十五歳は、まだ清新の気配を心に残した年代であると言ってもいい。季節は若々しく、瑕疵もなく、瑞々しい芽吹きを待つばかりだった。五感は目覚めたてのように、眩し気にあたりを見回していた。
しかし、文学的感興とあれほど密接だった自然美が以前ほど心をときめかせなくなってきたことも事実だった。朝日のよく当たる畑から白い蒸気がもやもやと立ち上る景色を、通学途中の自転車を止めて見入ったり、夕闇の中に裸木のシルエットが立ち上がっているのを振り仰いでは、何かの象徴を読み取ろうとすることも徐々に少なくなり、風景の濃やかな色彩は、いつの間にか私の目に平板に映るようになっていた。
小説家になりたいという純粋な望みもいつしか心の中で歪められ、書かずにはいられないから書くのだというより、他の人をあっと驚かせて平伏させてやろうという不遜な望みから、奇を衒った難解な文章を捻り出すようになっていた。
私はいつも至高なものを目指していた。完全なる構成の美、溢れ出す抒情の調べ、果てしない宇宙の響き。私の全神経は「表現」という天啓ともいうべき使命に向かって鋭く集中され続けてきた。
あの頃の情熱をたやすく否定したりはすまい。謝った方向に向かうにしても、その行き方は、変えることのできない必然だったのだ。
高校の合格発表も終わり、あの時期一番幸福な春休みに入っていた。この解放されたひとときの空間。宿題も勉強の義務もない自由な休暇。光は色とりどりの花束の香気に満ちていた。大地は暖められ、密やかな生命の躍動は地上に溢れ出さずにはいられなかった。風は気持ちの良い体温で私の頬を撫でくすぐった。別れて名残惜しい友情もなかったし、引きずるような悔いもなかった。受験と格闘した日々はひとまず終わったのだ。
ああ、なんとゆったりと手足は呼吸し始めたことだろう。もうすぐ高校生になる。私はそれを何か不思議な魔法で姿かたちさえも変えられてゆくような、新鮮な希望と喜びをもって待ち受けていたのだった。
大学の春休みで帰省していた兄と、庭でバドミントンをしたりもした。兄と親しく遊ぶのもこの春休みまでだったろう。大学三年の兄は国際関係論を専攻し、私には理解できない複雑な国際情勢を語るようになっていて、お互いの興味がかみ合わないままに次第にじゃれあうような幼い付き合いから離れていった。
宇都宮女子高は百年の伝統があり、それだけに校舎の外観もかなり老朽化していて、壁の色はもとは淡いピンク色だったらしいが、今では黒ずんだ汚れが筋引いて灰色に近く退色していた。校舎内部も採光のよくない薄暗い場所が何か所もあって、どこか陰気くさい雰囲気があった。
校門を入ると、校舎まで三十メートルほどのコンクリートの道があり、その道の両側には丈の低い庭木を植えた芝生が広がっていた。道の中ほどには操橋(みさおばし)と呼ばれる小さな橋があった。高校の所在地が宇都宮市操町なので、それで操橋なのだろうが、「操」(みさお)は宇都宮女子高を象徴する言葉の一つとして、何かの式典の祝辞には必ずこの言葉が参列者の誰かからの口からのぼる。校歌の中にも「みさお」の言葉がある。高校を卒業すると「操会」(みさおかい)に強制的に入れられてしまう。
昭和世代の私たちに貞操云々を想起させる「みさお」を強制するのは、いささか大正ロマンに過ぎる。皆、「みさお」という言葉を聞くと不愉快そうに顔をしかめた。
この橋を渡ると左手に「記念館」と呼ばれる古い洋館のような二階建ての木造建築があった。「記念館」は戦争中、一時避難場所として使われていたこともあって、怪談めいた言い伝えが宇都宮女子高生の間に代々伝えられてきた。「記念館」の廊下の色が妙に赤いのは怪我をした人々の流した血が染みついているのだという。宇都宮女子高の七不思議の一つでもある。
操橋を渡ってすぐ右手にある図書館は、採光は明るいのだがどこか古色蒼然たる雰囲気があった。所蔵されている本も紙の色が黄色く変色してしまって、昭和初期からあるようにも見受けられた。
木製の六人掛けの机がいくつか設置されていた。それぞれの机には小さな手彫りの木箱が置いてあった。蝶々や薔薇などいろいろなロココ調の文様が彫り込まれているこの箱は、何に使うものか分からなかったが、この図書館の唯一美しい調度品だった。
私はよく休み時間や放課後などに一人で図書館に来て、石川達三の「青春の蹉跌」とか太宰の作品、立原道造とか、村山槐多の詩集を読んでいた。広辞苑ぐらいある分厚い数学の問題集のようなものもあり挑んでみたりもしていた。これは全く歯が立たず私を焦らせるのみだった。受験が迫った時期には早朝から図書館にこもり、授業が始まる前まで勉強していたこともある。
図書館の隣には体育館があった。こちらも相当に古い木造の建物だ。天井の剥き出しの梁には何羽も鳩が住み着いていて、体育の授業をやっている最中にも飛び回っていた。運悪く糞を髪に浴びせかけられてしまう生徒もいた。
何かの式とか講演会とか行われる時に並べられる椅子もやはり木製で、四人ぐらいが座れる長椅子だった。教会に並べられている椅子のようだった。長時間座っているとおしりが必ず痛くなってくるのだった。
「宇都宮女子高校」と言っただけで、エリート校、お嬢様校という華やかなイメージがあった。制服もなく自由な校風だ。偏差値も高いこの高校に通えることはかなりの栄光だった。しかし、実際に入学してしまうと、ただの大学受験予備校的な存在としか思えなくなる。とにかく勉強しなくてはならなかった。県内のトップクラスの女子たちが集まっているのだ。気を抜けば上位になどいられなくなる。
新学期早々、名簿が配られる。それはいいのだが、それには親の職業まで書かれているのだ。親が会社社長とか、医師とか、大学教授とか、明らかに裕福でエリートなお金持ちらしい家庭ばかり。私の父は国鉄職員だったから全く普通の家庭である。別にひがむつもりはないが、成績が優秀な子は、家庭環境も勉強の環境も整っていることが多いということだ。
美しい人も多かった。私のクラスには、ミスユニバース準優勝、ミス着物、ミス日本などに選ばれた人たちがいる。成績がよいと知的な美しさが付け加わるのだろうか。現国の先生も言っていた。田舎のあまり成績のよくない学校の子たちに比べて、宇都宮女子高の子は皆美しく、はっきりと雲泥の差があると。それは知性の差だ、と。
通学は、自転車で車の通りの激しい鹿沼街道を通らなければならなかった。小川も田んぼもなく、自転車のすれすれをかすめるように飛ばしてゆく車に神経をすり減らされるような通学だった。高校までは自転車で十五分くらいで、同級生の中には宝積寺とか間々田、日光などの遠距離から電車に乗って二時間近くかけて通ってくる人もいたから、私はかなり通学時間が短い方だった。
途中の交差点で中学の同級生に会うこともあった。古沢雅人と、茶色の目を持つ長久保は宇都宮高校生になっていて、長髪の上に学帽をちょこんと乗せて、信号待ちしているのに時折出くわした。目が合うと一瞬「おうっ」という表情をしたが、わざわざ言葉を掛け合ったり、意味ありげな挨拶をするでもなくほとんど無視し合って、私は東へ真っ直ぐ、彼らは南の方へ折れて、それぞれ自転車を飛ばしていった。
高校生になった彼らがだんだん大人びて青年らしくなっていくのを、私はちょっと面映ゆい思いで見つめていた。中学の時は、試験があるたびに競争していたよきライバルだった。高校は男女別学なので、もう彼らとは競えなくなってしまった。
その交差点を過ぎると道は急に狭くなり、黒っぽい平屋の木造家屋がいくつも軒を並べ始める。いかにも時代遅れの下駄屋、鳥打帽だのベレー帽だのが鈎にひっ掛かっている薄暗い帽子屋。顔色の悪いマネキン人形がうつろな目で地味な婦人服を着ていた洋品店。ほこりをかぶった茶碗類が積み重ねられていた瀬戸物屋など。いつ覗き込んでも店主もお客もいたためしのない小さな店々がひっそりと建ち並んでいた。
勿論古い店ばかりではなく活気のある店もいくつかあるにはあった。信号の角の魚屋は朝早くから魚をさばくのに大忙しで、道路にまで鱗やはらわたを洗い流した水が溢れていて、生臭さをあたり一面に漂わせていた。
ケーキ屋さんは見ているだけでも楽しい。美しく配列されたケーキの前を通る時はだれもが少し微笑んでいる。
店々のウィンドウは、毎日さまざまな思いを抱えて通学していた私を映し出していた。クリスマスの頃は、どの店も小さなクリスマスツリーを店先に飾り付けていた。この時ばかりは、商店街は華やかになった
再びあの時期をやり為したいとは思わないが、できるならあの頃の心に戻って店々を訪ねてみたい気もする。店の品々が目を開いて、
「いつも君を見ていたよ。君は十分頑張っていたよね」
と、微笑んでくれるかもしれない。
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