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  • kaburagi2

第18章 大学3年 6月~7月 夏休み前

更新日:3月23日

 お風呂屋さん帰り、暗い道を抜け電話局のある下宿前のT字路に差しかかった時のこと、左手から一人の学生風の青年が近づいて来るのが見えた。夜道で男性に出くわすと、たとえ必ずしも危険人物ではないにせよ、体に緊張が走る。私は思わず足を速め、下宿へと急いだ。

「あの、ちょっと待ってください」

その青年に突然そう声をかけられて、私はぎょっとして足を止め振り向いた。

「あの、僕は早稲田の法学部に通っている長池和也といいます。正確には去年法学部を卒業して、今は司法試験の勉強をしています」

「‥‥はい」

 黒いTシャツを着たその青年は、早口にそう言うと緊張したような面持ちで脣を噛んだ。 夜目でよく表情は見えなかったけれど、どこかで会ったことのあるような気がする。

 筋肉質な体つきで髪は短く、少し眩し気な眼差しを持ち、唇が薄い。学校帰りらしく片手に鞄をしっかりと抱えている。

「あの、あなたは図書館によくいらっしゃいますよね」

図書館と聞いて、はっと気がついた。私のことを気味が悪いほどじっと見ていた人だ。

「‥‥私に何かご用でしょうか」

「すみません。こんな時間に。あの、実は、僕とお付き合い願えませんか?」

「えっ?」

ほとんど初対面なのになんということを言ってくる人なのだろう。

「急にこんなこと言い出してすみません。あなたと是非お話ししたくて、このところずっと探していました。あっ、後をつけてきた訳ではないんです。僕もたまたま西武線のこの先の駅に住んでまして、今日電車であなたをお見かけしたものだから」

 私は男性に目をつけられやすい何かを持っているのだろうか。桂木ただ一人を愛している今、他の男性からのこういう接触はもういらないのに。それに何もこんな夜のお風呂帰りに声を掛けなくてもいいのに。

 私は思わず胸に片手を当てた。それが不安な時の私の癖だったが、長池の視線が私の手の動きと共に私の胸元を彷徨うのに気づいて少しはっとした。お風呂上がりでたまたま胸元が大きく開いたTシャツに着替えてしまっていた。濡れ髪のままだしラフなジャージ姿。ひどく無防備な自分が意識されて、そのまま体をかばう姿勢で対峙した。

「そういうことでしたら、もう私、お付き合いしている人がいますし‥‥」

 私が幾分冷たい口調でそう言うと、長池和也は明らかに肩を落として、持っていた鞄を逆の腕にもちかえながら、困ったように溜め息をついた。

「‥‥そうですか。お付き合いしてる方、いるんですか。そうですよね。こんなに魅力的な方なんだから。もう少し早く声を掛ければよかった。‥‥司法試験に合格してからと思っていて、今年は筆記が上手くいったから、思い切って声をかけたんですが」

 長池和也は弱気な声になってうつむいた。黒いTシャツが夜に溶け込んでいる。

 私はそんな長池を表情を固くしながら見つめていた。早くここから立ち去って下宿に逃げ込みたかった。

「どうしても駄目ですか? そうですよね。僕のこと全然知らないんですからね。突然こんなにこと言われて断るの当然ですよね。でも、僕としてはあなたを、その付き合っている方

から奪い取りたいぐらいの気持ちでいるんです」

 小説のセリフみたいだと一瞬思った。一体どういう人なのだろう。プレイボーイ? 早稲田の図書館にいたのだから早稲田の学生証は持っているのだろう。去年卒業したと言っていたが、今は聴講生なのだろうか。しかしたとえ将来の弁護士であったとしても私には興味の無いことだった。

「ごめんなさい。私、もう帰りますので、すみません」

 長池和也が沈黙した隙を狙って、さっとお辞儀をして足早に去ろうとした。

「あっ、ちょっと待ってください」

 長池は思いがけなく鋭くそう言うと、私の前に立ちはだかるように、ぐいっと体をずらした。

 ドキッとした。この人は危険な人だ。すぐ引き下がってくれない。話を通すまで帰さないという強い圧を感じた。いざとなったらどうするか、冷静に判断する余裕もなく、戦うような気持ちで長池と対峙した。

「じゃあ、ここから武蔵関の駅まで付き合ってくれたら、もうあなたのまわりをつきまといませんから」

「でも、困ります。急いでますので」

 私が更に一歩横に踏み出そうとすると、なおも私の前に立ちふさがり、哀願するような真剣な目で私を見つめてきた。

「僕はあなたが一年生だった時から知っています。あなたは化粧をしていなくても誰より一際目立っていた。それになんて強い眼差しをしているんだろうと思って、まずその目の強さに惹かれました。二年生になって、図書館の前あたりで、仏教のサークルですか? 何人かの男にしつこく勧誘されてましたよね。そばで全部見てたんです。あなたが困った顔をして何か反論しているのも‥‥。それから、最近よく法学部でお見かけするようになって‥‥司法試験の筆記試験が終わったら、ぜひ、声をかけようと思ってたんです。学部は‥‥法学部じゃありませんよね?」

「‥‥文学部です」

「文学部ですか。どうして法学部に?」

「少し司法書士の勉強をしていて、法学部を聴講できたらと思って」

「ああ、司法書士。司法書士も結構難しいですからね、本当にしっかりと覚悟を決めて勉強しないと。僕だって、司法試験、二度目の挑戦ですが、まだ先が見えません。‥‥僕っていくつに見えますか?」

「去年卒業されて‥‥二十三歳ぐらいですか?」

「いや、実は二十六歳なんですよ。早稲田に入るまでいろいろありましてね‥‥こう見えても苦労したんですよ。‥‥ここで立ち話も何だから武蔵関の駅までご一緒願えませんか? 駅に着いたらあなたを解放してあげますから」

長池は先に立ってゆっくりと歩き出し、私を誘うように振り返った。

「いえ、でも‥‥」

「お願いします。駅まで。そこでお別れしましょう」

 私は長池の威圧感に逆らえないまましぶしぶ歩き出した。

 長池は歩きながら自分語りをした。長池は私の知る大学のどの友人たちとも違っていた。歌舞伎町あたりのいかがわしい店で遊んでいることを隠しもしなかったし、最近まで女友だちと同棲していたことも告白した。身の回りに女性を欠かしたことは無いとまで言った。パチンコで何万円もすってしまうこともよくあると‥‥。

 私から見たら完全に女たらしの遊び人。最も近寄りたくない人だ。

 長池は淡路島出身で、子どもの頃は地元では神童と言われたほどの秀才だったそうで、中学生時代には日本の学生代表で国連まで行ったこともあるそうだ。自分がいかに優秀であったかを語っている時の長池は自慢げで誇らしそうだった。

 高校時代、ちょうど学生運動が盛んだった頃、共産思想にかぶれて大学受験を否定し高校卒業と同時に親の反対を押し切って東京に飛び出してきたそうだ。

 東京で三年間転々と職を変えながら一人暮らしをしていたが、やはり学歴が無いと駄目だということに気付いて早稲田を受験した‥‥生活費が底を尽き、何日も水だけで生活していたこともあるとも言っていた。

 一風変わった経歴の人だったが、表面上は生活の垢をまるで感じさせない、どちらかというと楽天的な育ちのいいお坊ちゃんのように見えた。けれど、男性としては非常に危険な感じがする。長池の話からは女性関係が乱脈で奔放であることがうかがい知れた。

「少し前まで付き合ってた女性がね、結構気が強くて、エキセントリックなところがあった女性だったもので、少し疲れてしまってね。あなたのことはずっと心の中にあったんです。強い目の光を持っていながらも、とても優しそうな微笑み方をする人だなあと思って。今、僕は女性の温かなぬくもりがほしいんです」

「‥‥私はきっと長池さんが想像なさっているような人間とは違いますから‥‥」

「いや、僕はこれまでいろんな女性と付き合ってきましたから、女性を見る目はあるつもりです。僕ももうそろそろ結婚のことを考えなくてはいけない年齢に差し掛かってますから、遊びじゃなくて真面目にお付き合いしたいんです」

 私と結婚を前提にお付き合いをしたい、ということ? 私のこと何も知らないのに? そんなの無理に決まってるではないか。

 上智大学神学部の校舎もほとんど窓に明かりがついていなかった。もう九時ぐらいだろうか。どこかで地虫がジージーと鳴いている。二人の重苦しい足音がゆっくりとブロック塀から跳ね返ってくる。

 今ここで振り切って下宿の方に走り出したら、かえって長池に急な行動を取らせてしまうかもしれない。私は見えない鎖で拘束されているかのように自由を奪われていた。

 武蔵関駅に着いたらそこでなんと言われようと別れて帰ってくるつもりだった。しかし、長池はもう少しだけ、もう少しだけと言って歩みを止めず、駅を通り過ぎ繁華な商店街もいつのまにか抜けてしまった。そして、長池に拒絶の言葉を繰り返しているうちにふと気がつくと人気のない武蔵関公園の入り口まで来てしまっていた。

 公園の中は既に真っ暗になっていた。長池は公園に入っていこうという素振りをしたが、もうこれ以上ついていくことは出来ない。

「もう帰ります。何度も言いましたがお付き合いはできませんから」

「どうしても駄目ですか?」

「はい」

「‥‥厳しいなあ。僕が口説くと大概の女性は、じゃあ、お友だちとしてならって言うんですよ。あなたは手ごわい。僕が思った通りあなたは意思が強い人だ。そういうところも僕があなたに惹かれる所以なんですが」

 長池は少し寂しそうな笑みを浮かべて、公園の入り口に立っている低い銀色の車止めの柵に軽く腰掛けた。

「もう帰らせてください」

「じゃあ、最後に一つだけ質問させてください。あなたがそんなに好きな彼氏って、どんな方なんですか。どういうところに惹かれてるんですか?」

「どういうところ‥‥ですか? 誠実だし、考え方も似てるし、もちろん優しいですし。‥‥生き方が真面目で真摯で私の将来のことまで深く考えてくれているし。私の弱い部分、だめな部分もすべて受け入れてくれています。それに何より一緒にいて楽しい‥‥。魂に色があったらきっと同じ色なんじゃないかと思っています」

「‥‥魂の色か‥‥。そこまで言われちゃ付け入る隙が無いな」

 長岡は薄く笑って黙り込んだ。街灯の影が奇妙な形に伸びているのを見下ろしながら、気まずい時間が過ぎていった。早く下宿に帰りたい。

 長池はしばらくして、座っていた車止めの柵からゆっくりと立ち上がった。

「‥‥ああ、もう随分遅い時間になってしまった。こんなところまで付き合わせてしまったんだから、安全な明るいところまで送っていきます。もうご迷惑はかけませんから。そう言えばお名前をまだおうかがいしていませんでした。お名前だけでも教えてください。もうつきまといませんから」

「‥‥小島です」

「小島‥‥、何さん?」

「‥‥恵子、です」

「小島恵子さん、ですか。教えてくれてありがとう。あなたが僕のそばで微笑んでいてくれたらどんなにいいだろうとずっと思っていた。これだけは本当の気持ちです。‥‥これでも僕はモテる方なんですけどね。どうしても口説き落とせなかったのはあなただけですよ」

「‥‥すみません」

「いや、謝ることなんか無いですよ。ちゃんと断ったあなたが正しい。あなたの彼氏が羨ましい」

 長池は意味ありげにふっと笑った。住宅の明かりもない公園の暗さが急に意識させられた。街灯は遠くに一本あるだけだ。人通りもない真っ暗な公園の入り口。もう本当に帰らないとまずいと思い始めていた。  こんな夜遅く、黒々とうっそうとした樹木の生い茂った公園に男性と二人きりでいること自体もう異常な事態だ。

 私は少しずつ長池から距離を取ろうと、たびたび後ろを振り向いたりしていた。見える世界が極端に少なくなる夜は怖い。闇が全身に覆い被さってくるようだ。そうでなくても私は夜が異常に怖い。真っ黒な空を見たくなくて、私は公園の銀の柵に反射している小さな光の欠片に視線をさまよわせた。

 そんな私を長池は沈んだ目でじっとみつめていた。そのうち私の恐怖感を見透かしたかのように長池はこう言った。

「ここは暗すぎますね。すみません。こんなところまで連れてきてしまって。‥‥もしあなたと付き合えたのなら、僕はあなたを傷付けはしない。きっとあなたを守り抜く。本気で心から愛していきたいと思っていました」

 長池の真摯な告白を聞いて体が震えた。

 私はもう何も判断できず、呆然として呼吸を乱したまま、ただ無事に帰りたいとばかり思っていた。

「送ります」

 長池はそう言って歩き出した。

 帰りはもう何も話さなかった。黙って来た道を特に急がずに歩き、そうして出会った場所まで戻ってそこで別れた。

 長池は名残惜しそうに目を細め小さく手を振ると武蔵関の駅の方にまた戻っていった。

 濡れていた髪も、もうほとんど乾いていて、サンダル履きの足も体も、すっかり冷え切っていた。

 月の位置も変わり、もう十時も過ぎている。下宿の部屋に入ると気が緩んで、畳の上にへたりこんだまましばらく動けなかった。

 心細さに桂木の声を聞きたくてたまらなくなった。でも今はまだ彼は奈良だ。あと何日かは電話もできない。あたりを見回して完全に自分一人きりだと思うと、怖くて自然と涙がこぼれてきてしまった。

 つい最近畑中を傷つけてしまったことで、まだ重苦しさを心のどこかで引きずっていた。桂木に抱き締められキスされたことも私の内では完全には消化できずにいる重大事だ。その上、また男性からの強い思いにさらされて、私の混乱は増幅し収まりが付かなくなってしまった。心が不安定にぐらぐらしていて、涙を拭う手もぶるぶると震えた。

 ひとしきり泣いた後、顔を洗って深呼吸をした。こんなことで心揺らし、いちいち桂木に頼るようではいけない。一人でもちゃんと生きられるような人間にならなくちゃといつも思っていたのではなかったのか。

 気を取り直して、鞄から教科書を取り出した。もうすぐ前期試験が始まる。試験に向けてノートに抜けがあるところは宮迫典子に聞いてみようと思いながら、ともすれば意識がさっきの恐怖に向かいそうになるのを必死に押しとどめていた。

 ドイツ語の訳に目を走らせたものの、頭に全然入ってこなかった。ふと鏡を見るとちゃんとドライヤーで乾かさなかった髪が変な具合にクセがついて跳ねていた。それよりも、弱々しく目の光が弱まった自分の泣き顔。明日にはちゃんとしっかりとした顔に戻っているだろうか。


 翌日は、見事なまでに晴れ渡っていて、もう夏の日差しだった。昨日の夜泣いたせいで、あまりよく眠れず頭が痛かった。

 ベランダに布団を干していると、大家さんが飼っている三毛猫が窓から入り込んで来た。普段部屋に入ってくることはめったにないのに、今日はどうした風の吹き回しだろう。お皿に牛乳をちょっとだけ注いで窓際に置くと、猫は匂いだけ嗅いで考えるように髭を動かした。撫でようとする手の下を、猫はしなやかにすり抜けてカーテンの裾の方に隠れ込んだ。

 実家の飼い犬のロンがここにいてくれたらいいのに。小さくて頼りにならないけれど、いざとなったらきっと歯をむき出して私のために戦ってくれそうな気がする。夜はロンと一緒に出歩きたい。番犬みたいにして。

 大家さんの猫は物音も立てず部屋の中をひとしきり物色すると、ほんの気持ちばかり牛乳をなめてまた窓から出ていった。私には慣れてくれないようだ。猫の気持ちは分からない。

 部屋を適当に片付け、ちょうど掃除で母屋の窓から顔を出した大家のおばさんに布団の取り込みを頼んだ。

 二限の英文学演習の授業に出るため仕度をしていると、廊下の電話が鳴った

「もしもし」

「桂木と申しますが、小島さんはいらっしゃいますか?」

何日かぶりに聞く彼の声は、よそいきの少し低い声だった。気持ちがぱっと切り替わってうれしくなる。

「あ、私、私」

「おー、しっかり生きてるか?」

 はしゃぐような私の声に誘われて、いつもの早口に戻って彼はふざけたように言う。

「うん。元気だよ。隆司は?」

「まあな。今、東大寺の前からかけてる。今、解散したばかりなんだ。これからもう少しひとりで奈良を歩いてみる。明日の夜の高速バスで帰る予定だ」

「あさっての朝には帰ってるね」

「そうだな。お土産買って帰るからな」

「うわー。ありがとう」

「十円玉で百五十円分入れたんだけど、すごい早さで落ちてるよ。遠いんだな。もう少しで切れそうだから、早く何か言えよ」

「そう言われてもー。皆と楽しく過ごせた?」

「美術史の奴らとはあんまり喋らなかった。遠藤も来なかったしな。・・薬師寺の西塔がちょうど修理中で、教授のコネで塔の内部を見せてもらったのはなかなかだったよ」

「そう。いい時期にいいもの見せてもらったね」

「今日はこれから哲学の小道を歩こうかと思ってる」

「おっ、いいねえ。しっかり哲学してこいよ。私はこれから二限の英文学の授業に行こうと思ってたとこ」

「そうか。じゃ、あさってうちに帰ったらまた電話する」

「うん。じゃ、気をつけてね」

「おまえもな。離れているとおまえのありがたみがよく分かるよ。おまえのそばが一番居心地がいい」

「私もそうだよ。帰ってきたら、また二人でどっか行こうね」

「うん。じゃあな」

 昨日の夜の震えの名残りはまだ残っていたけれど、私はうまく明るい声を出せていただろうか。遠いところにいる桂木には心配させてはならない。電話の前を離れると気持ちが急にしぼんでいき、私は溜め息をついて大学に行く準備を続けた。


 梅雨時ではあるけれど、今年は雨が少ない。五月から六月にかけての、日が長い季節が好きだ。単に夜の時間が短いというだけでなく、生命力を掻き立てる何ものかがこの季節には潜んでいる。

 早稲田通りの通学路は、二限の授業に出る学生がぞろぞろと同じ方向に向かって歩いている。前を歩く学生を追い越したいけれど、どうしてもそうしたいという意志が無ければなかなか追い越せないものだ。結局は流れに合わせているのが一番楽なのだろう。

 空を見上げる。今この瞬間、桂木は奈良のどこかを歩いている。この瞬間、知っている友だちの誰彼を思い出すのもいい。ある者は下宿で寝坊し、ある者は遅い朝食を取り、ある者はアルバイトに出掛け、ある者は電車に乗っている。誰かは二日酔いかもしれないし、誰かは恋人とまだ抱き合っているかもしれない。

 私がこうして思っているように、誰かも私の事を考えているだろうか。時間と空間を超えて思い合いたい。都会の歩道を一人歩きながらも、その足音は一つだけではないと感ずる。


 文学部も近づいてきたあたりで、ふと何気なく穴八幡神社の方に目を上げた。すると歩道を見下ろす所にある児童公園のベンチに長池和也がいるのに気づいた。ロダンの「考える人」のようなポーズで、歩道を歩く一人一人を人を探すようにじっと眺めている。

 もしかしたら私が文学部に来るのをずっと待っていたのだろうか。昨夜の出来事からまだ一日もたっていない。あんなに断ったのにまだ諦めてくれていない?  動揺が私の胸にどっと押し寄せた。

 白昼の光で見る二十六歳はまだ十分に学生と言って通ずる若々しさだ。司法試験の筆記試験を終えて、七月の論文に備えていると言っていたが、そんな大事な時期に女にうつつを抜かしていていいのだろうか。しかも私が拒絶したものだから、傷ついてもいるだろう。

 自分でも女性にもてると言っていたが、確かにスポーツマンのような体躯と、司法試験勉強中のエリートという触れ込みなら、食い付いて来る女性は数多といるに違いない。

 私は下を向いて気付かれないように交差点を渡ってしまおうと思ったが、折悪しく信号は赤になってしまった。

「あっ、小島さん!」

 びっくりするほど大きな声だった。振り向かないわけにはいかない。諦めてゆっくりと首を巡らすと、長池はベンチから立ち上がり急いで石段を降りて来るところだった。

 長池は私の前に立ち、ちょっと息を弾ませながら微笑んでお辞儀をした。

「昨日はどうも失礼しました。申し訳なかったと思っています」

「あ、いいえ」

「手紙を書きました。読んでください」

長池は鞄から一通の白い封筒を取り出し私に手渡した。

「じゃ」

 短くそう言うと神妙に一礼して、すぐに本部に向って道を渡っていってしまった。

 信号が青に変わるまでのほんの一瞬のこと。私は受け取ってしまった手紙にとまどいながら学生たちの波に流されるようにスロープを上っていった。

 英文演習の教室の席に落ち付くと、少し緊張しながら手紙の封を切った。うすい藁半紙のようなペラペラした紙に米粒ほどのあまり上手でない細かな文字が横に並んでいた。


『こんな紙で失礼。ただいつも愛用しているもので、ご容赦を。昨夜はあなたに無理難題を吹っかけ済まなかったと思っています。何せあなたは、僕がこの二年間思い続けてきた女性ですから、僕も焦って強引なことばかり言ってしまいました。あなたがずっと付き合ってこられた人ですから、どうか彼との交際を大切に育てていってください。

 ただこれだけは分かってください。強引な代わりにあなたを真剣に愛していこうと思っていたということだけは。とにかく許してください。あなたはもう僕に対して交際を断ったことを「すみません」という風には考えないでください。当たり前のことだったのですから。


あなたがもし司法書士でも、と思うのでしたら、次のことを考えてください。二、三年、集中して勉強できる環境にあるか、また、そうする自信はあるか、また、どの程度の覚悟か、自問してみることです。そしてやれるとすれば良い本選び、それから本の読み方を考えねばなりません。このようなことは僕でよければ喜んで相談に乗って差し上げます。


僕の今までの生き方は「憧れ」ばかりであったように思います。最近になってようやく「現実」を見ることが出来るようになりました。そしてこれからはどうやって「憧れ」と「現実」を調和させていくかということが課題です。

両親を悲しませたこと、僕自身から悩みを打ち明けられるような友人が出来なかったこと・・・もっとも最近はすっかり肩の力も抜け、まるくなりすぎている気もしますけれど。


「人間、一生、己の未熟に悩み、努力し続ける一個の学生である」・・・これは僕の父がよく言う言葉で、僕の座右の銘としております。この言葉をあなたに贈ります。

また、いつか、さようなら。


p.s 僕はいつも図書館の同じ席に座っていると思います。たまに声をかけてやってください。自分の意思を誰かに伝えることは、普段、法律書ばかり読んでいる僕にとってどれだけの喜びか。その喜びを束の間でも僕に与えてくれたあなたに感謝しています』


 

 長池の手紙を読みながらちょっと放心していると、隣の席に宮迫典子が座ってきた。

「おはよう」

「あ、おはよう」

「予習した?」

「してないよ。今日は当たらないはずだから。近頃すっかり勉強怠けちゃって」

私は、ちょっと肩をすくめながら答える。

「私もちゃんとは勉強してないんだ。前期試験もうすぐだから、もうそろそろ教科書見直さないとね」

「うん。うまく訳を書き写せてないところあるんだ。後でそこのところ教えてね」

「いいよ。あ、それ何? ラブレター?」

私が畳もうとした便箋を彼女は横から覗き込んだ。

「ラブレターかなあ? 昨日お風呂帰りに法学部の人に声をかけられて、お付き合いしてほしいとかごちゃごちゃ言ってきたけど、お断わりしたのよ。そうしたら今日さっき、強引なこと言ってごめんなさいっていう、これはお詫びの手紙かな? 司法試験の勉強してるんだって」

「うわー、もったいない。小島さんいいなあ、もてて。かっこいい人? 私も声かけられたい」

「声かけられていいことなんてないよ。結構怖いものだよ。それに話聞いてたら女たらしの遊び人みたくてさあ。宮迫さんにはとてもお勧めできない」

そう顔をしかめて大袈裟に言いながらも、そういう決めつけはよくないとも思っている。

「ふーん。そうなんだあ。じゃ、やめとく」

 宮迫典子は丸い顔をほころばせてちょっと微笑んだ。彼女の耳元には小さな人参を象ったガラスのイヤリングがかわいらしく揺れていた。

 長池もまた寂しい人だったのかもしれない。強がって数多い女性遍歴を自慢気に披露したとしても、本当の意味での安らぎは得ていなかったのだろう。私に注がれた長池の眼差しは決して傲慢なものではなかった。

 法律の勉強の指南もしてくれると言ってくれている。もし私が倫理感が甘く節操のない女だったなら、これ幸いと長池を利用したかもしれない

 人は生きることに煮詰まり落ち込んでいると何らかのアクションを起こして現状を打開したくなるものである。私にいきなりのように告白してきた長池も、たぶん人生の岐路に差し掛かり何か苦しんでいたのだろう。

 長池とはこの後も頻繁に上石神井で出くわすことになった。ちょっとした立ち話にも応じるようになり、人となりを知るにつれ、長池がちゃんとした良識と節度を持っていて決して危険な人物ではないと分かってきた。出会った夜に感じた強引さ、女たらしの印象は徐々に消えていき、長池を一人の孤独な青年と見るようになっていった。


 三年ともなるとぼちぼち卒業論文の話題も出て来る。宮迫典子ともしばしば卒論のテーマについて話し合った。英文学で取るべき授業はカリキュラムの都合でほとんどあらかじめ決められていて、選択に融通性が無かった。私たちは、大井教授のシェイクスピアとマーロウ、臼井教授の現代英文学のオーウェル、氷室美佐子教授の古典英米詩、レンドン教授の現代英米詩の授業を受けていたから、特に個人的に研究したいテーマを持っているのではなかったら、受けている授業内容からテーマを選ぶしかなかった。

「宮迫さんは卒論のテーマ、何にするかもう決めた?」

「私はまだはっきりとは決めてないんだけど、現代から選ぼうと思って。小島さんは何か決めたの?」

「私は古典でいこうと思ってるんだ。今の第一候補はウィリアム・ブレイクかな」

ブレイクの書いた著作では、『無垢の歌』『経験の歌』という詩集と、『天国と地獄の結婚』という箴言集が有名である。


一粒の砂に世界を

一輪の野花に天国を見

掌の中に無限を

一刻に永遠をつかむ


 この詩はブレイクについて学ぶ者はまず第一に読まなくてはならない詩だ。ブレイクは預言詩人であり、彼の表現する象徴には様々な解釈が成り立ち、研究するには魅力的な題材だった。


「ブレイクかあ。私はオーウェルにしようかなあって思ってるんだけど、まだわかんない。夏休み終わったら卒論計画書出さなくちゃならないんだよね」

「そうそう。だけど皆言ってるよ。適当に書いて出しちゃうって」

「そうよねー。この前菊池さんに会ったら、彼女、卒論はカロッサに決めたって言ってたの。なんてったってドイツ文学選んだ人だから、勉強熱心よね」

「そうだね。菊池さんて本部の読書会っていうのにも出てるらしいよ。すごいね。なんか研究者になりそう」

 菊池洋子は岩手の遠野出身で、落ちついた真面目な雰囲気の人だった。いつも地味な服を着ていて美しく装うという事がなかったが、清潔で静かな美しい目を持っていた。

 青森や秋田、岩手出身の女子はなんとなく気持ちの連帯が生まれるらしく、いつも一緒の座席に固まって語学の授業を受けていた。宇都宮出身の私は、関西出身の者たちよりはちょっとは仲間に近いと思われたのか、彼女らと割と親しく話せている方だったろう。

 ドイツ語の勉強に辟易していた私にとって、ドイツ文学を専攻しようとする人はどれだけ優秀なのだろうと思っていた。しかし菊池洋子が人知れず孤独を深めていたことを誰が知ろう。彼女は卒業を控えた冬のある日に、銀座線のホームから線路に身を投じてしまった。私は今でも思う。菊池洋子と私の運命が逆転していても、なんらおかしくなかったと。


 卒論や就職のことは、当然のようにそれぞれの心の中で比重を増していきつつあったが、大半の者にとっては対岸の火事のように遠い出来事だった。まだ猶予はある。じっくりと考える時間はまだ十分に残っていると思われた。

「小島さん、今度私のアパートに泊まりにこない?」

宮迫典子が突然そんなことを言ってきた。まだそれほど親しいほどではなかったので、ちょっとびっくりした。

「あ、いいの?」

「どうぞどうぞ」

「じゃあ明日、アルバイト無い日なんだ。明日でもいい?」

「うん。じゃ、明日四限の英文の授業終わったら、一緒に帰ろう」

 小柄で可愛い声の宮迫典子は普段おとなしく目立たない方だったし、専攻の英文の教室でも友だちは私以外には特にいないらしかった。授業では隣同士に座りちょっとしたおしゃべりもしたが、授業が終わると私は、じゃあ、またね、とそそくさと席を立ってしまうので、彼女に対して結構心苦しかったのだ。教室の外では桂木隆司がいつも私を待っていたから、私が桂木と年中デートしていることも知っていたはずだ。

 もっとも最近、松本享の英語学校に通いはじめたと言っていたし、大学の『セツルメント』というサークルにも入っていて、土日は障がいのある子どもたちと遊ぶボランティア活動もしていたから、はたで心配するほど孤独ではなかったのかもしれないが。


 翌日、授業が終わると一緒に渋谷まで行き、デパートで時間をつぶしてから、夕方彼女のアパートに向かった。彼女は渋谷駅からバスで数分行ったところにある三軒茶屋の女子学生だけのアパートに住んでいた。バスを降りてからも十分近く歩く。渋谷の大通りからは大分離れているので、思ったよりは閑静だった。早稲田への通学に決して近いという距離ではなく、朝、混雑した山手線に乗るのもきっときついだろう。

 二階建てのアパートの二階に彼女の部屋はあった。玄関を開けるとすぐに台所があり、台所と居間との境には民芸品の『べらぼう』の絵が描かれた大きな暖簾が下げられていた。暖簾は入り口の幅いっぱいの大きさで、派手に採色された顔が巨大な目を見開き赤い舌を突き出している。魔除けの意味もあるのだろう。そのインパクトの強い顔に慣れていない私は、暖簾の真ん中を分けてくぐるのに一瞬抵抗があった。夜、いきなりこの顔に出くわしたら肝が縮みあがりそうだ。

 それにしてもいやに物が多い部屋だった。靴脱ぎ場に立て掛けられた五本の傘。ガスコンロの上には、独り暮らしの調理にはこんなに必要もあるまいと思われるほどの数の鍋がうず高く積み重ねられている。食器棚には大家族分まかなえるくらいの食器が詰め込まれている。そして台所の片隅から玄関のたたきにまでウィスキーやワインの瓶が十数本転がっている。

 宮迫典子がこんなにお酒を飲む人だとは思ってもみなかった。彼女は二月のコンパにも欠席していたから、彼女がお酒を飲む姿を私は見ていなかった。

「あ、ウィスキーとか飲むの?」

 飲むことがあってもいいが、こんなに大量の空き瓶が、片付けも廃棄もされずに転がし放題になっていることが気になった。飲んでいることを他の人に知られたくなくて部屋に溜めてしまっているのだろうか。知られたくないというのなら、泊まりに行くと私が言った昨日にでも、押し入れに隠すとかできたのではないか。それもできないほど何かに投げやりになっているのか。

「うん。そんなに好きじゃないんだけどね。最近よく飲むようになっちゃって。あんまり体によくないんだけど、飲まないと眠れなくって」

「そうなんだ。宮迫さんが飲むなんて意外な感じ」

「そうお?」

 彼女はちょっと曖昧な笑い方をした。彼女は小柄で童顔だから、そんな風に微笑むとまだほんの十代の女の子にしか見えないのだ。だから尚更お酒は似合わない。

 居間の方には箪笥と書棚があり、部屋の真ん中にちゃぶ台が置いてあった。箪笥の引き出しが引き抜かれてあって、箪笥を移動しようとした形跡があった。

「ごめん。散らかってて。昨日、部屋の模様替えしようとしてたんだけど、疲れちゃって途中なの」

「手伝ってあげるよ」

「あ、いいの、いいの。後でゆっくりやるから」

宮迫は手早く箪笥の引き出しを戻しはじめた。

 物は多いけれど、寂しい部屋だった。一人暮らしの女の子の部屋は、たとえぬいぐるみや花で飾られ整然としていても、どこか冷え冷えとしたものがある。物で、寂しさを紛らわせているような‥‥。私の部屋にも、雪の日に買った悲し気な顔のカバのぬいぐるみが炬燵の上にちょこんと座っている‥‥。        

 鏡台の前にも多すぎるくらいの化粧品が並んでいた。数本のマニキュア、アイシャドウ、マスカラ、何本もの口紅。ファウンデーション、クリームや乳液のいろいろな瓶。でも彼女は普段ほとんど化粧気が無いのである。


 簡単な夕食の後、彼女はウィスキーのボトルを持ち出してきて、私に、飲む? と聞いた。

「あ、ごめんね。私は一度体こわしたから、そういうの駄目なの」

「そうか‥‥そうだったね。まだ注意してるの?」

「うん。すっかり体質変わっちゃってね。ちょっとしたことで具合が悪くなることがあるんだ。何か食べたり、飲んだりすること、いまだに楽しめないところがあるよ」

「そうなんだ。‥‥私もね、腎臓悪くしたことがあってね、本当はお酒なんか飲まない方がいいんだけどね」

 彼女はそう言いながら、自分のグラスに氷を入れウィスキーを注いだ。そして私には、こんなのしか無くて悪いけどと言って、一本の缶ジュースを開けグラスに注いだ。

「小島さんてさあ、桂木くんと付き合ってるよね。もう長いの?」

「そうだねえ。去年の六月に声をかけられて話すようになったから、もう一年ぐらいかな?」

「一年かあ。結構長いんだね。小島さんと桂木くんが早稲田通り歩いていくの時々見かけるけど、ほんと、美男美女カップルだよね。二人とも足が長くてすっすって歩いていくから、映画の撮影かとか思っちゃうよ」

「いやー、そんなことないよ。ガサツで下品なことばっかり話してる結構なバカップルだよ?」

「いやいや、かっこ良すぎて羨ましい。私もボーイフレンド欲しいなあ」

「そうだね。異性の友だちって、面白いよ。でもさ、友だちのうちはいいけど本気な恋愛になっていくと難しいことも一杯出てくるんだよ。私もこう見えて悩んでるんだ」

「ふーん。どんな悩み?」

「そうだねえ、なんかね、男女ってやっぱり考え方の違いとかあって、難しいのよ。友だちのままでいることを許してくれないっていうか。男の人は相手のすべてを求めたいっていう気持ちがどこかで起きて来るんだと思う。私だって本気で男の人と付き合うの初めてだし。初めてばっかりのことが起きると本当に戸惑っちゃうよ。宮迫さんにもボーイフレンドできたらきっとわかるよ。楽しかったのがケンカばかりしはじめちゃったり。お互いを分かり合うためには結構努力も必要なんだよ」

「ボーイフレンドかあ。‥‥サークルでいいなって思う人はいるけど、もう彼女がいるのよね。片想いなんだ。大学にいるうちに誰かとちゃんとお付き合いしてみたいなあ。でも好きな人できたら、卒業した後どうしたらいんだろう。それぞれ実家に戻ったり、東京か東京じゃない所に就職したら、会えなくなっちゃうときもあるよね。遠距離恋愛って現実問題、無理よね」

「そうそう、まさしく私もそれに悩んでる。彼が川崎に住んでるっていうのは絶対だから、私がどこでどう就職するのかが大問題。もう宇都宮に帰るっていう選択肢がなくなってきたっていうか。まだ全然覚悟できてないんだけどね。それに卒業までに別れちゃうことだってあるだろうし。未来に何が起きるか分からないのってほんと困りものだね。だから今は先のことはあんまり深刻には考えてない」

 そんなことを話している間にも彼女のウィスキーを飲む手は止まらない。

 英文の試験に向けて、お互いの訳の抜けていそうなところを調べ、ノートのコピーを交換し合うことを約束した。彼女はアルバイトもしておらず、大学と英語学校に日々真面目に通う生活らしかった。渋谷の町をふらつきショッピングを楽しむこともあっただろう。でもずっと寂しかったのでないかと推察された。だからアパートに帰ってくると、お酒を飲んでしまう。

「ちょっと飲み過ぎかもよ?」

彼女があまりにハイペースな気がして、ちょっと注意したくなった。

「うん。分かってる。分かってるんだけど‥‥でも寂しい時とか、父親の事を考え始めたりすると、飲まずにいられなくなっちゃうの」

「お父さんの事? お父さんと何かあった? もしかしてご病気とか?」

「ううん、違う違う。そういうんじゃないの」

彼女は沈んだ感じでそう言い、また一口ウィスキーを飲んだ。

「私、父親の事大嫌いなの。東京の大学に来たのも父親から離れるためだったの。何でも命令して、人が自分の思い通りにならないと暴力振るうの。そんなんでも高校の校長やってんのよ? そんな奴なのに人格者みたいに思われてるのがたまらない」

 それは、いつも柔和な笑顔でいる彼女からは想像もつかない告白だった。彼女は、父親がいかに暴君であるか、いかに家族が苦しんできたかをまくしたてた。父親は腎臓が悪く、週一回透析を受けていて、この先長生きはできないだろうという。そんな状態なのに、どうしても父親を愛せず、憎しみの心に支配されてしまっている自分に苦しんでいた。お酒の力も借りていたのだろうが、いつもとは打って変わった激しい口調に、私はただ黙ってうなづき聞いているしかなかった。

「絶対に許す事なんかできないよ。母親だって、あいつのためにどんなに泣かされてきたか。あんな奴死んでしまえばいいって、いつも思ってるよ」

 宮迫は急速に酔いを深めているようだった。

「どうしていいか分かんないよ。苦しくって、苦しくって。父親が死なないのなら私が死にたい」

そこまで切羽詰まっていたのか。今、私は彼女に何を言ってあげられるだろう。

「東京に来て、実家から離れてても、苦しい?」

「父親が生きて存在してるってことで、もう駄目。息ができなくなる。あんな父親でも血が繋がっているっていうことを、どうしても考えちゃうんだよ。あいつの血が私の体に流れていると思うと、吐きそうになる。‥‥離れていても父親の呪縛から逃れられないの。それがつらくて‥‥」

「そんなに苦しみながらも、父親を見捨て切れてないっていうことは、それも父親への形を変えた愛なんじゃないかな。父親と和解したいっていう思いがどっかにあるんだよ」

「愛?」

「お父さんだって何か大きいストレス抱えてて、自分でも苦しんでるんじゃない? 家族に当たって、更に悪循環になっちゃってるとか」

「苦しんでなんかないよ。あいつは自分の言いたいことを言うだけで、人のことを理解しようとしたことなんか一度も無い。もう本当に憎くて憎くて‥‥。でももし父親が病気で死んだらと思うと、このままの気持ちを永遠に引きずっちゃうようで怖い‥‥」

「‥‥一緒に住んでいるだけに、他人より憎みあっちゃう家族だっているよね。憎みあわないでいられる距離を、まず探らないとね。宮迫さんがこうして家を離れて東京に出て来たのもそのためだったんでしょ?」

「あの家からずっと逃げ出したかったんだ。逃げてきたのに、まだ苦しみがおさまらないことに、疲れちゃってたの。だからついお酒を飲み過ぎちゃう‥‥。少しずつ忘れていけるかな。‥‥今はまだ全然無理だけど」

「きっと大丈夫だよ。いつか苦しくなくなるよ」

 私はその後も必死に彼女に言葉をかけ続けた。どんな言葉が彼女を慰めるのか分からないままに。

「また何かつらいことがあったら、遠慮なく私に電話してね。私の下宿に泊まりにきてくれてもいいよ。四畳半なんだけど‥‥狭くてもよければ」

宮迫はちょっと微笑んだ。

「ありがとう。話聞いてくれてうれしかった」

「私だってさ‥‥いつも夕方から夜にかけてずーんと落ち込んで不安だったりするんだ。下宿に帰っても一人でつらいから、帰りたくなくってさ。夜誰かが一緒にいてくれたらどんなにいいかっていつも思ってる」

「‥‥小島さんでも死にたいと思うときある?」

「あるよ。ありすぎるくらいだよ。私、病気してた時も、病院の屋上で無意識に飛び降りちゃうんじゃないかっていうほど、一瞬気持ちが危なくなったことがあったし、生きる自信も人より弱いと思うんだ。でもなんとかいろんな人の助けを借りて生きてる。悩みを話しても解決しないことも多いけど、気持ちを分かってくれる人がいるっていうことだけでも救いになることがあるからさ。こんな私だけどさ、利用してくれていいよ? 私も宮迫さんに泣き言言わせてよね」

 私もよほど実家の母とうまくいっていないことを言おうかと思った。母と一緒にいると母の言動に押しつぶされて息苦しくなると。しかしその時はまだ親に対する複雑な思いはまだ人に話せるほど消化できてはいなかった。口にしたらその気持ちが自分のものとして定着しそうなのが怖かった。だからこの時は宮迫には何も言わなかった。

 心通じ合っている桂木にさえ、親のことは言えずにいた。私が子どもだった頃は母が病弱で、あんまり甘えられなかったとか、ごはんもつくってもらえない時があったなどと漠然と冗談のように言うだけだった。

 母の何気ない言動はたぶん今になって思えばモラハラという言葉がぴったりと当てはまるものであったが、私は母に食ってかかることもせず、すべて心の内に飲み込んでいた。それ故に傷も深くなってしまっていた。

 何より始末が悪いのは、母は全く悪気があって私をなじったりするのではなく、私を思って、私のためだと思ってそういう言葉を口にしてしまっているのだということだった。すべてはパワーバランスを欠いていたことにより起こった。母は強すぎて、私は弱すぎた。互いに中庸を取れなかったこと、せめて私が強く言い返せる子どもだったなら、すべてその場で言い返すことで解決できていったのかもしれない。

 いつか話せることができる日がきたら、桂木にも宮迫にもきちんと聞いてほしかった。けれど親の悪口は倫理的になかなか言えないし言ってはいけないような気もしていた。宮迫が今日私に洗いざらい父親への憎しみを吐き出したのは、それだけ心に大きな負担がかかっていてそれが堰を切ってしまったのだろう。宮迫も、宮迫の母も弱い被害者で、やはり父親が強すぎるという構図がそこにあったように思う。

 宮迫は悲し気な表情を浮かべて、しばらく黙っていた。そのうちそのまま意識を失うよう背中を後ろに倒し、眠りに落ちていった。私は押し入れから布団を探し出してきて、彼女にかけてあげてから、私もそのそばで毛布にくるまった。こんな幼顔の可愛い人が家族の闇を抱えて苦しんでいる。私は、他の人の家族はテレビのホームドラマのように明るく笑い声に満ちたものなのだとばかり思っていたが、必ずしもそうではないのかもしれないと、眠れないままに考えていた。


「また髪の毛切ったのか」

桂木は私を見て開口一番そう言った。

「少し伸びたかと思うとすぐに切っちまうんだな」

「だってもう夏だからさ」

 夕方、上石神井まで車で来てくれた桂木隆司は、懐かしい眼差しで微笑んだ。電話局前にとめた車に乗り込むと、お互いすぐに話し出せずに顔をみつめ合っていた。会いたかった、寂しかった、そんな言葉はもう語らなくてもいい。たった一週間だったというのに、あの思い詰めたような心の凝縮は何だったのだろう。

 車の座席で体をよじっている彼の顔に傾いた午後の光が当たっていた。瞳が茶色に透き通っている。神秘的な伝説の獣の目のようだと思った。

「旅行楽しかった? いろいろと勉強してきた?」

「うーん。‥‥楽しくもなかったけど、まあ、なんとか。そうだ武蔵関公園行こう。そこでいろいろ話すよ」

 黄昏の武蔵関公園は学校から帰ってきた子どもたちの格好の遊び場だ。池の周りを取り囲むように植えこまれている紫陽花も、大きな水色の固まりを重く揺らしている。数人の女の子たちはボートの管理人の目を盗んで、ままごと遊びのための紫陽花の花びらをちぎるのに余念がない。

 ほんの数日前、長池和也に交際を迫られて怯えながら対峙した時の銀色の車止めを見て、心が少しざわついた。

 私と桂木は池の周りを一周すると、池のすぐ向こうにある雑木林の方に足を向けた。その林はかつて武蔵野の一景をなしていたのだろうが、今ではほんの小さな部分林になってしまっている。

 林の手前の雑草だらけの空き地では少年たちが元気よくサッカーをしていた。いくら雨が少ない梅雨だとはいえ、ひとたび降ればこの空き地もひどくぬかるみ、しばらくは遊べなくなる。少年たちはそんな数日分の鬱積を晴らすかのように走り回っている。

 歩いている私たちの方にも時折ボールは飛んできた。桂木はそのボールを空高く蹴り返し、追いかけて来た少年たちが、歓声を上げて海の中の魚群のように身を翻してまた走り去っていくのを笑いながら眺めやっていた。

 私たちは空き地を見渡せるベンチをみつけてそこに腰をおろした。

「研修はどうだった?」

「俺、団体行動はあんまり好きじゃないからな。グループ解散した後も教授に迎合してる奴らは教授の後をついてまたどこか回ってたみたいだったが、俺は教授に気に入られようなんて思ってないから。泊ったのは日吉館ていう由緒ある古い旅館だったんだけど、あんまり感じよくなかったし」

 奈良では薬師寺西塔がちょうど改築中だったそうで、普段は塔の内部には一般の人は入れないのだが、美術史の学生たちだけは教授のコネで運よく内部を見学することが出来たそうだ。塔の内部の建築様式について桂木は熱っぽく語った。これを見ることができるのは恐らくごく限られた者だけだろうと。

「おまえは? 一週間ちゃんと過ごせたか?」

 私もこの一週間の出来事を語った。坂口美子と会って話した事。彼女に白樺湖の旅館のアルバイトに誘われたが家族に反対されたこと。宮迫典子のアパートに泊まりに行ったこと。

そして長池和也に夜の武蔵関公園で交際を迫られ、ひどく怖かったことなどについて。

 桂木は黙ったまま視線を空き地でサッカーをしている少年たちの方に向けた。私は彼が何を言うか身のすくむような思いでじっと待っていた。少年たちははじき独楽のように、くるくるとちっとも休まず走りまわっている。

「そうか‥‥もしおまえに何かあったら、おまえ、死ぬほど苦しんだだろう。俺にだって体許さないほどなんだからな。本当に無事でよかったよ。おまえ、男に対して変に厳しいかと思うと、時々スコーンと抜けちまう時があるから‥‥考えるとぞっとするぜ」

「私にも落ち度とか隙とか、あったと思うよ。でも話聞かないと帰してくれそうにない雰囲気になっちゃってたんだよ。あんなに危険を感じたのは初めてだよ。もっと違う対応の仕方もあったんじゃないかってずっと自分を責めて悶々としてた」

「いや、おまえは悪くないよ。悪いのは女を怖がらせる男の方だ。俺、以前おまえにいろんな奴と付き合ってみろって言ったことがあったよな。おまえが男に対してあまりに臆病だったからな。だけどこうもおまえが危険な目に会うとしたら、人との付き合いを制限したくなる。誰に声かけられても振り向くなと言いたくなる」

「ごめんね。畑中君のことがあったばっかりなのに、また心配かけて。夜だったから余計に怖かったのかもしれない。それにその人も話聞いてると、すごく真面目で本気な気持ちでやっと告白してきたっていう感じだったよ。悪い人じゃなかった。でも女ってつくづく弱い立場だなと思って改めて嫌になったよ。夜とか夜中とか平気で自由に出歩けない感じって、男の人は分かんないでしょ。暗闇にいつもびくびくしてる」

「いつでもおまえを守ってやれるわけじゃないことが悔しいよ」

「スーパーマンみたく飛んできてくれると感激なんだけどな」

「特訓しても無理だな」

「これは私が格闘技身につけねば」

 二人で少し笑った。

 少年たちが草の上を転がりまわっている。夏に向けて力を蓄えている緑の草々が、力強くしなりながら少年たちのエネルギーを吸収している。

「それはそうと、私、今度陶芸やってみようと思うんだ。井の頭公園のところに教室があるのをみつけたの」

「お、いいね。なんでもやってみろよ。楽しいことどんどん探せよ」

「うん」

 日の長い六月ではあってもさすがに七時を過ぎると夕闇が迫ってくる。空き地でサッカーをしていた少年たちもいつのまにか姿を消していた。林の木々も長い影を地面に横たえ、朱色の陽射しをまだらに木肌に巻き付けていた。笑いながらも沁みるような淋しさが消えない。薄らいだ陽射しに染められて、風景は古びた絵画のように息遣いを殺していった。

「そうだ。お土産があったんだ」

桂木はそう言うと傍らの鞄の中をごそごそと探り、小さな包みを二つ私に差し出した。

「大したもの無くてさ。こんなものでごめん」

 包みの中身は、白磁に花の絵柄が入った小さな陶器の一輪挿しと、涼しい透き通った音がする鈴がついた銀色のキーホルダーだった。

「わあ、ありがとう。大切にするよ」

桂木はほっとしたようににこっと笑った。

 もう桂木が帰らなくてはならない時間だった。私たちはベンチを立って林の方に歩いていった。

 もう辺りは人影もなく、ただ低い虫の声がどこからか響いてくるだけだ。空はまだやわらかな黄昏の明るさをとどめていたが、地上の風景はすでに色を衰えさせていた。

 桂木は一本の太い木の幹に私の背中を押し付けるようにして強く抱擁し、そしてキスをした。彼のキスは深く、唇が燃えるように熱くなってしまう。

 抱き締められてキスしているこの時間は、他のどの時間とも違っていた。なにか叫び出したいような感情の高まりに、呼吸もうまく出来ない。

「ああ、こうしているとほっとする」

彼が私に頬をすりよせてくる。

『Sturm und Drang』という言葉が繰り返し頭の中で鳴り響いていた。このままどこに流されていくのかも分からず、ただ愛する者の体を抱き締めていることしかできない。初夏の夕日の残り火が音もなく消えていく。

「夜、お風呂に行く時は気をつけろよ」

彼はそうささやき、もう一度強く抱き締めた。

「いざとなったら急所蹴って目つぶし? 実際問題できるかな? 気色悪い」

彼の首筋に頬をつけながら私はふざけたように答える。

「やるんだ。黙って襲われてるんじゃないぞ」

彼は私の背中を撫でて少し笑った。

 彼の手が服の上からブラジャーのホックを探り、少しの手の動きでたちまちホックを外してしまった。

「あっ、何やってんの? やだ」

恥ずかしがる私を見て桂木はにんまりとする。

「神の手と呼んでくれ」

「いやらしい手だよ」

 胸の締め付けが解放されて、頼りなく少し心もとない感じがした。自分の裸の胸が急に意識された。そのまましばらく黙って抱き締め合っていた。

 体を離した時、片手に握り締めていたお土産の鈴が紙包みの中で鈍くカチリと鳴った。

「帰ろう。下宿まで送ってくよ」

「うん。お土産ありがとうね」

 桂木と私は固く手を握り合い、その手にすべての思いを込めながら、生暖かく暗い夕風の中をゆっくりと車の方に歩いていった。


 アルバイト先の歯科医院の院長先生が最近カメラに凝っている。患者さんが途切れて待合室に誰もいなくなると、私を白衣のまま治療椅子に腰かけさせモデルにして、色々とレンズを代えながら写真を撮ったりしている。そばで秀夫先生がにこにこしながら、おやじの凝り性にも困ったものだという顔をして見ているのがちょっと恥ずかしい。

「このミノルタは知り合いのカメラ屋から中古のを譲ってもらったんだが、ちょっと使いにくいなあ。やっぱりオートフォーカスにしようかなあ」

 院長先生はオリンパスがいいとかミノルタやニコンはどうかとか講釈をつけているが、私も1月にヨドバシカメラで自分用の一眼レフのニコンFEを買ったばかりだったから、少しはカメラのことも判るつもりだ。

「調べ始めるとカメラってすごくたくさん機種があるんですよね。絞りを設定するとシャッタースピードが自動的に決まる方式のものとか、その逆の方式もあるし、人物写真とか風景写真とか、花を撮るとか、何を撮りたいかによって、レンズも替えなくちゃならなかったりして、ちゃんと芸術的に撮ろうとすると装備も大変ですね」

「全くだよ。カメラは金がかかるよ。このカメラはね、先週親戚が結婚式だったから写真でも撮ってあげようと思って急いで買ったんだが、まだ使いこなせてないんだ。ああ、ちょっと右の方向いてみて」

 治療台の上に並んだ瓶入りのアルコールなどを補充していた秀夫先生がふと顔を上げて私を見て言った。

「従弟の結婚式が栃木市であったんだよ」

「ああ、そうなんですか。お車で行かれたんですか?」

「うん。高速道路でね。栃木市というのは宇都宮のずっと手前にあるんだね」

「はい。栃木市はずっと南で、埼玉県寄りです」

「結構、宇都宮は遠いね」

「栃木の真ん中辺ですから、微妙な遠さですね。東京から帰省するのに三時間ちょっとぐらいはかかります」

「そう。とても毎日東京まで通うわけにはいかないね」

「そうですね。両親は毎週でも帰って来いと言うもので、一年の時は頑張って毎週日曜に帰っていたんですが、正直すごく疲れちゃって‥‥友だちづきあいにも支障をきたしてました」

「今はどれぐらい帰ってるの?」

「月に一回ぐらいです」

「下宿の生活、寂しくない?」

「寂しいですけど‥‥ここにいる限りはここの生活を楽しまなくちゃと思って、授業とかアルバイトが無い時は、東京中の公園とか美術館とか名所を歩き回ってます」

「ああ、歩きながらスケッチもしてるんだってね?」

「あ、それはたまに‥‥写真撮るより印象に残るかなと思って」

「就職のことは何かもう考えてる? 東京に残るの? それとも実家に帰る?」

「まだはっきりとは決めてないんですが、なるべく東京に残る方向でって考えています」

 私と秀夫先生が話している間にも、院長先生は私に向けてフラッシュをたいてシャッターを切ったり、説明書を読んだり、せわしなくカメラをいじくりまわしていたが、私たちの会話の切れ目に急に声を張り上げた。

「そうそう、結婚式の写真が出来ているから、小島さんにも見せてあげよう。ちょっと待ってて、二階から取ってくるから」

 院長先生は診察室の椅子から立ち上がり、休憩室の仕切りのアコーディオンカーテンをざあっと開けると、二階への階段をガタガタと上がっていった。

 秀夫先生はその音を聞きながら、治療台の上のガラス瓶をカチャカチャと並べ直した。うつむいた頬に午後の斜光が白く当たっていた。かかったままになっているテレビの『大岡越前』が、私の背後で何か派手な立ち回りをやっているらしいのが低く聞こえている。

「一人暮らしは、病気の時なんか心細いでしょう?」

 秀夫先生はポツリと独り言のように言った。普段、「N2を練って」とか「アマルガム、中くらい一つ」とか「カルテ見せて」ぐらいしか言わない人なのに、今日は妙に私の心に触れてくる。

「‥‥そうですね。風邪ぐらいなら平気なんですが、‥‥二年になったばかりのころにちょっと体こわしちゃって、一か月実家に帰ってたことがあったんです。‥‥あの時は自分でも怖いぐらい体重が減っちゃって、東京に戻ってからも不安でした」

「そんなことがあったの。一人暮らしはそういう時大変だよね。具合悪くても全部自分で対処しなくちゃいけないんだからね。友だちとかもそうそう頼れないものだよね。僕も行徳に一時下宿してた時があってね‥‥」

 その言葉が終わらないうちに院長先生がまたガタガタと階段を降りて来る音がした。そしてそのまま秀夫先生は中途半端に口をつぐんでしまった。

 院長先生はまた荒っぽくアコーディオンカーテンを引き開けると、私に写真帳を突き出した。

「これこれ。ちょっと見て。すごく豪華だったよな?」

院長先生は秀夫先生の方を振り向いて同意を求めるようにそう聞いた。

秀夫先生はちょっと笑って、

「うん。金はかかってたみたいだったね」

と短く答えた。

 写真の中の花嫁は美しく、金屏風を背にして、晴れがましい喜びの席で輝くような笑顔を振りまいていた。

「わあー、すごくきれいな人ですね」

「親戚のうちで結婚してないのは、とうとう秀夫だけになっちゃった。もうそろそろ秀夫も真剣に考えないとな」

秀夫先生は苦笑いすると、椅子から立ち上がって休憩室の方にすっと退散してしまった。

「結婚の話になるといつもああだからな。一体どうするつもりか。わしには分からんよ」

「若先生はすごくハンサムですし、お優しいから、慌てなくても大丈夫だと思います」

「あの子は女性の話は一切しないからねえ。もう二十八になるというのに。お見合いの話だってまるで耳を貸そうとしないし。このまま独身じゃねえ」

 式場の写真の中に、正装した秀夫先生が写っていた。背筋をすっと伸ばして椅子に腰かけ、どこか冷めたような遠い眼差しをしている。他の招待客の中でも秀夫先生の秀麗な美貌は際立っていた。

 秀夫先生の写真が一枚でもいいから欲しいと、その時思った。このアルバイトをやめる日までに、どうしても欲しい。しかし、写真を撮らせて欲しいなどとは到底言い出せそうもない。

 帰り際、玄関で秀夫先生にいつものように「お疲れさまでした。さよなら」と言ってお辞儀をして顔を上げたら、秀夫先生とまともに目が合った。その瞳は以前に比して随分優しくなってきている気がする。

 先生の心の中にも私が、物語の中の人のような透明さで住みついていてほしい。思い出としていつまでも先生の記憶の中に残しておいて欲しい。少なくとも私は、秀夫先生のそばで仕事をお手伝いできた大切な日々を決して忘れることはない。


 その日は桂木隆司に用事があって、会うことができない日曜日だった。

 自分自身の決断が時間を動かしていく一人暮らしは、目標を失っていると何も進んでいかない。前期試験の勉強もしはじめなくてはいけないのだが、気乗りがせず部屋の掃除などをして時間をつぶしていた。

 誰にも会う予定がない日曜日。なんだか不安で落ち着かない。

 渋谷を歩いていた時何気なく受け取った『アトリエ飛行船』講習生募集のパンフレットをふと思い出した。パンフレットを鞄の中から探し出し、もう一度じっくりと目を通してみる。

 銀色の飛行船のような流線形をした建物のカラー写真が表紙に載っていた。油絵、日本画、染色、彫金、陶芸‥‥この中でも特にやってみたいのは陶芸だ。

 詩作と違って、脳細胞を苦しめずに体で表現できる創造芸術に打ち込めば、新しい生き方が開けてゆくような気がする。ロクロにも興味があった。回転しながら中心に澄んでいく感じは、どこか座禅か瞑想に近いと感じていた。

 とにかく心を平穏に保てるもの、無我の境地に至れるものを私は求めていたのだ。場所も井の頭公園のすぐ南側だから、上石神井から出ている路線バスで吉祥寺駅まで行けばすぐだ。バイト代をもう少し貯めれば、四万円弱の入学金もなんとかなるだろう。近いうちに始めたい。この停滞した日常を打開するために。

 下宿で燻っていても埒があかないので、高田馬場の芳林堂かビブロスまで行ってみようと思い電車に乗った。電車は混雑していて座席には座れなかった。混んだ電車に乗っているのはいつものことながら息苦しい。

 鷺宮駅で急行に乗り換える人がどっと電車を降りた。電車がガラガラになるとほっとして気が軽くなる。その時急に鷺宮教会に行ってみようかと思ったのは、単なる気紛れだったかもしれない。

 坂口美子がいつも日曜日には番町小学校近くにあるプロテスタント系の教会に通っていると言っていたのが記憶に残っていたせいもある。日曜日に教会に行くという生活がどんなものなのか少し興味もあった。

 私は鷺宮で電車を降りた。

 鷺宮の教会は駅からごく近いところにあった。家々の屋根から一際高く突き出た尖塔を目指して行けばすぐに分かる。日曜礼拝という札が掲げられているドアを押すともう礼拝が始まっていて、五十人ほどの男女が讃美歌を歌っている最中だった。

 世話係らしい若い男性が近づいて来てスリッパを出してくれた。

「初めての方ですね?」

「はい」

「差し支えありませんでしたら、こちらにお名前とご住所をお願いします」

 小さな紙に書き込みを済ませると、青年は聖書と讃美歌が載っている冊子を手渡し、私を席に案内した。

 説教壇のすぐ後ろには十字架上のキリストがやせた体をよじっていた。婦人たちは黒いレースの布を頭にかけていた。ざっと見渡しても若い人は少なく、クリーム色のTシャツに膝小僧の見えるデニムのミニスカートの私は、どうも場違いに思われた。しかもTシャツには獰猛そうな虎の絵なんかがプリントされている。

 讃美歌はそうは難しくはない歌だったが、すぐに一緒に歌うことは出来ず、口をつぐんだまま音符を目で追うぐらいしかできなかった。

 讃美歌が終わり説教が始まる。牧師は眼鏡をかけた初老の人だった。

「‥‥神さまは、イエス・キリストをこの地球につかわし、十字架によって私たちに永遠の世界にはばたく救いの道を開いてくださいました。最大の宿敵はすでに打ち負かされました。死にさえ勝つことのできる私たちは、絶対の希望を持っています。どんな行き詰まりにも、どんな貧しさにも失望してはなりません。どんな病気にも、どんなトラブルにもあわてたり、諦めたりしてはなりません。死に際してさえ最終的に勝つことができる救いを与えてくださった神さまは、かならずどんな問題にも解決を与えてくださいます。‥・子どもが悩むとき、お母さんも悩みます。しかしお母さんは明るい笑いや歌声をなくしてはなりません。そうでないと子どもは立ち上がれません。パッと明るい、あたたかな復活の春が来る。必ず春が来ることを信じて、お父さんは堂々としていなくてはなりません。確かな希望を抱いて、笑いのある家庭を築いていってください‥‥」

 牧師の説教が一通り済むと、役員らしき人たちが長い棒の先に黒い袋がくくりつけられたものをどこからか取り出し、皆の間を回り始めた。人々はその袋の中にチャリンチャリンとお金を入れていく。これが献金と言うやつか。皆は一体いくら入れているのだろうと思いながら、回って来た袋に百円玉を投げ入れた。

 礼拝が終わったのは昼近かった。高校の旧体育館にあったような古びた木製の長椅子から立ち上がると、おしりや腰が痛かった。

 皆の後について帰ろうとすると、戸口にいた世話係の青年が私をみつけ、

「よろしかったらまた来週もいらしてください。お待ちしています」

と言って微笑んで頭を下げた。

「はい。今日はありがとうございました」

 そう言いながらも、ただの冷やかしで来ただけだったことに少し後ろめたさを感じていた。

 もし本当に神がいたら、そんな気持ちもお見通しなのだろうか。不真面目な遊び心で教会になんか来るなと、何か天罰でも下されそうだ。

 役員の青年のスーツを着た穏やかなたたずまいは、どこか吉川清彦に似ていた。身長も同じくらいだ。きっと信心深い真面目ないい人なのだろう。もしこの青年と吉川清彦を、互いの信仰について議論させたらどんなことになってしまうのだろう。互いに譲らず、「違う」「違わない」を延々と言い続けるだろうか。そんなことを考えてついふっと笑ってしまった。私の微笑みにつられて、役員の青年も微笑み返してきた。

 ああ、ごめんなさい。今日は単なる冷やかしでした。もう来ることはないです。そう青年に心の中で詫びながら教会を出て、鷺宮の駅に向かった。


 私が信仰を持つということは当分は無いだろう。しかし宗教そのものを全面的に否定しようとまでは思っていない。宗教はすべての人間にとって最終的な可能性である。信じることで心穏やかになれるのなら、その信仰はその人にとって必要なものなのだ。

 今の私にはキリスト教は教養として以外の意味は持たない。英文学では旧約聖書の知識は必要不可欠なものであり、英米詩や米英小説の中核をなすテーマにもなっていることが多かったから、そういった意味で時々旧約聖書を読んでみたりもする。アダムとイブの話に矛盾があるとか、別に深く考えもしない。そもそも聖書は矛盾をあげつらうための具ではない。

 宗教に救いを求める必要を感じていない今の私は、十分に幸福に生きているということなのだろう。誰にもできないような深い恋もしているし、勉強も今のところ破綻はない。健康もまあまあ取り戻した。他の学生たちから見たら充実した羨ましいような生活だろう。

 それでもそういう幸福の陰では、一人でいる時の孤独感をまだ完全に制御することができず、下宿にじっとしていられないでこうして無意味に教会に行ってしまったりする心の弱さを密かに苦しんでいた。

 桂木との交際でひどく悩み傷つくこともあったし、実際お互いに拗ねたり小さな諍いをしたりして、勢いで「別れよう」と言ってしまうこともたびたびあった。まだ若い私たちがそうは大人びた恋愛に落ちつけるわけもない。

「私たちがもっと大人でいろんな経験をしていたなら、こんなことで悩んだりケンカしたりしないんだろうね」

と私が桂木に言うと、彼は、

「悩むことも貴重な経験さ。今だからこそ悩めるんだよ。俺たちには悩むことも必要なんだよ」

と答えた。そうではあっても、目下のケンカの原因は、私が伊豆への旅行に行くか行かないかの返事を渋っていることにあって、そのことが話題になるたびに、桂木は「俺のことを信用できないのかよ」と怒りをぶつけてくる。

 私がもっと大人だったなら、こんな問題、軽々とクリアしていったのだろう。だけど、女性にとってそれは、人生を変えるような重大事なのだ。軽々しくは答えられない。



 文学部の門を出たあたりでは、よく早稲田学生会発行の手書きのアルバイト新聞が配られていた。B5サイズのその用紙の裏表にはびっしりとアルバイトの内容と連絡先が書いてあり、その気があるのなら結構面白い仕事を探しだす事もできた。しかしたいがいの者はちらしを受け取りざっと目を通すとすぐにゴミ箱に捨ててしまう。早稲田生であれば、家庭教師などの割りのいいアルバイトをしている者も多かったろう。

 『一流企業に行って高級陶器の説明をして販売する』『女性下着の出入荷手伝い』『ワッペンを作る』『月刊誌の原稿を取りに行く』『道路に白線を引く手伝い』『防塵防毒マスクを作る手伝い』『京王プラザホテルのサウナ風呂の掃除』‥‥赤紫の文字が日光の眩しさの中でギラギラと跳ね飛んでいる。こうしたちらしを読むことは、探す本もなくぶらつく書店に似ている。本当の探し物など見つかりはしないのに、習性のように目は文字を追ってしまう。

 『法務局へ行って名簿を閲覧する、時間自由、時給600円』‥‥これなら授業の空き時間で出来るかもしれないと思い、文学部の門のそばにある電話ボックスから電話をしてみたが、やはりもう既に決まった後だった。これだけの学生にばらまかれるのだ。鵜の目鷹の目で狙っている者を出し抜いて、良い条件のアルバイトを手に入れるのは至難の技だ。

 なにか面白いこととか新しいことが、うまいことそこら辺に転がっていないだろうか。飽き飽きする程探し回って、途中でどうでもよくなって、また思い返して探し回る。学生はそんなことの繰り返しなのだろう。


 夜、桂木から電話があった。アルバイトのことや、兄の結婚問題で実家がすったもんだしていること、前期試験の勉強のこととかを普通に話していたら、彼は急に黙り込んでしまった。溝が出来てしまったみたいだ、と言う。当たり障りのないことばかり話していると間隙を感ずると言う。一体彼は私に何を求めているのか。そっちから電話をかけて来たくせに勝手に黙り込むなんて。私は腹をたてて電話を切ってしまった。このところこんなことばかりだ。

 翌日の五限の英米詩の授業前に桂木と会った。書道史をサボるから一緒に授業をサボれと言う。私は授業に出たかったのだが、仕方なくパスして穴八幡で話し合った。そこでもお互いを傷つけるようなことばかり言って、険悪になっていった。

 夕陽も沈み次第に夜になっていく。もう七時半も過ぎ穴八幡に人影はなくあたりはすっかり闇に沈んでいる。彼は長い沈黙のあと、すっとベンチを立って真っ暗な階段の方に歩いていった。

 私は胸をざわつかせながら、彼のあとをついていった。階段の途中で立ち止まった彼に、闇の中できつく抱き締められた。私のTシャツの裾から彼の手が入り込み素肌を激しく愛撫してくる。あっと思ったが、その手を外すことはできなかった。

 たわむれのように繰り返されるキス。抱き合いながら互いの心臓の鼓動が高鳴っているのを感じていた。途中、犬の散歩のおばさんがそばを通り、私たちは取り繕うように体を離したが、おばさんが去るとまた激しく身を寄せ合った。

 彼の掌が裸の胸にまで滑り込んできて熱く撫でさすっている。何度もキスした唇が燃えるようだ。長い長い時間がたったように思った。私たちはおずおずと体を離し、穴八幡の階段をよろめくように降りていき、手をつないで駅まで歩いていった。私は何もしゃべれなくなっていた。彼はいつものように授業のことなどをしゃべっている。

「黙っていると、なんだか悪いことでもしたみたいな感じになっちゃうだろ?」

でも私はうつむきながら一言も声を出せなかった。

 下宿に帰っても、体を愛撫する彼の掌の記憶で身動きできなかった。どんどん彼が私を侵食してくる。それをもう拒めない自分を感じていた。そうして私たちはいつのまにか仲直りをしているのだ。


 桂木との交際にどんどん体の触れ合いが付け加わってくるのを感じていた。恋人になったのだから、至極当然の流れではあったが、それを桂木と一緒にどう受け止め、どう進み乗り越えていくか、そんなことをとうとう話し合う時が来たのだと思った。

 桂木と一緒に出た授業中、今週の土曜日あたり奥多摩湖にドライブしに行こうという話になった。

「五日後? 日帰りだよね?」

「もちろん」

「なら、行く。そのあたりなら体の具合もよくなってるし」

「えっ? 今どっか具合悪いの?」

「あ、うん。えーとね‥‥女性としての周期的な体調の変化」

「ああ、そうか‥‥。おまえ、今までそういうの感じさせなかったから、なんともないんだと思ってた」

「気付かせないように調子悪くても我慢してただけだよ。これからは言うからね。気を使ってよね。体に触られたくない日もあるんだからね」

「お、おう」

 彼はとまどったような照れたような顔になった。

 やっと言えた。ずっと隠してきた生理のことについて。知られたくはなかったが、これからセクシュアルな付き合いになっていくならば知っておいてほしい。恥ずかしくても大人の付き合いにしていくためにも、これは必要な理解だ。

 土曜日、私たちは奥多摩へ車で行った。

 普段私たちは、ほとんど電車で東京の中だけを巡っていたので、奥多摩は結構長距離のドライブだった。湖に渡されたドラム缶橋をユラユラさせて遊んだり、鳩ノ巣渓谷の河原を歩いたりした。

 よく晴れた気持ちのよい日だったが、観光客はほとんどいなかった。人目が無いのをいいことに、私たちは開けた石ころだらけの河原で抱き締め合ったりキスし合ったり体に触れ合ったりした。どこかで誰かに見られているのではないかと私はびくびくして落ち着かなかった。

 桂木の情熱に小さく抗いながらも、求めに精一杯応じようとしている自分。まだ応じているというだけで、自分から桂木を求めに行くという感じではなかった。けれどおずおずと彼の体に腕を回して、この恋する気持ちを形で表さなければいけないと思った。桂木は私を河原に横たえ、更に抱き締めてキスをした。石ころで背中が痛い河原では無くてやわらかなベッドだったなら、私はもっと大胆に桂木に抱きついたかもしれない。

 気持ちの高まりを感じていた。でもやはりその先に向かう事には迷いがあった。彼と伊豆に行くことになったらどうなってしまうのか。不安になって少し無口になってしまった。


 前期試験もぼちぼち始まっていた。英文学の臼井教授の授業は試験はなく、オーウェルの『1984』についての考察を原稿用紙10枚にまとめて夏休み後に提出する宿題が出た。「1984」は近未来のディストピアSF小説だ。日本語の文庫本も出ているから一度読んでおかないといけないだろう。

 臼井教授の授業は本部の政経学部近くの教室で行われていた。今学期の授業を終えて宮迫と一緒に教室から出た所で、鴻池雅也に出会った。そういえば彼は政経学部だった。

「あ、この教室で授業? 何の授業だったの?」

「英文学の演習です」

「ああ、そう。お昼ごはん、僕まだなんだけど‥‥」

鴻池がそう言い出したけれど、その先を言わせずに、

「じゃ、次の授業の準備ありますので。さよなら」

と言って彼の前を立ち去った。

そばにいた宮迫典子は、

「ねえねえ、あの人とどんな関係?」

と聞いて来る。

「二年の体育の弓道で一緒だっただけの人だよ。何の関係もないよ」

 そう答えて肩をすくめる。もう男子に声をかけられることに飽き飽きした。

 私は桂木と体を巻き込んだ付き合いをしていることで、少年っぽさが消え、どこか大人の女性らしさが見え隠れしはじめたのだろう。試験シーズンになると、なぜか他学部の男子数人に声をかけられる。私が試験を終えて大教室を出るのを見計らい、急いで後を追ってきて「あの、このあとお時間ありますか」とか。

 私はお化粧もするようになったし、時々シックなワンピースを着たり、胸や肩の露出の多い服も着るようになっていた。体の線が出るタイトなスカートをはくこともあった。駅のホームや電車の中で男性の目を感じることもあり、私はある種、人目を引く女になっていたのかもしれない。

 去年の後半ぐらいからそれを頻繁に感じるようになっていた。以前はただ煩わしく怖いとばかり思っていたが、最近は馴れてしまい、心密かに楽しんでいる自分もいないではなかった。

 しかし、いい気になって皆にいい顔を見せているわけにもいかない。私は声をかけてくるすべての男子に条件反射的な微笑みを向けつつもすぐに取り付く島もなくつれなく振っていたから、いつか誰かの恨みを買ってナイフで刺されてしまうんじゃないかと、諧謔を込めてちらっと思ってみたりする。

 英米詩の試験はイギリス詩人コールリジの「老水夫行」から出た。超自然を扱った象徴詩だ。面白い授業だったので内容も印象深く頭に残っていて、試験も大体できたように思う。

 数日後には、ドイツ語の試験があった。四問のうち三問は出来た。あとの一問に苦しみながらなんとか解答し、試験会場を出た。前の晩からひどく胃が痛み始めていて、試験を受けるのがやっとだった。

 しばらくやめていた緑色の苦い薬を冷水器の水飲み場で、あおるように飲む。このところまた胃腸に不穏な痛みや吐き気をしばしば感じるようになっていた。病気が再発したのかもしれないと思い、気が塞ぐ。夏休みに実家に帰ったら一度検査を受けなくてはならないだろう。桂木との旅行を決定するのはその検査結果をみてからだ。



 前期試験もあと一、二残っている程度で、それが済めばもう各自の裁量で夏休みだ。私と桂木は試験の合間に、入谷の朝顔市とか浅草寺のほうずき市、京王百花苑、堀切菖蒲園などに次々と出かけた。私が帰省する日を引き伸ばそうとして、あるいは私が帰省すると言い出すきっかけを与えないように。

 日盛りの夏の暑い日、出かけた後の帰りの電車の中で、私たちは疲れたように黙り合い、ふと互いに黙っていることに気付くと、もう私たちには時間が無いというように無理に話題を探して、虚しくその場限りの笑いで駅までの時間を取り繕った。

 去年の夏休み前は「手紙を出すからね」と言い合って、あっさりと別れることが出来たのに、今年はとてもそんな風には別れられなかった。試験をすべて終えても、なかなか帰省できなかった。それは彼の希望でもあったし、私の決断でもあった。帰省しても確かにやることはあまりないし、楽しくもなかったから。ただ今年は八月に宇都宮の郷土資料館でのアルバイトをすることに決めていたから、一か月はどうしても帰ることになる。

 ある夜、桂木から電話がかかってきた。とりとめもつかない馬鹿話の後は、必ず私の帰省と旅行の話になってしまう。桂木にとって私の帰省は単に今回の夏休みの帰省にとどまらず、卒業後の最終的な帰省にまで拡大解釈されているようだった。それに旅行‥‥それは私たちの交際が大きな転換期を迎えるということを意味していた。

「どうしても帰るのか?」

「‥‥うん。七月の終わりごろには帰省する。八月からバイトも決まってるし」

「俺としては、バイトなんかやめてずっと東京にいてほしい。もっといろんなとこに一緒に行きたいし、話をしなくちゃならないことも沢山ある」

「隆司と一緒にいたいのは山々だけど、両親も私が帰ってくるの待ってるし、やっぱり帰るよ。その代わりできるだけ早く戻ってくる」

「旅行のこと、真面目に考えてくれているか? 伊豆あたりならそんなに遠くないし、来いよ、絶対に。俺は本気だから」

彼は珍しく断固とした強い調子で言った。

「考えてるけど‥‥今すぐには返事できないよ。少し待ってほしい」

「俺のことまだ信用できないのか? すべてを任せられないのか?」

畳みかけるような彼の問い。その強い目の光さえ遠くから私を貫いてくるようだ。

「そういうんじゃなくて‥‥まだ私はちゃんと一人でも生きていける自信がないんだよ。いつでも逃げ帰ってしまいそうな自分がいて、こんな気持ちのままじゃ駄目な気がして‥‥」

 声も尻すぼみになる。一切の力を抜いて流れに身を任せるということは簡単そうでいて、その実一番難しいことだ。後ろ向きに背中から倒れてゆくことが怖いのと同じように。

「俺はそのままのおまえでいいんだ。生きる自信なんて俺にだって無いよ。自信があったとしたら、こんなにおまえを求めはしないよ。おまえだってそうだろう? 強いばっかりだったら誰のことも求めなかったはずだ。俺たちはお互いの弱さも認め合って付き合ってるんじゃないのか?」

 桂木は低い声で感情を押さえようとしながらそう言った。私は受話器を握り変えて、慎重に言葉を探した。

「隆司のことは本気で思ってるけど‥‥だけど旅行のことはすごく真剣に考えなくてはいけないことだと思う。たぶん旅行に行ったらもう後戻りはできないし‥‥そこまで深く付き合って、何かあって別れるなんてことになったら、どうしよう。死にたくなっちゃうぐらいつらいよ」

「旅行に行かなくたって、俺の気持ちはもう後戻りできないさ。それに俺から別れを切り出すことは絶対に無いから。卒業後もおまえがこっちに残ってくれるなら、俺がずっとサポートしてやる。今はまだ結婚の約束はしてやれないけど、必ず一緒にいる」

「うん‥‥ありがとう。そうだね。あんまり先のこと考えて悩んでてもおかしいよね。旅行のことは‥‥後で手紙で必ず返事する」

「おまえが軽々しく男と旅行に行ける女じゃないことぐらい分かってる。だからこそおまえがOKと言った時、それは何よりも本物の気持ちだと思う。‥‥今すぐに決めなくてもいい。帰省した後じっくり考えて、手紙で気持ちを知らせてくれ。もし駄目だったとしても、おまえのこと嫌いになったりはしないから。脅迫まがいのこと言って、無理やり連れていくことはしない。あくまでもおまえの自由意思だ」

「うん」

 少し沈黙があった。隣の部屋の商学部の人が珍しく早く帰ってきて、玄関のドアを鍵でガチャガチャ開けている。彼女はゆっくり階段を上がってくると、そこで電話をかけている私に「こんばんは」と低い声で挨拶し軽く頭を下げた。私も小さく微笑んで頷き返す。彼女が部屋に入ってしまうまで、桂木は待っているかのように黙っていた。

「‥‥あさって、帰省するんだよな。何時ごろ?」

「まだ決めてない。お昼近くかな」

「明日は昼間は家の用事があって駄目だけど、夕方ならそっちに行けるかもしれない。兼子んちに泊まるっていうことにするから」

「泊まる?」

「せめておまえが帰る前の晩くらい一緒にいたい」

「えっ? うん‥でも‥‥どこに泊まるの?」

「車の中」

「ええー? 車の中? そんなの初めて」

「俺だって初めてだよ。おまわりにつかまるかな」

「なんかやばいかも。見回りに来てみつかったら、なんて言えばいいの? でもつかまってみるのもちょっと面白いか」

「じゃ、明日、五時に下宿の前のところで」

 電話を切ると、急に胸がドキドキしてきた。車の中で二人で一夜を明かす。そんなことが出来るのだろうか。彼の車はとても小さいし‥‥。二人身を寄せ合って寝ていたら、誰かに見られないだろうか。本当におまわりさんに何か言われてしまうかも。

 下宿の窓から一つだけ見えたかすかな星を見ながら、夏の夜の遠いざわめきを感じていた。恋をするって本当に気持ちがジェットコースター。また今日も眠れそうにない。


 翌日は朝から真夏の太陽が激しく家々の屋根を焼き、蝉の声も遠くで数を増やして、部屋の中にいてさえも夏は赤い舌を容赦なく差し入れてきた。歯科医院のアルバイトももう終わりにしてもらっていたし、部屋の片づけや帰省のための簡単な荷造りを終えると、後はもうすることが無い。夕方、桂木が来るということで頭が一杯で、落ち着いて狭い下宿の部屋の中で過ごすことができなかった。

 私は強烈な暑さの中、下宿を飛び出して西武線の方に歩いていった。どこに行く当ても無かったが、駅近くの商店街をぶらついていれば時間がつぶれるような気がしたのだ。

 道すがら本屋を二軒覗いて何冊かの文庫本を立ち読みした。文房具屋でたいして要りもしないボールペンを一本買った。駅前の小さなパン屋で昼食用のサンドイッチを買った。

 ここのパン屋は五十歳過ぎくらいの髪を引っ詰めにした小柄な母親と、三十歳くらいの目つきの暗い感じのする息子とでやっている。ボリュームのあるタマゴサラダとポテトサラダのサンドイッチがおいしい。私が入っていくと店の奥からたいがい二人のうちどちらかが汚れた白衣を着ながら「いらっしゃい」と言って出て来た。

 息子の方が出てくると私はいつも緊張してしまう。母親に似ず背が高く、いかにも職人風の厳しい風貌をしていて、刺し貫いてくるような強い眼差しを向けて来る。

 私がいつもバイト終わりの夜八時近くに、いくつかサンドイッチを買っていくのをどう思っていたのだろう。たいがいは翌朝用だったが、たまに疲れている時などそのサンドイッチだけで夜ご飯を済ませてしまうこともあった。食事にいい加減な女子大生とでも思っていただろうか。

 その日は愛想のいい母親の方が出て来たので、私はほっとしてゆっくりとサンドイッチを選んだ。しかしあの薄汚れた白衣だけはやめたほうがいい。衛生状態に疑いを持ってしまう。

 パン屋を出た後、西友ストアに入り、冷房で涼みながら二階の衣料品売り場をぶらついた。電車が今しがた駅に着いたらしく、衣料品売り場の入り口の方からどっとひとかたまりの人がなだれ込んでくる。たいして気にもせず売り場を歩いていると、突然後ろから、

「もしもし」

と声をかけられた。振り向くとそこにいたのは長池和也だった。

 一瞬、言葉が出なかった。あのことがあってから図書館に行くのを避けていたから、もうずっと会わずに済んでいたのに、こんなところでまた会ってしまうなんて。あの時のようにまた私の後をつけてきたのだろうか。

「お買い物ですか?」

 長池は屈託のない笑顔を私に向けた。まるで普通の友だちみたいに。白のTシャツにジーンズ姿で、片手には薄い皮の鞄を抱えていた。

「まだ帰省されてなかったんですね」

 私はどういう態度で接したらいいのか迷った。一度交際を断った相手だし、良い顔を見せたらまたつきまとわれてしまうかもしれない。できるだけ慇懃無礼に、少し冷たいぐらいに‥‥そう心に言い聞かせながら返事をした。

「明日帰省する予定です」

「そうですか。これからお買い物されるんですか?」

「いえ、ただぶらぶらしていただけで、もう帰ろうと思ってました」

「じゃあ、あなたの下宿の近くまでご一緒しても良いですか? ほんの十分くらい‥‥実はこう見えても、僕、すごく落ち込んでるんです」

 どうしようかと素早く考えた。途中までなら‥‥そう結論したのは、桂木と過ごす今夜のことを思って心が落ち着かず、私もまたなんとなく疲れて落ち込んでいるような気分になっていたからだ。

「何かあったんですか?」

「‥‥歩きながらお話しましょう」

私は下宿に戻る道筋を長池と一緒に歩き始めた。

「今日はまた、くそ暑いですね。どうも夏は苦手で‥‥」

「‥‥今日は大学にいらしたんですか?」

「ええ、大学の図書館に少しいました。後はちょっとパチンコに」

「パチンコですか。司法試験の二次試験の方は‥‥?」

長池は少し口ごもって、大袈裟に空を見上げる仕草をした。

「実は今年は駄目だったんです。論文でしくじってしまいました」

「ああ‥‥そうだったんですか。論文が‥‥」

「ま、来年また頑張るしかないですね。落ち込んでても仕方ないですから。とは言っても相当なショックではありますが」

長池はわざと明るい声で言ったが、やはり目に力が無く不安定に視線は彷徨っていた。

「‥‥残念でしたね。この一年随分頑張られたんでしょうに」

 思いがけずすんなりとそんな言葉が出た。長池のせいであんなに怖くて不安な夜を過ごしたというのに。暑すぎる夏のぎらぎらとした真昼だったせいかもしれない。

「いや、僕の見通しが甘かっただけですよ。もっと努力している人がいるということですから。駄目と分かった日には‥‥こんなことあなたに言っちゃっていいのかな? その夜はやけ酒を食らって、いわゆる風俗営業の店に飛び込んでしまいました」

 長池は自嘲したような笑いを口元に浮かべて、ちらりとうかがうように私を見た。家を勘当同然で飛び出してきた人だ。この試験に受からなければ故郷にも大手を振って帰れないという切羽詰まった気持ちであるに違いない。二度目の挑戦だったと聞いた。『風俗営業』に慰めを求めに行かざるを得なかった長池の気持ちも分かるような気がした。

 長池はしばらく黙っていた。ゆっくりと歩きながら私も黙っていた。アスファルトが真っ白に焼けて、ローファーの靴底もべたついてくるようだ。

「それはそうと僕、今度アパートを代わったんです。前の東伏見のアパートね、ちょっとおかしい奴が隣に住んでて、こっちまでおかしくなりそうだったから、ずっとアパート探してたんですよ。その人、若い男性なんだけど、なにかにつけドアをバタンバタンって叩きつけるように開け閉めするんです。別に出入りしているわけじゃなくてただドアだけをバタンバタンって。ノイローゼとかなんじゃないかな。もう気になって気になって、僕までおかしくなりそうで」

「ああ、それは気になりますね。隣の部屋にいるのはきつかったでしょう」

「そうなんです。それでずっとアパート探してて。そしたらちょうど上石神井にいいアパートが見つかったもので、すぐに決めちゃいました。あなたにも場所を教えておきますよ。あなたの下宿の近くです」 

 急に長池はそんなことを言った。ぼんやりしていた私は、『あなたの下宿の近く』という言葉にはっと覚醒した。

「えっ? 近く? どの辺なんですか?」

「あなたの下宿は、何でも屋みたいな文房具屋の向こう側の道を入っていくんですよね。僕のアパートは、その文房具屋の手前の道を入ってすぐのところです」

「それは‥・すごく近くですね」

そんな近くとは‥‥危険な感じがする。本当に目と鼻の先だ。そこに私への執着があるのではないかと勘繰った。

「たまたまですよ。僕もこの場所を探してみて驚いたんです。これも何かの縁かと思ってすぐに決めちゃいました。これから会う機会も何度かはあると思いますのでよろしく」

「‥‥びっくりしました。どう言ったらいいのか‥‥」

「ただそこに住んでるっていうだけで、別にあなたにつきまとって困らせたりするようなことはありませんからご心配なく。でも何か僕でお助けできるようなことがありましたら遠慮なく声をかけてください。僕はもうあなたの彼氏と張り合うつもりはありませんから」

長池はもう微笑みもせずに真面目な顔で言った。

「‥‥この前、あなたと彼氏が武蔵関公園にいるところを見ました。‥六月の半ば頃の夕方です‥」

それはたぶん、桂木が奈良から帰ってきてお土産を渡してくれた日だ。

「彼氏、なかなかの二枚目じゃないですか。なんか仲良さそうで羨ましかった。ああ、覗き見るつもりはなかったんですが、あなたがいる、と思ったら目が離せなくなってしまいました。すみません」

「‥やだ、ずっと見てたんですか?」

「はい」

 では、桂木との抱擁とキスも‥。キスしている顔を長池に見られてしまった‥。顔が赤くなって汗が噴き出してきた。長池もばつが悪い顔になって視線をはずした。私は恥ずかしさで思わず速足になった。私、桂木に抱き締められてどんな顔をしていた‥? 

「あ、僕のアパート、ここです」

 長池が立ち止まって指差した二階建てのアパート。そういえば最近まで改築工事をしていたっけ。以前そこはもっと古びたアパートだった。私の下宿の台所の小さな窓から、そのアパートの窓が半分くらい見えていて、夏などに窓を開け放していたりすると設計の図面引きをしている男子学生が見えたりした。その学生はクラシックギターで『アルハンブラの思い出』をよく弾いていた。その人が弾き始めると、私は台所の窓のところに立って、耳を澄ましてしばらく聞きほれていた。

「ここですかあ。本当に近い‥‥」

「ねっ? ここの二階です。よろしく」

ああ、ほとんどあの設計の学生が住んでいた位置。

 長池は悪戯っぽく笑った。もう引っ越してきてしまったというなら、ここで何を言っても仕方あるまい。

「計画犯ですね。でも私、ほんとにあなたとお付き合いするつもりはありませんから」

「分かってますよ。僕ってそんなに危険な男に見えますか?」

おどけたような彼の言い方に思わずくすっと笑ってしまった。

「あ、やっと笑ってくれた。その顔を見たかったんですよ。いつ見てもいいなあ。あなたの笑顔」

「おだてには乗りませんよ」

「本当ですよ。その笑顔が大好きなんです。じゃあ、約束ですからここで。気を付けて帰省してください。さよなら」

 長池は軽く手を振って、自分のアパートの方に道を折れていった。その後姿を見送りながら、長池が近くに住むことは私にとってどういう意味を持つようになるのか、ぼんやりと考えていた。

 もし、桂木と手ひどい破局をすることになったら、絶望のあまり見境なく長池の部屋に飛び込んでいって身を委ねて泣いてしまうかもしれない。そんなことをしてしまいかねない密接な距離。もし死にたいぐらいの絶望に駆られたら、自暴自棄になっていたら、そんな場面を考えて、ちょっと震えた。

 いや、そんなことは絶対に無い。桂木と別れることは絶対に無い。ここまでちゃんと自分の身を守ってきたのだから。どんなことがあっても自暴自棄になんか絶対にならない。そう自分に言い聞かせながら、自分の下宿の方に歩いていった。


 長池と別れて自分の下宿の玄関のドアを開け、二階に続く急な階段を上がりながらふうっと溜め息をついた。右隣の部屋の日本女子大の人はとっくに帰省してしまっているし、左隣の早稲田の商学部の人も、昼間寝て夕方専門学校に出かけるという生活のため、めったに顔を合わせることもない。

 大学とかアルバイトに自分から出かけてゆくのではない限り、誰とも会わず誰とも話さない一日になってしまうのが一人暮らしの下宿生活だ。それが怖いから用も無いのに無理やりのように出歩き、それでいつもくたくたに疲れていた。

 それでも桂木がいつも気にかけてくれていたから、なんとかやって来れたのかもしれない。高校の頃、一人でも絶対に大丈夫だと自分に対して過大な評価をしていたのは、家という生簀の中にいて、本当の孤独を知らなかったからだ。

 下宿の部屋にごろっと寝転がる。夕方までにはまだ大分時間があった。夜、車の中で桂木のそばでよく眠れるはずがないのだから、今のうちに昼寝でもしておこうと思った。蝉の声がしみるように聞こえる。蝉の声よりも胸の中の鼓動の速さの方が気になった。落ち着かない。

パスカルの『パンセ』にこう書いてある。

『愛は最も危険な慰戯である。恐怖と不安は、自覚的な生、絶えず自己に還る生にとって常態である』

 自覚的な生。確かに私は今まさに自覚的な生を生きていた。自分が自分でしかありえないという恐怖。その恐怖から逃れるためにむやみに仲間を探し求めて、面白くも無い遊びにも首を突っ込み、いつもさまよい歩いていた。だが気付けば思考はいつも自己に還ってしまっている。

 このどうすることも出来ない自己。桂木の胸の中でなら自己の名を失くすことができるのだろうか。愛は自我を溶かすことができるだろうか。

 桂木との二人きりの旅行に、おそらく私は行くことになるのだろう。自己が壊れ果てた後に何が残るかを見てみたいという自虐的な気持ちから。たぶん桂木は私が壊れないようにしっかりと抱き留めようとしてくれるだろう。桂木の腕の中で砕け散ることが出来るなら‥‥それもまた幸せなことかもしれない。


 四時ごろ桂木から電話があった。家の用事が長引いて、上石神井に来るのが八時過ぎになりそうだという。

「うん。八時過ぎね」

そう明るく言いながらも、その間どう過ごそうかもう迷っている。

 早めにお風呂屋さんに行こうとして、玄関を出てふと玄関わきのポストを覗いたら、私宛の分厚い封書が入っていた。住所の記載は無く、差出人は星野鉄郎となっている。そんな名前の知り合いはいない。そもそも「銀河鉄道999」の星野鉄郎? 

 その封書の分厚さに訝しく首をかしげながら、急いで封を破いて読んでみると、それは宗教に関する論文のようなものだった。レポート用紙十枚ぐらいにびっしりと手書きで綴られている。仏教、キリスト教、テレパシーや予知能力、UFOについてまで言及した挙句、『僕はこのようにして悟りの境地に至った』と締めくくっている。

 変な手紙だ。その小さめで可愛い字は吉川清彦の字と似ている様な気がして、何度も読み返してみた。だが文面のどこにも『歎異抄研究会』とか『親鸞上人』、『絶対の幸福』などというおなじみの文字が無いばかりか、仏教に対して否定的な態度をとっている様子からして、たぶん吉川清彦とは関係ない。

 私の住所を知っているのはO組の人とか歎異抄研究会の人ぐらいしかいない。そのどちらか由来の手紙だろうか。なぜ私にこのような封書が送られてきたのか意味が分からない。    私にどうしてほしいとかの指示があるでもない。あなたにもこの悟りを得て欲しいから、何々に参加してほしい、とかいうでもなく突然手紙は終了している。

 謎だ、謎だ、と思いながら、手紙をしまってお風呂屋さんに向かった。この謎は今でも解けていない。


 お風呂屋さんから戻ってすぐに、また夕方の散歩に出た。もう日も沈み、西の空に薄赤い色が残っているだけである。上石神井中学校横の畑には、名前は知らないが赤紫の花が大きなかたまりになって群れ咲いている。なまめかしい花の色だ。それにどこかふやけた生暖かい風。少し頭痛がして、夕闇もいつもより早く訪れたように感じる。

 真っ暗な墓地に差し掛かった時、不意に路地から淡い薄桃色の光が揺れて現れた。はっとしてサンダル履きの歩調をゆるめると、それは提灯をぶら下げた四、五人の子どもたちの一団だった。闇の中で提灯の光は、遠い日に見た幻のように柔らかく、まどろみに近い色をしていた。パタパタとズック靴の足音を立てながら子どもたちはゆっくりと石神井川の方に向っていく。擦れ違った時、微かな線香の匂いがした。

 振り返ったらもう子どもたちが消え去っているような気がして、背中で気配を感じ取ろうとしながら、頼りないふわふわした気持ちで踏切の方へ歩いていった。


 八時近くになって下宿に戻り、桂木の車のホーンを待った。よく晴れた暑い夜だ。外で夜じゅう過ごしても寒いということは無いだろう。窓際に腰を下ろして、疲れた目を閉じていた。神経が高ぶっていて全身が脈打っている。

 どういう夜になるのだろう。何を話したらいいのだろう。洗い髪がほのかにシャンプーの香りを発している。また、いい香りだ、と言ってもらえるだろうか。

 時計の針がちょうど八時を示した。それと同時にどこかとても近いところで打ち上げ花火がドーンと地響きのような音を立てた。びくっとして窓から空を見上げる。北の方に消えて行こうとする花火の雫が筋を引いて落ちていくのが見えた。

 東京で打ち上げ花火を見るのは初めてだ。毎年ここではこの時期に打ち上げ花火をしているのかもしれないが、去年もおととしも帰省していたから、見ることがなかった。

 窓から身を乗り出して次の花火を待っていたが、すぐに桂木の車が軽いエンジン音をさせながら下宿前に止まるのが見えた。私は下宿の明かりを消すと外に飛び出していった。

「今、花火が上がったんだよ」

「うん。車から見えた。団地の方だった。見に行こうか」

桂木は眼鏡をかけたまま真面目な顔で私を見上げ、車を道の端へと移動させた。

「来てくれてありがとう」

「用事でおそくなっちまってすまない」

石神井川の無名橋まで二人で歩いていき、橋の上で花火を待った。

「家の方、大丈夫?」

「うん。兼子の下宿に泊まりに行ってることになってる。おまえは? 夕飯はちゃんと食べたか?」

「うん。なんだか夕方から待ちくたびれちゃった」

 花火がもう一発上がった。本当にごく近くらしくほとんど私たちの頭上で巨大な白い花を咲かせた。そのすぐ後に体まで震えるような爆発音。

「うわあ。こんな近くで見る花火、初めて」

「いつか多摩川の花火を見せてやりたいな。もっと立て続けにでかいやつが上がるんだ。八月の半ばごろだから、おまえがいつも帰省している頃なんだ」

「多摩川の花火か‥‥いつか見てみたいな」

 こんな夜に二人で花火を見ていることが何故か不思議だった。学校帰りに遅くなって駅まで二人で歩く早稲田の夜道ではなく、彼が家に帰らずずっと一緒にいてくれる夜。

 花火を見に外に出て来る人もちらほらいるが、この橋のあたりには誰もいない。団地の窓から顔を出していた人も、しばらく待ってもなかなか次の花火が打ち上らないのに業を煮やして首を引っ込めてしまった。

桂木は橋の手摺に両腕を預けて、私の方を向いた。

「まだ、夜が怖いか?」

彼の背後には真っ暗な夜が迫っていた。団地の明かりも届かないこの小さな橋の上で、さっきから彼の肩にそっとすがりたかった。

「‥‥怖いのは、夜だけじゃないよ」

桂木は少し笑うとそのまま夜空を見上げた。

花火は、四、五発上がると、それっきりもう終わってしまった。

「なあーんだ。これでもうおしまいか」

 そう二人で笑い合いながら、そのまま駅前の方まで歩いていった。

 私たちが上石神井で会う時によく利用する、船室を模した『キャビン』という名前の喫茶店に行き、そこで彼が持ってきた写真を見た。京王百花苑、奥多摩、後楽園、帝釈天、堀切菖蒲園、水元公園。七月は随分いろんなところに出かけた。去年の写真と違うのは、自然に寄り添えるようになったことだ。

「こんな写真、親に見せたら一騒動だろうね」

「おまえ、家を追い出されるかも。ふしだらですっなんつってな」

「隆司だって、良家の子女をたぶらかした罪!」

「だーれが、良家の子女だ」

写真の中の私は幸福そうに微笑んでいる。これが私の真実の顔なのだろうか。


 夜も遅くなってから、上石神井中学校南の細道に車をとめた。人通りも無く寂しい道だ。道は暗い林に接していて、薄暗い街灯が一つあるだけだ。

桂木は眼鏡をはずすと、シートに凭れて伸びをした。

「俺っておまえに無理な事ばっかり言ってるよな。こんな風に夜泊まるのだって、旅行行くのだって。おまえは、おれのせいでどんどん変わっていってるよな。それでいいのか? 俺についてくるのが負担になってないか?」

「‥‥正直少しとまどうこともあるけど、全然負担じゃないよ。むしろどんどん変わっていきたいんだ。いろんなこと知って強くなりたい」

「おまえの純粋さが、東京の流れに不向きなことが分かっていながら、潔く帰っていいとも言えないんだ」

「今ここにいるのは私の意思なんだから、隆司が気にすることないよ」

「でも俺と会っている時以外の時間も、楽しんで過ごせたのか? 一人でいる時も?」

「一人でいる時は‥‥、なんとかやってるから大丈夫だよ。ものすごく散歩しちゃったりしているよ? あちこち出歩いてる」

「おまえが一人でいる時のことを考えると、かわいそうな気がして。きっと孤独をもてあまして、不安な気持ちでいるんじゃないかって。俺のためにこんなひどい都会に残れなんて、俺にはとても言えない。おまえにとって本当に安らげる場所は東京じゃないということは分かってるんだ」

 こんなひどい都会でもいつまでも俺のそばにいろ、卒業後も帰るな、そう命令してくれたなら、喜んで、はい、と返事をしていただろう。迷う気持ちが消えなくてもこの地で生きていく覚悟を固めただろう。しかし彼は最後の最後に、その優しさの故に、帰れ、と言いそうな気がする。

「大丈夫だよ。私はそんなに弱くないんだぞ? 逃げたくないんだ。卒業後もずっと東京にいるためにはどうしたらいいか、本気で考えてるから」

 私たちは街灯の薄暗い明かりに照らされた互いの顔を見つめた。彼が私に身を寄せてきて、軽いキスをした。

「好きだ。恵子」

と彼がささやく。

 黙って見つめ合って、私は小さくうなずく。不完全ながら桂木に体を求められている女としての自分を感じていた。触るぐらいまでなら許せる、と思った。少し呼吸が苦しくなった。

彼のてのひらや指が私の素肌を熱く撫でる。私もまた彼の隠された部分に触れる。心を裸にして互いを夢中で愛撫し続けた。今まで感じたことのない気持ちよさ。もっと抱き合いたい。桂木は男として、私は女として、互いを本気で求め合った。人通りが全く無いとはいえない小道に停めた車の中ではなかったなら、どうなっていたことだろう。

 体の鎧をはずし、受け入れ、踏み入り、互いの愛を深く感じ合う。今できるぎりぎりまで。私は初めて愛というものの原始的な意味を知ったような気がした。

 私たちは気持ちを高ぶらせたまま、長い間、互いの体に触れ合っていた。

 それから少しだけ体を離し、呼吸をおさめようと深呼吸しながら、ゆっくりと目を開いた。

 彼の方をちらっと見て、何か言わなくちゃと思いながらも、気のきいたことが何も言えずつい困ったような顔になってしまった。

「なんか恥ずかしい。すごく‥恥ずかしい」

「恥ずかしがるな。もう俺たちに秘密なんてないんだ」

彼は大真面目な顔で言う。

でも、彼のことをまともに見られず、片手で隠すように胸を押さえていた。

「もう今夜は眠れそうにないよ」

「俺もだ‥‥。ありがとう、恵子。うれしかった。精一杯してくれて」

 女ならだれでもいいわけじゃない、と彼は再三私に言ってきた。この体、私のこの体だけが桂木に男としての悦びをもたらすことができる。そして桂木のその体だけが私に女としての悦びを感じさせてくれる。それを、やっと初めて理解した。

 互いの上気した顔や、うるんだ目を見て、やっぱりどこか照れくさく、へへっと笑ったりしながらも、シートにもたれて眠ろうとした。ブラウスのボタンが外れているのを直そうとしながら、でも外れていた方がセクシーか、とか思いながら、上の二つのボタンはとめなかった。

 こうなることをどこか想定していたから私はTシャツではなくブラウスを着てきたのだ。そしてスカートをはいてきた。桂木に向かって心と体を開放している、これが今の私の精一杯の意思表示だった。心だけでなく体までも、もう彼の手の中にあった。引き返すことができないくらい彼に恋していた。いつから?、と訊かれても分からない。たぶんキスするよりもずっと前から。

 眠れないままに旅行についてまた少し話をした。「返事はもう少し待って」と言いながらも、ここまで許してしまったのなら、もういいのかなという思いも生じていた。

 その後、下宿からもちこんできていた毛布をかぶり、桂木から体を隠してちゃんと眠ろうとした。

 夜明け、街灯がふっと消えたのを見た。鳴いている夏虫たちは明るさを感じて、つかのま声を高く上げている。鳥も目覚めてさえずりはじめた。

 白い霧の朝だった。藍色の景色が水色へと溶けていく。眠れずに黙って朝に移りゆく時間を漂っていた。

 桂木は顔を向こう側にかしげて、うとうととまどろんでいるようだった。夜中、どちらかが身動ぎをする度に顔を見合わせ、「眠れない」と苦笑しながら言い合った。誰が通るか分からない道端で、シートを倒して無防備に眠るわけにもいかず、私たちはいつでも取り繕える姿勢で、窮屈そうにシートに凭れていた。

そして、やっと朝。

桂木はシートから背を立てると、疲れたように目をこすった。

「夢を見たよ。おまえが坂口さんと一緒にドリーム号っていう電車に乗って、どこかへ行ってしまう夢だ」

「ドリーム号? ちょっとメルヘンだね。だけど、私、そんな電車、絶対乗らないから」

くすっと笑う私を、桂木は真顔で見返した。

「おまえ、一夜を男と共にしたんだからな」

「えっ? これってやっぱり一夜を共にしたって言えるのかな?」

「言えるんじゃないの? 一応」

「うわー、すごーい。二十一歳、小島恵子、初めて男と一夜を共にしました!」

桂木は愉快そうに白い歯を見せて笑った。

「向こうに帰ったら、体に気を付けて、バイト頑張れよ」

「うん。隆司もね。すぐに手紙書くから。一か月で帰ってくる」

「できるだけ早く帰ってこい」

 桂木は一瞬強く私を抱き締めると、ゆっくりとエンジンをふかし下宿前まで車を走らせた。彼は私が車から下りると、くっきりとした眼差しで私を見つめて、「じゃ」と、手を小さく振り、まだ通勤の人も通らない明け方の道を帰っていった。

 私は、グレーの車が霧の中にすっかり見えなくなるまで、道の真ん中に立って見送っていた。

 霧は、私たち以外のものすべてを白くぼんやりと隠していた。風も無いのにどこからか湿った草の匂いが流れてくる。見慣れた曲がり角も見えず、一本の遠ざかる道だけが眼前に白く煙っている。

 こんな朝は、異郷の地にいるかのように足元が頼りない。私は、まだ寝ている大家さん家族や商学部の人を起こさないように用心深く音を立てずに部屋に戻ると、そのまま布団に倒れこみ、昼近くまで眠り続けた。



















































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