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  • kaburagi2

第23章 陶芸の日々

更新日:2023年10月29日


 大学を卒業してから、先生の焼き物置き場となっていた東久留米のマンションの一室を貸してもらうことになった。駅から歩いて10分ほどのところにある3LDKのマンションの一階だ。4階建てで20戸ほど入っている。陶房はすぐ先の道を渡ったところにある黒目川沿いにあった。

 引っ越す少し前から小さな荷物は桂木隆司の車で運び出してもらっていた。

 正式な引っ越しの日、両親も宇都宮から出て来てくれて荷物運びを手伝ってくれた。荷物はそうは多くはなかったので赤帽という小さな引っ越し車で十分だった。

 その日、桂木にも両親が来ることは言ってあったから桂木は来ないだろうと思っていたが、思いもよらず普通に手伝いに来てくれた。

 私は桂木の勇気にいたく感動したのだ。私の両親に会釈したのち、あれこれ言い訳めいたことも言わず荷物運びに徹し、またたくうちに部屋は片付いていった。

 下宿のおばさんにも以前から夜に彼が下宿の前に車で来ている姿を時折見られていたし、ルールに反して泊めてしまったこともあったのでどう思われているのか気がかりなところだったが、おばさんの前でも臆せず平然と落ち着いた表情をしていてくれた。

 私の両親も下宿のおばさんもぐうの音が出ず、なんとなく曖昧に微笑みながら桂木の働きぶりを見遣っていた。私はなんだか鼻が高かった。ほら、私のつきあっている人はこんなにきちんとしていて正々堂々とした人なのだと自慢したかった。

 桂木は風采がいい。誰が見ても美男子だと言うだろう。姿勢もよくシュッとしていて背も高い。漫画の「愛と誠」に出て来る「岩清水弘」に似ていると高校生の時言われていたそうだ。

 そんな具合で彼の真面目そうな二枚目ぶりに魅了され、両親も文句を言えず私と桂木の仲を暗黙に許さざるを得ないようだった。母がこだわる学歴も早稲田なら否定のしようがないだろう。公務員試験にも合格している。母のお眼鏡にかなわないなんていうことはあるはずもない。

 運び入れた食器類は桂木が買ってくれたもので、それが夫婦茶碗や色違いのペアのものだったりしたので、母はそれを見て

「茶碗がペアだなんて、なんか変な気持ち」

と言った。

同棲するみたいだと思っていたのかもしれない。しかし、いつものきつい言葉は聞かれず何となく私たちのことを諦め認めた様子だった。こういう形でさりげなく桂木を両親に紹介できて良かったと思った。彼とはまだ正式な結婚の約束もしていない。しかし、彼が自分の姿を私の両親ちゃんとに見せてくれたことで私の家のことも意識してくれているんだと思いうれしかった。

 桂木は荷物を部屋に運び入れ終わると、「じゃ」と私に微笑みかけ、私の両親に丁寧に頭を下げて帰っていった。私は彼の車を見送りながら、あとですごくお礼を言わなくちゃと思った。


 私にあてがわれたマンションの部屋は玄関から入ってすぐの北向きの六畳の洋間で灰色の絨毯が敷いてあった。左側の壁は作り付けの棚になっていて、そこに先生の壺などが20~30個も並んで置かれていた。陶器たちが発する冷気で部屋の空気が冷え冷えとしているような気がした。私が部屋に運び入れたのは炬燵と本棚、掃除機、テレビ、寝具類、衣類、身の回りの小物ぐらいだ。

 北側の窓にがっちりした防犯用の鉄柵がつけられていたので、部屋を見回した母は牢屋みたいだと言って嘆いた。兄夫婦が大きな日当たりのいい家に住んでいるのに比べて私が惨めだと。「これじゃ牢屋だ、牢屋だ」としきりに言って、私がこんな北向きの寒々とした小さな一部屋に住まなくてはならないことを悔しがりなじった。嫁が苦労せずにいい目を見ているのに、なんで娘がこんなみじめな部屋に住まなくてはならないのかと言って涙ぐみさえした

 そういう母の言い方はいつものことだったが、私はやはり腹立たしくて仕方なかった。心配なのは分かる。しかし親がするべきことは、心配だ、みじめだ、情けないと言い募ることではなく黙って信頼することではないのか。むしろ私が勇気をもって東京での新しい生活をはじめようと決意したことを褒めてほしいのに。

 母はネガティブな要素に囚われると、そのことばかりつついてきて、すぐになじったりけなしたりしてしまうのだ。自分の気持ちを直情的に発してしまう。母は一呼吸おいて考えて、場合によっては言葉を呑むということができない人だった。そういった母の性格で私は今までもずい分傷ついてきもした。

 たぶん実家にいても、衝突するか私が怒りを飲み込み我慢するだけだったろう。またストレスで胃をやられる。ここで家を離れることができてよかったのだ。親離れ、ということだ。実家を恋うる心、実家を嫌う心、私の心には相反する二つの気持ちがずっと同等に混在していたが、ここでやっと吹っ切ることが出来ると思った。

 母がいつまでもぐちぐちと嘆き涙を拭く姿には怒りしか感じなかったが、平気な顔を保ったまま両親が帰っていくのを見送った。ずっと気持ちを押さえていたのでひどく疲れてしまっていた。急にひとりぼっちを感じて寂しくなったが荷物を整理したり、少しあたりを散歩したりしながら夕方までの時間を過ごした。それが東久留米のマンションでの第一日目だった。



 廊下を隔てた向こう側には、トイレとお風呂場があり、廊下の仕切りの引き戸を開けるとダイニングキッチン、南側の庭に面したところに二つ和室があった。二つのうち一つの和室にも陶器が所狭しと並べてあった。

 もうお風呂屋さんに行かなくても済む。ただ結構狭い小さい浴槽だった。洗濯機も無かった。

 隣に住む家族は、若いバンドマンとその美しい妻、姑、大姑で、大姑はなんとなくいじめられている様子で、マンションの外の廊下に淋しそうに佇んでいる姿をよく見かけた。

 陶芸家が気紛れに休憩しにきて、陶器を運び入れるだけの部屋に、若い娘が一人住むようになったのだから、マンションの住人たちは私をどう思っただろう。まさか愛人とは思わないだろうが、しかし、先生はちょっとはそんな気もあったようで、私は後で非常に困惑し怒りまくることになる。


 東久留米駅からマンションまでの道の途中に「主婦の店」という小さいスーパーがあり、陶房の近くの黒目川沿いにも「マルエツ」という最近新しく出来たスーパーがあった。

 マンションへと折れていく道の角に「薔薇茶」という名前の喫茶店があった。入り口付近に、佐野洋子の絵本の「100万回生きた猫」に出て来る猫によく似たドラ猫風の絵の看板が飾ってあった。縦1メートルもあって猫が身をくねらせて踊っている奇妙な印象の絵だった。後に佐伯伸也が一度東久留米に来てくれて、この喫茶店で私が帰るのを待ってくれていたそうで、彼の手紙で「ねこじゃねこじゃの店」と称されていたのが思い出される。

 中に入るとカウンターの上の梁からは赤い薔薇のドライフラワーなどがいくつも吊り下げられ、どこか古風なセピア色の感じのする内装だった。

 テーブル席の壁の上の方には、下半身がヒョウ、上半身は若い裸の青年の横2メートルほどの大きな油絵が飾ってあった。ゆったりとねそべってうっとりしたような目でこっちを見ている。クリムトの絵のようなテイストだ。私はこの絵を見ると何故だか息苦しい感じになった。どこかエロティックな感じがするせいだろうか。

 髪をソバージュにした40代ぐらいの女性がオーナーで、いつもフワフワした感じの華やかなワンピースを着ていた。常連と思しき人たちが来ると軽いおしゃべりをして声を上げて笑ったり。人当たりのいいにぎやかな感じのする人だった。

 この喫茶店「薔薇茶」は、私が先生との関りに疲れた時によく逃げ込んだ。先生が土日も夜も関係なしにマンションにやってくるので、先生に会いたくない時は「薔薇茶」でしばらく時間を潰した。喫茶店の窓から先生がマンションに向かう姿をみつけると私は途端に気持ちが落ち着かなくなり、喫茶店を飛び出し駅に向かいあてもなく電車に乗ってしまったりしていた。

 東久留米に移り住んだ最初の頃は、そんな風に先生との関係に苦しみ、なるべく仕事以外では先生に会わないようにしていた。プライベートな時間が不規則に先生から侵されるので、自主的に先生から逃げるしかなかった。先生の気ままなペースに合わせていたら私の身も心も持たない。

 折角桂木が来てくれているのに、急に先生がマンションに来てしまうこともよくあり、桂木に気まずい思いもさせてしまった。先生は男性が私の部屋にいることが不満らしかった。いやがらせのように頻繁に日曜日もマンションに来た。びくびくしながらマンションにいるのもストレスなので、休日となると私と桂木は近場の山登りや道祖神めぐりなどで一日中でかけるようになっていった。


 茂竹庵陶房は、西武池袋線東久留米駅から歩いて10分ぐらいの、黒目川沿いにあった。川に面した空き地の向かって左側に陶房があり、その奥の方にはボーリング(掘削)会社の大型トラックや、鉄パイプ、ドリルといった機材などが置かれている場所があり、その隣にはプレハブの漬物工場があった。工場では昼間、大きなポリバケツに漬物を詰めるパートのおばさんたちが何人も出入りしていた。風向きによっては漬物の匂いが漂ってきた。

 ボーリング(掘削)の仕事の男性たち七、八人は、毎日早朝に集まって、大量の機材を積んでトラックで出かけていき、夜遅くに帰ってきた。いつも男性たちはすぐには帰らず、陶房の前の暗闇の中で何か大声で談笑していた。

 私は最初、陶房に一人でロクロを練習している夜や、電気窯の温度を見に来なくてはならない早朝や夜など、この男性たちが陶房の前にたむろしていると恐かった。肉体労働のちょっと荒くれた人たち、といった印象があり、若い女が夜中近くプレハブ小屋の陶房に一人いることが、ひどく危険なことのように思われたのだ。ここは住宅地の陰になっていて、本当にあたりは真っ暗なのだ。陶房の前を流れる黒目川の遊歩道にも街灯はほとんど無く、先の方まで暗かった。

 私は陶房の鍵をしっかりとしめて、少し不安に思いながら、夜遅くまでロクロを練習していたことを思い出す。薄暗い裸電球の下でうまくいかないロクロに苦戦しながら、小屋の窓にトラックが帰ってきたことを知らせるヘッドライトの明かりが動いていくのを見るたびに、彼らが帰ってしまうまでここを出て行けないなと考えていた。

 男性たちと陶房の前でたまたま顔を合わせてしまった時など、「こんばんは」と笑いながら声をかけられるのも怖かった。私はどんな目で見られていただろう。このところ急に現れてプレハブ小屋で夜遅くまで何かをやっている一人の若い女。なんらかの好奇心を持たれていたかもしれない。しかしまあ、そんなに恐れることもなかった。結果的に何もなかったのだから。


 陶房は小さなプレハブの小屋で、南の窓に面してレンガ造りの電気窯があり、その左側には電気窯より一回り小さい灯油窯があった。

 以前は完全に電気窯での焼成を行っていたようなのだが、私がお手伝いに入るようになってからは、灯油窯も併用するようになった。灯油窯の方が空気量を抑えて炎を加減できるので、釉薬の還元作用が起きやすいのだ。還元すると、釉薬の色に面白い変化が起きる。

 電気窯は温度の上がり方が安定しているので、作品もそうは失敗もなく大体分り切った仕上がりになる。主に、素焼きまでの工程で使うとか、生徒さんの作品を焼くとかに電気窯を使っていた。


 陶房の中央には木製の大きなテーブルがあり、ここが作業台で、土練りをしたり、作った作品を置いたりする。

 陶芸教室も週に1回行っていたので、生徒さんが来る直前には作品を別の所に片付け、土まみれのテーブルの上を水拭きしてきれいにしなくてはならない。

 小屋の北側には二畳ぐらいの畳のスペースがあり、炬燵が一つ置いてあった。この炬燵の上で絵付けなどをした。窯をたくと熱気が部屋にこもり、夏は暑すぎて閉口するが、冬は丁度よい暖房になる。窯をたかずにいて冷え切っている冬の日には、この炬燵が重宝した。

 畳のスペースの右側は納戸のようになっていて、冷暗が保たれるので粘土貯蔵庫になっていた。

 小屋は全体的にすすけていて埃っぽく、床などは細かく乾いた粘土の粉が堆積していて、掃き掃除をしてもすぐに土っぽくなってしまう。陶芸教室の生徒さんたちが、乾いた作品、素焼きした作品の凸凹を直そうと必死に紙やすりをかけるので、床には尚更土の粉が溜まっていくのだった。


 電動ロクロが東の窓に面して一つ設置されていた。

 私は早くロクロが出来るようになりたいと思い、先生が帰宅した後などの夜にロクロの練習をしていたが、ある日それに先生が気付いたらしい。すると嫌がらせのように大きい壺などその日作っていたものをロクロから外さずに帰っていったりした。翌日外せなくなるので下の方は糸で切ってある。もし私が壺を外してまたロクロの上に戻したとしても、正確な中心には戻せない。

 そんなに私にロクロを使わせたくないのかと思って、最初のうちがっかりしていた。

「ロクロは高いんだからな。故障したら大変だ」

などと先生は私に言うともなく言って、暗に勝手にロクロを使うなという思いを私に示してくる。私はこのまま練習もできないのかともやもやしていた。

 しばらくは我慢していたが、いろいろと不満がたまってきたころに、私は思い切って先生の壺をロクロからどかして、ひとしきりロクロの練習をしてから、また壺を戻して澄ましているようになった。中心が取れてなくてもどうでもいいやと思った。先生も翌日気づいたかもしれないが、壺をいじるなとも言われなかった。

 この頃先生も私もお互いに対してどう接していいか心が安定しておらず、それを悩みながらも、火花を散らすことを止めることができなかったのだ。


 陶芸教室は週に一回開かれていて、近所の主婦たち五、六人が来ていた。私は大学生のうちから、先生の助手ということで、陶芸教室の準備などのお手伝いをしていた。陶房の掃除、テーブルの上を片付け、拭き掃除、皆に配る粘土を計量して小さな塊を作っておくことなど。

 生徒として来ているのは主に小学生ぐらいの子どもをもつ奥様方で、自宅で使えるような茶碗、湯飲み、お皿などを楽しみながら手びねりで作っていた。作陶している間にもおしゃべりはやまず、その内容は家庭の愚痴とかさりげない子ども自慢といった具合だ。

 近くのラーメン店の若いおかみさんも、暇な午前中の時間を利用して来ていた。年上の生徒さんにお店で出す野菜炒めの味付けについて、お味噌を足したらいいのよ、お味噌を足しなさいよ、などとしつこく言われて、むっとした顔をしていたのを思い出す。

 

 しばらくは石井先生の奥さんも陶房に来ていて、私に仕事の手順などを教えてくれた。出来上がった生徒さんの作品に支払っていただく値段をつけるのは少し厄介で、縦横高さを計って容積で値段を決めるのだが、釉薬のかかり具合、仕上がりの状態で、とても大きさだけで値段をつけられないものもある。奥さんにせっかく教えてもらったのに、私が値段付けを担当するようになってから、だいぶルールも甘くなってしまったようだ。


 石井先生は明治大学出身で、大学卒業後、北京の方などを放浪していたそうだ。その後四十歳ぐらいまで富士重工に勤めていたのだが、団体行動が好きではなく何かに拘束されているのも嫌だったから、個人でできるものを探して陶芸にたどりついたそうだ。

 ゼロから始めるのはやはり大変だったそうで、十歳も年下の陶芸家を師としていたと言っていたから、忍従することも多くあったろう。

 年齢からしたら大学まで出ているというのはかなりエリートで、ある程度裕福な人。しかし、人格者かというと、それはちょっと疑わしい。どうやら心持ち女好きのところがあったようだ。

 石井先生は私が大学を卒業した後、デパートにつれていってくれて、お祝いと称してやや高額の金のペンダントネックレスをプレゼントしてくれた。うれしかったが、これはどういう意味だろうかと少しいぶかった。こういうものは親密度が高い好きな女性にあげるものではないのか。

 奥さんもその場に一緒にいて、奥さんにも同じようなネックレスを買ってあげていたから、先生は気軽にこういうプレゼントをする人なんだと思っていたが、実はちょっと違っていたかもしれない。


 ある夜八時ごろ、先生は仕事でもないのにマンションにいきなりやってきて、一晩泊まると言った。

 一体何しに?と思いながらも先生をリビングの方に招き入れると、

満面の笑みをたたえた先生は、

「私はこういう生活に憧れていたんだ」

と言いながら私の手を取り、手の甲にキスをした。

私は、最初何が起こったのか分からず、

「はあ」

などと間の抜けた返事をしていたが、よくよく考えたらとんでもないことだ。

 今、私の手にキスしたよな、と思ったら、急に逆上してきて、もうわけがわからなくなって、気づいたらすごい剣幕で抗議してしまっていた。

「こういうことは困ります! そういうつもりでここに来たんじゃありません! 私には付き合っている人もいるし。先生にも奥さんがいるんだから、夜、このマンションに来ていたら、奥さんも疑ったりしてしまうんじゃありませんか?!」

 私が顔を真っ赤にして半泣きで怒るものだから、先生はすっかりびっくりしてしょげてしまった。

「すまん、すまん。うちのやつにはこのことは言わんでくれ。もうしない。あんたの気に障ることはしない」

と頭を下げた。

 私はもう情けなくなって、果たしてこんな調子でここにいられるだろうかと本気で悩んで一晩全然眠れなかった。こんなことで陶芸を続けられなくなってここをやめてしまったら、応援してくれている桂木にも申し訳が立たない。あれやこれや考えてしまい、今後どうなるのかと不安でたまらなかった。

 

 「言う事を聞かなければやめてもらう」、そう先生に言われることだって、現実問題、あったかもしれない。そうだったら私はどうしたのか。性的な意味で先生の言うなりになるなんて、あり得ない。私はきっと潔く先生の元を去っただろう。たとえ今の立場を守るためだとしても、桂木に対する心と体の誠実を自分から裏切ることは一生、絶対無い。

 東久留米にいられなくなった場合のことも考えた。もとの下宿がまだ空いていたならそこに戻らせてもらい、駄目だったら東京に住んでいる友人などを頼り、アルバイトなり何か仕事を探し東京で生きていく手立てを探していただろう。結構過酷な人生になっていたかもしれない。しかしそうなっても、決して宇都宮に逃げ帰るまいと思っていた。

 幸い石井先生はそこまで倫理的に悪どい人ではなく、すぐに態度を改めてくれたので事なきを得た。

 先生もすっかり反省したらしく、その後は、キスとか、はなはだしいセクハラはなかった。先生にしたら何の気なしにしたキスだったのかもしれない。しかし私にはひどく衝撃的なできごとだったのだ。

 この一件で、しばらくは先生に対する尊敬も信頼も一気になくし、気持ちも不安定になった。先生はちょっと行き過ぎた親愛の情を示しただけ、そう軽く考えようとしたが生来の潔癖からやはり深刻に受け止めてしまい、一時、深く悩み傷つき、体の調子までおかしくなってしまった。


 私は、桂木と付き合っていることを先生に隠したりはしなかった。先生は明らかに私が男性と付き合っていることを快く思ってはいなかった。先生は私の恋人である桂木に嫉妬のような気持ちを感じていたのかもしれない。

 しかし、休日となればこれは完全に私の私生活だ。日曜日に桂木がマンションを訪ねてこようが、先生にとやかく言われる筋合いはない。

 先生は私の部屋に桂木の痕跡、たとえば桂木が持ってきてくれた油絵などが飾ってあると、

「失礼しちゃう」

などと言って、あからさまに機嫌が悪くなるのだった。

そして、桂木と会っていた休み明けなどには、朝、私の顔を見るなり、

「ホルモンの出がいいようだな」

などと皮肉めいた嫌な言い方をした。

 私もムッとして、いきなり朝から不愉快になる。そういった小さな感情の齟齬、感情のもつれ、そんなトラブルは日常茶飯事だった。


 日々の仕事が始まるようになると、狭い陶房の中のこと、擦れ違いざまに腕や肩がたびたび触れ合ってしまい、わざと触りに来たんじゃないかと思うような時も多々あった。私はそのたびに先生を睨む。

先生は、

「わざとじゃないよー。狭いから仕方ないでしょ」

と苦笑いする。

 そんなことは数え上げていたらきりがない。

 ある時は電動ロクロを教えてやると言って、ロクロの前に私を座らせ、後ろから抱きかかえるようにして手を添えてくるから、私は(これはまずい、気持ち悪い)と思い、きっぱりと「いいです。ひとりでやります」と言って断ったのだった。

 私が男だったなら、拒否しないで済んだのかもしれない。でもそうだったなら、そもそも先生は教えてやる、などとも言い出さなかったのではないかとも思う。


 窯焚きはほぼ一週間に一回、個展が近くなると週に二回。その時も先生はマンションに泊まりにくる。その度に私は不穏な夜を過ごした。ドアにしっかり鍵をかけ、トイレに行く時も大急ぎで、お風呂に入るのもやめて部屋で体を拭くぐらいで済ました。先生の足音にいつも耳をそばだてていた。

 二年目ぐらいから、私が窯焚きを全面的に請け負うようになったので、先生は泊まりにくることは少なくなった。それはいいのだが、窯焚きで私が温度の上げ方を失敗でもしたら作品が全部駄目になってしまう。先生はそっちは心配じゃないのかと思った。失敗したとしても、先生が泊まっていない方が安心だったので、私はそれでよかったのだが。


 セクハラも、今思えば可愛いものだった。あわよくば囲い込んだ若い娘の肩や手ぐらいは触って可愛がりたいぐらいの気持ちはあったのだろうと思う。こっちはどんな接触も願い下げであったが。

 女であるということによって起きる余計な悩みに私は随分翻弄されていたと思う。過度の警戒、過度の不安。私はもっとおおらかであればよかったのか。いや、独り暮らしの若い女性なら誰でも感じる恐れであったと思う。

 東久留米に来た当初は、そんな感じで陶芸に集中するというより、その周辺の些事で疲労困憊していた。

 あれらの出来事は結構私にはきつかったのだ。若かったあの時、死ぬほど苦しかった。夜、頭に上ってしまった悪い熱を下げるために、商店街を意味も無くどんなに歩いたことか。すべて過ぎ去った今だから、こうして他人事のように思い返せるけれど。


 そんなことも乗り越えていき、そのうち私は先生から「にゃあ」とか「ネーチャ」という愛称で呼ばれるようになり、陶芸助手としての生活にも徐々に馴染んでいくようになる。

 先生の陶芸に対する姿勢や考え方を受け入れるのにも、実は随分かかった。「芸術家」として先生を見たいのに、そう見させてくれないところもあって。最初の一年は、自分の思いと現実とのギャップをすり合わせるのにひどく苦労した。


 石井先生との陶芸生活で私を最も疲弊させたのは、これらのセクハラ事件よりも仕事時間が不規則だということだった。なにしろ先生は朝何時に仕事場に来て、何時に帰るということが全く決まっていないのだ。気まぐれで動いているとしか思えなかった。

 例えば朝七時半に来る時もあれば、八時過ぎに来る時もあった。十時ごろにゆっくり来る時もある。午後になる時もある。朝早すぎればびっくりしてしまうし、いつまで待っても来ない日は、遅くなるという連絡も無いので、イライラして待つことになる。

 また帰るのも、急に三時に帰ってしまうこともあれば、夕方から窯を詰め始め夜中仕事をして、一晩泊まっていったりもする。夕食や朝食の準備の心配もしなくてはならない。


 奥さん手作りのお弁当を持ってきてくれるのも、最初のうちはうれしかったが、次第に負担になっていった。先生が適当なところでお昼にしようと言って、二人で仕事場でお弁当を食べる。すると先生は食べ終わると休憩もなしに、すぐに仕事に戻ってしまうのだ。私もそそくさと食べて、さっきまでしていた仕事の続きをし始めることになる。お昼休みもとれないし、先生と離れる時間がひと時も無いので気が休まらない。


 日曜日、先生が来ないと思って桂木とマンションにいたら、急に先生が来てしまったりもした。間借りしている身だから、来ないでくださいとも言えない。先生が作業場で窯詰めなどを始めてしまうと私も手伝わないといけない気分にさせられてしまう。

 日曜日なのにこれではおちおち桂木ともゆっくりしていられない。そういう生活の基本の部分でも私の心はどんどん追い詰められていった。

 せめて日曜は休みをください、と言えるようになるまで数ヶ月かかってしまった。こちらからも早めに要求を出すべきだった。しかし、最初のうちは仕事のことでは何が何でも先生に従うものだと思っていたのだから仕方がない。先生に時間を合わせる、それだけでも大変なストレスになることを知った。

 生活がうまく流れ出すまでに、私は結構悩み苦しんだのだ。何の仕事であっても慣れないうちはつらいことがあるのだろうが、先生一人、弟子一人の環境では悩みを共有する仲間もおらず、一人で耐えなくてはならなかった。愚痴をこぼし合える仲間がもう一人ぐらいこの陶房にいたならもっと楽だったろう。


 陶房に先生一人、私一人。週に1~2回は陶芸教室で賑やかに奥様方が来るけれど、私は基本自分の仕事をしていて彼女らのおしゃべりに関わることはない。何か準備が必要だったり手助けがほしい時に声をかけてもらうぐらいだ。

 先生との感情の行き違いや軽いセクハラ、生活時間の侵食に悩むことはあったが、それ以外の面倒な人間関係は無かったから、その点は良かったと思う。

 それでも、東久留米にいる間、2~3人の男性から結婚を視野に入れたモーションを掛けられた。陶房の東側の車道を隔てた向こう側にある中古車販売の社長の息子さん、山梨大の若い助教授、出版社の編集長の女性の息子さんなど。当の本人より、彼らの父親や母親が息子の嫁に是非と、たびたび陶房を訪れ言ってくるので閉口した。私は困りつつも笑ってごまかしていたが、そのうちに先生が業をにやして、

「この子にはちゃんとした彼氏がいるから」

と言ってくれた。


 ストレスで体調を崩す時もたびたびあった。私の弱点である胃の不調がずっと続いてしまい、また再発してしまったかと悩む日々もあった。とにかく先生に感じるストレスを減らさなければいけない。

 私はしばらくたってから東久留米の駅のすぐ近くにあったヨガ教室に週1回通い始めた。夕方五時半からのクラスだった。私がその時間になって帰らせてもらうと、先生もなんとなくその後の作業をやめてしまい帰ってくれるので、その日だけは夜の平穏が保たれた。

 ヨガは私を健康にしてくれた。ゆっくりとストレッチしているとストレスも消えていくような気がした。あの頃の私はヨガによって救われていたと言ってもいい。マンションの部屋でも毎日一人でヨガのポーズをして、健康の維持に努めた。体がしゃんとすると、心も整うことを実感した。


 桂木もまた、社会人一年目は、慣れない新しい仕事、教員たちとの新しい人間関係で疲弊しているようだった。勤務先の学校は自宅から電車やバスを使って一時間半ぐらいのところにあり、まず満員電車の通勤でひどく疲れてしまうらしかった。

 事務室に二人配置の勤務で、もう一人の相手が若い女性だと聞いて、私の心は不穏に乱れていた。学校の広報に載っている写真を見せてもらったが、ロングヘアーの優し気な目をしたかわいい人だった。一日中その人と一緒に同じ部屋で仕事をしているのか。私よりその人と一緒にいる時間が長い。桂木の心が変化することを心の中で恐れていた。

 桂木にとってその人「さとみさん」は、年下ではあるが仕事上では先輩であるわけで、さとみさんに教えを乞いながら仕事を覚えていったようだ。

 桂木自身、さとみさんをどう思っていたのか、私は聞いてみたりしたことはない。気持ちがどうであろうと、私たちは現在の目の前の仕事に心を傾けていなくてはならないのであって、私は自分の揺らぎを、粘土と向き合うことで押さえていこうと努力した。

 さとみさんのことはずっと気にはなっていたが、一年後その学校の生徒数が減り、事務職も一人体制となったため、桂木は別の学校に転任した。それでやっと私はほっとすることができたのだった。


 一、二度、本当にさとみさんのことで、真剣に悩んだことがあった。桂木はその頃石仏めぐり、山登りに興味を持っていて、日曜などはよく車で出かけていた。私も都合がつく限り同行していたのだが、ある時桂木はさとみさんが山登りをしたいと言っていたのを受けて、二人きりで丹沢に行ってしまったことがあった。

 そのことは私にも言い置いていたし決して秘密というわけでなかったが、私はひどく動揺していた。山に登るとは、男女の性など無関係にただ山を楽しむものだとは思ってはいたが、私はやはり密かに苦しんでいたのだ。今までの強い絆を信じていても、苦しかった。

 そして、私と桂木とで行った旅行先で、さとみさんへワインのお土産を買おうとして迷いながら選んでいる桂木を見ているのもつらかった。嫉妬のような気持ちが湧きあがり、旅行中ずっと悲しい気分を引きずってしまった。桂木にしたらいつもお世話になっていることへの感謝の気持ちのお土産だったのだろうが、私は二人の間の親密さを見せつけられているような気がしてひどく落ち込んだのだ。桂木は常に私一人のものであってほしかった。

 

 さとみさんの方は、桂木をどう思っていたのか今となっては知る由もない。ただ彼女もこのあと旅先で知り合った人と愛を育み結婚をしたと聞いた。彼女とはお互い同僚として、今でも研修の時などに顔を合わせれば親しく会話し合ういい関係を保っているようだ。

 彼は、基本、私には終始誠実であったのだ。仕事が軌道に乗ると毎週土曜日の夕方に東久留米に来て一緒に夜を過ごしてくれた。私が石井先生とのことで自信を無くし落ち込んでいるのを慰め励ましてくれた。

「おまえは決して一人では無いんだよ」

とたびたび言ってくれた。

 桂木には感謝してもしきれない。私が東久留米で頑張れたのは桂木のおかげだ。桂木と思いを込めて抱き合い、静かに語り合い、彼の胸の中で眠り安らぐことで、また一週間頑張ろうと思えるようになるのだった。


 収入の面で私は月五万円をいただいていた。光熱費、水道代、電話代などは石井先生が支払ってくれていたので、主に食費、その他に医療費、衣料費、本代、生活雑貨などに五万円を充てた。

 ぜいたくをしなければ足りないという事もなかった。歯科医院でのアルバイトでためたお金もいくらか貯金していた。それでももうちょっと陶芸関係の材料や道具などに個人的にお金を使いたかったので、四月に入ってからアルバイトをひとつ入れることにした。


 お茶の水の駿台予備校が、大学受験に向けた通信添削の採点者を募集していたので応募した。これなら好きな時間に自宅でアルバイトができる。英語の採点者として応募したので、英語の採用試験があった。ちょっとした大学受験なみの手ごたえの内容。少し英語を離れてしまっていたのであまり自信がなかったのだが、問題を見たらまだそれぐらいは解答することができた。

 駿台予備校の採用担当の人は若い男性で、応募してくるのは百パーセント大学生であるのに、私がもう学生ではなく陶芸に携わっていることを知って驚いていた。面接を経て無事に採用となり、週に二十枚ぐらいの添削問題の採点を受け持つことになった。自宅で採点し、講評を書いて翌週にお茶の水まで持っていくのだ。

 いつも二十枚やり終えるのが期限ぎりぎりになっていた。しかも窯焚きがたてこんでくると、採点どころではなくなってくる。夜中過ぎても終わらない採点に泣きそうになることもあった。マンションに泊まりに来た桂木に、時々採点を手伝ってもらうこともあった。

 その後採点見本を作る添削インストラクターになったり、予備校の新しいテキストの校正を頼まれるなどして、アルバイト料がちょっとずつ上乗せされていった。

 通信添削のアルバイトは、結婚して子どもが生まれる直前まで続けた。

 英語に携わる仕事は、自分の英語力や諸々の知識量に自信が無いとなかなか出来るものではないが、私は結構この英語添削のアルバイトを充実した気持ちで取り組んでいた。もしかしたら学んできた英語を生かせる道もあったのかもしれない。でもやはり片方の目の視力に問題がある私には、一日中文字とにらめっこするような仕事はつらくなってしまっていただろう。



 さて、ここからが本業の陶芸についての話である。

 私が仕事として主に何をしていたかというと比較的早くから、先生の大壺に絵付けをするようになっていた。筆づかいが問われる上絵というのではなく、土を成形してまだ半乾きの壺の表面に窪みの線を入れて、そこに染料を混ぜ込んだ粘土をはめこんでいく、謂わば象嵌のような手法だ。

 絵柄は日本画の画集の中から、先生が「こんな感じに」、と指し示すので、私はそれを真似て描き写すのである。素人の私が本物の絵をそのまま再現できるわけもないから、ちょっと微妙な絵になるが、むしろ原画と離れた方がオリジナルっぽくなるので、それでいいらしかった。

 先生は今まで壺に絵付けはしてこなかったので、絵が入ったことで急に作品の傾向が変ったと陶芸教室の生徒さんたちの専らの噂となった。あまつさえ「これはあなたが描いたんでしょう?」と私に耳打ちする人もいた。しかし、「そうです」とも言えず、「いいえ、先生がお描きになったんです」と、ずっと言い続けていなくてはならなかった。

 先生の個展でそれらの壺に何十万とかの高額の値札が付けられ、また、それが実際売れていったりするので、私は「これでいいのか?」といつも疑問に思っていた。買っていった人は完全に先生の作品だと思っているのに、絵は素人の私が描いたもの。だましている様な気分になって後ろめたかった。先生は売れさえすれば上機嫌だった。なら、いいか、と私も自分を納得させるしかなかった。


 粘土に触っていると気持ちが良かった。土練りも、リズミカルに菊練りをしていると心地よく汗をかける。先生が帰った後に、ロクロを練習してみたり、手びねりで小さなものを作ってみたりするのも好きだった。基本、陶芸は好きだったのだ。

 それも生活に慣れてからのことだ。最初のうちは先生とうまくいかないことに精神的に苦しんでいた。一緒にいてこんなにお互い不愉快になってしまうなんて。自分の人格がおかしいのかと悩んだ。でも桂木とは、喧嘩しながらでも終始心地よい関係を築けたのだ。私だけの責任だけでもなかったろう。

 粘土で成形し、丹念に形を整え、乾かし、素焼きをし、釉薬をかけて本焼きをする。焼き上がったあと、窯から引き出され、作業台に並べられた陶器。出来不出来はともかく、陶器に貫の入って行く微かな吐息を聞きながら作品が落ち着いていくのを見るのは心地よいことだった。

 私の小さな試作品も、ちょっとは先生の作品と一緒に焼いてもらえた。原料から調合した独自の釉薬を使っていたため、流れ落ちたり弾けたりの危険があったので、いつも直火があたる焼成にもっとも不都合な場所に火避けとして置かれ、やはり火が入りすぎて焼け過ぎの印象になってしまうものも多かった。

 それでも、焼いてもらえる、ということだけでも先生に感謝しなくてはいけなかったのだ。なにしろ、私のものと言える作品はほとんどが火避けにされて失敗したものばかりで、時々成功すると、その釉薬の配合方法の開示を迫られ、作品の方はあっさりと先生のものになってしまうのだから。

 逆に言えば、その作品は先生に認められたということにもなろう。ガラス粉を多用し、陶器の底に美しいガラスの亀裂模様が入る釉薬は、我ながらよくできた釉薬だった。先生に調合方法を教えるのが結構悔しかった。しかしそれで先生の個展に少し寄与できたのだから、それでいいとするしかない。


 先生には、○○焼きというブランドは無く、丸二陶料という陶芸材料、粘土、釉薬を売っている会社から定期的に適当にみつくろっていろいろな種類の粘土、釉薬を仕入れていた。丸二のご用聞きの人が度々陶房を訪れて、先生の注文を聞いて次回持ってくるのだ。だから、信楽の土やら、磁器のなめらかな白い土やら、出来合いの様々な釉薬やらが脈絡もなく陶房に持ち込まれていた。失敗しない土、失敗しない釉薬を使っていたから、先生の作品には大きな破綻も失敗も無く、なんとなく無難な出来だったと思う。

 私は、陶芸家とは自分のブランドを持ち、誰にも真似できない粘土、釉薬の配合を持っているものだと思っていたので、先生の緩いやり方に少し拍子抜けもしていた。新しい釉薬の調合にも挑戦しないのか、と思った。それだけの時間の余裕もなかったのかもしれないが。

 

 そのうち、先生も「東久留米焼」を作ろうと思い立ち、東久留米で粘土質の土が出るところを探し始めた。私も先生と一緒にシャベルを持って、あちこち土がむき出しになっているところを探し回った。

 山肌から赤い色の土を掘り出して、それが粘土として使えるかどうか試すことにした。

そのままだと成形しにくく、ぼろぼろと割れやすい。赤いということは鉄分を多く含んでいるということで、焼くと形を維持できず素焼きの段階で割れてしまう。

 東久留米の土に、信楽の土を足していって、足していって、どうやら割れない程度の強度を保つぐらいの土にしていった。もはや東久留米の土の成分が何パーセントを占めているのかも分からない。しかし、一応、「東久留米焼」を確立して、先生は満足そうだった。



 石井先生は孤高の陶芸家と言うより実業家、投資家といった側面の方が強いような気がした。落ち着いて腰を据えて作陶している姿より、せかせか動いている姿の方が多いように見受けられた。

 茂竹庵陶房での主婦たち向けの陶芸教室の他にも、黒目川沿いにある障害者施設「バオバブ」でも知的障害のある人たちに陶芸を教えていた。所沢でも陶芸教室をもっていた。

 近所の料理屋から食器の注文を受けて、何十個もの丼を作っていたこともある。先生はその頃楽焼のような低火度の焼き物に凝っていて、発色がマイルドな作品を作っていた。先生は口当たりが柔らかいなどと自画自賛していた。

 しかし焼き過ぎによって釉薬の発色が乱れるということが無い代わりに、低い温度で焼くので焼き物としての強度が少なくなる。頻繁に使って洗ったりする料理屋さんの丼に、低火度の焼き物で大丈夫なのだろうかと、私ははた目で見て心配していたものだ。

 案の定、料理屋さんから、いくつか縁が割れてしまったからと、追加での丼の注文が入った。私は関係ないやとばかりに口を出さずにいたが、先生のやり方は間違っていると内心思っていた。私はいろいろと心配しているのに、先生はなんとも思っていないらしいのが不思議だったし不満だった。


 新宿の三越デパートでも年一回、春に個展を開いていた。直前一か月などは週に二回も窯を焚くので、夜中も窯が気になって良く寝れずふらふらになってしまう。時とすると個展中にも窯に火が入っているので、私がつきっきりで窯の火を見ていなくてはならなかった。ひとりで窯の火を消すまで見届けるのは緊張するし神経が疲れる作業だ。

 市が開催する秋の文化祭にも、自分の作品と共に生徒さんの作品を出品させていた。見栄えのよい作品を出品させたいがために先生が生徒さんの作品に勝手に手を入れてしまったりしていたので、生徒さんたちからは密かな不平の声もあがっていたようだ。

 東久留米の広報誌の編集・取材の人とも付き合いがあって、たびたび記者の人が陶房に出入りしていた。

 大学教授なども含む文化人を気取った市民団体の人たちとも親交があった。どこかに陶芸の里を作ろうなどと夢のような話をしては、日帰りバス旅行などを何度か企画して陶芸教室の生徒さんを集めて出かけていた。

 秋には二週間、奥さんを伴って中国旅行に行くのが恒例だった。先生は、土練りや絵付けなどの仕事を私に残していったが、この二週間だけは私は心からほっとして息を抜くことができた。

 普段の日も、ロクロで作陶しながら急にロクロを止めて、証券取引所の知り合いの人に電話をかけ、持ち株の値の上がり下がりを何度もしつこく聞いていたりもしていた。その結果では急に不機嫌にもなる。先生は結構気分の上がり下がりが激しく、一日の三分の二程度は不機嫌だと思っていた方がよい。


 東久留米市の社会教育課とも繋がっていて、毎年小学生を集めて縄文土器を作る教室を開き、作ったものを公園で野焼きするという結構大きなイベントの指導にも関わっていた。

 野焼きとは、公園で焚き火をして縄文土器を模した粘土作品をそのまま焼くというもので、一応、市の社会教育課主催で石井先生は依頼された講師だった。私も助手という事で、作陶指導から野焼きまで関わった。

 野焼きなど今なら考えられないことだ。市内で一番大きい公園で、まずは落ち葉や廃材で作った大きな焚き火を起こす。1つの焚き火に講習に来ていた小学生4~5名とその親が配置され、それが4つほど。それぞれが大きな焚き火の中で焼かれる自分の土器を見守ることになる。

 焚き火からは大量の煙が立ちのぼり、近所にも真っ白に流れていった。苦情が来てもおかしくないレベルの濃密な煙。それに、とろ火、強火、徐々に弱火、のように火を調整しなくてはならないので、完全に火を消し止めるまでに半日以上はかかっていた。

 作品も素焼きの過程を経ずに、乾燥させた粘土作品を直接直火にあてるので、かなりの確率で割れたり破裂したりしてしまう。完全に元の形をとどめていられる作品は二、三割程度だったろうか。縄文時代のやり方そのままで焼こう、という趣旨なのだからそれでもよかったのだろうが。

 私だったら失敗や事故を恐れてとても引き受けられない。しかし石井先生は、特に何も恐れる様子もなく、にこにこしながら野焼きを眺めていた。何か他人事のようだった。先生は度胸がある、と思っていた。火の事故があったら先生が責任を問われてしまうというのに。 時折巨大になる火が、公園の樹木を焼きそうになるのを、私はひやひやしながら見ていた。

 作品を焼いてもらう小学生の子どもたちも、大きな焚き火が面白いのか、はしゃぎながら火の回りを囲んでいた。あちこち危ない遊びをしている子どもたちを注意して回ったり、焚き火の加減を調整したりして、野焼きが終わる頃には、私は疲れ果て全身焚き火臭くなっているのだった。

 日曜日を利用しておこなったので、保護者たちも大勢集まっていた。お父さんたちは焚き火を面白がり、燃やすのを手伝ってくれた。

 焼き上がってまだ熱い作品を陶房に持ち帰るのも慎重を要した。熱い灰と共にダンボール箱に土器を収納し、陶房の横に一晩おいて冷ますのだが、夜、少しダンボールから火が出てしまったこともあった。近所のマンションの人が気付いて消してくれたからよかったものの、陶房を火事で燃やしてしまうところだった。

 野焼きに関わった小学生たちに感想文を書いてもらい小冊子にしたものを配布するのも、なぜかうちの陶房の担当だった。冊子を送る郵送代がもったいないということで、私が地図を見ながら自転車で各小学校を回って冊子を届けた。何校にも渡ったので、だんだん日も暮れて来てしまい自転車をこぐ足も重くなった。


 その他にもやはり社会教育課主催の障がいのある人のための陶芸教室も先生が頼まれて講師をしていた。

 社会教育課主事が、陶芸教室開催に当たって、「私も障害者みたいなものですから、」と謙遜のつもりで挨拶をし始めたので、その言い方はまずかろう、と思ったものだ。

 二十歳ごろに失明したという四十歳ぐらいの女性が、人形を作っていたのが印象的だった。人の形はしていたが、のっぺらぼうな顔だった。手探りで丹念に形作る、その様子に心打たれた。小学生の男の子の兄弟二人とも遺伝性の難聴だというご家族も来ていた。ダウン症の男の子も来ていた。多動の子もいた。

 陶芸を通じて、障がいのある方たちとも多く触れ合うことになった。黒目川沿いに障害者施設があるので、遊歩道を施設まで子どもを歩いてつれていく母親の姿もしばしば見られた。障害のある子どもを持つという事、その親御さんたちの生き方について深く考えずにはいられなかった。

 市が用意した会議室などの会場を使うと、床を粘土で汚さないようにビニールシートを敷くひと手間がある。終わってからの片付けも厄介なものだった。私が率先して這いつくばって作業をしていると、先生が前で見ていて、

「にゃあのおっぱい見えちゃった。にゃあって意外とおっぱいあるよね」

などとにやにやしながら言ってきたりする。

 全くなんていう人だ。見えちゃったから眼福とばかりにずっと食い入るように見ていたというのか。先生はそう言われた私の気持ちなど全く考えもしないのだ。私はひどく不愉快になって顔をしかめて先生をにらむことになる。こうした先生のセクハラ言動は完全に止むことは無く、私をその後もイラつかせたのだった。


 先生はいろいろな依頼にすぐに応じるような人だったし、黒目川沿いの陶房は冬以外は扉も開いていていつもオープンだったので、気軽に人がサロンのように立ち寄れる雰囲気があった。お年寄りの知り合いが、ちょっと休憩とばかりに入ってきて少しおしゃべりをしていくこともあった。先生はその度におしゃべりに付き合ってあげていたが、あまり相手が帰らないとそのうちイライラそわそわし始める。

「あの人は話が長くって仕事にならないよ」

とこぼすものの、入ってくる人を仕事があるからと拒否することは無かった。

 石井先生が陶房の中の活動だけでなく、外に開いていく人だったので、私も幅広く色々な経験が出来たと思う。教室を通じて多くの人と知り合えた。町の人ともたくさん顔見知りになった。市の社会教育課の人たちとも町や図書館で会ったりした時などに、立ち止まって親しく会話できるようになった。そういった点では、先生の元で一緒に仕事が出来て良かったのだと思う。作陶にだけ一心に集中したいというならば、いささか落ち着きに欠ける陶房ではあったが。


 

 資料を探していたら、石井先生の陶歴が書かれたパンフレットが見つかったので、ここに記しておく。


1940年:明治大卒のち中国を訪ね陶芸を志す

1943年:東京都杉並区に築窯し独立

1965年:第一美術協会展受賞

1966年・日本陶磁協会理事長の大河内風船子(信威)氏に師事

1975年:中国の遼様式に憧れ独自の作風を確立。本年より新宿三越で個展。恒例とする

1976年:東久留米に築窯。市社会教育課陶芸指導

1985年:縄文遺跡の土を利用した東久留米焼を完成

1986年:フランスのニース「日本文化週間フェスティバル」に東久留米焼が日本代表で参加。続いてフランスのニーム商工会議所と東久留米市長との要請で「日本フェスティバル」に参加。東久留米焼がニーム市の永久保存となる。

1987年:アメリカのシアトルで開催された「セラミック展」に国際交流の一環として展示参加。続いてフランスのアヴィニオンで開催された「ヴォクリューズ日本展」にも協力参加。東久留米焼と古代・伝統をテーマにした陶板が注目される

1988年:池袋サンシャインシティの東京新聞アートサロンで陶板展開催

1989年:東久留米焼の拠点茂竹庵のかたわらに念願の校倉づくり茶室を完成。その竣工記念展を銀座鳩居堂で開催

1990年:大河内信威氏を哀悼。先生を偲び鳩居堂で個展

 この後も、プラハ、フランスのリヨン、ストラスプール、プロヴァンス、オルレアンなどで開催された日仏友好フェスティバルに毎年のように出品している。新宿三越デパート以外にも、銀座鳩居堂で八回個展を開いている。

 私は1980年頃から1986年までお世話になった。フランスと関わりを持ったところまで知っている。

 しかしなぜこんなにも先生が海外に出品できたのか、私には未だ謎だ。何かのつてがあったのかもしれない。売り込みも上手だった。たとえばフランスのニースに出品できることになった時、陶芸教室の生徒さんを大勢引き連れてフランス旅行にまで行ってしまっている。その時、先方と更なるコネクションを上手く持ったのかもしれない。

 先生の作品は、どこかゆるく、きっちりとした完成美を目指すというものではない。東久留米焼だって、どんな釉薬をかけても黒っぽくなってしまって見栄えがしない。ごつごつとして無骨だ。全然いいとは思えなかった。あちこちの陶芸作家の作風をまねようとばかりしているし。素人の私に絵付けをさせて平気で売ってしまうし。際立って素晴らしい作品を作っていたわけではない。

 それにも関わらず、陶歴だけ見るとこの華々しさだ。


 芸術って一体何だろうと思う。どんなに精進して、どんなに優れた作品を作っても、ちゃんと外に提示し評価してもらわないことには分かってはもらえない。売り込みが下手だと、どんないい作品でも一生日の目を見ることはできない。どんどん前に出て、自分の作品を見せていかないことには、ひっそりと埋もれていってしまうだけなのだ。

 先生はその点で、ひどく商才が長けていた。たとえ稚拙であっても、恥ずかしさも何のそのでどんどん発表しアピールしまくれば、なんとなく、いいんじゃない?と受け入れてもらえるという証左だ。

 それに先生は人とのつながりを持つことも上手だった。個展の場を沢山持てたということは、それだけの豊かな人脈も持っていたということなのだろう。

 正直に言うと、あの頃先生の作陶をきちんと尊敬できなかった。先生には申し訳なかったが、いつも先生のやり方に不満や疑問を感じていた。そもそも素人の私に絵付けなんかをさせている時点で駄目だろう。

 個展のパンフレットに残る当時の作品を見て恥ずかしくなる。先生の作品として、私が絵付けした大物の壺・香炉、陶板絵、仏像、面などがちゃっかりいくつも載っている。ダメだろ、これ、と思う。ああ、ヘタだ、と思う。こんなものを先生の作品としてパンフレットに残しちゃダメだろ‥‥。しかもそれを買う人がいたのである‥‥。ぐい飲みや、湯飲みならいざ知らず‥‥。


 忸怩たる思いがありながらも、それでも、私は精一杯自分を押さえて先生に尽くしたのだ。土練り、窯詰め、窯焚き、下働きならなんでもした。私の出来うる限り先生を補助していた。芸術の尊厳を損なわないでいられる仕事ならならなんでも。でも先生の創作物に手を入れるのは嫌だったのだ。先生の作品をダメにしているような気がして。

 私がもっと絵がうまければ、先生の作品もより見栄えのするものになっただろう。しかし絵が上達するには時間が少なすぎたし、そもそも私は絵付けをしたいと思って陶芸の道に飛び込んだわけでは無い。

 先生の作品に私の痕跡を残す事は私の本意ではなかった。それを先生は知っていながら、「何か描いて」と気軽に私に頼む。私は、「えー?」と戸惑う。その繰り返し。私も精一杯報いようと頑張ってはみる。しかし粘土は、成形、乾燥、素焼き、本焼きの過程でどんどん様相を変えていってしまうのだ。粘土に描いた絵がそのまま美しく発色する可能性も少なく、本焼きを経ていよいよ私の絵付けはどんよりしたものになっていくのだった。

 先生の壺を私の絵で汚して申し訳なかったと思うと同時に、やっぱり私に描かせちゃダメだったんじゃないかと今でも思う。


  私は弟子でありながら傲慢なところもあったと思う。先生のやり方にいちいち批判的な目を向けていた。

 陶芸をある程度商売と割り切って、いかにお金を儲けるかを考える先生と、金銭など度外視して不正なく芸術を高度に高めたいと思っていた私とでは、どこかに考えが相容れないところがあった。

 私は詩を書くとして、そのどこにも他人の模倣が無い事を確信しながら書く。期せずして表現の類似があったとしても、模倣ではないと言い切れる。しかし先生は、平気で模倣するし、模倣させた私の絵付けを、自分が描いたのだと人に平気で標榜する。そこのところだ。私をずっと悩ませていた点は。


 振り返ってみて常に反目していたようなイメージだが、案外そういうことはない。お互いにプンプンすることはあっても、にこやかに話をすることも多かった。株の優待券で映画なども連れて行ってくれた。画廊や美術館にも一緒に行った。食事も随分おごってもらった。

 後半は、私は反抗することをやめ、何でもはいはいと言う事を聞いていた。先生に指示されたこのやり方は駄目なんじゃないか、そう思って先生に意見したくなるのを全部のみ込んで、言われたままの作業を行った。先生に大損害を与えるものでは無いかぎり、従おうと思った。そうしてやっと陶房に平安が訪れたのだった。

 先生は私のことを愛称で、「ネーチャ」とか「にゃあ」と呼んでいた。セクハラしたのだって、私のことを可愛いと思ってやってしまったことだろう。言葉や感情の行き違いがあって、私はいろいろと拒絶してしまったが、先生は私とうまくやりたいと思っていたはずだ。

 人間関係は難しい。私と桂木は最初から相性が良く、お互いにお互いの良さを引き出す関係だったが、先生との関係ではどうやら、お互いの悪い面ばかり引き出されてしまったようだ。私は自分の醜さにいつも苦しんでいた。もしかしたら先生も私をどう扱ってよいか困って不機嫌でいたのかもしれない。茂竹庵にいた六年間、陶芸ばかりではなく人間の心の複雑さをも学ばせてもらった。主に自分の心の醜さについて。


 桂木はいつか結婚しようという方向性は示してくれてはいたが、大学を卒業してすぐの頃は、もうしばらくそれぞれに今の仕事を頑張ろうと話し合っていた。お互いの人生を丸ごと請け負うのだから、愛や恋とはまた違った設計も必要だ。

 それに、いざ結婚という話を持ち出されたら、私の方が尻込みしそうだ。家事育児をちゃんとやっていけるのか、心身ともに健康な生活を営めるのか、桂木の家族とうまくやっていけるか、など新しい生活に対する諸々の心配‥‥。

 そういう訳で、大学を卒業して6年目に、桂木が、「よし、この夏に結婚しよう」と言ってくれた時にも、待ってましたという感じではなく、もう少し今のままでもいいな、などと思っていたのだ。「長い春」過ぎたのかもしれない。随分落ち着いた愛になっていたので、一緒になることを性急に焦る気持ちはなかった。

 結婚の話を受けた時、私が意外にクールだったので桂木が「え~?」と拍子抜けしていたことを思い出す。もっと狂喜乱舞すればよかった。十分にうれしかったのだが、もう子どもっぽくはしゃげなかったのだ。戦うような陶房にいるうちに、私は素直さを少し失ってしまっていたのかもしれない。

 しかし、物事はタイミングだ。そこから怒濤のように大急ぎで式の予定を決め、川崎の桂木の自宅を二世帯にするべく各種打ち合わせにも同行し、この先のことを思い悩む時間さえなく、結婚に向かって進んでいったのだった。

 桂木とは、出会いの頃から結婚まで、さまざまな幸福な記憶を共有し合った。そして結婚後もずっと今に至るまで、桂木は誠実に私を愛し守ってくれている。面と向かって言えないが、深く感謝している。


 先生は私が結婚することを人に知られるのをひどく嫌がっていた。どうしてか分からない。とにかく陶芸教室の生徒さんにも秘密にしといてと言われたので、誰にも言えなかった。

 結婚式は三越個展の最終日の次の日だった。いつも陶器運びを手伝ってくれる自営業の石山さんを呼んで売れ残った作品を運び出す車の中、新婚旅行はどこがいいかなどといった話になり、私はよほど明日が私の結婚式だということを言おうとしたのだが、先生に厳重に口止めされていたので、つい言えず流すように受け答えしてしまった。

 後で石山さんがそのことを知って、「水臭い。ちゃんとお祝いの言葉を言ってあげたかったのに」と結構本気で私に怒った。陶芸教室の生徒さんたちも後で聞いてびっくりしていた。

 私は結婚前に皆に報告しておきたかった。ちゃんと言ってちゃんと祝福してもらいたかった。先生からも皆に言ってほしかった。普通、報告の場を持つものではないのか。

 何故先生が私の結婚を秘密にしたがったのか、今でもよくは分からない。私が結婚するということを受け入れたくなかったからか。先生なりに私のことを娘のように思ってくれていて、寂しさを感じていたのもしれない。


 私は結婚してしばらくは陶房に通っていたが、子どもを産むことになって、少し陶芸から離れてしまった。引っ越したところが東久留米から遠くなって通いにくくなってしまったからだ。

 子育てでなかなか陶房に戻れないでいるうちにも先生はまた奥さんと陶房を営み活躍していたのだが、病がちになったという手紙がきて、ある日突然訃報が届いた。


 先生を偲ぶ会には、大勢の人が集まっていた。弔問の人たちが列を作っていた。奥さんは気丈に対応していた。娘さん夫婦と息子さん夫婦が、一緒にお辞儀をしていた。娘さんは私の顔を見るとキッとにらんできた。だんなさんの方は気弱そうに 下を向いて私と視線をあわせようとしなかった。

 少し思い出した。私は石井先生の娘さんにはっきりと嫌われていたのだ。その理由は、娘さんのだんなさんが先生の作品運びなどによく駆り出されるので、土日など私と行動を共にすることが多かったから。娘さんには個展会場などでものすごく睨まれた。嫉妬されてるんだな、とちょっと可笑しかった。

 気の弱そうなもの静かなだんなさんで、一緒に電車で作品運びをした時や、三越へ作品を運ぶ梱包を手伝ってくれた時などに少し会話したぐらいだったのに。私が人のだんなさんを誘惑する女とかに見えたのか。またはだんなさんが奥さんに私のことを何気なく言ったりして、それだけで奥さんが不機嫌になっていたとか。

 先生はその言動で私の心に大きな波風を起こしていたが、私もまた先生やそのご家族に大きな波風を与える存在だったということだ。


 先生の息子さん夫婦は、私が結婚してマンションを出た後、マンションに引っ越してきた。陶器類は全部高円寺の方に引き取ったのだろう。もう息子さん夫婦の部屋になっているのに、先生は平気で合鍵で玄関を開けて休憩していた。テーブルに置いてあったサンドイッチをつまみ食いなどしていた。それはまずいだろうと私は思った。

 問題なのはトイレで、仕事場にトイレが無いので、先生が休憩に行く時に一緒にマンションに行き、トイレを何回か使わせてもらっていたのだが、やはりもうよその家庭のマンションだ。勝手に入るのはよくないと思い、私はその後のトイレは、少し歩いた先の「しまむら」まで行くとか、そのちょっと先の歯科医院の外トイレを使うなどしていた。陶芸教室の奥様方が、私がトイレで苦労していることを知って、まあそんなとこまでトイレに行くなんて大変ねえ、と私に同情した。


 先生には深く感謝している。決して心穏やかに過ごせたわけではなかったが、私は多くの経験、多くの出会いを得た。忘れる事のできない六年間だ。普通の会社に勤めていたら、こんな「ものづくり」の世界を知ることはできなかった。

 そもそも先生が拾ってくれなかったら、私を弟子にしようという陶芸家など一人としていなかったかもしれない。

 先生は救いの神だったのだ。先生のおかげで東京に住み続けることができて、陶芸の色々を学ぶことができた。そして何より桂木とも繋がっていられた。それを思うと先生に平伏したいくらいだ。

 しかし、感謝だけでは見過ごしにできないこともあったわけで。私が女ではなかったなら、先生とも別の付き合い方が出来たろうにと思う。


 自分でも自宅に電動ロクロを買って物置のスペースでロクロを引いていたこともある。しかし焼成の手段が無いので毎回つぶして丸めてしまう。陶芸をやるにも場所とお金、設備が必要なのだ。粘土であちこち汚してしまうから部屋の中ではできないし。

 先生の陶房を引き継ぐという話もあったが、私には先生の地盤を引き継ぐだけの力量はないのでご辞退したのだった。窯も老朽化していたからいずれ買い替えなくてはならないところまで来ていた。私には全く資金が無く、そういう点でも先生の後を継ぐのは無理な話だった。


 陶芸の生活から離れてしばらくは子育てに専念していた。自宅から割と近いところに陶芸教室があって、子育てが終わったらやりたいなと思っていたのだが、いつのまにか教室が閉じられてしまっていた。市民館でも陶芸教室のサークルをみつけたのだが、私の興味は太極拳とか健康づくりに移っていて、陶芸教室に入ることは無かった。

 いつかまたきっと、そう思って東久留米から持ってきた粘土の玉のいくつかを時々固まってしまわないように、時々練り直していたりする。

 時々自分で作った陶器を取り出してながめたりもする。イケてるものもあるにはあるけれど、改良の余地のあるものばかり。自分の窯が持てていたなら、きっともっといいものが作れていただろう。

 陶芸へ足を踏み入れる始まりは恋がきっかけ。どうしても東京に残る手段としての窮余の一策。それでも私に多くの夢や学びを与えてくれた。あの泥まみれにになって駆け抜けた時代を、ただただ懐かしく大切なものと思う。


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