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第45集 絆創膏をどこに貼ろう



母の急死



三日前 宇都宮の母が死んだ

八月二日の

たぶんお昼から午後三時ぐらいまでの間

いわゆるポックリの急死

一番動転していたのは

炬燵のそばで倒れている母を発見した兄で

私は外出から帰った午後四時に

その連絡を川崎の自宅で受けたとき

これから速やかに荷造りをして

宇都宮に向かわなくてはならないことにあたふたし

悲嘆は二の次だった


電話での兄は

これからどうしたらいいか分からないと

かなりのパニック状態だったので

まずは契約している葬儀屋に連絡して

あとは葬儀屋に一切任せればいいと私は言い

そして急いで荷物を持って家を出た

小田急線から見た夕焼け空が

妙に美しかった

雲が浄土っぽい荘厳な形を成していて

しばらく目が離せなかった


涙とかはまだ出なかった

そうか死んじゃったか

あれほどいつも死にたいと言っていたし

梁にロープかけて首をつって死ぬと

電話で繰り返し言っていたので

誰にも迷惑かけないいい死に方ができたのではないか

よいことだったと

私は自分に言い聞かせる

胸のざわつきに飲まれそうになるたびに


いつも電話をすると

「早く死にたい」と必ず言われる

私はそのたび

「九十過ぎまでそんなに健康で

しっかり自立して生活できているなんて

奇跡なんだから

大切に感謝しながら生きてよ」と

少しイラつきながら言う

それはもう毎度の漫才の掛け合いのように


泣き言も多かったけど

すごく頑張って生きてきた人だ

お疲れさまでした 今まで本当にありがとう

死を怖がる時間もほとんどなくて逝けて

母にとって最高の死に方

その日の朝まで元気だったのだから

死の直前になってさえ

きっと百歳まで生きちゃう

きっと生きられると

内心思っていただろう


(2023年8月5日) ------------------------------------------



死亡当日のこと  詳述



ヨガの教室や買い物に行き

帰ってきたら息子が玄関のところで待ち受けていて

「おばあちゃんが倒れたらしい」

と私に言った。

私はとっさに老人ホームにいる姑に何かがあったのだと思い

その施設に問い合わせをしなくては、

そして夫にも連絡しなければと思った

しかし留守電を聞いてみると宇都宮の兄からで

「帰ったら連絡して おばあちゃんが倒れた」

「早く電話して」

「電話して」

という兄からの何回にもわたる悲痛な声が入っていた


ええーっ?と思った

また突然にそんなことある?

三日前に元気な母と電話し合ったばかりだった

あわてて兄に電話をした

その電話で兄は「おばあちゃん 死んじゃった」と言った

兄夫婦が外出から帰ってきたら

母が炬燵の所で倒れているのを発見したという

もう脈が触れなかったという


あっ そうなのか 死んじゃったのか

それじゃあもう慌てても仕方ないな

さて 私は何をしたらいい?

その時の私は妙に冷静だった

とりあえず今すぐ宇都宮に向かわなくてはならない

その準備にもう頭はいっていた

何泊かするかもしれないし

喪服一式も一応持って行った方がいいだろうな、とか


私が兄に電話をしたのは

たぶん兄が母を発見してから

30分か1時間ぐらいはたっていたと思う

もう救急車か警察かに連絡はしているのだろうと思った

だから兄に「どうしたらいいか分からない」と言われた時

とっさに「葬儀屋に連絡して相談して」と言ってしまった

今にして思えばまだ母の遺体が兄のすぐそばにあり

兄はどこに連絡したらいいのか分からず

うろたえている状態だったのかもしれない


4時に私は川崎の家を出て

宇都宮の済生会病院に着いたのは夜の8時頃だった

夜の宇都宮駅に降り立つのは学生の時以来だ

タクシーを探すのに少し手間取った

やっと病院に着いた時

母は検死を終えて葬儀屋に車で運び出される間際だった

4時間の間に兄は母のかかりつけの病院や

警察や葬儀屋に連絡していろいろ手配したのだろう


検査しても死因がよく分からなかったということを兄から聞き

三日前の母との電話で

膀胱脱の処置のために入れたものが痛くて痛くて

出血もしているなどという事を聞いていたので

そのせいということは無いの?とか

兄や近くにいた看護師に言ってみたが

そのせいだったとしてももうどうしようもない


母の乗ったストレッチャーが葬儀屋の車まで押されていった

ストレッチャーの両側を手の空いている病院スタッフらが並び

神妙にお辞儀をしていた

私も神妙にお辞儀しながら

私は母親を失った遺族となったのだと思った


母の遺体は葬儀屋が運び出し家まで兄嫁が付き添った

私は兄と警察署に寄って病院から渡された書類を届けた

女性の警察官の人が書類を受け取ってくれて

「このたびは‥‥」などと言ってくれたかもしれない

それだけで済んだ

宇都宮は夏の恒例の夕立があったらしく

道路が黒く濡れていた

8月2日 この日が母の命日となった




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母の遺体が戻った



母が病院の簡易な検死から自宅に戻ったのは

夜の九時近くになっていた

いつも寝ていたベッドに寝かそうということになったが

葬儀屋の車から降ろしたストレッッチャーが

庭木のあれやこれやに引っかかりすみやかに家の中に入れない

係員の二人がストレッチャーをガタガタ動かし苦心惨憺していたが

最後にはご遺体を担いで家の中に入るというような話になった

私と兄はずっと見守っているのもなんだか疲れたので

居間に引っ込んで母の遺体がベッドに寝かされるまで待っていた


いよいよ家の中に入れる状態になった様子だったので

兄と見に行った

葬儀屋の人が母を抱き抱えてベッドに寝かせていた

若めの男性だったので

母は生きていたなら何か声をあげていただろう

恥ずかしがったかもしれない ちょっとはうれしかったかも

少し硬くなりはじめた両手を

組み合わせられてやっと皆で合掌して落ち着いた

ぎゅうぎゅうと押さえつけられても

何も反応しない姿を見て

もう魂は抜けてしまっていて

ここにあるのは母の抜けがらなのだと思った


べッドに寝かされた母は全くいつもと同じだった

やつれてもいない 青白くもない

父の場合 最後の方は何も食べられずブドウ糖の点滴だけだったから

極限までやせて即身仏のようになっていて

看護師がエンジェルケアとかで

相貌を直したり固まった体をととのえたり

かなり大変な作業を1時間ばかりやっていた

それに比べて母は

いかに楽に死んだかということだ

いや 楽という事はなかったろう

苦しみや痛みが数分か数時間あったかもしれない

想像してしまうとつらくなるので

あえて楽だったと思い込もうとしていた


葬儀屋の人はベッドまわりに

焼香ができるような台を設置した

「ここに山盛りのご飯茶碗を置いてお箸を垂直に立ててください

お団子の粉を置きますから説明書の通りに粉を練って

丸めてゆでてお団子をピラミッドのように重ねてください」

と言った

一緒に説明を聞いていた兄嫁は特に何も言わず

お団子の粉にも手を触れず二階に戻ったので

娘の私がやるよ、と思った

母の炊飯器をのぞいてみたら

茶色っぽい玄米ご飯が入っていたので

それを山盛りに盛り付けた

白いご飯じゃないけれどいいよね

兄嫁はその間 二階で鮭を焼いてくれていて

夜遅く三人で簡単に夕ご飯を食べた 

私は先に母のけんちん汁を食べていたのだが

ありがたく鮭を食べた


翌日の早朝 お団子を作った

割とうまく作れたと思う

兄嫁は「作ってくれてありがとう」と言ってくれた

四日後のお葬式の日まで

ベッド脇に置かれたご飯とお団子は

かぴかぴに干からびていった


母はずうっとしいんとベッドに横たわっていた

時々お線香をあげにいった

遺体を冷やすドライアイスで中毒死することもあるので

窓をあけてからお線香をあげた

母は静かだった

ずうっと静かに横たわっていた

なんだか顔を見られなかった




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けんちん汁


母が亡くなった日

連絡を受けて急いで電車に乗り

宇都宮に着いたのはもう夜の八時だった。

葬儀屋の人が母を家のベッドに寝かせ

あれやこれやしているうちに九時になってしまった

台所を見ると たぶん母が朝作ったのだろう

大鍋いっぱいのけんちん汁が

コンロの上に乗っていた

私は夕食もまだ食べていなかったし

兄が「おばあちゃんが作ったけんちん汁、食べてあげて」

と言うものだから

そのけんちん汁を食べた

この真夏の暑い時期

冷蔵庫に入れず一日中コンロの上に出しっぱなしだったのが

少々気になったが

においは大丈夫そうだったし一度よく煮込んだので

大丈夫だろうと思って食べた


そのけんちん汁は十分においしかった

具だくさんでとてもおいしかったのだ

こんなに大量に作って

たぶん一人で一週間ぐらいかけて

食べるつもりだったのだろう

兄夫婦とシェアするとかいう習慣もなかったようだから

全部自分のために作ったのだ


料理好きだった母を思い出す

最後まで台所を人に明け渡すことはなかった


告別式の日にちは葬儀屋との打ち合わせで数日後に決定し

私は一旦川崎に帰ることになった

このけんちん汁はどうするか

兄は全く食欲を失っているし

兄嫁も母が作ったものなど食べやしないだろう

私は兄が食べるかもしれない量を

小鍋に取り冷蔵庫に入れると

あとは全部捨てた

大甕いっぱいのぬかみそも

兄夫婦が引き継ぐとも思われなかったので

全部生ごみにした

ナスとかの古漬けがいくつか入ったままだった

もう食べないであろう食べかけの食品

期限切れのもの

全部まとめてゴミ袋に入れ

兄に棄ててくれるよう頼んだ

日持ちがするものは

兄たちに食べてもらえることを期待して残した


それらは母がいれば少しずつ動き

消費されていったものだ

生きていたなら明日も明後日も

食べていたんだろうなあと思いながら

生ものは全部捨てた

捨てながら胸にこらえるものがあった


桃が野菜室にひとつ

それは私がいただいた

生きていたなら今日母が

甘い、おいしいと言いながら食べていたかもしれない桃


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母の死因


母の死因は病院で調べてもらったが

よくは分からなかったらしい

解剖をすれば原因がわかるかもしれないと言われたが

兄は断ったそうだ

私も解剖なんかしなくていいよと兄に言った

渡された書類には

「原因不詳の内因死」と書かれていた


異変を早めに気付ければ救えたのではないかと

兄はずっと苦しんでいた

出かけずにいればよかったと悔やんでいた

私は 急に何かが起こったんだから

家にいても救えなかったと思うよ

救えたとしてもその後寝たきりになるとか

ディープな介護とかが発生して

大変なことになってたと思うよと言った


兄はそれでも諦めきれず

きっと散歩しすぎて心臓を傷めたのだとか

よく草むしりをしていたから疲れすぎたのだと

いろいろな後悔を口にし

しばらく落ち込んでくよくよしていた

一緒に住んでいたのだから

それだけ思いも印象も強かったろうし

倒れている最期の姿も見てしまったのだから

さぞショックだったろう


私は母とは月1回の電話だけでしか繋がってはおらず

さほど交流も深くはなかったので

結構早々と悲しみはおさまっていったのだ

あっさりしすぎてはいないか

「異邦人」のムルソーはどうだったろうか

などと急にそわそわと考え出したり


でも面影や声は今もはっきりと心に残っているのだ

兄の車で

駅まで迎えに来てくれたこと

駅まで送ってくれたこと

最後に会ったときの

あの笑顔を忘れることなどできないのだ




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葬儀について



お寺さんへ葬儀の前に挨拶にいった

お坊さんの奥さんと事前打ち合わせをした

奥さんは「戒名はお父様と合わせられますよね」と言って

五十万円の戒名を当たり前のように勧めてきた

やはりランクを落としたらまずいのかも

という思いも私たちにはあったので

それに従うしかなかった

戒名の文字を決めるにあたって

「お母様のお人柄は」と訊かれた

兄は「投資が上手だった」と言い

兄嫁は「庭仕事がとても好きだった」と言った

それは人柄ではなく趣味だろうと私は内心思った

「娘さんから見たらどのようなお母さまでしたか」と急に聞かれて

私は一瞬焦った

つい「勝気な面がありましたね」と言ってしまった

奥さんは少し顔を曇らせて

「女性の場合勝気という言い方はちょっと‥‥男性にはありますけどね

いえ、いいんですよ勝気というのも」と言った

私はいけないことを言ってしまったような気がしたが

曖昧に笑ってごまかし弁解はしなかった 


勝気、負けん気が強いというのも母の一面だった

母を表すのに兄も兄嫁も的はずれなことを言ってしまったのは

母はちょいとネガティブで心配性な性格が強めだったからだ

けっこう考えもなしにたやすく人をけなしたり

自分の思いを強く人に押し付けすぎたりするところもあった

私は若い頃は母と距離を置かなければうまくつきあえなかった

互いに年を取って

ケンカしながらでも対等にものが言い合えるようになり

関係が良好になったと感じるようになったのは

父が死んでからだ

最近の母はとても好きだった 

健康自慢をして自信に満ちていた

兄夫婦はどうだったのだろう

「やさしい、思いやり深い、愛情深い」の言葉は

最後まで私たちの間からはでてこなかった

言葉が無かったからそうではなかったということではない

母は十分にやさしく、思いやり深く、愛情深かったと思う

ただちょいとネガティブで心配性だったから

その印象が先に立ってしまい

一瞬母をどう表現していいか分からなくなって

兄も兄嫁も私も見当違いのことを言ってしまった

ただ分かって欲しい

そこには私たちなりに

母をかばう気持ちがあった

母を愛する確かな気持ちがあったのだ




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母の葬儀 当日



お坊さんの都合とか火葬場の都合で葬儀は4日後になった

その間母はエンバーミングを施され

葬儀屋で保管してもらうことになった

何十万かお金がかかるが仕方がない

私は一旦宇都宮から川崎に帰り

お葬式の日の早朝に夫と宇都宮に向かった

葬儀は兄夫婦と私と夫 

そして兄夫婦の息子さん夫婦と幼い娘さんの7名だけが出席した


コロナ前と後とでは

葬儀の仕様は微妙に違っていた

まずと父の時にはあった白装束への着替えがなく

頭に三角の布をつけられることなく

六文銭を胸の上に置かれることもなかった

しごくシンプルに

棺に花をいっぱい詰めるだけだった

父の時は

好きな食べ物は好きな歌はと聞かれ

斎場の片隅のテーブルにピーナツの乗った皿が置かれていたり

ピアノの生演奏とかも若い女の人がずっとしていたのだが

今回は何もなかった


お坊さんのお経のあと

棺に蓋をする前に

ご遺体に何か言葉をかけてあげてくださいと言われたが

だれも声を出さなかったので

私も黙って頭を下げただけだった

兄はおばあちゃんに「さよなら」と心の中で言っていたそうだ

最も悲しんでいるのは兄だった

私は特に涙は出なかった

母とは私的にはいろいろあった

母を避けている時期もあった

晩年の母とはうまくいっていたのだが


火葬場にうつったあたりから天候があやしくなり

火葬を待っている間

ひどい土砂降りになった

音立てる雨 嵐のようだ

車の中に軽食を持ってきていたのだが

取りにいけないほどに

夫と外を見遣って帰りの高速を心配した


私は今までお通夜や告別式までなら

何度も出席してきた

姑関係の知らない人のお葬式にも出席してきた

火葬までつきあったのは

夫の祖母と父親 それに私の父親 

そして今回の母親の四回だ 

ついでに言えば飼い猫も火葬にして骨を拾ったから五回か

いつも思うが待つ時間がやるせなく長すぎる

 

火葬が終わってお骨を骨壺に入れていった

何故か母の骨をひとつもらいたくなった

係員の人に聞いたらいいですよと言うので

ひとかけらもらった

兄がティッシュを1枚くれて

それに包んでポケットに入れた

真っ白で今にも割れそうな薄いかけらだった


一通り儀式が終わって

私と夫は皆と別れて川崎に帰ることにした

兄が疲れ果てているようだったから

私たちが泊まったりしたら

気を使わせてしまうだろうからと思って

干からびた山盛りご飯と団子の山の乗ったお盆を

持ち運ぶのが私の役目だったが

兄の息子さんのお嫁さんにとりあえず渡した

皆 写真の額やら骨壺とか何らかの荷物を持っていて

手が空いているのが彼女だけだったからだ

幼い娘さんがいたのにこんなお盆を持たせて申し訳ないと思った


土砂降りは止まず

夫はこんなひどい土砂降りの高速は初めてだなどといい

緊張しながら運転していた

前を走る車の水しぶきであたりは一面白く霞んでいた

5年前の父の葬儀のあと

川崎に帰る夫の車の中で密かに泣いていたのに

今回はなぜかさばさばとしていて涙は出なかった

自分でも自分の心の動きが解せなくて

悲しくないのはどうしてだろうと思っていた

しかし泣き続けてなかなか立ち直れないでいるよりは

ずっといいに違いない


東京に近づくにつれて雨は止んでいった

ひとまず葬儀は済んだ

あとは四十九日

心のダメージは少なかったとはいえ

何かが大きく欠けたというような気はしていた

この感覚に慣れていかないといけないのだと思った


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夜 爪を切る


夜 爪を切るのは

なんとなく避けてきた

しかし もう

そんなことを気にしなくても

よくなったのだ

平気で爪を切っている

夜 10時



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兄の悔い


兄は母が倒れた時

兄嫁と外食で家を留守にしていたことを

ひどく悔やんでいた

そういえば朝

母は散歩の後 腕が妙に重たいと言って

布団に横になっていたとかの異変はあったそうなのだ


誰もそれを死の予兆とは感じなかったのだから

仕方がないことだった

仮に倒れた時の手当てが間に合って

病院で治療をして助かったとしても

しばらくは入院となるだろうし

そこでもう寝たきりになる可能性も高かった

まだ見舞いも制限されていて思うように顔も見れないだろう

病状が落ち着いて退院となったら本格的な介護が待っている

そうなったら兄夫婦は介護を請け負えただろうか


母は兄夫婦に

特に兄嫁に介護してもらえるはずはないと思っていた

二人の確執については母からよく聞いていた

兄だってそうは介護なんてできないだろう

そうなったら施設に入るとか? 

父のように看取り専門の病院に転院するとか?

母の行き先にきっとごたごたが起きていただろう

たぶん私が見るに見かねて

何度も宇都宮に出向いて

母を介護することになっただろう

母の介護をしてくれないかと言われたら

受けて立つつもりはあったが

姑との介護経験から相当の覚悟が必要だ


私はそこまでを想定し

今回の母の急死は

誰にも迷惑をかけない最善の死だったと判断していた

衝撃的な突然死ではあったが

心の底ではそれでよかったと思っていた

九十五歳だったし

これはもう寿命だ


しかし兄にはそうではないらしく

今も食欲がなく眠れず

悔やみ続けている




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母の実家のことなど


兄からメールが来た

「よく考えると最近のおばあちゃんの言動は変だった。

死ぬ10日前に急に田原の実家に行ってみたいと言い出し、

実家まで行ってきました。

実家の前に車を止め、実家を見ながらいろいろ話をしました。

そばを流れる川に蛍がいっぱいいたこと、

前の山林に母親とたきぎを取りに行ったこと、

2キロ離れた床屋に歩いて行っていたこと、

家の裏の小屋が墓地のそばなので、

掃除に行くのが嫌だったことなど、

たくさん話をしました。

最後に自分が育った場所に行きたかったのだと、

今になって思っています。」


兄のメールを読んで

あらためて母について

私は知らないことばかりだったなあ

もっと話せばよかったなあ

聞いてあげればよかったなあと

今更ながらの涙がこぼれてきた

母であったときの母しか知らない

母としてしか母を見て来なかった

それは母の全部ではなかった


母になる前の母を

もっと知りたかった


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奇跡のように元気だった母


母はどうやったら楽に死ねるのかと

電話をするたびに必ず訊いてきたが

それは本当に死にたいのではなく

なんとなく長生きしてしまっていることへの

とまどいや不安から出た言葉で

生きる事にはかなり貪欲だったと思う


兄が勧めるサプリをきちんと飲んでいたし

健康にいいと言われるものは

何でも取り入れていた

畑仕事や庭仕事も好きだったから足腰も強かった

95歳になっても腰がしゃんと伸びていて

結構速く歩けたし階段もしっかり上れた

本当に奇跡のように元気だった


買い物や通院は兄の車に乗って行っていたが

食事作りや掃除などは

完全に誰の手も借りずにおこなっていた

介護支援を受ける必要は何もなく

同じ年頃の高齢者と比べてみて

私は母を本当にすごいと思っていたのだ

奇跡のような元気さを私は電話でいつも褒めていた

その年でこんなに元気な人なんて見たこと無い

大切に楽しんで生きてよと

毎回言っていた


小さなことを大きく騒ぐ傾向のある母が

90歳を過ぎてからの二度の癌手術に

泣き騒ぎながらも逃げずに立ち向かったことも

本当に偉かったと思う

周りの者に介護の苦労をさせもせずに

いきなり亡くなったことも見事だった


95歳まで元気に生きられて

お金の心配もなく

とりあえず孤独でもなく

死ぬ時も長く苦しむ事もないことが

あらかじめ分かっていたなら

母はもっと朗らかに生きられたかもしれない


悩み苦しむ日も多かったのだろうが

晩年の生き方は天晴れだった

とにかく母はしっかり生ききった それでよかった

立派な人生だったと

今 私はしみじみと思っているのである


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サングラスのことなど


母とはコロナの間じゅう

一か月に一度電話で連絡をとっていた

必ず 早く死にたい

どうやったら楽に死ねるのか

という話になるが

90歳を過ぎてもしゃきしゃきと歩き

坂道や階段も平気でのぼり

散歩で出会う人皆にその元気さをほめられていたから

本当には死ぬ気はまるでなかったろう


介護されることになった場合についても

いろいろと自分で計画していたようだ

同居している兄夫婦にもっと頼ればいいのにと

私は言っていたが

どうもあまり頼る気はなかったようだ

兄嫁とは交流がなく

挨拶もしないで他人のようだったから


母とは亡くなる二か月前に

会うことができた

コロナの前と全然変わっていなくて

パワフルで元気なままだった

1万円のいいサングラスを買わなくちゃだめだ

100円のじゃみっともない

としつこく言うので

そんなの私の勝手だ みっともないとは思わない

と軽く言い返してケンカもしたが

別に遺恨を残すでもなく

じゃ、また

と笑顔で別れた

亡くなる3日目に電話をしたが

いつも通りの元気な声で

サングラス、1万円のいいやつ買いな 

安いのだと目が悪くなっちゃう

とまた言うので

適当にうんうん買うよと言って

笑いながらごまかした


まだまだそんな電話が続くのかと思っていたが

突然に途切れてしまった

母の訃報にあわてて実家に帰ったが

今度は兄夫婦の老いが気になった

見た目がというより体の動きの老い

高齢の母のことばかり気にしていたが

これからは兄夫婦の健康のことも

気にしなくてはいけないのだと思った


まだ70歳なんだから

もっと運動してしゃきしゃき散歩して

母みたいに長生きしてよ



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ハロウィン


夕方ちかくの路地で

ツノをはやし黒いマントを羽織った少年に出会った

今日は10月31日

ハロウィンだから


もし私がこの時代に子どもだったとして

敢えて仮装するとしたなら

魔女かな

魔法の杖が本当に欲しかったから


いつかのどこかのハロウィンイベントでは

シンデレラや白雪姫の可愛らしいドレスを

着ている女の子もいた

自分の娘にもこんなドレスを着せてあげたかった

(もし娘が望めばの話だが)

でもまだハロウィンなんて言われていなかった頃だったので


私自身は

女の子らしい可愛い服など子どもの頃から全然欲しくはなかった

成人式の振袖も着ようとはしなかった

結婚式の時の

自分のウェディングドレスさえもなんだか気持ち悪かった

でも もしかしたら

心に嘘があったかもしれない


いつも母の目を気にして

母に見とがめられないような

地味な服装を心掛けていた

デパートでふと目に留まった白っぽいワンピースを

恐る恐る試着してみたところ

そばにいた母に

「なにそれ色黒だから全然似合わない」

とか嫌味な顔で言われて

更に横にいた店員さんにも

「ねえ こんなんじゃみっともなくて」

とか同意を求めるから

もう私は服で冒険することができなくなった

私は母の何に縛られていたのだろう

母の強い口調にいつも萎縮していた

 

母が亡くなって

私は服装にちょっと自由になったのだ

変な服 ひらひらした服も買ってみた

派手な色合いの服も買ってしまった

若いうちにもっとへんてこなファッションを楽しめばよかった

とんでもなく奇抜な仮装を

平気でできる人たちがうらやましい

きっと親に怒られるとかけなされるとか全然気にせず

自由に生きていられる人たちなのだろう


母に「なにその恰好」とあきれられても

「自分がいいと思ってるんだから

人から文句言われる筋合いはないね」と

つんとしているべきだった

今は若かったころの自分の弱さを非難したいのだ


​(2023年10月31日)



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晩年の父と母



晩年の両親は本当に仲が良かったと思う

私は年に1度ぐらいしか帰省しなくなっていたが

二人の様子をそれとなくうかがうと

母の「言い過ぎ病」は少しおさまっていて

お互いがお互いの生活のペースを乱さず

穏やかに過ごすことができているように思えた


母はきれい好きで

家の中はいつもきちんと片付いていた

掃除機もこまめにかけていた

ものが散らかっている状態など一度もなかった


何より二人とも食事を楽しんでいた

料理を作ることに労を惜しまなかった母は

野菜料理とか魚料理とかを沢山用意して

父がそれを「うんまい うんまい」と言いながら食べている姿は

とても微笑ましかった


食後は二人でココアを飲んでいた

二人とも兄の勧める健康に良さそうなものを

真面目に摂取していて

いつまでも元気でいようとしていた


父は母の言う事を何でも聞いてにこにこしていた

家事は完璧にこなしていた母を

父は有難く思っていただろう

口の悪さは玉にキズだったが

それ以外はとてもよい妻だったのだと思う

そんな二人を見て

私は「ああ よかった 平和な家族だ」と思って

安心して川崎に戻れた


しかしある日父はもちをのどにつまらせ

一時仮死状態になった

そこからなんとか回復したのだが

低酸素脳症になってしまい

じわじわと認知症に向かってしまったのだ

父の死までの数年 母にとっては試練の日々になった

不安定にもなって兄を心配させていた

父を送った後

今度は母は自分の病と向き合うことになった

皮膚癌や大腸の癌の発症でおびえ苦しんでいたが

転移も無く手術で完治した

そして最晩年はさほど悩みも無くとても穏やかだったと思う


嵐のような人生だったと

母は電話で言って笑っていた

それはそうだけれど

母はやはり幸福だったのだ

父のようなおだやかな人と長く一緒に暮らせて

事件事故にも巻き込まれず病気も克服して

いつも誰かに守られている状況で経済的にも問題がなく

寝たきりにもならず毎日元気に散歩に行けて

苦しみもなく死ねたということ


いろいろあったんだろうけどすごく幸せだったんだよ

全くうらやましいかぎりだよと

あの世の母に何度でも言ってあげたい



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もうすぐ12月

この数ヶ月アンビバレントな心を宥めるのに

ちょっとばかり苦労していたが

やっと落ち着いてきたところだ

暑すぎた夏も終わり秋を感じることもなく

もう冬の入り口

秋の虫が今頃になって細々と鳴いている

年明けは喪中の正月だ

友人たちに喪中はがきを出しそこねている

数日前友人のだんなさんのお葬式に行ってきた

まだ60歳だったという

遺族席に座っていた友人は涙目で私に会釈した

近所に住むその友人は犬の散歩などで

割とよく顔を合わせる人だ

今度会ったら何と声をかけたらいいのだろう

60歳だなんて若すぎる

私は彼女の顔をまともに見られないまま

お焼香を済ませると

精進落としの振る舞いも省略された簡素なお通夜の席を

早々に後にしたのだった

95歳で亡くなった母は

あの世でまだ自分の死を納得できていないかもしれない

元気で生きる気満々だったから

でもいろいろな死を見聞きする中で

母の亡くなり方はとりわけ幸運なほう

大満足で成仏していてよと思う


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帰省

母が8月に亡くなってから11月までに

お葬式や四十九日や地裁での母の遺言書の確認

税理士さんとの打ち合わせなどで

6回ほど帰省した

川崎の自宅から宇都宮の家に着くまで

自転車、小田急線、新宿湘南ラインを使う

乗り物に乗っている時間だけならば

3時間はかからないくらいだろうが

ホームの移動や

新宿でのトイレタイムや

電車の待ち時間などを含めると

4時間ぐらいかかってしまう

兄は新幹線で来れば早いのにと言うのだが

新宿から上野に出て

新幹線のホームを探す気になれない

うろうろ迷い歩き電車に乗り込むまで

1時間以上かかってしまいそうだ

それならば慣れた新宿湘南ラインの方が

乗車時間が長かろうが気持ちが楽だ

東京に住んでいた学生の頃は

母が毎週帰ってこいとうるさいので

土曜日の午後の授業が終わると

急いで上野に行き

東北線で帰っていた

夕方の電車はひどく混んでいて座れなかったし

タバコを吸う人も多く

家に帰り着くまでいつも疲弊していた

そして日曜日 何をするでもなく家で過ごし

月曜日の午前の電車で東京に戻った

お米や食料を鞄一杯持たせてくれるので

その荷物を持ったまま午後の授業に出席した

今は思う

日曜日 友人の遊びの誘いを断ってまで

家に帰る必要があっただろうか

東北線の行き来の無為な苦しさ

あの帰省は母の有無を言わせぬ強制もあったが

私自身の東京での暮らしの覚悟も問われていた

そんな母のしがらみから離れていくのに

二年近くかかった

土曜日の夕方「今週は帰らない」と電話すると

母は「何で帰らないの、帰ってきな」と言って

涙声になるから

「用事があるから帰らない」と言って振り切る時

私の心はいつも暗くなっていた

電話ボックスを出て

そばにとまっている恋人の車に乗り込み

はぁーとため息をついて

「帰るの断ったから」と恋人に言う

実家に頻繁に帰っている方がおかしいのだから

何も落ち込むことはないのにと思うが

母の声を思い出すと

私まで涙目になってしまいそうになるのである

もう私の帰りを待ち望む父も母もいなくなった

たまには帰省してあげなくちゃと

心のどこかで気にすることもなくなって

あとは来年のお盆まで

しばらくは長距離電車に乗らなくて済む

人の生き死にが関わった帰省はもういやだ

次はのどかな気持ちで帰省したい

(2023年12月1日)



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ギフト

夏祭りとか盆踊りとか

地域の楽しいイベントもあったはずだが

連れて行ってもらったことが一度もない

私が子どもの頃

母は割と長い間心と体が不調だった

一月のとある土曜日の午後 

凧揚げ大会を見たいと言って

私が母を誘ったことがあった

母は嫌そうについてきたが

少し見ただけで

「つまらないし寒い もう帰ろう」

と言った

晴れた空の下 皆楽し気に凧揚げをしている

そのそばで彼らの親たちも

にこやかな笑顔を見せている

けれど私はしぼんだ心を抱え

不機嫌そうな母の後ろを

とぼとぼと歩いて帰ったのだった

それ以来

私から母を誘うことはなくなった

家族で笑い合うとか

一緒に公園に行くとか

それすらあまりなくて

私は一人で本ばかり読んでいた


本の中の世界は

現実の生活より私を豊かにした

私の現在の文学との強い結びつきは

子ども時代のこの孤独感から発する

ありきたりに幸福だったら

私は文学に逃れていかなかったし

家を出たいとも思わなかった

それを思うとよかったのかもしれない

私が生み出す言葉は

子ども時代の寂しさを代償とした

天からのギフトだ


笑顔の少ない子どもだった

無口な子どもだった

だから今の私がある

私からあふれる言葉がある



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親子だから



褒められることが

うれしかった

どうしたら褒められるのかは

よく分かっていた

ただ時折

打ち解けない子どもだと

不満げに言われることがあった


期待には

世間体や見栄もくっついていた

いつも気になっていた

褒める種が何もなくなったら

ただの不愉快な子どもに

なってしまうのではないかと


限られた時間に

心配事を負わすまいとする私と

限られた時間に

心配事をすべて吐き出そうとする母と


母は

いくつもの嘆きの種を持っていて

ただ握り締めているだけでいいのに

それを丹念に植え付け

水をあげてしまうのだった


許すも許されるも無い

親子だから

心たがう日も会い続け

親子だから

全てのみ込んで

近付いたり離れたりしながらも

繋がり続け

やがてたどりついた最後の日


打ち解けない子どもは

あなたの中で

頼りになる娘になっていたでしょうか




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