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第24章 陶芸日記 抜粋

更新日:2023年10月29日


4月17日

 午前中は先生は来ないから、どこか散歩に行ってしまおうと、早朝、飯能行きの西部池袋線に乗ったが小手指に着いたところで、窯の蓋をあけるよう頼まれていたことを思い出して、とんぼ返り。

 窯の蓋をあける。土練りを4キロずつ10個。疲れた。先生は夕方4時ごろ来た。それで、5時から窯出し。7時近くまで釉かけ。マルエツが閉まってしまうからあわてて買い物してから夕食作る。お刺身とか焼き魚とか野菜炒め、味噌汁など。

 8時ごろ先生と夕食。食欲無し。9時まで休憩。9時から11時30分まで窯入れ。寝る前にお米を研いで明日の準備をしてから寝る。体はすごく怠いのだけど、なかなか眠れなかった。



4月25日(日)

 前日に入れた電気窯の温度は、朝6時半に1100度に満たなかった。

 線路添いの道路に敷いてある先生の陶板5枚の写真を、先生に頼まれていたので撮りに行く。昨日雨が降ったから少しは洗われているかと思ったがまだだいぶ汚れていたので、雑巾で汚れを拭かなければならなかった。車も通る道なので、1枚割れていた。

6時45分、窯の温度1140度。一度マンションももどって様子を見ることにした。

7時10分、1150度。15~20分で10度上がるらしい。次は7時30分ぐらいに見に行こう。

8時に1190度に達した。レバーの中1本をlowにする。

 今日は日曜日でTと会う約束をしているので。急いでマンションに戻り、洗髪し、お弁当を作った。

 先生よりTEL。昨日作った茶碗類をさかさまにしておくようにとのこと。

9時、レバー2本をlowにする。

9時10分、マンションを飛び出て急いで駅に向かう。9時37分発の武蔵野線に間に合うかどうか。

 小金井公園に行く。Tより将来の生活設計を聞き感激する。Tと一緒に暮らせる日が必ず来ると信じさせてくれた。その言葉だけで頑張れる。

 二人でマンションに帰ってから昼食。先生が午後来るかもしれないと思って私は気をもんでいた。Tと午後5時まで一緒に話したり触れ合ったりのんびりグダグダしていた。



4月27日

 12時30分より先生と日本橋高島屋へ。古美術品を買うのだそうだ。敦煌石窟展をやっていて会場は非常に混んでいた。

 いつも先生が株のことで電話している証券会社の宮野さんと会う。3時30分より喫茶店で宮野さんと株の話を1時間以上していた。私は株とは全く関係ないし、私のことは全く放っておいて二人で話し込んでいるので、余程帰ってしまおうかと思ったが我慢して黙って待っていたら、貧血気味になり気持ち悪くなってしまった。

 もう私に特に用事がないようでしたら先に帰ります、と言ったら、寿司を食べて行けと先生は言う。どうしても帰らせてくれないので、気持ち悪かったけれど無理して食べた。

 帰りの電車は5時30分、もうラッシュになっていたのでまた気持ち悪くなった。東京の人ごみの中は嫌だ。孤独だ。涙ぐみながら7時頃マンションに帰りついた。

 体調悪いせいで気持ちが弱くなっていて、悲しくて悲しくてTに泣きながらTELしてしまった。

 明日も先生に、サントリー美術館に行こうと誘われている。だけどTELして行くのをやめにしてもらった。

わがままにならなくては。もっとわがままにならなくては参ってしまう。

めまいと頭痛が続いている。疲れているんだ。

 一人でいれば一人の寂しさと緊張。先生が来ていれば気を使うし、結局心から休まる日があまりに少ないから。土日でさえちゃんと休めていないから。





4月29日(木)

天皇誕生日で休日。

 昨夜先生が泊まったので、朝、急いで朝食の準備。先生はもう起きて仕事場に行っていた。朝食後、先生はまた仕事場。昼頃まで仕事をしていく口ぶりだったが、9時45分に帰る。

 T、そのすぐ後に来てくれる。一緒に昼食を作って食べ、黒目川を散歩し、ボール投げなどをする。

 先生は午後3時ごろ再び来て、仕事場に行ってロクロを引く。一旦帰ったのに何故また来るのかと、また心が湧きたって怒りそうになる。休日もおかまいなしに先生が来るという状況に慣れなくて、気持ちが落ち着かない。

 Tは4時30分ぐらいまでいてくれた。Tといると心が休まる。



5月25日

 先生と奥さんが7時半に来る。

 8時より電気窯から素焼きを出して、釉薬をかけ始める。午前中で一番下の段が埋まった。

 先生は9月下旬から中国旅行へ行くそうで、申込書を書いていた。

 月曜日の陶芸教室の奥様方にも、10月の縄文土器教室用の縄文土器を作ってもらうそうだ。

 お昼のお弁当を食べて少し休憩してから2時より日本橋高島屋に一人で出かける。河合玉堂のラスター展をやっている。先生が見てこいというから。人ごみはきらいだ。やだ、やだ。どうせ私が買って持ち帰った目録とか見て、ラスター彩の絵を真似しろと言うんだろう。

 6時半、疲れて帰ってきたら、まだ先生は窯入れ終わってなくてがっくり。結局私も手伝って窯詰めは7時半までかかった。先生の夕食の心配もしなくてはいけない。簡単にチャーハンとか作った。神経も体もくたくた。どうしてこんなに疲れるんだろう。先生は、8時半に帰る。Tの仕事は今のところ楽なんだって。いいな。



6月5日(土)

 8時ごろ先生来る。円筒状の粘土の成形物を牛の形にしろと命じられる。図案集などを参考にしてあれこれいじくってみたがどうも牛の形にならず、羊っぽくなってしまった。先生としては動物の形を花器にしたかったようだ。もう一つ牛での成形を挑戦。牛はツノや耳の所が弱く割れやすい。デザイン的にいかがなものか。

 午後4時にTがマンションに来てくれた。4時半に仕事を終わりにしてもらう。先生があからさまに気落ちした様子を見せるので、私も気まずい思いをする。このところ日曜もずっと休めていなかったので、休ませてもらわないと身が持たない。心ももたない。

 先生は少しして帰っていった。Tは粘土で小物をいくつか作ってきた。



6月21日

 灯油窯を焚く。もう1週間のうちに3回も灯油窯をやっている。1回1回の窯焚きの結果の吟味検討もあまりしないで。1回の窯焚きの疲れも取れないうちに。

 1回目の出来栄えを確かめもせずに釉掛けをしてしまうから、どうしてもうまくいかない釉をまた掛けてしまっていて、それをこすり落すこともあった、灯油窯の性質も良く分からないうちに大物を焼いてすべて失敗させてしまうこともあった。

 そのことごとくに私の血と汗の滲む絵が描いてあったとすれば、絵を描く意欲を失くすのも当然のことである。先生もせっかく作った大壺が台無しになっているのを見たくはないだろうに。

 何故、確かめてから物事を実行しないのか。何故、ぶっつけ本番の不安定な炎の中に、苦労して作り上げたものを入れようとするのか。それを私は先生に問い詰めたい。

 窯の性質が分からないうちに大物を焼くのは愚である。失敗するのは目に見えている。何を夢みて焼こうとしているのか。

 私だったら、無地の湯飲みで、いくつか土質の違うやつ、釉の濃薄、釉の種類、適切な焼成温度、そのすべての結果を把握した後でなければ大物は焼かない。小物でさえ失敗するのに、どうして大物が焼けよう。時間の浪費だ。体力の浪費だ。もっと考えてほしい。



6月25日

 9時過ぎ先生来る。非常に機嫌悪し。先生が理由もなく機嫌が悪いので、私もプリプリしてきた。怒りとは何なのだろう。

 私は冷静であろうとし、常に一定の感情を保つよう精一杯自分を抑制しているのに、先生は自分の思いをそのまま表情に出して毒をふりまく。そしてその言い訳として「人はだれでも聖人なんかじゃないんだから、欠点もいろいろあるよ」と言う。

 私は先生に反省を促したい。以前は、私は先生に対して感じる怒りを自分が未熟だからと思い自分を責めて苦しんでいた。だけどそんなことで苦しむのはおかしい。先生が甘ったれで、家庭でなにかあったのかどうか知らないけど、仕事場に不機嫌を持ち込んで私に当たるならお門違いだ。わたしが不機嫌の原因なら、どこが悪いのかちゃんと言えばいい。もう卑屈にならない。今日の先生は最低だった。

 午前中、2キロの白土で陶板2枚を作る。その四隅に四つの花を描くようにとの指示。イラストの図案集、日本画の画集などから描けそうな絵を探す。あさがお、ゆり、あじさい、つばきを小さく描く。



6月29日

 8時ごろ先生と奥さん来る。今日は電気窯に窯入れをするという。午前中いっぱいかかって釉薬掛け。奥さんは11時頃帰る。

 午後1時頃までかかって窯入れ。そのあと先生は陶芸教室に出かける。私は作業場で壺に絵付け。幾何学模様。

 先生4時45分に帰ってくる。電気窯の火を入れる手順を教わる。夜8時にはレバー2本をhighに、9時に、残った1本をhighに。夜中も時々見に行って、朝6時には1190度になっているように。

 先生5時に高円寺に帰る。

 こんな雨も降っている夜中、真っ暗な作業場にひとりで行くのは怖い。懐中電灯とナイフを持っていく。

 朝方1190度になっていたら、中1本のレバーをlowに。1時間後にあとの2本のレバーをlowに。そのあと30分くらいおいてから上のスイッチを切って、とのこと。

 この手順は部外者にはマル秘。先生の作品に私が絵付けをしていることも口外するなと言われた。

 新宿三越での個展が7月11日から一週間ある。その作陶で、週に2回は電気窯で焼いている。先生は夕方帰るから、夜中の温度調整は私の役目だ。

 先生も良い作品がなかなかできないので、機嫌悪いことが多くて、私も影響されてしまう。



7月3日

 電話で、20センチぐらいの丸い陶板を10枚作っておけとのお言い付け。

 大きな塊で土練りをして、皿の大きさに形を整え、たたら板を重ねてテグスの糸で粘土の塊を引き切る。10枚の粘土板を作る。

 先生は陶芸教室に寄ってから午後3時30分に来る。

 陶板に枠をつけてくれ、と言う。それも今日中に10枚全部にやってくれ、と言う。

 人をせかしておきながら、自分は一人で茶をたててのんびり飲んでいるので腹がたった。

 5時、6時になってもなかなか進まず、急がねば終わらないと思って手早く枠をつけていたら、「雑にやったら無駄になる」と言う。

「10枚全部になんて、今日中は無理です」と言い返してしまった。

 結局5~6枚しかつけられなかった。先生は7時までに高円寺に帰るというので、後は明日つけることになった。明日でもいいのなら、何も今日焦って全部やろうとしなくてもよかったではないか。そう言ってくれたならゆっくり丁寧につけられたのに。

 最近たてつづけに講習があったから、仕事に追われているのだと先生は言う。何でも引き受けすぎなんだよ。もっと自分の作陶に専念する時間を持てばいいのに。先に見通しを持ってほしい。



7月5日

 午前中は陶芸教室。午後は茶碗5個に花の絵付け。湯飲み2つに花の絵付け。

 夜になりいつ終わりにしてくれるのだろうと思っていたら、先生は湯呑の高台を切るからマンションに泊まると言う。急に泊まるなんて言うからごはんも炊いていない。おかずも準備が間に合わない。それで、陶芸教室の生徒さんのラーメン屋さんのところで野菜炒め定食を食べる。明日の朝食、お昼の弁当の分について、先生は奥さんに電話して持ってくるようにと言っていた。

 後で知ったのだが奥さんは明日6日は、目黒に用事があったそうで、朝、おかずや弁当を持ってくるためだけに東久留米に来て、そのまま8時にとんぼ返りに出かけていったのだった。

 奥さんも奥さんだ。何もそんなにしてまで弁当を持ってきてくれなくてもいいのに。私がいるマンションに先生が泊まることだって不愉快だろうに。勝手にそっちでやれば、ぐらいに怒ってもいいのに。

 奥さんはいつでもこんな風に、先生の言うなりになっているのだろうか。言いたいことも言わず黙って忍従しているのだろうか。

 以前私は先生夫婦を見て、なんて仲がいいのだろうと思っていたが、今やこの平和は奥さんの忍従の上に成り立っていることに気付いてしまった。

 ひところは会社の給料を陶芸すべてに費やして、家に全くお金を入れなかったという。奥さんに何の相談もせずに仕事をやめてしまい、黙って陶芸を始めたのだと言う。

 奥さんは、先生の自分勝手な行動を見て、自分がないがしろにされているとは思わなかっただろうか。

 最近の話では、東久留米駅前に建設中の住宅付き店舗の物件を買いたいと言う。3千万円するそうだ。この大門サニーハイツを売ってお金を作るのだそうだ。これも奥さんはさておいて自分でさっさと決めようとしている。画廊喫茶にしようなどと夢のようなことを言っている。立地条件、内部装丁、お店の経営のノウハウも全く分からないくせに、思い付きで事を運ぼうとする。信じられない。

 先生はまたこうも言っていた。

「人生には必ずあやまちがあるのだから、それは誰にも言わないことだ」

 その時の話の流れから、先生が意味しているのはセックス上のあやまちのことである。先生ははっきり言って淡白な方ではないから、雰囲気にのまれて悪気は無くてもそういうあやまちは何度かあったに違いない。しかし自己弁解のような人生教訓を聞かされると腹が立つ。黙って陰で口をぬぐっているような気がして。奥さんの気持ちを考えたことがあるのか。若い娘が一人でいるようなマンションにも、気軽に泊まったりして。

 私にもし、そのようなあやまちの時が訪れたとしたら、私なりに苦しんで桂木に対して責任を取るであろう。

 Tは以前私に言ってくれたことがある。

「もし、おまえに過去があるとしても、おまえが遊びでそんなことをするはずはなく、誰かを真剣に愛した末そうなったということを確信するから、そんなことはとやかく言わない」と。

 私もまた、Tに対してそう思う。人を愛することにおいて誠実でありたい。誠実の上に、あやまちと言われる行為はない。

 先生の考え方ことごとく受け入れられなくて、苦しい。これは陶芸以前の問題だ。



7月11日

 作品の箱詰め。三越の個展用。奥さんも来る。

 石山さんの車に午後4時頃、仕事場の作品を積み込む。次に高円寺に寄ってそこにある作品も積み込む。それから新宿三越へ向かう。私も一緒に車に乗って行く。7階美術画廊で今やっている展示が夜7時に片付けられるので、それを待ってから石井先生の作品を並べる。

 並べ終わってから、皆で「つな八」で天ぷら定食を食べる。夜9時過ぎに石山さんの車で新宿を出て、10時頃東久留米に帰る。

 片山君よりTEL。明日、先生の個展を見に来てくれるそうだ。



7月12日

 朝9時10分前、美術画廊のところで先生と待ち合わせをして作品に値段付け。こんなぎりぎりに値段をつけるんだと思った。数千円のものから数十万円の値段。作品は壺や、皿や水指、花器、茶碗など30~40点ほど。オーソドックスに使えるもの。前衛的な物は無い。

 個展初日は、教室の生徒さんたちが一気に来た。義理かどうかは知らないが、数千円のぐい飲みとか湯飲みなど、小さな作品を買っていった。

 先生も上機嫌で作品の説明をしている。私が描いた絵について聞かれて、さも自分が描いた風に説明しているので不愉快になる。先生の声を聞きたくなくて、画廊の外辺りをうろつきながら、片山君が来るのをなんとなく待っていた。

 片山君は11時過ぎに来た。片山君が作品を見終わるのを待って、奥さんに断って二人で会場を後にした。

 新宿のレストランで食事をしながら話す。二階堂君のこととか焼き物のこととか。詩は書いていますか、とか。片山君には、私の暗く病がちだった時のことも話せたのだ。将来が見えなくてイライラしていた大学4年生の頃のことも。とても話しやすい人だ。おしゃべりじゃない人はいい。

 原宿へ出て明治神宮御苑に200円払って入り、蓮の池を眺めながら話をする。白い蓮が一面に咲いていて美しい。その後、林の中を二人で歩いた。知らぬ間に1~2時間話していた。恋や愛が入り込まない友情だけでいられるのなら、このままいつまでも二人で話しながら歩いていてもいいと思った。あくまでも友だちとして。

 片山君は、明治神宮で静かに手を合わせていた。何を祈ったのだろう。端正な横顔に見入ってしまった。片山君はきっといい高校教師になるだろう。国語教師が似合っている。

 坂口さんが学生時代、彼氏のことで一杯になり、友だちづきあいがなおざりになってゆくにつれて、彼女の男友だちが私の方になんとなく流れてきた形ではあったが、私ももっと早くから心を開いていれば、彼らとももっと早くに友だちになれたのにと残念に思う。

 Tと片山君の家が最寄り駅向ヶ丘遊園で近いから、なんだか気になる。またいつか会ってしまうのではないかと。久し振りに懐かしい人に会って、心が大学時代に戻って、少し揺れ動いた。

 中川君も、先生に相談があるから個展の会期中に来ると言っていた。



7月17日

 10時か11時に中川君が三越に来てくれるとTELがあったので、10時過ぎに三越に行ってみたら、夕方4時か5時になると連絡があったそうだ。

 会場にいても暇なので三越デパートの中を見て回った。紀伊国屋書店の方にも行って、アート・ガーファンクルのカセットテープを買った。Tがもうすぐ誕生日なので、何かいいものがないか探したが、決められず。

 午後も新宿の町を歩いていた。暑かった。

 5時ごろ、中川君来る。来週の日曜日に公務員試験があって受けるつもりらしいが、勉強もあまりしていなくて自信がない様子。

 先生の作品を見てもあまり感想を言ってくれないし、口数少ないし、何を話したらいいかとまどう。元気がない感じ。

 この前、仕事場に来て、先生に陶芸をやってみたい旨相談して断られていたが、まだやりたい気持ちがあるのだろうか。

 先生は、「あの人は将来の方針が全く決まっていないから---」と非難していたが。確かに決意のほどがうまく伝わってこない。

 中川君は人づきあいがうまいとは言えないから、やはり独立自尊で生きていく仕事を選んだ方がいいのかもしれないが、陶芸は、なんだか勧められない。石井先生の元に来るのは更にお勧めできない。精神的につらくなるのは私で証明済み。

 それにしても中川君は、以前はこんなに寡黙ではなかったはずだ。坂口さんと中川君が大学の夜の帰り道、楽しく冗談を言い合いながら歩いていくのを、私は羨ましがりながら後ろからついていったものだ。田舎の月は明るい、都会には月が無い、そんなことを話して笑い合った。

 今日で個展の会期は終わりだ。売れなかったものは片付けて持ち帰らないといけない。中川君は片付けを手伝うと言ってくれたが、7時過ぎになるまで片付けられないので、中川くんに「無理して手伝わなくてもいいよ」と、気を使って言ってあげた。

 中川君は、にえきらない態度で「うん」などと言っていたが、やがて先生に「何か手伝うことはありませんか」と聞きに行っていた。遅くなってもいいのかなと思って、私はそのままにしていた。

 しかし、何かいづらそうな素振りを見せたので「無理しないでいいよ」と私がまた言ってあげたら「じゃ、帰ろうかな」と言う。私が「暇だったら仕事場にまた遊びにおいでよ」と言ったのを受けて、中川君が先生に「暇だったらまた寄らせてもらいます」と言ったものだから、先生は彼が帰った後、「暇だったら寄らせてもらいます、というのは自分の都合だけで、こっちの都合のことは全く考えていない」と憤慨していた。石山さんもそれを聞いて「なるほどね」と言った。

 私は中川君の何気ない言葉の揚げ足を取って、そんなに悪意に取ること無いのに、と悲しく思った。先生は中川君が嫌いなんだと思った。私もこんなちょっとしたことで先生に嫌われることもあるのだろうと思った。

 だけど最近の私は、そんなことは怖くない。私は先生の元にいなくても好きなことはやっていくつもりだし、先生に依存して生きているわけではないから、先生に嫌われることは全く怖くない。


「いくら目隠をされても己は向く方へ向く

いくら回されても針は天極をさす」   高村光太郎


 私が今憂慮しなくてはならないことは、先生のことを尊敬しきれないということだ。今日のように私の友人を私の前でけなしたり、自分の母親を、邪魔だから死ねばいいと、はっきり言ったり、生徒さんの意見を聞かず、質の悪い釉薬しか使わせなかったり、生徒さんがいろんなことを知りたがるのを、探りを入れていると邪推し、嘘を教えたり。

 私はそんなことの一部始終をそばで見ているとたまらなく悲しくなるのだ。秘密事項なら、ここから先は秘密だと、正々堂々と言えばいい。

 先生の内にある根深い人間不信のようなものが、私の心を汚染する。

 先生は朝晩の勤行を欠かさず、仏壇を一番よい部屋に置いてあるのだという。でも自分の母親を死ねばいい、などと言うのなら、その人の心に仏はあろうか。

 先生がいい人であることは認める。優しいところもあるし、物事に一生懸命に取り組む人だ。けれど、その心にどこか歪んだ俗性があるのが惜しく悲しく思われるのだ。

 身内の悪口は、余程心を開いた人にでも最小限に言うべきで、もしあからさまに言い募るのだとしたら、その人は宗教を捨てるべきだ。


 個展の片付けが終わった後、すし屋で打ち上げ。私は御馳走なんてしてくれなくていいから、一人で先に帰ってしまいたかったが、これもお付き合い。我慢してその場にいた。

 豪勢な刺身の船盛が出て、皆で頑張って食べたが、食べきれず少し残ってしまった。先生は「この船盛は50万円してるんだから食べなさい食べなさい」とうるさく言っていた。

 帰りは石山さんに車で東久留米まで送ってもらう。マンションに着いたのは10時だった。なんだかひどく疲れていた。

 今、Tが仕事のことで元気をなくしているらしいので、電話をしてあげたかったが、今日はもう遅いので、また明日。



8月3日

 このところ私はちょっとしたことで腹を立て、ちょっとしたことでイライラする。感情の起伏が激しい。自分の醜さに耐えられないような時もある。体の具合も悪く、病気ではないかと悩む。

 Tにも心配をかけてしまった。苦しいな。なんでもなければいいのだけど。Tのためにも、もし赤ちゃんが産めなかったらどうしよう。Tは今はいらないと言っているが、いつか欲しくなる時が来るに違いない。私の体は大丈夫だろうか。

 精神的にも身体的にもつらい日が続き、Tを思う気持ちがますます強まっていくのを感じる。Tは背が高くてハンサムだし、頭もいいし、思いやりもある。私だけを見ていてくれる。出会った最初から、すべてが好ましく思えた。最初からたぶん恋をしていた。

 Tが好きだ。Tは私と共に学生時代の大半をすごしてきた。昔の日記を読み返し、私たちの今に至る過程を振り返るにつけ、胸に熱い満足がわいてくる。これ以上は望めない。そんな素晴らしい青春だった。私にとって常にTとの「今」が幸せの最高位だった。あとどれくらいこの幸せが続くのか。終わりは来るだろうか。

 今、悩みに明け暮れて体調も悪くしているが、Tとの将来も真面目に考えなくては。こんなところで挫けていてはいけないのだ。カタルシスのために、心の浄化のために、私は何をすればいい? このマンションを早く出て、Tのもとに行きたい。


朝、プラケースの中の沢ガニをのぞいて見たら、重なり合って交尾をしていた。

沢ガニの交尾を見ながら、神聖な気持ちになった。

身動きもせずに抱き合った二つの生き物は、何時間も離れようとしなかった。

そのまま二匹とも死んでしまうのかと思った。



8月7日

 9時頃先生来る。疲れているのか9時半までマンションで寝ていた。陶芸教室があるので、私は仕事場を片付けて掃除をする。釉薬の準備などをしていた。

 今度の市主催の障害者の陶芸講習の時に一緒に焼く低火度の作品が全然無いと言って、急に先生は焦り始め、粉引の土で型皿を作れと私に命じた。

 昨日、窯を焚く前、私は忠告したではないか。講習者の作品と一緒に焼く作品が無いのではないかと。

 それなのに先生は、青磁、青磁と、自分のやりたいことばかりに目が行って、少しも全体を見ようとしない。無計画さ、それも先生らしさであり、微笑ましくもあり別に非難しようとは思わない。でも、私にしわ寄せが来るのはまっぴらだ。


 陶芸教室の生徒さんの黒田さんは非常にキツイ人だ。完璧主義者。はた目には良く出来ているように見えるお皿も、ちょっとガタついていると、「これ、いりません」とピシッと言ってのける。先生も一瞬たじろいだようだった。その場に居合わせた太田代さんや笹原さんが、なんとか冗談を言って雰囲気を和ませてくれたからいいようなものの、そうでなかったら、ひどく険悪な空気が流れるところだった。

 どこも割れておらず、どこにキズがあるわけでもなく、ただ端を押すとほんの少しガタガタするというだけで、あんなに簡単に捨てることができるのだろうか。以前から焼き上がりがよくないと言っていた人だから、今度という今度は頭に来たのだろうが、今日は少し先生が可哀想に思えた。先生はハワイアンのすごい橙色のTシャツを着ていて、それも生徒さんたちにこそこそと陰で笑われていた。

 何かあると、私はつい自分が折れて引き下がろうとしてしまう。争いは好まないのだ。これが私の弱さにつながっている。

 すべての人を敵にまわしても、一人でも狼のように生きられる強さ。それが欲しい。炎のようにあるがままを生きたい。

 ああ、これはウィリアム・ブレイクだな。五感を閉ざさずに、すべての官能を開いてあるがままを生きる。

 憎まれても、怒られても、言いたいことは言うべきだし、したいことはするべきだ。でも、そうはできないんだ。いつも常識観念の中にいて、つい曖昧に微笑んでしまうんだ。事を荒立てたくなくて黙ってしまう。それが私の弱点なのだろう。


 午後、先生はバオバブの陶芸教室に行った。私は湯呑に絵付けと、水指に取っ手つけをしていた。

 3時30分、先生帰ってくる。ひと眠りしてからまた仕事をすると言う。5時まで起きなかったので、いいかげん遅くなったら困ると思い、5時に起こしたら、先生は5時15分に起き出して、くもってきたからと、帰ってしまった。


 私は以前あまり人と交渉を持たなかったから、自分は静かな感情の持主だなどとうぬぼれていた。Tとは全くうまくいっていたし(少しはケンカもして泣いたりもしたが)、人間関係で苦しむことなんて全然無かった。あるとすれば、私に思いを寄せているらしい男子にどう対処したらいいか悩んだことぐらいだ。

 しかし、今、たった一人の先生に、全くしばしば感情を乱される。私の本質は、実は激しやすい感情だ。それを自覚した。私は全然穏やかな人格ではない。

 Tだけが救いだ。Tは私のうちの美しさを引き出してくれる。Tのそばにいる時は、自分の善良を信じていられる。

 でも先生の顔を見ると、駄目になってしまうんだ。先生の言動で負の感情が湧きあがってしまう。もっと焼き物のことで悩むべきなのに。



「カラマーゾフの兄弟」より印象に残った部分抜粋


「肝腎なのはおのれに嘘をつかぬことです。おのれに嘘をつき、おのれの嘘に耳を傾ける者は、ついには自分の内にも、周囲にも、いかなる真実も見分けがつかなくなって、ひいては自分をも、他人をも軽蔑するようになるのです。だれをも尊敬できなくなれば、人は愛することをやめ、愛を持たぬまま心を晴らし、気を紛らわせるために情欲や卑しい楽しみにふけるようになり、ついには、その罪業たるや畜生道にまで堕ちるにいたるのです。----おのれに嘘をつく者は、腹を立てるのも誰より早い」


「心底から後悔している者を、神さまがお赦しにならぬほど大きな罪はこの地上にはないし、あるはずもないのだ」


「相手がだれであれ、一つ部屋に二日と暮らすことができないし、それは経験でよく分かっている。だれかが近くにきただけで、その人の個性がわたしの自尊心を圧迫し、わたしの自由を束縛してしまうのだ。わたしは、わずか一昼夜のうちに、立派な人を憎むようにさえなりかねない。」


「あなたがそれを嘆いていることだけで十分なのです。ご自分にできることをなさい。そうすれば報われるのです。あなたはもうずいぶん多くのことをやり遂げていますよ。なぜって、それほど深く真剣に自覚することができたのですからね」


「他人に対しても、自分に対しても嫌悪の気持ちはいだかぬことです。内心おのれが疎ましく見えるということは、あなたが、それに気づいたという一事だけで、すでに清められているのです」


 カラマーゾフの、特に”長老“の言葉を読むと心が静まる。

 所詮私の悩みなどは、私一人だけのものではなく、古来多くの人々が感じて来た普遍的な悩みなのだと思えた。カラマーゾフはすごい。含蓄のある哲学的な、宗教的な言葉がちりばめられている。



8月10日

 昨日、二階堂君の遺稿集が届いた。差出人は、もと二階堂君が下宿していた先の大家さんの盛さん。(確か脚本家だと聞いたような気がする)

 二階堂君の遺稿集は立派なものだった。クリーム色のマットなラバーのようなカバーに、題名「・・・という小説」という文字が金色で印字されていた。1センチぐらいの分厚さがあった。

 二階堂君の幾分つきつめたような厳しい外貌から想像したものとはまるで違って、柔らかな語り口で、軽妙でさえあった。はじめの方から読んでいくのがなんだかつらい気がしたので、ペラペラめくり、終わりの方に目を走らせていたら、二階堂君の入院生活を描写した小説があった。それは、第三者のように自分をみつめた小説で、私が思っていたような深刻な、悲惨なものではなかった。しかし、その不思議な明るさの中にも、死を予感させるものがあった。

 何故、彼は死んだのか。彼は死に向かってどうしても進んでいくしかなかったのか。それを止められる人はどこにもいなかったのか。

 入院生活は、特に心を弱らせている者にとっては、ありあまる時間との闘いなのだ。考える時間が膨大にありすぎる。彼はたぶん何かで忙しくして暮らせていたなら、死なないで済んだのだと思う。しかし、体も悪くしていたから入院は避けられなかったのだろう。

 片山君から去年聞いた線香花火の一件を思い出した。自ら火玉を振り落としにいくような人生だったのかもしれない。

 盛さんに、昼過ぎまでかかってお礼の手紙を書いた。坂口さんのところにも、この遺稿集が届いただろうか。彼女はずっと二階堂君のことを心配していたから。


 夜、TにTEL。学校が夏休みに入って暇を持て余している様子。私は、最近土日も仕事があって休めないし、なかなか会えない。Tは仕方なく山に行ったりしているらしい。

 またさとみさんの話が出た。最近さとみさんの話が多い。私は物分かりがいい風をして聞いているが、内心穏やかではない。当たり前だろう。恋人が、若くてきれいな女性と今度二人きりで山に行くというのだから。にこにこして、いってらっしゃいと言ってあげることが、どんなに難しかったことか。 

 私があまり仕事を休めないでいるうちに、Tが離れていってしまうのではないかと不安になる。


 そう言えば今日は、先生が来るかもしれなかったのだが、とうとう来ず、私は仕事場で一人ずっと手びねりの壺などを作っていたのだった。

 まだまだ技術が未熟だ。こんな有り様で、陶芸教室の生徒さんに、したり顔で「ここはこうするといいです」などと言っているなんて言語道断だ。

 絵付けよりも、ものを作っていた方が楽しい。やはり私は陶芸が好きだ。命じられるのではなく、自分で自分の作品を生み出していきたい。


 一日中雨だった。

 それにしてもTのことが気になる。女の人と山に二人きりでなんか行ってほしくない。

 気持ちがいろいろと混乱したので、夜9時に寝てしまった。



10月20日

 先生は9時近くなって来た。私はそれまで英語の添削をやって待っていた。

 先生の中国旅行のお土産は、「俑のはんこ」「玉(ぎょく)のインク壺」、それに、中国の風景が描いてあるセルロイド製のしおりだった。

 先生は少し風邪を引いたそうだ。

 9時過ぎ、仕事場に行き、電気釜に素焼きの窯入れをした。途中、社会教育課の落合さん、小西さんが来て、縄文土器教室についての打ち合わせをした。

 その後、灯油窯の方の窯出しをしたのだが、どうもよい作品が無くて先生はがっかりしていた。

 辰砂と緑釉を掛けた翼形の作品(花器)2つに期待がかかっていたのだが、いまいちの発色。特に辰砂の釉薬、辰砂を全体に掛けてしまったのがよくなかった。なんとも中途半端な濁った赤色は美しくなく、どんより汚れた色に見える。

 中国旅行前に先生は、「あれとあれに辰砂掛けといて」などと言い置いて出かけられたのだが、今灯油窯に入っている作品の出来栄えによっては気が変わるのではないかと思って掛けずにいたのだ。結局掛けなくてよかった。案の定、辰砂は駄目だという判断。

 灯油窯に次に入れるものを検討してから、昼食を食べて、1時に先生と根津美術館へ出かけた。


 丸の内線の赤坂見附で銀座線に乗り換え、表参道まで。そこからA-5の出口を出て、右へ真っ直ぐ行くと根津美術館に突き当たる。

 今は、定窯の白磁が展示されている。思ったよりも小さなものが多く、どれも掌に乗るぐらいだ。それぞれに細かな陰刻が施され、見えるか見えないかの淡い陰影が上品な感じだ。

白磁の他に、青銅器、清朝の装飾時計などが展示されていた。

 美術館を出たのは4時近くになっており、そこからまた赤坂見附に行き、新宿に出た。

 例によって中村屋でインドカレーを御馳走になって、5時、先生と別れる。

 素焼きが入っている電気窯のスイッチを、「強」にしなければならない。


 もう5時は随分暗い。今日はさわやかに晴れたのだが、夕方になって幾分雲が出て来て、いつもならマンションの上方に出ているはずの月が、今日は見えない。樹木の影が長くなった。風の匂いも違う。

 夜、7時15分ごろ、TよりTEL。これから寝ると言う。やはり、明日、明後日と、千丈、甲斐駒に登るらしい。

 天気はまあまあ大丈夫だと天気予報は言っていた。1日目は、北沢峠から千丈、また下って北沢峠の山小屋で1泊。2日目は甲斐駒。もし早めに降りられたら、3時過ぎのバスに乗って土曜日のうちに帰ってくるそうだ。

 いつもはろくに予定も告げずに、じゃ、行ってくるからな、と軽く出かけるのに、今回に限ってちゃんと予定を言っていくから、なんだかかえって不安になる。やはり冬の序盤戦の山として、Tも危険を感じているのだなと思う。

 Tは慎重だから、うかつなことはしないだろうが、やはり一人で山に行くのは賛成しかねる。怪我とか遭難とか考えると、待っている身としては心配でたまらない。

 Tは、それに急に思い立ったように二階堂君の遺稿集を読ませてほしいなどと言う。いつものTと違うようで、余計心配になる。

 Tにはどうしても生きていてもらわないと困る。浮気されたって、もう全然かまわない。何したってどうでもいい。ただ死んでは嫌だ。ただ生きていてほしいと思う。

 こんなに心配していても「山には行かないで」とも言えない。生きている実感を山に登ることで感じているのなら、それは他人には止められない衝動なのだと思うから。

 私は心配を顔に出さず、強い気持ちを持って、Tが無事に帰ってくるのを待つだけなのだ。


 夜、8時過ぎ、電気窯のスイッチを切りに仕事場に行った。仕事場の中が暖かかった。ロクロの練習をしたかったのだが、ロクロの上には、今日先生が引いていた大壺がまだ乗っていてどかせそうもない。

 それからアップルマートに寄って、牛乳とポテトチップスなどを買う。

 公務員住宅の一つ一つの窓には明かりが灯り、それぞれに暖かに憩っている気配が感じられた。それぞれの家族の幸せを感じた。そして私はひどく孤独だった。

 「これで良かった、という生き方ではなく、これしかない、という生き方」。二階堂君の遺稿集にはそう書かれていた。

 私は今、どんな生き方をしているだろう。「これしかない」、という生き方であれば、もっと生の究極を生きられるのだろう。万難を排してただそれだけに突き進むような。

 だけど、私は弱い。「これしかない」、なんて思ったらそれが駄目になった時に絶望しそうだ。だから逃げ道も作っておきたい。

 私は最終的に「これで良かった」と思う人生を選んでいくのだろうと思う。ただ、Tとのことだけは、「これしかない」だ。もう切実に絶対に、「これしかない」だ。だから、死なれると困る。いなくなったら困る。きっと絶望だけじゃ済まない。

 少しTに執着しすぎているかもしれない。私はもっと強くならなくてはいけない。

 夜の黒目川の遊歩道をしばらく歩いてから、マンションに戻った。



10月21日

 朝、6時30分。目覚まし時計で起きた。窓の外は暗く、時折通る車の音で、道路が濡れているのが感じられる。雨が降っている。Tは今どの辺だろう。向こうも雨だろうか。怪我でもしていなければいいが。

 7時45分、TよりTEL。今、甲斐駒の麓に着いたという。あちらでは少し薄日が差しているそうだ。土曜の夜か日曜の午前中に帰ってくる。帰ってきたら電話する約束をして切る。天気はあまり良くないらしいがやはり甲斐駒に登るのか。頑張るなあ。

 先生は8時15分に来る。

 今日はまず昨日窯から出した生徒さんの作品の値段付けをしてから、土練り。その後、作業台をきれいにして、陶芸教室の生徒さんを迎え入れる。

 私は部屋で陶器のひび割れの補修(金継ぎ)をしていた。ちょっとインチキなやり方。2液式接着剤で、ひび割れたところを埋めて金粉をまぶす、という方法。陶器を洗っていると金粉が取れていってしまうと思うんだけど。

 11時頃、教室の方に顔を出したら、例によって黒田さんが、プルーンやクッキーを持ってきて作業台の上に繰り広げていた。

 先生の黒田さんへのお土産は、はんこと筆とマイルドセブン1パック。はんこはあまり気に入らなかったらしく、先生の猿の形のはんこの方がいい、などとごねていた。

 今日は一日中雨の模様。さして必要もない釉づくりなどをやっていた。


 10月23日は、縄文土器の野焼きの日となっている。私が作った縄文土器4つもそこで焼く予定。上の方の棚で十分に乾燥させておいたものを、この前訪ねて来た落合さんが見て、「これ石井先生が作られたんですか」と聞いていた。先生は、「そう、手びねりで作って縄の模様を入れたんだよ」、などと調子よく答えていた。火焔型のものも挑戦して作ったのだけど、それはごてごてしすぎてしまって、持ち運びもできないので焼けないだろう。

 Tの甲斐駒登山はどんな具合だろう。



東久留米市役所 社会教育課からのお便り

「縄文土器教室に参加のみなさん」


朝晩冷え込むようになりましたが、風邪などひいていませんか?

10月1日、2日にかけて丹念につくり上げた縄文土器の乾きぐあいはどうですか。ひびやはがれかけた部分があっても、そっとしておいてください。

さて、こんどの日曜日は秋晴れの天気の下で野焼きです。土器は大切にあつかい、時間におくれないように。

◯集合 10月23日 午前8時30分

◯場所 滝山野外施設

◯もちもの 土器、軍手、お弁当、タオル、おわん(豚汁サービス)

※土器はしばらく保温するため、30日まであずかります。

※雨天の場合は30日に延期。当日8時15分までに電話します。



10月22日

 Tからはまだ何の連絡もない。今日はまだ帰っていないのだろう。無事だろうか。

 今日は朝8時頃先生から電話あり、10時半頃来るとのこと。その間、香合を作っていて、というので、以前作っておいたもの7つにやすりをかけ仕事場に持っていった。それから、急須型の香合を作った。

 先生が来てから土練り。茶入れの取っ手を3つつける。

 午後、先生はマンションで休憩。私は昼食食べてから下谷公園へ自転車で散歩に行く。良い天気だ。もう菊のつぼみも色づき始めている。住宅の垣根のところにアサガオの種ができていたので今度少し戴いてこようと思う。ホトトギスの花も咲いている。

 先生は2時からバオバブの陶芸教室に出かける。私は仕事場で花入れの角を削っていた。

 先生4時に帰る。

 明日は大変だ。8時までに滝山公園に行かなくてはならない。荷物も多いし。

 29日は、また皆集まって、野焼きの反省会やら先生の講評など。

 30日は、生活文化研究所主催の那須旅行。例によって計画がまるでいいかげんなので、教室の奥様方も敬遠しがちだ。私は半ば強制的に参加ということになっている。先生が関わっているから。生活文化研究所とは名ばかりで、大学教授とか、ちょっとした本の編集者とか、悠々自適の自営業の人とかの遊興の場なのだ。



10月23日 くもり

 朝7時に準備して、滝山公園へ。縄文土器の野焼きの日。

 今日の野焼きにおいて反省すべき点を考慮しながら一通りの手順を書いておく。


① 火床づくり

ブロックを1メートル四方の四角い形に並べる。2段にする。その際ブロックとブロックの間はなるべく密着させるようにする。隙間があるとそこから空気が吹き込み炎があがりやすくなってしまう。

並べたブロックの中に、解きほぐしたワラを多めに敷く。これを燃やして地盤を温める。


 ワラは事前に大量にほぐして準備しておくこと。土器を並べてからワラをほぐし出すのでは遅い。この時点で炎が上がってしまうと必ず土器が割れるから、炎には十分気を付ける。炎が上がる隙がない程、すばやく多量のワラをかぶせ密閉する。


② 燃やしたワラの炎が消え、ある程度煙が収まったところを見計らって、土器を置く。ワラ灰の中に埋め込むようにする。そしてすみやかにほぐしたワラをかぶせ、棒状のタタミをブロックの上に並べ、土器を蒸し焼きにする。この作業はなるべく素早く行う。ゆっくりしているとワラ灰から引火し炎が上がりやすくなるからである。

 土器を並べ、ワラをかぶせる時期にも十分注意が必要である。早すぎるとすぐ炎がつくし、遅すぎても火床が冷え、土器がなかなか温まらない。


③ 蒸し焼きは大体1~2時間。煙の立ち具合を見て、多量に煙が立ち上りすぎる時は、なるべく上部を密閉し、煙を抑えるようにする。煙は多すぎても少なすぎてもいけない。


④ 1~2時間もすると、並べたタタミに焦げ目がついてくる。内部が十分に熱したようなら、上部のタタミを少しずつはがし、徐々に炎を出すようにする。

 タタミがよく燃え出し、土器が灰で覆われたら、灰を少しかき出し、まきを灰の中に刺すようにして炎をつける。

 まきが燃え出したら、更に灰をかき出し、最終的には灰を全部かき出し、まきだけで燃やす状態にする。この状態でほぼ1時間。ブロックは取り外してしまった方が灰をかき出しやすい。

 土器についたすすが完全に取れるまで焼く。


⑤ 焼き終わったら、先にかき出したワラを少し土器の方に戻すようにして、土器を保温する。トタン板をかぶせて1時間ぐらいおいておき、徐冷していければなおよい。


⑥ 土器の運び出し。ダンボール箱に土を敷き、その上に熱い灰を敷き、土器を入れ、また灰をかぶせる。箱が燃え上がらないように、上に更に土をかぶせる。(破片は個人で持っていてもらう)


全体での準備

・シャベル(主に最後のダンボール箱詰め、灰の後片付け用。

・やっとこ(まきをはさんでくべる)

・ナイフ(タタミの紐を切る)

・マッチ

・バケツ(防火用の水を入れる)

・ダンボール箱(1つの班に3つ相当)

・できればトタン(保温用)

・タタミ(多めに)

・まき(かなり多めに。多ければ多いほど良い)



 私は石井先生の奥さんと2人で、先生の物(実は私が作った)4つと、市役所の落合さん、井口さんの分を焼いたのだが、①から②に入るのが早すぎ、更に②においてワラをほぐすのにもたついていたので、炎が上がってしまい最初から土器が割れてしまった。

 ②の時、先生が新しい試みとして木材を井桁に組んでその中に土器を置くようにしたのだが、その木材が炎の原因となってしまったかもしれない。

 とにかく、最初からポンポン割れるから、これは失敗かなとめげながらも、タタミを手早く重ねていったら、どうやら炎は収まったようだった。

 見れば、どの班も多少なりとも炎が上がり、煙も大量に発生していた。

 昨年はワラ灰の炎が完全に消えるまで待ってから土器を置くようにしたので、炎が上がることはなかった。昨年のやり方の方がよかったのではないか?

 私は奥さんと笑ってごまかしながら、なんとか燃え上がるのを食い止めた。

途中先生が来て、

「おまえさんたちはプロなんだから、こんなことしてちゃダメじゃないか」

と、いちゃもんをつけた。

奥さんは、

「プロったって、1年に一遍しかやらないんだから、プロなんかじゃない」

と言い返していた。

 私も去年、学生の時、ちょっとだけ見学気分で手伝っただけだから、今回が初めてのようなものだ。失敗は仕方ない。

 各班からの煙はすごく、隣のテニスコートの人たちが迷惑そうに騒いでいた。風向きが頻繁に変わるので、まともに煙を浴びてしまうこともあり目がしみる。涙が出る。喉がいがいがする。服がいぶされたような匂いをつけてしまう。子どもたちも、キャーキャー煙から逃げている。

 12時くらいには、どの班も大体焼き上がったようだ。

しかし、先生が私たちの班の焼け具合を見て、

「この班はもう少し」

と、しつこくまきをくべているから、せっかく切れたススがまたついてしまい、土器に黒いところが多くなってしまった。まきがどう見ても足りなかった。

 皆の班も落ち着いたところで、お弁当。教室の奥さんたちが作ってくれた豚汁を食べた。

野焼きでも大活躍していた市役所の若手の男の人が、熱い灰の残り火を使って焼き芋をしていた。子どもたちがうれしそうに周りを取り囲んでいた。灰から掘り出されたのは、少々焼け過ぎの焼き芋ではあったが。

 少し土器が冷めたところで、ダンボール箱に灰とともにそうっと入れた。それを落合さんの車で仕事場に持ち帰った。午後3時ぐらいになっていた。

 先生もさすがに疲れた様子だった。奥さんは途中めまいがしたと、休んでいた。

先生はいちいち、

「おまえはバカだよ。わざわざ煙の中にいる」

とか、

「短い棒でやってるから顔が熱いじゃないか」

とか奥さんに文句をつけていた。

 奥さんは夫の道楽に付き合わされてこんな大変な作業をやらされているのだ。もう少しいたわってあげて欲しいと思った。私がもっと奥さんの分までやって、奥さんを休ませてあげればよかった。

 先生も、最後の方、計画が思い通りいかなくて殺気立っていた。責任を預かる身として気苦労も大変なものだろう。土器を作るまではいいが、野外で大きな炎を立てて焼くのはやはり無謀なのではないかと思う。やけど、怪我人が出なくてよかった。

 先生は、帰り際、ちらし寿司を買ってくれた。

 体中、髪の毛も、煙臭くなってしまったので、服を全部洗濯して、早めにお風呂に入った。

 5時半、TよりTEL。

 ついさっき自宅に帰ったという。昨夜は甲斐駒の頂上の無人小屋に一人で泊まったそうだ。枕にしていた水筒が凍るほどの寒さだったという。とにかく無事でよかった。私も今日は、大忙しで、Tのことを心配している暇もなかった。それでよかった。

 マルエツに買い物に行って、あとはずっと横になっていた。横になるともう起き上がれなかった。とても疲れた。



10月24日

 よく晴れているが風が吹いていたためひどく寒い。

 8時半頃、先生来る。作業台の上を片付ける。教室の生徒さんが来てから、縄文土器の灰を払い、新聞紙に包んで箱詰め整理。細かい破片などは土に紛れてしまいすべてみつけることはできなかった。

 生徒さんたちが帰ってから素焼きを窯出しして、釉掛けをする。

 午後2時に、先生と出かける。丸の内線で大手町、東西線に乗り換え一駅で日本橋。高島屋で三輪休和の作陶展をやっている。萩焼。萩焼というものは、釉が縮れていたり、ひどく垂れていたりしても良いらしい。素人目には完全な失敗作のように見えても、これで良いのだ、と堂々と展示されていると、それでいいような気がしてくる。

 不思議なものだ。高額な値段がつけられているのを見ているうちに、価値観に狂いが生じる。高名な三輪休和だから、あれでいいのかもしれない。あの作品に私の名がついていたら、完全に失敗作とみなされるであろう。

 会場で、奥さんと落ち合う。

 銀座線に乗り、銀座に出る。日比谷公園近くのビルの地下で先生の知り合いの女性がタイルのモザイクの作品展をしているという。それを見に行く。

 交差点を渡っていた時、偶然、彼女連れの松下君とすれ違う。お互いににっこりお辞儀だけして擦れ違う。相変わらずのスーツ姿、隙が無い。私は先生と奥さんと一緒だったが、松下君は私たちのことをどう見ただろうか。

 モザイクの作品展では、奥さんに650円の葡萄模様のミニ額と、2600円の赤っぽい革細工のお財布を買ってもらった。

先生ははじめ、ステンドグラスのスタンドを買おうとしていたが、それは知り合いの女性の作品ではなかったので、それをやめていろいろと迷っていた。

 そうしたらその女性が、

「これを買ってください」

と半ば強引に、花台のようなものを(黒い薔薇の花模様と、赤い薔薇の花模様)2つ、先生に買わせていた。先生に有無を言わせず、それを買わせていた。同じ値段、同じ型のもので模様がもっと細かく色彩豊かものが他に3~4点あったのに。先生の意見も聞かず、強引に買わせるところがなんだか非常識だと思った。

 その会場を出て、奥さんが「一緒に食事を」と言ってくれたが、早く帰りたかったので、6時に先生たちと別れて丸の内線で帰った。



10月25日

 やはり昨日と同じに風が強い。

 8時過ぎ、先生来る。土練りをしてから、大壺に染付の呉須や織部を入れた。

 10時に、縄文土器補修のため、市役所の文化課の山崎さん、井口さんらを訪ねていった。図書館前のプレハブには、市民文化祭の役員の方たちがいて、土器の展示について相談していた。

 土器の補修。まず穴のあいたところに内側から油粘土を当てる。表面から石膏を流し入れる。なるべく盛り上がるように石膏をつけ、あとから削って平らにする。あまり乾き過ぎると堅くなって削りにくくなるから、時期をよく見計らって削る。石膏面に縄文をつけたい時は、補修したら石膏面をよく削り取り、更に新しい石膏を表面につけ、堅くならないうちに撚り紐を転がす。

 色付けは、きめ細かな水彩絵の具で点描していくとよい。はじめから石膏に墨などを混ぜて、明度を落としておいてから、絵の具をつけていくとよい。純白の石膏に絵の具を塗っていくと、何度も何度も塗らないと土器色にならない。

 井口さんの土器はバラバラになってしまった。「これは勉強になった」とやたら感心していた。

 12時に仕事場に戻って、昼食を食べてから、昨日釉を掛けた素焼きの作品を灯油窯に窯詰めする。

 11月3日から市民文化祭があるので、生徒さんの作品を木曜あたりに焼かなければならない。何も直前になって焼かずとも、今まで作った作品のなかから良いものを出してもらってもいいと思うのだが。文化祭に出品することは前々から分かっているのだから、そのつもりで、2、3か月前から作っておいてもらうとよいのに。

窯詰は5時までかかった。



10月26日

 8時。仕事場に水指2つを取りに行き、あとは部屋でずっと染付の絵付けをしていた。

 今日は先生は来ない。

 1時までに絵付けを終わらせてお茶の水に添削できたものを持っていきたかったのだが、2時までかかってしまった。

 駿台予備校にアカ入れした添削用紙を届けた帰り、Tに頼まれたコダックのフィルムを買い、東久留米に帰ってきたのは4時半だった。

 今日はTが学校終わってから来てくれる予定だったので、急いでお米を研ぎ、夕食の準備をした。

 Tは夕方6時ちょっと過ぎぐらいに来てくれた。山の写真とスライド、油絵などを持ってきた。

 Tの油絵は随分進歩した。プロの作品と言っていいほど色の使い方がうまくなった。Tは何でも一途に打ちこむから上達が早いのだ。

 尾瀬のスライドなどを見せてもらった。美しい。

 それにしても、さとみさんのことが気になるのだ。もし私よりさとみさんの方が美点が多くて、それでTの心がさとみさんに移ったとしたら、それはそれで仕方ないことなんだろうなと思う。私にはどうしようもないことだから。最近、Tの会話にさとみさんばかり出てくるから‥‥苦しくなる。

 Tの心が私から完全に離れた時、私は「今までありがとう」の言葉だけで、すべてを終わらせることができるだろうか。

 すべて終わったとしても、ここで一人でも陶芸を続けていくだろう。Tとも以前言い合った。東京にいるのはTのためじゃなく、自分のためなんだから。

 久し振りにTと抱き合う。うれしい。ほっとする。心が解放される。でもTは明日仕事があるから夜中に帰っていった。



10月27日

 7時半、先生来る。いつもより早い。

 8時ぐらいまで雨が降っていたのだが、急に雲が切れて陽が射してきた。

 8時に灯油窯の方で窯焚きをする。窯詰めは25日にしてあった。焼くのは、先生の大壺や生徒さんの文化祭出品用のもの。

 陶板に、呉須と粉引きの白土で中国の舞伎の絵を描く。ほとんど丸一日かかってしまった。

 先生は途中12時から2時までマンションに昼寝に行った。

 灯油窯はだんだん火を強くしていくと、横の穴から火が噴き出してくるので怖い。このプレハブには防火の設備もなく、燃えやすいものが周りにいっぱいある。きっと消防法に引っかかっている。電気窯なら、電気の熱で温度を上げていくので炎は出ないから少しは安全なのだけど。先生が休憩中、窯の温度を見張る。

 先生が休憩している時、仕事場の裏で建築をやっているおじさんが見学に来て、飼っている鶏の水飲み用の器が欲しいと言う。外に出してある多少キズあり(でも十分に器として機能している)の鉢を無料で分けてあげた。おじさんに、「奥さん」と呼ばれてちょっとショック。でも何と呼ばれればよかったのか。「おねえさん」もおかしいし、そう考えると「奥さん」になってしまうのかな。

 風が非常に強い。窓を開けておくとビニール袋は吹き飛ぶわ、土ぼこりは舞い上がるわで、とても仕事場にいられない。窓を少し閉めて、窯焚きの暑さに耐える。

 灯油窯は、途中、上の方の穴から灯油を継ぎ足さなくてはいけない。休憩から戻った先生と、ポリタンクを傾けて灯油窯に注ぎ入れる。かなり危ない。ポンプを使って欲しいのだけれど、まどろっこしいのか、先生はいつもポリタンクから直接入れようとする。私もそばでポリタンクを支えていなくてはならない。いつもひやひやする。

 落合さんが夕方来て、29日の縄文土器教室と野焼きの講評について、先生と打ち合わせをしていた。

 その後、おしゃべりな成田さんも散歩途中に訪ねてきた。忙しい時に来られると先生も困ってしまうのだけど、今日は割と暇だったからよかった。成田さんは新聞記者をやっていたのだが、少し前に脳梗塞になってしまい、今はリハビリ中なのだ。

 今日の窯焚きは還元は少なめでいいので、夕方6時頃には1250度に達し、7時には完全に止めることができた。夜に温度を見に行かなくて済んだので助かる。灯油窯は高温になると爆発しそうな勢いで炎がごうごうと鳴るのである。しかし、空気の量を調節できるので、酸化還元による釉薬の発色の変化があって面白い作品ができる。だが危険。いつもそばで見ていて怖い。

 夜、TよりTEL。次の山行の計画を立てているそうだ。また、心配してしまいそうだ。



10月28日

 8時半、先生来る。おとといTが持ってきた山の油絵をドアのところからのぞいて見て、「写真か?」と訊くので、「油絵です」と答えると、「彼氏の?」と怒ったように言い、私が「はい」と答えると、口の中でもごもごと「失礼しちゃう」などと言って、すぐに仕事場に行ってしまった。

 先生はTに嫉妬してるんだよ。私がTと会っていることを快く思っていない。マンションにTの痕跡があることを許していない。でも、私にはちゃんと付き合っている人がいることを、先生に知らしめておかないと。先生への牽制の意味で。

 先生はひどく不機嫌な様子。仕事場でお茶も飲まず、黙ってそれぞれの仕事をしていた。

 私は、昨日の陶板の色付け。先生は作り損じの大壺に撚り紐の模様をつけていた。

 鈴木さんが、市民文化祭のパンフレットを持ってきてくれた。今年は11月3日~6日まで。会場で作品を見守る当番を決めなくてはならず、奥様方は夕食の時間もあるので早めの時間を希望。私は独り身なので、夕方4時~7時を受け持つことにした。

 文化祭に出品する私の作品が無い。あっても全部先生のものになってしまうから、私のものと言える作品が無い。先生は、そのことに気づいて、そこら辺にあった誰の物やらもう分からなくなっている湯飲みを、「これを出しておけ」と私に押し付けた。むかっときた。というか猛烈に腹が立った。ふざけんじゃねえ、と思った。

 今は先生の出しに使われているかもしれないが、私はいつも先生を越えようとしているし、ある種の作業においては、先生を超えていると思う。

 いい勉強をしているのだと思おう。自己を抑える訓練。人の陰になって働いて、徹底的に自己を没却すること。自己顕示欲の強い私にはそれはたやすいことではないのだが。

人の作品を自分の作品のように出品するのであるなら、私は何も出品しなくていい。



10月29日

 よく晴れている。先生は9時近くになっても来なかった。おかげで添削の採点を8分通り終わらせた。

 今日は土曜日。月曜日に窯を焚くのなら、今日中におとといの分の窯出しをして、午前中に窯詰めを終わらせないといけないのに、これでは到底無理だ。火曜日に焚いたら水曜日の搬入に間に合わないし。

 昨日はあんなに張りきって明日中に窯詰めをしてしまわなくては、などと言っていたのに、この大遅刻は何だ。せっかく、6時半に起きて待っていたのに。

 いつも文化祭近くになって慌てることが分かっているのだから、生徒さんにも早めに文化祭用のものを作っておくように言っておけばいいのに。作ってから、乾燥、素焼き、焼成まで1か月以上かかるというのに。いつも文化祭を意識し始めるのが10月半ばからなんだから。生徒さんたちには夏休みの間ぐらいには作品の成形を終わらせておいてほしい。それに強制的に文化祭に出品させることも無いと思うのだが。

 先生は、

「文化祭だと皆大物を作るから、もうかって良い」

などとえげつないことを言っている。

 先生は結局9時40分に来た。それから灯油窯の方の窯出しをして、11時から窯詰め。1時半になっても、まだ半分ぐらいしか詰められず、先生は、「これは甘く見ていた」などと弁解していた。

 途中、生活文化研究所の加藤さんを呼び出して、陶製のバックルの相談などをしていた。全部自分が作った風に説明していたが、それはすべて私の作だ。その間私は腹を立てながらどんどん窯詰めを進めていった。私がいなかったら三分の一も入っていなかっただろう。

 1時半過ぎには、社会教育課の落合さんが来て、野焼きで焼いた縄文土器の運び出しをした。先生が箱をどこに置いたか忘れてしまっていて、運び残しが4箱もあった。私がすぐに気付いて、落合さんに引き返してもらった。この前の野焼きの時も、先生が備品を持っていくのを忘れて、私が自転車で取りに戻るはめになった。私が失敗した時には、先生はしつこくしつこく言うのに、自分だっていろいろ駄目じゃないか。

 2時から、市役所の会議室で、野焼きと縄文土器教室の反省会。先生が講評をした。ところが先生はその場で突然、11月11日にまた縄文土器を焼きましょう、などと言い出した。

落合さんは急な話に大慌てで、「この日は都合が悪いんですけど」などと日にち調整に苦労していた。社会教育課の方でもそれなりに予定があるのだから、先生の独断で、しかも自分の思い付きで市役所を振り回すなんて、非常識極まりない。私はそばで聞いていてなんだか腹が立って仕方が無かった。

 結局落合さんが譲歩して、13日(日)と23日(祭日)ということになった。また休日がつぶれてしまう。落合さんの休暇だって駄目にしてしまう。全く先生は自分のことしか考えていないんだから。私はもう頭に来ていたから日曜日は手伝えませんと、よほど強く言ってやろうかと思った。もう、絶対に代休をもらうからな。

 縄文土器の講評会は4時半に終わった。先生は仕事場に戻って引き続き窯詰めをしたそうだったが、今日は土曜日。夕方にはTが来るので、先生はしぶしぶ帰っていった。明日、日曜日は生活文化研究所主催のバスでの那須旅行だ。Tとなかなかゆっくり一緒にいられない。


 そうでなくとも、このところ日曜日になると先生はわざとのように朝早く来て、窯詰めを始めたり、窯を焚いたりするのだ。Tが来ているのを知って、いやがらせかと思う。Tは気まずいながらも、お昼ぐらいまでいてくれるが、やはり落ち着かず長くはいられない。

 それでTが帰った後、私は知らん振りも出来ず仕事場に顔を出すことになる。日曜日に窯焚きを当ててくるのは、絶対いやがらせだ。ちゃんとした休みが無いのはすごくストレス。日曜に先生が来ると頭に血がカーッとのぼってしまう。

 それで、先生がまだ来ない早朝7時とかに、Tと石仏めぐりとか、ハイキングとかに行ってしまうのだが、夕方マンションに帰ってくるとまだ先生は仕事場にいるようで、先生の荷物が部屋にあるのを見ると本当にがっかりする。Tも休めずに早々に帰っていくことになる。

 この状況をなんとかできないものか。先生がマンションに来て仕事場にいるという状況で、既に休日ではなくなっているのだ。先生と顔を合わせたくなくて、どこか町をうろつくことになる。そんなストレスでいつも疲れ果てている。

 Tとゆっくり思いの丈話したり、一緒にいたいのに、それもままならない状況にイライラする。

 このマンションを出たい。しかし、別のアパートに引っ越すお金もない。このマンションは、電気、ガス、水道、電話代などは先生持ちということで間借りしているし、家賃も無しでいい。だから給料5万円でもやっていけるのだ。

 このマンションからは逃げられない。

 先生は、私がマンションでTと会っているのが気にくわないのだ。逢引の場所のように使われるのが嫌なのだろう。それにしたって、先生が先にセクハラを仕掛けてこなかったなら、私だって大っぴらに恋人がいるのです、なんて先生には言わなかっただろうし、Tの存在をもっと隠そうとしただろう。



10月30日

日曜日。

今日は、生活文化研究所と生活学校(小平)合同の那須旅行。私は先生に付き合って参加。

8時に大橋集合。バスが市役所を回って8時には来るはずだったのに、結局8時半に来た。

12時に那須に着き、豚舎見学。

1時頃、林に入って松などの苗木を掘り返して、欲しい人は持っていった。

2時にやっと昼食。バーベキュー。

3時、神明畜産の店で肉などのお土産を買う。私はエバラ焼肉のタレなど。

4時、現地出発。帰途に就く。

7時半に東久留米に着いた。

先生はそのままマンションに泊まった。



10月31日

月曜日、朝5時に起きて、おととい途中までやった窯詰めの続き。

6時に火入れ。

私は、仕事場で窯の火を見ながら陶板に絵付けをしていた。例の雀のやつ。

先生はマンションで休憩しながら少しロクロをやって午後4時に帰った。明日は休みにしようと言っていた。

私は絵付けをしつつ、引き続き窯の火を見て温度調節。火を消したのは午後6時頃だった。

疲れた。



11月1日

 今日は休みにしようと言っていながら、先生はやっぱり(案の定)8時半に来た。

 先生は赤土で中くらいの大きさの壺を5~6個作り、お昼を食べて午後1時には帰った。

 私は透明釉を意地になってたくさん作っていた。先生は帰り際、「午後は陶板にラクダの絵をシルクロード風に描いとけ」などと言っていたが、もう、嫌気がさしていたので、下書きだけして放っておいた。

 ロクロの練習をしたかったのだが、先生はロクロを使えないように壺を固定していたから、諦めて散歩に出かけた。黒目川の遊歩道をどんどん先の方まで歩いてから帰ってきた。

 先生の顔を見ない日が1日でもほしい。



11月2日

 先生は7時半に来る。すぐに窯出し。今回はなかなか結果が良い。灯油窯の消し方をやっとマスターした。

 1250度になったら、まだコックを締めずにそのまま温度を上昇させ、1255~1260度までもってゆく。

 大壺などへたりそうなものが入っている時は、1255~1260度の時間を短くする。

 1250度から1255度→1260度の時間は約10分。それからコックを締め風を押さえ、次の5分で1250度まで下げる。

 1250度を5分維持し、徐々に下げていく。1100度までは火をたやしてはいけないと言われたが、1130~1140ぐらいで火を消してしまってもさほど、態勢に影響は無いようだ。

 このやり方は先生に教えない。

 実質、窯を焚いているのは私一人のようなものだ。先生が最後火を止めるまで見届けることは6月終わりあたりからなくなっている。

 電気窯はレバー3本の操作で温度調節できるから早くから任されていた。灯油窯は空気の流入の調節で還元など行うから繊細に見守らないといけない。扱うのは難しい。それを私に任せてしまっていいのか? 

 でも私としては、先生に帰ってもらった方が気が楽なのだ。先生にマンションに泊まられる方が嫌だ。私は少しは不安があるが、「あとは私が見ておきます」と言って先生を帰してしまう。


 今回の作品では、そば釉はなかなかあがりが良かった。熊谷透明釉は厚く掛け過ぎると縮れる。

 中国舞伎は少々意外なあがりだった。緑釉が還元して茶色になっていた。

 背景に薄く「いらほ」を塗ったのだが、薄すぎたようで淡いおうどう色になっていた。もっと強い茶色を期待していた。

 黒化粧は案外むらなく黒になる。青磁はあまり色が出ない。染付の方は呉須を強くやったつもりだったが、思ったより薄かった。

 先生の釉の掛け方が濃すぎたので、きわどい縮れがあちこちに見受けられた。今度から、自分で描いた作品には、自分で釉を掛けてしまおう。


 窯出しした後、お昼休憩し、1時より文化祭出品用の生徒さんの作品を新聞紙に包むなどして運び出しの準備。2時に図書館へ自転車で運んでいった。

 荷物が多すぎて3回ほど往復しなければならなかった。図書館は少し遠いのである。本来なら先に生徒さんに作品を渡しておき、個人で持ってきてもらうのが作品の持ち運びの安全面でもいいのだが、そこら辺の計画性の無さで私が何度も自転車で作品を運ぶはめに。そのことで先生に意見したら、ちょっと先生を不機嫌にさせてしまった。私もつられて不機嫌になった。

 図書館では、鈴木さんが、彫刻の中野さんにいろいろ文句を言われていたので、私は思わず鈴木さんの味方をしてしまった。

 今日は朝から先生とプリプリごっこしていたし、なんか爆発しそうだった。

 陶芸部門の飾りつけは、二階から机を4つぐらい運んだぐらいで、5時には一応形はついた。絵画部門の方は、5時半になっても配列が決まらずのたのたしていた。男の人と女の人の画家さんがいて、すごい芸術家ぶってる。



11月3日

 文化の日で休日。今日は先生は来ない。

 T、朝6時に来る。奥多摩の天祖山へ。紅葉はなかなか素晴らしい。しかし、例によってTは最後の方、先に行ってしまった。いつだって先に行ってしまうのだから。

 聞いたら、先週さとみさんと丹沢に行った時も一人で先にぐんぐん行ってしまい、さとみさんは20分もたってから追い付いてきたそうだ。さとみさんは初心者だから、Tはもっとゆっくりさとみさんにペースを合わせてついていってあげたのかと思いきや、やっぱり先走って一人先を急いでしまったようだ。

 私は日頃疲れているから、日曜くらい気ままな散歩程度のハイキングに行きたいのに、Tはそういうのでは物足りないらしい。本音を言うと、Tとの山行でひどく疲れてしまう。でもついていかないと本当にTと過ごす時間が少なくなってしまうのだ。どうしたらいい?

 私が強くなるしかないのだろう。Tの先に立って歩けるほどに強く。でもそれは無理。今度から、「私の先を行かないで、後ろから来て」と言おう。できれば私の荷物も持たせてしまおう。ハンディを与えねば、スタスタ先に行っちゃう。

 山から下りて、4時には東久留米に戻った。4時から私が当番なので。Tには慌ただしい思いをさせてしまった。

 自転車で急いで図書館に行き、文化祭展示の見張り当番を7時まで。長かった。

 お腹は減っていたし、図書館内は冷えてくるし、体は疲れているしで、おもわずうとうと居眠りをしてしまった。

 5時半を過ぎるともうあたりは真っ暗で、見に来るお客もほとんどいなかった。7時に帰る。コンビニでお弁当を買う。



11月4日

 朝7時20分、先生来る。

 私は仕事場で、大きい壺に文様彫りをする。

 先生は「子供の王国」の方の当番で、福祉会館に行った。

 私はずっと文様彫りをやっていた。3時ぐらいまでかかった。一区切りついたので福祉会館に自転車で行った。

 会場に先生はいなくて、代わりに坂上教授の奥さんと、山梨大の助教授だという30代ぐらいの若い男の人がいた。若いのに助教授。確かに弁舌さわやかで知的そうな雰囲気がある。

 しかしその男性は、私に目を止めるや、やけにしつこく話しかけてきた。私が詩を書いていることを聞きつけると、自分が詩誌の同人に入っていることなどを自慢たらしく言い始めるので、もううんざりしてしまった。「お互いにH氏賞を目指しましょうよ」、とか言ってくるし。

 先生が途中から来たのだが、助教授の人は先生を無視して、私のことを根掘り葉掘りいろいろと聞きたがった。無礼な。馴れ馴れしいやつ、と思った。私をナンパしようとしているのか? 

 坂上夫人はその男性と知り合いらしく、男性が私にアタックを仕掛けているのを、もっと押して、などとにこにこしながら応援する素振り。私はすっかり困ってしまった。先生は、しばらく私と青年のやりとりをしぶい顔で見ていたが、青年が席を外した隙に、

「この子にはちゃんと彼氏がいるんだから、あんまりけしかけないでほしい」

と、こっそり坂上夫人に釘を刺していた。坂上夫人は反省しきりだった。

 だが、その山梨大の助教授の人は、私に興味を持ってしまったようで、戻ってきてからも私と話をしたがった。私は忙しい振りをして先生と別の場所に移動して青年と離れた。めんどくさい。

 今日も4時から図書館に行って文化祭の当番。暇つぶしの本などを持っていった。6時半、見学者も来なくなったので、終わりにしてもらって帰った。



11月5日

土曜日。

 成形した壺の分厚くなってしまっているところを削ったりしていた。先生が「縄文土器教室・野焼き」の講評文を書いて来たので、その推敲などをしてあげた。

市役所に自転車でガリ板をもらいに行く。

 先生は12時から3時まで部屋で休憩。

 鎌倉から鈴木さんが来ると言うので、私は仕事場で待っていた。

 土曜日は教室がないはずだったが小学4年生の義本くんという男の子が来た。陶芸をやりたいという。なかなか意思の強そうなはっきりした眼差しを持った少年だ。今日は先生が用事があって駄目だけれど、来週の土曜日の午後また来てみてと言ってあげた。

 3時に鈴木さんが来たので、先生を呼びに行った。4時までおしゃべりしていた。鈴木さんはループタイにつける陶製のバックルを作っている。絵柄は浮彫でサグラダファミリアみたいな外国の教会の絵。なかなか美しい。先生よりも年上、70代のように見えた。鈴木さんは私に一つループタイをくれた。

 T、夕方5時頃来る。すきやきを作ってあげた。久し振りにゆっくり話せた。Tと触れ合うと心が満たされる。Tは明日も山に行きたかったらしい。明日は天気が悪そうだし、私がまた午後ちょっと仕事がある。日曜日だけどそうは一緒にいられない。。



11月6日

日曜日。

 朝から小雨が降っている。Tは9時頃帰っていった。

 そのあと美容院に行った。

 午後、先生来る。市民文化祭は今日までなので作品を引き取りに行かなくてはならない。今回は大塚さんに車を頼めたので、車で運んでもらった。

 5時、先生帰る。



11月7日

 8時半、先生来る。昨日の文化祭の荷物の片付け。そのあと陶芸教室。藤島さんのだんなさんが胆石で入院したそうだ。

 昼食後、先生は農協銀行に行き、私は休憩。先生が銀行の用事が終わったらマンションに戻ってくると思って待っていたのに1時間たっても来ないから、もしかしたら仕事場の方で倒れているとか、お客さんでも来たかと心配しながら仕事場に行ったら、ちゃっかりロクロをやっていた。

 「2時まで休憩と言ったつもりだが」とうそぶくので、「先生が来ると思って待っていたのに」と思わず言い返してしまった。つまらない行き違いで、また険悪になりそうだった。

 どうしてこうなんだろう。それというのも、先生が時間にルーズなせいだ。私はそれに振り回されてストレスが溜まりっぱなしだ。

 急に早く帰ったり(これは歓迎!)、いつまでも仕事をやめなかったり、変な時間から窯を焚こうとしたり、突然、映画(演芸)を見に行こうと言い出したり、こっちにも予定があるのだから、もう少し事前に、午後はこういう予定がある、とか言っておいてくれてもよさそうなものだ。

 午後、黒い雲が出て来て非常に暗くなってきたのだが、無理して湯飲みにねずみの絵付けをしていた。十個。(来年はねずみ年だから)

 「芸術家だと思うから腹がたつ。ただの商売人だと思えばいいんだよ」とTは言う。確かにそうかもしれない。そう思うように努めよう。

 「ぐい呑みの方は適当に描いといて」と言うから、以前なら「自分の作品なんだから、自分で描けばいいのに」と思うところを、私の作品のつもりで心を注いで描いた。

 でもやっぱりどこか割り切れないところがある。先生も私もこのままではいけないような気がした。

 今日の天気は不安定だった。朝曇っていて、教室の始まる頃は晴れて、そのあと急に雨が降り、また晴れた。

 先生は4時に帰った。

 夕食のあと、仕事場に行ってロクロの練習を1時間ぐらいやった。まだまだ上手に立ち上がらず歪みが生じてしまう。先生みたいに大壺が作れるようになりたいのだが、まだ小さいものでてこずっている。でも土に触れていると心が落ち着く。



11月9日

 先生、用事で来ず。

 湯飲み12~13個にネズミの絵付けをし、筆立てに葡萄の文様を彫る。大壺にキツネとススキの文様を彫る。

 夜、ロクロの練習。



11月10日

 先生、7時半に来る。

 葡萄絵の筆立てを丁寧に削って整える。

 先生が、「ぐい呑みの作り方を教えてやる」というので、ロクロの引き方でも教えてくれるのかと思ったら、また、どこかの個展で買って来た三段重ねのぐい呑みを私に見せて、真似ろという。もう、うんざりした。

 一体、先生は人のものを真似なければ自分のものができないのか。しかも自分でやるのではなく、私にやらせようとするし。創造力というものが無いのか。もう老後の趣味以下だ。

 給料をもらっている身だから文句は言わない、反抗もしない。仕事にやつあたりはしたくなから、全力をあげて取り組んでやるが、心の中の怒りは止められない。そして先生は私が何で怒っているのか考えもしないのだ。

 私が作ったものに平気で自分のはんこを押すそのずうずうしさも、だんだん許せなくなってきそう。

 私がなんとなく怒っているのを先生にも気付かれてしまい。先生も不機嫌になっていく。だめだ。こういう負の感情のループはどこかで断ち切らないと。でもどうにも嘘くさい笑顔にはなれそうもない。



11月11日

 先生、7時半に来る。

 昨日のしこりがまだ残っていて、先生も私も仏頂面。

 新しく陶芸教室に入って来たまだ20代ぐらいの阿久戸さんが、やけに無邪気に「あそこに鶏がいるんですねえ」と高い声で先生にしゃべっているのが場違いに思われる。

 阿久戸さんは新婚さんで、まだ学生っぽい初々しさだ。先生は、「あんなんで奥さんできるのかねえ。大丈夫なのかい」とにやにやしながら、こっそり私に囁く。つまり、彼女の夫婦生活のことを言っている。私は何と答えればいいかわからず、彼女のために、むっとした顔をする。このスケベジジイが、と心の中でつぶやく。

 例の三段重ねの湯飲みについて、高台をつける、つけない、ロクロで作ったものに外から粘土の板を張り付ける、全部手びねりで作る、などとお互い意見を出し合い、それがことごとく食い違っていたので、また気まずい思いをした。お互いのやることにお互いが干渉しすぎるのだ。二人が同じ仕事をしていれば、そこにやり方、考え方の違いが出てくるからうまくいかないのは当然だ。

 今回は、私が押さえて、先生の言う通りにしていればよかった。しかし、私にも私の思うやり方があったのだ。この1~2週間、自分でもおかしいぐらい先生のあれこれが気に障った。未だ何もできない自分に苛立ちを感じていたのかもしれない。

 4時に終わったので、ロクロの練習をしようと思ったが、先生は少しマンションで休んでから帰るという。どうしようかと思ったが、散歩に行くという事にして、40分ほど仕事場でロクロの練習をした。粘土の表面をなするのに皮を使うと、指だけの場合よりなめらかになる。

 先生は5時半ごろ帰った。

 夕食後,7時~9時までロクロの練習。仕事場からTにTEL。明日年休を取って今野先生と軽井沢に行くので、今日は7時まで残業したそうだ。

 ロクロに打ちこんでいたら気持ちが落ち着いて、昼間のわだかまりが消えてゆくのを感じた。自分に絶対の自信がある人は、つまらないことでなんか怒らないものだ。その自信を早く身につけなければ。



11月12日

土曜日。

 先生は12時頃来た。その間、私は仕事場で三段重ねのぐい呑みを手びねりで4つほど作っていた。

 昼食後、マンションに戻り1時間の休憩。

 先週、陶芸をやりたいと言ってきた小学生の義本君が来て、正式に生徒になった。土曜日に一人、特例である。

 しかし、何故か先生は義本くんにやけに厳しい口調なのである。なんで? と思った。小学生相手なのに土練りから、それは駄目だ、そうじゃない、違う、を連発し、顔つきも怖い。 義本君は、おとなしそうな雰囲気の子で、何も言い返さず黙って先生に叱られていたが、大丈夫だろうかと心配になった。何も初日からそんなに厳しくしなくてもいいじゃん。義本君が陶芸が嫌いにならないといいけど。先生も、義本君が土曜日に来るのが煩わしいと言うのなら、ちゃんと断ればいいのに。

 義本君が帰ったあとに、電気窯に素焼きする作品を詰めた。

 先生が、マンションにたまっている作品を明日高円寺に持ち帰るというので、新聞紙に包んでダンボール箱にいれた。

 4時半、先生帰る。

 5時~6時半までロクロの練習。

 家にTELしてみたら、母が出て、父がもうすぐ還暦だから、お正月に帰省する時に、セーターか何か買ってきて、という。

 そうか父ももう60歳か。父は大病をして仕事を早期退職し、そのあと私が行政書士の資格を取ったのを見て、自分も行政書士の資格を取ったのだ。そして運転免許も60歳前に取っていた。すごく努力家な人なのだ。これはちゃんと還暦を祝ってあげないと。あとでデパートでセーターでもみつくろってこよう。

 夜8時頃、土器洗いのアルバイトで一緒だった後輩の渡辺君から久し振りのTEL。川崎の中学校の先生になるそうだ。



11月13日

日曜日。

 今日は、再チャレンジの縄文土器教室。先生は9時10分頃に来て、そのまま市民生活館に行った。集まった小学生は5名。今回は、丸二陶料の人と相談して、割れにくい配合の粘土を調達した。

 挨拶のために教室に顔を出した落合さんは転んでひどく腕を擦りむいたと言って痛がっていた。見せてもらったら結構なケガだったので、前田外科が日曜日も12時までは開いていることを教えてあげた。落合さんは教室そっちのけで急いでその病院に行った。

 そんな感じで、なんか教室の始まりがぐだぐだだったのだけれど、なんとか子どもたちには土器づくりに集中してもらった。

 出来上がったらそれを各自家に持ち帰ってもらい、23日までに完全に乾燥させて、23日に野焼きの予定。

 お昼には終わった。

 床に敷いたブルーシートの片付けなどをする。この頃には落合さんも帰ってきていた。

 シートの片付けで私が屈んでいたら、前にいた先生がいやににやにやする。なんだろうと思っていたら、私がボートネックのトレーナーを着ていたので、隙間から奥の胸元が見えていたらしい。「にゃあのおっぱい、見ちゃった。にゃあのおっぱい、けっこうあるじゃん」とか後で言ってくるので、頭にカァーっと来た。どこまで見えていたのか。そう言えば対面の向こう側に落合さんもいたのである。落合さんにも見られたのかと思って、恥ずかしくて仕方なかった。

 図書館の前庭では市民文化祭のお店などが出ていて、植木など相当立派なものが1万円前後で売られていた。先生は奥さんへのお土産に、草もち、大福もちなどを買っていた。

 3時過ぎには自転車で帰途についた。先生も自転車で仕事場に戻り、自転車を置いてから高円寺に帰った。

 帰りに通り雨に会った。

 夕方、髪を洗って、ポール・サイモンの「American Tune」の歌詞を訳していた。この歌が大好きだ。落ち込んでいる時の励みになる。

 夜8時半ごろ、突然Tがマンションに来て、今、今野先生を車で外に待たせてあるという。軽井沢に行った帰りだと言う。びっくりして着の身着のままで飛び出し挨拶した。

 今野先生は60歳ぐらいの女性の先生で、はきはきした若々しい感じの人だった。

 今回の軽井沢行きは、今野先生はグループのメンバーと写生などをするのが目的だったが、Tが山に登る人間だと聞いて一緒にどう?と誘ってくれたものらしかった。Tは主にその近くの山登りをしていたらしい。

 Tは今野先生に気に入られているのだ。Tはかっこいいしやさしいから。

 今野先生にTは私のことをどんな風に言ったのだろうか。

 Tが付き合っている人物がどんな女なのか、今野先生は品定めしてやろうと思ったのかもしれない。

 とにかく私は突然のことだったので、何と挨拶したらいいかわからず、しどろもどろしていた。急に来るのは、ひどい。無防備を襲われた感じ。



11月14日

 9時近く先生来る。雑誌「陶」に投稿するという。先生の中国旅行紀行文の推敲を頼まれる。

 陶板三段重ねを作る。

 窯から素焼きを出し、凸凹しているところにやすりをかける。木の葉天目の釉をかけたものを灯油窯の方に窯詰めしはじめる。

 先生は12時半には出かけていった。

 私は湯呑にまたネズミの絵付け。20個ほど。

 そのあと5時ぐらいまで先生の紀行文の推敲をして清書をする。

 6~7時までロクロの練習。



11月16日

 午前中、先生は所沢の教室等。

 私は仕事場でまた20個ほど湯飲みに白ネズミの絵付けをしていた。

 洗濯後、お茶の水の駿台予備校へ添削した答案の返却。今日もらってきたのは10枚ほど。

 先生は4時に来て、昨日途中だった窯詰めをはじめる。6時30分に詰め終わってすぐに火をつける。

 7時、買い物をして先生の夕食を作りはじめる。夕食を食べたあと先生はすぐに寝てしまった。

 私は、8時、9時、11時に仕事場へ火の調子を見に行った。11時でほぼ700度。

 2時ごろ先生と灯油を継ぎ足しに行く。

 先生が手をすべらせて灯油を大幅にこぼしてしまった。私の下半身にも大分かかってしまった。ひどく灯油臭い。先生はあやまりもせずに「損した、損した」と言っている。もっと私を心配しなさい。窯からはもう炎が噴き出しているのだから一歩間違えたら私に引火して火だるまになる。仕事場も火事になるところだ。

 マンションに帰って先生はまた寝てしまったが、私は先生を気にしながらお風呂場で下半身全部脱ぎ、ちょっとお湯を出して体を拭いた、夜中なのに目が冴えてしまいしばらく眠れなくなってしまった。なんとなく灯油が拭き切れていなくて気持ち悪いし。



11月17日

 朝7時、すぐに先生の朝食の支度をして、朝食後8時には仕事場に行き、陶板に三尊仏を彫る。

 めずらしく先生が灯油窯の火を落とした。どんな具合か。

 窯詰めの段階で、低火度の方に高火度の青磁や熊谷透明釉を入れちゃ駄目なのに、入れてしまっていたから、もしかしたら釉薬が溶け切っていないものもあるかも。

 先生は9時に帰っていった。

 私は昨日から続いてしまって疲れていたが、今日中に前回の縄文土器教室の子どもたちの感想文の印刷をしておくようにと先生から頼まれていた。

 先生が帰った後、市役所に印刷しに行った。社会教育課の中村さんが手伝ってくれた。背の高いひょうひょうとした感じの若い男の人。

 12時になったら中村さんは昼食を食べにどこか行ってしまった。私はひとりでずっと原稿を印刷していた。なかなか終わらず、おかげでお昼ごはんを食べ損ねた。

 3時にやっと終わった。途中、社会教育課の人が3人ほど手伝ってくれて、綴じ終わるまでやった。

 一人の人が、「お昼食べなくて大丈夫? 大丈夫?」と気づかってくれが、中村さんは全然気にもしないで最後まで当たり前のような顔をしていた。気の利かない人だ。

 本来この教室は、市役所の社会教育課主催で、先生は講師として招かれているだけなのだから、子どもたちの原稿をまとめ印刷するのは市役所の役目でないか? 私は好意で手伝ってやっているのだ。それを、主客転倒ではないか? なんで私が一生懸命こんなことをやらなければいけないのだ。なんで先生が原稿を預かって、わざわざ長浜さんに頼んで整理してもらって、市役所に頭下げて印刷をさせてもらわないといけないのだ。間違ってる。

 昨年の縄文土器教室でも、当日の写真のプリントまで先生が指図していた。私はそれは市役所の人にやってもらえばいいことだと言ったのに。つまり先生は、この縄文土器教室を自分の教室だと思い込んでいて、自分がすべて采配をふるうのだと思っているのだ。これは社会教育課の事業の一環で、先生は単に呼ばれているだけにすぎないのに。

 それに、私が印刷しに行っていいですかと市役所に連絡した時、落合さんはいいですよと言ってくれたけど、落合さんがその後一日中出張でいなくなってしまうのなら、そう言ってくれればよかった。本来、中村さんは縄文土器とは全く関係ない部署の人なのに、手伝わせてしまった。「落合さん、担当なのになんで手伝いに来ないのかな」とずっと思っていた。

 私も昨日から仕事が続いてしまっているので、眠くて眠くてたまらなかった。お腹も相当すいていたし。まだ体の灯油がちゃんと洗い流せていなかったので、それも気になっていたし。早く印刷なんか終わらせて帰って寝たかったのに。

 市役所の人たちは手伝ってくれるというより、暇つぶしで手を貸してくれているといった感じで、ちんたらやっているもので、私一人せかせかしながら3分の2をこなしていた。

 3時にやっと終わって、3時半にマンションに帰った。スーパーでパンとかお惣菜とかすぐ食べられるものを買った。

 すぐにお風呂に入り体を洗った。やはり下半身が油っぽくて石けんが泡立たなかった。

 明るいうちにお風呂に入っていると、また急に先生がマンションにやって来そうで落ち着かなくてゆっくり入ってもいられない。

 昼食込みの夕食を食べて5時頃には布団に入って寝た。風がひどく吹いていた。



11月19日

土曜日。

 今日と明日はちゃんと休みをもらった。

 Tは朝6時にマンションに来た。一緒に山に登る予定。

 山梨の神無川の先まで行く。9時頃着いて天狗岳遊歩道を歩く。登山靴じゃなくてスニーカーで行ったので、道に雪が残っていて濡れ通ってしまった。

 天狗岳の見晴台は展望がよくきいて、雪の浅間山がくっきりと見えた。Tが烏帽子岳まで行くというので、道なき道を藪を掻き分けながら登っていった。烏帽子岳らしい山までの手前に三つぐらいの小さいピークがあり、道がどうもあいまいになってきたので、Tは一人で烏帽子岳を探しに行った。私は待ちながら休憩していた。途中、谷になっていてたどりつけなかったそうだ。

 烏帽子岳は諦めて4時頃山を下りて来た。

 山びこ荘に泊まる。Tは特注で、いのぶた鍋(1000円)を頼んだ。夕食後、Tは小さいスケッチブックに山の絵を描いていた。なかなかうまい。私も少しもみじの絵とか描いたがうまく描けなかった。9時頃には布団に入った。



11月20日

日曜日

 朝食は8時。昨日の道を戻って天丸山へ。登山口が分からず奥名郷の村まで戻り、出会ったおじさんに道を聞いた。橋の横から沢を登り、途中、沢を離れて藪の中を歩いていった。昨日よりも急傾斜だったので登るのが大変だ。藪がひどくて手とか傷だらけ。最後の登りは絶壁でびびった。

 Tの勘は当たって天丸山に一発で登れた。山びこ荘で作ってもらったおにぎりとゆでたまごを食べた。降りる時も大変だった。5~6メートルも滑った。Tがずっとそばにいてくれたからよかった。

 所沢の山田うどんで天ぷらうどんを食べて、7時に東久留米着。



11月22日

 先生がなかなか来なかったので、洗濯などをしていた。9時半にやっと来た。バスが1時間以上遅れたそうだ。

 壺の透かし彫りをした。夏目さんが来て釉かけをした。私がやっている透かし彫りを、(カバーをかけて隠していたのだが)、「それ何やってるの?」と、カバーをはずして覗き込むので、今更隠しても遅いと思い、チラリと見せてあげた。そしたら先生が途端に機嫌が悪くなった。私がやっていることを人に知られるのが嫌なのだ。お互いに不愉快だ。まあいいや。いつも私が不愉快な思いをしているのだから、時には先生も自分を恥ずかしく思う機会を持つべきだ。

 1時には先生は出かけた。私は李朝の壺に化粧土で絵付け。あまり赤土に化粧土はよくないと思うのだが。焼いた時の収縮度が違う。いつも先生は全部失敗してから、やっとこれは駄目だと気づくから、私はもう全部同じようには絵付けをしたくないのだ。しかし、仕方がない。先生のご命令とあれば。

 夕方6時半から7時45分までロクロの練習。



11月23日

祝日

 縄文土器の野焼きの日である。8時までに滝山公園に行くのだと思って、7時半にマンションを出た。先生がもしかしたらマンションに寄るかと思って、会いたくなかったから早めに出た。

 公園に誰もいないのでおかしいと思い市役所からの書類を見直したら、今回は9時集合ということだった。来るのが早すぎてしまった。

 ロッテリアでエビバーガーなどを食べて時間をつぶした。そうして8時45分くらいに公園に行こうとしたら、例の山梨大の助教授の男性に会ってしまった。にこやかに話しかけてきて、ファミレスでモーニングのセットを食していたのだと言う。

 私は今日が野焼きの日であることなどを言い、その人はいつか詩集を読ませてくださいなどと言い、私は曖昧に笑って「じゃあ、急ぎますので」と言ってそそくさと別れた。

 滝山公園に行ったら、先生と新藤さん(先生の娘さんのだんなさん)が先に来ていて、ワラを燃やしていた。奥さんは今日は来なかった。

 先生は今まで新藤さんにあれこれ用事を言い付けて手伝わせておきながら、何のお礼もしていないそうだ。今日だって休日なのに駆り出されて。おとなしそうな人だから拒否もできなかったのだろう。

 先生は、人が何でも自分の思い通りに動くと思っているのだから。困った人だ。そういえば私だって学生時代、何度もタダ働きをしてきたのだ。先生は私がいて重宝したかもしれないけれど、私だってそういつまでも先生に振り回されてはいないよ。

 何でこうも腹が立つのか。報酬の問題ではないかもしれない。報酬はいらない。ただもう少し感謝の念が欲しいのだ。

 二階堂君のお母さんからの手紙に、「もっと意地悪になりなさい」と書いてあった。でも私はもう立派に意地悪だもんね。いやな性格になってしまった。きれいなやさしい気持ちになれない。

 野焼きは2時頃終わった。前回より時間をかけてゆっくり温度をあげていき、ゆっくり温度を落としていった。前回よりはうまくいったかもしれない。煙はやはりものすごく出た。

 落合さんの車で仕事場に焼き上がった土器を運んでもらった。新藤さんも一緒だった。

 先生は皆が帰るという時に、高台切りをやると言い出して仕事場に腰を落ち着けてしまった。私まで付き合わされたらたまらんので、皆と一緒に退散した。



11月24日

 今日は生活文化研究所の方で一日中講演会があるというので、先生は午後から出かけると昨日言っていたのだが、出かける様子も見せず黙々と窯詰めを始め、夕方4時頃、火を入れた。

 私は先生が今日の予定について何も言わないのでやきもきしながら窯詰めを手伝っていた。

 出かける予定はどうなった? 今日窯を焚くつもりだろうかなどと考えていたが、やっぱり。頭に来る。いつだっていつだってこうなのだから。

 もう夕食の準備だって、いつもみたいに沢山おかずを並べたりしないからな。怒りながら笹原さんのところからラーメンでもとってこようとしたら、先生が黙って、とんかつを2枚買ってきた。

 また先生が泊まることになり、ストレス。先生は午後は出かけてしまうと思っていただけに、急な窯焚きに怒りを感じてしまった。

 夜8時、9時、11時に温度を見に行く。

また夜中に灯油の継ぎ足し。



1月26日

土曜日

 7時に起き朝食。昨夜、アップルマートに寄っておかずになりそうなものを買っておいた。窯の火をとめる。

 午前中は絵付け。昼は、めずらしく駅前のハンバーガーのお店に行って、先生とハンバーガーを食べる。さすがに奥さん呼び出して弁当を持ってこさせるのはやめた模様。

 午後、陶芸教室があるはずだったが、先生は六小で草鞋づくりの講習があるというので、私を誘って教室をほったらかしにして出かけた。2時~4時ぐらいまで。なんとか要領を覚えて、一人でも編めそうだ。

 4時に仕事場に行ったら、義本君が来ていた。義本君が作っていた茶碗を「これじゃ、ゆがんでてだめだ」とこわし、「土練りからやんなきゃだめだ」と、怖い顔をして言う。義本君は黙ってじっとこらえていたが、内心は相当怒っているようだった。

 先週も、ここの道具を一つこわしてしまい(こわすといっても、針の先が取れただけだが)、義本君が正直に「これ取れちゃった」と言ったのに、「お、こわしちゃったのか、弁償してもらうからな」と、先生はいやな顔をして言う。

 私は思わず先生の顔を二度見してしまった。なんてことを言う人だ。わざとこわしたのではないのに。それに、おとなしい義本君のことだから、心配してどうしようと思っていただろうに。先生のその憎々しい言い方は何だ。

 私だったら、もう二度とこんなところに来ね―からな!、と思うところを、義本君はこうして、ちゃんとこわしたものと同じものを西武デパートで買ってきて、黙って何かを作ろうとしているのではないか。それを今週も、義本君を𠮟りつけるように、やけに厳しい言い方をする。土練りができていないと駄目だというのなら、初めからちゃんと教えておけばいいじゃないか。

「教室に何回も通ってもこんなのしかできないんじゃ、あんただって恥ずかしいし、教室の方でも、なんだこんな教え方しかしていないのかと言われて恥ずかしいんだ」

なんてことまで言っている。

 先生は馬鹿だ。人の気持ちが全く分かっていない。

 なまじ、草鞋づくりが面白かったから、先生のこれまでの嫌な事を忘れてあげようと思っていたのに、これじゃあ、前以上に軽蔑だ。土曜日の生徒さんだって毎回先生がいないんじゃ、いい気もするまい。

 先生は「土曜日の人は何考えているか分からないから、いたくない」と言って今日は草鞋づくりに出かけてしまったのだから、それじゃあ先生としての務めを全く果たしていない。いやなら何故土曜日も陶芸教室をやろうとする。金儲けのためじゃないか。

 義本君がしゅんとして帰ろうとしているので、「今度一緒に土練りしようね」と言ってあげた。来週も来てくれるだろうか。「私もむら気で怒りっぽい先生とずっと一緒にいて苦労してるんだよ」と言ってあげたかった。

 そういえば、この前の月曜日の夜に陶芸をやりたいという女の人が来て、先生はその人を安易に受け入れてしまったのだった。20代後半から30代ぐらいの若い女の人。ロングヘアーでどこか暗い感じのする人だった。会社勤めをしている人らしく、普通の主婦のようには見えず、とにかく謎めいていて不穏な陰気さを感じさせる人だった。スタイルがよく美しくさえあった。それで、先生は受け入れる気になったのかもしれない。

 でも、夜に陶芸教室って、一体誰がみてやるのだ。先生は帰っちゃうくせに。私だって夜6時~7時になんて見てあげられないからな。断るべきだ。でも受け入れちゃったから、どうするんだ? 私が見るのか? 特別手当とか残業手当もくれないくせに。

 全く、先生のやることにはいつも幻滅させられる。

 個展の時だって、私が絵付けしたものを、先生は自分が描いたかのように言う。しかも私のいる前で。

「これは描いたっていうんじゃなくて、置いたって言うんです。ちっともうまかぁないですがね。こちとら素人だから絵を本格的に習った人とは違うからね」

などと言う。

 どの面下げてそんなことを言う。私の怒りがその場で爆発しなかったのが不思議なくらいだ。

 怒りが止まらない。怒ってもいいよ、怒って当然と、誰か言ってほしい。自分の心が苦しい。

 こうも怒りっぽいのは、昨夜も深夜まで窯焚きで寝不足で疲れているせいかもしれない。早く寝て体を休めよう。心も。



12月3日

土曜日

 昼間は絵付けなどの仕事と陶芸教室。先生は4時に帰る。

 夜、秩父夜祭りに行く。Tは5時ぐらいに東久留米に来る。とても風が強く寒かったので、Tと相談して嫌だったら途中で帰ってこようと最低運賃の80円の切符を買った。

 私は夕ご飯を食べていなかったのでお腹がすいて、電車の待ち合わせ時間を利用して飯能で草餅と牛乳を買って少し食べた。

 飯能からすでに混み始め、正丸あたりでピーク。もうぎゅうぎゅう詰めの超満員電車に悲鳴を挙げながら7時頃秩父に着く。

 横瀬のあたりから花火が見えた。秩父駅はもう人で一杯。帰りの切符が買えなくなるというので、15分ほど並んで切符を買う。花火がきれい。

 駅前からすでに、お好み焼きやタコ焼き、おもちゃなどのお店が並び、人で賑わっていた。

 私とTはタコ焼きを食べながら秩父神社まで人の波に合わせて歩いていった。おまわりさんが一杯。人が多すぎて思うように前に進めないので途中横道に入ったりした。

 大通りに出たら急に屋台が見えた。提灯がたくさんつけられて、青年がちょうちんをかざして屋台から身を乗り出して大声で何か叫んでいた。秩父まつり会館で以前屋台は見ていたが、間近に見ると大きくて豪華。きらびやか。

 屋台の角が当たるから下がって下がってなどと、おまわりさんが怒鳴っていた。人が屋台を見ようと押し合いへしあいしている。イカ焼きの店を出しているおじさんが、店に触っただの、商売物に触っただのと怒って怒鳴っていた。おまわりさんも思わず飛んできた。けんかが始まりそうだった。店を出す場所も悪かった。

 屋台を一つ二つ見てから急いで帰った。8時17分の電車。行きほど混んではいなかったが、座れなかった。夜10時頃、東久留米に着いた。

 ファミリーマートで、Tはもつ煮込みと天ぷらうどんを買った。マンションで食べて一息ついた。



12月4日

日曜日

 今日はマンションの一斉掃除の日。9時半ごろ、下水掃除のおにいさんが来て、台所の排水にパイプを通していた。

 Tに卵丼を作ってあげてから、ベランダの外の落ち葉さらいや、廊下の掃除などをした。

 午後1時、練馬文化センターに行く。深沢さんが所属しているオーケストラのクラシックコンサートの招待券をもらっていたので。Tはバイクで向かった。私は電車で1時40分に着く。Tは2時ちょうどぐらいに着いた。

 コンサートは「アルルの女」とか「悲愴」とか。割と有名な曲で聞きやすかった。深沢さんはバイオリンのパート。

 Tはこのあと兼子君ちに行く約束をしているので、3時には帰っていった。私は4時まで聞いて、深沢さんに挨拶してから帰った。



12月26日

 12月は24~25日ぐらいで終わりにして、最後の週はもう休みにしようと以前から先生は言っていたのに、結局今日も窯焚きで、あと2~3日は仕事も完全には片付きそうもない。最後の最後まで慌ただしくて、先生らしいと思った。

 先生は「官庁では28日ぐらいまでやるんだがね。会社は30日までやるんだが、あんたはいつから休む?」というような言い方をしたので、24日ぐらいから休もうかと言ってたくせにと憤りながら、26日まで仕事をすることで譲歩した。今日の窯焚きした分の窯出しはもう関わらない。

 先生が帰るとき、私が「今年はありがとうございました。よいお年を。来年もよろしくお願いします。」と言ったら、なんと先生は「明日は明日の風が吹く」などと言ってそのまますうっと帰っていってしまった。なんだそれ。それってどういうこと? 来年は分からないということ? すごくもやもやする。また怒りそうだった。

 そうしたら夕方6時頃、先生からTELあり。この前渡したコーヒーカップは出来が悪いから私に家に持って帰らせるのがどうのこうのブツブツ言っている。自分でも自信が無い作品を私のお土産になんてするから。イラッとして、「あれでいいです」と言って電話を切った。

 更に7時に、また先生よりTELあり。

「今日作ったのが凍るといけないから部屋に持ってきといて」と言う。今日、窯を焚いたのに凍るわけないじゃないか。それにもうだいぶ乾いてるから凍るわけがない、と思いながらも「はい、分かりました」と答えて、壺を取りに行って部屋に持ち帰った。

 何度も電話してくるということは、別れ際の言葉をちょっとは反省していて、私がもう帰って来ないんじゃないかと心配でもしてるのか、と思った。心配していろ、と思った。

 また来年が思いやられる。でも頑張ると決めたのだから。これでも少しは先生の役に立っているという自負もある。来年はもっとロクロの練習をしよう。

 夜の教室に来ている西尾さんのことにしても、私は、「次は1月13日です」と言ったのに、先生は「12月27日においで」などと無責任に言っといて、結局、夜一人で相手するのが嫌なもんだから。私に断っとけ、などと言う。もう、先生が言ったのだから先生が断ればいいじゃんよ。

 などと、怒り、怒り、怒りで明け暮れた1年だったが、どうにか無事に終えることができそうだ。お疲れさん、私。

 先生もこんな私と付き合うのに疲れただろう。先生もお疲れさん。

 あさってから、Tと二泊三日ぐらいで伊豆に旅行に行く予定。大学三年の時以来の伊豆。懐かしく、また楽しみである。






















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