままでいようって言ってたじゃない」

「‥友だち‥確かにおまえはつい最近まで俺の親友だった。だけどもう違う。友だちじゃない」

「‥‥もう前みたいには戻れないの?」

「俺は‥‥戻れない。友だちのままなら卒業の時も笑っておまえと別れられると思っていた。でももう駄目なんだ。友だちには戻れない。俺にだってどうしたらいいか分からなくて、春休み中、ずっとそのことを考えていた」

「そんなこと急に言われても‥‥私はどうしたらいい?」

彼は少し黙り込み、ためらった後にはっきりと言った

「‥‥おまえを抱きたいんだ」

彼の左腕に絡んでいる私の腕は冷たく、意思を失くしていた。私は息が止まり身動きもできなかった。

「おい、こっち向いてみろよ。‥‥あ、泣いてるのかと思った」

 彼は心配そうに私の顔を覗き込むと、もうその話題に触れなかった。

雨の音だけが単調に響く。あたりの木々の芽吹きさえ感じとれずに、新しい囚われの中に、二人いつまでも立ちつくしていた。





























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