top of page
検索
  • kaburagi2

第16章 大学3年 4月・恋

更新日:2023年10月16日


 四月一日には入学式があり、その一週間後には科目登録説明会があった。三年からは本格的に専攻に分かれることになる。英文科の演習と研究の授業が増え、語学の授業が減る。英文を専攻した者は第二外国語はドイツ語を取らなくてはならない。他の専攻のほとんどの者は英語を取るのであろうから、実質、英文科専攻以外のO組の人たちとの縁は切れた形になる。

 181教室で一応科目登録の説明を聞いたが、渡されたプリントの誤りの訂正に終始し、たいして実が無かった。説明会の後、他学部聴講に関する掲示を調べてみようと思い、本部8号館の法学部に行った。

 本部キャンパスを歩いていると、サークル勧誘の学生たちが次々と、

「新入生の方ですか?」

と声をかけてくる。私が、いいえ、と言うと、さっと散っていってしまうのがちょっと寂しい。

 三年生を受け入れてくれるサークルなんてもうどこにも無いだろう。普通の和気あいあいとしたサークル活動をあまり経験できなかったことが少し心残りだ。歎異抄研究会にたとえ数ヶ月でも所属し、決して楽しいものでは無かったにせよ、他にはない濃い経験ができただけでもよしとするしかないだろう。あれは、ふざけたサークルの四年分にも匹敵する経験だった。

 まだ授業は始まってはいなかったが、新入生らしい姿もかなり見受けられる。四月はほとんどの学生が真面目に大学に出てくるから、しばらくは構内も行き交う学生で賑やかになる。それは毎年の春の光景だ。サークルの勧誘合戦もこれからが正念場だ。新入生たちは渡されたサークル案内のちらしの束を一枚一枚読んではゴミ箱に捨てていく。コンクリートの路面の上を、受け取られなかったちらしが何枚も風に押し流されていった。

 本部でももう桜の花が大分咲き始めている。去年、私はどんな思いでこの桜を見上げたことだろう。胃の痛みと吐き気に苦しみながら、街灯に照らされた桜の下を虚ろな足取りで茫然と歩いていた。誰も頼れる人がいなくて、花を見ても美しいと思える心さえ失くして、それでも生きていかなくてはならない自分自身をもてあましていた。

 あれから、死を乗り越えいくつかの出会いと別れを経験して、私はいくらかは強くなったのだろうか。命の期限を夏までと決める癖もいつのまにか消えていった。冬、蒼ざめていた太陽が、今、木々を芯から温める力を得て、凍り付いていたものを柔らかく溶かしていこうとしている。私はやっと春の美しさを心から感じられるようになっていた。

 それはたぶん桂木隆司のおかげだ。去年、彼に声を掛けられ、一緒に歩き出したころから、私はどんどん健康を取り戻していったのだ。今、彼とは『恋愛』という新しい局面を迎えこの先どのように付き合っていくか一旦保留のような形になっていた。なだれるように男女の関係に踏み込んでいくかどうか、私の気持ち一つにかかっていた。そして私はまだちゃんとした覚悟ができないでいた。


 法職課程入会の要綱をもらうために、法職事務所に寄った。今年は司法書士の試験を本気で受けてみようと思っていた。しかし基礎知識が無いので法律書を読んでいても用語の読み方すら分からない。出来るなら法学部の新入生向けの授業を聴講したかったが、一人でいきなり他学部に割り込むのは気後れがしていた。とにかく法学部の講義一覧が欲しい。こんな時サークルに所属していれば、法学部の人から情報を得ることも出来ただろうにと思う。

 法職事務所でもらった書類に目を通しながら歩いていくと、大隈侯銅像を取り囲む丈の低い垣根の反対側で、小峰と吉川清彦が立ったまま何かを話してるのが遠目に見えた。どこかで出会ってしまうだろうとは思っていた。普段は忘れていてもその姿を目の当たりにすると記憶の封印が破れてずきずきと痛みだす。私は一瞬どうしようか迷った。逃げ出そうか、このまま真っ直ぐ進もうか。私は歩みの方向を変えずに決定した。逃げる理由なんか無い。私は自分の信念を通したまでだ。

 大隈侯銅像に近づくとすぐに小峰たちも私に気付いた。小峰が吉川清彦に何かを促す仕草をして、吉川清彦が迷うように私を見ている。銀縁の眼鏡の中で彼の目はいまにも私を引き止めそうにたゆたった。どうか、声は掛けないで! 私は立ち止まらずに彼らの前を通り過ぎながら軽く会釈をした。彼らも慌ててにこっとして会釈を返した。それだけで済んだことにほっとした。私は走るように本部の正門を出た。

 吉川清彦は相変わらず色が白くて、背が高く、全体の佇まいがどこか一般の学生とは違った印象を与える。いつもきちんと真っ白なワイシャツを着ているせいだろうか。ひどく落ち着いた目の色は、確かに悟りを開いた人の目のようにも思えた。小峰は昨年の早稲田祭の時の語り合いを彼にどう話しただろう。今はただ、私に関わった吉川清彦の少なからぬ時間を全く無駄にしてしまったことを、申し訳なく思うばかりだ。


 科目登録説明会が済んで三日後には授業が始まったが、最初の講義に現れた教授は教科書の指定と自己紹介ぐらいですぐに帰ってしまった。一般教養は何にしようかとまだ決めかねて、日本演劇史と文化人類学の教室を覗いてみたが休講だった。時間割もちゃんと決まっていないうちは、自分の所属すべき場所も無く、手持無沙汰に大学内を彷徨うことになる。

 大学にいる間中、桂木隆司を探したが、やはり会えなかった。彼は美術史専攻だ。専攻が違ってしまうと授業の時間割も全く違ってしまい偶然に会う可能性はほとんど無い。

 社会学を専攻した坂口美子とも、新学期に入ってから一度も会っていなかった。彼女の寮に何度も電話したが、取り次ぎの管理人の男性が、ぶっきらぼうに、

「坂口さんはまだ帰っておりません」

と言うばかりで、彼女の所在が全くつかめなかった。新しい恋に忙しいのかもしれない。私も桂木隆司とのことを相談したかったのだが。


 夜、桂木隆司に電話をした。

「もしもし、小島です。こんばんは」

「よお!」

「今日、大学行った?」

「行ったよ。今日さ、馬場で会ったんだぞ」

「ええーっ! いつ?」

「大学と駅の中間あたりだよ。俺、ずっと気付いていたんだけど、呼びかけようと思っても、そばに兼子がいるし、おまえもスタスタ歩いて行っちゃうからさあ」

 彼とニアミスしていたのか。私は高田馬場の商店街付近の喧騒に時々目眩しそうになるので、ただ斜め前だけを見て早歩きしていることが多かったのだ。

「そうだったんだあ。全然気が付かなかった。今日、大学でずっと探してたんだよー」

「俺も探したけど、会えなかったな」

「そっかー。うん。残念」

「兼子がさあ、俺たちの事知ってたぞ。雰囲気で分かるって」

「雰囲気? クラスにいる時は挨拶ぐらいしかしてないのに?」

「そうだよなあ。隠しちゃいないが、おおっぴらでも無いのになあ」

「うん。雰囲気かあ。そんなのあるかなあ?」

「ねえよなあ。ははは」

「色に出にけり我が恋は‥なんちゃって」

「ははは。なんか、気持ちわりいよ。それで兼子がさあ、」

そう言いかけて彼はちょっとためらった。一呼吸の間をおいて、

「‥女の裸なんて見慣れてるんだろう? とか聞いてきたんだ。ドキッとしたぜ」

と言った。

「うわ、そんなことを‥‥」

「俺、正直言って女の裸なんて一度も見たこと無いからな。日活の映画とかエロ雑誌は別としてさ」

そう彼は急いで言った。

 それを聞いて私はなんだか気まずかったが、彼にしても女性と深く付き合うのは私が初めてなのだということを知って少し嬉しかった。桂木はまっさらな気持ちで初めて私を求めてきたのだ。その思いにちゃんと応じてあげられていないことが申し訳ないと思った。

「そっか。それは何と言ったらいいのか‥‥なんかごめん」

「まあ、おまえが嫌がることは俺はしない。だけど俺の気持ちは知っといてほしいんだ」

「うん。いろいろと考えてる。もうちょっと待って」

「うん。わかってるよ。それから、兼子が新しいテレビ買ったから、古い白黒テレビいらなくなったんだって。おまえ、テレビ欲しがってたよな。俺、一応、白黒テレビもらっといてやったんだけど、欲しい?」

「欲しい、欲しい」

「じゃあ、今度の土曜、車で運んでやるよ。

「ありがとう。じゃあ、また電話するね」

 彼がプラネタリウムの帰り、抱きたいと言ったことが頭にこびりついて離れなかった。会わずにはいられない。いつも一緒にいたい。しかし会えば彼の気持ちに圧倒されて逃げたくなる。素直に彼の腕の中に飛び込めない。どうしようもない思いに胸が一杯になる。


 翌日もやはり休講ばかりだった。アルバイトまでの中途半端な空き時間ができてしまった。映画でも見て時間をつぶそうと早稲田松竹の方に歩いていったら、偶然向こうから大学に向って歩いて来る坂口美子に出会った。

「わあ、久し振り。専攻違っちゃうと全然会えないね」

「本当ね。まだちゃんと授業始まってないしね」

「うん。私なんか今日出ようと思ってた講義が全部休講だったから、もう映画でも見て帰ろうとしてたとこなの」

「そうなのかあ。じゃあ、私も行っても無駄かな?」

彼女はこれから行こうとしている大学の方を見て肩をすくめた。

「その後、桂木くんとはどう?」

「うーん。ちょっと難しい局面を迎えてるかな」

「そう? 理屈ばっかりこねてないで素直に気持ちをぶつけてみたら?」

「うん。ただじゃれあって楽しいばっかりだった時間が変化してきてしまって、もう友だちのままじゃいられないみたい‥‥、どうしたらいいか分かんなくなっちゃってるんだ」

「なんだか去年の私みたい。私、上川さんと失敗してから考え変えたの。今度ゆっくりお話しない? 何かアドバイスしてあげられるかもしれない。私の方も新しい局面迎えてるから」

そう言うと彼女は意味ありげに、微笑んだ。

「あ、もしかしてスキーに一緒に行った法学部の人?」

「うん。いろいろあってね。きっと小島さん話聞いてびっくりするんじゃないかな。‥‥今日は時間無いから、今度電話する」

「うん。そう言えばさあ、坂口さんの寮に何度か電話したんだけど、いつもいなくてさあ。何時に電話したら連絡つく?」

「そう‥‥ごめんね。このところ寮に帰ってないの」

「えー? 帰ってないって?」

「ちょっとここじゃあ話せないから、じゃあ、そのことについても今度お話するね。じゃあね。後で電話する」

「うん。じゃあ、また」

 肉体と精神、この二つのジレンマの間で揺れ動いていた坂口美子は、新しい恋でたぶん解決を見出だし、その先に進んだのだ。大学に向かう彼女を振り返る。オフホワイトのジャケットを身につけ、軽やかな水色のスカートをひらめかせながら歩く彼女は、もう少女の繭などとっくに脱ぎ棄てた大人の女性だった。そうか、乗り越えたんだね、と思いながら彼女を見送る。彼女が少し遠くなったような気がして、ちょっと寂しくなった

 早稲田松竹は、朝通りすがりに見た看板によると、今週の上映は寅さんの映画と、武田鉄矢の「幸福の黄色いハンカチ」だった。お笑い系の映画でよかった。アルバイトまでの数時間を映画を見て過ごそう。


 四月にしては生温かいような陽気で、歩いていると汗がにじんで来る。そう言えば、去年の今頃だった。吉川清彦と初めて学習院大学で出会ったのは。満開の桜の花が青空に映えてきれいだった。呼び止められて振り向いた自分。教科書や辞書のつまったショルダーバッグの重さすら覚えている。あの時はまだ子どものように素直で無防備だった。

 そんなことをぼんやりと考えていた時のことだった。通り過ぎようとしていたマンションの階段をだだだだっと駆け降りて来た青年とぶつかりそうになった。

「あっ」

 瞬間私は立ちすくんだ。そこにいたのは紛れもないその吉川清彦当人だった。なんという偶然だろう。

 彼が出て来たマンションは、山根部長が住んでいるマンションであり、歎研の別名「文学哲学の会」の部室がある場所でもあった。吉川清彦も一瞬びっくりした様子で片手で眼鏡を押し上げながら、降りて来たままの姿勢を固めて茫然と立っていた。その骨ばった白い手首と、臙脂色のネクタイのコントラストが美しい。美しいけれど、もう既に私のもとから失われてしまったものだった。

私は素早く会釈をすると、踵を返して先を急いだ。

「あ、待って」

びくっとして振り返ると、彼が私に追い付いてこようとしていた。

「昨日、本部で会ったよね。銅像の所で僕が小峰先輩と一緒だった時」

「あ、‥‥はい」

「また仏教聞く気無い?」

「仏教‥ですか。歎研に戻る気はないです。すみません」

「一年間、人生の目的を探してみてどうだった? 何か見つかった?」

「‥そんなに簡単には見つかりません。簡単に見つかるものであってもいけないと思っています」

「じゃあ、今、幸福?」

 彼の瞳が真剣に問いかけてくる。幸福かどうかなんて、このごろ考えてもいなかった。それはつまり私が幸福であることの証拠ではないだろうか。

「私はこうして健康で生きていることだけで十分幸福だと思っています」

「それはそうだけど‥‥しかし、仏教をやっていない人には本当の幸福なんて味わえないんだよ」

「健康を取り戻す事以上の幸福なんてあるんでしょうか。仏教以外にも幸福はあると思います。私はそれを体で感じたいんです。そのためにも仏教に安住していたくないんです」

「仏教以外に真に幸福になれる道は無いんだよ。偽物の幸福はすぐに消えてしまう」

「それは違うと思います」

「違わない」

「違います」

「違わない」

「違います」

 私たちは何度論争を繰り返したら気が済むのだろう。私たちはどこか決定的なところで考えが違っていて、お互いに意地になってそれに固執していた。同じところを堂々巡りしてしまう。

 どう言ったら分かってもらえるんだろう。心の中で確かめるように計算しながら、私は答えた。

「幸福って一日一日積み重ねていくものでしょう? 今日をいかに充実して生きるか、それをこそ考えるべきなんじゃないですか?」

「だからそれを説いているのが仏教なんだ。仏教を信じれば大安心の境地に至れるんだ」

「日々の幸福は相対の幸福だと言って軽んじて、一足飛びに大安心に至れればいいんですか?」

「それは違う。大安心の境地に至れればこそ、日々の幸福も味わえるんだ。そういった境地には仏教でしか至れない」

「仏教だけじゃなく、他のものにだってそういう境地を求められると思うんです。仏教を信じていなくても充実して生きている人は沢山います」

「いや、いない。真の安らぎは仏教以外には無い」

「では仏教以外のものを求めたことがあるんですか?」

彼が答えるまで一瞬の間があったと思った。彼の瞳がぐらついた。

「‥‥あるよ」

「なんですか?」

「キリスト教だよ」

 彼は少し目を伏せてそう答えた。彼はたぶんキリスト教を学んだことはあったろうが深く潜り込んではいない。私が仏教を懐疑から入ったように、たぶん彼もキリスト教を懐疑から入った。そして私が仏教の懐に入れなかったと同じように、彼もキリスト教の懐に入れなかったのだろう。彼のキリスト教についての論、あれは全く山根部長の受け売りだった。

「人間がいかに幸福になるかという問題を追及している点で、仏教もキリスト教も他の宗教も一致していると思います」

「それはそうだが、その問題に解決を与えているのは仏教だけなんだよ」

「本当にそうなんですか?」

「そうだよ」

「そうは思えません。仏教にしか真理は無いという言い方には、うなづけません」

 近くで空き瓶の入ったケースを積んでいる男の人が私たちを好奇の目で見ている。そばを通り過ぎる学生たちも、私たちをちらっと盗み見ていぶかしげな顔をする。交差点のすぐ近く、人の行き来が多い場所だ。男女が対峙して言い合っている姿は、痴話げんかのようにも見えてしまうだろう。しかし誰にどう思われようと知ったことではない。これは闘いなのだ。

 私は彼と互角に渡り合っているだろうか。私は彼を睨むように見据えていた。彼も感情の色の無い透明な瞳を更に澄ませて、私を見つめていた。

 その緊張を最初に崩したのは彼だった。彼は鼻に皺をくしゃっと寄せて少し笑った。

「やっぱり、‥‥駄目みたいだね」

困ったような寂しい笑い顔になった。思い出としてその笑顔だけ欲しかった。

「‥‥去年、小峰先輩と話をしたんだってね。君の考え方、分からないでもない。僕の顕証の仕方も悪かったと反省している。だけど、君にも信心決定してほしかったんだ」

さっきまで強い調子だった彼の声が少し弱くなった。

 もし今も私が、あの去年の四月の時と同じように、まだ孤独を重く抱え、心と体に癒しがたい傷を負ったままだったのなら、再び彼に縋っていたかもしれない。「あなたのお話を聞きます。部会に出ます。ご法座にも出ます」と。私がそう素直に言っていたなら、彼はたぶん大いなる喜びと共に私を快く迎え入れてくれていただろう。でももうそれは無理だ。私にはもう吉川清彦や仏教の諸々を入れられる心の隙間などどこにも残ってはいない。私は仏教を必要としないほど、随分幸福になったのだ。

「お言葉はありがたく受け取ります。でももう仏教のお話は聞きません。私が求めるものとは違っていました」

「そう。君には君の考えがあるんだろうけど、ただ聴聞に一度でいいから一緒に来てほしかった。きっと僕の話なんかより得るものが多かったかもしれない‥‥何度も言ったけど、聞いているうちに疑いの心が消えていくんだよ‥‥最後に聞くけど、どうして聴聞に行くのが嫌だったの?」

「‥‥それは‥きっと、最終的な救いとしての仏教を心の中では認めていて、それを決定的に認めさせられるのが怖かったのかもしれません。今までやってきたことなど全部無駄だと断言されるのが‥‥」

「そう‥‥分かった」

彼はかすかに微笑んだ。その表情は思いがけないほど柔らかかった。

「‥‥体の方はもうすっかりいいの?」

「はい」

「夜の部会はきつかった?」

「はい。部長さんのお話、難しくて‥‥理解しようとすることだけでもかなり消耗しました。‥‥二時間正座もつらかったです」

「無理をさせていたなら、ごめん。電話で強引に呼び出したこともあったっけ。君に歎研をやめてほしく無くて少し焦っていたんだと思う」

「‥‥私も反抗ばかりして、すみませんでした」

 彼にとって私は、苦しみばかりを与える存在だったかもしれない。彼はその苦しみをすべて仏教というフィルターで濾過して、これからも安らぎという蒸留水の中で生き続けてゆくのだろう。

「君は最初に会った時に比べて、随分しっかり僕に言い返せるようになってきたよね‥‥もう、僕からは誘わないと思うけど、考えが変ったらいつでも歎研の部室においで。皆いつでも待ってるから。じゃあ。健康に気を付けて」

 彼はもう笑わずにちょっと手をあげて、長身の肩をわずかに振るようにして大学の方に戻っていった。

 今度こそ本当にさようなら。私は彼の後ろ姿を見送り、それから真っ直ぐ前を向いて彼とは逆方向に歩いていった。

 彼とはその時以来一度も会ってはいない。

 2011年3月11日、あの東日本大地震の日、大学で別れた日から三十数年、私は彼の事を不意に思い出した。

 彼は気仙沼出身で、遠浅の海のすぐ近くに実家があると言っていた。きっと甚大な被害を受けたことだろう。彼自身、あの日気仙沼にいたということはなかったのか。私にはもうそれを確かめるすべはなく、ただ彼の無事、ご家族の無事を願うばかりだ。仏教を信じているからどんな苦難も大安心の境地で乗り越えていけると、かつて彼は言っていた。皮肉ではなく、本当にそうであって欲しいと思った。


 夕方から雨が降り出した。アルバイトは、今日は午後十人ぐらいしか患者さんが来なくて暇だった。診察室の明かり窓の隙間から雨の雫が垂れてくるのを、なにか切ない気持ちでみつめていた。

 七時半ぐらいに下宿に帰り、軽く夕食を取り、日記帳を開いたところで電話が鳴った。それは思いがけなく畑中正則からだった。

「こんばんは。畑中です」

「あ、畑中君。こんばんは」

「今、コインランドリーにいるんだ。ちょっと君の事思い出して、電話してみようかなーなんて。今、何してた?」

やさしいおっとりとした顔に似つかわしいソフトな落ち着いた声だ。

「日記書こうかとしてたところ」

「あ、毎日書くの? そうだよね。日記だしね」

彼は少し、ははっ、と笑った。

「心理学って専門課程に入っちゃうと大変なの?」

「うん。割と忙しい。ポリグラフって知ってる?」

「うーんと、嘘発見器?」

「そう。今日、僕、実験台になっちゃった」

「うわー。知られてはまずい秘密が暴かれちゃったりして?」

「うん。結構僕正直だからすぐポリグラフに出ちゃってさ。自分では平然としてるつもりでも、体に反応が出ちゃうんだよね。なかなか面白かった」

「ふーん。普通何かの容疑者じゃないと出来ない経験だよね。面白そう。でも心理学っていいよね。心について学べるなんて。生きる上で役に立つよね」

「そうだね。でも結構難しい。心理学って言ってもいろんな種類があるんだ。犯罪心理学とか、臨床心理学、認知心理学、社会心理学とか、もっと沢山種類がある。今はデータ解析とか、心理統計学とか学んでるんだ」

「そうなんだ。奥が深いね」

 心理学は、もし英文科に入れなかったら次の候補で入りたかった専門課程だ。自分の揺れやすい心の在り方を探るためには、心理学という学問を独学でも学んでもいいと思っていた。

「面白いけど大変なんだ、二年の成績よくなかったし。ところで専門科目は何を取る?」

「えーとね。美術史Ⅳ、英米詩、自然地理学、日本考古学、東洋考古学、日本演劇史あたり、取ってみようかと思ってる」

「あ、やっぱり東洋考古学取る? 僕四年に取ろうかどうか迷ってるんだけど、また考え直してみよう」

「そうかあ。いろいろ迷うよね」

「あ、雨が結構激しく降ってきたよ」

 急に下宿の屋根を打つ雨の音が激しくなってきた。西武線の中井のあたりに住む彼のところも同じぐらいの雨だろう。

「コインランドリー、下宿から遠いの?」

「そんなでも無いんだけど、さっきたいしたことなかったから傘持ってこなかった」

「そうかあ。じゃあ、走って帰らなくちゃね」

「うん。じゃ、また」

「さよなら」

 畑中正則からの電話は、沈んでいた私の心を少し温めた。畑中正則は鹿児島県出身で、名門の鶴丸高校から現役で早稲田に入って来たと聞いている。遠く家を離れての東京での一人暮らしで、きっと彼も何らかの寂しさを抱えているのだろう。友だちはたくさんいた方がいい‥‥去年そう言ってくれた。私も彼の友だちのうちの一人に数えられているといい。

 部屋に戻り、再び日記を書こうとしてペンを持った。今日の吉川清彦との会話を思い出せる限り書き留めながら、いつかこの記述を痛みなく読み返せる日がくるのだろうかと、私はいぶかっている。生きる目的、それを本当に探し出せた時にきっと私は吉川清彦のことをきっぱりと卒業できるのだろう。

 それに今は桂木隆司との交際のことが頭の大部分を占めていた。このごろの日記帳には彼のことしか書かれていない。恋をする喜びと、それに伴う苦しみと。二人とも思いが重くなりすぎて、身動きが取れなくなっていた。


 英文科の授業もぼちぼち始まり出した。

「英文研究」の臼井教授はまだ四十代ぐらいの若さで、いかにも切れ者そうな冷たい眼差しを持った教授だった。現代英文学を担当していて、オーウェルの作品を教科書にしていた。フランスに留学していたとかで、授業中ふと窓の外に視線を走らせるとフランス語で何か独り言を言ったりする。それはいかにも気障だった。そんなことが頻繁にあり、その度に学生たちは顔を見合わせて、まただよ、と苦笑する。スーツ姿をバリッときめてフランス語を呟く英文教授。早稲田よりも慶応の方がお似合いだ。

 「英文演習」の大井教授は、片方の足が悪く教室の後ろのドアから杖をついて足を引きずるようにして入ってくる。声が大きくて詠嘆調に朗読するので、慣れないうちはなんて時代がかった教授なのかと仰天してしまうだろう。

 大井教授の演習ではマーロウやシェークスピアの作品を扱っていた。古典英語は表現がくどくて、単語の綴りなども現代英語とは微妙に違う。まずそこから辞書を丹念に引いて解読していかなければならないので面倒だ。

 大井教授は特に演劇関係に力を入れており、授業の一環として外国文学を脚本とした演劇を見に行くことを義務づけていた。池袋などで上映されている外国脚本の演劇が教授によりいくつか指定されていた。普段こういう強制でもなければ演劇など見にいかないので、それはそれでいい経験だった。たいがい同じ英文専攻の宮迫典子と誘い合わせて見に行った。

 見たらレポートを原稿用紙五~六枚書かなくてはいけない。レポートといっても考察というより感想文だが。

 大隈講堂で時々上映されるシェークスピア演劇の映画、たとえば「リチャードⅢ世」などを見ることも教授は熱心に勧めていた。しかしそういった映画は字幕スーパーもついていないし役者はひどく冗漫な古典英語のセリフを長々と吐いているので、聞いていて全然理解できない。ちゃんと理解できている人もいるのだろうと思うと少し焦る。

 日本人の教授なら言っていることは分かるので、まだいいのだ。問題は外人教授だ。

 イギリス人のレンドン教授の「英文研究」は英米近代詩人の作品を扱っているのだが、講義はすべて英語で進められるので、教授の言っていることが半分も理解できなかった。時折ジョークを挿入しているらしいが、悲しいかな、私はそれにちっとも気付かず、皆が急に笑い出すのであわてて訳も分からずそれに合わせているといった始末だ。

 英文科のクラスは、留学経験者または長期外国滞在経験のある者が半数以上を占め、私のように実地の英会話体験がまるで無い者は数えるほどしかいない。二年の語学の英語で、グレイ教授の言っていることが分からないと言って笑っているような場合ではなかった。英文科ではない者は、外人教授の英語が分からなくてもそうは大過ないが、英文科に進んでしまった者が英語が聞き取れないでは話にならない。

 『車輪の下』のハンスが急に落ちこぼれていった時の描写を読むと冷や汗が出そうになる。詩人になれないのなら、何ものにもなりたくないと言ったヘッセほどの覚悟も無かった私は、なんとか単位を落とさない程度には授業に食いついてはいたが、全体に授業に際しての私の和訳は教授に訂正されることも多くなり、全く褒められたものではなかった。

 そんな風に行き詰まりを感じていた英文の授業だったが、氷室美佐子教授の「英米詩」の授業は割と好きだった。氷室教授の授業はそうは難解ではなかった。特にウィリアム・ブレイクに関する授業に興味を惹かれ、卒論のテーマはブレイクにしようかとこの頃から考えていた。ウィリアム・ブレイクは詩人であり画家でもある。著作では「無垢と経験の歌」が有名だが、私は「天国と地獄の結婚」を扱ってみたいと思っていた。

 「チャンスの神(カイロス)には前髪しかない」という講義も印象深かった。「好機はすぐにつかまえなければ、後からつかまえることはできない」という意味である。前髪しかなくて後頭部がまるっとハゲている神のビジュアルを想像して教室の皆はゲラゲラ笑った。

「そんなんでさっさと逃げられたら、どうやってつかまえたらいいの?」

と男子たちには大うけだった。ここは氷室教授が毎年生徒たちを笑わせるつかみの部分であったろう。


 ある時、氷室教授はこんなことを言った。

「私は英文学を専攻して失敗しちゃったなって思ってるんです。英文学は世界中に研究者がいるでしょう? 英文学で世界の権威になるのは大変なことです。でも日本文学なら自国語だし、日本人が日本文学の権威になるのはそうは難しいことじゃないと思うんです。ね、皆さんもそう思うでしょ?」

 学生たちは、それもそうだね、ちょっと失敗したね、とひそひそ言って笑い合っている。

 日本文学か。研究者として上に登って行くにはそういう手もあった。でも私は高校の時、現国、古文、漢文が苦手だったから、日本文学を専攻しようとは最初から思ってはいなかった。英語を翻訳するにあたって言葉を究極まで錬磨していく作業は、詩の創作過程に似ている。日本文学の研究ではそれができない。それを思うと私にはやはり英文科しかなかったのだ。


 数日後、掲示板前で会った片山孝二に、今度、詩を読ませてください、と改めて言われた。二月のコンパの時は片山孝二もかなり酔っていたから私も調子よく返事しておいたのだが、しらふの時に本気で読みたいと言われてしまうと、一体、人に読まれて恥ずかしくない作品などあっただろうかと、自分の詩を厳しい目で振り返らずにはいられない。とにかくちゃんと見直し完成の先の更なる完成に近づけなくてはいけない。私は毎日詩稿を持ち歩き、ラウンジや学生読書室で時間がある限り推敲を入れていった。


 土曜日に桂木隆司が車で下宿までテレビを持ってきてくれた。中古の映りの悪い白黒テレビだったが、今までラジオだけで我慢していたから、やっとテレビが見れるという事だけで嬉しかった。

テレビを下宿の部屋に運び入れた後、彼と車の中で話をした。

「テレビ、ありがとうね」

「礼なら兼子に言えよ」

「あ、そうか」

 もう、夜の八時も過ぎ、街灯の明かりが薄暗く下宿の前の道を照らしている。車のそばを銭湯に行く人が、洗面器を持って何人か通り過ぎた。同じ下宿の人が通らないか気になって私は体を小さくしていた。

彼は、

「一緒に銭湯に行こう。『神田川』みたいに」

と言った。本気か冗談か、本当にてぬぐいを首に引っ掛けている。

「来週の月火、どこか遠くに行こう。伊豆とか」

えっ、どういうこと? 一瞬彼が何を言っているのか分からなかった。

「伊豆? 伊豆って‥‥。だって遠すぎるよ。日帰りできないじゃない」

「一泊ぐらい駄目か?」

 ドキッとした。そんなことは全然思いもよらなかった。泊まるなんて‥‥。一体、彼はどうしてしまったのだろう。急に何故そんな要求を持ち出すのだろう。新学期になって彼は以前の彼ではなくなった。私の前に一人の男性としての姿を現わし始めた。私はまだ女としての自分を意識したくないのに。

「‥‥おまえと試してみたいんだよ。二人きりで、どっか遠くで‥‥」

「遠くって言ったって‥‥駄目だよ」

「‥‥昨日の夜、ひどい夢見たんだ。そのせいで朝、オヤジと喧嘩しちゃうしさ」

「夢って?」

「おまえが夢に出てきたんだ。それで、ひどい事言ったんだぜ」

「私が? 何て言ったのさ」

「とても口では言えないような事だよ。やっぱり被害者意識があるのかな。心の中で自分がそう思ってるっていうことだろう? 俺、悪い方にばっかり取るからな。目覚めた時、冷や汗かいてた。なんかおまえの気持ちって曖昧なんだもん。すごく不安なんだ」

「曖昧かな‥‥。自分じゃ分かんない」

「曖昧過ぎるよ。何も分かんないよ。気持ちがちゃんと伝わってこないんだ。俺の事もどこかでシャットアウトしてるよ、おまえは」

 彼は少し苛立っているような表情をして私を見た。馬鹿みたいに冗談を言っている時と違って、その瞳は暗く冷たく、突き詰めた苦しみをあらわにしていた。

「‥‥この前のことを言ってる?」

「それもある。俺に触れられることさえ怖いのか?」

「だってさ‥‥急になんだもん」

「‥‥俺だっていつまでも待ってないかもしれないぜ? そうしたら、おまえはどうするんだよ。体求めたら、おまえは俺と別れるのか? そんなもんなのか」

「‥‥分かんないよ。急には答えられないよ」

「俺に対する気持ちを言ってくれよ。言えないんだったら形にしてくれ。そうでないと、俺はこのまま進んでいいのか、今のままで我慢してなくちゃならないのか分かんないよ。‥‥本当に俺の事を信じてるなら、一泊旅行だって行けるはずだ」

「泊まるとか‥‥急すぎるよ。少し考えさせてよ」

 その夜は、お互いに悩み合いながら気まずく別れた。そしてその問題が私たちのそれ以降の交際を陰らせることになった。


 一緒にあちこち出かけ、楽しく笑い合い気持ちよく時を過ごすことの中にも、私は愛はあると思っていた。しかし彼は体を触れ合わせ抱き合わないと愛を感じられないと言う。愛の定義が男と女では違うのだ。彼の気持ちが堰を切ったように私に向って押し寄せてくる。受け止めかねて私は大きくたじろいでいた。

 愛していると言ってもいいくらいなのだけど、私はまだ怒濤のように身体ごとさらわれることには抵抗感があった。どうしたらいいかわからなかった。

 下宿で日記を書いていても、そのことを考えぐっと胸が詰まった。大学のラウンジで詩稿を取り出しても考えが何もまとまらず、ぼうっとして時には涙が滲んできた。頬杖をついて涙を隠しながら、どうしよう、と深く悩んでいた。

 好きだけど、確かに恋をしているけれど、彼の要求は急すぎると思った。キスとか、抱き合うとかセックスとか、具体的に彼とそういう関係になっていくなんて考えられなかった。とても仲の良い異性の親友、手をつなぐとか肩を抱くとかまでならいいけれど‥‥。

 まだ学生だし、結婚という約束もなしにそういうことはできないと思った。他の恋人たちは、好きになったらたやすく体の関係に入っていくのだろうか。私が彼の気持ちに応じられなかったら、もう別れるしかないのだろうか。友だちにさえ戻れなくなって。

 それもいやだ。ならば彼の気持ちに添って私が勇気をもって変化していくよりほかないのだろう。

 桂木のことを好きなのは確かだ。桂木が本気で迫ってきたら、最後には拒むことをやめるだろうことも知っていた。とまどいつつも精一杯の勇気を奮って彼を受け入れるだろう。でもそれは今すぐ、ではない。もう少し準備期間が必要だった。あるいは、桂木は私に悩む隙を与えず、いきなりキスしてしまえばよかったのだ。

 数日後、英文の授業の始まりに、教室までやってきた彼に手紙を渡された。

「俺の正直な気持ちを書いておいた。読んだらおまえの意見も聞くからな」

 私は隣に座っている宮迫典子の目を気にしながら、レポート用紙に書かれた彼の手紙を読んだ。その内容に私は非常なショックを受けた。彼の気持ちはもう後戻りできないところまで来ていた。すべては私がそれをどう受け止めるかにかかっていた。


『夜、暗い一日だった。朝からの雨が午後になってようやく上がったが、厚い灰色の雲は晴れることが無かった。何をするでもなく一日寝ていた。何を考えていたか? 勉強、就職‥‥(考えているフリ)、人の死(近所で同級生のオヤジさんが亡くなった)、そして彼女について‥‥

闇が深くなるにつれて、俺の心はますます堕ちていった。今これから車を走らせ、恵子のところへ行き、抱き締めたいような衝動にかられている。しかし、そうも出来ぬ状況に置かれている自分も、一方でははっきりと意識していた。俺にとって彼女はそういう存在になりつつある。どうすればいいのか‥‥俺にはわからない。どうすればその答えが得られるのか?


おまえの気持ちというのは、道徳を決して超えることの出来ぬ、そして現在の生活を変えようとまでは努めることをしない、その程度のものなのか。


俺たちのつながりは、華やかな遊びの部分は極端に少ないし、真実、心を大事にするという全くはやらない古風なスタイルを未だ踏襲しているという具合だ。


おまえは俺にどうあれというのだ。『唯のお友だちでいましょうね』とでもいうのかい?


プライドを捨てて裸にならなきゃ、幸福の実感はまがいものとなる。世の中ってのは、それほど小説的でもなんでもないんだ。


毎日なんとか忙しくやっているが、ふと妙にそういったもろもろの事が虚しく感じられる事がある。そういった時、本当に心を許せる友だちが、今、自分にいるか? と考えるのだ。おまえに心を許してもいいのだろうか?


―極限状態における対峙の必要性―


その時本当に自分を燃焼させ、どれだけ本心に忠実であったかという事は、非常に大事な事と思えるが。


今年の夏は、手紙のやりとりだけでは耐えられぬかも‥‥?


俺は彼女を本当に好きなのだろうか。それとも単に女であることにただの好奇心を感じているだけか、つまりは、その肉体に欲望をそそられているだけなのか。『俺はこの女を愛している』と直感できれば、彼女の体に触れることも汚き事ではなくなると信ずる。


二人の人間は、言葉に言い尽くせぬ部分、或いは互いの気持ちの間に出来た溝を、どうして埋めようと努めるか、言葉を失った時、最も原始的な姿でそれを確かめ合うことは至極当然だ。


俺が、おまえを縛っておくことはおまえのためになるとは思えないと、自分では言っているのに、やはり離れられない自分を知っている。それでも、おまえの幸福について本当に考えていると言えるのか、もし本当に考え、自分が彼女を幸福に導けないと思ったら、たとえどんなにつらくても、彼女を自由な状態に戻してやらねばならないのではないか?


おまえは、『結婚前に付き合う男は全て羊であれ。いい部分、押さえた部分だけであたりさわりのない精神的交際をしよう』と言っている。そして自分だけは結構考えているフリをして、小説の主人公的雰囲気を味わい、肝腎なこと、(つまりは避けて通れぬ男女の秘事?)については恋愛小説的に目を背けて済ませようとしている。もし俺が欲望の捌け口なんかではなく、『真剣なんだ』とか何とか言って、おまえに迫ったら、どうするのだ。おまえは充実したこの一年間の思い出に別れを告げ、身を翻し、去るのか。


嫌だね、男なんて。考えない風をして、結局最後には女とネルことを考えないではないのだ。そして女は結婚まで処女を守ると言う。その時男はどういう行動に出るか‥‥みものだね。


おまえが全てを許すと言っても、俺はおまえとはネナイよ、多分。それはおまえへの裏切りでもあるし、社会的責任を恐れる自分の卑怯さに所以する行為だとも言える。だからそれは純粋なものから出た忍耐ではない。


この先、おまえに殊勝な顔と甘言で近付いてくる男たちも結局、おまえとネルことを考えているんじゃないのか。


何も一人の女の事を真剣に考えることは無いのに、いろんな女と浅く広く遊べば、悩むことも無いし、結構楽しいんじゃないかと思うのだが、俺はそれを自分に許せぬ性格であることを知っている。そして俺はもう決めたのだ、おまえに。


『その女性がもし男であったら、きっと友だちに選んでいただろうと思われるような女でなければ妻に選んではならない』だとすれば‥‥  』


 外は風が強く、どこかでガターンと立て看板の倒れる大きな音がした。電線が時折ヒューと鋭い音をたてて鳴る。満開を過ぎた桜の花も今日の風で一気に散ってしまうだろう。

 どうしよう。どうしよう。彼の気持ちが奔流のように襲ってくる。たぶん彼に抱かれることになっても後悔したりはしないけれど、まだもうちょっと待って欲しいというのが今の私の本音だった。

 でも彼はもう待てないと言う。いっそこのまますぐに彼に身を委ねてしまおうか。でも‥‥。そんな混乱した思いが頭をぐるぐる巡っていた。私の中の未成熟だった「女」の部分が、急速に問われようとしているのを感じていた。

私は溜め息をつきながら彼の手紙を鞄の奥にしまった。


その時、英文の教授が英詩を朗読しはじめた。


APRIL is the cruellest month, breeding

(四月はいちばん残酷な月だ)


Lilacs out of the dead land, mixing

(ライラックを死の土地から育てあげ)


Memory and desire, stirring

(記憶と願望を乱雑にもつれあわせ)


Dull roots with spring rain.

(眠っていた根を春の雨で起こしていく)


Winter kept us warm, covering

(冬は人を暖かくかくまってくれた)


Earth in forgetful snow, feeding

(忘却の雪で地面を覆い)


A little life with dried tubers.‥‥

(ひからびた球根で短い生命を養い‥‥)



エリオットの『死者の埋葬』という詩だ。

私は過去の私を埋葬して、新しく生き直す時に立っているのだろうか。




 数日間は一人悩み苦しみながら過ごした。去年の坂口美子はたぶんこの時点で上川氏から身を遠ざけていったのだろう。体を求められたからといって桂木とあっさり別れるなんて、もう私にはできない。もう魂のつながりが出来てしまっている。けれどこの先に進むことにも大きなためらいがあった。

 卒業後、宇都宮に帰るのか、帰らないのか、その決定に桂木が大きく関わってきているのを感じていた。桂木と今より深い関係になったら、多分私は桂木との生活をずっと望んでしまう。宇都宮には帰れなくなる。東京に残る選択をした場合、果たして私は幸福になれるのか。桂木は私との結婚を考えてくれるだろうか。

 そしてまた家族との確執を抱えている私は、宇都宮に帰ったからといって決して幸福になれるというわけではなかったのだ。私が向かうべき場所は一体どこなのだろう。

 福永武彦の『風土』にはこう書かれている。

‥‥どんなに他人を愛し、心から理解し得たと思い、同じ呼吸を呼吸し、同じ目でものを見、同じ心でものを考えたとしても、人間はただこの自分の風土、この自分の孤独の中にしか住むことはできないのだ‥‥


 土曜日の朝、下宿まで来てくれた桂木隆司の車で荒崎の海に向かった。第三京浜をとばす彼の運転はやけに荒っぽかった。鎌倉の町を通り過ぎ着いた荒崎の海で、彼は、

「勝手に降りて景色でも見てきてくれ」

と言って、疲れたように車のハンドルを抱えた腕に額をうずめた。

 私は、ふっと溜め息をつき黙って彼の車から降り、コンクリートの堤防に寄りかかって沖の方を眺めた。

 潮の香りがする。堤防のそばには赤い海藻が一面に干してあった。二人でいることがもう楽しいばかりではなくなったことが苦しくて、自然に涙が滲んでくる。白い船が二艘、北の方へゆっくりと動いてゆく。こんな気持ちで海になど来たくはなかった。

 ふと見ると、いつのまにか車を降りた彼が、少し離れた岩礁の上に一人ジーンズのポケットに手を突っ込んで立っている。

 私は昨日電話で、会うことを少し控えようと言ってしまったのだ。彼に問い詰められることが怖くて、答えを先延ばしにしようとしたのだ。彼は、俺は毎日でも会いたいのに、と本気になって怒った。明日そのことについて話し合おうと。

 しかし車で下宿まで来た彼は取り付く島もない冷たさで、とうとう何も話さないまま荒崎まで来てしまった。


 海は緑色に濁り、ざらざらと浜辺に打ち寄せている。白い波頭が海に網目模様をつけている。もう一度チャンスが欲しい。去年、あんなに楽しかったではないか。いろんな所にも一緒に行ったし、狭山湖一周の冒険だって他の誰とも共有できない二人だけの思い出だ。お互いの欠点も十分知り尽くして、認め合い、受け入れることが出来たのに、今になって終わりだなんて。しかも私から離れていこうという素振りを見せていたのではなかったのか。

 こんなに厳しい顔の彼を見るのは初めてだった。彼も苦しんでいる。今日の私の答えによっては彼は私を離れていくだろう。そのことを実感した今、彼を失うということがまるで命を失うのと同じ重さで私の心に迫っていた。失わずにいられるのならなんだってする、そんな風にさえ思っている今の自分。自分が自分ではなくなっていくことへの恐れ。

 私は彼の方に思い切って歩いていった。彼は私をチラッと見ると、黙って先に立って歩き出した。海風が強くてひどく寒かった。たまり水があり歩きにくい岩礁を、彼は私を振り返りもせずに飛び越していった。手を貸してくれない事が彼の答えなのだろうか。

 ごつごつした岩場に二人離れて腰掛けて、互いに黙っていた。私は左手で細かく砕けた貝の砂を掻き均していた。彼は暗い目をして海を見ている。何か言わなくては。意地を張っていたら本当にこのまま終わりになってしまう。心の葛藤に震えて、頬が熱くなった。

「おい、寒いのか? 熱でもあるんじゃないのか?」

 彼は横目で私の方をうかがうと、自分の着ていた深緑色のセーターを脱ぎ、私の背中にかけてくれた。大きくて暖かなセーター。ずっと愛してくれると言ってくれているのに、どうして迷う必要があっただろう。家とか道徳とかを大切にしたからといって、そういうものがいつまで私を幸福にしてくれるだろうか。本当に好きになった人となら、自分を賭けてもいい。そう言いたくて、しかしじっと海を見ている彼にどうしても声を掛けられなくて、私はうつむいて肩をすぼめていた。

 フナムシが岩の窪みから顔を出し、すばやく走ると岩陰に姿を消していった。赤茶色の大きいフナムシ‥‥以前なら、うわあ、ゴキブリみたいとか言って、二人で笑い合うことも出来ただろうに。私は湧きあがってくる涙をもう押さえられなかった。

 私がこぼれ落ちる涙を拭いもせずにうつむいているのに気づいた彼は、

「あ、ほんとかよ。どうしたんだよ」

と言いながら、慌てたように自分が座っている岩場から立ち上がって私のそばにしゃがみ込んだ。

「おい、どうしたんだよ」

 彼は、ポケットをあちこち探すと、ハンカチを取り出し私に差し出した。私は何も言えずにそのハンカチを握りしめて泣いていた。

彼が、そっと肩を抱いてきた。

「こうしてるのって、いやか?」

 私は頭を横に振った。いやじゃない。あのプラネタリウムの時だって、いやじゃなかった。どうして拒まなければならなかったのか、自分でもよく分からない。ただ、そうやって自分を守りながらずっと生きてきたから、急には鎧を外せなかったのだ。

「‥‥俺のわがままだって分かってるんだ。おまえのこと傷付けないって言っておきながら、こうやって傷つけちまってるしな。だけど、俺の気持ちも受け止めて欲しいんだ。このままうわべだけの友だちでいるなんて、もう我慢できないんだ。気持ちのすべてを見せ合って、初めて本物になれるんじゃないのか?」

「‥‥うん。わかってる。‥‥もう逃げない」

 涙が止まらなかった。むきだしになった心がしきりに痛んでいた。

「おまえ、すごく寂しい目をしてるぞ。おまえのそんな顔初めて見た。もっとおまえの素顔を見せてくれ。もっとおまえを知りたい」

 私の肩を抱く彼の手に力がこもった。弱くて後戻りしそうな心までも彼に委ねて、いつまでもこうして彼に守られていたかった。

 互いの愛の所在を確認した彼は、そのまま何もせず私を下宿まで送り届けてくれた。その後の彼は落ち着きを取り戻し、性急であることもなく、確かめるように私に添ってくれるようになった。



 桜が舞い散るある日、私と桂木隆司は授業をさぼって都電に乗り、飛鳥山公園に出かけた。風がさやかに吹くたびに桜の花びらがはらはらと池の面に散ってゆく。互いの髪に降り積もる花びらを払い落としながら、私たちは身を寄せ合って歩いていった。

 春の音階が、花びらを夥しく浮かべる池の底深くから、揺れる木立ちから、飛び立つ鳥の風切り羽から、柔らかな諧調で甦りの喜びを伝えてくる。

 いつの間にこんなに暖かくなったろう。これが二人で一緒に迎える初めての春だった。あの出会いの日がかけがえのない記念日となったように、二人で出かけた先々の風景は、彼の姿、仕草、言葉と共に、想い出の風景になっていくのだろう。

 花見客が大勢桜の木の根元で飲んだり食べたりしている。よく晴れているから花見客も気分よく歌い、手拍子をして浮かれている。きっと今日明日が花見のピークで、どこの公園もこんな風に人が集まってきているのだろう。

 既にもう乱れている座の中を通りたくはなかったが、人々は道一杯にシートを敷き詰めているので、その片隅を通らずには先に行けない。私たちがシートを踏まないようにして、一際見事な桜の木の下を用心深く歩いていくと、酔っ払った男性たちが一斉に私たちの方を見た。

「ほう。あのカップル、愛し合ってるよ、きっと」

「うわはは、愛し合っちゃってるね、ヒューヒュー」

 口々に声を張り上げて野次を飛ばしてくる。愛し合ってるという表現に、艶めかしいものを感じて私は頬が赤くなった。彼らには、もう異性の友だち同士のようでもなく、愛し合う一対の男女のように見えているのだろう。

 私は彼の腕を軽く掴み、彼のそばにもっと寄り添いながら、賑わっている一角をゆっくりと通り過ぎた。祝婚の宴の花嫁のように。

花見客の見えないところまで来ると、彼が私に微笑みかけた。

「気にするなよ」

「うん」

「まるで掌の上のガラス玉みたいに、おまえのことを大切にしたいんだ。女って壊れやすい感じだろう? 真っ白な陶磁器みたいに、あんまりきれいで手が出せない。おまえがすべてを許せる気でいてくれるなら、俺は見てるだけでも満足できるよ」

 彼はそう言うと照れたようにそばのベンチに腰を下ろして足を組んだ。私も彼のそばに座って、池の面に散り浮かんでいるまだ新しい花びらの動きを静かに目で追った。

「きれいだね」

「ほんとにきれいだ。つまんない授業を受けるよりよっぽどためになるよ」

「うん。桜がこんなにきれいだと思ったの、初めてだよ」

 池の上に迫り出している桜が盛んに花びらを散らせている。私たちは等しく花の円舞に目を奪われて、しばらく黙っていた。

 こんな沈黙、お互いがただの親友だった時には、焦ってすぐに打ち消そうとしていた沈黙が、今はかえって心情の充溢を示している。

「そういえばこの前、坂口さんに会ったぜ。おまえのこと心配してたよ。専攻に分れてまで心配してくれる友だちなんてそうざらにいないぜ。大切にしろよ」

「あ、坂口さんが? そうか‥‥」

 彼女とは四月の始めに会っただけで、まだ連絡がつかなかった。大学で会う可能性などほとんど無いし、寮にも帰っていないとすると、彼女から電話がかかってくるのを待つしかなかった。彼女が今どんな生活をしているのか。少なくとも、上川氏と付き合っていた頃よりは幸福らしいと推測するしかなかった。

「坂口さんてさあ、切れる感じがして、話しててびびったよ。おまえのこと、よろしくお願いします、だってよ。お願いされちゃったよ。ははは」

「坂口さんて、結構優しそうでいて、言う事はしっかり言うからね」

「俺には、おまえ程度のバカがちょうどいいよ」

「なんだってー!?」

「バカなところが妙に人を安心させるんだよなー」

「むう、バカと付き合う人だってバカなんだよー?」

「おまえといるとどうしてだか分かんないけどバカになれるんだよ。一緒にいてこんなに楽でいられるのはおまえだけだよ」

「褒められてるんだか、けなされてるんだか。でも私もそうなんだ。一緒にいてこんなにバカみたいに笑い合える人は初めて。他の人だとなんか気取っちゃって、頭いいフリしちゃう。ほんとはバカなのに」

「おまえのアホな素を知ってるのは俺だけだからな」

「バカな隆司を知ってるのも私だけだからね」

 私たちは笑い合いながら肩を寄せ合ってベンチに座っていた。彼の声の響き。肩の力強さ。よく光るはっきりした眼差し。すべてが私のためにそこに在った。そして私も、彼のために在りたいと思った。

 もうドイツ語の授業も終わった時間だろう。教室から吐き出された学生たちは、サークルやアルバイトにそれぞれ散っていく。新入生たちはとまどいながら生協や学生読書室あたりをうろついて、仲間を見つけようとしばらくの間努力を続けるはずだ。私はそれに力を貸してあげることはできない。神が配してくれたのではないかとすら思える出会いに気付くためには、ただ一人、探し、もがき、恐れる日々を過ごさなくてはならないことを私は知っているから。

彼が私の方に身を寄せて、首をかしげた。

「何か香水つけてる?」

「つけてないよ、何も」

「花の匂いかな、風が吹くと甘い香りがする」

「何だろう?」

私たちは大袈裟に辺りを嗅ぎ回った。彼はもう一度私の方に顔を寄せた

「あっ、分かった。おまえの髪の匂いだ」

「そうか、シャンプーの匂いか」

「女の人って、何かいい匂いするんだよな。おまえがいい匂いなの初めて気づいた」

「なにそれ。まるで私が普段お風呂に入ってないみたいじゃん」

「ははは」

体を近づけ、触れ合うことで初めて気づけることもある。彼からは時折涼やかなミントの香りがした。

 彼が私の髪をなでる。

「おまえの耳、かわいいな。いつも隠れてるからわからなかった」

「やだ、くすぐったいよ」

 彼と身を寄せ合っている今の私は、素直に恥じらう一人の女の子だった。今までずっと自分の中の女性らしさを全否定しようとしてきた。彼のやさしい視線や言葉や触れ合いによって、私の中の歪んだ気勢は急速に削げていき、私はやっと女性としての自分を受け入れられるようになったのだった。

 私たちは、確かに恋をし合っていた。花びらに降り籠められて、美しい季節の只中にいた。淡い花影の色が胸の奥にまでも染み渡る。幸せであればあるほど、それはいつまでも続きはしないよと言う声がどこからか響いてくるのが聞こえてきたが、今は耳を塞いで、桜の花そのものになって一瞬の壮麗な舞に命を賭けたかった。


 心で愛を感じるのと同じように、体で愛を感じることも大切なのだということが、ようやく私にも分かってきた。本当に愛したら、心と体は切り離せない。体もその人を強く求めるようになる。そこまで至って初めて愛は完成するのだ。桂木の強い情熱にさらされて、私はやっと本物の愛に向って歩み出す覚悟が出来た。

 愛があってもなくても、異性とすぐに抱き合えるという女性もいるだろう。愛があっても体は‥‥と思う女性もいる。しかし、相手の体に触れたい、手に入れたいという性の衝動が起きたのならそれにいつまでもあらがっているのも、心に不誠実なことなのだ。‥‥あくまでも心の愛があってのことだが。

 私は流れに添おうと決めた。恐れや不安が喜びに代わっていく、スイッチが切りかわる、今がその変化の時なのかもしれない。桂木の広い大きな胸に顔をうずめたいと思う、このおずおずとした、しかし確かな衝動‥‥。それは桂木に圧倒されたからというより、今はむしろ自分からの発動になっていた。

 

 講義の登録も済み、新しい学期にも慣れ始めた。英文の授業が終わると桂木隆司の美術史の教室の廊下に行き、彼が教室から出てくるのを待つことも多くなった。

 美術史は三十名一クラスの少人数だ。じきに彼のクラスメートたちの顔も覚えていった。美術史というクセのある科目を取ろうという人たちだ。それぞれ研究者を志すとか、学芸員を目指すとかの思いはあるのだろう。

 桂木の友人の遠藤は、画廊経営者の息子で金持ちのボンボンだということだった。大柄な人で、よく大学までポルシェを乗り付けてきていた。ざっくばらんな感じの人だ。

 また、桂木がよく「南は、」と口にする南直哉は、ひょろりと背が高く、マントのような長いコートを着ていつも一人で廊下を大股で歩いていた。一際背が高いのでどこにいても目立っていた。

 南直哉(みなみなおや)は、今は南直哉(みなみじきさい)という僧名で、恐山で曹洞宗の禅僧をやっている。あの頃のやせっぽちの青年が魂の苦悩を経て僧職を目指し、今は高名な僧となっている。それを知った時にはとても不思議な気がした。

 著作も何冊か読んだ。救われたいと思う立場から、救う立場への見事な転身。南直哉氏が青年だったあの頃、何か深く語り合いたかったと思う。

 大学の同窓で人を救う立場になっている人がいることは誇らしい。六十歳を過ぎた南直哉氏が「恐山あれこれ日記」というHPに時々アップする含蓄のある文章も、襟を正しながら、また楽しみながら今も読ませてもらっている。

 桂木は、女性の事はあまり口にしないのだが、同じクラスの洪(ホン)さんについては時々話題にした。洪さんは韓国からの留学生で、三、四歳年上らしかった。大人びていてほっそりとしていて美しい人だった。桂木が「洪さんて、なんか色っぽいんだ」と言うのを聞くと、何となく嫉妬の心が湧きあがってくる。すぐにでも大人の付き合いのできそうな成熟した女性。子どもっぽい私は洪さんにいつまでも追いつけないような気がして、桂木に申し訳ないような気持ちになってくる。


 ある日、文学部の屋外ラウンジで片山孝二に会った。彼はベンチに座り一人煙草を吸っていた。

「あ、こんにちは」

「やあ、久し振り。なかなか会えなくなっちゃったね」

 彼の専攻は日本文学だ。若き小説家といった思索的な風貌をしている。『Pan』の四人組の中では一番大人びていた。

 その時私は丁度詩稿を持っていたので、そのまま彼に見てもらおうと思ってそばに近づいていった。片山孝二の隣に座り、バッグから詩稿を取り出した。

「丁度よかった。詩を読んでもらう約束でしたね。恥ずかしいけど、これどうぞ」

「わあ。ありがとう。随分あるね」

 私が取り出した原稿用紙五十枚ほどの束を片山孝二はびっくりしたような顔をして見ると、吸いかけの煙草をそばの灰皿でもみ消し、詩稿をパラパラとめくった。

「それ、コピーだから返さなくていいですよ。ざっと読んだら捨てちゃってもいいです」

「わざわざどうもありがとう。原稿、大切にするよ。他の仲間にも見せていいね?」

「はい。後で感想とか聞かせてくださいね。じゃ、また」

 用事は済んだとばかりにバッグを閉じて、ラウンジのベンチから立ち上がろうとすると、彼は、

「あ、これから授業あるの?」

と私を見上げて尋ねた。

「今日はもう無いです」

「じゃあ、今ざっと読むから、そこで待っててくれない?」

「ええー? そばで読まれるのはちょっと恥ずかしい‥‥」

「恥ずかしくなんかないよ。今読むからちょっと待ってて」

 彼がそう言って目許を和らげたので、私は浮かせた腰をもう一度ベンチに落ち付けた。

 彼は一枚目から丹念に読んでいった。そのそばで私はどんな顔をしていたらいいのか分からず、視線を外してラウンジのベンチに座っている他の学生たちを見回していた。

 文学部のラウンジは生協の書店脇から石段をいくつか上ったところにあり、サークルの連絡帳が置いてある屋内の部室と、白いペンキが塗られた木のベンチがいくつも設置してある屋外ラウンジとの二つに分かれている。

 学生たちはここで授業の合間、煙草をふかしたり、本を読んだり、友だちと語り合ったりする。私と坂口美子も二年の頃までは、よくここでジュースを飲みながら話をしたものだった。

 学内で時間をつぶせる場所と言えば、このラウンジか、学生読書室、学食、生協の書店ぐらいのものだ。一人ぼっちの時、そのあたりをうろついていればクラスの誰かに合える可能性があった。今、このラウンジに一人でいる者たちも誰かを待っているのかもしれない。

片山孝二はふと顔を上げると、

「この記号は何の意味?」

と、詩稿の片隅につけられた☆印や〇印、△印を指差した。

「ああ、私ってあちこち投稿してるから、どれをどこに出したか忘れないように、ちょっとチェック入れといたの」

「ふうん。どんなとこに投稿してるの?」

「『詩学』『現代詩手帖』『ユリイカ』、あと新聞の文芸欄、県の芸術祭なんかに。出せる所はどこでも。身の程知らずに」

「載ったりする?」

「雑誌には全然載らないですね。新聞の文芸欄は割と何回も載ったりしたかな。県の芸術祭は五席に2回入りました。えへん」

「芸術祭だなんてすごいじゃない」

「でも表現が固いなって自分でも思ってる。漢字が多いでしょう?」

「確かに男っぽい詩だよね。君が書いたって言わなかったら、男の人が書いたと思われるだろう」

「私って、ずうっと女っていうことにコンプレックスを持ってて、だから、詩の世界では男のように思われたくて、ついそういう言葉を選んできたけど、やっぱり変よね。もっと素直な詩を書かなくちゃね」

「いや、これはこれでいい詩だと思うよ。観念的なところもあるけど、濃やかな感情がよく出ている。これはやっぱり君だけが書ける詩だよ。男性的な表現の中にも女性の視点が感じられる。たとえば、千代紙とか赤い傘とか‥女の人が選ぶ言葉だよ。それにこの『彼岸花が/顔をそろえて/血を吐く』っていう詩、すごく鮮烈だよ。ドキッとした」

「ありがとう。面と向かって批評されると、すごく照れる」

「推敲を何回もするって言ってたよね」

「うん。しますよ。半年がかりで書いたり消したりして出来た詩もあるし、一つの作品で原稿用紙五十枚くらい駄目にしたこともある」

彼はびっくりしたように顔を上げ、詩稿を膝の上に置くと、腕組みをした。

「あ、そんなに? 僕は全然推敲しない人なのね。だからどういう点で推敲するのか聞きたくて。たとえば佐伯は自分の思想を明確にするために推敲するんだって。君の場合は?」

「そうねえ。自分の感情を最も適切に表現するためにいろいろと言葉を探したり、表現の方法を変えたり、かな。一つの感情を表すのに、類語をさんざん調べたり」

「そうやってくと主題が変っていったりしない?」

「私の場合、主題になるのは最初に頭に浮かんだ二、三行なのね。それを中心にして周りに押し広げていくっていうか。主題が何か、なんて聞かれてちゃんと答えられないときもあるけど、とにかく自分で納得いくまで、手を入れていく感じかな。確かに最初の直感で書いたものから、すごくかけ離れていく時もありますね」

「そう、僕、去年五月病みたくなって木曽を一人で旅したことを、この前話したよね。その時の事を小説に書いたら皆にコテンパンにやっつけられちゃってね。うわべだけの感傷をなぞるんじゃなくて、意識の流れをはっきりさせるためには、もっと推敲して自己分析を深めなければいけないって。‥‥君は、小説は書いたことはないの?」

「ああ、‥‥私はむしろ子どもの頃から小説家になりたいってずっと思ってて、でもどうしても生き方が保守的だから経験が増えていかないっていうか。そうすると書けることも限られて狭くなってしまうから、なかなか小説らしきものになっていかなくて。だからいつか小説が書ける時が来るまでの自主練みたいに、詩を書き始めたわけで。小説を書ける時が来るかどうか分からないけど、当分は詩で表現できることを大切に書いていこうと思ってる」

「そう。君の小説もいつか読んでみたいな」

「ああ、いつか書けるかなあ。まあ期待しないで待っててください」

私はくすくす笑いをしながら答えた。小説が書ける日なんて一体来るのだろうか。半ば自分でも信じられないで、しかしそれが確かに私の夢であったことを心の奥で噛み締めていた。

「君、恋をしてる?」

少しの間を置いて、片山が急に聞いてきた。

「えっ? 何で?」

「そんな感じの詩が、最後の方にいくつかあったから。中高生の女の子が書くようなファンタジーな恋の詩じゃなくて、大人の恋、みたいな。抽象的な表現だったから断言できないんだけど」

「ああ‥‥確かに。その詩を書いてた時はちょっと苦しくて、時々泣いてたりしてたかな。二十歳過ぎると大人であることを求められるから、私にはまだつらいことがあって‥‥。私自身がまだ大人じゃないから。恋愛ってある意味強い覚悟が必要ですよね?」

 桂木隆司にもまだ読んでもらっていない恋の詩。身近であればあれほど気恥ずかしくて見せられない。特に、桂木が深く絡んでいる詩だから。

「そう‥‥。中川が読んだらショック受けるかも。あいつ、君の事好きだって言ってたから」

「あ、中川君? ああ、うん、実は一年生の時から中川くんの気持ちには気づいていたけど、知らん振りしてた。そうか、ショック受けるかな‥‥。 でも私だって生身の女だから、いずれ体の問題とか避けられないんだと思う。そんな覚悟も含めて随分抽象的に書いたつもりなんだけどな‥‥」

「僕には分かったよ。『流れ木は なめらかに 身を横たえる /晴れた海の近く /次に来る波に /遠くさらわれることを ひとり 待ちわびながら』ここのところの表現、なんか切ないね。‥‥『私の装われた証は/物音のない暗い夜には/脱ぎ捨てられなければならない/素裸になるまで』‥‥、ほら、この部分なんか少し官能的な感じがするよ」

「わあ、客観的に分析されるとすごく恥ずかしい」

「君の恋が、幸せなものだといいね。恋愛って楽しい面ばかりじゃないのかもしれないけど。いや、僕だって恋愛の正解って分かんないんだけどさ。君がいい詩を書けるのなら、どんな経験も大切だよ」

 片山はそう言うと私に優しくうなづき、原稿をきちんと整え鞄にしまった。

 それから少し私を真面目にみつめ、ためらうように一呼吸した。

「立ち入ったことを聞くけど、君が付き合ってる人って僕が知ってる人だよね」

そう聞かれてはっとしたが、別に隠すことでもないと思った。

「うん。知ってる人だよ。‥‥同じクラスの人」

「君たちが早稲田通りを歩いて行くのをたびたび見たよ。この前なんか、僕と佐伯がたまたま君たちのすぐ後ろを歩いていてね。君たち、ものすごくゲラゲラ笑ってたから、君ってこんな風に笑うんだと思ってちょっとびっくりしたんだ」

「うわあ、何話して笑ってたんだろう。きっと下品なことだったかも?」

「桂木もいつもあんまり人と関わる方じゃないから、君とあんなに楽しそうに笑ってる姿を初めて見たよ。いい付き合いをしてるんだと思った」

「そう、彼と一緒にいるとすごく楽しいんだけど、最近はちょっといろいろ悩んでて‥‥。まあぼちぼちそんなことを詩に書いていこうと思ってます」

「期待してます」

片山はそう言って眉を少し上げて茶化すように微笑んだ。

「それはそうと今日夕方から、井荻の二階堂の下宿で『Pan』の会の会合があるんだよ。君も来てみない?」

 片山は胸ポケットから煙草を一本取り出し、指先でもてあそぶようにした。

 前にも佐伯伸也に誘われて断ったことがあった。片山、佐伯、中川となら話をしてもいいと思ったが、二階堂が私はどうも苦手だった。彼は神経質な天才肌だ。笑う事の少ない拗ねているような瞳に出会うと、さっと緊張感が走ってしまう。

「誘ってくれて嬉しいけど、やっぱり遠慮しときます。部外者が入ると本音で意見を戦わせられないでしょ? それに私って案外何も考えてないから、きっと意見も上手く言えない。いても邪魔になるだけだから」

「あ、そんなこと無いよ。でも、男ばっかりだからね。居心地悪いかもしれないね。隔週でやってるんだ。一度坂口さんも来てくれたことがあってね。昼時だったから、二階堂がラーメン作ってあげたんだけど、坂口さんがテーブルにこぼした一滴のラーメンの汁を、二階堂が急いで横からサッと拭いたもんだから、あとで坂口さんがさかんに怒ってたな。なにもすぐに拭くことないじゃん、て」

「ああ。すぐに横から拭かれちゃね。坂口さんが怒るの分かるけど、大切な原稿を汚されたくないっていう二階堂くんの気持ちもちょっとは分かるな」

そんなエピソードから、二階堂の潔癖な性格がうかがい知れた。

「今日の集まりで君の詩を皆にも読んでもらうよ。今日はありがとう。感動したよ」

「こちらこそ、読んでくれてありがとう。あ、それから急に思い出した。私のこと皆さん、KKって呼んでるって佐伯君から聞いたけど、ほんと?」

「うん、そうそう、KKって呼んでる」

「じゃあ、ペンネーム「KK」ということで、私の原稿、よろしく」

「わかった」

片山孝二と私はその後東西線に乗り高田馬場まで出た。

「また新しい詩ができたら見せてください」

片山孝二は高田馬場駅改札で、雑踏を背に姿勢よく立って私にそう言った。

「私の方こそ、感想が聞けてうれしかったです。同人誌が出来たら教えてね。きっと買うから」

「うん。頑張って書くよ。発行したら真っ先に君に読んでもらう」

「楽しみにしてます。じゃあ、皆さんによろしく」

「うん。じゃあ、また」

片山孝二は端正に微笑んで背中を向けた。

 『Pan』のグループの四人は一年の頃からいつも坂口美子を取り巻いていたから、私はずっと一歩引いて遠くで見ているだけだった。今、坂口美子と入れ替わるように『Pan』の青年たちと話すようになり、やっと詩の事を語り合える友人ができたと思ってうれしかった。           もし一年の頃から親交を持てていたなら、私は四人のうちの誰かと付き合っていたということもあったのだろうか。あったかもしれない。

 しかし運命は私と桂木隆司を結びつける方向に動いたのだ。それは間違えようの無い道筋で。私の心はもう誰にもぶれたりはしない。


 O組から英文学を専攻したのは、安達望、宮迫典子、鈴木啓子ら数名だった。

 私は宮迫典子と一緒にいることが多くなった。彼女は秋田の能代出身で現役で入ってきた人だった。かなり小柄な方なので、クラスでも一番背の高い私と並ぶと私の肩ぐらいしかなく、一緒に歩く時も私がつい無意識に歩いてしまうと、彼女は小走りになってしまうのだった。

 彼女は腎臓が悪いのだと言っていた。一年の時に比べてここ最近急激に痩せたのはその持病のせいであるのかもしれない。明るい笑顔は彼女の丸くてチャーミングな顔立ちによく似合っていたが、沈んだ顔色をしている日も多く、病気の影を否応なしに私に感じさせた。

三年になると私は授業の後、桂木隆司と待ち合わせてあちこち出かけるようになっていたので、宮迫典子となかなか話をする機会を持てなかった。まるで去年の恋する坂口美子が、友人である私より彼氏を優先したのと同じ状況である。

 私がいつも、じゃ、また明日、と言って席を立って教室から出て行ってしまうのを、彼女はどう思って見ていたろう。寂しくはなかったろうか。

 彼女は三軒茶屋の女子だけのアパート形式の寮に住んでいた。同じアパートに第二文学部から第一文学部のO組に編入してきた友人の池田綾子がいたから、まるっきり孤独でもないだろうという私の一人考えで桂木との交際を優先させていた。私は私で、いろいろと必死だったし。    

 清純そのもので特に遊び歩く風でもなく、ボーイフレンドの影もない宮迫典子に、私の今の、体を伴う恋愛に向いつつある状況を相談するわけにもいかず、私は彼女にとって授業の時隣に座る形だけの友だちという存在以上にはなれずにいた。   

 それでも私は時間を見つけて彼女を上智大学の演劇部の公演「ガラスの動物園」に誘ったり、日本女子大の人見講堂で行われたクラシックコンサートなどに誘ったりした。英文の大井教授の指定する池袋での演劇も何度か一緒に見に行った。彼女がデパートで買い物をするのにつきあったりした。

 そのうち彼女は英語学校に通い出し、英会話を楽しく学んでいることを私に話してくれるようになったので、私はほっとしたのだった。新たな居場所を見つけ友人ができていくなら大丈夫だろう。

 だいぶたってから、彼女のアパートに泊まりに行ったことがある。秋田のお土産品であるらしい魔除け風の大きな顔の暖簾が台所の入り口にかかっていたのが印象的だった。きちんと整えられた女の子らしい部屋。しかし私は見てしまったのだ。台所の隅から玄関の方にまではみ出して、ウィスキーやワインの瓶が二十本以上転がっているのを。つまりはそういうことだ。彼女はそんな風に孤独を紛らわせていた。

 過去を俯瞰できる今だから言う。彼女は大学を卒業した後秋田に戻り高校の英語教師になった。そして二十六歳で心不全で急死してしまった。直前にもらった彼女からの手紙には、荒れた高校での教師生活の苦悩が書かれていたので、その心労か、あるいは自殺ではなかったのかという疑いも完全に消し去ることはできなかった。

 そんな運命を抱きながらも、あの頃の私たちは青春と言われる日々を、痛々しいほど必死で生きていたのだ。



 四月も終わり頃、坂口美子の寮にあまり期待せずに電話をかけたところ、偶然彼女が電話当番だったので、すぐに話をすることができた。

「お久しぶりー」

「ほんと。久し振りね。元気?」

「うん。元気、元気。ほんと会えなくなっちゃったね」

「そうだね。寂しいよ」

 彼女の澄んだ高い声が受話器から聞こえてくる。彼女があまり寮に帰っていないということを聞いてからは、なかなか寮に電話することもできずにいた。今日、彼女をつかまえることができてよかった。

「あのね、この前、桂木くんに会って話をしたのよ。彼から聞いた?」

「あ、聞いた、聞いた。坂口さんが切れる感じなんで、びびったって言ってたよ」

「そう?やだ、そんなこと言ってた?それでね、彼と初めてじっくり話したんだけど、本当にいい人だと思うわよ」

「わあ、そう言ってもらえると私もうれしい」

「うまくいってる?」

「一応、うまくいってるかなあ」

「小島さん、こういうお付き合いにとまどってるんじゃないかなって、心配してたのよ」

「うん。確かに。いろいろあったけど今は楽しいし、自然の流れに沿っていければと思ってる」

「そう。良かったね」

「最近、よく学校で待ち合わせて会ってるよ。会い過ぎてるみたいでちょっと怖い気がする時もあるけど」

彼女は一瞬、えっ?と言うように息を漏らした。

「そんな、会い過ぎるなんてこと無いと思うわよ。私なんか毎日会ってる」

「あ、スキーの人?」

「うん。法学部の四年生なの。全然学校とか行かなくて、山登りとか、いろいろやってる人」

「そうなんだー。今度会って詳しく聞きたいな」

「そうね。休みはどれくらいある?」

「私は月曜と土曜は休み」

「あ、すごい。私は月曜だけ。じゃあさ、明日また電話するから」

「うん。明日は六限まであるから電話くれるなら九時以降ね」

「うん。じゃあ、おやすみなさい。電話してくれてありがとう」

「うん。おやすみなさい。またね」

 彼女と話ができてよかった。彼女はいつも私をリードしてくれる。桂木とのことも何かアドバイスしてくれるかもしれない。


 数日後、坂口美子とラウンジで待ち合わせをした。

 現われた彼女は、やわらかいウェーブがかかった髪が肩のあたりまで伸びていて、今まで以上に大人っぽい雰囲気がした。ほっそりとした体にクリーム色のブラウスがよく似合っていた。

 彼女は私にはないある種の強さとしなやかさ、そしてまわりをぱっと明るくする華があった。一年の頃からそれがずっと羨ましくてたまらなかった。彼女の事を思うと『デーミアン』に出てくる「ふたつの世界」のことを思い浮かべてしまう。私はさしずめシンクレールの側の人間であり、彼女は「明るい世界」に住むベアトリーチェだった。

「待った?」

「ううん。そんなでもないよ」

「小島さん、髪の毛切ったのね。春らしい感じになったわ」

「坂口さんは髪が伸びて、すごく大人っぽくなったよ」

「ありがと。‥‥今日は、私がどんなお付き合いをしているか、小島さんに聞いて欲しいと思って」

 彼女は私の隣にバッグを置くと、ジュース買ってくる、と言って自動販売機の方に行った。私も慌ててすぐその後から席を立って、一緒にコインを自動販売機に入れた。紙コップにつがれたジュースを手に、私たちは再びベンチに座り直した。

「‥‥私、スキーで知り合った法学部の四年生の人と今、付き合ってるの。寮に帰ってないっていうのは、その人のアパートによく泊まりに行くからなの」

「そう。‥‥そうなのかなって思ってはいたけど、ちょっと驚いた」

 以前彼女と会った時の言葉の端々から、それは想像がついていたことだったが、こうして彼女の口からはっきりそれを聞くと、改めて胸がドキッととした。

彼女は少し微笑んで私の顔を覗きこんだ。

「びっくりした?私も去年に比べて随分変わったでしょう?

彼のアパートって代々木の方なのね。だから、彼と一緒に代々木公園を毎日五キロぐらい走ったり、夜中にコンビニで買い物をして一緒にごはんを作ったり、毎日とっても充実してる。

それに彼の弟さんが今浪人中だから、私が英語の家庭教師してあげたりして、アルバイトもさせてもらってるの」

「そうなんだー。いいねー。なんか楽しそう。うまくいってるんだね」

「そうね。去年、上川さんと別れた後、少し精神的に不安定になってたけど、今はとっても幸せ。彼と会えてよかったと思ってる」

 彼女の左の細い手首には男物の大きい腕時計がサイズが合わないままぶら下がっていた。私がその腕時計に目をやっているのに気づいた彼女はちょっと微笑んで、左手を上に持ち上げるようにして揺らした。時計はブラウスの袖に引っかかって重そうにゆらゆらと揺れた。

「スキーに行く前から親しかったの?」

「‥‥うん。大学のサークルで知り合った人なの。ずっと好きではあったけど、まさかこんな風なお付き合いになるとは思わなかった。

スキーに行ったのも二人きりだって分かったのは向こうに着いてからだったの。世間の目もあるし自分でもどうしたらいいか分からなかった。

でも、だんだんそんなことどうでもよくなってきたの。相手の人を信頼していたら不安なんて起きてこなくなるものよ」

 彼女の眼差しは真っすぐで、何に対しても恥じてはいなかった。その眼差しがひどく眩しいものに思えた。

「小島さん、まだ桂木くんと会い過ぎてるなんて思ってる?会いたければ会えばいいのよ。節度というものは気持ちに置くというよりは、行いや生活に置くべきなのよ。心を押しとどめられるうちはまだ本物じゃないわ。小島さんたちって、理屈ばかりこねまわして逃げてばっかりいると思うの」

「ああ‥確かにそういうところあるかも。子どもみたいにじゃれあっている時は良かったけど、ある時から求めるものが違ってきたなって思い始めて。特に私が怖がって逃げちゃうから。会うのを控えたいって思ってた時があったよ。このまま会ってたら終わりが早まっちゃう気がして」

「そんなの、毎日会っても、時間を置いて会っても、終わるものは終わるのだし、続くものは続くんだと思うわよ。もっと素直に会えばいいじゃない。自分の気持ちに正直に生きたなら、どんなことがあったって後悔は無いものよ」

「そうだね。でも自分の気持ちに正直に生きるって、勇気がいることだよね。そのことで、最近彼とケンカみたいのしちゃったし」

「肉体的な事?許せると思ったところまで許したら?

私も去年まで精神的なものと肉体的なものを分けて考えていたけど、最近そうじゃないって思ってきたの。いろいろ悩んで小説やエッセイも読んだけど、本来そういうものは分離できないものだと思うのよ」

「‥‥変わったね。坂口さん。すごく強くなったね」

彼女は少し困ったように、ふふっと笑うとジュースを一口飲んだ。

「でもいいことばっかりじゃないわ。こうやって外泊ばかりしていると、他の友だちなんかと連絡取れなかったりして、友だちとか両親とかの関係がおろそかになってしまうの。

いくら自分の気の済むような生き方をしてても、やはり他人に心配かけてはいけないと思うから、できるだけ連絡つくように、彼のアパートの電話番号も本当に親しい人にだけは教えたい。

寮長さんの信用だってガタ落ちになっちゃってるし、つらい部分もあるのよ。

でもそんなことは問題じゃない。彼って、本当に尊敬できるような人なの。そばにいると包み込まれてしまいそうな。夫婦って、こんな感じじゃないのかな‥‥。

変則的な同棲生活をしているとやはり寮の人に迷惑かけちゃうし、来年には寮を出なくちゃならない。そうしたら、あの人が出た後のアパートに移るつもり」

 少し悲し気な表情の中にも生き生きとした輝きがあるのを、私は眩しいものを見るように見つめていた。そうか、もう夫婦みたいな感じになっているのか。そこには誰の思惑も越えてしまうような愛があるのだろう。彼女は彼女の人生を見つけたのだ。その誇らかな姿に圧倒される思いだった。

「私たちみたいになること無いから、自分の気持ちに素直に生きてごらんなさいよ。若いんだから失敗したって、取り返しなんかすぐつくわ」

「うん。そうだね。坂口さんの話聞いてすごく感動した。私ももっと気持ちを開放していかなくちゃって思った」

「うん。桂木くんのこと大切にしてあげて」

 彼女は次の授業があるからと言ってベンチを立った。その後姿を見送り、私も英文の教室に向かいながら、彼女の言葉を繰り返し噛み締めて、心を熱くしていた。


 三限の臼井教授の英文の授業では、オーウェルの随筆を読み進めている。相変わらず気障な授業だ。四限のドイツ語も宮迫典子と助け合いながらやっとのこと訳の指名をかいくぐった。

 私は半ば上の空で、授業をぼんやりと聞いていた。五限の英文は、評価が甘いという噂の引地教授の授業だった。この英文演習の授業が終わったら、すぐ近くの教室でやはり五限の授業を受けている桂木と会って、坂口美子から受けた感動をそのまま話すつもりだった。今日は訳は当たらない。他の学生たちがつっかえつっかえ訳すのを、ノートに機械的に書き写していた。

 学生の訳を解説しながら直していた引地教授は、ふと言葉をとぎらせた。私はノートから顔をあげて教授を見た。引地教授は、眼鏡の奥の人懐こそうな目を一瞬きらりと光らせ、学生たちを見回すと、いきなり、

「君たちは今、青春の絶頂にいる」

と、はっきりした大声で言った。私はその言葉にはっと覚醒した。

他の学生たちは抗議するかのように、

「ええー?」

という声をあげている。

 しかしその時私の胸に充溢していたものは、青春の絶頂と呼んでしかるべき、誇り高い感情だった。体中に若さと可能性がみなぎっている。それはさっき坂口美子から分け与えてもらったエネルギーのせいだったかもしれないが、私はその時確かに、抗議の声をあげた者たちよりは、はるか高い青春の頂きにいたのだ。


 私と桂木は六限の自然地理学を一緒に取っていた。これは単位数のためにだけ取ったのであり、講義に興味があったわけではなかった。教職課程の必須取得科目であるせいか、教授はよく教職のことを口にしたが、私と桂木には関係ないことだった。私は英文科出身などという肩書をかなぐり捨てて、どこか益子のようなところで陶芸を学びたいと、夢のように、けれどかなり本気に思い始めていたし、桂木は早稲田の合格発表の日にすぐ公務員試験の問題集を買っていたというくらいだから、学校の教員になる心づもりなど全く持ってはいなかった。

 六限の授業が終わるのは七時近い。私が学食でスペシャルランチとか早稲田ランチとかを食べるのに桂木もコーヒーを飲みながら付き合ってくれて、その後一緒に高田馬場まで歩いて帰った。

 夕暮れの学食は、私のように安く夕食を済ませてしまおうという学生たちで混みあっている。早稲田ランチは二百六十円、スペシャルランチは三百円で、ご飯は大きなどんぶりに山盛りで量が多かったが、おかずは、コロッケと千切りキャベツなどで貧相だった。

冬の時期は肉まんなども売っていたが、春にはその設備も取り払われてしまう。女子学生が無骨な男子学生に混じってスペシャルランチなどを食べているのは気が引けたが、もう三年生ともなると恥ずかしさも無かった。

 スロープの下の八重桜は四月の半ば過ぎまで咲き残っていて、すぐそばの街灯の光に照らされて牡丹雪のかたまりのように白く浮かんで見えた。八重桜のちょうど下には、コンクリート製のベンチがあり、記念会堂の広場を見渡せるようになっていた。広場はもう暗く闇に染められている。記念会堂の中ではまだ体育局のバスケット部の人たちが練習していて、明かりが窓から漏れていた。

 坂口美子は去年の後半、上川氏との交際がうまくいかなくなった頃、夕暮れがつらいと言って、一時この体育局のバスケット部に所属していたことがあった。また、朝一人で大学まで歩いているといろいろ考えてしまって落ち込むからと言って、私と高田馬場駅で待ち合わせて一緒におしゃべりしながら大学まで歩いていくことも何度かあった。

 だれでも自分の人生を立て直すために、なんらかの努力をしている。ぼんやりと、ぬるま湯につかって何事もなく日々を過ごしてゆくことだけが幸福なのではない。何かを得るためには、何かを失わなくてはならない。そして若い私たちは、今は決して平穏など望んではならないのだ。


「‥そうか、坂口さんて同棲してるのか。やるじゃん。俺たちもそうなれればいいけど、俺たちってなんか大人の雰囲気になれないんだよな。まあそれでもいいんだけど。幼なじみみたいな感じで」

桂木は文学部の門を出ながら正面を向いたままそう言った。

「そうだね。坂口さんてすごいよね。私も坂口さんみたいになれるかな」

「ほんとに一緒に暮らせたらいいよな。ずっと一緒にいたいよ」

「そうだね。きっと楽しいだろうね。馬鹿な事ばっかり言って笑い死にしちゃうよ」

「そうかもな」

桂木はふと口をつぐんだ。その表情は何か思い詰めているように暗かった。

一緒に暮らすという事。そこで起こりうること。笑ってばかりということはないということも分かっていたが‥。

「俺、最近、イライラしやすくってさ。おまえのこと考えると吐き気がする」

「なんですとー!? 私の顔思い出して吐き気催されたらたまらんぜ」

私はわざとおどけて彼の気を引き立てようとしたが、いつものようには彼は乗ってこなかった。

「おまえのことばっかり考えちまう。こんなに俺の心を占めてしまったんだぞ。どうするつもりだよ」

「どうするって言われても‥。困る‥‥」

私はもうふざけられずに、うつむくしかなかった。

 まだ抱き締められてもおらず、キスもしていない。プラネタリウムで不用意に彼を避けてしまったために、彼は私に対して慎重になってしまっているのかもしれない。キスぐらいまでならもう私の許可なんていらないのに。その先に進みたいのなら、私のその時の気持ちを聞いて少しずつなら‥。そう思ったが心の中の声は表に出せなかった。

 もし桂木がアパート暮らしだったなら、私も坂口美子のようにアパートに招かれて一緒に過ごしたりしているうちに、もっと早いうちに体の問題に直面し、或いは同棲に近いことになっていたかもしれない。それとも私はそうなることを警戒し、桂木から身を遠ざけただろうか。いや、私はもう体を求められたからといって彼から離れようとは思っていなかった。

 ただ私たちの場合、私が女子だけの下宿で男性を部屋に上げられない、桂木が自宅通学だから彼の家においそれと行くことはできない、そして私が結婚するまではそういうことはしたくないという古い考えに凝り固まっているということが、互いの思いを素直に前に進ませないネックとなっていた。もう少しゆっくり進ませて、と思っていた。桂木にとってはじりじりしすぎるくらいに遅い歩みであったのだろうけども。


 私たちは文学部のスロープを降りた先の信号を待ちながら、暗い穴八幡神社の方をぼんやり眺めていた。一組の学生らしいカップルが肩を寄せ合いながら、闇に続く階段をゆっくりと上っていく。神社の中は街灯が一つも無く真っ暗だ。私がはっとして目をそらすと、彼もちょうど私の方を振り向いたところだった。その目の真剣さは、(もし俺があの暗い森に入っていったとしたら、おまえはついてこれるか)と問いかけているようだった。

 ついていくよ、そう答えたかった。信号が青に変わると、彼は黙り込んだまま車が行き交う煩雑な早稲田通りに歩を進めた。

 夜七時半を過ぎると歩いている学生も少ない。店々の明かりの中を私たちは早歩きで通り過ぎていった。

 もうすぐ五月だけれど、夜はまだ肌寒い。もしまだきつい孤独の中にいたなら、きっとこの長い夜の道を、明かりごとに歩みをためらいながら、下宿に帰りつくことを引き伸ばそうとしていただろう。

 風に揺れる商店街の飾り。風向きによっては、おしぼりを洗濯する小さな店から消毒の強い塩素の匂いがすることもあるし、クリーニングの店先からもうもうと白く溢れる蒸気の匂いが歩道にまで溢れ出していることもあるが、もうこんな遅くには排気ガスの毒気のある匂いしかしない。

 明治通りを過ぎて駅近くになって、歩道についている目の不自由な人のための凸凹タイルの上を、私は彼の腕につかまって目を閉じて歩いた。

「何かにぶつかりそうな感じがして怖い」

「大丈夫だよ。俺を信頼して歩け」

「うん」

「微笑ましい姿だな。俺、表彰されそう」

彼の腕につかまっていれば、どんなところだって行けそうな気がする。どこに導かれても安心していられる。

 私たちはいつしか、固く手を握り合っていた。暖かくて大きな手が、私の骨ばった細い手を慈しむように強く握り締めている。それはどんな抱擁よりも熱く気持ちがこもっているように思われた。私たちはお互いの手を通して、もどかしくお互いの気持ちを確かめ合おうとしていた。

 高田馬場駅が見えてくると、どちらからともなく手を解いた。

「明日、授業無いんだろ? 早稲田松竹で映画でも見ないか?」

「うん。いいよ。一回目からね?」

「うん。馬場で十一時に待ってる」

「わかった」

 電車の轟音が響いてくる。明日、また彼に会うまで、この思いをどうしたらいいのだろう。西武線より山手線の方が早く着いて、彼が向こう側のホームから電車に乗り込んだのが見えた。一人残された私は、目の前で赤く点滅する質屋の大きなネオン看板を黙って見つめているしかなかった。

 

 翌日、彼と早稲田松竹で見た映画はちょっとすさんだ血みどろな青春物の邦画で、見終わって映画館を出ると少し頭が痛んだ。行きつけの『コア』で軽く食事を取るともう四時になっていたのだが、そのまま別れる気になれず、都電に乗って隅田川まで行ってみることにした。

 西尾久七丁目で降りてすぐ北に行き、荒川遊園地前を東に行くと、隅田川の小台橋がある。川は昨日降った雨で水量が増え濁っているようだった。傾きかかった太陽の光が水面にきらきら反射していた。広い川の遠い向かい側には学校がみえる。隅田川はすっかりコンクリートで両岸を補強してあって、降りて憩う雰囲気の川ではなかった。

 そのまま北に歩いてゆくと荒川にぶつかる。こちらの川は芝生の土手が広がるのびやかな川岸を持っている。土曜日の午後だけあって、河川敷で学生たちが野球の試合をしているのが遠くに眺められた。

 江北橋と扇大橋の真ん中あたり、足元近くに川水を見る事のできるコンクリートの斜面に私たちは腰を下ろした。私たちは黙って川の流れを見ていた。二艘の小型船がすぐ近くを行き交った。それを見送って少したつと、いきなり川の水がザザザと岸辺まで波及した。

「あ、驚いた。急に波が騒いだ」

座っていた場所から少し上の方に飛びのきながら私がそう言うと、彼が詩句を口ずさんだ。

「『風が立ち、波が騒ぎ‥‥』。これ、知ってる?」

「うん。『無限の前に腕を振る』‥‥」

「あ、知ってたか。じゃあ、誰の詩だ?」

「中也」

彼は満足気に微笑むと、そのまま後ろに背を倒した。

「おまえも寝てみろよ。雲がきれいだから」

「えー?寝るの?」

 少しためらっていると、彼は私の後ろ髪を一握りつかんで、後ろに引っ張った。痛いなあ、と笑いながら、引っ張られるままに私も彼の隣に横になった。彼の頭と私の頭がゴツンゴツンとぶつかりあった。背中のコンクリートが冷たい。

「あ、ペンダントしてるんだ」

「うん。乙女座の星座のマークが入ってるんだよ。隆司、乙女座でしょ?」

「そうか。俺の星座か‥‥」

 彼はゆっくりと私の頭の下に腕を差し入れ、腕枕のような形をとった。彼の腕に引き寄せられるままに彼の胸に頭を乗せている自分が、まるで他人のように遠く思われる。私の浅い呼吸が肩を抱く彼の手に伝わり、少し触れ合っている胸から胸へと伝わっていく。

 桂木と体をぴったり触れ合わせていることの不思議。少し前に西城や安達とのことがあって以来、私は男性に触れられることに過度の怯えを持ってしまっていたが、桂木にこうして肩を抱かれるようにして横たわっているのはとても心地よかった。胸がドキドキした。桂木のあたたかい体を確かに感じていた。

 私は自分の胸を彼にそっと押し付けていった。男性としての桂木を避けずにいられたばかりではなく、自分から触れてもらいたいと思ったこと。これは私の大きな進歩だ。 

 夕暮れの水色の空を見上げながら、静かな澄んだ思いで彼の腕の中にいた。いつまでも空の遠くにひばりは鳴きやまない。

 六時を過ぎて、赤い夕陽が沈んでいった。六時半になったら帰ろうな、と彼は言った。まるで初夏の夕暮れのような明るさの中、私たちは河原の土手で恋の痛みに心揺らしながら、終わりゆく一日を見送っていた。
























閲覧数:69回0件のコメント

最新記事

すべて表示

第19章 大学3年 夏休み・伊豆旅行

宇都宮での一か月の夏休みが始まった。帰省したその日から、兄の結婚に関する揉め事にまた巻き込まれた。兄が結婚相手に選ぼうとしている女性を母は決して認めようとはせず、家の中は険悪なムードが漂っていた。兄は冷静に母を説得しようとしていたのだが、母の方がひどく感情的になっていて、絶対に反対の意思をあらためようとはしなかった。 私が帰省してくると、母の怒りの矛先は私の方にも向けられた。前期試験がとっくに終わ

第20章 大学3年 2学期・山梨旅行

『少女とは、‥‥どこまで行っても清冽な浅瀬』 芥川龍之介の「侏儒の言葉」の中に、そんな一節があった。 そうであるならば、少女ではなくなった私は、絡まり合う水草を秘めた森の中の湖沼‥‥ 九月の半ば、もう秋の気配が夕暮れに潜んでいる。あまりにも大きな出来事があった夏だったので、桂木がそばにいない今、一人では心を整理できず、時々溜め息をついて壁に凭れかかって涙ぐんでしまう。 そしてやっとレポートに取り掛

第21章 大学3年 3学期・千葉旅行

経験を持つことで、私の詩は深くなっただろうか。いや、そうとも言えない。桂木との愛を詩として書こうとしても、あからさまな表現を使うこともできず、やはり抽象に逃げるしかない。あまりにも直截的であってはいけない。そこが小説と詩の違いだ。 アンリ・マティスは自らの芸術を『気持ちの良い肘掛け椅子のようでありたい』と語ったという。『私は、安定した、純粋な、不安がらせも困惑させもしない美術を求める。労苦に疲れ果

bottom of page