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親友のこと (小学校6年の時)

更新日:2023年7月12日


 小学6年の頃、親友がいた。4月に愛知県から転校してきた純朴な感じの女の子で、言葉のアクセントが微妙に違っていたので男子の格好のからかいの対象となっていた。なかなかクラスに溶け込めず机に向かって一人ポツンと椅子に座っている彼女を、後ろの方の席からながめるにつけ、なんとかして彼女と話をしたいという思いにかられた。しかし生来内気な私としては、そう簡単に声をかけることもできずにいた。

 それはある月曜日の朝礼の時のことだった。皆が外に出て行ってしまった後の、ガランとした教室に、偶然彼女と二人だけ残ってしまい、そのまま朝礼をサボってカーテンに隠れ、二階の教室の窓からこっそり校庭を見下ろしていた。

 皆が校庭に整然と並んで校長先生のお話などを神妙に聞いているのに、私たち二人だけがこうして教室に隠れているのが、何か秘密めいた悪事をしでかしているようで少しドキドキしていた。

「朝礼、サボっちゃったね」

「いいのかな」

「たまにはいいよ」

 お互いにおずおずと言葉を探しながら少しずつ心を近づけていった。

 愛知県の豊橋出身だということ、今は御幸町に住んでいるのだということ、本を読むのが好きだということなどを、彼女は話してくれた。少しおとなしく、落ち着いた感じのする少女だった。この人となら友だちになれるかもしれないと思った。

 彼女は頭の回転も速く、いろいろな本も読んでおり知識欲も旺盛だった。私もまたその頃から文学にとらわれていて書くことに喜びを感じるようになっていたから、その喜びを分かち合えるような人でなければ友だちにはなれないと思っていた。彼女なら分かってくれるかもしれない。そしてその印象は私を裏切らなかった。

 その頃の私の幼い一途な文学熱を、小学6年生の一年間、共感をもっていつもそばで見守ってくれた唯一の人が、白井佐由美という美しい名前を持つこの少女だった。

 私が小学校五年生の頃からポツポツ書き始めた詩や短文は、もうノートに何冊かたまっていた。その多くは子どもっぽく言葉の使い方も未熟で、文章の構成も内容も浅い駄作にすぎなかったが、「小説家になりたい」という夢はノートの冊数と共に日々高まっていった。

 あの頃ほど夢が輝いていたことはない。あの頃ほど自信に満ちていた日々はない。実力の裏付けなど無くても、そんなことは将来に任せてただ無責任に思いつくままに書いていればよかった。書き続けていればきっと小説家になれると信じ切っていた。

 後年、安易な夢のツケが回ってきて苦しむことにもなったが、文学への憧れがこれほど純粋だった時は、後にも先にもこの時をおいてほか無かったように思うのである。

 高校生になっていた兄の書棚には、ヘッセやロマン・ロラン、三島由紀夫、森鴎外などの名作がずらりと並んでいた。私は自分の年相応の本を一足飛びにして、早くからそれらに親しんでいた。内容を十分に理解するとまではいかなかったかもしれないが、ずっしりした重い文学の手ごたえを受け取ることはできた。私はこと文学に関しては普通の少女よりも早熟だったかもしれない。古典といわれる名作の重厚さを知ってしまったあとは、もうジュニア向けのものなど読む気がしなかった。

 白井佐由美は、私のそんな衒いとも見える文学への態度を馬鹿にすることもなく温かく見守ってくれた。彼女と図書室で肩を寄せ合いながら高村光太郎の漢字だらけの詩集を読みあったこともある。宮沢賢治の「永決の朝」に感動したと言ったら、彼女は本でそれを調べて暗誦してくれようとさえした。堀辰雄の「風立ちぬ」を読んで、二人で「結核」という悲劇的な病気に憧れた。かと思うと、著者名の新美南吉が読めずに「しんびなんし」と誤って読んで、二人で大笑いしたりもした。

 私が書いた小説といえば、その頃読んだ誰かの小説の焼き直しに過ぎなかったが、白井佐由美は、初めて出会ったストーリーのように夢中になって読んでくれた。

 この少女がいなかったなら、恐らくこれほどまで書くことが楽しいとは思えなかっただろう。そしてありきたりの一過性の文学熱として、年を経るに従って情熱も薄れていったに違いない。彼女の賛美がなかったなら、あのノートはちっとも輝かなかった。彼女なくしては、私の文学の揺籃期は命を花開かせなかっただろう。今でも白井佐由美は、私の人生の方向づけをしてくれた運命の親友だったと思っている。


 白井佐由美は、私とは非常に意気投合したが、クラス全体としてはあまりうまくいってはいなかった。言葉のアクセントが違っていたということもある。ちょっとした言い回しも栃木の言葉とは少し違っていた。幾分鼻が悪かったらしく、いつも鼻をすすっていたりしていたことも男子たちの恰好のからかいの的になっていた。あごは丸っこくて、少し猪首だったけれど、決して醜いというのではなく、私は国語の教科書に載っていた与謝野晶子によく似ていると思っていた。

 白井佐由美が授業中さされて答えをちょっと間違えたりすると、クラスのほとんどの者が鼻を鳴らしたりクスクス笑ったりした。

「前の人と同じ意見です」

と言うつもりで、

「右に同じです」

と言ったりすると、その表現が聞き慣れないものだったので大爆笑となり、しばらくは「右に同じ」という言葉がはやったほどである。

 白井佐由美が馬鹿にされている時は、私一人憤然として周りの者をにらみつけていた。彼女の痛みは私の痛みだった。それほどまでに思う友だちを得たのは初めてのことだった。

 親しい男子たちから、

「あんなやつと付き合うのはよせよ」

と、面と向かって忠告されたこともある。そんな時も私はムッとして取り合わなかった。

 単に言葉づかいがちょっと違う、テンポが嚙み合わないというだけでどうして仲間はずれにするのだろう。正当な理由なくして疎外されている人を見ているのはたまらなかった。私は彼女と一緒にいられた1年間、徹底して彼女の味方であり続けた。

 彼女とは帰る道筋は全く逆だったが、よく途中までお互いの家の方へおしゃべりしながら歩いていったりした。かなりの距離を行ってから引き返して、随分時間をかけて自分の家に帰ることもあったが、彼女と一緒にいられる時間が長引くのなら全く苦にならなかった。

 私たちは何でも言い合える仲だったから、それだけ頻繁にケンカもした。何でケンカをしたのか、今ではもう覚えていないが、ただ私がいつも先に癇癪を起して黙って家にスタスタ帰っていこうとするので、彼女が

「ごめんね、ごめんね」

と言いながら私の後をいつまでもついてきたということだけは覚えている。


 小学6年生だった頃、感受性が飛躍的に育った時期でもあった。白井佐由美と初めて言いたいことを遠慮なく言い合える友情を築けた私は、クラス全員に対しても伸び伸びと振る舞えるようになったし、冗談を言ったりケンカをふっかけることもできるようになった。

38名の生徒全員には「カッパちゃん」とか「花山大吉」とか「団長」とか、ユニークなあだ名がつけられていて、私はクラスでも一番背が高い方だったし、名前が駒場だったので「コババちゃん」とか「ババコちゃん」とか、時には「ジャイアント・ババコ」とか呼ばれていた。

 初めてあだ名をつけてもらって、うれしかった。私が女の子として最も無邪気に、最も天真爛漫だった時期はあの時をおいて他にない。

 感情が生き生きとしている時は怒りもストレートで、私はよく、

「このやろー!」

と教科書を振りかざして男子たちに殴りかかっていったりした。本気ではなかったし、いつも最後には冗談めいて、

「やっぱり、ジャイアント・ババコにはかなわねーや」

と男子たちが苦笑いで引き下がり一件落着となった。

 男子と女子の性差について時々個別に授業が行われるようになり、異性を意識し始める年頃だった。男子は半ば照れながらも、女子にいたわりをみせるようになっていた。


 ある時、国語の授業で宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」を暗誦する宿題が出された。私は白井佐由美と嬉々として暗誦の練習をした。その他にも自主的に高村光太郎の「道程」や「最低にして最高の道」「ぼろぼろな駝鳥」「智恵子抄」などを暗誦した。友と二人、気に入った詩を口ずさめるということにこの上ない喜びを感じていた。

 昼休みや放課後には必ず二人で図書室に行った。ここにある本を全部読んでやりと意気込んでいた。

 時々、調べもののためにやってきた小林先生が、私たちが二人で肩を寄せ合って一冊の本を読んでいるのをみて、

「何読んでるの?」

と覗き込んできた。

「ほほう、高村光太郎か。すごいね」

先生はにっこりして、私たち二人を見比べ、そして図書室を出て行った。

私たちは肩をすくめて、

「変な本じゃなくてよかったね」

と言って笑い合った。

その頃読んで感動した本は、夏目漱石の「こころ」、ロマン・ロランの「ジャン・クリストフ」、ブロンテの「嵐が丘」などだった。

 特に「こころ」は良心の葛藤、苦悩、万人が持つ自我の究極の姿を普遍的に描き出していて、私に重い感動をもたらした。先生の手紙のところは何度も読み返した。自殺という最期を遂げたKと先生。どちらも間違っていると思った。

 白井佐由美とも「こころ」について、いろいろと話をして考え合った。「こころ」は私たち二人の愛読書となっていった。重く暗い内容だが、今でも時々読み返したくなる。


 十一月のある曇天の日のことだった。その日、白井佐由美は真っ赤なコートを着ていた。帰りがけ二人で学校の外に出ると、何のはずみか、彼女の赤いコートから大きなボタンが突然取れてコロコロと転がったかと思うと、教室の窓下を流れている側溝にポシャンと落ちてしまった。

 つややかな輝きを持つ大きな深紅のボタン。それは薔薇の花を象ったとても美しいものだった。

彼女は泣きそうになって、

「どうしよう」

と、おろおろしている。

 側溝の中は、縁のすれすれまで濁った水がたっぷりと流れていて、ちょっと気味が悪かった。

 私は、それでも何の迷いもなく、

「私が取ってあげる」

と腕まくりをしてしゃがみこみ、どぶの中に片腕を突っ込んだ。

 それは思っていたより深く、ひじのあたりまでつかってしまった。水は、痺れるような冷たさだ。手探りでドロドロしたどぶの底を掻き回し、ボタンを探したがなかなかみつからなかった。流れが早かったから、どこかに流されてしまったのだろうか。

 白井佐由美はそばで、

「もういいよ。ババコ、やめてよ。あきらめる」

と、悲鳴のような声をあげていた。

 それでも十五分ぐらい探し回っていたのだが、やはりみつからなかった。

「いいよ。ババコがどぶに手を突っ込んで、あんなに探してくれたんだから。ありがとうね」

 白井佐由美はちょっと悲しそうな目でそう言った。

 その日は二人とも黙りがちで帰った。あの美しい赤いボタンを彼女のために探してあげることが出来なかったことが、何故か悔しかった。

 家に帰り、濡れ縁に座って創作ノートを広げていると、居間の方でつけていたテレビの中で、三島由紀夫が黒っぽい軍服に身を包み、額にはちまきを巻いて何か演説しているのが聞こえてきた。

 一体何をやっているのか、最初のうちわけが分からなかったが、アナウンサーの口調で何かただならぬことが起こっているらしいことは伝わってきた。テレビを見ながらドキドキしてきた。 

 三島由紀夫の精悍な顔がアップで映し出され、戦争映画でも見ているような、異次元の出来事であるような、非現実的な画像がしばらく続いていた。

 そのうち三島由紀夫が突然身を翻しテレビの画面から消えたと思ったら、数分後に、

「割腹自殺を遂げたもようです」

というアナウンサーの絶叫が聞こえた。

  えっ!? 割腹自殺? それは私にとって強烈な衝撃だった。なんで人気の絶頂にある才能あふれる有名な作家が、こんなことで突然自殺しなくてはならないのか。

 私は手がブルブル震えた。

「あー。三島由紀夫が自殺しちゃったよ」

と、わけもなく部屋の中をドタドタ走り回り、大声をあげていた。母も言葉もなく、凍り付いたように画面をみつめていた。

 翌日、白井佐由美も、

「三島由紀夫が割腹自殺したの、テレビで見た?」

と聞いてきた。

 クラスの中でもこの事件の話でもちきりだった。自衛隊やらなにやらの背景は全くわからなかったが、とにかく、テレビ放映中に割腹自殺したということに皆一様に衝撃を受けていた。

 その後、三島由紀夫は腹を十文字にかっさばいたのだとか、仲間が日本刀で介錯したのだとかいう詳しい情報も入ってきた。考えれば考える程すごい事件だった。

 最近になって「豊饒の海(二)奔馬」を読み、三島由紀夫の心境をいくらか理解し得たようにも思った。三島由紀夫の歪んだ生い立ち、常人とは違った精神構造について知るにつけ、尋常な生を全うすることができない運命であったのだと思わざるを得なかった。

 そういえばその事件の一年ほど前に、川端康成と三島由紀夫がノーベル文学賞の候補にあがり、結局賞を取ったのは川端康成だった。その川端も、私が中学二年の時にガス自殺をしてしまった。すぐれた小説家はどこか精神的な危機を内包しているのだろうか。

 あの日、白井佐由美が失くした美しい赤薔薇のようなボタン。そして三島由紀夫の割腹自殺。この二つは密接なつながりをもって、今も私の胸を離れない。


 白井佐由美と私とは、出席番号が前後していたため、週番や掃除当番がだいたい一緒だった。週番には、朝礼の時、君が代の曲に合わせて国旗を揚げる役目があり、ある時私と彼女はのろのろと揚げていたため半旗になりそうになった。あわてて担任が飛んできて手助けしはじめたのも愉快な記憶だ。冬には石炭ストーブの石炭を用務員さんに頼んでバケツに補給してもらったりもした。床に黄色いワックスを塗った時も、彼女とスケートのようにして遊んだ。

 放課後、校庭にまだ居残っている人たちに「早く帰ってください」と大声で呼びかけるのも週番の仕事だった。私と彼女は途中から大声競争のようにして叫び合った。

ある雨上がりの夕方、巨大な虹が校庭にかかったことがあった。それは正しく半円を成し、色もくっきりと濃く七色全部が見える完璧な虹だった。

 私と白井佐由美は、

「うわー」

とびっくりして、しばらく空を見上げて立ちつくしていた。

「私、ババコと見たこの虹の事、一生忘れない」

「うん。私も忘れない」

 人気のない校庭にたたずんだ私たちの頭上に、天空への門のように、その虹は鮮やかに輝き渡っていた。

 私は、まだ忘れてはいない。

 あの虹の門を潜り抜け、このあとの卒業を経て、私たちは別々の世界をさまようことになる。白井佐由美とは中学時代にしばらく手紙のやり取りをしていたが、それも次第に間遠になり、もう今は彼女の連絡先も分からなくなった。

 「ババコ」のあだ名で、まだ私のことを覚えていてくれるだろうか。彼女は、私の最初の文学上の友だちであり恩人だった。

 どこかで元気で生きていてくれるといい。そして小学校六年の頃のことを、私と同じくらい忘れずにいてくれるといい。









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