私はただ自分のためだけに生きていればよかった。受験という枷が無かったなら、この暖かな春の日、私はどのようなさまよいをしたのだろう。
ソプラノのオカリナは乾いた不安定な音階をうつろいながら黄昏を彩り、友もない夜は詩稿の中に夢を紡いだ。
私にはまだ未分化の感情があり、心の奥底でゆっくりと目覚めのための脈拍を打ち出していた。
十八歳、この人生の春に花は咲きあぐね、躍動はたわめられていた。
二十歳まであと二年。「完成」にたどり着くために私は何をしたらよかったのだろう。何を信じればよかったのだろう。二十歳までには生きる道を何としてでもみつけ出したかった。そのために、もう受験に失敗したくなかった。
浪人生活に入ってからは、模擬テストを受けるために一応予備校に所属した。宇都宮セミナーという大きめな予備校で、宇都宮高校とか宇都宮東高出身の男子の浪人生が多かった。 小学校や中学校の時の知った顔にも出会えて懐かしくうれしかった。
そんななかで一番意識されたのは、黒磯から電車で通ってきている平山元という男子学生だった。彼は出席番号が私の次だったので、試験は必ず隣り合わせになった。「あしたのジョー」に出て来る力石を柔和にしたような感じの人で、肩幅が広く、顎がいくらかしゃくれていた。
平山元は私のライバルだった。彼には負けたくなかった。模擬テストでいつも私の左隣に座っていて、
「あんまり自信ないっすよ」
とか、
「ここ、答え何て書きました? あっ、君と違う。きっと僕が間違えたんだ」
などと、人懐こい笑顔で話しかけてきたりした。
必要以上に接近してくることもなかったし、セミナーの中で会えば、にこっと挨拶し、試験の時ちょっと言葉を交わす、そんな程度の付き合いで、一緒に同じ目標を目指す同胞としていい意味で意識しあっていた。
恋など決してしてはいけないと思っていた。まず勉強が第一だ。しかし高校3年間女子高だった私には、あたりを埋め尽くす同年代の青年たちが眩しくて仕方がなかった。
向こうから廊下を急いで走って来た男子とぶつかりそうになったり、階段の踊り場で回り込んできた男子と鉢合わせになりそうになったり、近い所で顔が合ってしまうと、もうそれだけでドギマギして心が掻き乱されてしまう。ちょっとしたきっかけで、恋に発展しそうで自分の心が恐かった。気持ちが余計な事でぶれそうだった。
だから、セミナーには徐々に通わなくなっていった。夏ごろにはほとんど行かなくなった。そうすることで私のまわりから男子を排除しようとしたのだ。
セミナーに通わなくても、別にどうということもなかった。渡されたテキストは1~2か月で大体目を通してしまっていたし、若い講師の授業は受けを狙うためか脱線が多く実が無かった。早稲田からも二名ほど若手の教授がアルバイトで来ていたが、ありがたがって拝聴させていただくほどの授業でもなかった。
セミナーでは、旺文社模試とか進研模試といった全国模試も月1回ずつ行われていた。私は私立大学三教科で割と上位の成績をおさめるようになり、上位者リストにも何回か載るようになった。国立大学を諦めた後ろめたさはあったが、もはや後戻りしようとは思わなかった。もし国立大の五教科でずっと勉強していたら、私は浪人してもどこも受からなかっただろう。
夏休みに入ると兄が帰省してきた。国際基督教大学の大学院2年目だったが、遅ればせながら教職課程の補講を受け始めていた。教員採用試験の勉強を家でもしていたが、あまり乗っていない様子で、こんなとってつけたような試験勉強で果たして合格できるものだろうかと家族の誰もが、本人さえも呑気に危ぶんでいた。
娘は浪人しているし、息子は就職できるか分からない。両親にとっては気の重い日々であったろう。
そんなある夏の日、家族で益子に行ってみようということになった。
益子はあたりを森で囲まれ、ひなびた平屋が多かった。陶器の安売りのシーズンではないので、町は閑散として、ただ焼け付いた土埃の匂いばかりさせていた。
陶芸業を営んでいる家々は、開放的な作業場の奥に一抱えもある粘土の山を蔵し、採光の良い窓下にいくつもの電動ロクロを設置していた。白っぽく乾いた土色の上下を着た男たちがシャベルで粘土をかき出したり、ロクロを引いたり、長い板に乗せた焼成前の作品を、器用に肩でかついで庭で干したりしている。芸術家というより職人のように見えた。
また、販売業専門の店先には、やや厚いつくりで透明釉の手触りが柔らかい益子焼の器が無造作に並べられており、ひやかしの客たちが三々五々覗き込んでいた。
五月と十一月の連休には毎年大安売りの三日間があり、その日は近隣を問わず遠方より訪れる買い物客であふれかえるが、シーズンを過ぎると、外国人観光客などがグループで時折散策している程度の、時の止まった町に戻ってしまう。
茶碗や壺や大皿、一つ一つの器を眺めながら、ああ、こういう世界もあったのだと不意に気づいた。陶芸という職能を持つ小さな町の中で黙々と器を作り続ける。この町自体が一つの意思を持って、決められた制作工程をゆっくりと歩んでいるかのようだった。
芸術を目指す創作品もあろうが、大半は日常に使われる平凡な食器である。ロクロを引き、素焼きをして釉掛け、本焼き。土と水と太陽の光と炎がもたらす一つの作品は、曖昧模糊とした知識と精神の上に成り立つ文学よりも、ずっと確固たるもののように思われた。
夏のざわめきの中で、人々も器も寡黙だった。素朴さ、純粋さ、硬質な存在感、そんなものをこの町から感じていた。
いつか陶芸をやってみたいと思った。私でも器を作ることができるだろうか。ロクロの前に座ってみたかった。土の成形はともかく、焼成まで関わるのは無理かもしれない。でもやってみたい。私の陶芸との関わりはこの日から既に始まっていたのかもしれない。
父は病から回復途上で、自宅療養をしていた。もう散歩にも行けるようになっていたので、夏の間だけ父と一緒に早朝散歩をした。
私はもうこの頃、父とうまく話をすることができなくなっていた。父は道端の草花の名を言ったり、育成牧場のあたりの景色についてなど私に言葉をかけながら歩いていたが、私は、うん、うん、ぐらいしか受け答えしなかった。私からしたらリハビリに付き合ってあげているぐらいの気持ちで、ちょっとうざかったのだ。
今思うと申し訳なかった。父は私ともっと話をしたかったに違いない。しかし私はこのころの娘にありがちの不貞腐れた態度で父に接してしまっていた。
父は勉強ばかりの私の体を気づかって散歩に連れ出してくれていたに違いない。父との散歩をやめてしまった後、私は予備校にも行かず部屋に閉じこもって勉強ばかりしていたので、受験の頃はすっかり足を弱めてしまい、高田馬場から早稲田までの道程の半分ですら膝が痛くなってしまって歩けなくなっていた。
勉強は死ぬほどした。朝6時に起きて7時半まで勉強。朝食を食べて8時から12時まで勉強。昼食を食べて、1時から5時まで勉強。夕食を食べて6時半から11時まで勉強。
一日に12~13時間はしていた。それだけやれば、日本史の分厚い参考書を丸々1冊暗記することができたし、英語の問題集も何冊もこなすことができた。
対処しにくかったのは国語だった。現国はフィーリングでこなすことが出来るとして、古文や漢文はどう勉強していいかよく分からなかった。とにかくいろいろな出典に触れておかなくてはと、枕草子、源氏物語、徒然草などの現代語訳の本を読んでいた。これらがまた長文の作品なのでどうにも的が絞れず、国語は最後まで自信が持てなかった。
年末近くになって母が子宮全摘の手術を受けた。子宮筋腫が大きくなりすぎたため取ってしまった方がよいという診断での事だった。母は私の受験前に入院手術をすることになった事で、自分のことより私のことを心配していた。受験勉強に支障が出るのではないかとか食事のこととか。
私は母にも愛情をうまく表現できなくなっていたので、ぶっきらぼうに、大丈夫だよ、と言いながら、ちゃんと料理もせず菓子パンばかり食べていた。何度か面会に行ったが、比較的元気そうだったので、心の中で良かったと思った。
私もまた両親には隠していたが、胃腸をひどく痛めていたのだ。たびたび腹痛に悩まされていた。市販の薬でしのいでいたが、それもあまり効かなくなっていた。病院に行って何かの病気の診断がついてしまったら、受験に対する心が挫けてしまいそうで、とにかく胃腸のことは無視して勉強を続けたのだった。
胃腸の病を放置したことが大学2年時の出血につながってしまった。無理せずに早めに治療を受けていればよかった。でもあの時はひたすら気持ちが挫けてしまうことが怖かったのだ。
正月の頃、雪が降った。深い所では膝ぐらいまであって、この辺ではこれぐらい降ればたいした大雪だ。雪の日の翌日は見事なまでの晴天で、雪はキラキラと一面に銀色に発光し、空に光を返していた。
庭の植木に積もった雪が、暖かな陽射しでポタポタと雫を落としてゆく。雫は落ちるまでの間、虹色に揺れ、刻々に別の宝玉に変化していた。天井の蓮の玉座に宿る雫はかくありなんと思われる美しさだった。この一粒の雫の中に幸福といえるものが凝縮されていると思った。
戦いを目前に控え、こんなに透明な気持ちになったのは久し振りのことだった。
沈丁花の暗紅色の蕾はまだ固く、かすかな香りさえもらさなかった。突き抜けた青空が厚い雲の向こうに用意されているかどうか予見することは許されてはおらず、寒々とした透明な空気だけがあたりを包んでいた。私は無口なままに、はるかに白く煙る男体山を眺めながら、果たしてこれでやるべきことはすべて完了したのかどうか、思い巡らせていた。
願書は、慶応、早稲田、上智、学習院、日本女子大、成蹊大の、それぞれ文学部英文科に提出した。どれが第一志望なのかと聞かれても返答に窮する。昨年の雪辱を晴らすためにも慶応には受かりたいと思ったが、慶応は試験の難易度からいっても一番分が悪かった。
上智大の英文科は、兄の受かった外国語学部よりランクがやや低いとはいえ、二次試験にヒアリング、スピーキング、小論文があるので、仮に一次の筆記試験に通ったとしても二次で落とされる危険性は十分にあった。
早稲田には、はっきりいって大して魅力を感じてはいなかった。受験予定日に余裕があったので受ける気になったにすぎない。
しかし、早稲田に対して何らかの予感が全く無かったと言ったら嘘になる。浪人時代の一月ごろ、大学の下見に兄と父とで早稲田まで行ったことがあった。高田馬場から歩いて二十分ぐらい、距離にして三キロほどだったが、すっかり運動不足になっていた私の膝はそんなわずかな距離にすら悲鳴を上げ、ぎしぎしと痛んだ。体力、つまりそれが、一年間の浪人生活で失ったものの一つだった。
やっとの思いで文学部までたどり着き本部校舎に向かおうと三朝庵から早稲田実業の前あたりを歩いていた時、ふとこれは以前見たことのある光景だという気がした。道路の右側に建ち並ぶ古びた校舎の色、形、その黒っぽくしみの浮き出た壁、木製の窓枠、何と言ったらいいのだろう。私はこの建物の中に入ったことがあると思った。デジャブ現象というのだろうか。
それは、ほんの数日前に見た夢に起因していた。夢の中で私は大学に合格し、寮に入ることになっていた。寮の三階の一室、同居人は目の大きな髪の長いやせた女性。私は大きなボストンバッグをひんやりとした板張りの床に下ろし、
「よろしくお願いします」
と言って頭を下げた。女の人はにっこり笑って、
「入学おめでとう。わからないことがあったら聞いてね」
と言った。
その仕草、声まで明確な夢の場が、この早稲田実業の校舎だった。私はこの建物を目の当たりにした時、早稲田には合格するだろうという確信を抱いた。しかし、入学するか否かはそれとは別問題だ。粗野なイメージのある早稲田は、慶応や上智とはまた違って、何か馴染めないものを私に感じさせていた。
願書を郵便局に出しに行ったのは、ある曇った寒い日の午後だった。鼻の脇に目立つおできのある顔なじみの郵便局のおばさんに六通の願書を出すと、おばさんは書類に何か書き込みを始めた。書きながら、並べられた願書の宛名をざっと見渡したおばさんは、目を見張って、
「これなら、どこ受かってもいいねえ」
と言った。
私は気まずい感じを苦笑いに隠して、
「はあ」
と頷いた。
郵便局から帰る道すがら、作新学院の南側の田んぼ道をゆっくりと自転車をこいでいた私は、なにかしら騒ぐ心を抑えながら、あれだけ考えた末に決めた受験校に決して迷いはないし、迷ったところがもう変更はできないのだと噛み締めるように自分に言い聞かせていた。
一年間の猶予は終わった。準備は万端整ってはいたが、受験という戦いを前にして、奥深いところで神経がびくついているのを感じていた。
大学に合格すればしばらくこの町を離れることになるのだろう。この町は嫌いではなかった。見渡せば田んぼが広がり、林も点在している。野球場や射撃場のあたりののびやかな風景。高校からの帰り、真っ直ぐに家には帰らず私はよく自転車で知らない道にこぎ入ったものだ。そこには豊かな水草がなびく透明な小川があった。黄金色の稲穂の波があった。笑う道祖神があり、傾いた藁ぶきの御堂があった。
私はこの町を愛してさえいた。それなのにどうしてこの町から離れたがっていたのか。誇り高きフロンティア精神と逃れの意識との共存。後ろに置き去りにしてゆくものへの愛惜に心痛みながらも、外界をもっと知りたいという欲望をとどめることはできなかった。今、すべての流れを変えたかった。
この先、東京でひどい孤独に病み苦しむことになるとも思わずに。恋をしてもうこの故郷に帰ってこれなくなるということも知らずに。悩むことも多かった東京での暮らし。そんな未来を知ることができたとしても、私はたぶん故郷を離れることを選んだのだろう。
願書を出してしまったあとの虚脱感にぼんやりとして自転車をこいでいると、視界に不意に何か白いものが入った。私ははっとして自転車を止め、その白いものの方に頭を巡らせた。
ああ、何という事だろう。手が届くほどの間近かなところを白鷺が五羽、広やかに翼を伸ばし、左から右の方へと悠然と飛翔してゆくではないか。奇跡のようだと、その一瞬思った。
スローモーションのようにゆっくりと白い鳥たちは北の空の方に羽ばたいていった。どうしてあんなに低くを、意味ありげな目配せすら感じられるほどの近さを、鳥たちは飛んでいったのだろう。
私はしばらく身動きも出来ずに飛び去った鳥たちの行方を目で追っていた。鳥たちの神々しいまばゆさは、運命の好転の予兆のように、その時の私には思えたのだった。
難易度で、早稲田、慶応と肩を並べる上智の試験が一番最初だったのはちょっとまずかった。一時間目、英語の問題用紙が配られた時、ちょっとした思い違いで一枚印刷ミスの白紙が紛れ込んでいるものと思い込んでしまった。近くにいた試験官アルバイトの男子学生に言わねばと、必死の思いで、
「これ、白紙なんですけど」
と言ったところ、そのアルバイト学生が慌ててとんできて確認してくれた。
その人も焦ったように、教授らしき人に聞いたり、他の用紙を調べたりしていたが、結局それは白紙でいいのだということが分かった。
私はまずこの出来事で、すっかり上がってしまった。他の人はもう既に答案にペンを走らせている。問題をざっと見渡しても難問ばかりのような気がして手がつけられない。いかん、いかん、落ち着かねばと思いながら、最初の十分間を無駄にしてしまった。
マークシート方式だったのが幸いして、立ち直った後は比較的早く答案を埋めることが出来た。しかしほぼ実力を出し切ったとはいえ、英語でこんなに上がってしまったことは私をたまらなく不安にしていた。
試験が終わり、四ツ谷駅に向かう途中も、何か力が出てこなかった。試験の出来具合より、上がるというその心理状態をコントロールできなかったことが苦く胸にわだかまっていた。
新調したコートが肩にやけに重かった。参考書や着替えの入った大きな鞄を下げて、山手線に乗り込んだ。今、私を支えてくれるものは一体何なのだろう。今にも雨が降りそうな暗い空。見知らぬ人々に囲まれて電車の手摺にすがりつくようにして、私は不安定に立っていた。窓の外のごみごみした建物だらけの風景を眺めながら、早く全ての受験が終わればいいとだけ思っていた。
次は、慶応、学習院、日本女子大の受験だ。新大久保の小さいホテルに宿を取っていた。ここは受験期には泊まっているのはほとんどが受験生になるようだった。部屋にあったテレビで、夏目雅子主演の「孫悟空」のドラマなどを見て心を落ち着けようとしていた。
慶応はやはり駄目だった。英語の長文読解がどうにも難解すぎて理解が追い付かなかった。全部英作文で解答していく感じが馴染めなくて苦手だった。穴埋め問題とか、マークシート方式でもないので、すっきり正答できている感じがなかった。日本史も、今年はかなり完璧に勉強してきていたのに、できた、という感触がなかった。
学習院の試験は、慶応と比べたらとてもうまくいった。ピラミッド校舎の中は大講堂のようにかなり広く、びっしりと受験生が詰め込まれていた。
英語、日本史、国語共に時間一杯使って完璧に近い答案を書いた。適度に難解で、適度に問題量も多い。こんなにやりがいのある試験はなかなか無い。振り返ってみて学習院の試験は最も気持ちよく書けたし、一番よくできたように私は思う。
翌々日に日本女子大の試験を控え、父がホテルに泊まりにきてくれた。様子を見に来てくれたのだが、父の大きないびきで寝不足になってしまった。後でそのことを言ったら、母は、かえって邪魔しに行ったようなものだねと言って笑っていた。
何校も受験すると一か月近くに渡ってしまう。女子の場合、そのどれかの受験に生理が当たってしまうことになる。私の場合、日本女子大に当たってしまった。人によっては生理で頭がぼうっとするとか、腹痛があるとか、受験に差し支えることもあるのだろう。私は比較的何の症状も無い方だったが、休み時間にトイレに寄ると長蛇の列が出来ているのには閉口した。女子の場合、トイレの待ち時間が長いことにイライラさせられる。これは男子にはわからない面倒くささだろう。
日本女子大の試験は、宇都宮女子高の定期テストと同じくらいのレベルで、慶応、上智、学習院と比べて比較的簡単だと思った。特に古文の問題は、高校で出た試験とほとんど同じ問題だったのでラッキーだった。
成蹊大の試験日は、上智大の一次試験の合格発表日になっていた。成蹊は拍子抜けするぐらい簡単すぎて一通り解答を済ませるとかなり時間が余った。成蹊はどうでもいいから早く上智の合格発表を見に行きたかった。
試験が終わり成蹊大を走り出て電車に飛び乗ると、もう夕方も近く薄暗くなっていた。果たしてあれだけ上がってしまった試験で、どれだけの成果を上げることができたのか、自分でも判断がつかなかった。半分くらいは諦めていた。
上智に向かう電車の中でも気ばかり焦った。電車を降りると呼吸を整え、合格掲示板までうわずった心のままで歩いていった。
私の番号は‥‥あった。私は安心からどっと脱力した。よかった。一年間の浪人生活は決して無駄なものではなかった。しかし、二次試験が控えている。苦手なヒアリング、スピーキングだ。あまり対処できているとは言えない。今度こそ落ちてしまうかもしれない。
その日は喜びと再びの緊張に包まれながら、ひとまず宇都宮に帰った。
数日後、私は最も恐れていた上智大学の二次試験に臨んでいた。いかなる付け焼刃も通用しそうになかった。観念するしかない。
一時間で小論文を書き上げ、その後にヒアリング、スピーキングが待ち受けていた。外人教授と一対一で話をしなくてはならない。廊下で何人か固まって待機している間、皆で、
「自信ないわ」
「あんまりヒアリングの勉強してないんですよ」
「緊張しますね」
などと、ブルブル震えながら話し合っていた。
私のすぐ前の番号の、背のちょっと低い眼鏡をかけた男子学生は、好感のもてる人懐こい笑顔で場を和ませていた。他の人たちも皆一様にびくびくそわそわしていたが、どこかおっとりとした育ちの良さを雰囲気に漂わせていた。
私はこの時初めて上智に入りたいと積極的に思った。本当の友を持ちたい。受験で犠牲にしたのは体力だけではなかった。人との付き合い、友情。今最も欲しいのは心のすべてを打ち明けられるような友人だった。
廊下で待っている学生たちは順々に呼ばれて教室に入ってゆく。
眼鏡の男子学生が、
「終わったあー」
と、溜め息をつきながら教室から出て来た。
「試験管の先生、優しくゆっくりしゃべってくれるから、落ち着いて聞けば言ってること大体分かるよ。頑張って」
男子学生はそう言って私に微笑みかけると、ショルダーバッグを肩にかけて、ほっと力が抜けたように立ち去っていった。
さあ、いよいよ私の番だ。ドアを開けて一礼をして頭を上げると、正面に一人の男性の外人教授が椅子に腰かけていた。その顔には見覚えがあった。よくエッセイの翻訳本に写真が載っているピーター・ミルワード教授ではないだろうか。
教授は穏やかに微笑むと、
「英語のヒヤリングの勉強はどのようにしましたか?」
と、とてもゆっくりの英語で聞いてきた。
私はどきどきしながら、素早く頭の中で英語を組み立てた。
「(英語で)ラジオのNHKでやっている『イングリッシュ・アワー』をよく聞いていました」
「(英語で)どれくらい理解できましたか?」
「‥‥About half」
教授はにこりとしてその後何かごちゃごちゃ言っていた。今はよく分からなくても、聞いているうちに分ってきますよ、とか、そんなことを言っているらしいことは分かった。
私は殊勝な顔をして、
「Yes,Yes」
と力強くうなづいていた。
その後も簡単なやりとりが続いたが、私はつっかえつっかえ、文法的にもいいかげんな文章を駆使して、なんとかその場を取り繕うのに一生懸命だった。
面接から解放され試験会場の教室を出た後、一体自分は何をしゃべったのか改めて反芻してみても、自分が果たしてうまくやったのかどうかさえ分からず、もう運を天に任せるしかない心境だった。
二次試験の合格発表は、兄と共に見に行った。
「ヒアリングとかできたの?」
「なんか、何言ってるのかはっきりとは分からなかったよ」
「なーんだ。じゃあ、あんまり期待しない方がいいね」
大学構内は発表を見に来た受験生と保護者が大勢集まっていた。兄が番号を探してくれている間、私はうつむいてただ祈っていた。
「あった」
兄が驚いたような声を出して、手元の番号と見比べている。
「ええー? 受かってる?」
「うん。受かってる」
ヒアリングで分かった風なはったりをかましたのが功を奏したのか、上智大の二次試験に奇跡的に合格することができた。
私は信じられない思いで何度も番号を見直した。もう浪人しなくていいんだ。私の前の番号の眼鏡の青年も合格していた。もう気分は上智大生だった。
幾何学的な模様が透かし彫りのように外壁にはめ込まれている校舎。キャンパスはそう広くは無いが、まわりの環境はよく、運動場を見下ろせる土手は気持ちがよかった。レンギョウの黄色い花が咲いている。地下鉄から電車が一瞬顔をのぞかせ、また走り去ってゆく。近くには美しい聖イグナチオ教会もある。
兄と大学周りを散策しながら、やっと心が解放されて、静かな喜びが込み上げてくるのを感じていた。
しかし、まだ最後の試験が残っている。私は上智大学の入学手続きの書類を貰った後、兄と早稲田を受験するために予約を取った旅館に向かった。
旅館は目白の駅近くにあった。普通の和風旅館で通された部屋は八畳ぐらいあって広かった。兄は旅館まで一緒に来てくれたが用事があってどこかに行った。宇都宮に帰る前にまたちょっと寄るよ、と言った。
私は一人で広すぎる部屋の中、手持無沙汰なので日本史の参考書などを眺めていた。時間がなかなか過ぎなかった。テレビをつけたら「カリメロ」をやっていた。
胃の調子もなんだか悪かった。ずっとしくしく痛んでいる。一度痛み出したら、しばらくは直らない。明日もこの痛みをこらえながら試験を受けることになるのだろうと思った。
兄は夕方、旅館に来てくれた。旅館の女将は兄を私の恋人だと思ったらしく、もしかして一緒に泊まるのか?というような目をして私たちを見た。兄は、明日の早稲田への電車の乗り方などを私が分かっているかどうか確認して、すぐに帰っていった。
夕食はやけに豪勢だった。テーブル一杯に、さしみ、煮物、揚げ物、鍋など、普通の観光旅行の宿で出るような皿数。おいしそうではあったが、受験生だし、それに胃も痛んでいるので、食欲も無くあまり食べられなかった。明日のお昼用のお弁当を頼んで、その夜は早めに寝た。
早稲田の受験の日は、今にも雨が降り出しそうな曇天だった。受験生でごった返す中を足早に受験会場の建物へと向かっていると、本部語研の入り口の前あたりで、突然、誰かに呼び止められた。驚いて振り向くとそこにいたのは平山元だった。彼は茶色のコートを着込み、片手を上げてちょっと笑っていた。
「やっぱり、ここ受けるんですか? 頑張ってください」
笑うとほほに縦皺が深く刻まれる彼の顔。見知らぬ殺伐たる集団の中にあって、それはほっと懐かしい感じを催させた。
「平山君も頑張ってください」
「一緒に合格しましょう」
平山元とは、しかし、それ以来会う機会はなかった。後日、届けられた予備校の合格者名簿で、彼が同志社大学に進学したことを知った。
早稲田の入試問題は意外なほど簡単だと感じた。しかし、試験中私はずっと胃の痛みを感じていて、少しつらかった。旅館が作ってくれたお弁当は干ぴょう巻の詰め合わせで、冷え切ったご飯が固くて、半分ぐらいしか食べられなかった。
試験が終わり、正門辺りで早稲田予備校作成の解答プリントを受け取ると、高田馬場に向かうバスの中で恐る恐る答え合わせをした。英語、国語、社会、共にさしたる失敗もなく九十点は取れている。もしかしたら受かるかもしれないと感じた。
しかし、東大の滑り止めとして早稲田を軽く受けに来た天才肌の人たちと、参考書だけを頼りにがつがつと独学してきた私とを比べれば、どうしても私の方が分が悪いとしか言いようがない。それに私が簡単だと感じたとしたら、他の人たちにとっても簡単だったに違いない。高得点が取れていたとしても、即合格とは考えにくかった。
この時の入試に、桂木隆司、坂口美子ら、後にO組で顔を合わせることになる友人たちがいたのだと思うと感慨深い。私たちは共に受験を潜り抜けて来た戦士なのだ。
振り返ってみて慶応が一番難しく最初から受かる気がしなかった。それでも完全に落ちたわけではなく、補欠合格の「L」という結果だった。「L」では繰り上げ合格になる見込みはない。幾分期待して連絡を待っていたが慶応にはとうとう縁がなかった。しかしぎりぎり入れそうなところにはいたらしいことは分かった。私はそれで満足だった。
上智大の他に、学習院、日本女子大、成蹊も合格していた。
半ば諦め、半ば期待していた早稲田にも合格することができた。そして私は上智か、早稲田か、さんざん悩んだ挙句、早稲田を選んだのだった。
早稲田では生きること苦しむ事も多かったが、輝かしい青春の日々を過ごすことができた。運命的な恋もした。
私の今の人生は、早稲田に入ったことによって方向が決定づけられたのだと言っても過言ではない。後悔は一切ない。早稲田でよかった。
でも別の大学に行っていたら、たぶん別の運命が開けていたのだろう。パラレルワールドにいる私に、その運命は任せよう。そちらの私も、後悔は一切ない、と言っていそうだ。
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