第17章 大学3年 5月
- kaburagi2
- 2022年11月23日
- 読了時間: 62分
更新日:2024年4月10日
歯科医院のアルバイトでは、院長先生が四月の終わりから五月の連休にかけて中国旅行に行っているので、患者さんの数が抑えられてあった。秀夫先生は患者さんが途切れても、石膏の型の調整などで結構忙しいらしかった。
私は患者さんがいないと仕事が無いので、受付の席で文庫本を読んでいた。その本の中の一文に心が留まった。
『誰にとっても本当の天職はただ一つ、自分自身に到達することだけだ』
天職にたどり着ける人など、ほんの一握りであるに違いない。しかし私はまだ希望を持っていた。真の自分自身に到達するためには、今私は何をしなくてはならないか。
桂木との愛を得ている今、私は卒業後も東京に残る方策を探さないといけないと思い始めていた。桂木と結婚するのか、あるいは破局もあるのか、そのどちらであってもしっかりと東京で生きていくためには、何か本当に打ちこめる仕事を求める必要があった。行政書士、司法書士は、宇都宮に逃げ帰るための方便だった。逃げ帰る、という選択肢を私の内から消した時点で、既に法律の勉強には興味をなくしていた。
最近は幼稚園の年長さんになった知子さんの一人娘の希美ちゃんが、歯科医院の二階で夕方まで過ごすようになっていた。二階にはピアノがあって、以前中学の音楽教師をしていた知子さんが、希美ちゃんに個人教授をしているようだった。
希美ちゃんはピアノの練習をひどく嫌っていた。二階からはよく知子さんのきつい𠮟責の声が聞こえてきた。希美ちゃんが控え室にいる私のそばまで逃げてくることもよくあった。そのたびに知子さんが二階から怖い顔をして降りてきて、泣き騒ぐ希美ちゃんをまた二階に引っ張っていく。私はそれをただ心配しながら見ていることしか出来なかった。
その日、希美ちゃんは久し振りにピアノの練習から解放され、『幼稚園』という雑誌の付録を作ろうとしていた。彼女はひまそうにしている私のそばに擦り寄ってきて、
「ねえ、おねえさん。これどうやるの?」
と、付録の切り抜きをぱたりと受付の机の上に置いた。
希美ちゃんのサラサラした細い髪の毛が、私の胸元できらきらと光っている。柔らかそうなふっくらとした頬を持っているのに、その腕や肩は華奢で壊れやすいかよわさだ。いつも笑みをたたえているような目は、無垢そのものといった輝きを放っているが、ピアノの練習の時間になると思い切り曇ってしまう。こんな小さい子にも生きていく上での試練はあるのだ。
私はいつでも小さな希美ちゃんを抱き締めたかった。道端で遊ぶ子どもたちの姿を振り返りながら愛おしく見ることもあった。電車の中で出会う幼児たちと、その母親たちが羨ましかった。不安定な音階と間違った歌詞で歌う子どもの無邪気さや、母親としりとりをしている子どもの利発そうな笑顔を見ているだけで胸が一杯になった。
子どもを見て涙が出るような思いにかられるのは、私に子どもを産み育てる自信がまだなかったからだ。子どもを持つ将来が思い描けなかった。体はもう大丈夫なはずだと思いながらも、時折胃が痛んだり食欲が無かったりすると、再発かと思い悩んだりする。
桂木は私の弱さも分かっていて、別に子どもなんていなくてもいいさ、と言う。俺の遺伝子なんて残らない方がいいんだ、とも。私が完全に健康だと言い切れるようになったら、新たな考えが私たちの上に訪れるのだろうか。
希美ちゃんが広げた雑誌の付録の中には、日光写真があった。ウルトラマンやドラえもんなどの漫画のフィルムを白い印画紙の上に乗せて太陽の光にさらすと、印画紙に青く絵が浮き出てくるのだ。
これ、やってみよう、と言いながら、希美ちゃんと玄関前の自転車置き場のところに行き、くもり空の夕刻の光に印画紙をかざした。
「まだかな、まだかな」
もう夕暮れの光になってしまっている薄い太陽光ではなかなか焼き付けられず、私たちは何度もそっと覗き込んでは、もう少しね、と待っていた。
秀夫先生の黄色いスクーターに凭れかかって、希美ちゃんは幼稚園で習った歌を恥ずかしそうに細い声で歌ってくれた。
あなたが可愛らしい少女になり、美しい娘になり、魅力的な大人になり、私のことなどすっかり忘れてしまったとしても、今日、二人で夕焼けを見たことを私はずっと覚えているからね。幼いままで、きっとそのはかなさのままで。
しばらくたってやっとなんとか写真が出来上がった。希美ちゃんは薄青く浮き出た絵に喜びの声を上げながら、診察室に飛び込んで行った。
「おにいちゃん、絵が出たよ。ほら」
希美ちゃんはその日光写真を、石膏の型を調べていた秀夫先生の目の前に突き出した。
「あっ、ほんとだねえ。日光写真か。昔やったことあるよ。今でもあるんだね。懐かしいなあ」
秀夫先生は目を細めて優しい表情になり、私と希美ちゃんを交互に見比べた。この暖かな時間。幼な子が間にいるだけで、金属的な空間がビロードの手触りになる。
五月の連休を前にしたある夜、アルバイトから帰ってきて下宿のポストを覗いてみると、畑中正則からの手紙が入っていた。青い封筒に入った硬い紙質の便箋を押し広げて、少し焦りながら青いインクの文字をざっと見渡すと、すぐに目に飛び込んできたのは『Country Girl』と題された歌の歌詞だった。それはつまりラブレターのようなもの、そして同時に失恋を自分に言い聞かせるような内容の手紙だった。
『最近法学部八号館と本部図書館の間の道を歩いたことがありますか? 両側の木々の新緑が目にしみて、若葉薫る五月だなあと、しみじみ思います。遠くに見える演博の館と相まって、本当にここが早稲田かなと思うくらいです。
突然お手紙差し上げて、大変驚かれたことでしょう。つれづれなるままに書いたrough letter ですから、暇な折にどうぞ気ままに読んでください。
以前、数回電話でお邪魔しましたが、迷惑だったかなと反省しております。いただいた
年賀状の返信や、お電話でのあなたの言葉に、自分を拡大解釈して、knight のように気負ったところがあったようです。
このところ人間関係やその他で、精神的に疲れることが多く、精神状態が不安定な状況が続いています。友人たちによると、近頃、前より一層おかしくなったとのことです。精神的な安らぎを求めていくように努力していかなくては‥‥
愚痴をボソボソこぼしてしまいましたが、近頃好きで気持ちよく歌っている歌を紹介します。シンガーソングライターの谷山浩子の歌です‥‥』
その手紙には「Country Girl」の歌詞が丁寧に書いてあった。それは別の男性を好きなある女の子のことを、ずっとそばで見守り思い続けている青年の心を歌った歌だった。
『‥‥四月の半ばぐらいだったか、あなたがラウンジにいるのをみかけて、声をかけようとした時がありました。あなたはなんだかうつむいて泣いているみたいだったので、声をかけられませんでした。悲しそうなあなたの姿を初めて見ました。僕で何か助けになれることがあればと、その時から思っていました。
それから少したって、早稲田通りをお友だち(きっと彼氏でしょう?)と笑いながら歩いているあなたを見ました。僕はなんだかほっとしたけれど、同時に、あなたが笑顔を向けているのが僕ではないことに、少し落ち込んだのです。
‥‥ごく最近、少しは落ち着いてきたようにも思います。俗世を離れて心洗われるような素晴らしい土地へ散歩しに行きたいなあ。できればあなたと一緒にと思っていたけれど、それはもう諦めました。
これで邪魔者はご迷惑をかけるようなことは一切しないつもりですので、ご安心を。ただ、悩みごとなどありましたら、いつでもどうぞご連絡を。身上相談所などとしてご利用ください。
それではお元気で』
あの畑中君が‥‥。押さえられた悲しみと失意に満ちた文面。私は茫然と下宿の出窓に座って、暗い庭の方をずっと見ていた。
畑中正則からの数回の電話に、「暇だったらまた電話してね」など軽い気持ちで言ってしまっていた私にも責任はあるだろう。なにしろ去年はまだそうは頻繁に桂木隆司と会えていたわけではなかったので、女子であれ男子であれ、友だちとして何人もつなぎとめておきたかったのだ。
彼とは大学の構内で会えばいつでも立ち止まって、語学の予習のことや専攻の授業について少し話をし、じゃあ、またね、と言って笑顔で別れた。昨年末には、寺井雄二のお見舞いに行く彼と上石神井で偶然に会ったので、歩きながら楽しくおしゃべりもした。心理学を専攻している人だから、どんな悩みも受け入れて解答を与えてくれそう、そう勝手に思っていた。
畑中以外にも、そういう風に気軽に立ち話をする男子は何人かいて、私はその誰とも友だちのつもりでいた。しかし私が安易に放った親愛の言葉が、私の知らぬ間に人の心の中に潜り込み、今こうして畑中を傷つけることになってしまった。私は最近大学ではいつも桂木と一緒だったし、きっと畑中は私と桂木がじゃれあうように笑いながら歩いていくのを見たのだろう。
畑中は西武線の中井駅近くに下宿していた。下宿から一キロほど先に哲学堂公園があって、桜がとても見事だと言っていたのを聞いたことがあった。
哲学堂公園は去年秋に一人で散歩しに行ったことがあった。哲学者の井上円了によってつくられた公園であり、公園の端の切り立った崖の下の方を妙正寺川が流れ、公園の全体は密生した木立に囲まれている。哲学的な名称をつけられた奇抜な形の建物が点在していて、それがこの公園の大きな特徴だ。
女性が一人で歩くには木々が深すぎるし、ちょっと寂しすぎる感じがした。私はなんとなく不安を感じながら、四聖堂、六賢台、哲理門など建物の名称をひとつひとつノートに書きつけ小走りで公園を駆け抜けたのだった。振り仰ぐと野球場のナイター照明が木々の間から聳え立っている。畑中もこの公園を一人で散策したりしていたのだろうか。
彼の気持ちを追い詰めてしまったのは、私のせいだと、しきりに自分が責められた。一歳年下とは思えない落ち着いた態度。去年心理テストをしてもらった時の、彼の楽しそうな笑顔も覚えている。あれから気持ちがどう変わったのだろう。いつまでも変わらずにいい友だちでいようなんて、私の方から言えるわけもない。
私は息苦しさを吹き飛ばすように、いきなりお風呂の道具を抱え外へ飛び出した。いつかの夜、畑中がコインランドリーからかけてくれた電話が、落ち込んでいた私の心を温めたことをもう伝えることもできない。私がこれから何を言っても彼を慰めることなど出来ないのだ。畑中を恋人として愛することができない以上。
もう九時半を過ぎていた。私は関町の電話局の前の電話ボックスの明かりに引かれるように、桂木隆司の家に電話をかけていた。
「もしもし、小島です」
「よう、こんばんは。こんな時間にどうした」
「あ、ごめん。時間遅かったね」
「そんなことはかまわないけど、珍しいと思ってさ。どうした?」
「‥うん。なんでもない。ちょっと寂しくってさ。隆司の声が聞きたくなった」
「おっ、いやに素直だな。いつもは口が裂けたって、寂しいなんて言わないのに。何かあったか?」
「‥‥別に何も無いよ‥‥」
「何かあやしいな。大丈夫か?」
「うん。これからお風呂やさん行くんだ」
「おっ、いいねえ。だけど時間遅いから、行き帰り気をつけろよ。襲われるんじゃないぞ」
「襲われるもんか」
「そりゃそうだ。おまえなら痴漢も逃げるぜ」
「ううー。それどういう意味よー?」
「へへっ」
「明日は、暇?」
「明日は、午前中は、ばあちゃんを病院に連れていかなくちゃならないんだ。午後なら空いてるよ」
「じゃあ、午後会える?」
「うん。大丈夫だよ。こっちまで来れるか?」
「うん。一時ぐらいでいい? 向ヶ丘遊園駅の北口ね」
「よし。改札で待ってる」
電話を切って電話ボックスを出ると、お風呂屋さんまでゆっくりと歩いていった。空には星も見えない。遠くで踏切の鳴る音が滲んで聞こえていた。
傷つけられることばかり恐れていたが、いつのまにか傷つける側になっていた。桂木に対してもそうであったように、畑中に対しても。私って駄目な奴だ。人の心が全然見えていない。自分中心に物事を判断して、ひとりよがりに踊ってるみたいだ。畑中には、ただ詫びるしかない。あのような手紙を書かせてしまったことについて。
翌日の土曜日の午前中、畑中正則の下宿を地図を頼りに訪ねてみた。会うつもりは無かった。ガードをくぐり東の方に歩いていくと、有名な画家の刑部人の大きな屋敷があって一際目を引いた。このあたりは緑の多い閑静な住宅地だ。早稲田まで通うのに、中井からなら徒歩や自転車だって可能だろう。
畑中正則の下宿はすぐに分かった。向かいには線路があり、その先には小さな児童公園があった。私は畑中の気持ちを気遣う短い手紙を彼の下宿のポストに投函してから、桂木隆司に会いに行くために西武線に乗り込んだ。畑中の気持ちを知ってしまった以上、畑中とはもう今まで通りの気の置けない友達同士には戻れないことはわかっていた。それとも、何事もなかったかのように今まで通りでいていいのだろうか。
向ヶ丘遊園の駅まで桂木隆司は自転車で来て待っていた。
「やあ」
彼は短くそう言うと、自転車の向きを変えた。
「お昼、何か食べた」
「うん、さっき軽く食べた」
「そうか。じゃあ、すぐ近くにビリヤード場があるから、ちょっとやっていかないか?」
「うん。いいよ。あんまりやったことないから教えて」
「俺も友だちと何回かやっただけだから、教えるほどじゃないんだけどな」
ビリヤード場は駅から目と鼻の先にあった。室内には台が二つほどあり、窓が大きくて明るい。彼はあまりやったことが無いと言う割には上手だった。私は玉を弾ませてばかりで、ちっとも思い通りの方向に突けなかった。
外は五月の明るい陽気で随分暖かい。広い室内には他には誰もいない。私たちは傍若無人に笑い合って、出鱈目に玉を突いていた。
「そういえばさあ、この前おまえうちに来た時、おふくろがおまえのことはつらつとしてるって言ってたぞ。それに折れそうなほど痩せてるって」
「あ、そう? 息子が変な女連れて来たとか言ってなかった?」
「言うわけないじゃん。おまえ、人のうちに来てゲラゲラ笑ってるからさあ、馬鹿かと思われたかもしれないけどな」
「ははは。やっぱりね」
彼の家に遊びに行ったのは先週のことだった。桂木がうちに来ないかと誘ってくれた時、私は迷わず、うん、と言ってしまったけれど、そのすぐ後に会った坂口美子が、
「男の人の家に行くのは結婚を決意した時だけだよ、って親に言われちゃった」
と言っているのを聞いて、少し軽率だったかなと思っていたのだ。でも一人暮らしの男性の家に行くわけではないのだから。
彼の母親は、物静かで穏やかな人だった。控えめな優しい笑顔で私を迎えてくれた。ある意味、競争意識が強く勝気で言いたいことをすぐに口にしてしまう私の母よりも、一緒にいて心安らかだった。この人となら同じ家で暮らしても大丈夫だ、その時なぜかそう思った。
「昨日は何か用事でもあったのか?」
彼が玉を一つはじきながら、そう尋ねた。
私は言おうかどうか一瞬迷ったけれど、隠さずに話すことにした。
「うん、‥‥昨日、畑中君からラブレターみたいな手紙が届いて、ちょっと動揺してたんだ」
「えっ?畑中?‥‥あいつかあ」
彼は私の顔を驚いたように見ると、構えていたキューを下ろし、杖のように床についた。少し考え込むような真面目な顔をしている。言ってよかったのかどうか、ふと心配になった。
「それで、おまえは?」
「それでって。それだけだよ。畑中君の気持ちには応えられない」
「畑中って、話したこと無いけどいい奴だと思うよ。なんかどっしりしてさ。やさしそうじゃん。俺なんかよりあいつの方が、おまえにはいいかもしれないな」
その言い方はいつもの彼に似合わず力弱かった。
「そんなこと言わないでよ。畑中君のこと、いい人だとは思うけど、お付き合いしたいとかそんな風に考えたことなんか一度もないよ。私は隆司と一緒にいたいんだよ」
「‥‥そうか? 俺に決めちまっていいのか?」
「うん。いい。隆司がいい」
「あんまり簡単に言うなよ。おまえは誰とでも楽しくやっていけるみたいだけど、俺にとってはおまえはかけがいの無い存在だよ。また新しく誰かと付き合う気は無いから」
彼の目はまた強く輝きだした。そう、それでいい。そのままのあなたでいい。
私たちはそのすぐ後ビリヤード場を出て、私は彼のこぐ自転車の後ろに乗って多摩川に向かった。
よく晴れた気持ちのいい土曜日。川の向こう側の河川敷で草野球をしている人たちがいる。空が大きかった。こんなに明るい突き抜けたような空を見たのは久し振りだ。
私は深呼吸をしながら自転車を押す彼のあとをついて、サイクリング道路を歩いていた。
「いいところだね。多摩川ってすごく大きいんだね。ここで釣りするの?」
「時々な。川の水は結構汚れてるんだけどな。川の方、行ってみるか?」
彼は土手の隅に自転車を止めると、石の階段を川の方に向って降りていった。新しい草々が鮮やかな緑色をして風になびいている。
川が望める草むらに私たちは腰を下ろして、川面を眺めていた。ボートに乗っているカップルたちがいる。向こうの川岸には釣りをしている人たちが何人も見える。川を渡って来る風に乗って、遠くで野球をしている人たちの掛け声が、思いがけないほど近くに聞こえてくる。
彼は川の方を見ながらしばらく黙っていた。いつになく長い沈黙にふと不安になった。やはり畑中のことが彼の心に影を落としているのか。
畑中君にはこれから手紙をちゃんと書いて分かってもらうよ、と言おうとして彼の方に顔を向けた時、彼はゆっくりと私の方に体をねじり私を少し見つめた。お茶らけて馬鹿話をする雰囲気は一切消えていて、眉根を寄せたような真剣な顔だった。
「ん? 何? どうした?」
私は自分の予感を打ち消そうとして、わざとなんでもないような顔を彼に向けた。急に空気が変ったことを感じていた。ああ‥‥友だちではなくなった証として一歩進まなくてはならない。もう逃げない、私はそう約束したのだから。
彼の瞳におずおずと視線を合わせる。彼はなおも強く私をみつめ、一呼吸の間の後、顔を近づけてきた。まわりの物音が急に消えた。
彼の唇は、私の頬にかすかに触れながら横に動き、静かに私の唇に重なった。唇をやさしく愛撫するようなキスから、少しずつ私の唇を押し開くような強めのキスに変わっていき、私は目を閉じながら呼吸も止まりそうだった。
そのまま悲鳴になりそうな吐息さえ塞がれて、何呼吸も数えるほどの長いキス。
それが私たちの初めてのキスだった。
体を離した後も、しばらく震えが止まらず言葉も出なかった。桂木のことを見ることもできず、うつむいて小さな浅い呼吸をしていた。
桂木も黙っていた。二人で大きな感情に吞まれながら、土曜日の晴れた午後、多摩川のほとりで身を寄せ合っていた。私は、うれしいのか怖いのか、どう自分を表せばいいのか分からず、少し涙ぐんでいた。
そのうち桂木が私の手を取って立ち上がらせ、
「少し土手を散歩しよう」
と言った。
自転車を押す桂木の隣を歩きながら、私はいつものおしゃべりができなくて、時々話しかけてくる桂木に小さく受け答えをするだけだった。すっかりおとなしくなってしまった自分。桂木に恥じらうような笑みを見せている自分。キスをした後の女の子はどんな顔をしていたらいいのだろう。
その夜、けだるい疲れに起きていられなくなって九時過ぎに布団で横になっていた。
今日の桂木とのキスを思い出す度に呼吸も鼓動もおかしくなってしまう。夕食も胸がいっぱいでほとんど食べることができなかった。
桂木のキスは上手で、慣れているように思えた。きっと私が初めてじゃないのかも。でもそんなことはどうでもいい。今、桂木は、私だけを愛すると言ってくれているのだから。
少しうとうとしたところで廊下にある電話が鳴った。朦朧とした頭で電話に出ると、それは畑中正則からの電話だった。
「こんばんは。畑中です」
「ああ‥‥こんばんは」
「何、してた?」
「今ね、ちょっとうとうとしちゃってて‥‥ぼーっとしてる」
「あ、そう。じゃあ、悪かったかな?」
「あ、そんなことないよ」
畑中正則の声は、いつもより低くためらいがちに澱んだ。
「今日、僕の下宿に来てくれたんだね」
「うん。地図見て行ったらすぐに分かったよ」
「そう‥‥。手紙ありがとう」
「あ、こちらこそ‥‥」
私たちは少し黙りあった。
「わざわざ僕のこと心配して、下宿まで来てくれたの?」
「‥‥心配っていうんじゃないけど、気になって‥‥」
「‥‥付き合っている人がいるんなら、僕のことなんか心配しなくていいよ。彼氏に悪いよ」
「え?」
「付き合ってる人がいるんでしょう?」
下宿の娘さんの薫さんがピアノをたどたどしく練習している。幼稚園で弾く子どもの歌だ。何遍も繰り返していくうちに正確に音を探り当てられるようになっていく。私は黙りこんでピアノに一瞬気を取られているような振りをした。ああ、どう答えようか。
「友だちならたくさんいるけど‥‥」
「そういうんじゃなくて、好きな人、いるんでしょう? 正直に言ってほしい。その方が諦めがつく」
嘘はつけない。嘘をついたなら、もっと畑中を傷つけることになる。私は目を閉じて心の中で彼を思い浮かべた。きっとあの優しそうな目は、ひとりぼっちの電話ボックスの中で、暗い星空をあてどなく眺めているだろう。私はその想像を振り切るようにして言った。
「‥‥好きな人、います‥‥」
受話器から、ふっと、笑いとも溜め息とも決めかねるかすかな音が聞こえた。私はただ体を固めて、畑中が次に何を言うか、息をこらして待っていた。
「‥‥そう。言ってくれてありがとう」
「ごめんね」
「謝ることなんかないよ。君は君の気持ちに正直に生きればいい.‥‥そういえば、AC型の人の欠点を教えていなかったね」
「欠点?‥‥うん」
「Advantage Calm型の人はね、人の気持ちを大切にするあまり、自分の気持ちを押さえすぎるところがあるんだよ。君はもっとわがままになっていいよ。人を傷つけてもかまわないぐらいのアクがあった方がきっと生きやすいと思う。だから、僕のことも、僕が勝手に君のまわりで踊ってるんだ、ぐらいに思って、パーッと忘れてください」
「‥‥でも‥‥私が畑中君のやさしさに甘えて、曖昧な態度で振り回しちゃったのかもって思って‥」
「ほら、それ。気にすることなんてないから」
「‥‥うん」
「今まで、いろいろと会話できてうれしかった」
「‥‥私も畑中くんとお話できて救われた時もあったんだよ。感謝してる」
「そう。よかった。じゃあ、夜分遅く、お邪魔しました。楽しく有意義に学生生活を過ごしてください。僕のこともO組の六十分の一の友だちとして、何かあったらお役立てください。‥‥おやすみなさい」
「‥‥おやすみなさい。お電話ありがとう‥‥ごめんね」
「うん。気にしないで」
畑中は変にさばさばした口調で電話を切った。このあと畑中はどんな思いでこの夜を過ごすのだろう。胸がひどく痛んで泣きそうだった。とてもいい人なのに。きっと友だちとしてさえこれから声を掛け合うこともできないかもしれない。
私は部屋に戻ると、倒れ込むように布団にもぐりこんだ。畑中に申し訳ないと思う気持ち、しかしそれよりも今日の桂木とのキス、それがすぐに私の意識の全てを支配していった。失ったものと得たもの。天秤はもう壊れてしまっている。眠れないままに、薫さんのピアノの音に意識を合わせていた。
翌週の月曜日の英文演習は私から当たることになっていたので、学生読書室で予習を済ませて授業に臨んだ。名前を呼ばれ自信の無いまま自分の訳を読み上げると、なんとかうまく訳せていたようで、教授は、
「よし。言うことなし」
と言って、次の章に進んだ。
自分の当たるところしか予習していないから、他の部分を当てられたら全く訳せないだろう。今はなんとかついていけるが、このままその場しのぎの勉強しかやっていないと、きっとすぐについていけなくなる。何のために英語の勉強をしているのか考え直す必要があった。英語教師にはならない。それだけは確かだ。
授業の後、廊下に出ると、後ろから追い付いてきた同級の久米敏明が、
「なかなか鋭い訳だったよ」
と言って、にこっと笑いながら私を追い越していった。
「あ、ありがとう」
彼は宇都宮高校出身の同郷の人だ。ハーモニカ・ソサイアティーというサークルに入っていて、去年の夏休みに栃木会館で行われたコンサートのチケットを売るのを頼まれて手伝ったことがあった。
彼は、いつも素敵なブラウスを着た上品そうな彼女と席を隣同士にして、一緒に英文の授業を受けていた。彼も真面目な恋をしている。彼らの恋は卒業後どうなるのだろう。いつか悲しみの影が兆してしまうことはないだろうか。
私はアルバイトに向かうためスロープの方に歩いていった。
「もしもし」
ぼんやりしていた私の肩を、誰かがポンと叩いたので驚いて振り向くと、そこには安達望がいた。
「あ、びっくりした」
「今度グリークラブのコンサートがあるんだ。よかったらまた来てよ」
「そう、じゃあ、宮迫さん誘ってみる」
安達とは、私が距離を置いた付き合いをそれとなく示していたので、何かを察したらしく、なれなれしく近づいてくることももうなくなっていた。
「うん。じゃ、チケット取っといてあげる」
「うん。二枚ね」
私と安達望はスロープを並んで降りていった。安達望は何か言いたそうに、ポケットに手を突っ込んだり、頬をかいたりしていたが、スロープを降り切るあたりで、やっと口を開いた。
「‥‥この前、歌の練習で帰りが遅くなった時、上石神井で降りて君の下宿の前通ったんだ。君、寝てたみたいで窓が真っ暗だった」
「ええ? いつ?」
「先週の土曜日」
「何時ごろ?」
「十時過ぎてたかな」
「そうか‥‥うん。寝てたよ。あの日、すごく疲れてて9時半には電気消して寝ちゃってたの」
「そんなに早く寝るの? 子どもだなあ」
「いつもは十一過ぎぐらいまで起きてるんだけどね」
安達望は、ふっと寂し気な笑みをもらした。
「僕、しばらく君の下宿の前に立ってたんだ。君が窓から顔を出さないかなあって思って」
先週の土曜日、それは桂木隆司と多摩川でキスした日だ。そしてその夜、畑中正則からのお別れの電話があった。あの夜、安達望も私の下宿の前に来て、暗い窓を見上げていたというのか。
なんという複雑にもつれ合った感情の夜だったのだろう。私はただ桂木隆司のことだけを胸に抱き締め、痺れたような浅い眠りの縁で体を丸め目を閉じていた。よく眠れずにいたのは私だけではなく、涙ぐんでいたのも私だけではなかった。
それでもまた無情な一日は始まり、太陽は私たちを眠らせないまま、照りつける道の上、新たな歩みを私たちに強いるのだ。それぞれが、叩くべき人生の扉をみつけ、満ち足りて眠り合えるもう一つの体を探し出せるまで。
五月の連休明け、歯科医院に行くと院長先生が中国旅行から帰ってきていた。院長先生は私に写真を見せたりして、いろいろと説明してくれた。
「中国の青年はね、朝起きた時、皆外に出て太極拳をやってるんだ。酒、たばこなんて一切しないし、娯楽とか全然無いんだ。道路の道幅なんか八十メートルもあるんだけど、車は皆ガラが悪くてクラクションがうるさくって仕方がない。人がうじゃうじゃいるしね。どんなに仕事しても五十円しかもらえないから、余計な仕事なんてしないんだ。自転車なんて一円で買えるんだよ。もうあきらめちゃってるね、中国人は」
ソファーに座っていた秀夫先生は、横目で院長先生が差し出している絵葉書をちらりと見ると、もう関心なさそうにテレビの方に目をやっていた。
私は院長先生の話にできるだけ合槌を打ちながらも、知らず知らずにいつしか外で降り始めた激しい雨の音に耳を澄ませていた。雨は心を慰めてくれる。五月の新緑は雨に洗われ、鮮やかな緑光を放ちながら夕暮れの大気を瑞々しく薫らせているだろう。
秀夫先生の甘い面差しが、蛍光灯の下で白く浮き立っている。今日、秀夫先生は私の顔を見て、一旦外した視線をまた少し戻した。私が大人の愛を体に刻み始めたことを秀夫先生は直感で感じ取っただろうか。わずかな口紅の色の変化で、わずかな眼差しの揺れで。薫る香水の違いで。
秀夫先生の知らない所で、私が子どもから大人へと脱皮していく。秀夫先生は私の変化を押しとどめることも出来ず、この部屋で、美しいガラスケースに守られた透明な魂を生きていくのだろう。
私は深く息を吐きながら、曇りガラスの向こう側の空の色を探った。雨の音に思いの一つ一つを叩かれて、これからはじまる新しい季節の事を静かに考えていた。
この頃、夜に『マルテの手記』少しずつ読み進めるのが習慣となっていた。。
『‥‥今はなにもが既製品で間に合う時代である。この世に生まれ出て、既製品の生活をみつけ、それを体につけさえすればいいのだ。
‥‥子どもは小さな死を、大人は大きな死を秘めていた。女はそれを胎内に、男は胸中に秘めていた。とにかくだれもが死を宿していて、そのために特殊な落ち着きと物静かな品位を感じさせた。
‥‥若くて詩を作っても、立派な詩は作れない。詩を作ることを何年も待ち、長い年月、もしかしたら翁になるまで、深みと香とをたくわえて、最後にようやく十行の立派な詩を書くようにすべきであろう。詩は一般に信じられているように、感情ではないからである。詩は感情ではなくて‥‥経験である。一行の詩を作るのには、さまざまな町を、人を、物を見ていなくてはならない。
‥‥しかし、思い出を持つだけでは十分ではない。思い出が多くなったら、それを忘れることができなければならない。再び、思い出が甦るまで気長に静かに待つ辛抱がなくてはならない。思い出だけでは十分ではないからである。思い出が僕たちの中で血となり、眼差しとなり、表情となり、名前を失い、僕たちと区別がなくなった時に、恵まれたまれな瞬間に、一行の詩の最初の言葉が、思い出の中に燦然と現れ浮かび上がるのである。‥‥』
人は立派な詩を書くために、詩を書くのではない。たとえ立派な詩が書けないにしても、書かずにはいられない気持ちがそうさせるのである。若くなくては書けない詩というものもあるだろう。たとえ未熟な表現であっても、その時にしか書けないものもある。それはそれで美しいものだが、そこに留まっていてはいけないのだ。
いつかは本物の詩にたどり着くために、言葉を探し続ける。言葉の蓄積の無いところに詩は生まれない。ただ老年になったからといって、立派な含蓄のある文章が書けるわけではないように、たゆまず書き続けて言葉に対する練磨を休めてはいけないのだ。
そして、自ら歌い出すただ一つの言葉に出会えたなら、‥‥私の今までの、そしてこれから得るであろう経験は、美しい実りの時を迎えるのだろう。
そんな詩が、文章が、いつか書けるだろうか。それは、いつか、であって、今、ではない。可能性を計算する希望さえ今は自分に禁じよう。もう私はマルテほどには孤独ではなく、人生を悲しんでもいなかった。生きることを行動として捕える。行動の記憶が私を決定し、私の文章の卵となっていくだろう。
私と桂木は時を惜しむようにあちこちに出かけた。鎌倉、奥多摩、浅草、帝釈天、烏山寺町めぐり、とげぬき地蔵、小金井公園‥‥。授業の合間、そして私のアルバイトの時間に遅れぬように、私たちは駆け抜けるように東京中を歩いた。
同じものを見、同じ風に吹かれ、同じ光を浴びて。歩みを同じくすることで、お互いの記憶を共有するために。後に、言い合ったものだ。もしこれで別れることになったら、東京のどこに行っても、二人で歩いた思い出がつきまとって、つらくてやりきれないだろうと。
この頃には桂木が住む町へたびたび電車に乗って気軽に遊びに行くようにもなっていた。新宿から小田急線に乗って向ヶ丘遊園駅まで。大きな多摩川の橋を渡ったらすぐだ。
駅前には「ルグラン」という名前の上品な軽食喫茶があり、私はそこでホットケーキやスパゲッティを食べながら桂木と会う時間調整をした。トイレの洗面所で自分のお化粧や表情を整え、これから桂木と会う準備をする。私はそのとき、もう隠しようもなく恋する女の子だった。
桂木は車や自転車で駅前まで来てくれて、近場を散策してから桂木の自宅へと招いてくれた。
桂木が住む町は梨の果樹園が多いのどかな住宅地で、二か領用水という小さい川が流れ、そこから果樹園へ水を引く用水路もあり、水と緑にあふれた気持ちの良い町だった。二か領用水沿いには結構な大木の桜並木があり、春には花見客で賑わうのだろう。駅から歩けばたぶん20分ぐらいのところに桂木の自宅はあった。
桂木の母親は自宅で注文服の仕立ての仕事をしていて、私がひょっこり訪れても嫌な顔一つせず笑顔で迎えてくれた。仕事の手を止めて、急いで近所のスーパーに買い物に行きケーキなどを買ってきてくれた。
私は桂木の部屋を物珍しく見る。岩崎宏美の大きなポスターが壁に張ってあるのが目についた。桂木は岩崎宏美のファンでコンサートにも行ったことがあるそうだ。桂木は自分の部屋に私がいることに照れくささを感じるのか、時折ギターを取り出しバッハのシャコンヌやサイモンとガーファンクルの曲などを真面目な顔をして弾いてくれた。桂木のギター演奏はとても上手で美しく、私はいつも感動していた。
桂木の家はやや古びた平屋で、桂木の部屋と六つ年下の弟さんの部屋、そして大きめの居間とで成っていた。どれも畳の部屋だ。小さな縁側がありそこから庭を眺めることができた。園芸好きな桂木らしくいろいろな植物がさほど大きくない庭いっぱいに植えられているのが見渡せた。
牡丹とか、菊、沈丁花とか、椿など。柿の木の下にはかつて小さな池があって亀などを飼っていたそうだ。
整然と作られた庭という感じでもなく、幾分雑然と好き勝手に植栽をしていったような庭の作りだった。桂木の父は家のすぐ隣に畑を持っていて小さな家庭菜園をやっていた。桂木の植物好きは父親譲りなのかもしれない。
桂木の六歳年下の弟ともちょっとだけ会ったことがある。桂木より少し面長で切れ長の目が涼やかなきれいな少年だった。私には六つ年上の兄しかいないので、弟がずっと欲しかった。桂木の弟ともいずれは仲良くなれるだろうか。弟は兄の恋人をどんな目で見るのだろう。想像するとちょっとくすぐったい気がした
私は桂木の家に行くといつもよりテンションが上がってしまう。桂木の母親に明るい人間だと思われたくて。桂木も楽しそうな私を見て笑顔でいてくれる。
青竹があったので勝手に元気よく青竹踏みをしていたら、桂木の母親に見られてしまい皆で大笑いしたり。桂木とも学校にいる時とは違う顔をお互い見せ合って、私は自分の笑顔に引きずられるようにしてくつろいでいくのだった。
そして桂木の母に気付かれないようにちょっとだけキスして抱き締め合い、見つめ合いながら「ふふっ」と笑う。最高に幸せな時間。かけがえのない恋する時間。
けれど、私はまわりが見えなくなるほど恋にのめり込んでいたわけでもなかった。いつもどこかに自分や将来に対する漠然とした不安があった。幸せなのは今だけで、この先いろいろな変化が私たちを訪れ、苦しむ日が確実に来るに違いないというような予感が私にはあった。私に体調が不安定な面があることを桂木の母が知ったら、きっと息子の相手として不安をおぼえるだろうとも思っていた。
私たちには卒業というタイムリミットがあった、卒業後にそれぞれがどのような人生を選び取ってゆくか、それはもはや自分一人だけの問題ではなくなっていた。
もし、交際がこのまま順調に進んだとしても、桂木は将来が未定であるうちは、結婚という言葉を持ち出すことはできないだろうし、私もその言葉を強制することはできない。何の約束も無くて東京に一人で残れるのか。
逃げないでここにいる。桂木にすがることなく。そして、もっともっと健康になること。心も体も。桂木とは関係のないところに自分自身の生きがいをみつけるということ。
私の前に立ちはだかる課題はもう目を背けてはいられないぐらいに間近に迫っていた。
六月の始めには、美術史の授業の一環で、桂木は一週間ほど奈良に研修に行くことになっていた。一週間!毎日のように会い、肩を並べて歩き、いくら話しても話の尽きない相手と離れて過ごす一週間が、どんなに長く、胸が締め付けられるような途方もない空間であるか、私たちは予感のように感じ取っていた。だから、桂木が研修に発つ何日も前から、私たちはあんなにも寄り添って過ごしたのだ。
その日は、桂木が十一時に私の下宿まで車で来てくれるはずだった。朝から弱い雨が降ったりやんだりしていた。テーブルの上に時計を置き、秒針が回るのを見つめながら、着いたことを知らせる車の短いホーンの音を待っていた。
十一時、しかし彼からの合図はまだない。いつも遅刻することなんて無いのに。
何かあったのではないかと胸騒ぎがして窓辺から身を乗り出して、下の道の方をずっと見下ろしていた。昨夜から続いている雨のせいで、古い住宅の壁に黒い染みが染め付けられている。向かいの家の煉瓦色の屋根も今日はまだらな暗い色をしている。
会いたければ会いたいほど、待つことが苦しくて不安が募ってくる。誰かをこんなにそわそわした気持ちで待っていたことなど今までなかった。
桂木は約束の時間から一時間も過ぎた頃、やっと到着した。
「ごめん。ごめん。道がめちゃくちゃ混んでて、いつもなら一時間ちょっとで着けるのに、今日は二時間半もかかっちゃたよ。待たせたな」
「すごく待ったよ。くたびれちゃった。ドキドキしちゃったよ。事故ったんじゃないかって」
「心配してくれてたんだ」
「そりゃ心配するさあ」
桂木は唇だけでふっと笑った。白地に緑色のストライプの入ったTシャツ姿で、ラフでありながら決して不精な感じはしない。その清潔感が好きだった。すぐそばにある精悍な顔から何故か目が離せない。これ以上近づくとかえって失いそうで、さっきまでの待っていた時の気持ちの方がまだ楽だったようにも思えるのだった。
「どこ行くか決めてなかったけど、石神井公園でいいか?」
「うん。いいよ」
「よし、じゃ行こう」
「石神井公園か。久し振りだね」
「三月以来か」
桂木はいつもより口数少なく、私が乗り込むとすぐに車を発進させた。
土曜日の午後ではあったが、こんな湿っぽい天気では公園を散策している人もまばらだ。池を取り囲むように植えられている繁みはしっとりと潤い、緑も色濃く発色している。
あちこちにできている大きな水たまりは、濁った空を映していた。私たちは傘をさして、霧のような雨の中をどうでもいいことばかり話しながらさまよい歩いていた。言わなければいけないことを互いに言い出せずに、きっかけを探りあっている。
三宝寺池ではもう小学校から帰ってきたらしい子どもたちが、たも網で魚取りをしている。少年たちのバケツの中を覗き込むと、小さなめだかのような魚が数匹、底の方でかすかにひれを動かしていた。
「あ、魚いるんだね。池がこんなに濁ってるから見えないけど」
「いいよな。俺も魚釣りしたいよ。そういえばしばらく釣りに行ってないな。最近おまえと会ってばかりだからな」
「そう? 男を堕落させるのが得意な女ですから、私は」
「そうそう。自分は堕落しないで人を堕落させようっていう魂胆だからな、おまえは」
やっと二人の間から笑いがこぼれた。
いつからだろう。不意に笑いが途切れた瞬間に、重苦しい雰囲気が割り込んでくるようになったのは。会話だけではもう満たされない思いが蓄積されつつあることに二人とも気付いていながら、どこまで相手の領域に踏み入っていいものか計りかねて、二人を繋ぎ合う一瞬の微笑みに手がかりを求めている。沈黙は不安だった。あさってから桂木が奈良に行ってしまうことも、私たちから慣れ親しんだ気分を奪っていた。
「‥‥あんまり奈良なんて行きたくないぜ」
桂木は前を向いたままぼそりと言った。
「授業の一環じゃ仕方ないよ。楽しんできなよ。新幹線で行くの?」
「いや、俺は深夜の高速バスで行く。現地集合だから、他のやつらは新幹線かもな」
「バスじゃあ窮屈で寝られないかもね。今頃は団体客とかで混んでるのかなあ。お土産、買えたら買ってね。専攻の女の人と浮気するんじゃないぞ」
「言っとくけど、俺は遊びに行くんじゃないんだからな。ずっと朝から晩まで専攻の仲間と一緒だし、あちこち引き回されて教授の説明聞いてなくちゃならないし、自由行動できるのは最後の日ぐらいなんだ。まるで修学旅行だよ。風景の美を感じるのはもっと個人的なものじゃないのか? 人の説明聞きながらぞろぞろ歩いているなんて、研修でもなかったら真っ平御免だよ」
「そっか。それはそうかもね」
「‥‥いつかおまえと二人きりで旅行行きたいよ。どっか一緒に泊まりたいな。おまえを思い切りかわいがりたい」
「うわ、その言い方ちょっといやらしいぞ?」
「‥‥好きな女とずっと一緒にいたいっていう気持ちが分かんないのかよ。性欲だけじゃないんだよ。おまえを見て、おまえの声を聞いて、おまえに触れていたいんだよ」
「うん。そっか。うん」
私はうつむきながら、彼の少し後を歩いていた。草の露がスニーカーを濡らしていく。
白いアヒルが雨を避けて垣根の間に座っている。一年の頃、石神井公園に初めて一人で来た時、私は羽を引きずった一羽のアヒルにパンをちぎって投げ与えたことがあった。
その頃の私は、生きる目的を見失っていて、何をしていても楽しくなかった。羽を痛めてヨロヨロ歩いているアヒルに自分を重ねてどこか無残な気持ちになっていた。このアヒルはあの時のアヒルだろうか。通り過ぎながらふとそんなことを考えていた。
「‥‥昨日、夢を見たんだ」
桂木は歩きながら低い声で語り始めた。
「‥‥夢の中で俺は誰かの死体の前にうずくまっていた。その死体がおまえかどうかという確信はなかったけど、直感的にそうに違いないと感じていた。俺はひどく動揺して、落ち着きを失っていて、目の前に横たわっている女の死を悼むというよりは、一人で取り残されてしまったということの、どうしようもない絶望感に、虚脱して座り込んでいた。
つい今しがたまで明るく笑っていた人間が、俺の目の前で、静かにぴくりとも動かずに横たわっている。口元には微笑みさえ浮かんでいる。もう自分を映すことのない瞳が静かに閉じられている。俺はおまえの死そのものより、この永遠という取り返しのつかない絶望に自分を失いかけて、ほとんど恐怖感で飛び起きたんだ。
‥‥春休みの時も、おまえが帰省している間中、そんな気持ちだった。おまえがもし東京に戻ってこなかったらどうしようとか、また体でも壊していたりでもしていたらとか‥‥。 卒業したらたぶんおまえは帰っていくんだろう。理屈抜きに、別れた後にやってくる喪失感がいたたまれない。
おまえだって何の約束もなくて不安定なままだったら東京に残りたいとは思わないだろう。
今、真剣に冷静に考えなくてはならないことは、人の人生を左右するような一大事を決することが自分には可能かということだ。おまえを俺のもとに引き止めておくことがおまえにとって幸福かどうかということだ‥‥」
桂木は東屋のそばに立ち止まると私の方を振り返った。もうこの愛は、死に等しいほどになってしまったのかもしれないと、その時思った。ジイドの『狭き門』のアリサが、愛する人が死んでしまった夢を見たことをその恋人に語る暗く切ないシーンが思い出された。
桂木の苦しみが胸に刺さってきて、私の鼓動が不規則に乱れた。彼も、大人の男になろうとしてもがいている。一人の男として、私という女の将来にまで思いを馳せて、苦しんでくれている。その誠実さに涙が出そうになった。
「‥‥そんなことで悩まないで。卒業したらどうするかなんてまだ分からないけど、もしこのままお互いに思い合っている状態が続いていたなら、私はきっと帰ったりはしないから。どうしたらこの先もずっと一緒にいられるか、私だって必死に考えてる。帰らないでいる方法を探すから。自分の意志で、自分の生き方を見つけて、それで勝手に私が東京に残ってるならいいでしょ? つらいのにいやいやながら東京に残ってるとか隆司に思わせないように、強くなるから」
「俺は何の約束もしてはやれないんだぞ?」
「それでもいい。自分の意思で残るんだから、隆司は負担に思わなくていい」
三宝寺池を一回りして道場寺を探そうと坂道を上ると、人気のない原っぱが目の前に開けた。そこには数本の保存樹林の大木が立ち並び、人の立ち入りを拒むように雑草がぼうぼうと生い茂っていた。黄色い小さな花をつけている草もちらほら見える。
三月の雪が降り積もっていたあの日も、ここに迷い込んで一瞬立ち尽くしたのだった。冬枯れの原っぱは一面青いほどに白く、冬の陽射しを反射してそこだけぽっかりと現世から抜け落ちてしまったかのようだった。笹に積もった雪が溶けかけて、あちこちで最も小さな虹を閉じ込めた雫が滴っていた。
あの時から私たちは少しずつ変わっていってしまったのだろうか。互いの事を大切に思えば思うほど、去就の決定は重苦しくなっていく。
「今日はちょっと寒いね」
沈黙が恐くて、ついどうでもいいことを口にしてしまった。
「そうだな」
前を歩いていた桂木は立ち止まり、しばらく原っぱを見渡していた。
「俺、結婚の約束なんてしてやれないし、将来だってどうなるか分かんないし‥‥。俺が悪いんだよな。一緒に暮らしたいとか、アパートに移れとか好き勝手なこと言って、おまえを苦しめて泣かせてばっかりいてさ。俺、おまえを泣かせた後、いつも自己嫌悪に陥るぜ。一人で下宿生活しててさ、いろんなことで助けてあげなくちゃならないのにこのごろ泣かせてばっかりでさ。一生幸せにしますなんて俺にはとても言えないんだ。おまえは、一生幸せにしてやるって、たとえ口先だけでも言える男と結婚した方がいいんじゃないのか?」
桂木の苦しみが胸に迫ってきた。誰だって相手の一生に責任など負えるはずはないのに、儀礼的に、一生幸せに、とか体よく言ってその場限りの安心を取り繕っているだけなのに。桂木は本気で私の一生を考えてその重さに悩んでくれている。
「そんな考え方‥‥。それは違うよ。私は誰かに幸せにしてもらおうなんてこれっぽっちも思ってやしないよ。幸せって、人からもらうんじゃなくて、自分で生み出して自分で感じるものだよ。隆司と一緒にいて私が幸せだっていうんなら、それは幸せなんだよ。誰から与えられたものでもなくて、自然にそこにあるものだよ」
「俺で、いいのか?きっと楽しいばかりじゃないぞ?」
「それはむしろ私の質問だよ。こんな私でいいの? すぐ落ち込むしさ、体もへなちょこだし。もっと健康で明るい人、いっぱいいるじゃん。私ってさあ、普段虚勢張ってるけど、全然弱い人間なんだよ。家事だって下手だし、結婚したとしても子どもを産んであげられる自信が全然ない。そんな女って駄目じゃん。今は気持ちが寄り添っているからいいけど、将来いつか隆司が駄目だと思うんじゃないかと思うと、怖い」」
彼はかざしていた黒い傘を開いたまま足元に投げ捨てるように置き、私が持っていた青い傘も取り上げてそのまま地面に置いた。傘はころんと一回転して、草に埋もれるようにして止まった。
「家事とか子どもとか、そんなことおまえに望んでなどいない。俺が生きていくにはどうしてもおまえが必要なんだ。おまえが俺から離れていくようなことがあっても、俺からおまえを離れていくことは絶対に無いから」
彼はそう囁くように言うと、一歩近づき長い腕を私の背中に回した。慈しむように力が加わってくる。この広い胸にいつも憧れていた。薄いTシャツを通して彼の鼓動が伝わってくる。そして恐らくは私の鼓動も。私の冷えた体に彼の熱い体温がしみてくるようだ。
細かな雨が、少し仰向いた私の顔にぽつりぽつりと降りかかってきた。空の高くを梢の葉っぱが揺れているのがちらっと見えた。まぶたを閉じかかったその瞬間、彼が私の方に静かにかがみ、キスをした。泣きそうなほどやわらかで優しいキス。ゆっくりと唇を放して、頬をすり寄せる。合わせあった頬に、彼の髭がかすかにざらついて感じられた。春の嵐のような感覚に包まれて、私たちはまるで初めから一つの物であったかのように、いつまでも強く抱き締め合っていた。
桂木が深夜の高速バスで奈良に発ってしまった次の朝、私は漠とした不安な夢を心に残したまま目覚めた。どうやってこの一週間を耐えようか。そんなことばかり考えている自分が嫌になって、急に着替えて武蔵関公園までジョギングに行った。もう紫陽花も咲き始めている。けれど一人で見る風景は心に馴染まず、色と形をただ存在させているだけだった。
午後になって、歯科医院にアルバイトに行った。春の歯科検診を受けた小学生たちでこのところごった返している。待合室を擦り抜けただけで、今日は早くは帰れそうにないことが見てとれた。私は素早く白衣に着替えると受付の席に座った。秀夫先生は私にちょっとうなづいただけで、すぐに患者の方に屈みこんで治療を続けた。
私はカルテに日付と簡単な書き込みをすると、ペンを置いて少し放心していた。桂木がいないというだけでこんなに気持ちが沈むなんて。重い頭痛がして、目の奥も痛んでいた。これだけ混んでいるのだ。途中で帰るわけにはいかないだろう。器具の洗浄、消毒の仕事もすぐにたまってくる。秀夫先生が倒れる一歩手前まで頑張っていたことを思えば、患者に対して直接的な責任のない分、気は楽ではあったが。
受付の引き出しを開けてみると、カルテの用紙の束の上に知子さんが読んでいたと思われる『南総里見八犬伝』の分厚い単行本があった。知子さんがこのような本を読むとはちょっと意外な気がして、何気なく手に取ってみると、下に隠れるように『離婚実例集』という題名の本があった。
離婚、私ははっとしてすぐに本を戻し引き出しを閉めた。希美ちゃんがいつか言っていたのを思い出した。お母さんとお父さん、もうすぐ離婚するかもしれないんだ、と。結婚という約束さえ不完全なものなのだとしたら‥‥。絶対とか永遠という言葉を使うには人間は余りにも弱すぎる。桂木と私だけはその範疇ではない、と思うとしたら、それは恋愛における単なる幻想、誤謬でしかないのかもしれない
「ねえ、ねえ、おねえさん。なぞなぞしよう?」
不意に待ちくたびれた患者の男の子が受付の席に顔を出した。人懐こい二年生で、これまでにも何度か相手をしてやったことがあった。小声でなぞなぞを出し合ったり、お絵かきをし合ったり、この受付の仕事をするようになってから、幼児の手遊びも覚えたし、はやっているアニメの名前もいくつか知った。子どもたちとおしゃべりするのは楽しかった。
私は桂木へと落ち込みそうな思いを振り切るようにして明るく言った。
「じゃあ、ちょっとだけだよ?」
「うん。おねえさん問題出して」
「じゃあね、綺麗な服を着ていても汚い服を着ていても、同じに見えるものは?」
「同じに見えるもの?うーん、わかんない」
「答えは、影、でした。じゃあ、よんでもよんでも返事のないものは?」
「それ知ってる。本でしょ」
「当たりー」
いくつかなぞなぞをしているうちにその子の番がきた。秀夫先生は治療台に座ったその子に笑いかけると、
「いいなあ、おねえさんとなぞなぞ出来て。じゃ、僕も一つ、ハエが飛んでいきました。はやかったでしょうか、遅かったでしょうか」
「はやい!」
「そう!ハエは、はえー」
言ってから秀夫先生は照れたように笑っていた。思わず私まで頬がほころんだ。そんな冗談をいう秀夫先生は初めてだ。
このところ目の不自由な浅野さんというおじいさんが歯科医院に通ってきている。浅野さんは白い杖を持っているが全く何も見えないというわけでもなく、光は感じるらしい。待合室から診察室からゆっくりゆっくり手探りで歩いて来る。どれくらい見えているのか分からないので手を貸すべきかどうか判断に迷う。若い頃は美青年であったに違いない端正な渋い風貌をしている。
院長先生が浅野さんに話しかけている。
「お一人で暮らしてらっしゃるんですか?」
「ええ。全く身寄りが無いっていうんでもないんですがねえ。一応生活は一人でしてます」
「いろいろとご不自由でしょう」
「ええ。そうですね。でも新宿に行ったりして、結構出かけたりもするんですよ」
「へぇー。新宿なんてよく行けますねえ。目が見えたって迷子になりそうなところなのに」
「そうですね。でも誰も一緒に来てくれる人がいませんから、一人で行かなくちゃならないんですよ。最近は耳まで弱ってきちゃいましてね」
そばで聞いていた私は何かつらい気持ちになった。しかし私には浅野さんを治療台まで導き、手を取り座らせてあげることしかできない。生活の援助まで口に出来るほどの親しさも時間も無く、もどかしく人を助けることの難しさを感じるだけだった。
歯科医院にはその他に、生活保護を受けている母子家庭の親子が来院していた。母親はいかにも優しそうな穏やかな顔立ちをした中年の女性で、院長先生はこの人が治療を終えて帰っていくと、
「あの人はご主人を亡くして生活保護を受けてるんだ。働けない事情でもあるのかね」
と首を傾げていた。
また、日雇という書き込みのある保険証を提出した若い女性が来院したこともあった。その女性はまだ二十代後半ぐらいで、灰色の地味な服装をしていて、赤ちゃんをおんぶしていた。保険証の家族欄を覗くと、彼女の夫は六十代近くで、保険証にあったように日雇い労働者であるらしかった。
私といくらも年の違わないその女性が、父親ほども年の離れた人と結婚して子どももいるということ。しかもその若さに似合わず、すでに生活に窮していそうな疲れた表情が見え隠れしている。一体どういう経緯の結婚だったのか。恋愛とは別次元の切羽詰まった契約で、生活を余儀なくしている人も多々いるのかもしれない。それはとても自分の身に置き換えて想像することもできない世界だ。
様々な人生が保険証の中に閉じ込められている。記号では書き表せないそれぞれの人生を思う時、私は自分も果てしない海の中に一人投げ出されているような気持ちになってくるのだった。
診察がすべて終わり器具を片付けていると秀夫先生が話しかけてきた。
「もうすぐ、前期試験?」
「あ、はい。あと一週間もしたら試験日程が掲示されます」
「そう。大変だね。日曜なんかも勉強してるの?」
ちらっと桂木の事が頭に浮かんだ。最近休みと言えば桂木と待ち合わせてあちこち出かけていた。勉強らしい勉強もできていなかった。
「日曜は、洗濯したりお掃除したりですね。時間があったらちょっと勉強します」
「そう」
「先生は日曜は何していらっしゃるんですか?」
「僕はボーリングとかゴルフとかラリーの大会に出たりだね。今度ボーリング大会があるんだ。君はボーリングはどのくらいやったことがあるの?」
「実は一度もやったことが無いんです」
「一度も? 珍しいなあ」
秀夫先生は驚いたような顔をした。
「ボーリングってストライク取ると気持ちよさそうですね」
「そうだね。君も機会があったらやってみたらいいよ」
「はい。いつかやってみたいです」
もし、私にボーリングの経験があり、今度誘ってください!とノリノリに言えるぐらいに大胆だったなら、秀夫先生は私を誘ったりしただろうか。きっと誘いはしなかっただろうと思う。仕事とプライベートをきちっと分けている先生のことだから。
「‥‥ボーリングはお友だちとされるんですか?」
秀夫先生は一瞬言葉を選ぶように慎重な顔つきになって私を見た。
「大体が歯科医の仲間だね」
先生の周りには女性の影が全く無いように思えた。私の前にだけうまく隠しているのかもしれなかった。それは私が桂木の影を先生の前に隠していたのと同じ理由だったかもしれない。この診察室の中だけは、整然と刈り込まれた五月の晴れた日の庭園のようにしておきたかった。
もう日も長くなって七時半でもこの頃は明るいのだけれど、その日は雨が降っていたせいか早くに薄暗くなっていた。
着替えてから待合室の片付けに行くと、秀夫先生が雑誌類を並べているところだった。
「あ、すみません。私やります」
「いや、いいよ」
秀夫先生は振り向きながら言った。
「もうすぐ試験なんだから、アルバイトよりも勉強の方、優先させていいんだからね」
「はい。ありがとうございます。アルバイトには差しさわりが出ないようにして、勉強も頑張りますので」
「うん。今日、ちょっと疲れていたみたいだったから。無理しなくていいからね」
「はい」
先生は誰にでもそんな風に優しいのだろうか。先生が普段無口であるだけに、その一言一言が私には貴重な響きを持つ。桂木を思って沈んでいた私の様子に気付き心配してくれていたこと、それだけで十分うれしかった。
それ以上を先生に求めるつもりはなく、私はいつものようにさよならの挨拶をして、雨の中に出ていった。
このところ天候が変りやすい。午前中よく晴れていたのだが、午後になって急に暗い雨雲が流れてきた。雨雲のまだらに透けた向こうには、まだ真っ白な晴れの領域の雲が動かずに空に翼を広げている。夕方には雨が降り出すかもしれない。
六月の始めは春季の早慶戦が行われているので、学内を歩いている学生も少なく、休講の科目も多かった。今日は案の定、三限の美術史は休講だった。
大学に行っても桂木に会えないと張り合いがない。スロープのあたりとか穴八幡神社、ミルクホール、学食。どこに行ってもそこにいる学生たちは私とは無関係だ。学生読書室あたりで友だちを探し出せとしても、「次の授業何?予習してるの?じゃ、またね」そんな程度の会話で終わってしまう。
何かサークルにでも入っていれば、こんな時部室に行って、そこにたむろす仲間とおしゃべりでもして時間を潰せるのだろう。歎異抄研究会の部室にはもう二度と足を踏み入れることも無いだろうし、宇都宮稲門会のある学生会館の地下へ続く階段を下って行っても、古ぼけたソファーの上に投げ出されている稲門会の伝言ノートに目を通すだけで、特に新しい収穫も無く、すぐにそそくさと立ち去るだけである。
さっき文学部の門を入って来る時、この時期になって珍しく部員募集のガリバン刷りのちらしを手渡された。
『雑誌<放浪>、新人募集‥・・あなたも本を作ってみませんか? 小説、評論、詩、随筆、童話‥‥濡れた唇にふるえるあなたのためのノートは、文学部のラウンジにあるのです』
まだこんなちらしを渡しているということは、余程部員が集まらないのだろう。文芸雑誌のサークルならキャッチコピーをもう少しなんとかした方がいい。胸のあたりでうごめくかすかな笑いを肩で押さえながら、そのちらしを片方の手にひらひらさせて私はスロープを上っていった。
何か目標を見失っていると自分でも感じざるを得ない。去年、行政書士の資格を取ったすぐ後に司法書士の参考書を買い込み勉強をはじめていたのだが、東京に残るという選択肢がクローズアップされてきた今、すぐに職業に結びつくわけでもない資格を取っても意味が無いのではないかと思いはじめていた。
二学期には卒論計画書を提出することになっていて大体のテーマを決めておかなくてはならないのに、研究したい対象もまだはっきりとは決められずにいた。教職課程でも取っていれば、それも一つの気休めになっていただろうが、教職など初めから念頭にもなかった。
桂木と一緒にいるときは面倒なことは頭の片隅に追いやり、感情の揺れに任せて毎日をやり過ごしていた。しかし、このまま恋にうつつを抜かしたままでいいとも思えなかった。三年も三分の一が過ぎてしまった。きちんと人生を設計し、それに向けて何らかのアクションを起こしていくことが必要だった。桂木と相愛であるという事実。それもまた人生を左右する大きな奇跡ではあったのだが。
休講札を確認したあと、次の講義まで本部の図書館に行って予習でもしようと、生協書店から学食横の石段を下り、記念会堂前を通りかかると、向こうから思いがけなく坂口美子がやって来るのが見えた。
「坂口さーん。久し振りー」
私が声を上げて手を振ると、彼女も気がついて小走りに近づいてきた。
「こんにちは。久し振りー」
「二カ月ぶりくらいだね」
坂口美子は私の前に立ち止まると首を傾げるようにした。軽いウェーブがかかっている長い髪を初夏の妖精のように風にそよがせている。小さな金のイヤリングがチラチラと光って揺れている。少し華奢な肩とウエストが、薄く透けそうな白のブラウスに包まれて、ますます細く見えた。
「その後、桂木くんとは上手くいってる?」
「まあね。今、美術史の研修で奈良に行ってるの。一週間ぐらい。帰って来るのは来週なんだ。坂口さんの方は変わりない?」
「うん。まあ、ね。学食にでも行って少しお話しない? これから授業あるの?」
「三限は授業ないよ」
「じゃ、いこ。私は社会学の授業があるんだけどさぼっちゃう」
彼女は私の先に立って歩き出した。学食の中は遅い昼食を取ろうとしている学生がまだ結構いる。私たちは紙コップのジュースを手に、空いている席を探して腰かけた。
「そうか、美術史の人、研修なんだ。それじゃあ恵子さん寂しいんじゃないの?」
図星でしょというような顔をして、坂口が微笑んだ。
「うん。一週間ぐらい平気かなって思ってたけど、やっぱり寂しい。つまんない」
「ふふっ、やっぱりね」
「坂口さんの方はどう? 授業ちゃんと出てる?」
坂口は笑った顔のまま視線を窓の外に向け、授業ねえ、と小声で言った。
「実はあんまり出てないの。教職も取ってないしね」
「あ、そうなの? 坂口さんてお父さんが高校の先生だから、坂口さんも先生になるのかと思ってた」
「ならないわ。家庭教師程度ならいいけど、学校の先生は大変よ。身近に見てるとよく分かるの。それに・・今、家族ともいろいろあってね・・・」
「もしかして彼氏のことで?」
「そう。寮長さんがね、家に連絡しちゃったの。私がほとんど寮に帰ってこないで外泊ばっかりしてるって。それでね、今度父親が鳥取から話し合いに出てくるの。なんか、すごい展開になっちゃって」
「わあ、それは大変。うまく説明できる?」
「説明するもしないも今の私の気持ちを分かってもらうしかないわ。私は自分の生きたいように生きてるつもりだし、たとえ誰に何と言われようと、自分の気持ちに添って生きていこうと思ってるから」
「坂口さんて強いよね。親が田舎から出てくるなんて、なんかひどくめげそうな状況だものね。でも彼氏といつか結婚するんでしょ?」
坂口美子はふっと声の調子を落とした。
「結婚のことは私の方からは一言も口にしていないの。結婚なんて全然考えてないって言われたらどうしようって、きっと私怖いのよね。だからまだ結婚するかどうか分からない」
坂口美子が視線を滑らせた空には輪郭のぼやけた形の無い雲が滲んでいた。
「そうか・・、結婚っていう約束無しに人を好きになるって、すごく純粋なことだと思うよ。恋愛に安心を求めたらどこか打算的になっちゃうし。でも、いろいろと不安だよね。男の人と違って女の人はもっと不安だよ。親御さんだって坂口さんのこと心配だろうし」
そう私が言うと彼女は小さくうなづいた。
「きっと私、今までで最大の親不孝をしてるんだと思うけど、親を悲しませたって、彼と別れることなんてできないわ。結婚するしないは別にして、今はこの気持ちを大事にしていたいの」
窓の外の広場にはかけ声をかけながらランニングをしている男子学生たちがいた。車の警笛も絶え間なく聞こえる。喧騒が私たちの悩みを重奏化する。
彼女が付き合っている法学部の四年生、どんな人なんだろう。彼女と楽しい部分だけ貪って彼女の将来には知らんふりしているのなら許さない。女はいつも泣く側になってしまうのだから。
しかしプライドが高く理想に燃える坂口美子がそんな駄目な男性とつき合うはずはない。きっとその人も卒業後を見据えて彼女のことを考えてくれているはずだ。少なくとも私が早稲田で出会った男子たちは、女の子を騙してどうこうしようなどと思っているゲスな遊び人など一人もいなかった。
私は坂口美子の強がった言動に少しばかり虚勢を感じて胸が痛んだが、私が口を出すことでもない。誰にとっても幸福な未来に落ち着くようにと願うしかなかった。
それに私だって人のことを心配している場合じゃない。桂木との将来だって、今は何も見えていないのだから。
坂口美子と別れた後、本部図書館へと向かった。図書館の閲覧室は学生読書室と違って机と机の間に仕切りがあるからプライバシーを守ることができる。何よりも天井が高く、眺め渡す空間が広々としているのが気に入っていた。冷房をしているわけでもないのだろうが、古びた書物の蒸散する冷厳さのせいで、図書館の空気は森の中のようにひんやりとしていた。
図書館まで来て勉強しようという者は、学期試験前ならいざ知らず、その他の時期であればたいていは卒論準備か税理士、司法試験、国家公務員試験などの試験に挑む者が大半を占めている。
空いている席を探すことも難しいのだが、学生たちが書物にかがみこんで一心不乱に勉強しているのを通路の両脇に感じながら歩いているだけでも、ここは伝統ある早稲田であり、私もその一員なのだということが肌で実感させられて、誇らしい気持ちが湧き上がってくる。
席を探しながら通路の中程まで来た時だった。ちょっと先の席から私を凝視するひとつの視線があることに気づいた。その男子学生は不自然なほど長く私から視線を外さなかった。私はその少し先に空いている席をみつけそこに腰を落ち着けた。気になって振り返ると、その人も振り返って私を見たところだった。どこかで会った人だろうか。思い出せない。正面に向き直ってからも、その視線が背中に絡みついてくるような気がして、落ち着かなかった。
アルバイトを終えて下宿に帰ると桂木隆司からの絵葉書が届いていた。
『つい先程、奈良に着いたところだ。元興寺界隈の古い街並みを散策し、猿沢池より興福寺ご五重塔を望み、これから日吉館へ向かおうとしている。土曜か、遅くても日曜には帰るつもりでいる』
官製葉書よりも少し大ぶりな絵葉書には、菜の花を前景にした斑鳩の里の写真が使われていた。少し左下がりの癖のある筆圧の優しい字だ。私はこの絵葉書を彼が帰ってくるまでの間、御守りのように日記帳に挟み込んで持ち歩いた。
木曜日の英文研究のレンドン教授の授業は気が抜けない。外人教授の英語の授業は相変わらず苦手だ。レンドン教授は背が高くやせていて、髪の色は白髪に近い銀色で、いかにもイギリス人風の彫りの深い顔をした五十年配の教授だった。
現代英米詩人の詩集をテキストに使っていて授業内容には興味深いものがあるのだが、なにしろ教授の話す英語がうまく聞き取れない。異常に神経を集中させていないとたちまち何を言っているのか分からなくなる。二年の時のグレイ教授よりもレンドン教授の英語は聞き取りにくかった。
レンドン教授が出席確認のために名簿の名前を読み上げていた時だった。ある女子学生が代返を二度もしているのを教授はふと気付いて、眉をひそめて顔を上げた。代返など日常茶飯事のことだし、たいして罪の意識も無しに誰でも友だちのためにやっていることだから、教授もある程度黙認しているものと思っていた。しかしその日は、レンドン教授の腹の虫の居所が悪かったらしい。
「日本人は不正直だ。もう一度出席を取る。さっき返事があったのに今度返事が無かった者は名簿から名前を抹消する」
教授はいつもより低い声のトーンの英語でそう宣言すると、再び出席を取り始めた。一人一人返事のあった者の顔と名前を確認している。さすがにもう代返する者はなく、教授は二度目に返事の無かった四、五名の名前をその場でペンでざあっと消し去った。
この英文研究は三年の必修科目であり、三年で絶対に落としてはならない科目だった。名簿から消されてしまった者はどうなるのだろう。もしかして四年に進級できないなんてことも有る? たかが代返ぐらいで? その日の授業はいつになくピリピリとしたものになり、生徒たちも顔を強ばらせてうつむいていた。
厳しい調子に終始したレンドン教授の授業が定刻前に終わったので、文学部の門から出たすぐのところにある『curry屋』に行き早めの昼食を一人で取った。
あと三十分もしたらここも学生たちで一杯になる。一年の頃はO組の仲間たちとグループでここに来て一緒に食事をしたものだが、専攻のクラスではそんなまとまりもなく、授業が終わると皆ばらばらに散っていってしまう。専攻での唯一の友人ともいえる宮迫典子もこのところ休みがちだった。
桂木がいないと一日の出来事を話す人がいない。寂しい。早く帰ってきてほしい。店内にかけっぱなしになっているFM東京を聞くともなしに聞きながら、窓の外の交差点を機械的に流れて行く学生たちの雑多な群れを眺めていた。
ここに、私が、たった一人でいること。この町、見知らぬ人々。いつもなら見過ごしてしまえる心が、ふと自分に止まった。その瞬間、力の抜けてゆくような深い孤独に巻き込まれそうになって、私は慌てて目を閉じて頭を振った。
少し心が疲れているようだ。私は日記帳を鞄の中から取り出すと、お店のテーブルに屈み込み、ひたすら数日間の日記をまとめて書き続けた。
日記帳に挟まれた桂木からの絵葉書。黄色い菜の花が目の端にしみるように明るかった。
アルバイトに行くまでの時間をつぶすのに困って、生協の書店に行ってみた。何か文庫本を買おうとしていた時、クラスメ-トの氷室正人が声をかけてきた。
「何か面白い本、無い? あったら紹介して?」
「面白い本? そうねえ」
私はちょうど目の前にあった川端康成の本の並びに目を向けた。
「川端康成の『古都』なんかどうかな。京都の雰囲気が美しく描かれてるし、人物とかの表現が上品」
「あ、ほんと? じゃ、それ読んでみる」
氷室正人はうれしそうに私に笑いかけると、早速その本を手に取った。
氷室と別れたあと、『古都』でよかったかなと気になった。人に紹介する本は自分の趣味嗜好を表していそうで、少し慎重になってしまう。
氷室正人は英文科の『英米詩』の講義を受け持っている氷室美佐子教授の甥御さんだ。キョロッとした目の感じがそういえば似ている。彼は小説家を目指しているのだと漏れ聞いていた。
早稲田の文学部には小説の創作などを学びたい人のために『文芸』という専修学科があった。私も実はこの学科に興味はあったのだが、まわりが全員小説家を目指すような人ばかりだったなら、きっと怖れをなし自信もなくしていってしまうような気がして、志望しなかった。
氷室正人は『文芸』の専修に入っていた。本気で小説に取り組んでいるのだろう。いつか読ませて欲しいと思っていたが、とうとうその機会はなかった。
彼は今でも小説を書いているだろうか。趣味でもいいから書き続けていてくれるといい。たとえ最終的に小説で名をあげることができなくても、物語を生み出し、それを文章に著せるという能力は、人生の生きがいに通じる大きな才能だと思うから。
この前坂口美子と会ったときに、白樺湖の旅館で一ヶ月ぐらい一緒にアルバイトをしない? と誘われていた。それもいいなと思い、電話で宇都宮の家族に相談したところ、一も二もなく反対されてしまった。坂口美子もいるし、他にも女子大生のアルバイトがいるはずだと力説しても駄目だった。
味方してくれるだろうと期待していた兄までも、
「旅館のアルバイトは危険だからやめた方がいい。女子大生なんていいカモだよ」
と断固として反対した。
女性としての身を案じてくれているのは分かる。しかし大学の他の女子学生がアメリカ留学したとか、これから行く予定だということをしばしば見聞きしていた私は、たかが国内の旅館ぐらいでそんなに騒がなくても、と思う気持ちもあった。皆もっと自由に旅行を楽しんでいる。
うちはひどく保守的なのだ。私もずっと親の意向に背かないように生きてきた。だから桂木隆司との愛も考え考えになってしまうのかもしれない。
家族は私が恋人から泊まりがけの旅行に誘われていることを知らない。知ったら絶対駄目と言うだろう。結婚前に、男性と二人きりで旅行に行くなんてとんでもないことだ、と。でも私はもう家族の心配から遠くかけ離れたところに歩み出してしまっているのだ。
まだ彼にはOKが言えていない。返事を引き伸ばして考える時間を持とうとしていたが、たぶん考えるまでもなく最後にはOKと言うだろう。もうじき来る夏休みの間のいつか、私は桂木と旅行に行く。
夜、お風呂屋さんのすぐ隣にあるコインランドリーで、乾燥機の中の洗濯物が回り続けるのを椅子に座って眺めていた。学生らしい男性が入れ代わり立ち代わり洗濯物を投げ入れ、引き取りに来る。
安物のぐらぐらするテーブルの上には表紙の破けた少年ジャンプが何冊か積み重ねてあった。薄汚れた洗濯機が遠心力で僅かに揺れながら、ゴーゴーと仕事をしている。
洗剤の香料とカビ臭さが入り混じった匂い。昨日雨が吹き込んだせいか、コンクリートのたたきはまだ濃い灰色に湿っている。
コインランドリーの向かいにある小さな駄菓子屋の店主の老人が、さびたハンドルを回して飾り屋根をしまい込み、もう店をたたもうとしている。
椅子から立って外を覗いてみると、十五夜のように月が明るく照り映え、空の下の方に雲が妙に白く、夜なのに真昼の雲のように白く沸き立っているのが、中世の絵画のようにつるりとした手触りで見えた。
東京の夜空は夜らしい色をしていない。ほの赤い光が空の全体を染めているその下には、享楽を貪る人々が群れをなす街がある。
私とは人種が違う、そんな風にも思っていたが、一年前の自分が今の自分を見たら、愛に溺れきった別人のような女として、享楽の側の人間として、遠くかけ離れた存在に見るのかもしれない。
お風呂上がりの男子学生が一人、洗濯物を引き取りに入って来た。まだ乾燥が済んでいないと見るや、椅子にどっかと座り込んで漫画を読み始めた。
見知らぬ学生と二人きりなのも気詰まりなので、私は丸椅子を入り口付近にずらして座り、ジーンズのポケットに忍ばせてきた『マルテの手記』を読むふりをすることにした。
『マルテ』を読み続けることは、一種苦痛な作業だった。もし『マルテ』を平気に何の感慨もなく読み進められる人がいたとしたら、その人はきっと孤独とか魂の陰りとか、創作から受ける痛手とは無縁な人であるに違いない。
「・・・僕は書かねばならない。書くことがすべての終結だ」
終結とはどういうことだろう。生きることの最終目標ということだろうか。それなら私もずっと考えてきたことだった。書かなくてはならないという使命のようなものはずっと心の中にあった。
しかし一方で、書くことは苦痛を伴う作業になってもいたのだ。これが完全だ、これ以外の表現はありえない・・・ある瞬間そう思ったとしても、次の瞬間にはその表現がたまらなく不完全に思えてくる。どこまでも表現を高めていこうとしても、到底、神の領域には達しはしない。それは諦めることでしか終われないゲームだ。
数日前、二階堂優に大学で会ったことを思い出していた。同じ講義を取っているとは知らず、たまたま隣に座ってきた二階堂に、私は、
「わあ、久し振りです」
と声を掛けたのだった。
「ああ、こんにちは。・・・あ、この前、片山から君の詩を見せてもらったよ。ありがとう。随分書き慣れているような感じがしたよ。心に留まる詩が多かった。勉強になったよ」
「二階堂くんにそう言ってもらえて嬉しいです。・・次の同人誌はいつ頃出来そうですか?」
二階堂は唇を噛むようにして眉根を寄せた。
「原稿が集まらなくってね。もう出ないかもしれない」
「そうなの? もう皆あんまり書いてないの?」
二階堂は目を鋭く光らせ、私を凝視しながら突き放すように言った。
「あいつらはいいかげんな奴らだから」
その冷たい言い方に私は少し戸惑った。
「そう?・・・そんな人たちじゃないと思うけど」
彼らの間になんらかの齟齬が生じたのだろうか。書くことが魂の昇華であるうちはいい。しかし命をすり減らしてしまうような書き方もある。そう感じてしまったら、書くことから遠ざかることも必要だ。『Pan』の仲間それぞれに別の道に向かう岐路が生じてしまったのかもしれない。
その後の二階堂優を私は十分に知っているとは言えない。サローヤンを目指していた二階堂は、仲間を失った後、その軽やかな文章とは逆比例するかのように、徐々に心を閉ざしていってしまった。
時々見かける彼は、見る度に頬がこけていき、一人思い詰めたような表情でポツンと教室の後ろの方に座っていることが多くなっていった。
表現は終結を目指せば目指すほど危険なものとなる。それは始めから分かっていたことだった。分かっていながら毒のような魅力を感じずにはいられないのが芸術というものだろう。
しかし目指すのは死に近い究極ではなく、生そのものの豊かさにあるべきだという根本的な出発点に立ち返ってもう一度考えたい。芸術は極限や終結や完成のみを表現するのではなく、優しさや暖かさとも調和しあえるものであることを知り直さなくては。
洗濯物を紙袋に詰め込んで下宿までゆっくりと歩いていった。大気が湿っていて生暖かい。濡れた髪も少し乾き、胸元が少し開いた洗い晒しのTシャツ姿に六月の夜気はやさしかった。
もうすぐ夏だ。大学では授業料値上げを反対する学生たちが連日のようにマイクでがなり立て、学生運動さながらに慌ただしい動きをしていた。このままストに突入し前期試験も中止になるという甘い公算も無きにしもあらずだが、最後の最後にはやはり試験は実施されるのだろう。
桂木の声を聞くことのできない夜はどこか心細い。いつも電話をしあう約束の八時を過ぎているけれど、今日は慌てて下宿に帰る必要もない。
街灯ごとに影は後になり先になる。踏切を渡り赤提灯のぶら下がる一杯飲み屋を過ぎると、急に道は暗くなる。
去年、真っ暗なこの道を一人で歩いていたとき、私は一体どこに向かえば安らぎにたどり着けのかが分からずにいた。今でも、まだ分かっているとはいえない。でもそんな愚昧な自分を笑う余裕はある。そうだ、胸に痛み抱えながらでも笑ってしまえ。答えを出すのに近道が無いのなら、今この時をおろそかにすることなく生きるしかないのだろう。
通りすがりの民家の垣根から薔薇の甘い香りが囁くように流れてきた。薔薇の香りはいつも桂木との抱擁を思い出させる。
五月に入ってから数回、桂木は三十キロの道程を車で飛ばし、いきなり夜、上石神井までやってきて、私がアルバイトから帰ってくるのを待っていてくれたことがあった。
暗闇の中にうずくまる小さな灰色のシビック、ナンバー1559。それを見つけるたびにどんなに嬉しかったことか。
「つい会いたくて来ちまった。学校でも会ってるのにな。馬鹿みたいだな」
そう言って笑いながら、夜が嫌いな私をさりげなく気遣ってくれた。
街灯の明かりから外れた垣根のそば、車から降りてきた彼にきつく抱き締められキスされた。薔薇の香りと共に包まれた彼の暖かさ。彼の腕の中で私はいつも従順な小動物になってしまう。
彼に会いたい。しかし奈良に行ってしまっている彼が今ここに現れるはずもない。
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