私が現役の頃受験しようとしたのは、慶応義塾大学、東北大学、東京外国語大学だった。
二月の半ばに早速慶応の試験があった。できれば国立大学の東北大に行きたかったから、慶応はお試し受験のようなものだった。受験科目が英語と日本史だけだったから、あわよくば受かるかもしれない、ぐらいな半端な気持ちだった。
精一杯の努力はした。だが私よりももっと早い時期から、より多くの努力をしてきた人々が、何万人、何十万人もいることも確かな事だった。
宿を手配するのを失念していて、気づいた時には慶応大学に近い旅館やホテルはどこも空いていなかった。見るに見かねた兄が慌てて奔走して決めてきたのは高輪プリンスホテルだった。
試験前日の昼頃、兄と東北線で東京に向かった。透き通るような青空が眩しく、春を予感させる暖かな日だった。空をぼんやり見上げながら、こんなに自信の無い気持ちで試験を受けに行くのは初めてのことだと考えていた。どうなることかと半分諦め気分で自分を茶化そうとしながらも、もしかしたらうまくいくかもしれないというわずかな希望も捨ててはいなかった。
東京に着いたのはチェックインにはまだ早い時間だったので、ホテル近くの喫茶店で時間をつぶした。煩雑な街並みと喧騒。煙草の煙のたちこめる薄暗い喫茶店の中。私は既に疲れていた。東京という町に疲れていた。見知らぬ町にいるということに疲れていた。
初めて足を踏み入れた豪華ホテルも、田舎者の私には目を見張るようなことばかりだった。真紅のふかふかの絨毯。ロビーにたむろす外人たち。きらびやかなシャンデリア。勿論、全館快適な暖房が施されている。それゆえ空気も乾燥していて静電気も半端ない。
ボーイさんに案内されて入った部屋には、冷蔵庫、ドレッサー、大きなテレビ、机、洋式のお風呂、トイレ、二つのシングルベッドがあって、壁には落ち着いた色調の外国の建物を描いた油絵が掛かっていた。ベッドの壁際の枕元にはオーディオ装置が組み込まれており、ラジオの各局、それに静かなBGMがいつでも流れてくるスイッチなどを自由に選ぶことができた。
明日に慶応の試験を控え、豪華にしつらえたそれぞれの調度品を見ても、うかれはしゃぐ気分にもなれず、場違いな感を強めるだけだった。兄はただのつきそいだから気も楽なもので、豪華ホテルを素直に楽しんでいるようだった。
このホテルに泊まっている受験生は、どうやら私一人だけではないらしかった。ホテルのレストランに夕食を食べに行くと、隣のテーブルに分厚い受験参考書をかたわらに置いて、日本酒をちびちび飲んでいる男子学生がいた。
兄は私の方に身を屈めると、
「ああいう人を見ると、びびっちゃうでしょ」
と囁いた。確かに、落ち着きはらったその人に比べたら、私など生半可な勉強しかしていないような気がした。
部屋に帰ってから、焦って日本史の参考書を見直し続けた。六、七割しかまだ覚えていなかった。今更参考書を開いても遅いという事は分かっていたが、何かやらずにはいられなかった。
部屋の小型冷蔵庫の中には、缶ジュース、ソフトドリンクなどが取り揃えてあった。グラスについだ炭酸のジンジャーエール。透き通った淡いだいだい色の液体の底から、細かな気泡が糸のように連なって、きらきらと立ちのぼっている。ベッドサイドの明かりに照らされて、更に輝きを増しているその美しい泡の糸を見つめながら、詩を書きたいとふと考えていた。
絨毯を踏む自分のかすかな足音だけしか聞こえないような完璧な防音の部屋の中で、自分が受験生であることが不思議だった。
窓からはきらびやかな都会の夜景が見えた。ビルやタワーの照明、光る車の流れ、細かな人家の点のような明かり。高層階の窓から見下ろすと、海のような深さに人々の暮らしはあった。私は明日、あの中に降りていって戦わなければならないのだと思った。
翌朝、やはりひどい緊張で食欲も無かった。レストランのモーニングセットで出た大きな目玉焼き二つに手をつけられず、少しパンをかじっただけだった。
慶応の試験は田町の三田校舎で行われた。席は大教室の南側の窓の近くの後ろから二番目だった。広々とした階段教室を見渡すと、いかにも浪人然とした髭もじゃの人や、長髪を派手なバンダナでおさえた人、黒いマントを羽織っている人など、一癖ありそうな人ばかりが目についた。
私の斜め右後ろに座っていた人は、長い髪を背中の方にまで垂らした色白で華奢な感じのする綺麗な女子学生だった。折れそうな細い腕で物憂そうに頬杖をついていた。
「答案はインクで書かなくちゃいけないんですよね」
私が思い切って話しかけると、その人は、
「ええ」
と短くハスキーな声で返事をした。
そのままファッション雑誌のモデルになってもいいくらい美しい人なのに、英語や日本史やいろいろ小難しい勉強内容で頭を一杯にしているなんて、何か似つかわしくないような気がした。その涼し気な目許は静かすぎて、少し寂しそうだった。
時間が来て、英語の問題用紙が配られた。それを一瞥した時、心臓がきゅっと縮まり、血の気が一気に引いてゆくのを感じた。赤本で学んできた慶応の過去問と出題形式がまるで違う。試験場内にも心なしか動揺のどよめきが走った。そうだ、正にこの年から出題形式ががらりと一変したのだ。
今までは、単語のアクセントの位置を問う問題だったり、文法問題、英熟語問題、英文解釈、英作文がバランスよく出題されていた。しかし、目の前に配られた縦に長々とした問題用紙は、ほぼ表面一枚全部がかなりの長さの英文であり、それを読みこなせなければ各設問にも全く答えられないというものだった。しかも内容は何か科学的な論文らしい。ざっと見てもすぐに解答できそうな単純な文法問題は見当たらなかった。
冷静な頭でさえ難解な文章を、取り乱した頭でどうして理解できよう。なんとかして読み取ろうと単語をたどる指先が震えた。かなりの時間がたっても解答用紙はまだ白紙だった。
取りあえずいいかげんに答案を埋めておいて、気持ちが落ち着いてから見直して後で書き直すという方法が取れればまだ気が楽だったが、答案はインクで書かなければならない。鉛筆で下書きするにしても、それをインクで書き直す時間も考慮に入れておかなければならない。
どうして慶応はインクでの解答なのだ。書き間違えたら線で汚くグシャグシャ消さなくてはならない。汚い解答用紙はそれだけで減点されそうだ。そういった点でも慶応の入試は面倒だった。
前の席に座っていた現役らしい女子学生はいきなり腹痛を起こしたらしく、何度も手を上げてトイレに行かせてもらっていた。私はもう同情するゆとりもなく、その人ががたがたと席を立ったり座ったりするごとに気持ちが乱されることにキリキリするような苛立ちを感じていた。
それでも私は全力を尽くしたのだ。とにかく空欄はすべて埋めた。時間はほとんど残っていなかった。提出の五分前くらいになって、問題が「英文で要約せよ」となっているのに、日本文で要約してしまった部分があることに気付いたが、もうどうしようもなかった。私は万年筆を握りしめ、むざむざと点を失った部分をきつく見つめながら、泣き出さんばかりだった。もう少し早く気づいていたなら、数点ぐらい稼げたかもしれない。
答案用紙を提出した後、もう駄目だなと思った。
午後は日本史の試験があったが、英語で失敗したことが気持ちにっ掛かっていて、かなりトーンダウンしていた。英語に比べれば問題量は少なかったが、少なければいいというものではない。覚えていない部分はどんなに時間があったところで思い出せはしない。
私は空欄の目立つ日本史の答案用紙をながめながら、あらためて慶応の難しさを噛み締めていた。
あの美しい人はどうだったのだろうか。前の席にいたおなかの調子の悪かった女子学生は。バンダナの人、マントの人。身も心もへとへとに疲れ果てて慶応の試験は終わった。
試験が終わるのを待っていてくれた兄と、映画館に寄った。そのときやっていたのは「タワリング・インフェルノ」だった。これは迫力もあり人間模様もちゃんと描けている感動的な映画だった。今でもよく覚えている。
次に受験する予定の大学は、東北大学だった。
何故東北大学かというと、従兄が医学部に在籍していて、顔見知りの人がいると心強いと思ったからだ。それに父は私が高校三年になったあたりで癌が疑われる病気になり、58歳で仕事を早期退職していたから経済的にもできれば国立大学に行った方が良いのだろうと考えていた。
奨学金をもらうための面接にも行き、合格し、奨学金も受け取れることになっていた。しかし大学に受からないことには、奨学金もへったくれもない。そして私は理数系は全然駄目だったので、東北大学の試験は慶応よりも更につらいものとなった。
試験は三月の始めだった。割と得意な分野だった英語や日本史でさえ慶応の入試でボロボロだったのだから、苦手な数学、生物、世界史が含まれている東北大入試は既にお先真っ暗だった。
試験当日、早めに大学に着いた私は群れをなす受験生たちに混じって、教室が開かれるのを待っていた。皆、分厚いコートを着込み表情も固かった。夏に下見に来た時は緑多かったキャンパスも、今は冬の色合いを漂わせ重苦しく灰色に沈んでいた。
試験会場は高校の教室とたいして変わらない小さな教室だった。試験科目は、数学、生物、日本史、世界史、英語の五科目。
数学は、証明問題が五問ぐらい出て、解けたと思ったのは二問で、後の三問は間違ってるだろうなと思いながら適当に空欄を埋めた。
生物も世界史も半分ぐらいの出来。英語と日本史はまあまあ。受かりそうな手ごたえは全然なかった。
前の席には髪をきちんと刈り揃えたいかにも現役の高校生らしい大柄な青年が座っていた。男の人の背中はこんなに広くて大きいものなのか。分厚いセーターを着て前屈みになり一心に試験を受けている青年の後ろ姿。私はおそらく東北大学には入らないだろう。そしてこの広やかな背中の青年とも、試験が終わったら二度と会うこともないのだろうと思った。
もう一つ東京外国語大学にも願書を出していたが、受けに行く気力はもう全然残っていなかった。
不本意だった。もっと私はやれるという思いが心の奥にあった。もう少し時間があったなら、私は完璧に勉強をし尽くしていたはずだ。なまじ国立大学にと思っていたばかりに世界史や、生物、数学などに余計な時間を割くことになってしまった。私の脳は広く浅くではなく狭く深くなのだ。
慶応も東北大も予想していた通りに落ちてしまった。不合格を確認した時点で浪人しようと心は決まっていた。親にはすまないが、国立は諦めた。私立一本でいく。
大金がかかる私立大学狙いと聞いて、両親も経済面で悩んだことだろう。十八歳だった当時、私は自分の勉強のことばかりでまわりを十分見れていなかったが、両親がお金のことに悩みながらも私の進みたい方向を止めずに支えてくれたことが、どんなに大きな愛だったかを今なら感謝をもって理解できる。
受験期、この尋常ならざる数ヶ月。自分が自分でなくなり、友が友でなくなった歪んだ空間。貴重な青春の時間を贅沢に使い尽くして、一つの受験期が終息した。そして背水の陣ともいえる新たな戦いの日々がはじまる。
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